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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀二年 比叡山延暦寺

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千五百七十一年 三月上旬

暖かい空気が流れていることで、暖を取りに動物たちが集まっていることは静子も知っていた。
そのことを知った慶次がまず部屋に入り浸り、続いて長可が入り浸り、次に才蔵、奇妙丸と爺と、あっという間に男たちは部屋に集結した。
今では慶次が何かの翻訳をする、才蔵と爺が将棋を指す、奇妙丸が昼寝をする、長可が外でストレッチや筋トレをするなど、各自好き勝手していた。

「寒いのだから仕方ない」

うつぶせに寝転がっている奇妙丸が静子の言葉に反応する。
表情を引き締めて真剣な顔で答えた奇妙丸だが、背中にターキッシュアンゴラが乗っているせいで果てしなく格好がついていなかった。

「それにしても、このびにいる(・・・・)とやらはどういう代物じゃ? 雨も風も通さぬというのに陽の光は遮らぬ摩訶不思議な造りをしておる」

「名残でビニールハウスって言っちゃったけど、正確にはビニールじゃないんだよね。ちょっと待ってね」

そう言うと静子は温室に引き返す。少しして温室から出てきた彼女は、琥珀色の四角い塊を奇妙丸の前に置いた。

「これが素材だよ」

「なんだ、これは。似ても似つかぬ妙な物を出しおって、俺をからかっているのか」

「そうじゃなくてね。これを熱して薄く引き伸ばすと、外にあるような透明な薄い膜状になるんだよ」

ビニールとはビニル基を持つ化学物質の総称であるが、静子が取り出したそれは所謂いわゆる飴サブと呼ばれる物であった。
菜種油に塩化硫黄を加えることで製造できるファクチスの一種である。
一般にビニールハウスなどに使用されるポリ塩化ビニルとは異なり、ゴムに近い性質を持つ物質だが安価で量産が効く。
ビニールほどの重量あたりの引っ張り強度を持たない欠点はあるものの、シート状にしてハウスの被覆にするには申し分ない性能を備えていた。

ガラスを利用した温室にしなかった理由は、台風や地震に耐えられるガラスハウスの建築ができないこと、板ガラスを一枚製造する時間とコストが馬鹿にならないからだ。
ガラスの主成分はケイ素、つまり鉱物であり見た目よりもずっと重量がある。
このため木材や竹材の支柱では重量を支えきれない。また破損した際の取り換えも危険が多く候補には挙がれど採用には至らなかった。

歴史を揺るがす技術の開陳がいとも容易く行われている横では、長可が猫じゃらしで子猫たちと戯れていた。
子猫たちは長可の猫じゃらしに夢中だった。二か月以上経ったことで、子猫は自立の準備に入ったのであろう。
兄弟とじゃれあったり、長可の猫じゃらしに夢中になったりで、母猫のハナの元にいる子猫は一匹もいなかった。

「良かったねー、遊んでくれる人がいて」

そんなことを言いつつ、遊びに飽きた子猫の背中をなでていると、今まで子猫と戯れていた長可が反応した。

「お、俺はただ猫の反応から戦場勘を養っているだけだ。か、かかか勘違いするなよ! 男たるもの猫ごときに懐柔されるー」

「はいはい、そうですねー。勝蔵お兄ちゃんは、暇があれば朝から晩まで遊んでくれるものねー」

「聞けやこらぁ!」

顔を真赤にして反論する長可の言葉を、静子は右から左に聞き流す。なおも言葉を口にしようとしたが、子猫が遊んでくれと鳴き出したのを聞いて、慌てて猫じゃらしを子猫の前に振った。

「かわいがるのは良いけどさ。ターキッシュアンゴラは単独飼いしないといけないから、もうちょっとしたら4匹とも去勢して譲渡するのだけど……?」

言葉の意味を理解した瞬間、長可はこの世の終わりみたいな顔で燃え尽きた。生後一か月あたりで話をしたはずだが、と思った静子だが、彼の態度を見るに聞いていなかったことを理解する。
しかし、すでに信長が譲渡する相手を決定しており、もはや長可が何を言っても手遅れだ。
今までのかわいがりを思い返せば長可が若干哀れにも思えたが、こればかりは仕方ないと諦め、静子は部屋に戻って書類の整理を行う。

