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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀元年 第一次織田包囲網

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千五百七十年 十二月下旬

年の瀬が迫り寒さが一段と厳しくなるころ、前久のもとを意外な人物が訪ねてきた。

「まずは無粋なやからを下がらせては貰えまいか。風流を解さぬ無骨者には外で待って貰ってくれ。ここには武器一つ置いては居らぬ、無手の私に後れを取る貴殿ではなかろう」

予想外の珍客に驚いた前久だが、にこやかに毒を吐く。訪問客は痛烈な皮肉を介することなくニヤリと笑みを浮かべると周囲の者を下がらせた。

「随分と急で、そして突然の訪問だな、越後の龍殿」

「ふぁっふぁっふぁっ、わしが雲水の格好をして出歩くなど、誰も思わぬからな」

悪戯が成功した子供のように笑いながら、越後の龍、上杉謙信が前久の質問に答える。
彼の思惑どおり、謙信が岐阜にいる前久を訪ねるなど、誰も予想できなかった。武田の忍びたちも、謙信は春日山城にいると信じて疑わなかった。

「今宵は良き月じゃ。ひとつ庭を肴に月見としゃれ込まぬか」

「……良かろう。だが今の私は織田家に身を寄せている。そのこと、ゆめゆめお忘れなきよう」

謙信に警告した後、前久は彼を縁側に案内する。十二月下旬と言えば冬の真っ只中だが、謙信は岐阜すら凌ぐ酷寒の越後生まれであり、この程度の寒さには慣れていた。
しかし前久には少し肌寒いと感じたので、絹糸を二重に編み込んだ角袖コートを羽織る。

「今宵は冷える。最初からかんにさせてもらう」

「燗?」

聞き慣れぬ言葉に謙信は眉をひそめる。しかし、前久は彼の疑問に答えず小間使いに熱燗あつかんの用意を命じる。しばらくして小間使いが燗酒かんざけ、そして肴を載せた皿を運んできた。
とっくりの一つを手に取ると、前久は杯に酒を注いで謙信に差し出す。多少戸惑った謙信だが、前久から杯を受け取り視線を落とす。
底に青の蛇の目模様が描かれている以外は白地の杯だ。白地の部分で色を見、藍色と白地の境目で透明度を見る。
月光りの反射で青くきらめく熱燗に謙信はしばし見とれる。やがて、不敵な笑みを浮かべると前久と杯を交わす。

「まずはわれらの再会に」

「ああ、われらの再会に」

互いの杯を傾けて酒を一気にあおる。慣れている前久はともかく、初めての燗酒かんざけの味に驚いた謙信だが、すぐに気持ちを持ち直して味を楽しむ。

「うまいな」

「そうであろう。これは織田家家臣でもなかなか手に入らぬ逸品。今日のような日に呑むのにふさわしい」

言いながら前久は庭へ顔を向ける。謙信も彼に倣いそちらに目をやる。
夜闇にくっきりと浮かぶ月、冴え冴えと照らし出される庭、耳をくすぐる葉擦れの音。
厳しくも美しい冬の景色がそこにはあった。冬特有の澄み渡る空気に浮かび上がる枯れた風情に、謙信は護衛を嫌った理由を悟る。
静かに、ただ無言で目の前の庭を眺めながら酒を呑むことが、とても贅沢なものだと謙信は思えた。そして、自分でも儚く美しい場所を土足で踏み荒らす無粋はすまいと考えた。

「何という儚い美。主が軒猿のきざるを嫌った理由が分かったわ」

「この庭は私の自信作だ。暑苦しい無骨者は無用」

庭を眺めながら前久は杯を傾ける。謙信も同じく杯を重ねる。
無言で庭を眺めながら酒を楽しんでいた2人だが、ふいに謙信が口を開く。

「わしが訪ねてきた理由を聞かぬのか」

「無理に尋ねて答えるのかね」

謙信の問いに前久は笑みを浮かべて答える。謙信が何を目的としているか、前久はほとんど興味がなかった。ただ、旧友と酒を酌み交わすだけで満足だった。
かつて朝廷と足利政権の権威復活の盟約を結び、武田と北条に野望を打ち砕かれて決別した2人だが、友情まで消えたわけではない。

「ふっ、このままでは単に肝を潰させるために訪れたと思われそうだ。そうだな……では単刀直入に尋ねよう。わしが訪ねた理由は、お主の娘が関係しておる」

「娘……? まさか……」

このとき初めて前久は仰天の表情を浮かべる。不敵な笑みを浮かべた謙信は、杯の酒を飲み干すと言葉を続ける。

「武田と合戦をしたときでも、これほど驚いたことはない。政に女子を使うなど、な。だから、みなだまされる。武田の忍びも、北条の忍びもまるで気付かない。そうであろう、はた目には織田か森家が行っているようにしか見えぬからな」

「……」

「わしとて彼女に会わねば、間者の報告を一笑に付したわ。だが、あの娘に会い、話を聞けば間者が馬鹿を申しているのではないと分かる」

そこで言葉を切り、杯の酒を飲み干すと謙信は一息吐く。

「国の基は民、われら武士は民から領地を安堵する代わりに収穫を拝借しているに過ぎぬ。それを理解しておるから、あの娘は民を栄えさせる。そして、自らの利も得て力を付ける。間者が目を回しておったぞ。あの娘が持つ力は120万石の国人に匹敵するとな」

「……私の許を訪れた理由は、まさか口利きをしてくれという戯れ言ではなかろうな。あの娘は近衛家の至宝。そう簡単に余所よそへはれぬ。それに、今は織田殿の下で存分に働かせておる。あの娘が厭わぬ限り、織田殿の許から引き離すことなどできぬ」

