挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀三年 決戦、三方ヶ原の戦い

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

96/134

千五百七十二年 三月上旬

「頭が痛い」

額に手を当てて静子は唸る。兼続があっさり素性を明かしたお陰で、静子の護衛達は警戒心を高めるが、本人は全く意にも介さなかった。
才蔵などは少しでも怪しい素振りを見せようなら手を出し兼ねない雰囲気だ。しかし、兼続の方は周囲の反応は当然、と言わんばかりに受け入れていた。

「俺はありのままの静子殿を見分しに参ったのだ。素性を隠して覗き見するなど性に合わん。第一、俺は間者ではない」

頭を抱える静子に、頭痛の種は悪びれずに笑いながら答える。依然として警戒は解けないが、世話役に任じられた慶次はいつものように笑っていた。

「下手すれば織田と上杉のいくさになるところだったんだよ、本当に」

「いくさとなれば是非も無し。いくさ場にて全ての決着をつける、とお実城様なら仰るであろう。戦端を開いた俺が華々しく散れば尚良し」

「そんな、ちょっと出かけてくる、みたいなのりで死ぬとか言わないで欲しいな。キミが早く死ぬと割と困るんだよね」

上杉家の後継者争いで、と静子は心の中で付け足す。

与六、後の直江兼続は上杉謙信が死んだ後、上杉景勝と上杉景虎との間で起こった内乱で重要な役目を果たす。
御館の乱後、恩賞と引き替えに景勝陣営に鞍替えし大きな功績を残した毛利(もうり) 秀広ひでひろ)が、山崎秀仙の意見によって恩賞をなかったことにされた事に激高、直江信綱と会談中の山崎秀仙及び直江信綱を殺害する事件が起こる。
跡継ぎを失った直江家は、兼続を直江信綱の妻・お船の婿養子に迎える。兼続は直江家を継ぐと狩野秀治と共に上杉家を支え続けた。

「あ、もしかしてあの時、一緒にいた年上の子って長尾(ながお) 喜平次(きへいじ)氏(長尾 喜平次 顕景(あきかげ)、後の上杉景勝)?」

「良く気付いたな。まさかあの様な場所に、供もつけず歩くとは思わなかったようだ。あの時の間者たちの驚いた顔は見物だったぞ」

「酷い嫌がらせだ」

「殿はあの時のお礼をと仰っていたが、此度は俺の我が侭だからご遠慮願った」

何を考えて京に派遣したか分からないし、知ろうとも思わなかった。下手に藪を突いて蛇を出すような真似はしたくない。
とにかく上杉家と絡む気がない静子だが、先方はそう思っていない事を改めて知る。

(上杉家って割と不気味なのよね。深入りしたら火傷では済まなそうだし、ここは一定の距離を保つのがベターかな)

戦国時代の常識を覆したのは織田信長であると言えるが、彼に比肩し得る変人が上杉謙信である。
独自の価値観を持ち、当時の思想・信条、道徳観に囚われない行動を幾つもなしている。

そんな事を考えている内に、静子一行はとある街へ入る。
昨年から信長より運営・管理を任された街で、静子の邸宅からもほど近く、かつ港街へ通ずる主幹道路が整備されていた。
港町から各方面を結ぶ途上に街があるため、街中には商人の姿が多い。
静子の邸宅が近いという立地上、静子軍の大半がこの町に起居しており、兵士やその身内達も商人に負けない勢力となっていた。
人が集まり、物があるとなれば当然金が落ちる。商人が港町から岐阜や京を目指す際に、まずこの街で宿泊するため、尾張領でも屈指の賑わいを見せていた。

静子の邸宅があり、静子軍が集結している事から、住人の大半は静子が土地の領主だと思っているが、実際は代官ですらない。
原則的に都市計画は支配者たる信長がするものだが、この街に限っては全ての権限を静子に与えていた。そのため近代的設計が織り込まれた街は他の街とは一線を画す出来となっていた。

一際異彩を放つのは道路、それも街道をそのまま引き込んだ目抜き通りである。
中世・近世の日本では主に軍事的な理由で、街道整備が為されることは無かった。道なき道を進軍する事を強いれば敵を消耗させることが出来るためだ。
例外中の例外が武田信玄が開発した信玄堤しんげんつつみ棒道ぼうみちだ。これは信玄の持つカリスマ・資金力・人心掌握術があったからこそ出来た大規模公共事業だ。
他国では大きな堤防や街道整備は殆ど行われず、城下町を離れればあぜ道程度、それもぐにゃぐにゃと曲がりくねって大変移動しにくい道ばかりだった。

このような道は物流が滞りやすく、また交差点(辻)での人さらいが発生しやすい。それらを解消するため、静子は幅広い直線の主幹道路を整備した。
またガードレールに当たる木製の防護柵を設置し、歩行者と牛車や馬車を分離、歩道と車道の境界を設けた。
このお陰で港街との物流量が大幅に増加、尾張は勿論美濃にまで様々な物資が流れ込む事となった。
無論、人の移動や物流が増える事は、そのまま他国の間者が入り込みやすくなるが、それらは厳しい法で対応していた。