いろいろと書類はあるが、時期的にターキッシュアンゴラたちの去勢手術に関する内容が多い。
ターキッシュアンゴラに限らず、猫の去勢手術をする理由はいくつかあるが、一番の理由は無用な繁殖を防ぐことだ。
余り知られていないことだが猫は年に3回の出産が可能であり、1回の出産につき4匹から6匹を産める高い繁殖能力を持っている。
その気になれば一年につき最低12匹産むことができる。さらに猫の発情期は生後六か月ほどで来るため、仮に四年生きたとすれば一組のつがいにつき50匹産み落とすことができる。
無論、厳しい自然環境では大半の子猫が病気やけがなど、さまざまな理由で命を落とす。

繁殖能力や発情期の時期は品種によるものの、どの品種も高い繁殖能力を持っている。
増え続ける猫を飼育できる財力など、今の日本では誰も持ち合わせていない。飼育の限界を超えれば待っているのは良くて捨てられることで、最悪の場合は餌にされてしまう。
生まれてすぐに捨てられることと、生殖能力を奪うことのどちらが良いか賛否両論はあるものの、静子としては日本猫の混血化と、知らない間に繁殖されるのを防ぐことを考え、去勢することにした。

しかし一口に去勢と言ってもそれらを行う技術がない。また麻酔などの医療道具もない。
幸いかどうか不明だが、戦国時代は猫を食べる習慣があり、何度も解体した人間はそれなりにいた。
動物学的に猫の構造を理解しているわけではないが、去勢手術に関しては問題なかった。

やはり問題になったのは麻酔だった。戦国時代に用意できる麻酔はジエチルエーテルしかないが、このジエチルエーテルを精製するにもエタノールに硫酸を混ぜて加熱する必要がある。
エタノールの入手は容易だが、問題になった化学薬品は硫酸だ。詳しくは控えるが熱した硫黄と硝酸カリウム(硝石)で硫酸は精製できる。
硫酸があれば硝酸、塩酸が精製できるが、現状工業生産は不可能で少量しか生産できない。

ともあれジエチルエーテルを少量だが生産可能となった。
ただしこの精製技術、少し応用すればダイナマイトの作成に使えること、どの化学薬品も現代で言うところの劇物指定であるため厳しい管理が必要だった。
ゆえに猫の去勢手術が行える人間は、織田領土内にたった二人しかいなかった。

「成績は良いのだけど、あの二人すごく仲が悪いのよね」

二人ともすでに数百匹の猫の去勢手術を行っている。無論、失敗して猫が死んだこともある。
現代でも去勢手術は失敗する可能性があるのだから、それより環境が悪い戦国時代で、八割近くの成功率を維持できているのだから、良い腕前と言えた。

「ねぇどっちに任せれば良いと思う?」

横で丸くなって寝ているハナをなでながら尋ねる。当然ながら返事は返ってこない。
静子は最近の二人が行った避妊手術の結果報告書を読みながらため息を吐く。

「腕は悪くないのだけれど……猫ばかなのよね、この二人」

静子が悩む理由、それは二人とも大の猫好きな点だ。二人とも重度の愛猫家であることと、自身の妻と母親に頭が上がらない点がそっくりだった。
同族嫌悪からか二人は顔を合わせればいさかいを起こし、二人そろって家からたたきだされては近所の人に仲裁を頼むことを繰り返していた。
そのおかげで『腕の良い猫医者の二人』ではなく『猫ばかの二人』としてご近所では有名人だった。
もちろん近所の人たちも猫に詳しい人として尊敬はしているものの、どうしても寒空の下で震えながら仲裁を懇願してくる姿の方が印象に強く、いまひとつ偉い人に見えなかった。

「最悪の場合は黒印状を出すしかないね。ふぁーーー、今日は陽も温かいし、このまま昼寝としゃれこむかな」

部屋に差し込む陽光が冬にしては温かく、静子は軽い眠気を覚えた。木綿毛布の暖かさも相まって、船をこぎ始めた静子は周囲を手早く片付けると、その辺りの床に寝転がって眼を閉じた。

