挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀元年 第一次織田包囲網

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

81/134

千五百七十年 十二月下旬

史実通りであれば来年早々にも合戦が始まる事を知っている静子は、信長が和睦を結ぶ前から矢の増産に注力していた。
現代ならばジュラルミン製やカーボン製の矢を用いて繰り返し使用できるが、戦国時代の矢竹(しのめ竹)から加工され矢として作り出される矢は使い捨てが基本となる。
故に狙撃に用いるような矢ではなく、数打ち用の矢は質を求めない。如何に短期間に必要最低限の品質で量を確保できるかが肝要である。
多くを望み必要以上の質を求めればそれだけ完成が遅れる。そうやって時間を浪費すれば時勢の変化に追い付けない。
特に弓兵が多く、矢を大量使用する静子軍にとって、短期間に汎用はんよう性の高い矢を確保出来なければ継戦能力が低下してしまう。
兵器として通用する最低限の『質』を確保した矢を充分な『量』用意した後に、『質』を追求し逐次入れ替えれば良い。

「日に3000本か。ほかの軍にも納品している関係から、このままじゃ間に合わないかな」

和弓を使う人間は別として、織田軍が使うけん制目的の短弓は仕様が統一されているため、どの足軽が使用しても最低限の性能が引き出せるようになっている。
無論、能力によって違いは発生するが、基本的な性能は何一つ変わらない。

足軽の損害を防ぐには突撃してくる敵兵を火縄銃でなぎ払えば良い。
だが、現状は火薬があっても火縄銃をそろえるのが困難だ。潤沢な軍資金がある織田家でも、さすがに数千丁の火縄銃を独占的に調達することは他国との兼ね合いもあり困難だ。
そこで信長が考えたのが簡素な弓での一斉射撃、つまり敵に矢の雨を降らせ、弾幕を張る戦法を採用した。

最初はクロスボウを考えたものの、弦の威力が弱ければ数十メートル先の人間も殺せないことが判明した。
コンパウンドボウは構成部品も多く高い『質』を要求する武器であったため、最終的に簡素な作りの短弓を量産することで落ち着いた。
有効射程距離は100メートル程度だが、何よりも訓練させれば矢をつがえて放つまでの時間が1,2秒と短くできる。
仮に100メートルを平均13秒で突撃してくる敵軍がいたとしたら、およそ10回もの矢の雨を降らすことが可能になる。
充分な効果が期待できると判断し、信長は弓の斉射戦法を各軍に取り入れようとした。

その弓と矢の製造を総括しているのが静子だ。
元は彼女が確立した戦法であるため、大量生産できるノウハウを静子が持っているのは当然ではある。
更に大量生産だけではなく、生産される弓矢を足軽が効率的に扱えるようにするための仕組みが存在した。

矢の長さは両手を広げたときの長さから38.1cm(15inch)引き、2で割った数値が適正な矢の長さと言われている。
この長さから大きく逸脱すると、矢がうまく引けず、また関節等を痛める。この問題を解決するため、静子がとった対策が、矢に合わせて兵を揃えることだ。
つまり足軽一人ひとりに矢を合わせるのではなく、矢の長さを規格統一し、それに適合する足軽を揃えているだけだ。

「申し訳ありません。今以上の生産は厳しいと思われます」

「仕方ないね。じゃうちの軍を後回しにして、ほかの軍に納品するのを優先して頂戴。無論、お館様に納品先の優先度を確認してからだよ」

「了解しました」

「そうそう、随分と寒くなってきたから、体調には気をつけてね。私はさっきから暑いのだけど」

静子が冬でも暑い理由はヴィットマンたちが、彼女の周りで丸まっているからだ。
オオカミの体温は常に摂氏40.6から41度と高く、さらに汗をかいて体温調節するのではなく口を開けて舌を出すことで体温調節を行う。

「戦闘食……えっと竹中様へ『いくさ飯』の献立表は届いた?」

竹中半兵衛は軍用食を戦闘食と呼んでは意味が分かりにくい、との話で静子に名称をいくさ飯に変更する文を送った。静子も名称には特にこだわりがなく、名前変更に反論はしなかった。
以降、織田軍に自前で用意する合戦用の食料を『いくさ飯』と呼ぶことが定着した。

「昨日、無事届いたと早馬がきました」

「5リットルの手動式加圧ポンプの試作品は完成していたっけ?」

「数日前に試作品が届けられ、昨日静子様が書かれた報告書と共に返送しました」

「あれ、そうだっけ。ならいいや」

害虫を防除するために使用する嫌忌剤を効率的に散布するため、加圧式ハンドポンプの製造依頼を出していた。
最近は色々な依頼や問い合わせが殺到するため、彼女はその試作品が届いて自らが検証した事を失念していた。
検証において静子が問題としたのは噴霧口のノズル精度で、技術的限界により絞りが甘く一回の噴霧量が多すぎる。
携行タンクの容量を5分で使い切ってしまうため用を為さない。

「最近、いろいろと作っては届き、検証しては報告書を返していたから、すっかり忘れていたよ」

「お疲れのご様子ですね。しばらく休まれてはいかがでしょうか」

「そうだね。もうすぐ年末年始だし、少し休むことにするよ」

年が明けてすぐ信長は軍備を整え、秀吉に京と北陸を結ぶ経路(陸路と海路)を完全に遮断させ、丹羽を佐和山城に入城させることで岐阜から南近江の間にある街道の安全を確保した。
史実ではここから破竹の勢いで侵攻し、五月には長島一向一揆の征伐、九月には比叡山焼き討ちが待っている。
来年も忙しい合戦の日々を思い、静子はげんなりした気持ちになった。

(いろいろと手動式の道具を再現できるようになったけど……どれもいまいちな性能しか出ないよね。最初から高性能を求める方が駄目なのだけど)