ややこしい話だ、と前久は心の中でうなった。武田や北条は織田家の軍事方面に注視している関係で、農業や漁業などにはなおざりのままである。
しかし、謙信は違う。彼は民の領地を預かっているのが武士と考えている。武田や北条と違い、静子の生産技術を重視していると考えて良い。

「待て。貴様……今日、訪ねた理由はまさか」

謙信の思惑を考えていた前久は、謙信が今日訪ねてきた理由は、単なる気まぐれではなく計算されていることに気付く。
答えにたどり着いた前久を、謙信はあくどい笑みを浮かべて告げた。

「なに、取って食おうとは思わぬ。ただ、もう一度話したいだけだ。そなたの娘、近衛 静子殿にな」






年末年始に備え、前久は静子から多種多様の商品を購入していた。それらの商品が届く日が、まさに謙信が訪問した翌日だ。
ときどき、信長が対応することはあるものの、基本的に前久の対応は静子が行う。
平時に商品を届けるだけなら静子自身は訪れないが、年末の関係から彼女はあいさつもかねて訪問することとなっていた。
謙信はその時流に合わせて織田家家臣でも上級武将でなければ会いづらい静子との会談の場を手に入れた。簡単に追い出せぬ以上、前久が胃を痛めるのも無理はない。

「静子様がお越しになりました」

「……通せ」

腹の中でうなりながら前久は、静子を案内するよう命じる。その横で謙信は楽しげな笑みを浮かべて、静子が来るのを待った。
彼が楽しそうにすればするほど、前久は胃の痛みが増したように感じた。

「(余計なことはするなよ)」

「(安心しろ)」

そう語る謙信だが、前久は謙信の表情を見て全く安心できなかった。確実に一悶着が起こる予感を抱いた前久は、重いものをはき出すようにため息を吐く。

「お待たせしました」

言葉と共に静かに入り口が開けられる。最初に厚着をした静子が、続いてカイザーとケーニッヒが部屋に入る。何の構えもなく巨大な獣を見たことに、謙信は思わず腰が引けた。
それが面白かったのか、前久はくすりと笑う。頭の理解が追いついた謙信は、頬を赤らめながら咳払いをしてごまかす。

「いや、すみません。この子たちが離れなくって……えっと、怖くないですよ?」

後頭部をかきながら静子は乾いた笑いをする。謙信は居住まいを正すと、あらためてカイザーとケーニッヒを見る。
見たこともないほど巨躯きょくだが、決して粗暴な感じはなく、神々しいまでの美しさがあると彼はおもった。

「気にしておらぬ。しかし、最初は驚いたが見れば見るほど端正な容姿だ」

静子は目の前の僧(謙信)の言葉に苦笑いを浮かべる。志賀の陣が終わって以降、ヴィットマンたちは静子の元を片時も離れない。
都合上、獣が立ち入れない場所ではおとなしく離れるものの、入り口でずっと待機している。特にカイザーは幼獣のころの甘え癖が復活し、四六時中べったり引っ付いてきた。
あちこち移動した関係で愛情不足を感じたのか、と静子は考え彼らの好きにさせることにした。

「すみません、近衛様。目録の確認なのですが……よろしいでしょうか?」

内容の確認と、部外者がいる状態でも問題ないかの二つの意味を込めて、静子は前久に尋ねる。彼は謙信を一瞥した後、重いため息を吐きつつうなずいた。
前久の態度に疑問を感じた静子だが、深く突っ込むと彼が困ると思い、それ以上質問を口にしなかった。静子は風呂敷から書類を取り出すと、内容を最終確認してから前久に手渡す。

「塩、砂糖、味噌、醤油、味醂、酒、緑茶、烏龍茶、紅茶、岐阜米、尾張米……とまぁかなりの量です。多少、台所が狭くなると思います」

「構わぬ。年始は知己を招いて宴会の予定だ。正月三が日を過ぎれば、半分も残るまい」

個人なら数ヶ月分生活できる量を数日で消費する。どれほど人を呼ぶのか少し気になったが、やぶをつついて蛇を出す必要もないと考え、静子はわき上がった疑問を飲み込んだ。
その後、荷物を確認したいと静子に告げると、前久は彼女の返答を待たず静子を連れ出す。素早い動きに謙信も呆気にとられたが、頭の理解が追いつくと小さく笑った。

「あのー、よろしいので?」

友人を部屋に放置したまま外に出たことに、静子は若干不安を感じた。しかし、前久は腕を組んでうなった後、彼女に背を向けて咳払いをする。

「良いか静子殿。私の第二の難題は、そなたを私の猶子にすることだ。だが、このことは織田殿との間しか話し合っておらぬ」

「え、あ、はい、え?」

とんでもない爆弾発言を耳にした静子だが、彼女がそれについて考える前に、前久は静子の方を振り返ると切羽詰まった表情をして言葉を続けた。

「それを、傾奇者よりたちが悪い大悪党は、どういうわけか知っておる。あの男のことだ。きっとよからぬことを企んでおる。ゆえに、ここはーー」

「そうつれない事を申すな」

会話の途中に横から声が飛んできた瞬間、前久が身を固める。しかし、声をかけた人物はさして気にする様子もなく、極めて自然な足取りで前久たちに近づく。

「失礼、わしは単に話がしたかっただけなのに、どうにも此奴こやつは心配性でな」

謙信は静子の前に立つと恭しく頭を下げた。いまだ状況を飲み込めない静子だが、条件反射的に頭を下げる。
何か言いたげな表情の前久だが、やがて嘆息すると縁側に腰を下ろす。