(あぁ……春の布団もあらがいがたいけど……冬の昼寝も……悪くないな)

やってきた優しい眠気に身を任せた静子は、そのまま意識を手放した。






一月早々、信長は横山城にいた秀吉に京と北陸を結ぶ一切の交通遮断を秀吉に命じ、和佐山城に丹羽を入れ岐阜と南近江の交通を確保するなど、新年から目まぐるしく動いていた。
各武将たちも活発的に活動し、さまざまな任務についていたが静子軍だけは平和そのものだった。

二月下旬、欧州からホップが届けられると、静子はすぐさま栽培に着手する。
事前に日照条件の良い土地に苦土石灰を混ぜ込み、水はけのよい石灰質の用土にした土地へ植え付けを行うと、つるを絡めるための支柱を立てる。
最後に手動式加圧ポンプで木酢液を散布すれば、一通りの作業は終了だ。
耐寒性の強いホップは日本の冬も越えられるため、難なく屋外栽培ができる。後は四年後にホップを収穫すればビールの原材料で一番重要なものが手に入る。
ビール酵母菌も欲しいところだが、ホップがなければ酵母菌を持っていても宝の持ち腐れだ。

ヴィットマンたちと鹿狩りをしたり、シロガネでタカ狩りをしたりと、静子軍は自由気ままに生活していた。しかし嵐というものは突然やってくるもので、平穏な静子の元に騒動が舞い降りた。

「……ええと、もう一回お願いします」

わが耳を疑った静子は、混乱しつつも対面にいるまつへ質問する。対して彼女はにこやかな笑みを崩さず、静子のお願いに嫌な顔ひとつせず質問に答えた。

「妾の子を静子の侍女にする、という織田様のご下命ゆえ諦めてください」

言葉の内容とは裏腹にまつは非常に楽しそうな表情をしていた。まつの次女・(しょう姫を侍女とする、というとんでもない朱印状に静子は頭が痛くなった。
しかし朱印状はそれだけでは終わらなかった。さらに静子が頭を痛める内容が記載されていた。

「ええと、茶々様も侍女? 浅井家に仕えていた藤堂与吉を与える? 長島一向一揆衆を攻めるとき、兵力を六千与えるゆえ別動隊として存分に働け? 何だかいろいろと一気に来て頭が痛いよ」

「ほほほっ、織田様は静子にそれだけご期待を寄せておられるということじゃ。ゆえに愚女が無礼を働けば、存分に罰をお与え下され」

「はぁ、あの、ですね……侍女を与えられても、その……どうすれば?」

「静子の好きなようにすれば良い。最も、茶々殿を侍女にしたのは、濃姫様に何か考えあってのことと思われる。妾ごとき凡人では濃姫様の思惑など、推し量れもせぬがな」

まつの言葉を聞いて静子は信長と濃姫の考えを推測する。
前田利家とまつの娘である蕭は、中川光重の正室だ。いつ結婚したかは不明だが、信長と信忠が本能寺の変で横死した後、蕭をめとっていた縁で利家に仕えたことから、少なくとも1582年までに婚姻したことは確実だ。
(しょうが生まれた年が1563年から考えると、そろそろ婚姻して室に入る年齢と考えられる。
それが急きょ、侍女として採用された理由が分からなかった。

(浅井家に仕えていた藤堂与吉って、藤堂(とうどう) 高虎たかとらだよね。才蔵さんと同じく何度も主君を変えたけど、なぜかこの人って変節漢呼ばわりされているのよね)

高虎は何人も主君を変えた変節漢、または走狗と言われ、小説などで否定的な描写がされることが多い。
しかし同じように主君を何度も転々としている可児才蔵は、儒教の教えが武士に浸透した江戸時代でも人気が高かった。

この差ができた理由は、幕末期の幕府軍と官軍の戦いの中で、藤堂氏率いる津藩が取った行動に原因の一端があると言われている。
津藩は最初、彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府側が劣勢と知るやいなや官軍に寝返り、幕府側へ攻撃を仕掛けた。
だが官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」という理由で拒否した。この寝返り行動が高虎の悪評を決定付けてしまったと言われている。