高性能な完成形を知っているだけに、何度も検証と改良を繰り返す砂山を天まで積み上げるような作業を思うと気分が萎える静子だった。
性能面が不十分でも必要とされる機能を満たした物は、一度実用化し実際に多数の人間が試用する事で問題点や改善点を洗い出す方式にしたかった。
洗練され切った完成形よりも、この時代の人々が運用する上で最適な形を見出す必要があった。
それには自分一人で判断するよりも、多くの使用者から意見を集約し地道に理想に近づける方が良いと思っている。
だが実際には静子しか検証が行えず、技術街と彼女との間で改修と試験を繰り返し静子の合格判断を以て製品化する手順となっている。
ゆえに、現状は静子1人に検証の負担がかかっている状態と言える。
多くの製品を世に出すためには必要な過程だが、判断できるのが静子一人で代替が効かないためボトルネック(注釈:他を幾ら向上させても状況改善しない致命的な箇所を指す)となっていた。

(それでも少しずつ『道具』がそろい始めている。そろそろ楽になってほしいのだけど……なぜか忙しくなるのよねぇ。そういえば近衛様が言っていた『第二の無茶なお願い』って結局何だったのだろう。あれ以来、何も言ってくる気配がないし)

その『第二の無茶なお願い』が前久と猶子を結ぶこと、などとは彼女は夢にも思っていなかった。
考えても答えが出ないと判断した彼女は、気分を変えるために温泉につかろうと考えた。






雪が降りしきる冬の岐阜で、信長は静かに時機ときを待った。周囲が織田家を見限ろうと、彼はただひたすら機会を窺い雌伏の日々を送っていた。

「可成、率直に聞こう。わしはもう終わりだと思っておらぬか」

柳川鍋やながわなべを口にしながら、対面にいる森可成に信長はそう尋ねた。
森可成は驚きも露わに、次にどう答えるべきか迷い視線を彷徨わせた。その様子を見て信長は怒る事なく、小さく笑いながら言葉を続けた。

「良い。貴様の態度でよく分かった」

「……申し訳ありません」

「貴様が謝ることではない。確かにわしは負けた。一時期、京を支配したわしを知っている者なら、今のわしはみすぼらしく見えるのであろう」

「お館様」

何と声をかけるべきか森可成は悩んだ。しかし彼にはついぞかける言葉を見出せなかった。
そんな森可成の心情を察した信長は、いつもの様に不敵な面持ちで断言する。

「心配するな、可成。わしは己の境遇を嘆いているわけではない。そして、この様な状況でも残ってくれる義臣に感謝しておる。だからこそ、わしは諦めない。敵を一つずつ叩き潰し、この手に天下を握るまではな」

「お館様!! 某は既に老いた身なれど、お館様の宿願を叶えるため粉骨砕身する覚悟で御座います」

「貴様がいてくれて助かる。早速で悪いが貴様に頼み事がある」

「はっ、なんなりとお申し付けください」

左肩を負傷しすでに槍が持てぬ森可成だが、信長のめいとあらば体に槍を括りつけてでも戦う気でいた。
しかし信長の頼みは、彼の予想外の内容だった。

「頼みというのは他でもない、静子のことだ」

「は、静子殿が何か……?」

「貴様も知っていよう。今回、静子は幾多の武勲を立てた。それが問題なのだ」

武功を上げるのが問題、という信長の言葉に森可成は首をかしげる。

静子は自分が倒れた後も兵を率いて宇佐山城の前線に立ち、浅井・朝倉連合軍の城攻めを食い止めた功労者だ。
後に過労で倒れたが彼女の代わりに、長可が各地で反織田軍を蹴散らし、途中から復帰した静子も慶次と才蔵を連れて加わり、南近江の交通網を回復させた。
今まで静子を『戦場において何ら功を持たぬ運が良いだけの女』と揶揄していた連中も、言葉を失うほどの功績だ。
彼女が上げた功績の何が問題なのか森可成には想像がつかなかった。

「静子の戦い方はまさに『異端』だ。首級しゅきゅうを上げるのではなく、ただ己が決めた勝利条件のために戦う。わしはそれ自体を問題視してはおらぬ。問題は今以上に静子が武功を上げると、奴が『女』であることに問題が出てくる」

「それは……?」

「静子は齢二十を数え、すでに妻となる適齢期を逃している。だが、考えても見よ可成。武勲もあり、内政にも影響力を持つ静子が一人身ということは、奴の持つ影響力を手中に収めようとする人間が出てくることを意味する」

戦国時代の通例では早ければ10歳前、遅くとも18歳までには結婚し家庭を持つ。
お市のように21歳で結婚する例もあるが、これは信長がお市を手放すのを嫌ったとも、実はお市は一度結婚し、何らかの理由で離婚後、浅井長政と再婚したとも言われている。
いずれにせよ結婚経験がなく、20歳でも独り身の静子は、戦国時代で言えば婚期を逃した女性と言われる立場だ。

「以前のように余計な騒動は願い下げだ。奴を政略結婚の駒に使うわけにはいかぬ。静子の頭の中には、多くの秘儀が眠っているゆえ、誰かと結婚させるのも問題だ。奴の立場を高め、かつこの手の話を簡単に断れる方法を考えた」

「お館様の養子にする事でしょうか」

「養子の件も考えたが、後継者問題で必ずもめる。わしとしては静子には織田家の一分家を担ってほしいと思っておる。そのためには養子にするより、奴にわしの子を養子として取らす方が良い。だが単に養子を持たせても駄目だ。特別な事情がある子にせねばな」

