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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀三年 決戦、三方ヶ原の戦い

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千五百七十二年 一月上旬

静子は例年通り正月を過ごし、二日目の宴会にも顔を出し、三が日以降に織田家重臣への挨拶巡りを終えた。
普段は静子の傍を離れない馬廻衆の慶次や才蔵、長可、高虎、側仕えの蕭も親族の元に帰参しており、いつもは騒がしい静子邸も、束の間の静けさを保っていた。

「のどかだねぇ」

彩が入れた茶を飲みながら、静子はぼんやりと呟く。外は一面雪景色だが寒さに強い動物たちは庭ではしゃいでいた。
氷の張った池を滑って遊ぶ子もいた。たまに転んであらぬ方へ滑っていく事もあるが、それもご愛敬だ。

正月だけは世間の喧噪も忘れ、ゆったりとした時間を過ごせた。しかし、時代は彼女に多くの猶予を与えない。
未だ松の内である十日未明、光秀より文が届く。内容は坂本城築城の為に派遣した黒鍬衆についてだ。
子飼いの黒鍬衆より築城専門の職人を選抜し、幾ばくかの資材とともに坂本城に派遣していたのだが、何かしら問題が発生したのか、光秀から職人の派遣期間を延長して欲しいという嘆願が来ていた。
坂本城は延暦寺の監視という大事な役目を担う城だ。生半可な城では問題が出るため、静子は予定を調整して、本来年末だった派遣期間を年が明け一段落つくまでに延長した。

光秀の件が終わると、入れ替わるように信長から朱印状が届く。志賀郡北部の城攻めを行うため、武具の生産を命じる内容だった。
技術街と後方部隊の物流衆に、武具類を『コンテナ』で運ぶように命じた。最近の物流衆はコンテナ輸送がメインとなっている。
コンテナのメリットはなんと言っても輸送のコストが格段に下がる点だ。規格化された容器を使う事で、一度に運べる量がコンテナの数だけで容易く計算出来る点もメリットだ。

後方支援作業は軽く見られがちだが、信長と光秀、そして秀吉のみ後方支援作業はいくさをする上で重要、かつ軽んじてはならない作業と認識していた。
だが、戦国時代で後方支援作業を行えと命じられる事は、武功の場を奪う事を意味している。幾ら必要と説かれても、時と場合によっては主従関係に深い溝を作る事になる。
それらを全く考慮しなくて良い静子は、信長にとって非常に重要な存在であった。信長の防衛網が維持出来ているのも、静子の物資輸送部隊である物流衆の存在が大きい。

静子は信長から渡された情報と、自身が収集した情報をもとに、物資運搬に関する計画を立てる。だが、それを邪魔する存在がいた。正月から暇を持て余すお市だ。

「暇じゃ、何かないか静子」

「本棚に徒然草の写本がありますよ」

当たり前のように居座っている市に、静子は生返事をする。徒然草は日本三大随筆の一つに評されるほど優れた作品だが、市から見れば退屈なものにしか映らなかった。
適当さ丸出しの静子を見て市は頬を膨らませる。しかし、目の前の書類整理に忙しい静子は全く気付かなかった。

「しずこ−、ひま−」

「ひま−」

茶々が両手を挙げながら言うと、少し遅れて初が茶々のポーズを真似する。

「大金払って買った鳥獣人物戯画の写本全巻なら、上の棚に置いています」

鳥獣人物戯画ちょうじゅうじんぶつぎがとは、当時の世相や風刺などが動物や人間を用いて戯画的に描かれた絵巻物だ。
紙本墨画の作品で甲・乙・丙・丁の四巻からなり、ウサギとカエルが相撲を取っている描写のある甲巻が特に有名である。
動物を擬人化し、現代の漫画に通ずる効果なども織り込まれた作風から、『日本最古の漫画』と評されることもある。
成立については不明瞭であり、各巻に繋がりが無く、筆致や画風も大きく異なっているため、12〜13世紀にかけて幅広い年代に複数の作者によって書かれた別個の作品を集大成した結果、鳥獣人物戯画が出来上がったと考えられている。

