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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀元年 第一次織田包囲網

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千五百七十年 八月下旬

コショウ栽培は予想をはるかに超えて困難だ。静子はそう思わずにはいられなかった。そして、現代がいかに恵まれた時代かを痛感した。

コショウの苗木を90本、種を100粒購入し、尾張に運んだときは苗木が45本、種は70粒。
そこから育った苗木は何と12本。種に至っては発芽したのが6粒という散々な結果だった。
しかも、苗木は途中で2本ほどしおれてしまい、さらに発芽した種は2粒が発芽後数日で変色し、そのまま腐ってしまうおまけ付きだ。

二か月ほど栽培して元気な苗木は10本、発芽から成長を続けている種は4粒だけだ。
成長したコショウがあること自体、奇跡と思えたが最大の難関が一つ残っている。現状のままでは日本の冬を越えられないことだ。
そのための対策として、ビニールハウスの建設に急いで着手する。しかし、普通のビニールハウスではなく、ちょっとした施設が追加されるので、建設に少し時間が必要だった。

コショウ栽培に奮闘しつつ、静子はフロイスと会談をする。目的はさらなる作物の入手だ。
プラントハンターを持てない以上、海外の作物を手に入れるにはフロイスたちイエズス会を頼る他なかった。
壊血病の件がよほど衝撃的だったのか、いつもはロレンソがお供だったフロイスの後ろに、何人かの若い修道者が控えていた。
皆、15歳から17歳の若者だったが、1人だけ修道女がいたことに静子は内心驚いた。

(この時代、シスターって海外に出られたっけ?)

疑問に思ったがどこか裕福のお嬢さまが修道女として派遣された、と思うことにした。

中世のカトリック教会で修道女は誰でもなれたが、扱いには格差が存在していた。
良家の女子は相応の寄付金を持って入ることが多く、修道院内でもそれなりの待遇を受けていた。軽い仕事しか割り当てられず、読み書きを学び、さまざまな書物から神の教えを学んだ。
逆に一般人の修道女は炊事洗濯掃除や農作業などの重労働が割り当てられた。そこから考えれば、日本へ来た修道女は相当身分の高い人間の娘、ということになる。

(いや、もしかしたら魔女狩りから逃れるためかも……?)

「申し訳ありません、この者たちは、私の元で修行をしたいと望む者たちです。修行中の身でありながら人に教えるなど、大変おこがましいと思いました。ですが、神のおぼしめしなのだと思い、受け入れることにしました」

静子の視線に気付いたのか、フロイスが苦笑しながら修道士について説明する。紹介された彼らは静子へ顔を向けると小さく頭を下げた。彼らに釣られて静子も頭を下げる。

「本日は新たな作物の依頼で参った。無論、依頼内容に見合う資金は用意した」

言葉と共に静子は小姓を呼ぶ。大きな木箱と書類が乗せられたお盆をフロイスの前へ置くと、小姓たちは一礼して立ち去る。
書類の方から手にとったフロイスは、中身を一見する。すべて見終えた後、彼は人の良い笑みを浮かべて言葉を口にした。

「頭巾宰相殿は、動物だけでなく植物にもご興味がお有りでしょうか?」

「……わが国は合戦と災害続きで、常に民が飢え苦しんでいる。いずれお館様が日ノ本を統一しようと、肝心の民が飢えていては話にならない。よって、多種多様な作物の研究が急務となっている」

「そうですか。しかし、本当に多種多様ですね。バナナ、カカオ、コーヒー、マンゴスチン、ライチ、ランブータン、ドラゴンフルーツ、マンゴー、イチジク。果実が多く見受けられますし、初めて聞く名も多いですね」

「左様。この国に来るとき(・・・・・・・・、各地で食した果実だ。注意する作物はカカオとコーヒーであろう。カカオはスペイン帝国が、コーヒーはオスマン・トルコ帝国が独占している。少々、手間がかかるかも知れぬが、無理なら無理で良い。いずれ機会はやってくるであろう」