戦国時代は養子縁組、政略結婚が当たり前であり、天下人に近い信長も例に漏れず我が子を養子に出したり、人質として差し出したりした。
静子に自身の子を養子として持たせることで、彼女を織田家の一員として取り込むことが可能だ。
そして自身の子ではなく信長の子を後継者とすることで、信長に対しての忠誠心を周囲に知らしめることができる。
だがまがりなりにも織田家の一員となれば、親族からのやっかみを受ける可能性がある。
そのため、織田家として取り込むには、養子を取らせたが立場は微妙、という非常に難しいバランスが要求される。

「可成、頼みというのは他でもない。訳ありのわが子の教育係となってくれ。今までに幾多の戦功を打ち立てた貴様にこの様なことを頼むのは忍びないが、貴様以外にこの役を担える人間がおらんのだ」

森可成は信長に仕えてから16年の間に多くの武功を上げた。
信長の家督相続と尾張国統一に尽力し、今川義元との桶狭間の戦いに参陣し、彼が上洛じょうらくの際には柴田勝家と共に先鋒せんぽうを務めた。
六月に起こった姉川の戦いには磯野員昌隊の進撃を阻止し、宇佐山城の戦いでは先陣を切って戦い続けた。

信長にとって森可成は昔から、そしてこれからも右腕である事に変わりはない。
その森可成を信長の後継者でなく、良くて末席の分家になれる程度の子の教育係になれと言うのだ。
森可成が屈辱ととっても不思議ではないと信長は考えていた。しかし彼が言ったとおり、特殊な事情の静子を理解し、彼女の補佐をできるのは森可成を置いてありえなかった。

「お館様、ご心配無用でございます。某は槍を持てぬ穀潰しですが、この老骨が役立つのでしたら、これほど嬉しい事はございません。その大任、見事成し遂げてみせます」

そう言った後、森可成は深く頭を下げた。
人から見れば左遷、それも末席に追いやられたと見るだろう。しかし、静子の存在がどれほど貴重か理解している森可成は、信長がどれほど苦心して出した結論か理解できた。
いくら功績を上げようとも、静子は覆しようのないデメリット、つまり女という事情を抱えている。
それはこれからも変わることはない。この女という立場が、時として彼女の存在を脅かす可能性が高いため、事前に防ごうと信長は考えた、と森可成は理解した。

「頼むぞ、可成」

森可成の言葉を聞いて、信長は和らいだ笑みを浮かべながらそう言った。






第一次織田包囲網を切り抜けても、織田家に不利な状態が続いていた。
今まで彼の勝ち馬に乗っていた人間は手のひらを返し、さまざまな理由をつけては反織田連合側につこうとした。
去っていく人間は使えぬ無能と切り捨てた信長だが、この状況下でも離反しない家臣たちを大事にし、彼らを存分にねぎらった。
当然ながら静子を筆頭にみつお、足満のタイムスリップ組は信長を裏切る気は毛頭なく、また彼女たちの周りにいる人たちも同じ考えだった。

しかし静子たちタイムスリップ組は、忠誠を誓うだけに留まらなかった。
足満は合戦で、みつおは料理や畜産で、静子は農業や多数の技術関係で尾張・美濃を繁栄させた。
特に静子は数年に及ぶ農業改革で、戦国時代ではあり得ないほど尾張に食べ物をあふれさせた。
織田家所領に限れば食料を手に入れるため民は他者を殺して強奪する必要はなく、農閑期に命を賭けて出稼ぎするほど追い詰められてもいない。
尾張・美濃の街道を整備し、治水を行い、治安を維持し、産業を発展させ、人と物の溢れる国になったのも、音頭を取った信長に静子が技術を伝授したからだ。
離反者の一部はそのことを知っている。ならば静子を引き抜くことは、反織田連合への良い手土産になると考えるのは当然の帰結だ。

「途中にある関所の通行料を五十倍にしても諦めないって、そのやる気を別のところに発揮してほしいよ」

ため息しか出なかった。しかし何の対策も採らず放置も問題だと考えた静子は、現時点で調略を受けている人間を集めた。
それが静子、足満、みつお、五郎の4人だ。前の3人に五郎が追加された理由は、彼が3人から多数の料理レシピを受け取り、今や信長・濃姫の専属料理人に近い立場だからだ。
五郎は前久の宴会で料理長を務めることもあり、今の尾張・美濃にある食材を最も知り尽くしている人間と言える。

「たくさん集まったな。おたき上げの材料にでもするか?」

目の前にある文の山を見ながら足満が肩をすくめる。紙だけでちょっとした小山ができるほどの量が、彼らがいかに織田家家臣内で重要な位置を占めているかを如実に示していた。

「俺はまつりごとには興味ねぇ。料理の腕が上がるなら考えるけど、現状を考えれば一番良いのは織田家だよなぁ」

「裏切った先で立場が保証されるとも限りません。あくまで『引き抜く事』を目的としていた場合、裏切った後は知らぬ存ぜぬならまだしも消される可能性もあります」

「そうなんだよなー。おっさんの言うとおり、裏切っても全然良いことが思い付かないんだよね」

「おっさんではなくみつおです」

五郎は料理以外に興味はないが、それは裏を返せば料理の道のためなら織田家も裏切れる、ということを意味していた。

「私の仕入れた情報では、反織田連合はまとまりがありません。つまり仮に五郎さんが裏切っても、反織田連合はまともに取り合わない可能性が高いと考えられます」

静子なりにやんわりと五郎を説得する。現状、裏切っても彼に待っているのは破滅だけだ。
特にここで信長を見限るような真似をすれば、彼の首が胴体とさよならする可能性が高い。

「いや、分かっているよ。幾ら政に疎い俺でも、今の今で織田家を裏切れば、良くて真っ二つってのがね。世話になっているのに、都合が悪いからさよならは流石に信義にもとる」