「源氏物語、清少納言抄(枕草子のこと)、方丈記(はうぢやうき)とかは——」

「ええい、そうではない。退屈じゃから、何か面白い事はないのかと聞いておるのじゃ」

「ご実家に戻られてゆっくり過ごされるという手も」

「はん、浅井家の裏切りを阻止出来なかった妾じゃぞ。親族の皆は妾を疎んでおるわ。兄上以外、皆よそよそしいものよ」

市の言葉を聞いて静子は己の失言を悟る。市は浅井家と織田家が同盟を結ぶため、浅井家に嫁いだ。しかし、浅井家はお家騒動の末、家長の浅井長政が追い出されてしまった。
同時に浅井家と織田家の同盟は破棄された。その事を防げなかったと、市が親族に白眼視されても不思議ではない。

「何というか……すみません」

「構わぬ。兄上のご威光を笠に着て物申す奴らなど放っておけば良い。そんな小さき奴らなど置いておいてだ。静子は妾の暇潰しに付き合うのだ」

「のだー」

「のだー」

市、そして娘の茶々と初が揃って催促をする。これ以上、話題を逸らすのは無理だと判断した静子は小さくため息を吐く。
本音を言えばもう少し今の状態を維持したかった。何しろ傍目には適当な事務処理をしているようにしか見えないのだから。
大事な処理を大事そうにすれば人の印象に残りやすい。しかし、今のように雑談混じりですれば、大事な案件を処理していると思われにくい。
つまり、他人の印象に残らないから情報が漏れる心配が少ない。欠点があるとすれば、今の市のように作業に割り込まれてしまうことが挙げられる。

「(高炉のメインは足満おじさんだし、私は材料を揃えておくだけだから、そこまで構える必要もないか)わかりました、わかりました。それでは昨晩、雪が良く降りましたしソリでもいたしましょう」

ソリという聞き覚えの無い単語を耳にした瞬間、市が目を輝かせる。始める前から頭が痛くなった静子だが、何とか耐えて準備を整える。
必要なものを揃えた後、静子は市たちを連れて兵士訓練所に来ていた。今は正月休みも相まって誰もいない。

(訓練用の坂だけど、ここで良いっか)

本来は前傾姿勢で坂を上がる事で、兵士の足腰を鍛える為の設備だが、贅沢は言っていられない。整備された坂など中々ないし、仮にあっても歩道ゆえ他の人間の迷惑になる。

「よ、ようやくか。ふー、疲れたぞ」

かんじきを装備しているとはいえ、鍛えていない市たちでは坂を上がるのも重労働だ。正月休みで人がいないのだから、駕籠であがるのは諦めて貰うほかない。

「体力をつけて下さい。ま、まずはこれに乗って下さい」

「う、うむ。これで良いか?」

言われるがまま市はソリに乗る。はみ出ている衣服をソリの中に押し込むと、静子は市の背中に手を添える。

「では、いってらっしゃーい」

言うやいなや、市の返事を待たず静子は市の背中を強く押す。勢いのついたソリは雪の上を颯爽と滑り加速していく。

「お、お、お〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」

ソリが滑る間、市は変な声を上げ続ける。急勾配でもないが緩やかでもない坂で、特に説明もなく滑らせたため、ある意味絶叫マシンとなっているためだ。

「では彩ちゃんは初様を、私は茶々様を乗せて滑るよ−」

「承知しました」

返答したが思ったよりも速度が出ていたのを目の当たりにしたせいか、彩の顔が若干引きつっていた。対して初は乗り気満々なため、彩は小さくため息をついてソリに乗り込んだ。
市と同じように彩の背中を押して滑らせる。それが終わってから茶々をソリに乗せると、静子は足で地面を蹴って勢いを付けると、ソリに乗り込み滑り降りる。