「不識庵殿。この娘は忙しい身ゆえ、あまり時間を取らせるわけにはいかぬ。手短に済ませてくれ」

対策をしても破られることを理解した前久は、謙信の望むことをさせつつ、一線を越えぬよう監視しつつ誘導した方が良いと結論付けた。
前久の思惑を察した謙信は、一度前久に礼と謝罪を込めて頭を下げると、あらためて静子の方へ身体を向ける。

「以前にも会ったが、あらためて名を名乗ろう。拙僧は不識庵と申す」

「静子、です。あの……そのお名前、と近衛様のご友人ということは……越後の龍、と呼ばれているお方でしょうか?」

越後の龍という言葉に謙信の表情がこわばる。以前は正体を見破るそぶりも見せなかった静子が、今回はすぐさま謙信の正体を看破した。
謙信は顔だけ前久の方へ向ける。彼は謙信の驚きがよほど楽しいのか、にやにやと笑っていた。再び静子の方へ顔を向けた謙信は、一つ咳払いをして言葉を口にする。

「仮にわしが越後の龍だとしたら、そなたはどうするのじゃ?」

「別に何もいたしません。ただ、岐阜にお忍びでお越しになるにしても今は雪が降る季節ですので、色々とご不便が多いのではと思いました」

静子の回答に謙信と前久は絶句した。越後の龍、聖将、軍神という渾名がつくように、上杉謙信は武田や北条と並ぶ名将だ。彼の首を欲しがる人間は星の数ほどいる。
その謙信を殺れる千載一遇の機会を前に、首を取る野心が一つも感じられず、逆に彼の帰る道を心配する静子には、さすがの前久も予想の範疇を超える解答だった。
殺気が一つも感じられず、謙信たちの驚きを不思議そうな表情で見ている静子を謙信は直視する。先ほどの言葉がうそ偽りではないと確信できる目だと謙信は直感的に理解した。

「ふぁっふぁっふぁっ、なんと小気味の良いことよ」

「は、はぁ」

豪快に笑う謙信に静子は困惑する。ひとしきり笑った後、謙信は人好きのする笑みを浮かべる。

「そなたには利ばかり求める者にはない風を感じる。なんとも爽やかで、すがすがしい気持ちにさせてくれる風じゃ」

言葉の意味が分からない静子は首をかしげる。しかし、彼は戦国時代の常識を何度も覆す考えの持ち主であることを、彼女は思い出す。

目安箱を回収するとき、静子は目の前の人物が謙信だと気付かなかった。不識庵という名前は引っかかったものの、越後の国人である謙信が、護衛もつけず岐阜に来るとは思えなかった。
だからこそ、誰もが謙信の思惑に引っかかり、誰一人彼の正体を見破れなかった。

「願わくば、ずっとそのままでいてほしいものじゃ」

「は、はい。ありがとう、ございます?」

「ふぁっふぁっ、久々に心の底から笑わせて貰った。お礼に一献と言いたい所だが、そなたは酒は嗜まぬと聞いておる。よって一杯茶を進ぜよう、無論此奴が広めておる近衛流煎茶道の作法での」

近衛流煎茶道は、茶道の一種である煎茶道を前久なりに改良した茶道の一種だ。抹茶道と違い道具は急須、湯飲み、湯冷まし、茶葉の四つがあれば良い。
飲み方に推奨する方法はあるものの、厳格な作法はない。対面で胡座あぐらをかいて飲みあうもよし、縁側に並んで座って飲むもよし、立ったまま飲みあうもよし、細かい規定は一つもない。
前久の煎茶道は心構えともてなしに対する哲学、そして推奨する手順だけだ。

心構えやもてなしに対する哲学は抹茶道と大差ない。手順はいくつもあるが前久は以下の方法を推奨している。
まず、茶会を開く主は遠路はるばる訪ねてきた者たちに対し、のどを潤す目的でぬるま湯の茶を出す。次に茶を飲んで落ち着いた者たちに、少し熱めの茶と菓子を出す。
後はおしゃべりをするもよし、ゆったりと景色を眺めるもよし、思い思いの時間を過ごす。最後にその場に適度な温度で入れた茶を出しておしまいだ。

茶は緑茶、烏龍茶、紅茶、ほうじ茶と何でも良い。出す順番も種類もばらばらでも良い。最初に緑茶を出し、最後に烏龍茶を出すことも許される。
それぞれが自分たちに合っていると思う飲み方で良かった。この緩やかな決まりと、茶道具の安さが受け、近衛流煎茶道は武家や公家、主に婦人たちへ大流行した。

余談だが緑茶、烏龍茶、紅茶は全てカメリアシネンシスというツバキ科の茶の樹からできている。三種類の違いは茶葉の作り方だ。
樹の生葉を乾燥・発酵させて作る際、不発酵茶を緑茶、弱発酵茶を黄茶・白茶、強発酵茶を烏龍茶、完全発酵茶を紅茶と呼ぶ。麹菌による後発酵茶は黒茶と呼ばれている。
ゆえに、現代では日本の茶の木から作られる国産紅茶がある。
インド・スリランカの紅茶が好きな者には物足りないものの、ふんわりとした甘い香り、渋みが少なくさっぱりとした口当たり、ほんの僅かな甘い味が特徴だ。

「やれやれ、相も変わらず我を通す男じゃ」

謙信の言葉に前久はあきれた表情で肩をすくめた。






冬の寒さに耐えながら足満は櫻信之社の一角を耕していた。
彼自身が耕している理由は、これから育てるものが非常に危険でおいそれと人に任せたくないのが理由だ。

(静子が知れば焼き討ちに遭いそうだな。なるべく、誤魔化せるようにしよう)

植えるのは5月と随分先だが、いつ忙しくなるか不明ゆえに時間があるときに、こまめに耕しておこうと足満は考えた。
猫の額ほどの土地しか使わないため、1刻もかからず足満は耕し終えた。額の汗をぬぐいながら彼は近くの石に腰掛ける。