「賢明な判断だ。まぁ安心しろ、裏切るのならわしが奇麗な首を作ってやる」

「それのどこに安心できる要素が……?」

「見知らぬ人間よりは、身内に処分される方がマシ、って所ですか?」

3人の不思議なコントに頭が痛くなった静子だった。
しかし3人とも調略に落ちる様子はなく、彼女は内心胸を撫で下ろした。下手にタイムスリップの人間が散らばれば、確実に泥沼の合戦が起こる。
静子にとって、それだけは何としても避けなければならならなかった。

「取りあえず今後も調略が続くと思いますが、すべてお館様にご報告するようにお願いします」

全員の意思が統一できたと認識した静子は、その言葉と共に会議を終わらせた。






六角氏から離反した甲賀衆だが、それがそのまま信長へ従属には結びつかなかった。
もともと、甲賀衆の生き方は攻撃的なものではない。不安定な社会情勢から自分たちを守るために武力や忍術を行使してきた。
六角氏に協力していた理由も、甲賀衆の存続を考えてのことだ。六角氏の衰退を目の当たりにして、彼らは信長寄りの姿勢を固めていった。

だが甲賀衆は決して信長に臣従(しんじゅう)したわけではない。彼らは信長の高圧的な態度に不満を持っている。仮に甲賀衆が臣従すると言っても面従腹背になる。
微妙な立場に置かれた甲賀衆だが、そんな彼らにとって衝撃的な情報がもたらされる。

「ばかな……それだけの金をどこに保有してたのじゃ!」

始まりは尾張に放っている斥候からの報告だった。
信長が尾張各地から荷車で何かを集めている、その様な報告を受けた甲賀衆は忍びの数を増やす。
荷車の中身が何か調べようとしたが、厳重な警備で運ばれる荷車には近づくこともできなかった。ただ深く刻みつけられたわだちの跡から相当な重量物であろうと推察できた。
そして荷車の中身を知る好機が訪れる。岐阜に差し掛かろうという時に荷車の一つの車輪が破損し、中身が盛大にぶち撒けられたのだ。
運搬していた物は金の延べ棒だった。それも数本という少ない数ではなく、何十本、下手すると100本以上ある金の延べ棒が積まれていた。

それだけでも充分に驚嘆に値するのだが、更に瞠目すべき事実が目の当たりになる。
車輪の破損から修復は不可能だと考えた織田兵は、金の延べ棒を前後の荷車に分散して乗せることにした。その前後にある荷車にも、同じように大量の金の延べ棒が積まれていた。
最終的に金の延べ棒は86本、銀の延べ棒が52本載せられていた。前後も載せ替える時に金の延べ棒が見えたことに、甲賀の忍びは荷物すべてが延べ棒であると理解する。
そのことに慌てた彼らはほかの斥候たちと意見をまとめると、すぐさま甲賀衆に情報を送った。
報告を受けた甲賀衆の頭目は即座に幹部を集めて会議を設けた。

「それだけの金があれば、われらを滅ぼすなど造作も無いことじゃ!」

「左様。われらなど一夜にして滅ぼされる。ここは織田に臣従する方が生き延びる道と考える」

信長が大量の金を保有していることを目の当たりにした彼らは、信長に臣従することの是非を問う状態から、信長に臣従する方へ大きく傾く。
自分たちが信長に対する獅子身中の虫であることを理解しているからこそ、甲賀衆は慌てふためいた。人間は焦ると思考や視野が狭くなり、本来見えることが見えなくなってしまう。

もしも斥候たちが大量の金の延べ棒に驚いて慌てて報告を上げず、じっくり調査をしていれば信長が仕掛けた罠に気付けただろう。大半の荷車には金の延べ棒が載っていないことに。
しかし彼らは信長が大量の金を持っていることを『事実』と認識した。以降、信長に探りを入れて金の延べ棒が見つからなくとも、それは『信長が隠している』としか考えない。

「遅くなればなるほど、織田はわれらに不信の目を向ける。遅くとも年が明けるころには、答えを出さねばならない」

甲賀五十三家が集まって合議するが、結論は議論するまでも無く出ていた。資金力の乏しい甲賀衆では潤沢な資金を持つ信長を敵に回して勝利を掴む目は無い。
反織田連合軍へ参陣する声も上がったが、まとまりがない反織田連合軍では仮に参陣しても使い潰される可能性が高かった。

何回も行われた合議の末、甲賀衆は信長へ臣従することを決定した。
信長に臣従の文を送り、望月家と山中家からえりすぐりの忍びを、人質として信長に差し出した。合わせて各地に散らばっている甲賀の忍びに帰陣(きじん)を命じた。

甲賀衆の臣従申し出に信長はほくそ笑むと、彼らに一定の自治を認めつつも以降の作戦行動を逐次織田家に知らせることを命じた。
また差し出された人質以外にも何人かの忍びを雇い入れ、柴田勝家などの家臣に与えた。
優れた甲賀の忍びは第六軍へ迎え入れ、滝川一益の元で仕事に励むこととなる。
こうして情報収集面を強化した信長は、早速第六軍にさまざまな情報収集を命じた。






岐阜にある信長の居館はひり付くような緊張感に包まれていた。信長の義弟に当たる長政、彼の家臣である遠藤と三田村、長政の妻であり信長の妹でもあるお市が信長と対面していた。
今まで世捨て人同然だった長政だが、今はすっきりと爽やかな表情を浮かべており、半年前の醜態は何処にも見られなかった。