「静子殿、あれはなんじゃ?」

静子の横を歩いている兼続が、道の脇にあるものを指さす。指さす先を視線で追った静子は、それが何か理解する。

「あれは牛馬飲水槽。文字通り、牛馬用の給水場だよ」

牛馬飲水槽とは文字通り牛馬用の水槽だ。飲料水なので人が飲んでも問題ないが、牛馬に合わせて水槽の高さや幅が設計されているため、人が飲むには向いていない。

「牛馬用の給水槽とは面妖な」

「商人には割と人気だけどね。その関係で変な事しようとすると、周りの人からよってたかって殴られるから、悪戯しない方が身のためよ。っとと」

兼続に説明している途中、静子の馬が牛馬飲水槽へ向きを変えた。港街へ向かった関係で水分補給が不十分だったかな、と思った静子は馬を自由にさせる。
牛馬飲水槽に着くと、馬は首を動かして水が欲しい事をアピールする。静子が牛馬飲水槽を覗くと、中は殆どなかったため水を汲み上げる必要があった。

「分かったよ。今、水を入れてあげるからね」

馬を撫でて落ち着かせると、静子は牛馬飲水槽の傍にある手押しポンプを動かして水を汲み上げる。程よく水が溜まったところで馬が顔を突っ込んで水を飲み始めた。

「暫く待ってね。暇ならその辺を観光してきても良いよ」

家臣が置いた床几に腰掛けると、静子は肩の力を抜く。どうするか考えあぐねた兼続だが、静子見分に来たのだから静子の許を離れるのは本末転倒と考え、彼女の傍に腰を下ろす。
無防備すぎる彼女が心配になったのも理由だ。だが、彼の心配は杞憂に終わる。

「お、静子様ではないですか。こんな所で休憩とは、是非ともうちの茶屋をご利用下さい」

「残念だけど私じゃなく馬が休憩なんだよね」

歩道を歩いている男が立ち止まると、静子へ気さくに声をかける。余りの気楽さに兼続はギョッとしたが周囲は慣れたもので誰も気にしていなかった。

「残念ですわ。おっといけねぇ、早く帰らねぇと母ちゃんに叱られちまう。どうぞご贔屓に」

言うやいなや男は駆け足気味に立ち去った。それからも色々な人間が静子に声をかけてきた。それらに対して時にはユーモアを交えつつ静子は答える。

「静子様、こんな所で呑気にしておられますと玄朗様の雷が落ちますよ」

「その時は逃げるからご安心下さい」

「そんな所で油売っていないで、おらの店で金子を落として下さいよ−」

「はっはっはっ、私にお金を出させるだけのものを持ってくるのじゃ−」

目の前の光景が信じられず、兼続は目を丸くする。その間にも車道は彼が初めて見る人力車や馬車が次々と通過していく。
彼らは静子の横を通り過ぎる時、頭を下げたり被っている帽子を脱いだりして挨拶する。それに対して静子は軽く手を上げて答えた。
支配する者と支配される者というより、顔見知りの挨拶にしか見えない。何がなんだか分からず呆然としている彼に、ニコニコと笑顔を浮かべた慶次が一言言った。

「よぉく見物しておけよ、あれが静っちだ」






結局、街が気になった兼続は一旦静子と別れて、街を見物する計画に変更した。静子は特に気にせず慶次に道案内を任せると、そのまま配下を連れて去って行った。
その慶次も静子一行が見えなくなると、どこの店にいるからと兼続に教えると彼に背を向けて立ち去った。
静子たちから信頼されているのか、それとも侮られているのか、判断に迷うと兼続は思った。

「良いのかあれは。才蔵殿は俺の行動を逐一見ていたのだが……あれで慶次殿も静子殿の馬廻衆なの、だよな。全く正反対なのに良くいがみ合わないな」

慶次から渡された金子袋を懐にしまうと、兼続は先ほどから気になったものに足を向ける。近づくとそれは紙の山が入った木箱だった。

「何故、このような場所に紙の山が……?」

首を傾げながら兼続は一番上の紙を手に取る。紙に書かれていた内容は、この街にある宿泊施設の情報雑誌だった。
街には幾つかの旅籠はたごがあり、一人旅の行商から大人数で移動している豪商まで幅広い人間に対応出来る。
しかし、街のどの辺りに宿泊施設があり、どれぐらいの値段でサービス提供しているか、初見の商人たちには知る方法がない。
どれほど良いサービスを提供しようとも、利用者が知らなければ意味はない。良いものが勝手に広まる訳ではない。然るべき情報発信をしなければ宝の持ち腐れだ。

それらを解消するのが、街の至る所に配置された旅籠案内雑誌である。兼続が手に取ったのはその内の一冊だ。
もちろん情報雑誌は無料配布だ。一冊幾ら払え、というこすい事はしない。ただ、裏側に『知り合いに冊子を譲渡して広めて下さい』という内容が書かれている。

「ふーむ、夕餉はないけど料理屋が並ぶ街道があるから、そちらを利用しろと。翌日の朝餉は出るのだな。それで宿泊料金を下げておるのか。おお! 料金を払えば倉に荷を預かってくれるのか。中々できる事ではないな」

兼続は通行人の邪魔にならない場所まで移動すると、旅籠の情報雑誌を再度広げる。
内容は全てが目新しいものばかりだった。兼続は感嘆の声を上げながら情報雑誌を読み進める。通りかかる人間が彼を訝しげに見てもお構いなしだった。