(物珍しいことをなされる)

「春に育てるものが特殊なものだからな」

どこからともなく鳶加藤の声が聞こえる。しかし、足満はさして気にもとめず汗をぬぐいながら答える。ぬぐい終えると彼は身体を動かして筋肉をほぐす。

(それは以前、武田の間者に使ったものが関係しているのでございましょうか)

「……知りすぎると命を落とすぞ、鳶加藤。まぁ良い、貴様は使う場所を見ていたからな。特別に教えてやろう。わしが育てるのは洗脳のための毒草じゃ。南蛮ではエンジェル・トランペットやダチュラと呼ばれている」

エンジェル・トランペット、ダチュラ、ダツラ、マンダラゲなど複数の名を持つチョウセンアサガオ(以下ダツラ)は、非常に危険な毒を持つ一年草、または高木である。
ダツラにはキダチチョウセンアサガオ属とチョウセンアサガオ属が存在する。両者の違いは木になるか草になるかと、花の付き方だ。
キダチチョウセンアサガオ属は高木または低木で、下向きの花をつける。対してチョウセンアサガオ属は一年草または多年草で、上向きの花をつける。
通称エンジェル・トランペットと呼ばれる種がキダチチョウセンアサガオ属、ダツラと呼ばれる種がチョウセンアサガオ属だ。
共通している点はどちらも有毒植物で、大変危険な植物という点だ。

余談だがチョウセンアサガオのチョウセンは特定の地域を指す言葉ではなく、単に海外から入ってきたもの、という意味だ。
また、アサガオの名を冠してはいるが、ダツラはナス科に属し、ヒルガオ科のアサガオとは別種である。
そして、1804年に世界初の全身麻酔下で乳癌摘出手術を行った華岡青洲が使ったダツラは、メテルと呼ばれるインド原産の草タイプのダツラだ。

(ハシリドコロを使った毒草と同種でございますか)

「洗脳に使うのはこちらが良い」

足満が輸入したダツラは、非常に危険な毒草だ。
インドではダツラを用いて相手を酩酊状態にしたうえで強盗などを働くダツレアスという犯罪組織が存在したが、その組織が用いたと言われるダツラが足満の育てているダツラだ。
毒の効果が強すぎて相手が耐えきれず命を落とすこともあったが、相手は武田や北条の間者だ。ゆえに、足満は一片たりとも罪悪感も抱かなかった。
もっとも、彼にとって静子以外の命は路傍の石ほどの価値もないのだが。

「ハシシでは思うように思考制御できないという問題が解決できなかったが、こちらなら制御しやすいし、よそへ漏れる心配もない」

(まさか……例の30人は……)

「話は以上だ、鳶加藤。これ以上、探るのなら首を覚悟しろ」

一方的に会話を打ち切ると、足満は道具を片付けてその場を去った。しばらく無言で足満が耕した畑を見ていた鳶加藤だが、やがて胸の奥にある黒いものをはき出すようにつぶやいた。

(命を捨てた兵……か。ここしばらく雑賀衆の周辺は荒れるな)






一二月のとある日、志賀の陣における論功行賞が信長の居城・岐阜城で行われることとなった。
信長最大の危機とも言える志賀の陣において、各自の働きが存分になされたからこそ、彼は辛くも滅亡の危機を免れた。

「第一功! 森三左衛門可成!」

働きの順位を付けにくい状況だが、あえて一位をつけるのなら森可成以外にない。彼の働きによって信長は京を奪われることなく、さらに背後から襲撃を受けることがなかったからだ。
また、戦場いくさばに立てずとも人脈を使った外交で、反織田連合の一部を調略するなど、誰が見ても彼が志賀の陣で一番の働きをしたことは明白だ。

「可成、亡国の危機を凌ぎ切った働き、誠に大義であった」

「はっ!」

可成には名茶器二つ、金子、そして知行地が与えられた。その後も柴田や佐々、前田利家、木下藤吉郎秀吉、丹羽長秀、明智光秀と多くの武将に褒美が与えられた。

「(なぁなぁ、俺らには褒美なしの気配がするのだが?)」

隣にいる慶次が静子に小声で話しかける。

「(そりゃそうでしょう。今回、私らは命令を無視したのだから。宇佐山城陥落阻止で相殺そうさいじゃないの?)」

「(……まぁ本来は野田・福島への参陣だから仕方ないか)」

慶次も褒美には然して興味がないのか、あっさり納得して肩をすくめていた。
もとより静子は論功行賞に興味がなかった。与えられるものは宝物、茶器、刀、馬だが、静子にとっては扱いづらいものばかりで、授かってもそのまま他人に下賜するのが落ちだ。
早く終わって帰宅し、わさびの栽培状況を確認したい気持ちの方が強かった。

「以上だ。そして此度こたびは、彼らの他に武功をたたえる二つの特別武功がある」

論功行賞は終わりと思った静子だが、進行役はまだ続きがあると語ったことに静子は辟易とした。

「一つ目は宇佐山城を守り抜いた兵たちだ。彼らの獅子奮闘の働きなくして、宇佐山城を守りきることは叶わず。命を捨てて戦った武士たちは、特別武功に刻まれてしかるべきである」

黙とうを捧げるような雰囲気で信長が語る。特別武功は彼自身が語るのか、進行役は口を閉ざしていた。信長は目をつむり、眉間にしわを作りながら言葉を続けた。

「その命を以て祖国のいしずえとなった御霊みたまよ、安らかに眠れ」

信長の言葉を聞いた家臣たちが、誰に言われるまでもなく合掌して祈った。墓標なき土に眠った兵たちの御霊を慰めるために。
やがて全員の合掌が終わったころ、信長は目を開いて二つ目の特別武功について語り出した。