「ひゃっはーーーー!」

「ひゃーーーー!」

静子と茶々、二人揃って変な声を上げながら滑る。およそ100メートルほど滑った所で、坂を下りきった。

「ふー、面白かった。あれ、お市様は?」

額の汗をぬぐった静子は、先に滑り降りたはずの市の姿がない事に気付く。周囲を見回すと、ソリを抱えて坂を上っている市の背中が見えた。

「大変お気に召されたようで、今一度滑ると仰っておられました」

「それは良かった」

「しずこ−、もういっかいー」

「もういっかいー」

市の行動力に肩をすくめると、茶々と初がソリ滑りの催促をしてきた。これではどちらが小姓か分からないな、と苦笑しつつ静子は二つのソリを担ぎ直した。






30回ほど滑った所で身体が冷えたため、静子たちはソリ遊びを切り上げた。冷えた身体を暖めるため温泉につかる。

「ふ〜、極楽じゃ」

市は淵に顎を乗せて温泉を満喫した。茶々や初は乳母に補助されながら湯につかっていた。

「(はー癒やされる)彩ちゃんも十分に温まってね」

「はい、十分頂いております」

静子も彩を連れて温泉を満喫していた。当初、身分違いの自分が一緒になるのは、と断っていた彩だが、冷えた身体で体調を崩したら大変だと思った静子が無理に連れてきた。

(新しい源泉が発見されて使いやすくなったのが幸いだわー。何か計画書見ると、私の新居は出島みたいにされているけど……まぁいっか)

本来、温泉館は静子の家が大改造されている為、殆ど使用不可に近かった。しかし、水確保のために井戸を掘った所、とある地点で現在湧き出ている温泉と同等の湯が湧き出てきた。
最初から湯が湧いていた所と、新たに湧き出た源泉は距離が離れていたため、信長は計画を変更し、新たに湧いた源泉を静子の家の中に取り込むよう間取りを変更した。
今まで最初の源泉を基点に屋敷の増改築が行われていたが、新たに湧いた源泉を中心に新たな屋敷の建築をするよう変更になったため、最初の温泉館が自由に使えるようになった。

「ふぅ、心地良いのぅ。静子の新しい邸宅が完成すると、妾は自由に使えなくなるのが残念だが」

静子の新居が完成すれば、元の温泉館は信長管理、新しい源泉は静子一同のものとなる。そうなると市も気軽に利用出来なくなる。
元より市が信長の別荘に住むのは一時的な措置だ。事情が変わればどこかの城に移動する事もあり得ない話ではない。

「そうなのですか?」

「兄上は親族を黙らせるために、妾をここへ送り込んだ。だが、いつまでもおられる訳ではないからのぅ。遠くない内に、茶々や初はどこかへ嫁ごう。そうなれば、妾もここにおる理由がなくなる。それに兄上が浅井家を滅ぼしたら、妾も新九郎殿と夫婦が続けられるか分からぬ」

上洛のために浅井家と織田家の同盟を結ぶため、市は長政へ嫁いだ。しかし、久政が裏切った時点で浅井家と織田家の同盟は破棄された。
現在は久政が追放した長政を信長が保護している関係で、長政と市の婚姻関係は続いている。とはいえ、信長が久政の本拠地・小谷城を攻略した以降はどうなるか不明だ。
普通に考えれば市と長政の婚姻は解消され、市は別の誰かの元へ嫁ぐ事になるだろう。
何しろお市は絶世の美人だ。嫁ぎ先は幾らでもあるだろう。だがそれでお市は幸せなのか、は本人のみしか分からない。

「それはどうでしょうかねぇ。使えなくなったからぽいする、というのは印象が余り宜しくない気がしますね」

「他人の評など兄上が気にするはずもない。いつもどこを見ているか分からぬ目で、遠い何かを語るように言葉を紡ぐ。およそ常人には理解できぬものよ、兄上は」

「単純に当代一の気儘人(きままびと)なだけかと思いますが」

「はっはっはっ、それは静子が兄上と同じ『もの』が見えている為であろう。妾たち凡人では無理な話よ。だからこそ、兄上は静子をいたく気に入っておられる」

「いつも無茶な仕事ばかり任されているから、少しは労って欲しいものです」

「それは兄上が『静子なら出来る』と思うたからよ。兄上は才溢れておるゆえ、何もかも自身だけで決定し、家臣には指示通りに動くことを求める。そうではなく全てを静子に任せるのだから、兄上が気に入っていると考えるのは至極当然と思うがな」