「ま、まぁ深く考えても仕方ないか。まずは自己紹介と行こうか。ええと、私の名前は静子、好きなように呼んで良いよ」

静子が話しかけると今まで沈黙を守っていた(しょうが目を見開く。そして間を置かず両手を床につき、頭を床につくほど下げた。

「お初にお目にかかります、静子様! 妾の名は(しょうと申します! お仕えする栄誉を賜り恐悦至極に存じます!」

「あ、うん。よろしくね……えっと、頭を上げて良いよ?」

「はっ! では失礼いたします!」

(しょうは一挙一動が元気の良い子だった。男勝りな娘とはこういう子を言うのか、と静子は現実逃避しつつ、まつの方へ視線だけ向ける。

「ほほほっ、この子は静子の活躍を聞いて以来、そなたに憧れてのぅ。そんなとき、静子に侍女をつける話を耳にしたので面白……ちょうど良いと思っての」

「今、面白いとか仰いませんでしたか」

「本日の昼餉は何じゃ。妾は少々楽しみにしておるのだが」

静子の指摘にあからさまな態度でとぼけるまつだった。再度指摘しても答えないと理解した静子は、肩を落として盛大なため息を吐いた。

「ひとまず茶々様と藤堂氏の話を聞いてからですね」

「律義じゃのぅ、静子は」

「こう言っては失礼ですが、私は必要な人間は自分で集める考えなのです。押し付けられた人間が、内部で不和を起こして足手まといになる事例は枚挙にいとまがないですからね。だから各自の考えを確認しておかないと、後々困ることになるのですよ」

ある程度の武功を上げた以上、静子は多くの家臣を抱えて必要以上の武功を上げる気は全くなかった。ゆえに下手に若い武士を送り込まれても、どう扱えば良いか困るのもあった。

「まずは話が早い茶々様からだね。お市様も呼んできてくれるかしら」

「はい、わかーー」

「拝命いたしました! すぐにお伝えして参ります!」

彩にお市、茶々、そして侍女と乳母を呼んでもらおうと頼んだが、彼女が反応するより先、(しょうが勢いよく立ち上がると、周りの反応を無視して部屋から飛び出していった。
静子と彩があっけにとられていると、まつが口元を手で隠しながら楽しそうに言った。

「あの娘は一直線ですから」






しばらくして(しょうはお市、茶々、初、お市の侍女、茶々の乳母、初の乳母を連れてきた。
人と会うことも考慮した広い部屋とはいえ、さすがに10人以上が一堂に会すると狭苦しく感じてしまうのは否めない。

「会うのは二度目ですが、まずは自己紹介と行きましょう。私の名前は静子、好きなようにお呼び頂いて構いません」

「妾は於市(おいちじゃ。こっちが茶々、あちらが初じゃ」

後ろが控えていることも考え、自己紹介が終わった静子はすぐさま本題を切り出す。

「早速で申し訳ありませんが、お市様。今回のことで何か思うところはございませんか」

「兄上が決めたことであろう。ならば、妾に異論などありはせん。それにもともと、清洲城に住む予定じゃったからの」

「(あら、夫と離れ離れについて、何も思わないのかな)失礼とは存じますが、ここは一種の防衛施設です。よって、今後はそう簡単に浅井様と会うことはできなくなりますが、その点はご理解いただけていると考えてよろしいでしょうか」

「構わぬ。それにふ抜けた夫に活を入れるため、妾はここへ来たのじゃ」

続けてお市は静子に浅井長政の現状を話した。今は一兵卒からやり直していることを。無論、実は静子の部隊にいることは伏せている。

当初は清洲城に住まわせる予定だったが、途中から計画を変更してお市たちを静子のところに住まわせようと考えた。
しかし理由なく静子のところに住まわせれば不満が出る。それを回避するため、信長は茶々を静子の侍女とさせ、将来的に初も侍女とする話にして、全員の引っ越しを行った。
全員が引っ越す理由は、茶々がまだ一歳と少しだからだ。初に至っては生後数ヶ月であるため、教育をするお市たちが一緒に住むとの寸法だ。