「(この国に来た……? 最初から日ノ本を目的としていたのでしょうか)コーヒーは異教徒の飲み物、と同僚から聞きしました。私個人としては、おすすめは致しません」

コーヒーは1454年に一般民衆の飲用が正式に認められると、中東・イスラム世界全域に広まる。
欧州にコーヒーが伝来すると、一気にコーヒー熱が広まったが当時コーヒー豆はトルコの専売品であった。
発芽しないよう一回煮沸し、秘密が厳守できる専門の職人で固めるほど念の入れようだった。
カカオも同様でスペインの硬い秘密に守られ、100年以上カカオの実は単なる羊のふんと周辺国に思われていた。

ここに大きな抜け道があった。アステカの人々はカカオの種を知っていたが、カカオポットを詳しく知っている人間は少ない。
そして、コーヒーもトルコは種の発芽に気を使っているが、コーヒーの木が挿し木で増やせることは知らない。
硬い秘密で守り過ぎていることから起こる、持ち出し禁止品以外に姿を知る人間が少ない点を狙った密輸方法だ。
余り褒められた方法ではないが、からめ手を講じなければ海外の作物は輸入できない。
静子自身は特に必要ではないカカオとコーヒーだが、タイムスリップ時に持っていたチョコを安易に信長へ譲ったこと、そして大豆コーヒーが代用品だと信長に教えたことで必要となった。
考えるだけで頭が痛くなる話だが、期待に胸を膨らます信長を前に断れるはずもなく、こうしてフロイスからカカオやコーヒーの苗木を入手できるよう交渉する羽目となった。

「コーヒーがイスラームの飲み物だからでしょうか」

「ご承知でしたか。ならば、私がそのように回答することも、ご理解していただけると思います」

「はい、理解しております。しかし、こうも考えられませんか。コーヒーのようなうまい飲み物を悪魔が独り占めするなど許されない。洗礼を授け、やつらから奪い取ってやろう、と。異教徒のれ言ですが、某ならそう考えます」

静子の回答にフロイスは絶句する。フロイスだけでなくロレンソ、後ろに控えている修道士たちも同様だった。だが、頭の理解が追いついたフロイスは、静子の予想に反して大笑いした。

「失礼。その様なお考えをされるとは、少し呆気あっけにとられました。確かに頭巾宰相殿のおっしゃるとおりです。悪魔の力になるコーヒーに洗礼を授け、やつらの独占を防ぐのも神のおぼしめしにかなうでしょう」

ひとしきり笑ったフロイスだが、すぐにすっきりと爽やかな笑顔を浮かべた。

「作物の件、承知しました。資料の絵から探す故、お時間を頂くことになりますがご容赦いただきたい」

「時間がかかることは承知しております。では、よろしくお願いいたします」





フロイスとの会談は円満に終わる。コーヒーやカカオの入手は困難だが、仕事に見合う資金を渡している。ゆえに、入手できるか否かは彼らの腕次第だった。
静子がイエズス会に種や苗の入手を依頼するのは、彼らの影響力が理由だ。
紫キャベツや結球型のキャベツ、いんげん豆、オリーブ、寧波金柑(ニンポウキンカン)、ヤギ、羊など、普通に手に入るものは多少の金を積めばポルトガル商人から入手可能だ。

ヤギや羊は毛肉はもちろん、草刈り動物としても優秀だ。傾斜地の除草はヤギ、平地の除草は羊とそれぞれ得手不得手はあるものの、多少の手間をかけるだけで除草をしてくれる。
2種とも毛、皮、肉、乳と捨てるところが少なく、特に毛は防寒着として優秀だ。
ゆえに、ヤギのザーネン種やカシミア種、羊のシェトランド種やサウスダウン種(オールド・サウスダン)など多くの品種を輸入した。
羊と言えばスパニッシュ・メリノが最も有名だ。だが、18世紀のスペイン独立戦争に列国が介入し、戦利品としてスパニッシュ・メリノを持ち去るまで門外不出の秘蔵種だ。

「いんげん豆と、キャベツ、紫キャベツ、チンゲン菜、寧波金柑(ニンポウキンカン)は種を増やし中。鉢植えだけどオリーブも栽培中。ヤギと羊はみつおさんにお任せ中。うーん、ここいらがポルトガル商人の限界かなぁ」