そんなものなのかな、と静子は漠然と思った。市の言うとおり、そこそこ自由に仕事を任されているが、他人がどの様に信長の仕事をこなしているか知らないため、いまいち自覚出来なかった。
結局、驕り高ぶらず、かといって卑屈にならず、いつものようにするのが一番と静子は結論を出した。

「そう言えばもうすぐ捕鯨船が帰ってくるの。その日の夕餉は鍋、それもはりはり鍋かの」

「……京菜と昆布を要求したのはその為ですか」

古くから京都で栽培されていたため京菜きょうなと呼ばれ、現在では水菜と呼ばれるアブラナ科の作物と、鯨肉を用いた鍋料理がはりはり鍋だ。
はりはりの由来は、水菜のシャキシャキとした食感を表現したと言われている。また、他の鍋と違って昆布で出汁を取り、鯨肉と水菜だけで作る簡素な鍋だ。

「ふふっ、静子が港街で漁業関係に携わってから、色々なものが食えるからのぅ。そう言えば不思議な事を魚にしておったの。何と言ったか……絞め?」

「活け締めと神経絞めのことですか?」

「そう、それじゃ」

合点がいったように、市は両手を軽く叩いた。
活け締めとは漁獲した後に魚へ施す処理法のことだ。一般的には血抜きして鮮度を保つ処理法のことだが、単純に魚を殺すことを活け締めという場合もある。
基本は包丁で行うが『手カギ』と呼ばれる道具の方が汎用性が高いため、港街ではもっぱら『手カギ』で活け締めが行われている。

神経締めとは名前の通り、魚の延髄及び中枢神経を破壊する処理法だ。地方によっては延髄斬り、神経抜きと呼ばれている。
活け締めと違い、神経締めは錐で脳及び延髄を破壊し、背骨に沿ってピアノ線や針金などを入れて中枢神経を破壊するという熟練の技術を要する。
この処理を施す理由は、魚の死後硬直を遅らせて鮮度を保つためだ。ただし、神経締めは小魚や中型サイズの魚にはしない。処理をすることで身がゆるくなってしまうからだ。

活け締めは日本で発祥した技術だが、活け締めが花開いたのは冷凍技術や輸送技術が格段に進歩した昭和バブル期以降となり、意外と歴史は浅い。
それは古い時代では塩干魚が中心だったため、魚の鮮度を保つ技術が発展しなかったためだ。
しかし、近代では鮮度の高い魚を求めるニーズが出てきた。それゆえ活け締めや神経締めという技術が生み出されるに至った。

「単純に魚の腐敗を防ぐ為です。魚の血が残っていると、それが原因で腐敗が早まりますからね」

「なるほどのぅ。何も考えてないように見えて、色々と考えた上の行動なのか」

「……良く言われるのですが、そんなに私って何も考えてないように見えるのですか」

「さて、そろそろ湯から上がろう。のぼせても良くないしの」

半眼で睨む静子を無視して、市はさっさと温泉から出ていった。静子は小さくため息を吐くと、市に続いて温泉から上がる。
身体をふいて浴衣に着替えると、静子は氷入りの麦茶を飲んで一息吐く。

(割と知られていないけど、水に硝石を入れると熱を奪うから、氷を作るのは意外と簡単なのよね。まぁ空気式製氷機があるから、うちはそんな手間は必要ないけど)

水に硝石を入れると、硝石が水の熱を奪って温度を下げる。それで出来た硝石入りの氷にさらに硝石を混ぜ、何も入っていない水を冷やせば氷は作れる。
後は硝石入りの氷を水と硝石に分離して硝石を回収する。こうすれば時期を問わず何度も硝石を使って氷を作ることが可能だ。

もっとも硝石を使わず、空気だけで製氷機や冷凍庫を作る事は可能だ。現に静子は効率は良いとは言い難いが、初期の空気式製氷機を開発した。しかし、製氷機には色々と問題がある。
その問題は製氷機自身ではなく、氷の価値が変化することに起因する。
製氷機が一般的になれば氷の価値は激減し、現在製氷業に携わっている多くの人々が失業し、氷を流通させる物流にも影響が及ぶ。
結果として経済が停滞し、多くの経済的損失が見込まれるのである。氷は贅沢品という位置づけが程よいのである。