「なんじゃ、この点数札というのは……ほほぅ、良く利用する客には色々と特典を付けてくれるのじゃな。旅籠によって変わるし、客はどこに宿泊するか悩むのぅ」

旅籠には組合があり、その組合はポイントカードを発行している。加入している旅籠に宿泊するとポイントが付き、点数に応じて様々な特典が提供される。
ポイントで得られる特典は各旅籠が好き勝手に決めている。
色々な特典が用意されており、比較的低いポイントであっても尾張の特産品が貰えるなど、よそ者には堪らない品ぞろえであった。

「なるほどなぁ。飯は飯屋、寝泊まりは旅籠、と分けておるから宿泊料が下げられる。しかも持ちつ持たれつだから、どこかの組合にお金が集まり続けるということもない」

呟きつつ兼続は料理屋が並ぶ街道へ足を向ける。料理屋が建ち並ぶ事に物珍しさを感じたが、それ以上に酒が安いという事の方が兼続には重要だった。
しかも尾張や美濃の酒は、主君である謙信が手放しに褒めていた酒だ。何よりも酒飲みの越後人として、他国の酒が気にならない方が無理な話だ。
だがもう少しという所で彼は足を止める。酒を呑んで果たして歯止めが利くのか、彼は自問自答する。答えはすぐに出た。

(ま、また今度だ。流石に続けざま金子の無心など破落戸と変わらない)

花街で痛い目を見た兼続は断腸の思いで踵を返す。その後は頭の中から酒を追い出し、冷静に街を見ていく。
街は大きく5つの区画が設けられていた。街の中心には様々な公共施設が建ち並んでいる。中心から右側に農業関係の区画が2つ、左側は上が商業、下が工業地区となっている。

一番賑やかな場所は商売が行われる商業地区だ。様々な商品が並び、客の呼び込み声があちらこちらでしていた。
これだけ物が溢れれば、夜盗や物取りが頻発するのではと兼続は感じた。しかし、それは近くの人を捉まえて質問した際に解決する。
街では犯罪に対する厳しい取り締まりがあり、定期的に兵が巡回している。更に街で犯罪を犯した者を追う専門の追跡部隊までいるとの話だ。
鍛冶一家を殺した犯人を追い、安土辺りまで追いかけて捕縛した噂もあるほど、追跡能力に長けているとの事だ。

犯罪者が自暴自棄になりやすいが再犯が起きない事、犯罪に対する厳格な態度が強い抑止力となり、商人や旅人の信頼を獲得している。
更に岐阜の市場と違い、五月蠅いというより賑やかな雰囲気だ。詳しく調べなくても活発な売買が行われている事が分かる。
国人を知りたくば民を見よ、謙信の言葉を兼続は思い出す。

(みな、生き生きとしておる。織田家が四方八方敵だらけになっても、戦い続けられる理由はこれか)

大抵の支配者は民から全てを奪う。しかし、織田家の支配する尾張・美濃は奪うのではなく共存する。民は安らかに暮らせる代わりに税を納める。税を受け取った織田家は民を守る。
民がいなければ織田家は食べていけず、さりとて民だけでは平和を享受する事は不可能。

(こりゃお実城様が手強いと思う訳だ。我らと同じ力……否、それ以上だ)

いくさ人ゆえ織田家とのいくさは楽しみに思う兼続だった。しかし、いくさをせずとも織田家と上杉家が手を取り合えば、多くの民が救われるのではないか、とも思った。

(どういう風に報告するか、難しい話になってしまったな)

苦笑しながら兼続は足を慶次がいる方へ向ける。静子見分はこれからだ、じっくり楽しもうと思いながら彼は一歩足を進めた。






「よろしいのですか?」

兼続と別れて先に家へ帰宅した静子は、彼のことを彩に話した。それに対する彩の返答は至極単純だった。
織田と上杉は同盟だが、家臣が行き来するほど親密な関係ではない。それを勝手に自宅へ引き込んで問題ないのかが彩には疑問だった。

「どうせ、お館様のことだから彼の行動も逐一調べているでしょう。それに今、私は大事な案件に関わっていないしね。ま、お館様にはどうするべきか確認はとるけども」

「それはそうですが……」

「何、気にしなくても問題ないよ。下手にコソコソすれば『上杉家の武士が間者の真似事など言語道断』と言えるし、堂々とするならヴィットマンたちの監視から逃れるのは不可能だしね」

静子の邸宅は言うまでも無くヴィットマンファミリーの縄張りだ。人による監視と動物による監視、その両方をかい潜るのは至難の業だ。
もしも兼続がコソコソと間者の真似事をするならば、その点をついて主導権を握れば良い。それをせず堂々としても、今の静子に秘匿せねばならない機密は無い。

「とはいっても油断は禁物、暫くヴィットマンたちや丸太辺りを部屋に入れておくか。割と警戒心強いからね、丸太は」

彩はちらりと丸太がいる方へ視線を向ける。警戒心ゼロで腹丸出し、しかも大の字に寝ている丸太を見て、警戒心が高いと言われても頭の中で結びつかなかった。
しかし、ヴィットマンたちがいれば問題ないと思い、彩は丸太の事を置いておくことにした。

「そうなさって下さい。私はお館様に文を送る支度をしてきます」

最初は読み書きすらろくに出来なかった彩だが、静子がきっちり仕込んだお陰で、今や読み書き算盤が出来る才女となった。
負けず嫌いの蕭も奮闘しているが、流石に勉学した時間が違うので、まだ読み書きしか出来ない。それでも前田利家の血を引く者ゆえか、算盤の腕はめきめきと上達していた。