「相変わらずややこしいことをされますね、お館様は。まぁそれなら問題無いです」

「いろいろと迷惑をかけると思うが、よろしく頼むぞ」

「はい、よろしくお願いいたします」

彼女たちの屋敷ができるまで、信長が使っている別荘が仮御所となる。つまりお市と彼女の娘たちは静子にとってご近所さんになるということだ。
普通なら大したことはないが、この場所に住むにはいろいろと教えなければならないことがある。

「後にお伝えしますが、この周辺は少々ほかと異なりまして……いろいろと学んでいただく必要があります」

「それも兄上から聞いておる。何でも珍しい獣が多いと聞く。おお、そうじゃ、確か南蛮犬や南蛮猫もいるのであろう。妾は少し興味がある、はよう見たいぞ」

「(ああ、うん……やっぱりお館様と兄弟なだけはあるね。有無を言わせない感じがするよ)少々お待ちください。後一人、話を聞く人物がー」

子どものように目を輝かせるお市を諭しているとき、突然荒々しい足音が静子の耳に届く。その足音がこちらへ徐々に近づいていることを理解した全員が、入り口の方へ顔を向ける。
瞬間、扉が破壊される勢いで開け放たれた。

「おい、静子! このあほうは誰だ!」

入り口を勢いよく開けたのは長可だった。彼は片手に抱えている人物を静子に見せつつ食って掛かる。
立て続けに頭痛の種が舞い込んできたことで、静子の普段は切れない何かがプツリと切れた。

「はい、勝蔵君。抱えている人をそこに置いて、こっちに来る」

普段よりいくぶんトーンが落ちた静子の声に、思わず腰が引けた長可はおとなしく抱えていた人物を下ろし、静子の前に座る。

「まずは見知らぬ人間に暴力を振るった理由を聞こうかな?」

「う……えとだな、俺がタマやハナに餌を与えると、あのあほうが急に絡みだしたのだよ」

「そっかー、うん。それは返り討ちにされても仕方ないね。でもねー、問答無用で客人を私刑にするのは問題でね」

そう言いつつ静子は砂時計を取り出す。およそ五分で砂が落ちきるそれを長可に見せつつ、静子は彼に告げた。

「罰としてこの砂が落ちきる前に、果樹園の看板まで往復三周ね」

「ぐえっ、果樹園って坂の上にあるあそこかよ!」

果樹園は樹木が太陽を浴びやすくするために、斜面に土地を整形している。決して急な坂ではないが、楽な坂でもない。
通常なら多少疲れる程度だが、走りこむとなれば坂の上り下りで体力を著しく消耗する。
今の長可なら一周だけなら五分以内に帰ってこられる。だが三週ともなれば、最後の周はもはや気力との勝負だ。

「うん、そうだよ。何か問題があるかな? うちの訓練はー」

「『できない子はできるまで徹底的にやりましょう』。『できない子ができたら褒めた後、さらに練度を上げて訓練をさせましょう』。『最初からできる子はできないと言うまで、練度を上げ続けて訓練をさせましょう』……ですよね」

途中から敬語に変わった長可だが、それで静子が許すはずもなく彼女はさらに言葉を続ける。

「さすがに客人へ暴力を振るったことは、そのまま流すわけにはいかないのよ。じゃ、砂時計の往復が終わるまでに八周頑張ってね」

(増えた!)

「それじゃ3,2,1……はい、開始」

「ちょ、おま……う、うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

何か言いかけた長可だが静子が聞く耳を持っていないと知るやいなや、大慌てで飛び出していった。
静子を除く全員が飛び出していった長可をあっけにとられ見送る中、彼女はいつもと変わらぬ表情で彩を呼び出してこう言った。