義兄上あにうえ、それほど驚くに値しますか?」

ほほ笑みかける長政だが、反対に信長の心中は複雑であった。長政の申し出は信長にとっても予想だにしなかった内容だった。

「……貴様が一兵卒になる、と言われて驚かぬ者はおらぬ」

「ははっ、いつも義兄上には驚かされてばかりでした。たまには義弟の道楽に付き合うのも一興やも知れませぬぞ」

笑う長政だがすぐに表情を引き締める。

「まずは、腑抜け同然だった私を支えて下さった事を感謝いたします。ですが、これ以上、義兄上に甘えるわけには参りませぬ」

「それと一兵卒になると、どう繋がるのじゃ」

「何も難しい話では御座りませぬ。今の私は浅井家から放逐された身。そして、浅井家は織田家を裏切りました。今後、どの様なことをしようとも、その事実が消えることはございませぬ。もはや、浅井家は滅ぶが宿命。そして、歴史に裏切りの一族として名を残すでしょう」

長政は運命を受け入れていた。
そして、織田家と浅井家では兵力も、資金力も規模が違いすぎる。更に信長は裏切り者には容赦しない、長政を家長に据えて浅井家を存続させる等という望みはない。

「しかし、私もかつては浅井家の当主でございました。ゆえに、父上との決着は私自らが付けたく存じます。ですが、裏切り者が兵を貸してくれなどとは口が裂けても申せませぬ。ならば、義兄上の元で一兵卒から身を立てる他に術は御座いませぬ」

「……もし、その前にわしが其の方そのほうの父を討った場合は如何いたす」

「それは天の配剤というもの。私には父を討つ舞台に立つ資格がなかったということでしょう。義兄上、私を家臣にしようと考えてはなりませぬぞ。それをすれば義兄上の家臣たちは面白くないと思うは必定」

「首尾よく其の方の父を討った後はどうするのじゃ」

信長の問いに長政は爽やかな笑みを浮かべる。

「先ほど申したとおり、浅井家は滅びる運命さだめ。父を討った後は……そうですね、義兄上の足元を脅かす存在になりましょうか」

「ぬかせ」

長政の言葉に信長は笑って流す。長政の堅い覚悟を知った今、黙って見届けることが自分の役目だと理解したからだ。

「ははっ、大きな夢を語りすぎましたね……義兄上、世渡りの達者な者ならば、義兄上の軍門に下りましょう。ですが、己が矜持を捨ててまで命を惜しむつもりはありませぬ。賢い生き方とは申せませぬが、これが私なりの生き様でございます」

「其の方の覚悟、確かに受け取った。しかし、それを叶えるには一つ条件がある」

「条件と申されますと」

条件という言葉に長政はいぶかしげな表情をする。反対に信長は不敵な笑みを浮かべると、長政と市を見据えながら条件を口にした。

「折に触れて市に顔を見せに参れ。市の顔が曇れば其の方の頭に雷が落ちると思え」

「それはそれは、恐ろしゅうございます。義兄上の雷は骨身に沁みると専らの噂」

最初に信長が笑い、続いて長政が、そして2人につられて市たちが笑う。

義弟おとうとよ、もしすべてが終わった後に、何もやる気が起きぬのなら、死んだと思って世を回ってみよ」

「死んだと思って……でございますか?」

信長は見抜いていた。長政は父・久政を討った後、腹を切って自害するつもりでいる事を。
周囲の評価は別として、信長は長政の堅苦しい性格を好いていた。他人から不器用だと言われても、愚直なまでに己の信念を貫こうとする姿が、信長にはまぶしく見えた。

「何をするにも自由……されどその自由は死と隣り合わせ。だが、死人が死を恐れる理由はない。死んだと思って生きてみよ。我を捨てて、青き空の下で羽ばたく鳥の如く自由に、気ままに生きてみよ。死ぬのはそれからでも遅くなかろう」

「義兄上……すべてお見通しですか。そうですね……死人となって生きる、それも良いかもしれませぬ。気の向くままに生き、時が来たら地を枕に絶え果てる。浅井家の当主ではできぬ……ははっ……ぜいたくで……うくっ……うう……」

最後まで言い終える前に、長政は両手で顔を覆った。かつて六角氏の支配をはねのけ、見事な戦いぶりに多くの家臣を心酔させた北近江の支配者が泣いた。

戦国時代に於いて裏切りは世の常であるが、失敗は己の命では償い切れず連座制で一族郎党が死罪となる。
どうしても裏切らねばならない情勢に追い込まれる事を考慮して一族の血統が絶えぬよう、他家へ養子を出したり娘を嫁がせたりするのだ。
振り返って浅井家の場合はそう言った対処を取っておらず、此度の裏切りに対する処罰範囲は無論長政にも及ぶ。
言うなれば長政は既に死刑囚であり、現在は単に執行猶予の段階に過ぎない。
しかし信長の態度は北近江を支配する国主であった時も、咎人とがびととなった今も何一つ変わらなかった。
家という戦国時代の枠組みを超えて、一個人としての長政を尊重してくれていると知り、心が震えた。
気が付けば己の双眸そうぼうから滂沱ぼうだと溢れる涙を留める事が出来なかった。

泣き終えた長政はすっきりと爽やかな表情を浮かべ、信長に深く頭を下げた。信長は何も言わず1度だけうなずいた。言葉を交わさずとも互いに言いたいことは伝わっていた。
頭を上げた長政は、今度は遠藤と三田村の方へ身体を向ける。

「遠藤、三田村、私はただの一兵卒からやり直す。こんな私だが、付いてきてくれないか」

「殿……はっ、どこまでもお供いたします」

遠藤と三田村は溢れそうになった涙を堪え、拳を固く握り締めて長政に深々と頭を下げた。






いつの世も権力をめぐる争いは尽きない。久政が北近江の支配者に、再び着任したが信長に敗れた事で政情が混乱した。
家臣の一部は長政を妻子諸共に放逐したことに反発し、面従腹背しつつ信長へ帰順する機会を窺っていた。
しかし信長が本願寺勢力に敗北したことで、近江国の内情は更に混乱し意見の対立を生んだ。
今や近江国の土豪は誰に従えば勝ち馬に乗れるか、そればかり思案していた。