「ヨロシクねー」

「他の者たちには蕭殿から連絡して頂きます。私よりは良いでしょうしね」

仮邸宅に移り住んでからか、それとも新しい邸宅は大人数前提だからか、織田家家臣たちは自身の子を静子の侍女、もしくは邸宅の使用人、下働きにと派遣するようになった。
仮邸宅と言っても彩や蕭だけでは管理しきれず、それ自体は有り難い話だった。だが別の問題が出た。彩が平民の出というのが、家の管理においてネックになってしまった。

静子の所は良い意味でも、悪い意味でも実力と運が必要不可欠だ。
今でこそ数百の兵を任されている玄朗であるが、最初は鍛冶職人であり村を襲われて奴隷になり、その後買い主から逃げて夜盗になるも静子の部隊に鎮圧される。
何とか処罰は免れたが、今度は肉盾に近い仕事をさせられた。だが何とか生き延び、様々な武功を上げてようやく静子隊に組み込まれた経歴の持ち主だ。
弓騎兵隊の隊長格である仁助と四吉も、波瀾万丈な人生を歩んでいる。
彼らが静子を信奉するのも、どん底を味わい、最底辺の出自であるにも関わらず、実力のみを評価してくれるからだ。

邸宅の中でも静子の実力主義は変わらず、才女となった彩を側仕え、かつ家の取りまとめ役に採用している。
ただし、これを面白くないと思う人物がいた。
人事に身分は影響しないと事前に知らされていても、今まで身分社会で生きてきた者にとっては、そう簡単に意識を変えられないかと静子は若干諦め気味だった。
もっとも、下手な事をすれば家長から手痛い叱責が待っているため、面白くないと思う者たちも、思うだけに終わっていたが。

「別に気にする必要はないと思うけどね。何なら彩ちゃんを私の妹にする手もあるよ」

「……私如きには有り難いお話ですが、それでは静子様に頼り切る事になります。もう少し、我が身でどこまで出来るか知りとうございます」

「そう? まぁその気になったらいつでも良いよ」

「ありがとうございます。その時にはよろしくお願い申し上げます。では、話は終わりにして、こちらの書類の処理をお願い申し上げます」

深々と礼をした後、彩は静子の眼前に書類を積み上げる。ミシリ、と机が悲鳴を上げたのは、決して幻聴ではないだろうと静子は思った。
乾いた笑いを浮かべつつ、最初の一枚目を手に取る。

「は、ははっ、割と多いね」

「今年度の計画を立てる月ゆえ、色々と処理する書類が多いのです。申し訳ありませんが、本日中に精査をお願い申し上げます」

「えー、まぁやるけどさ。あんまり期待しないで欲しいね」

「本日中に精査をお願い申し上げます」

念を押すような形で再度告げた後、彩は信長に兼続の件を報告するために部屋を後にする。残された静子は重いため息を吐いた後、改めて紙に目を通す。

「……ふーむ、割と良い着眼点の計画だね」

「お、こんな所にいたか静っち」

紙と付随していた資料に目を通していると、にこやかな笑みを浮かべた慶次が入ってきた。礼儀もへったくれもなく、入り口の襖を勢いよく開けると、その勢いのまま部屋へ入ってくる。
もっとも、それを見ても静子は襖が壊れないか心配するだけだった。

「与六殿の件かな」

「正解。なのでーーー」

「夜通し語り合いたいから、お酒を出してくれ、とは言わないわよね?」

瞬間、慶次が笑顔のまま固まる。頬に手を添えた静子はにっこりと笑顔を浮かべて、冷や汗を流す慶次に向かって言葉を続ける。

「肴としてカラスミが欲しい、とも言わないわよね」

「い、いやぁその通りだよ。流石は静っち、良く分かったなー。だからお願い、な?」

全部察せられた事を知った慶次は、両手を合わせて静子を拝む。暫く半眼で睨んでいた静子だが、考えるのが馬鹿らしくなり片手で顔を覆う。

「夕餉はブリと野菜の鍋よ。その時にお酒を呑まないなら許可しましょう」

「うっ、鍋で酒禁止はきっついな」

「これでも割と譲歩しているのよ。普通なら駄目って言う所だしね」

腕を組んで唸る慶次だが、流石にこれ以上の譲歩は出来ない。
金子の立て替えでも割と骨を折ったのだから、ここは静子の提案を飲むか、飲まないかのどちらか以外に慶次が選べる選択肢はない。

「仕方ない。その条件を飲もう」

「なら夕餉後に鍵を取りに来て。蔵の地下室に通じる鍵も一緒に渡すから」

蔵は地上2階が基本だが、酒を保管する蔵のみ地下1階が設けられている。これは地下の方が保存に適した温度と湿度を維持出来るのが理由だ。
一階や二階の場合、人が蔵の扉を開けた時に湿度や温度が変化してしまう。その点、地下は設備が整っていれば扉の開け閉め程度では気温や湿度が大きく変化することはない。
品質維持及び、容易く持ち出させないようにするため、あえて酒は地下蔵に保管されているのである。

「じゃあそれでよろしくー」

話し合いが終わると、慶次は手をひらひらと振って立ち去る。一つため息を吐いた後、静子は手に持っている書類へ再び視線を落とした。
それから夕餉の時間になるまで、彼女はひたすら書類の処理をし続けた。