空気式製氷機は単純な原理で出来ているが、効率は良いとは言い難い。氷板一枚作るのに現代とは比較にならないほど時間を要する。
しかし、小さな氷を作るに限定するならこの問題をクリア出来る。オーガ方式という仕組みで、良く冷やした円柱の壁にゆっくり水を流す。
円柱の壁に出来た氷の膜を削って集め、最後に圧力をかけて望む形の氷を作るだけだ。流れ作業で行えるため、大量の氷を作るのに適しているが、透明で美しい氷は作れない。

(スターリングエンジンの完成はまだかなー。この間の報告では、ようやく検証機の開発に入れたって言っていたけど。それにしても油圧や空気圧があるだけで、これだけ作業効率が上がるとは思わなかったよ)

静子は忘れているが、エンジンの発明は産業革命の象徴だ。エンジンという機関が出来たことが産業革命の始まりでもあるのだ。
原始的なエンジンとはいえ、スターリングエンジンが完成すれば出来る事は比較にならないほど多くなる。
コストを無視すれば発電機や冷蔵庫、エアコンなども可能になる。
もっとも、発明されたとしてもコストが馬鹿にならないので、良くて信長のような限られた権力者が用いるに留まるのだが。

「しずこー、ちゃ−」

両手を挙げて茶々は静子の持っている茶を欲しがる。これではどちらが小姓か分からない、と苦笑しつつ静子は茶々に茶碗を手渡す。
嬉しそうに受け取ると茶々は一気に飲み干す。温泉で火照った身体には丁度良かったのだろう、満足げな表情で茶碗を静子に差し出した。

「おかわりー」

「……茶碗、もう二つほど必要になりそうだなぁ」

静子の予感は当たり、茶々を見つけた市と初も同じように氷入りの茶を求めてきた。ため息しか出ない静子だった。






例年通り慶次以外は元日から七日過ぎれば、静子の邸宅に戻ってきた。全員が落ち着いてから数日後、静子は港街へ向かった。
年明け初の捕鯨船が帰還したのを出迎えるのが理由だ。

港街では捕鯨が盛んだが、他と違い捕鯨には色々な組織や決まりが存在する。まず捕鯨を行う者は全て捕鯨組合に加入しなくてはならない。
加入日は勿論、身長や体重、年齢や健康状態などが記録される。それらの情報は全て鯨寺に保管される。

鯨寺とは、捕鯨した鯨用の位牌を作成し、戒名をつけて供養塔を建立及び管轄する寺だ。日本では幾つかあり、もっとも有名な寺は四国八十八箇所の龍頭山金剛頂寺だ。
寺には鯨用の位牌や供養塔、捕鯨組合の名簿の他に、捕鯨帳と呼ばれる捕鯨に関する書類が保管されている。
捕鯨帳には捕鯨した日時、獲れた鯨の大きさ、大まかな場所、関わった捕鯨組合のメンバーリスト、解体した部位の売却先や処分方法など、捕鯨に関する詳細な情報が記録されている。

魚と違い鯨には細かい規則が存在する。一番大事なことは、捕鯨帳に記録されなければ例え運良く浜に打ち上げられた鯨であろうと、一切手を出してはならない決まりだ。
これは鯨が浜へ打ち上がるという事は、海に良くない事が起きているという考えからきている。
その他にも捕鯨した鯨はすぐに解体されず、一定の手順に従った神事を行う決まりがある。

まず鯨寺に捕鯨の報告をし、住職が鯨に戒名を付ける。
その後、鯨の舌を切り取り海へ流す。これは『私たちは鯨に感謝し、余すことなく使い切ります』という誓いを海神へ届けるためだ。
舌を海に流し、海神の使いと見なされるシャチが流した鯨の舌を食べた場合、海神への誓いは届けられたと解釈する。
この時、万が一シャチが舌を食べなかった場合、心にやましい者がいると海神に思われていると考え、捕鯨された鯨は供養塔を建てた後、丁寧に葬られる。