「彼の治療をよろしくね」

その後、九分五十五秒で見事八周し終えた長可だが、彼の膝はしばらく笑っていた。

昼餉を取り終えるとまつは(しょうを残して帰宅し、お市たちも茶々や初たちと共に信長の別荘へ帰った。静子の家に残ったのは(しょうと高虎の二人だけだ。

「あらためて自己紹介と参りましょう。私の名前は静子、周りは好き勝手に呼んでいるし、私も気にしないから適当に呼んで良いよ」

「……自分の名は藤堂与吉につかまつる」

「いろいろと思うところがあるでしょうが、まずは必要な話をしておきましょう。うちの俸禄ほうろくは知行地ではなく金子になっています。平時は一か月ごとに基本給料を支給し、合戦時は働きしだいで俸禄の金子が与えられる形式だよ。ちなみに私は俸禄の知行地を一つも持っていないからね」

信長の土地に対する考えはほかの国人たちと違い、織田家が支配する土地はすべて織田家のものであり、家臣に与える土地は一時的に織田家代理の管理人をさせているとの考えだ。
現代で言えば家臣は「支店長」的な配置であり、土地とその土地で生産されるものはすべて織田家のものだ。
また生産されたものは一度織田家にすべて集まり、そこから家臣たちにぜいたくをさせるためのものを配布していた。
当然、支店長は転勤(管理する土地の変更)が頻発したことは言うまでもない。この土地に対する考えの違いで、明智光秀が本能寺の変を起こしたとも言われている。

「次にうちで生産しているものは、すべてお館様のものだから勝手にとるのは禁止。次、倉に保管されているものの目録は彩ちゃんが管理しているので、欲しいものがあればまず倉の目録を確認して頂戴」

「はい」

「最後に後で紹介するけど、うちにいる動物たちは手荒な子が多いから、下手にけんかを売らない方が身のためだよ」

「はい」

「ほかにも細かいところはあるけど、今はこれぐらいで良いかな。ここまでで、与吉君は何か思うところはあったかな。嫌なら今の内に言ってね。それでここでの待遇が変わることはないけれど、次の士官先を紹介するぐらいはするよ」

静子の言葉を聞いて高虎は少し考えた後、まっすぐ静子に向かい言葉を口にした。

「では、今自分が思うことを正直に述べさせていただきます。まずここへ来る前は正直、女の率いる部隊など大したことない、と侮っておりました。その隊にいる武将も女に媚びへつらう女々しいやからと侮っておりましたゆえ、勝蔵殿にけんかを仕掛けました。結果は見事に返り討ちで、手も足も出ませんでした」

「……」

「そのことで自分は思い知らされました。自分は所詮井の中のかわず、世には自分より強い人間は無数にいることを。此度の敗北は、浅井様から感謝されたことで有頂天になっていた自分にはちょうど良い薬でした」

そこまで語った後、高虎は深々と頭を下げてから言葉を続ける。

「こんな未熟な自分ですが、これからもご指導ご鞭撻の程よろしくお願いいたします」

「うん、君の覚悟は受け取ったよ。これからよろしくね」

「はい、よろしくお願いいたします」

言葉と共に、高虎はもう一度頭を深々と下げた。






静子軍に藤堂高虎が加わり、静子にまつの次女・(しょうとお市の長女・茶々が侍女として与えられた。しかし茶々が侍女になることは、静子のところにお市を住まわせるための口実だった。
静子自身も侍女が欲しかったわけではないので、茶々が侍女の仕事をしていなくても問題なかった。

高虎は基礎訓練を長可から、槍などの武芸と礼儀作法を才蔵、二人の補佐として慶次が鍛え上げていた。己の未熟を悟った彼は、三人の厳しい訓練にも耐え抜いた。
後に黒田孝高、加藤清正と並ぶ築城能力の名人であることを知っている静子は、高虎に築城に必要な知識を教えたり、黒鍬衆たちから学ばせたりもした。
信長が静子に譲ったことで、高虎は小姓程度の立場ではあるが実際は兵卒扱いだった。それでも特別な訓練を受けているだけほかよりは良い待遇だ。

(しょうは元気が良い娘だったが、同時に負けず嫌いな娘でもあった。薙刀を得意とするが槍を持った才蔵に手足も出ず敗北して以来、彼に勝つ為の訓練をしていた。
たまに侍女の仕事を忘れて才蔵に勝負を挑んでいるが、いまだに一勝もできず全敗であった。