兼続にとっては驚きの連続だった。屋敷の中に多くの獣が住んでいる事も驚いたが、何より驚いたのは静子が慶次たちと食卓を一緒に囲む事だった。
武士の飯といえば玄米がたっぷり、それも赤米や黒米が基本だ。副食も漬け物や梅干しなど、塩辛いものだけ、良くて野菜の煮物が出る程度だ。
それが飯は白飯、味噌汁は糠味噌ではなく豆味噌、メインは野菜とブリの鍋だ。それも白飯を食べているのは静子だけでなく、慶次や才蔵たち家臣、そして侍女の彩に至るまで白飯だ。
飯だけでなく副食も何もかも同じ物を食べていた。毒云々以前の話だと兼続は驚愕した。

「あれ、口に合わなかったかな」

箸が進まない兼続に気付いた静子が食事を止めて質問する。その言葉で我に返った兼続は、慌てて首を横に振る。

「いえ、白飯など滅多に食える物ではないゆえ、驚きを隠せませぬ」

「一応栄養価を考えて、たまに赤米や黒米を混ぜる事はあるよ。あっちの欠食児童たちには不人気だけどね」

あきれ顔で静子はある方を指さす。彼女の指さす方を向くと、慶次と才蔵、長可が賑やかに飯を食べていた。
が、よく見ると奪い合うように鍋の具を取り、飯をかき込んではお代わりをしていた。

毎日、白飯だけでも十分な量を確保している静子だが、栄養価を考えて玄米食や、白飯でも5%ほど赤米や黒米を混ぜて、ビタミンやミネラル類を補充している。
また赤米や黒米は白米と一緒に炊くことで見た目が美しくなり、赤米や黒米独特の香りが楽しめるご飯となる。
全てを赤米や黒米にすれば美味しいと思えない飯になるが、このような「かやくご飯」にすることで、飯にも色々なバリエーションを持たせていた。
もっとも、常日頃白飯を食べるような慶次たちにとっては、赤米や黒米などの混ぜ物ご飯や玄米食は割と不評なのだが。

「それにしても、侍女まで飯が食えるなど、よほどの財をお持ちですね」

「ん? ブリは別だけど、鍋の野菜と米は私が栽培したものだし、味噌は私が作ったものよ。だから、それほどお金はかけてないよ」

「は?」

静子の言葉を聞いて、兼続は更に悩む。

(待て待て、栽培だと? 何故、織田家の重鎮が百姓の真似事をしている。これは彼女なりに財を知られないよう誤魔化しているのか。いや、違う。どう見ても本気の目だ。とても人を騙そうとしているようには見えぬ)

自分も上杉家で傾奇者だ、常識知らずだと言われたが、静子の言動はそんな兼続すら困惑するものだった。

(考え直そう、与六。栽培していると言ったが、ただ管理しているだけだろう)

「そういえば静っち、最近作った施設は何のためにあるんだ?」

「あれは放流する鮭の稚魚を育てているところだよ」

無理矢理納得しかけた兼続だが、慶次と静子の何気ない会話でまた思考が奈落へと突き落とされる。

(待て待て、放流だと? 鮭の稚魚だと、一体何のためにそんな真似をしておる。というか、何故静子殿自らが育てているのだ。いや、家臣といえどもいつ寝首をかかれるか分からぬ身、自身の技術はなるたけ秘匿すべきなのだろう)

サケやマス類の人工ふ化は、端的に言うと産卵時期の魚を捕まえ、水がかからないように注意しながら採卵し、受精させた後、ふ化に適した環境の水槽に浸ける。
これが近年、サケやマス類の人工ふ化に使われる乾導法という技術だ。この技術は19世紀後半にC. G. アトキンス博士によって確立された。
なお、水がかからないようにする理由は、水がかかると卵が受精したと考え、受精した卵と同じ成長をするが、決してふ化しない未受精卵になるからだ。

「もう少ししたら、他の人が育てている稚魚と一緒に放流するよ。一昨年からやっているから、後1年か2年は成果が出ないけどね。ま、来年ぐらいにいっぱい帰ってくると思うよ、鮭」

(いやいやいやいや、待て待て。鮭が獲れる川は知行地として与えられるほどの川。武田は獲った鮭の実に半分近くを税として納めさせておる。その鮭を増やす技術を、何故ほいほい他の者に教えておるのだ!)

彼が悩むのも仕方ないが、実は静子はある政策を行っており、彼女の技術を他人が知っても特に問題なくしている。
それが特許だ。特許とは社会に有益な発明をした人物や組織が、一定期間独占的な権利を有する事を保障する制度だ。
商工業を独占したり、特許を利用したい者たちから特許料を徴収したりできる。特許は諸刃の剣ではあるものの、職人が有益な技術を秘匿したまま、技術が消失する事が防げる。
また、発明者が開発意欲を失ったり、新しい事業、新しい市場の開拓に対する意欲が失われる事も防げる。
無論、制限なき優先権ではない。市場独占には一定の制限がかかり、特許料についても支払う方に不服があれば異議申し立てが可能となっている。