「二つ目も宇佐山城に関係する。その者たちは宇佐山城で死力を尽くして戦い抜き、反逆した六角を徹底的につぶして近江国の安定に寄与し、甲賀衆の調略を容易にした。表舞台に立たず、武功を求めず、ただ陰の働き手として尽力した者たちに、わしは二つ目の特別武功を与えたい」

(あ、なんか嫌な予感がする)

「静子軍総大将・静子! 前田慶次、可児才蔵、森勝蔵! 主らの働き、真に大儀であった」

頭が痛くなった静子だが、名前を呼ばれたからには前へ出ないわけには行かない。織田家家臣からの賞賛の眼差し、それと同時についてまわる嫉妬や反感といった悪意。
正と負の感情を同時に受けるも数多の合戦でたくましくなったのか、それとも精神的にずぶとくなったのか、静子は家臣たちの悪意を軽く受け流して信長の眼前に移動する。

「ほぅ……いくさとは人をこれほど逞しく成長させるのか。歩き始めの赤子が、いっぱしの面がまえをするをのこに変わりおったわ」

誰に語るわけでもなく、信長は独り言を呟いて不敵な笑みを浮かべた。静子が目の前に座ると信長は表情を引き締める。

「静子、前田慶次、可児才蔵、森勝蔵、その方らの働き、大儀であった」

俸禄は全員共通に刀、馬、金子が与えられたが、静子にだけ名茶器一つと永楽銭紋旗が追加で与えられた。
永楽銭紋旗は信長が旗紋として使用していた。しかし、この旗紋は水野氏、黒田氏、仙石氏が拝領した程度で、家臣に下賜されることは少なく、ゆえに大変名誉なことである。

「以上で論功行賞は終わるが、一つだけ皆に知らせておく話がある」

信長が軽く手をたたいて小姓へ合図を送ると、入り口の襖が静かに開けられた。そこから部屋へ入ってきたのは近衛前久だった。
彼の姿を見た瞬間、静子は次に何が起きるか理解した。一層頭痛が激しさを増したが、信長が考えた上での行動と思い、気分を紛らわすように後頭部をかいた。
前久は柔らかい笑みを浮かべながら静子の横まで移動すると、その場に腰を下ろした。

「皆も気になっておるだろうし、そろそろ静子の正体を明かそう」

その言葉に周囲がざわつく。静子の名字は綾小路だが、どれだけ調べても静子が綾小路家に生まれたという証拠はない。
上洛後も信長は隠れて滝川一益に調べさせたが、彼女に関する情報は一つも出てこなかった。
分かっている事はある日突然、信長がどこからともなく拾い、今では重宝しているという事だけだ。

「事の始まりは現将軍の兄であられる剣豪将軍と織田殿が密会した時の事です。私は上杉家と袂を分かった後、夢を託せる武家の方を探しておりました。そこに織田殿と剣豪将軍の会談。私はこれを好機ととらえ、無理を言って会談に参加させて頂き、そこで織田殿に力を貸す約束をしました。それが彼女です」

(よくもまぁその手の嘘を平然と言えるなぁ……私には無理だ)

前久は嘘八百を詰まることなく語る。真相を知らない者にとっては、前久の言葉が事実だ。

「皆さんも薄々感づいておられると思いますが、彼女には近衛家の名を使う事を禁じておりました。一つは間者対策、もう一つは才を見せるには、身元不詳の方が都合が良かったからです」

(もう好きにしてぇ……)

なおも前久の9割が嘘の話は続く。それに対し、静子は考える事を放棄した。






綾小路静子が彼女の本名だが、織田家家臣の間では近衛静子の名が事実として定着した。静子が近衛家の者という事に武将たちは驚き、彼女に一定の畏怖を抱いた。
しかし、慶次や才蔵、長可は態度が変わらず、慶次に至っては「人は一日米が三合あれば生きていける。それよりお酒が呑みたい」と静子の姓より酒の方が大事だった。
結局、静子が近衛家の人間であろうと周囲にとっては大した事ではなく、むしろ彼女の知識と場違いな胆力に納得がゆくだけの話だった。

波乱はあれど速やかに為された論功行賞から数日後、静子は信長より100名の足軽が緊急で与えられた。
彼女は兵の扱いに頭を悩ませる。今までも兵の増減は良くあることだったが、100人程度を与えられたことは初めてだからだ。

「あーうん、どうしよっかなぁ。暫く新兵訓練させれば良いかな」

「いつものように体力測定からだろ」

頭を悩ませる静子に長可が突っ込む。
静子軍は兵に対し、最初は体力測定という名のふるい落としをしていた。体力測定で脱落した人間は兵站隊向けの静子立案の訓練を、体力測定に合格した人は長可自身が身を以て体験した特別訓練を課す。
どちらにせよ長可の監督の下で訓練を受ける事になるが、彼の訓練は他の軍隊でも好評でたまに外部から訓練に参加する者もいる。

静子軍は合戦に関わる戦闘軍と、後方支援を担う兵站軍の二つに別れている。
兵站軍は土木工事を行う黒鍬衆の他に武将の食事を担当する台所衆、負傷兵を治療する金瘡医衆、衛生や防疫、病の治療を行う衛生衆、武器や食料を警護・運搬する物流衆、斥候を担う斥候衆、伝令や早馬などの通信関係を担う通信衆、軍用犬を扱う警備衆などがいる。
円滑に軍事作戦を行うには、後方支援の充実が何よりも大事だが、彼らは命を賭けて戦う人間から腰抜け呼ばわりされ、軽んじられる事が多かった。
しかし、ローマ軍の強さは兵站にあり、と言われるほど軍にとって兵站は大事な存在だ。また、劉邦に蕭何、曹操に荀彧と有名な人物には、兵站を担うエキスパートが必ず存在した。