三月に入ると静子が依頼した品々が次々と届く。消費者である武士と違って生産者も兼任している静子は、生産したものが売れれば利益が得られる。
陶磁器など工芸品は季節を問わないが、農作物は秋から冬にかけて集中している。
海産物の牡蠣や海苔、春から夏にかけて収穫する農作物もあるが、基本は秋に収穫する作物の収益が最も多い。

農家から直接作物を買い、それを加工業者に回して加工させ、運送業者に指定の場所へ運ばせる。
別ルートで運送業者にゴミやふん尿を回収させ、それらを堆肥製造工場に運ばせ、ゴミを堆肥にする。できあがった堆肥は、百姓たちに低価格で販売される。
これらを静子は総括しており、莫大な利益を上げていた。

無論、農家も城下町に出掛けることなく金子が入り、加工業者や運搬業者は定期的に収入が入り、加工品を利用する人間はゴミやふん尿を片付けなくて良い。
静子一人が利益を得ているのではなく、かかわっている者たち全員が利を得ている状態だ。

さまざまなことで得た利益で、静子は技術街に発注をかける。収入を得ることは大事だが、過剰に得た収入を放出することも忘れてはならない、と静子は考えている。
技術は一朝一夕で身につくものではない。文化は一日で花開くものではない。技術を進歩させ、文化を開花させるには人々が切磋琢磨せっさたくまする必要がある。
しかし戦国時代でも現代でも、人を動かすためには銭がなければ始まらない。銭があって初めて計画を立案し、実行できる。

その点で言えば静子の立場は非常に良い。もともと生産者であり、現在では生産者と経営者の立場を兼任している。
農作物に限らず加工食品、糸や布などの織物品、海産物の牡蠣や海苔、わかめなどの養殖品、技術街や酒造街から出てくる酒や工業品など、年がら年中何らかの利益を得ている。
もはや信長から給料をもらう立場ではなく、自分で金を集められる立場が今の静子だ。通常、このような一人勝ち状態になれば周囲のやっかみを受けることになる。
しかし、静子が業種を増やし、多様な品々で経済を活性化すれば、それに比例して織田家の経済状況も右肩上がりする。
信長の懐具合が潤えば、彼が家臣たちにぜいたくをさせるために使われる金額も跳ね上がる。
この流れを理解している家臣たちは、静子を蹴落とせば巡り巡って自分たちの首を絞めると考えている。
だから静子がやっかみを受けないように守り、余計な騒動に巻き込まれないよう注視している。

潤うのは何も信長や織田家家臣だけではない。静子は潤沢な利益を慶次や才蔵、長可に分配するだけでなく、抱えている兵士たちにも利益分配を行っている。
その他にも角力大会や尾張・美濃川柳大会、数独大会、面積迷路大会、囲碁・将棋大会など各種イベントを企画、上位者への報奨金も出している。
金を持つ人間が増え、それに伴い需要が増え、さまざまな人間に金が行き渡る。金が人々に行き渡ると不思議なことに争い事が起きにくくなる。これは人々に「余裕」が生まれるためだ。

ほかにも金をあちこちに行き渡らせるのには理由がある。
人は快適な環境をひとたび知ると、以前の生活に戻されるのを毛嫌いする。不便を甘受して生活するのは、それより楽な生活ができることを知らないときだけだ。
金子で快適な生活環境を得て、その生活にどっぷりと浸かれば二度と抜けだせられない。こうなると寺社勢力は人々を扇動することが難しくなる。
今の生活を捨てて信長に反抗しろ、と言われても生活を捨ててまでやるべきか迷いが生まれる。
人を操るには明日に期待を持てない人間の方が都合良い。先の生活が真っ暗だから生臭坊主の言葉にだまされ、良いようにこき使われる。
民をほかの勢力の工作から守るためには一定の生活を保障し、ほかの勢力の言葉を聞き入れてもメリットはないと思わせることが肝要だ。

しかし、大金が動く関係で静子の元に届く経理書類は膨大だった。
ようやく算盤が扱えるようになった彩は、毎日この手の書類と格闘していた。そのため、ここ最近は蕭が静子の世話をしていた。