もっとも大事な事だが、特許と認定された内容を他国に売れば、厳しい罰則が課される。
技術のランクにもよるが最低でも一家全員斬首、基礎研究などの根幹技術になれば族滅、いわゆる一族郎党全員が斬首に処されることもある。
一族以外の関係者がいれば、関係者にも拷問を含む尋問がされる。
特許に関しては様々な刑法が制定されているが、情報漏洩やスパイ行為は特に厳しい対応が取られるようになっている。

(ぬー、分からぬ)

その辺りの事情を知らない兼続は散々考えて、そして最後に考えることを放棄した。大人しく白飯を食おうと飯を口に入れた瞬間、入り口の襖が勢いよく開け放たれた。

「静子ぉ……はりはり鍋が延期とはどういう事じゃあ〜!」

勢いよく襖を開けたのはお市だった。後ろで茶々と初が、両手を広げて襖を勢いよく開けるポーズをしていた。ここの住人は勢いよく襖を開けるのが礼儀なのか、と兼続は半分呆れた。

「いや、だから言ったじゃないですか。肉を熟成させるのだから、少し待ちますよって」

「うむ、聞いておらんぞ。だから妾は知らぬ」

「そこを偉そうに言わないで下さい。幾ら解体前に熟成しているとはいえ、もう少し待つ必要があるのですよ。大丈夫です、明日には食べられますから」

鯨は人間より少し体温が高い。そのため、高い温度で腐敗しないよう腹部を裂き(内臓は捨てずに残す)、16時間ほど海中に入れて温度を低温に保ち、肉の熟成をする。
捕鯨後、港に運ばれた鯨は神事の後に、この作業が必ず行われる。ゆえに神事が終わった後、1日待たねば鯨の肉は手に入らない。
その事は事前に伝えていたはずだが、お市の耳には届いていなかったようだ。

「ぐぬぅ、仕方ない。ならば今日はその鍋で許してやる」

「許してやるも何も、これは私の夕餉ですが……というかそちらにも夕餉が用意されているでしょう」

「冷えた飯など食えたものではない。それに旨いものは皆で囲んで食べるべきだ、と濃姫殿も言われていたしな。これ、母はお前らの面倒なぞ見ぬぞ。静子に見て貰え」

言うやいなやお市は空いている席に腰を下ろす。茶々や初も隣に腰を下ろそうとしたが、お市は無情にも我が子を追い払う。
だが慣れたもので、茶々と初はそのまま静子の方へ行くと、適当な場所に陣取った。

(男も女も関係ない。旨いものは皆で囲んで食べるべき、か。何とも型破りな話だ……だが悪くはない)

知らず知らずの内に兼続は笑みを浮かべていた。






「風呂とは良いものだ」

人生初の入浴を経験した兼続はご満悦だった。全身ぽかぽか状態の兼続は、慶次が寝泊まりしている庵へ向かう。
仮邸宅の庭にある庵は大きく見積もっても6畳程度と、広いとは言い難いが俗世から切り離された静寂な風情があった。

「まずは一献」

慶次が用意した茶碗二つに酒を注ぐと、片方を兼続に差し出す。兼続が受け取ると、慶次はニヤリと笑うと胡座をかく。兼続もそれにならう。

「変わった器だな」

「静っち曰く茶碗酒って奴さ。本来は茶を飲む器で酒を呑む。何とも痛快な話ではないか」

「確かにな」

茶の湯は上流階級の娯楽として定着しているが、その為に使われる器であえて酒を呑む。型破りな話だが、何とも小気味よい話だと兼続は思った。
酒が月明かりを反射するのに気付いた兼続は、茶碗の中を覗き込む。

「水のように透き通っておる。月明かりを映すのも当然と言えよう」

「眺めるのはそこまでにして、まずは呑もう」

言うやいなや慶次は茶碗を傾けて、一気に飲み干す。少し遅れて兼続も慶次と同じく茶碗の酒を一気飲みする。

「……旨い! それしか語れぬ」

「良いものに言葉はいらないさ」

カラになった茶碗へ互いに酒を注ぐ。

「そうだな……うむ、この肴も旨い。酒がどんどんすすむな」

カラスミを一切れ口に入れ、続いて酒を口に流し込む。何とも言えぬ旨さが口の中に広がった。
酒のあてなど常に塩で、それも数回に一回つけば良い方の兼続にとって、カラスミは望外の逸品であった。
それからは酒の旨さに太鼓判を押しつつ、二人は談笑する。話す内容は色々だった。勿論、機密に関する事は互いに口が軽くなる訳にはいかなかったが。

「いや、しかし本当に羨ましい。このような酒を呑めるなど早々ない。我が主君が褒めるのも無理はない」

「静っちは知行地がないからな。土地を与えられない代わりに、って言って色々と融通してくれる。まぁたまに飲み過ぎて叱られる事もあるけど」

叱られている割に、全く懲りていない雰囲気の慶次だった。笑いながら兼続が茶碗に口をつけると、どこからともなく良い匂いが漂ってきた。
気になって周囲を見回すと、慶次も匂いに気付いたようで、しきりに匂いの元を探っていた。

「入るぞ」

その言葉と同時に襖が開けられる。続いて大皿を片手に才蔵と長可が部屋に入ってきた。匂いの元は才蔵が持っている皿だと二人は気付く。
大皿を中心に置くと才蔵は適当な場所に腰を下ろす。持っていた酒瓶を大皿の横に置くと、長可も同じように座る。