「舌といっても結構重い……」

地球に現存する最大の動物種であるシロナガスクジラは、舌だけでおよそ4トンもの重量がある。それより小さい個体とはいえ、数百キロの重さがある舌を運ぶのは容易ではない。
専用の運搬車がなければ海に流すことは勿論、動かす事すら不可能だった。

「すまんのぅ、元日に腰をいためてしもうてな。ひょっひょっひょ」

腰をとんとんと軽く叩きながら、鯨寺の住職が謝罪を口にする。本来は鯨寺の住職が運搬車を押すのだが、ぎっくり腰になったため不可能となった。
そこで代理として静子が選ばれた。自分以外でも良いのでは、と思ったが位だの何だのとややこしい事が影響して駄目だった。

「神事だから手伝って、とも言えないし。ああ、もう舌目当てでシャチが集まってきた」

何頭かが頭部を海面から出して周囲を偵察する『スパイホッピング』と呼ばれる動作をしている。食料を運んでくる運搬車の発見が群れに伝わったようだ。
最初は3頭ほどしかいなかった港に、10頭以上のシャチが集まっていた。シャチは一種しか存在しない種だが、食性やサイズからおおよそ4つに分類される。
大きいものなら鯨すら襲うシャチで、そんな彼らが好む鯨の部位は舌と口だ。
余談だがシャチと言えば可愛く聞こえるが英名は「殺し屋クジラ」、学名は「冥界の魔物」という酷い名前がつけられている。

「キュイキュイ」

巨体に見合わず可愛い鳴き声で鳴くシャチたち。後は運搬車を所定の位置にまで移動させ、住職が供養の祈祷を捧げたのち、鯨の舌を海へ流せば完了だ。

「あっ! てめっ!」

運搬車を運び終えた所で、ふいに背後から誰かの叫び声が聞こえた。嫌な予感がした静子は素早く後ろを振り返る。小刀を片手にこちらへ走っている男の姿が目に入った。

「住職、下がって!」

静子の声で住職も異常事態を察したのか、すっとんきょうな声を上げて運搬車の後ろに隠れる。それを見ても男の行動が少しも変わらない所を見るに、狙いは自分だと理解する。

(ど、どうしよう。神事だから刃物系は全部置いて来ちゃった!)

刃物系は『切る』という事から不吉なものとされ、神事では基本的に使わないし帯刀が許されない。普段は周囲を固める護衛も神事という事で離れていた事が災いした。
相手は小刀だけ見せているが、それ以外にも何かを持っている可能性がある。不利な状況をどうしようか考えあぐねている時、どこからともなく男めがけて石が飛んできた。
視界の外から飛んできた石を避けられず、男は二つの石がぶつかった衝撃でバランスを崩し、前のめりに転ぶ。

転んだときに小刀を手放したようで、小刀は地面を転がり静子の足元へと滑ってくる。チャンスと判断した静子は、小刀を奪うべく走り出す。
一方、起き上がった男も小刀が前に転がっていることに気付き、慌てて立ち上がると駆け出す。

「チェストー!」

僅かな差だが男の方が早く小刀を手にした。だが、男が立ち上がるより先に、静子が男の顔を思い切り蹴り上げた。
小刀を手に取る事だけに意識を集中していた男は、静子の蹴りを避けられずまともに喰らい、勢いのまま地面を転がる。
いくら静子が女でも意識の外から蹴りを食らえば痛手となる。特に頭は当たり所が良ければ脳を揺らし行動不能となる。
静子の蹴りが脳までダメージを与えたか不明だが、男が再び立ち上がってこない所を見るに、上手く意識を刈り取れた事を喜ぶ。