「蕭ちゃん、今日の予定は何だっけ?」

「はっ、本日の来訪者はございません。届けられた文はすべて精査済みでございます」

蕭の報告を聞いた静子は腕を組んで考える。馬上だが静子は足だけで馬をある程度コントロール可能ゆえ、手綱を手放しても問題ない。

(うーん、彩ちゃんを事務・経理担当、蕭ちゃんを身の回りやスケジュール管理担当に分けたけど、まだどっかぎこちないかな)

茶々や初はまだ赤子ゆえ仕事を回せないが、蕭は一通りの教養を受けているので侍女として申し分ないと静子は考えた。
しかし、同じことを二人で行わせるのは効率が悪く、別々の役目を振り分けた。
今は共同で作業を行うことはあるものの、将来的には彩が事務・経理・倉担当、蕭が静子の身の回り、スケジュールの管理担当になる。
彩の方が裏方に徹することになるが、これは静子が彩の方を信用しているからだ。いくらまつの娘でも、大して付き合いのなかった蕭を裏方に回すのに静子はためらった。

特に予定がないことだが、静子はふらふらと外を歩き回る。遊んでいるように見えるが、最近身の回りにいる間者がうるさく、それらに対する策のため出歩いている。

志賀の陣で織田家が負けて以降、幾人もの裏切り者が出たが、その中の誰かが静子の情報を売ったようで、間者の数が例年より増加してしまった。
数百人の衛兵と慶次、才蔵、長可、そしてヴィットマンファミリー、アカガネ、クロガネ、シロガネが頑張ってはいるものの、やはり間者の数が多くなかなか根絶できない。

ところで静子が管理する山は、ツキノワグマが多数住み着いている。ツキノワグマはほかの個体を排除する固定の縄張りを持たない。それゆえ、個体同士の行動圏が大きく重なり合うこともある。
そして固定の縄張りを持たないので、食料が不足すると豊かな土地を求めて行動圏を広げる習性がある。
人が住み着いていない、ツキノワグマ以外に餌を取り合う相手がいない、大型の肉食動物が住み着いていない、とくれば山がツキノワグマの天下になるのは自然の成り行きだ。
この関係で間者が入りにくい山になっているが、冬はほとんどの個体が冬眠状態に入るため、間者が忍び込みやすくなっている。

今では狩れば狩るほど増えるのが現状だ。そこで静子は自身が動き、適当にうそを混ぜて情報を意図的に流すことにした。
人を信用させるには真実を見せれば良い。例え肝心な部分をうそで固めていても、真実が含まれていれば、人は得た情報をすべて真実と考える。

「私を調べても無意味なのだけれどね。かといって邪魔されると仕事に支障出るし……面倒だねー」

周辺国はすでに詰んでいる状態だ。信長を唯一滅ぼせる機会は第一次織田包囲網、それも信長が京へ戻る前しかない。それ以降は消化試合にしかならない。
信長が朝倉義景有する敦賀港を欲しがるかと思っていたが、琵琶湖を中心とした水上輸送を早い段階から道路を主とした陸路輸送に切り替えたため、朝倉を急いで滅ぼす理由もなくなった。

(朝倉はいつか滅ぼすだろうけど、坂本よりは優先度が低いかな?)

陸路重視になった信長が次に欲する場所、それは京に近く、畿内有数の大商業都市の坂本だ。
坂本は天皇・将軍と並ぶ権力を持つ延暦寺の門前町だ。
全国にある延暦寺所有の荘園領地から届けられる産物や、京へ運ぶ物資が集まる坂本は、金融業者の土倉や運送業者の馬借が軒を並べていた。
戸数(こすう)下阪本しもさかもと唐崎(からさき)比叡辻(ひえいつじ)には3000軒を超えるほどで、京の経済を左右するほど力を持っていた。
秀吉が大阪城を築き、政治・経済の中心が京から大坂へ移るまで、坂本は近江支配の重要な拠点だ。

「殿ぉー!」

これからのことを考えていると、玄朗が走りながらこちらに向かってきているのが目に入った。
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