「お前がこっちに来るなんて珍しいな。お、焼き鳥とはまた豪勢だな」

「……静子様が『男が話し合うならコレでしょ?』と仰って、我々に酒と肴を下されたのだ」

「中々(いき)な事するじゃん。では早速……うむ、旨いな」

今も兼続を警戒する才蔵に、静子は腹を割って話し合えと、彼をここへ送り込んだのだと慶次は理解した。
長可は気にしていないのか、手早く酒を自身の茶碗に注ぐと、焼き鳥片手に才蔵の行動を見守っていた。

「まずは呑め。呑めぬとは言わさぬぞ」

言うやいなや空っぽになった兼続の茶碗に、才蔵がなみなみと酒を注ぐ。随分呑んだ兼続だが彼は笑みを浮かべていた。

「おい、越後人を舐めんなよ。これぐらいどうってことねぇよ!」

注がれた酒などなんのその、兼続は酒を一気に飲み干す。ニヤリと笑うと、才蔵は自分の茶碗を突き出す。()げ、という意味だと理解した兼続は、同じように酒をなみなみと注ぐ。
才蔵も兼続と同じように酒を一気に飲み干した。

「侮るなよ、小僧。こっちは大酒飲みと付き合っているのだ。越後人など片手で捻ってくれる」

「そっちこそ越後人を舐めるなよ。先に慶次殿と呑んでいた量など、この俺にとっては不利にならない事を証明してやる」

そこからは互いに酒を一気に呑む、慶次と長可がなんやかんやはやし立てながら、自分たちもしっかり呑んでいた。
ペースを考えずノリと勢いで呑んで騒いだため、翌日、四人は揃って二日酔いに近い状態になったのは言うまでもない。






技術街や醸造街はたとえ上杉家の者でも入る事は叶わぬが、港街と静子が関わっている街は普通に出入り出来る。
二つのどちらにも言える事だが、料理店が並ぶ場所は胃が刺激される香りが漂っていた。特に港街は海の幸が豊富に集まる関係で料理店が多く、それゆえ各店がしのぎを削っていた。

「どの店も腹に訴える匂いだ」

周囲に漂う匂いを嗅ぎながら兼続は呟く。そこまで腹は空いていないが、それでも何か食べたくなるほどかぐわかしい料理の香りだ。

「ははっ、ここは静っち肝いりの場所だからな。どこも旨いが、やはり一番人気は鰻静だろう。あそこは静っちから秘伝の『タレ』とやらを貰って、鰻丼や鰻重を始めたそうだがこれが大流行(おおはやり)。鰻が沢山獲れた日にゃ長蛇の列が出来るぜ」

隣を歩く慶次が、どの店に入ろうか悩みつつ兼続に説明する。

「食ってみたいが、そこまで人気だと並ぶのも大変だな」

「大流行過ぎて、たまに喧嘩まで起きるほどだ。お陰で静っちが鰻の養殖を計画するまでになった」

「……前も聞いたが、何故わざわざ増やそうとする。魚など幾らでも獲れよう」

養殖とは対象の生物を人工的に育てる産業だ。現代のように海洋資源の枯渇が心配されるならともかく、外洋にも出られない時代では海洋資源が枯渇するような事は中々起きない。
何百年に一度の異常気象が起これば話は別だが、戦国時代の気候は現代より寒くとも安定を保っている。海洋資源が危険に晒される事はない。

「獲れたとして、民の口にどれだけ入るかね」

「は?」

一瞬、兼続は慶次の質問の意図が分からなかった。慶次は煙草が入っていない煙管を口で上下に動かしながらも真面目な表情をする。

「魚が豊富に獲れようとも、民がその魚をどれだけ食える。お上の連中だけが食って、下々の連中が食えないのなら何も変わらない」

「……つまり、運次第の海に頼らず自分たちで確実に取れる食い扶持を増やす、という事か」

「織田の殿様が天下を統一すれば、自ずと戦はなくなっていく。今までのように食い扶持を確保する戦は出来なくなる。そうなったらものの取り合いだ。取り合いをすれば、やがて何もかも食らいつくしてしまう」

少し寂しそうな声色で慶次は言葉を続ける。彼は生粋のいくさ人だ、いくさがなくなれば彼は死に場所を失う。いくさ人にとって、死に場所を失うほど辛いことはない。
それでも彼は静子の所を離れない。例えいくさ場を失う事になろうとも、彼女が信長の元で作ろうとする新しき世を見てみたいのだ。
自分でも難儀な性格だと慶次は思った。いくさ人としての死に場所を求めながら、新しき世がどの様な形になるのか見てみたい、そんな矛盾する想いを抱くのだから。

「おや、そこにおわすは慶次様ではございませぬか」

急に声をかけられた慶次は後ろを振り返る。そこにはでっぷりと肉付きの良い女性がいた。お供の女が後ろに控えている所から偉い立場の人間だと窺える。

(さき)殿か。珍しいな、こっちに出向いてくるなんて」

「ほっほっほ、ようやくこっちに店を構えて良いって許可が下りたからね。下見も兼ねての見学さ」

本名不明、女郎からは咲と呼ばれる女性は、港街にある花街・二之区の有力者だ。琴と音が細身で美人なのに対し、咲は太っている方であり、決して美人とは言い難い。
しかし、いつも優しく、時に厳しくも愛のある叱咤をする咲は、二之区の女郎から「かかあ様」と呼ばれるほど慕われている。