信長も口には出さないが、合戦はそれに至るまで何をしたかが重要と考えている。ゆえに、静子が後方支援を充実させている事に満足し、時には彼女の案をこっそり採用していたりもした。
利用できるものなら、例え敵が得意とする戦術・戦略、理論ですら自軍に採用する。この思い切りの良さが信長の強みでもあった。

静子は長可の意見を聞いて少し考えた後、彼の方を向いて結論を口にした。

「今回は私が走るよ。最近忙しくて訓練をさぼり気味だしね」

「そうか。今回は何人生き残るのだろうな」

そんな会話をしつつ2人は準備を整える。支度を終えると100人の兵が待つ広場まで移動する。
あらかじめ整列させていたおかげで、大した労力もなく静子と長可は100人の前に立つ。

「えー、はい注目ー。話は事前に聞いていると思うので、私から言うことはありません。さて、皆さんにはこれから体力測定を行って貰います」

木製の足台に乗り、木製のメガホンを使って静子は100人の兵に話しかける。やはり、というか最早お決まりとなりつつあるように新兵たちは静子を侮った態度を取る。
しかし、遠目に見ている慶次や才蔵、そして静子の横にいる長可は、彼らの態度がいつまでつか楽しみだとほくそ笑んだ。
今までに一番長く保った者でおよそ50分だ。他は体力測定に入る前の準備運動でを上げる、だいたい20分も保てば良い方だ。

「本来なら動きやすい格好で、と言いたいところですが今回はそのままの格好でお願いします」

それから10分ほどして体力測定、もとい単純なランニングが始まった。先頭は言うまでもなく静子、その後ろを100人の新兵たちが並んで走るだけだ。
規則は単純、静子が体力の限界に達するまで走る、全員がギブアップする、走れる人間が静子を除いていなくなるのどれかだ。

「おー、頑張るねぇ。多分、2周しない内に、半分は脱落するだろうがな」

遠巻きに見ていた慶次だが、間近で見る方が面白いと思ったのか、いつの間にか長可の隣に立っていた。
手をかざして楽しそうに見ている慶次に対し、長可は面白くないといった表情をしている。

「半分は一周出来れば良い方だ。砂の上を走るってのは、見た目に反して体力を多く消耗する。この手の訓練を経験したことのない新兵では厳しいだろうな」

長可の考えは正しかった。一周500メートルのレーンを走るだけだが、砂ゆえに地面を強く蹴ることができない。必然的に硬い地面より力を多く使う。
一歩だけなら小さな違いだが、それが積み重なれば話は別だ。案の定、二周を回り終えるころには、8割近くが疲労困憊して足を引きずっていた。

「二周完了ー。ほら、下を向いていると余計疲れるよ」

対して静子はまだまだ余裕といった表情だ。最初と変わらないペースを維持し、三週目に突入する。半分も走り終える前に7割が体力の限界を訴えて足を止めた。
三週目のゴールに到着したのは、静子を除けばたった1人だった。その人物も四週目を走りきれる様には見えなかったので、静子はそこで体力測定を止めた。

「全員脱落みたいなので終了」

静子の終了宣言に新兵たちはホッと胸をなで下ろす。しかし、すぐに彼らは絶望を知る。

「では10分の休憩の後、次は懸垂を行うよ」

体力測定に続きがあることを知った新兵たちは、文字通り目の前が真っ暗になった。

そんな彼らを遠巻きに見ている人物がいた。

「ふっ、流石に慣れていなければ義弟も厳しいか」

信長である。彼は長政から「新兵からやり直す」と相談を受けたとき、真っ先に静子軍へ放り込むことを思いついた。
他では素性から面倒なことが発生する可能性がある。その点、静子軍はくせ者揃いの軍であるため、多少の人物が入っても特に気にならない。
そして静子軍は身分や血で人を判断しない。才能と運があれば上の立場に上がることができる。

「運命と戦え義弟よ。もし、貴様に運命を屈服させる力があるなら、必ず返り咲くことができようぞ」

信長は浅井家を滅ぼすのにかかる時間は、約2年程度と考えている。
小谷城おだにじょうは堅牢を誇る城だ。しかし、どの様な城も単独で生き残ることは不可能だ。水と食料の補給ルートを全て潰せば、内側から崩壊し始めるのは自明の理だ。

「今より2年、それまでに力を付けよ」

誰に言うのでもなく信長は小さく呟く。馬廻衆が反応する前に信長は馬首を返すと、その場を後にした。






療養を終えた森可成が、年末の挨拶を兼ねて静子の家を訪問した。それ自体は特に問題もなく、穏やかな雰囲気のまま終わった。
しかし、何を思ったか分からぬが、可成が長可と手合わせしたいと言い出した。
左腕に障害が残り、今も若干しびれがある可成では、少々厳しいのではないかと静子は思った。しかし、長可がやる気を出している事を知り、静子は止める事が出来ないと悟る。
流石に槍での手合わせで殺傷沙汰になれば、全員が責任を取らねばならぬため、長棒での手合わせとした。可成は棒を何度か振って感触を確かめた後、長可の方を向く。

「遠慮はいらん。わしを敵だと思って本気で来るが良い」

その言葉に頷くと同時、長可が可成に向かって走り出す。

最初は可成が劣勢になるのではないか、と遠巻きに観戦していた静子や慶次、才蔵は思った。しかし、蓋を開けてみれば長可の完敗だった。
二人の周囲は踏み込んだときに出来た足跡だらけだが、その殆どが長可の足跡だ。可成は最小限の動きで長可の攻撃を流すと、そのまま勢いをつけて長可を攻撃していた。
五十路手前の、それも左腕に障害を抱えている人間とは思えない動きだった。