織田家家臣の間でも、権力を巡る争いが発生した。今まで織田軍と言えば森可成が筆頭だったが、彼は宇佐山城の戦いで負傷し前線に立つ事ができなくなった。
森可成は軍事関係から身を引き、信長の政務を補佐する立場となる。
森家は長男・森可隆が家督継承し、軍事関係は次男・長可が担い、信長の小姓として三男・蘭丸、四男・坊丸、五男・力丸が仕える。
森可成の六男・忠政は産まれたばかりのため、信長の小姓として仕えさせるかは保留となる。

自分の立場を優位に立たせようと柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀、木下秀吉の五大将が権力闘争を繰り広げる。
各武将は長所と短所が存在し、力量は拮抗きっこうしていた。そんな彼らが最も味方に引き込みたい人物が、権力闘争でわれ関せずを通している静子と、彼女が率いる静子軍であった。

浅井・朝倉連合軍を坂本で足止めし、延暦寺や浅井・朝倉の抑えであり、京の要路を繋ぐ最重要の宇佐山城陥落を防ぎ、六角勢力を壊滅に追い込んだ武勲は、志賀の陣で信長の危機を救ったと言っても過言ではない。
食料や武具補給の面でも彼女が味方であれば融通が利く。五大将の悩ましい所と言えば、尾張・美濃の特産品はほぼ彼女が関与しており、本人が無欲であるため調略の足掛かりが掴めないことにあった。

静子軍は信長直轄の部隊という位置づけであり、後に後継者の奇妙丸が指揮権を引き継ぐことが内定している。自分たちの直臣にすることも不可能だ。
最終的に直接会う、文を送る、たまに贈り物をするという基本的なこと以外に打つ手がなかった。当の本人である静子は、急に文が増えたことに首を傾げるだけだが。

そんな静子は来年度から試験を開始する水耕栽培(すいこうさいばい)に取り組んでいた。
水耕栽培(すいこうさいばい)とは培地を用いない養液栽培ようえきさいばい方法だ。
水耕や水栽培と言われ、従来は不可能とされた根菜類の栽培が可能で、園芸でも垣根なく栽培に利用されている。
この栽培方法で最も恩恵を受けるのがわさび栽培だ。

わさびは清流と適切な水温、酸素を多く含むのと直射日光を受けない場所と栽培条件が難しい作物だ。必須ではないが水を循環させる場合は、大量に空気を送り込む設備が必要になる。
まず清流が必要な理由は、わさびが放出するアリルイソチオシアネートを洗い流すためだ。
多くの植物は土の中にあるリン酸や水分を根にいるVA菌を使って集めるが、わさびにはVA菌が無いため競争力が弱い。
そこでアリルイソチオシアネートという物質を土の中に放出し、ほかの植物を寄せ付けないようにしているが、この物質は同時にわさび自身の成長も阻害する。この現象を自家中毒と言う。
余談だがわさびをきめ細かくすりおろす理由は、細胞内にあるミロシナーゼという酵素とシニグリン配糖体という成分が反応したときに、辛味成分のアリルイソチオシアネートが生成されるためだ。
自家中毒を防ぐためにも、わさびは常に流水に晒す必要がある。
このとき、水に濁りがあると濁りの主成分である粘土分が広がり、わさびの根が酸素不足を起こす。この障害が起きるため、わさびは澄んだ清流でないと育たないのだ。

次に適切な水温が必要な理由だが、わさびは平均水温15度以下が適正水温だ。16度を超えると水中に溶けている酸素量が不足してしまう。
わさびの成長に酸素は重要で、なるべく冷たい水(平均水温12度)が望ましい。水温が低いほど酸素が溶けやすいのが理由だ。

栽培用の水を循環させる場合、水に空気を送り込む理由は水に溶けたアリルイソチオシアネートを飛ばすためだ。
アリルイソチオシアネートは揮発性が高いため、曝気ばっき(液体に空気を供給する行為)を行えば蓄積を防げる。

奇麗な水が流れ、砂利や小石だけで粘土分がなく、水温が平均13度から14度程度、水は酸素が豊富に溶け、なるべく日陰という面倒な条件を満たさなければならない。
自然環境を利用しての栽培は土地を選ぶが、水耕栽培は栽培に必要な条件を満たしやすい。

静子がわさび栽培用に用意した環境は単純だ。まず水供給槽、次に栽培槽を多段式に設置する。最上位のわさび栽培槽の上にろ過槽を設置する。
ろ過槽は穴あき底板を多段式に設置し、それぞれの槽に火山岩を敷き詰める。このろ過槽に水をシャワーのようにかける。
火山岩に触れることでろ過され、また水の流入をシャワー式にすることで水の表面積を増やし酸素を取り込みやすくした。
この奇麗な水がわさびの栽培槽に流れる。各栽培槽の出口には排出口が存在し、この場所を通って下部の栽培槽に水が流れる仕組みだ。
最下位の栽培槽まで通った水は水供給槽に戻り、曝気を行う槽へ送られる。現代ならエアポンプを使えば曝気を行うことは可能だが、戦国時代にエアポンプは存在しない。
方法がないように見えるが、負圧の原理を使いエアポンプもどきを作ることは可能だ。