困難な場所にある作物となると、とたんに商人は及び腰になる。だが、宣教師は別だ。
彼らは苦難の道を試練と考え、難なく受け入れる。その辺りの精神力が違うため、静子はイエズス会を頼ることにした。
無論、キリスト教の価値観が強い欠点はあるが、それでもプラントハンターを組織し派遣するよりは安い。

「南蛮の小刀と材料の鉄塊を輸入する。伴天連ばてれんに果実の種を依頼する。ほんと、静っちはいろいろと忙しいねぇ。聞いたこともない果実の味は、楽しみではあるがな」

「南蛮の小刀ってダマスカスナイフのこと?」

慶次の言葉を聞いて、静子は腰に下げている小刀を触る。
全長450mm、刃長295mm、刃厚5mm、層構造は不明という性能だ。ハンドル(ナイフの握り部分)の素材は正確には分からないが、インドということで水牛の角と静子は考えた。
(シース)は分厚い牛皮製で、堅牢で頑丈そうに見えた。全体的に良く出来ており、職人のこだわりが感じられる。
留め具部分など一部にインド産の真鍮しんちゅうが使われていた。
インドは12世紀には綿を還元剤として金属亜鉛を精錬し真鍮しんちゅうを製造していた。
その技術は16世紀に中国へ渡り、以降中国も金属亜鉛と真鍮しんちゅうを製造した。

「しかし、どの様な心境の変化でございましょうか。名刀蒐集をされておりましたのに、急にわれらに刀を下賜し南蛮の小刀を求めたことにこの才蔵、いささか疑問を感じます」

「ちょっとした事情ができちゃってね」

姉川の戦い以降、足満は正式に静子の家臣となった。しかし、彼が天下五剣の内の一つ『三日月宗近』を持っていることで面倒事が起きた。
天下五剣は静子が精力的に集めているが、まだ誰にも下賜したことはない。足満だけ持っている状態は、外聞が悪いと静子は考えた。
ゆえに、バランスを取るために童子切安綱を慶次、鬼丸国綱を才蔵に譲った。長可には渡せてないが、大典太光世か数珠丸恒次が手に入りしだい、譲る約束を交わした。

信長が姉川の戦い後、どういう話し合いをしたか不明だが、足利家の重宝である大典太光世を持ち帰ってきた。
ほかにも二つ銘則宗、骨喰藤四郎、大般若長光など足利家の重宝を持ち帰ったところを見るに、密書の件で政治的取引を行ったのだろうと静子は推測した。

(でも数珠丸恒次は日蓮上人の三遺品として、身延山久遠寺に保管されているのだけど、どうやって手に入れるつもりなのだろう?)

考えてみたが思いつかなかった静子は、思いきって考えるのを止めた。深く考えると何かろくでもない結果が見えてきそうと思ったからだ。

「それにしてもフロイスさんと会談、目安箱の中身を回収、と移動の多い仕事ばっかりだよ」

自身の肩をもみながら静子は愚痴をこぼす。
フロイスとの会談で新たな品種の輸入を計画した静子だが、目的はそれだけではない。目安箱の内容確認という大事な仕事がある。

目安箱は1721年(享保きょうほう6年)に徳川吉宗が設置したものと言われているが、相模国の北条氏や甲斐武田氏など、戦国時代にも目安箱の制度を実施した者はいる。
なお目安箱の目安は訴状のことで、江戸時代では単に箱としか呼ばれていなかった。箱が目安箱に変わったのは明治時代以降である。

投書は当初さまざまなものが許されていたが、間もなく厳格なルールが適応される。
まず内容は江戸時代と同じく『政治に役立つ意見』か『役人たちの悪事・不正に関する通報』の二つだけが投票内容として認められる。ほかは対象外とされるがファイリングして管理する。
住所(村の名前)と氏名を明記する。投票できる日は二か月に1回、午前9時から午後2時までの間だけだった。

これだけ細かい規定がありながらも、毎回多くの投書が集まった。真偽の疑わしい、確認が困難な訴えも少なからず入っていたが、政治に有効活用できる有益な情報も入っていた。
無論、すべての訴えがかなえられることはなく、中には優先度が低い内容もある。
しかし、開発できる土地の進言を受け新田開発を行う、養護を要する児童のために児童養護施設を建てる、山賊の通報を受け討伐を行う、河川利用の仲裁を行うなど、目安箱の意見を元に実現した政策はいくつもある。