「くそっ! くそっ!」

声を荒げながら長可は長棒を振り回す。焦りと一度も打ち合えぬ苛立ちからか、ただがむしゃら振り回すだけだった。その様な攻撃が可成にあたるはずもなく、簡単に避けられていた。

「ぐおっ!」

隙だらけの姿をさらした長可の胴に、可成の長棒がぞんぶんに叩きつけられる。痛みの余り膝をついた長可だが、可成は容赦せず長棒を持つ長可の手を打擲ちょうちゃくする。
勝負の結果は誰が見ても可成の圧勝だった。長可本人は勿論、彼を鍛えるために訓練を課した静子本人もショックを隠せなかった。

「腕は良いが、狡猾さは半人前だな」

長可の落とした長棒を拾った後、可成は手合わせの感想を口にする。
多少、呼吸の乱れがあるものの、まだまだ余裕が感じられた。反面、長可は肩で息をし、体力を酷く消耗している事が伺える。

「そして技に頼りすぎだ。勝蔵、貴様は基本を蔑ろにし過ぎておる。それではいくら打ち合おうとも、わしを倒すことは出来ぬ」

可成の言葉に長可はハッとなる。彼の指摘通り、途中から技を多用し、それがあたらなかったが為に次の技を、と泥沼にはまっていた事を長可は悟る。
彼が僅かな指摘で答えにたどり着いた事に、可成は小さく笑みを浮かべる。

「良いか、勝蔵。技で兵を怯えさせるな。一突き、何の変哲も無いただの突きだけで兵を怯えさせろ。それが出来れば一人前だ」

「……はい」

長可の返事に満足げな笑みを浮かべると、可成は彼を助け起こす。長可の服に付いた土汚れを払いつつ、彼は長可の成長を喜んだ。
しかし、可成がその事を口にすることはない。口べたである上に、長可は褒めると調子に乗りやすい。だが、言葉に出さずとも、可成の手を介して想いは長可に伝わっていた。
やがて汚れを全て落とした可成は、長可の肩を何度か叩く。

「わしの背を越えろ、勝蔵。貴様になら出来る」

「親父……おう、いつになるか分からねぇが、きっと親父の背を越えてみせるぜ!」

長可の返事に可成は小さく微笑んで何度も頷いた。






長可を鍛えた後、森可成は信長の元を訪れた。
例え前線から身を引き、長男に家督を引き継がせても彼が信長の右腕であり、最も信頼されている人物に変わりはない。
政や外交の補助、人脈を生かしての交渉、次世代の育成など、負傷前と変わらず多忙の日々を過ごしている。

それは静子も変わらない。
彼女が依頼した品物を年末までに終わらせようとしたのか、色々なものが届けられる。年末最後に届いたものは3つだった。

一つ目はガラス製のシャーレだ。
シャーレとは微生物の培養実験で用いられるガラス製の平皿の事で、寒天培地を平板培地として使用するために考案されたものだ。
ドイツの細菌学者ユリウス・リヒャルト・ペトリが発明して以降、一般的な容器として科学実験で広く使われるようになった。
この容器が必要な理由はペニシリンの製造が関わってくる。製造所は小さいながらも、ペニシリンの製造は始まっている。
製造されたペニシリンの効果を確認するには、シャーレに寒天培地を作るのが一番簡単だ。
しかし、シャーレはガラス製であるため生産が追いつかなかった。それでも必要数を揃えるため、静子は何度も生産を依頼している。
今はペニシリン溶出液だが精製度が上がれば、アルコールの脱水作用で結晶化させ、粉末にする事も静子は考えていた。

この天然ペニシリン、現代ではペニシリンGベンジルペニシリンと呼ばれる抗生物質は基本的にはグラム陽性球菌に活用する。
だがその中で第一適応になるのが梅毒だ。梅毒スピロヘータを治療するとき、ペニシリンGが他の抗菌薬より効果的だ。

梅毒は第一感染経路が性行為だが、妊娠中、出生時の母子感染による先天性梅毒もある。
培養が不可能のため、1998年に全ゲノムのDNA配列が決定したものの、現代でも病原性の機構は殆ど解明されていない。ただし、ウサギの睾丸内では何故か培養できる。
日本では1512年に初めて梅毒が記録上に登場している。
梅毒が西洋の歴史上に現れたのが15世紀末(ただし諸説あるので確定ではない)という事を考えれば、僅か数十年で日本へ到達した事になる。
恐ろしい勢いで広まった梅毒はペニシリンが発見されるまで治療薬はなく、日本では加藤清正、結城秀康、前田利長、浅野幸長などの著名人が梅毒で死亡している。

ペニシリンが発見されるまで梅毒には水銀療法や、意図的にマラリアに感染させて高熱状態にし、体内の梅毒トレポネーマの死滅を確認した後、キニーネを投与してマラリア原虫を死滅させるという、非常に危険きわまりない治療法も行われていた。
だが、ペニシリンが発見されて以降、その様な治療法は姿を消した。
現代でも抗生物質への耐性を梅毒トレポネーマは獲得していないため、段階にもよるが最高で十二週間程度ペニシリンGを投与することで治癒する。