まず水供給槽より下に曝気槽を作り、水供給槽につながった竹製の排水パイプを通す。
その排水パイプにストロー程度の径を持つ穴を開け、ファクチス製のチューブ(以降、エアチューブとする)を通して先端を斜めにカットする。
斜めにカットした口が排水の出口の方へ向けた後、エアチューブの反対側を空気中に出す。
空気に当たることでバキューム圧(負圧)が発生し、圧力が空気を取り込んで水に大量の酸素を供給する。
この負圧の原理を応用して水へ酸素を大量に送り込み、同時にアリルイソチオシアネートを飛ばす。
端的にいえば有り合せの材料で作ったディフューザーだ。この水をくみ上げてろ過槽へ送れば、再び酸素を多く含む清流を送り込める仕組みだ。

静子がわさび栽培に使う循環型の多段わさび栽培装置だ。酸素供給された水供給槽の水を水撃ポンプでくみ上げろ過槽に流せる装置を作れば、後は自動で処理される。
排水弁から排水された水も、水車と歯車を利用したくみ上げ装置を経由して水供給槽に戻る。
ビニールハウス栽培すれば害虫をなるべく避けられる。水も水温が高くなれば近場の山にある地下水に入れ替えを行えば良い。
毎日水温チェックは必要だが、それ以外は水の入れ替え程度だ。1年も経てば立派な沢わさびが出来上がる。2年栽培すれば戦国時代では見ることのできない立派なわさびが収穫できる。

「本わさびは美濃で見つけたし、砂利や小石は近くにある川から取ってくれば良いからね。2haほどの広さを取ったから4万本ぐらい栽培できるかな?」

「相変わらず栽培数の桁がおかしいな。しかしわさびが大量生産できるのなら、わが国も潤うというものよ」

わさび栽培装置を静子と一緒に見ていた奇妙丸が、感心したようにうなずく。わさびは飛鳥時代から栽培されていた記録が残っているが、本格的に始まったのは江戸時代前期だ。
戦国時代にわさびの栽培は行われておらず、食用は自生しているわさびを収穫するだけだ。

「根、茎、葉、花と捨てるところがないからね。まぁ皆が欲しがるのは根っこだろうけども」

「京で聞いたが、何でも下ろすのに鮫の皮? とやらを使うそうだな」

「難しい説明は省くけど、細かい目でゆっくりすり下ろすと、辛味成分が良く出るのよ。そういう意味でも鮫の皮が一番ね」

奇妙丸の質問に答えながら静子は水温を確認する。冬の寒さもあるが水温は12度とわさび栽培に都合の良い温度だった。
ガラス製造が可能となったことで棒状水銀温度計の製造も可能となった。
量産が難しいものだが利用価値が高いので、静子はビニールハウスや水温、地温チェック用に合計10本の製造を依頼した。
棒状水銀温度計のおかげでビニールハウス内の温度も観測しやすくなり、室温確認の作業が手早く済むようになった。

「1年ものの本わさびと、2年ものの本わさびを分けて、栽培しつつ品種改良をするか」

自生のわさびから種を採取し、栽培しているわさびと掛け合わせれば、いずれ水耕栽培に適した品種が生まれる。生まれる時期は分からないが、常に同じ品種を栽培し続けるよりは良い。

「んー、作業終わり。次は酒を配る手配をしないとなぁ」

「大変じゃのぅ。まぁ岐阜酒造会社の設立者なのだから、頑張れとしか言いようがない」

「そんなご大層な立場に立つ気はなかったのだけれどね」

奇妙丸の言葉に静子は苦笑する。尾張・美濃の酒業界は少し前まで壊滅状態だった。
しかし静子が醸造街に組み込んで立て直しを図り、酒のバリエーションを増やしたことで、濁酒はもちろん、岐阜米や尾張米で作られる清酒、薩摩芋を原料とした芋焼酎、ホワイトリカーを使った梅酒など果実酒、糖蜜を原料としたラムと、今では名だたる酒造の地となった。
各土地で作られた酒は名称を「岐阜酒」に統一し、尾張・美濃で酒造にかかわる人間を「岐阜酒造会社」という組織に加入させた。

岐阜酒造会社は醸造街と商人の橋渡しをする組織だ。戦国時代、商品を正しく届ける考えなどなく、場合によっては金子を奪って商人を殺害、またその逆もしかりと殺伐した時代だ。
その様な事態にならないよう商人が安全に酒を売買でき、過当競争を抑え、商人を一つの会社に所属させ、税の徴収を一元管理することを目的として岐阜酒造会社は設立された。

基本的に酒造家と商人を繋ぐ会社で、加入自体は無料だ。しかし酒造家から酒を買うには「株式」と呼ばれるものを購入する必要がある。これは現代でいう出資金に当たる。
この出資金が多い人間ほど醸造街の発展に貢献しているため、株式の保有数は増える。株式の保有数に従って買える酒の限度量が決まる。

酒を買うこと自体は株式を保有していない者でも可能だ。しかし株式を保有することは、醸造街の発展に寄与しているため、さまざまな特典が付く。
株式を持っていれば、岐阜酒造会社の運営にもかかわれる権利を行使できる。現代と同じく株式の保有数が多い者ほど意見が通りやすい。
議題を提起することは1株しか持っていない者でも可能だが、可決には発行済み株式の過半数に相当する賛成が必要となる。

次に酒を買う金額は株式未保有者より低い。例として、株式保有者が100文で1リットル購入できるのに対し、株式未保有者は100文で700ミリリットルしか購入できない。
また利益が出た場合、年に1回の利益分配が行われる。分配される対象は金子か酒かを選ぶことができる。

株式の譲渡は可能だが、織田家に反旗を翻すと株式の権利はすべて消失する。
株式を表章する有価証券として株券を発行するが半券方式で半分を織田家が保管し、残り半分を購入者が保管する。
権利を行使する際は突き合わせが行われ、また議事録を作成して誰がどの様なことのために権利を行使したか記録される。
株式の保有数は設立を承認し軍事力を貸し出している信長が30%、取りまとめ役の森可成が11%、ブランドを立ち上げた静子が10%保有している。
残り49%を商人が購入している関係から、信長と森可成、静子の意見が一致すると意見は通らない。逆を言えば3人の内誰かを説得し、納得させれば信長が反対しても意見が通る。
これは信長の独断にならないよう、彼自身が配慮した結果だ。商人に旨みがあるように見せて出資金を出させる計算も含まれてはいる。