「小刀とか危ない危ない。さて、さっさと————————」

言いかけた所で、痙攣していた男が上半身を起こした。身体をひねって起き上がると、逃げるために海へ飛び込む。冷たい海に飛び込んで逃げるとは思わず、静子は慌てて海の方を向く。
飛び込んだ男が宙を舞うのが目に入った。何が起きたか分からず、静子が周囲を見回すとシャチの背びれが男の周りに集中している事に気付いた。
宙を飛んだ男の身体が海面に叩きつけられる。間を置かず、男の身体が再び宙を舞う。男が宙を舞うとき、シャチの背びれが見える事から尾びれや体全体を使い放り投げているのだと理解する。

シャチの打ち上げは強力で100キロのアシカを、海面から20メートル以上飛ばす事も出来る。
一説には尻尾で獲物を海面上に放り投げる行為は、子どもに狩りを覚えさせるためと言われているが、現在もはっきりした理由は判っていない。
一つ確かな事は、例えシャチがお遊びで打ち上げをしたとしても、人間にとっては生命の危機に瀕する危険な攻撃だということだ。

5回ぐらい飛ばされているのを眺めていると、静子の近くにシャチが集まってきた。潮を吹いているのを見て、シャチたちが早く鯨の舌を寄越せと催促している事に静子は気付く。

「住職、住職。シャチがとっても怒っている。早く神事を再開しよう」

腰を抜かしかけている住職に発破をかけて神事を再開する。混乱していたのか色々とすっ飛ばした住職だが、今はそんな事に拘っている暇はなかった。
全てが終わると静子は運搬車を傾けて鯨の舌を海へ落とす。途端にシャチたちが群がり、鯨の舌を次々と食い千切っていく。
男で遊んでいたシャチたちも鯨の舌に気付いたのか、最後に男を尻尾で飛ばした後、一目散に鯨の舌がある所まできた。
群れの中にはシャチの子どもがいたが、大人たちに混じって一生懸命鯨の舌を食べていた。

「ふぅ、何とか港が壊されずに済んだ。住職、戻りますよ」

男が使っていた小刀を拾うと、そろそろ腰が抜けそうな住職と共に戻る。

(んー、直接的な殺傷行為に及んだ、という事は危険人物に見られていると考えて良いかな。流石に気になるけど、どうせ男は身分を知らせる物を持っていないだろうね。考えられるのは武田。けど今も沈黙している北条も怪しいかな。上杉は暗殺なんてしたら家臣の結束がボロボロになるから、そういった事は実行しないと考えて良いかなぁ)

小刀の銘を確認すれば凶器の出元をある程度は特定出来るが、それも微妙な所だ。住んでいる場所で購入したか、それとも任務の途中で手に入れたか静子には判断がつかないからだ。
あまり期待出来ない、と思いつつ静子は小刀を仕舞う。住職を連れて神事に参加している人たちの元に戻ると、彼らの困惑した表情を一瞥する。

「偶発的な問題が起きたけど、何とか神事は終わらせました。海神様の使いは鯨の解体をお許しになりましたので、よろしくお願いします」

静子が無事神事が終わった事を告げると、彼らはホッと肩をなで下ろした。






多少の問題はあったものの、今年初の捕鯨の神事は完了した。あの後、男はどうなったか不明だ。シャチが何度か打ち上げをしていたが、飽きて以降どこに流されたか分からない。
探す必要性も感じなかった静子はそのまま放置することにした。それよりも港街の警備衆がすっ飛んできて土下座して謝罪するのを宥める方が大変だった。

「この度はまことに申し訳ございませぬ」

「まーまー、人間誰にでも失敗はあるって。今回の件で腹を斬る必要はないよ。それより失敗をどう挽回するかを考えてね」

「は、ははっー! 静子様のご寛恕に感謝いたします」

「(そんな泣くことかな)まだまだ寒い日が続くけど、体調に気をつけて職務に励んで下さい」

もう一度深々と頭を下げた後、警備衆たちは立ち去った。刺客よりも警備衆の対応に疲れた静子は小さく息を吐く。

「石での援護はありがたかった。けど、まさかここにいるとは思わなかったよ」

額に手を当てながら静子は、刺客に石を投げた人物である慶次、それと京で出逢った年下の少年の方へ向く。

「たまたまだよ。というか石投げはこいつの方が早かったから、礼ならこいつに言ってやってくれ」

「俺は大した事してないさ。それに前、京で世話になったしな」

にかっと笑いながら慶次は親指で年下の少年を指さす。少年も負けじと陽気な笑みを浮かべていた。
二人の仲が妙に良い事に静子は首を傾げる。聞けば花街で出逢って意気投合、そのまま一緒に騒いでいたとの事だ。少し嫌な予感がした時、静子の肩にポンッと手を乗せる人がいた。
振り返るとにっこりと人の良い笑みを浮かべた琴がいた。