余談だがアメリカ合衆国・アラバマ州のタスキーギで貧困層の黒人400から600人を対象に、政府機関が梅毒の生体実験を1932年から40年間にわたり実施した。
世に言うタスキーギ梅毒人体実験は、梅毒末期に起こる種々の重篤な合併症を研究する目的で行われ、患者に病気を告げず、未治療のまま放置した。
なお、健康体の人間は健康診断後、血液に悪性の病気があると嘘を告げ、「治療」の名の下に梅毒を注射し、意図的に感染させた。
更に1946年7月から1948年12月にかけて、同じ保険機関が中米のグアテマラでも梅毒の人体実験(世に言うグアテマラ梅毒人体実験)を行っていた事が2010年明らかになった。
この人体実験の恐ろしい所は、病気がどの様に感染するかが判明している上に、治療法が確立している時代に行われた事だ。

シャーレはペニシリン用だが、届いたもの2つ目はクソニンジンだ。学名はアルテミシアという。
口に出すことが憚られるような和名だが、悪臭の類いではなく、ヨモギとラベンダー独特の匂いがする。
乾かすと更に香りが強くなるため、英名はスゥイート・ワームウッド(甘いニガヨモギ)と言われている。
ただし、クソニンジンの繁殖力はハーブに分類されるに相応しいほど旺盛だ。1年草だが地下茎が残っていれば、そこから繁殖する事もある。

このクソニンジンのエーテル抽出物アルテミシニンは、キニーネ耐性のマラリアであろうと驚異的な効果をもたらす。栽培は容易であり、自然由来の薬の中で比較的お手軽な特効薬だ。
マラリアの特効薬と言えば、キニーネが最も有名だが、日本ではキナの栽培が不可能だ。

東南アジアを経由して欧州商人が日本へ来訪する戦国時代、マラリア対策の薬を持つ必要性があった。
最初にマラリアの感染が確認される時期は紀元前八千年から一万年ころに遡る。トルコの古代都市からマラリアにかかったと思われる人骨が発掘されたのだ。
紀元前一世紀ごろ、古代エジプトの女王クレオパトラもマラリアに悩まされて、その事に関するレリーフも発掘されている。このレリーフは人類史上、最古のマラリア流行の記録と言われている。
更にマラリアは熱帯地域特有の病気ではない。
北極圏に近いフィンランドでも二十世紀初頭に数千人が感染した。アメリカやカナダでも感染の記録が残っており、日本も感染範囲外とは言い切れない。

長年、原因が不明だったマラリアだが、1880年にアルジェリア駐在のフランス陸軍軍医シャルル・ラヴァランが患者の血液からマラリア原病虫を発見した。
そしてイギリスの医師、ロナルド・ロスがマラリアを媒介するのは蚊であると証明したは1897年と、比較的最近の事だ。

最後に届いたものが、静子に取って最も重要なものだった。それは防寒着セットである。
具体的には手袋、靴下、腹巻き、陶器製の湯たんぽの4点セットだ。これらを使うのは静子ではなく、彼女の拠点を防衛している兵たちだ。

静子の住む場所は信長の配慮により、常に兵が配備されている。
しかし、彼らは夏の暑さも冬の寒さも一身に受けている。幾ら仕事とはいえ、これでは身体を壊してしまう。
夏の暑さと共に冬の寒さ対策は必須だ。護衛している兵たちが、寒さで手がかじかんで肝心な時に動けないでは話にならない。
ゆえに、寒い中でも兵が可能な限り、万全の状態でいられるよう対策する事は大事だ。

「えー、注目! これより防寒4点を2つずつ配りますので、受け取った人から着込むように。なお、今回は実地検証も兼ねていますので、使い勝手の感想を聞き取りします」

「はっ!」

静子の宣言を合図に、4点セットを纏めた風呂敷が2つずつ兵士に渡されていく。すぐさま腹巻き、手袋、靴下を着込み、陶器製の湯たんぽに湯を入れていた。

「あったけぇ……俺、この時期は腹を下す事が多かったけど、これがあれば何とかなりそうだ」

「これで酒があれば完璧、てか?」

「よせやい。そんな事したら、織田様の雷が落ちるぜ」

寒さが緩和されて余裕が出たのか、あちこちで兵は雑談を交わす。防寒靴を配備出来れば完璧だったが、現状はコストがかかりすぎて兵士に回す余裕はない。
慶次、才蔵、長可、彩など側近に渡せる程度だ。その分性能は折り紙付きで、水や雪解け道を歩いても深靴(ふかぐつのように水がしみこむ事はない。

「はい、雑談も良いですが受け取った人から順次仕事に戻って下さい。冬の間は4点を着用して貰います。時々、使い心地を聞きに行きますので、すぐに答えられるよう準備してて下さい」

「あ、はい!」

緩んだ空気に包まれていた兵士たちが、静子の発破に慌てて返事を返し表情を引き締める。
着込み終えた兵士たちは予備の風呂敷を片手に、それぞれ所定の位置へ戻っていく。全員が受け取り終えると、静子は大きく伸びをした。

「よーし、年末までにやる事は終わったぁー。まぁ来年早々、やる事があるけど数日はゆっくり出来る」

腕をぐるぐる回して、静子は凝り固まった肩をほぐす。しかし、新年を過ぎればまた仕事が出てくる。忙しい身はいつ落ち着くのか、と時々思う静子だった。

「来年こそ左団扇うちわ生活してやる」

そんな事を呟く静子は忘れている。去年の年末も、同じような事を決意した事に。
そして残念な事に世の情勢は彼女に安息を与えない。今まで無名だった静子軍は、宇佐山城の戦いで衝撃の初陣を果たした。
世に名が出てすぐ近江国の覇者・六角氏を壊滅させた事に各国は驚き、情報を得ようと多くの間者を放った。
今まで静かだった彼女の周囲も、徐々に騒がしくなっていく。いかに彼女が静かな生活を望もうとも、静子の波乱に満ちた生活はこれから暫く続くのだった。
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