「ああ、おたくんとこは瘡毒そうどく出したものな」

瘡毒、またの名を梅毒という感染症にかかった人間が、かつて咲が管理する二之区から出てしまった。それも静子の街へ支店を構える許可が出る直前である。
基本的に性行為で感染する病気ゆえ、静子が管理する街へ支店を構える許可は取り消され、新たな患者が出ない事が条件に加えられた。

「一時は本当に参ったけど、静子様のお陰で何とか治ったよ」

「おー、という事は二之区閉鎖は解除されたのか」

梅毒が出た以上、感染拡大を防ぐ為に静子は二之区を一時的に封鎖していた。商売あがったりだが、こればかりは契約の関係上、受け入れて貰う以外にない。

「ほっほっほ、ようやく商売再開だよ。これから損した分を取り戻さないとね。それじゃ、あたいはこれで失礼するよ」

慶次たちに別れの挨拶をした後、咲はお付きを引き連れてどこかへ立ち去った。

「ふーむ、色々とあるのぅ。っと、いかん。俺たちも酒を買って帰ろう」

「中々に興味深い話だった。今夜の酒の肴にしよう」

笑いながら二人は酒屋へ向かう。静子の倉に酒はたんまりあるが、たまには外で売られている酒も呑んでみたい二人は、手頃な酒を何種類か購入して帰路につく。
道中何事もなく帰宅した二人だが、静子の邸宅前まで来た時、異変に気付く。

「あん? なにやら人が多くないか」

普段はそれほど人が多いわけでもなく、人の出入りも少な目な静子の邸宅前が人でごった返しになっていた。格好からして身分の高い者の従者だという事が分かった。
二人は首を傾げながらも彼らを避けて家へ入る。入ってすぐ、嗅いだことのない香りが鼻腔をくすぐった。良く嗅げば発酵食品のような酸っぱい感じだが、一癖ありそうな香りと分かる。

「……あ、まさかっ!」

何かに思い至った慶次が慌てて駆け出す。一瞬、驚いた兼続だがすぐに彼の後を追う。鋭敏な嗅覚で香りの元へ走る慶次だが、少しして彼は足止めされる。

「ここより先は殿がおられる。何人たりとも通すわけには参らぬ」

慶次の前に立ちはだかったのは堀だ。彼を見て、慶次は地団駄を踏む。誰がこの家に来て、何をしているか理解したからだ。

「くそ、何かしようとしているのは分かっていたが、まさか今日だったとはっ!」

「諦められよ」

話の流れについて行けない兼続は目を丸くする。

「構わぬ」

一体何が起きているか、慶次に尋ねようと兼続が言葉を口にしようとした瞬間、廊下の奥から有無を言わせぬ迫力を秘めた声が飛んできた。
その言葉を耳にした瞬間、堀は脇に避けて跪いた。慶次もばつの悪そうな顔をして、廊下の脇へ避ける。

「旨いものは皆で共有すべきだ。が、一番に味わうのはわしだがな」

奥から現れたのは信長だった。彼は未だオロオロとしている兼続を見据えると、唇の端を吊り上げて言葉を発した。

「貴様が上杉の者か」

その一言で静寂が場を支配する。
冷や汗を流した兼続は、何かを言おうとした。だが、言葉が口から出る事はなかった。
信長から感じる重圧に耐えるだけで、今の兼続は精一杯だった。上杉景勝の右腕になっている時ならまだしも、今は近習、それも12歳程度の若造だ。
数多の戦を駆け抜け、魑魅魍魎が跋扈する京で何年も公家や仏家と争い、時に協力して政治を取り仕切っている信長を前に、彼は知らずの内に足がすくんでいた。
だがそれを悟られまいと兼続は精一杯の虚勢をはる。

「ふっ……堀よ、まもなく静子が南蛮の食い物『ぴざ』とやらを焼き上げる。貴様は人を連れてそれを運ばせよ。焼きたてが旨いらしいからの。はよぅ運ぶように厳命しろ」

全てを見抜いた信長だが、兼続の虚勢には触れず堀へ命令を飛ばす。一瞬だけ兼続を見た堀だが、すぐに恭しく信長へ礼をすると、静かに立ち去った。

「わしが何をしたいか知りたくば、静子と民を良く見ておけ。そこに貴様の求める答えがある」

それだけ言うと信長は一度も振り返らず、兼続の横を通り過ぎて廊下の向こうに消えた。信長が消え去って暫くしてから、兼続はようやく息を吐き出す。
知らず知らずの内に緊張し、呼吸する事すら忘れていた。それほど信長の存在は異質だった。極めて自然体なのに油断すれば喉を食い千切られるような雰囲気を感じた。

(あれが……敵ならば仏家すら滅ぼす第六天魔)

信長のニックネームにもなっている第六天魔。しかし、この名が付けられたのは信長が初ではない。
有名な人物としては最初は延暦寺の天台座主についたが、後に還俗(げんぞく)して足利将軍となった足利義教も、延暦寺と敵対した時に第六天魔の名で呼ばれていた。
他にも二回目の延暦寺焼き討ちを行った細川政元など、延暦寺と敵対すると延暦寺関係者や民衆から第六天魔の名で呼ばれる事が多い。

(言葉では表せぬ、何とも言えない人だ)

兼続は暫く取り憑かれたように、信長が去った方を見続けていた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