「今回もたくさん入ってるだろうね」

「あまりにも目安箱が大人気になったために、管理する兵に酒を贈る習慣ができちまったしな」

目安箱の中身は民の人気取りや、不満を解消するために用意された箱だ。不備があってはならぬとのことで、箱が置かれる間は何人かの見張り役が配置される。
しかし、季節が冬であれば雪降る中、何の暖房器具もない状態で立たされるのだ。夏であれば炎天下の中、日陰に入れず見張り役となる。
交代もなく厳しい環境で見張り役を務めることをいたわるため、静子は自身の酒蔵から一升瓶分の清酒を兵士に贈った。それが、いつしか酒目的に目安箱の見張り役を買って出る人間が増え、毎回選別に苦労する羽目となった。

酒は戦国時代を語る上でなくてはならない道具であり、同時に莫大ばくだいな富をもたらす代物だ。
江戸時代に入るまで、高品質な酒と言えば大寺院で酒造される僧坊酒そうぼうしゅだ。ゆえに、信長は彼らの酒を対抗勢力と考え、名声をつぶすべく大寺院へ間者を送り込んでいた。
無論、大寺院側も信長の醸造街に間者を送り込んでいるが、ほとんどは番犬により見抜かれ人知れず消されていた。

「おっしゃ、来たーーーーあ、も、申し訳ありません! お、お疲れさまです!?」

目安箱が置かれた場所に到着すると、静子の姿を見た兵士が飛び上がらんばかりに喜ぶ。だが、才蔵のにらみに気付いてすぐさま態度を改める。

「馬上より失礼するよ。定刻になったので、目安箱の設置は終わりとします。この後、部隊長に報告したら解散して良い。酒は贈ってるから、後で同僚と呑むと良い。話は以上、何か質問はある?」

「いえ、ございません!」

「……まぁ良いか。仕事お疲れさん。後はこっちが引き取るよ」

心ここに在らず状態の兵士に半分あきれた静子だが、長く引き留めるのも悪いと思い見なかったことにした。
ますます険しくなる才蔵の顔におびえながら、兵士たちは駆け足でその場を去った。

「お、今回も結構な重さ」

目安箱を抱えると、箱からずっしりとした重さを静子は感じた。しかし、中に入っているのは紙、腰が抜けるほどの重さではなかった。

「もし、よろしいでしょうか」

馬に目安箱をくくりつけ、馬に乗ろうと静子があぶみに足をかけた瞬間、背後から声が飛んできた。
あぶみから足を外して、声のした方に顔を向ける。雲水(修行僧)が静子を見ていた。彼は深くかぶった笠を上げて顔を見せ、深々とお辞儀をした。

「失礼、拙僧は不識庵と申します。その箱について、少々伺いたいことがあるのですが、今お尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「ああ、はい。構いませんよ。答えられる範囲でしたら、私がお答えします」

人の良い笑みを浮かべた静子は、雲水の方に身体を向ける。才蔵は馬から下り、慶次は馬にまたがったまま、しかし雲水を注意深く観察していた。
何かあればすぐさま慶次が静子を抱え上げて逃げ、その間に殿として才蔵が槍を振るう体勢だった。言葉にせずとも阿吽の呼吸で動いた2人に、雲水はわずかばかり反応を示した。
が、すぐに笑みを浮かべると静子へ疑問を口にする。

「貴女が持っている箱は、民が意見を投書する箱であると聞きました。失礼ですが、民から意見を公募する理由が拙僧には分かりませぬ。どのような理由で民から意見を求めているのでしょうか」

「支配する側が支配される側に何か言うように、支配される側も支配する側に言いたいことぐらいあるじゃないですか。支配される側の声に支配する側は耳を傾け、同時に支配する側の声に支配される側は耳を傾けないと、国は良くない方向に向かってしまいます」

静子の言葉に雲水は驚いた顔をする。彼の驚きも無理はない。獣のように利ばかり求める乱世において、静子のように双方の利益になる意見は皆無だからだ。
さらに理想を語っているわけではなく、現実に即して実行する。なかなかできることではないと理解した雲水は、柔らかい笑みを浮かべて何度か頷く。