酒の購入は仕込みの段階でおおよその生産量が計算され、総量が株式保有者に伝達される。
それを聞いた商人が織田家へ購入する酒の量を申請する。
後は生産された酒を織田家がいったん買い取り、商人へ届けて酒の量にあった酒税を加算した代金を要求する。代金を支払うことで商人は、安全に酒を手に入れる寸法だ。
購入されなかった酒は酒造家が自分で消費する分や、近所に配る分を除き織田家がすべて買い取る。

静子は毎年10%で購入できる限界まで酒を購入している。彼女が呑むのではなく、慶次や才蔵、長可、奇妙丸が呑むためだ。
それでも尾張・美濃で生産される酒の1割は、個人消費では収まらない量だ。ゆえに余剰分を武将に低価格で売っていた。
酒のバリエーションが増えた結果、各武将が好む酒が奇麗に分かれてしまった。
柴田や佐々はアルコール度数の高いラムを、前田利家は梅酒、森可成や秀吉は清酒、丹羽は芋から作られた焼酎を好んだ。

「さすがにラムは出荷量が厳しいね」

廃糖蜜から作られるラムは長期間寝かせる必要がある。その関係で日本酒のように仕込んだ年に出荷することができない。

「まぁ現状、2人しか呑まないから大丈夫だけど」

現状は柴田勝家と佐々成政しか呑まないが、呑む人間が増えれば今の生産体制では賄いきれない。生産体制を見直す必要があると静子は思った。






わさび栽培のビニールハウスから家へ戻ると、静子は彩が用意した目録に目を通す。
酒の量がきちんとまとめられているが、まだそろばんを扱い切れていないのか計算する部分だけ空白だった。
静子はそろばんを机の上に置くと、売る酒の量と金額、残りの酒量を計算する。

「そういえば酒は羊羹ようかんのようには揉めなかったのか?」

猫と戯れながら思索に耽っていた奇妙丸が、ふと思い出したようにつぶやく。

「……うん、意識して思い出さないようにしていたことを思い出させてくれてどうもありがとう」

羊羹は一般的に小豆(あずき)が主体のあんを型に流し込み、寒天で固めた和菓子を指す。
寒天でしっかり固めたものを煉羊羹ねりようかん、寒天を少なくして柔らかくしたものを水羊羹みずようかんと言う。
また寒天の代わりに小麦粉やくず粉を混ぜて蒸したものを蒸し羊羹と呼ぶ。
羊羹は糖度が非常に高いため、適切な状態であれば常温で1年以上の長期保存が可能だ。
この特長を生かして現代は非常食、または軍隊の栄養補助食品として扱われることもある。

それほど高効率の羊羹を、静子が織田軍のいくさ飯として採用しないのはワケがある。
端的に言えば柴田と秀吉の2人が、互いに自分の好みでいさかいが起きたからだ。
正確には彼らだけでなく明智光秀、丹羽長秀、滝川一益、森可成など武将ごとに好みが分かれてしまった。
この騒動の引き金を引いたのが他ならぬ静子だった。

現代の羊羹は多彩な種類があるが、戦国時代は砂糖を贅沢に使った砂糖羊羹と、砂糖を使わず小豆だけの羊羹の二種類が主だ。
そこに静子は現代と同じくこしあん、つぶあん、栗、抹茶、塩、蜂蜜、柚、紅茶と豊富な種類を作り上げた。
ある程度のグループはできたものの、好みが完全に分かれてしまった上に己の好む羊羹こそが最高と言い出し、いくさ飯として採用するのが困難になった。
下手に一つだけを採用すれば、それこそ家臣同士での諍いでは済まなくなる。それなのに信長は騒動を楽しむから誰も止められなかった。
『羊羹の乱』と呼ばれた一連の騒動は羊羹の名前を広めたと同時、いくさ飯として採用することが不可能となった。

「表立って争わなくなったけど、水面下ではまだ続いているのだよね」

沈静化したように見えて家臣内の羊羹争いはいまだ続いている。権力闘争ではなく食べ物の好みによる諍いのため、信長も大して気にとめず放置している。

「食の好みは難しいのぅ」

「まぁそのお陰で店ができたから、それはそれで良い結果? とも言える……か?」

織田家家臣内の羊羹熱は彼女の予想を超える早さで広まり、今やステータスシンボルの一つとなった。下の者は羊羹をたらふく食えることを夢見、日夜武功を上げようと励む。
上の者はご褒美用に羊羹を買い酒の肴にしたり、茶と羊羹を楽しんだりしている。こうなると静子1人では対処できない量が求められる。
仕方なく静子は五郎を監督にし、岐阜に織田家御用達の甘味処『岐阜屋』を開いた。まだ保存能力が弱いことから受注生産の形にしたが、それでも半年先まで予約が埋まっていた。

「そろそろ彩ちゃん1人じゃ書類をさばききれないし、事務・経理担当が欲しいところ」

しかし、事務担当の人間を探すのは容易ではない。武勲を立てて立身出世を目指す者は多くいても、主君を陰で支える文官を探すのは極めて困難だ。
仮にいたとしても既に他の主君に仕えていることが多い。ゆえに、事務担当の人間は探すのではなく、自分で育て上げる必要がある。

(そういう意味でも彩ちゃんは優秀なのだけど……さすがに無理はさせられないかな)

何とかならないかと考えた静子だが、簡単に現状を打破する案は浮かばなかった。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