「静子様、その二人のツケ、払って頂けますか」

彼女は左手の親指と人差し指で輪っかを作りつつ言った。勢いよく慶次の方へ振り返ると、二人とも静子に両手を合わせて拝んでいた。

「……お幾らですか」

こんな事で馬廻衆が引っ張られて牢屋に放り込まれては恥だ、と考えた静子は代金を立て替える事にした。琴はにっこり笑って請求する金額を提示する。

「……幾ら遊んだらそれだけの値段になるのよ」

「お二人ともそれはそれは楽しそうにはしゃいでおられましたので、最上級のもてなしを供さないのは我々にとって恥でございます」

「ハメたね」

「静子様の仰る意味が分かりかねます」

半眼で睨んだ静子の言葉を、琴は悠々といなす。これ以上、押し問答をしても無意味だと判断した静子は、重いため息を吐きつつ財布を取り出す。

「はい」

「毎度ありがとうございます。またのご利用をお待ちしております」

「こんな事は二度とご免です」

静子の愚痴にクスリと笑った後、琴は静子の耳に口を寄せる。

「(お気をつけ下さい。童子は上杉家の近習である与六でございます。何が目的かはまだ掴めておりませぬ)」

それだけ伝えると琴は何事もなかったかのように立ち去った。少年の思わぬ素性に頭が痛くなったが、今それを言えばさらなる混乱が発生すると思い静子は口を閉じた。

「やれやれ、二人とも出世払いでよろしく。それじゃあ帰るよ」

「あいや、待たれよ」

全員を連れて家に帰ろうとしたが、それを少年、後の直江兼続である与六が引き止める。嫌な予感がしたが、今の状態で彼の言葉を無視するのは無理があったため足を止めた。

「嫌な予感がするけど、一応話だけ聞こうじゃない」

「先ほどで路銀が尽きた。雪で実家に帰れぬゆえ、暫く厄介になりたい」

「キミは何を言っているのかな。路銀がないなら働けば良いじゃない。その辺は住み込み労働ぐらい募集しているよ」

頭が痛くなった。例え彼が直江兼続でなくとも、簡単に住み込み労働をさせるわけにはいかない。だが彼を拒絶してその事が謙信へ伝わり、悪印象を持たれてしまったら大問題だ。
信長が謙信と信玄に対して直接対決を避け、懐柔する政策を常にとっているからだ。自分がその政策をぶち壊しにする訳にはいかない。難しく考えすぎた静子は唸りながら更に考える。

「静っちの所じゃなくて、俺の所へ暫く泊まりな。それなら問題ないだろう?」

悩んでいる静子に慶次が助け船を出す。慶次は小さな庵に寝泊まりしている。そこから静子の邸宅に移動するには、必ず人の目がつく。
全員に話を通して混乱を招くより、スキの一つを作っておいて慶次にだけ話を通しておく方が効率的だと静子は結論づけた。

「……じゃあそれで。ちゃんと『対応』できたら、さっき貸した金子はなしにしてあげる。失敗すると倍にするけどね」

「おっしゃ! 童子、ちと狭いが俺の庵で寝泊まりしろ」

「世話になるのだから場所に文句をつけるような真似はせん。雪が溶ける頃まで厄介になるぞ」

二人は固い握手を交わす。莫逆の友と言わんばかりに仲良くなった二人だが、静子には頭が痛くなる話だ。

「おっと、忘れていた。俺の名前は与六、上杉家の近習だ。これから宜しくな、はっはっはっはっ!」

これからどう話を進めるか計画を立てていた静子だが、兼続の一言で土台から木っ端微塵に粉砕された。
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