「人のためと申して自分をないがしろにするわけでもなく、さりとて自分のためだけに人をないがしろにするわけでもない。貴女の考えは立派で、そして夢想を語るだけではない」

「そこまで立派なことは考えていません。それに、聞こえは良いですが、結局は自分のためです。民から開発できる土地の報告を受け、開墾を行っても結局は税が増えることを目的としていますから」

無料の養成所を建てても、労働力となる民を維持するのが目的だ。開墾できる土地を公共事業で開発しても、納められる税を増やすことが目的だ。
目安箱は民の不満を聞くための政策と聞こえは良いが、織田家の利益を第一に考えて動いていることは否めない。
事実、目安箱の意見を元に政策を立てても、織田家の利益が高いものから進められ、低いものは後回しにされがちだった。

「言うはやすく行うは難し、です。ご覧なさい民の顔を。皆、良い顔をしています」

雲水に言われて静子は道行く人たちの顔を見る。乱世を生きている彼らは、みな笑顔を浮かべていた。明日には死ぬかもしれない、ということが全く感じられない笑顔だった。

「領主の行う政の結果は、民の顔に出ます。貴女が利を計算して政を行おうとも、民が笑顔を浮かべているのなら、それは貴女の政に感謝していると受け取って良いと思います」

「あ、ありがとうございます。面と向かって言われると照れますね」

雲水の褒め言葉に恥ずかしくなった静子は、気恥ずかしさをごまかすために頬を軽くかく。その反応が初々しいと感じた雲水は、優しい笑みを浮かべる。

「名残惜しいですが、友との約束がありますので、これにて失礼」

「あ、はい。道中お気をつけて」

笠の紐を結び直した後、雲水は静子に深々と頭を下げた。彼につられて静子も頭を下げる。頭を上げた雲水は最後に小さく笑みを浮かべた後、静子たちの元から立ち去った。

「変わった人だったね」

「ああ……そうだな」

雲水の背中が見えなくなったころ、静子は馬に乗りながら2人に話しかける。慶次からあやふやな返答が帰ってきたことにいぶかしんだ静子は、彼の方へ顔を向ける。
慶次は普段見ないような真面目な顔つきをしていた。しかし、静子の視線に気付くと、いつもの屈託な笑顔を浮かべる。

「ちょっと昔を思い出していた。さ、辛気くさい話は終わり。さっさと戻ろうぜ」

「え、あ、うん。そうだね、早く帰ろうか」

言うやいなや静子は馬の手綱を操って帰路につく。彼女の後ろに慶次と才蔵は並ぶと、2人だけに聞こえる声量で言葉を口にした。

「(何人いた)」

「(少なく見積もって……四十は下らない)」

「(何もなかったから良かったが、隙間無く人が配置されているなんて、あの僧はどこかのお偉いさんか)」

言うと同時に慶次は大きくため息を吐く。静子は気付いていなかったが、2人は雲水の周囲に護衛と思わしき人間の気配を感じ取り、さらに全員が臨戦態勢であることをすぐに知った。

「(分からぬが注意しておく必要はある。間者を放つか?)」

「(無駄だ。すぐに尾行を知られて消されるのが落ちだ。今回はこのまま引き下がろう)」

結論が出た2人は雲水を心の片隅に追いやり、普段どおりの顔をする。静子に余計な心配をさせないための、彼らなりの配慮だった。
慶次は懐から煙管を取り出すと、火をつけてたばこをふかす。

(しかし、無意識の内に死を覚悟するとは、才蔵は随分静っちにほれ込んでいるようだ。ふっ、無論俺もだが)

最初は興味半分だった。幾ら信長の命令とはいえ、女の馬廻衆になることなどばかにしているにしか聞こえない。だからこそ慶次は強い興味を抱いた。
わざわざそこを理解した上で、信長が静子に馬廻衆を与えた理由を。その答えはすぐに出た。

静子は次の行動の予想がつけられず、とにかく目が離せない人物だ。
着飾った服を着て信長と会談したかと思えば、翌日は作業着姿で土いじりをしている。信長に従属しているかと思えば、真っ向から反論するときがある。
放置しておけば何をしでかすか分からず、寸分も目を離すことができない。それが静子に対する慶次の人物評価だった。
そして、この考えは自分だけに限らず、才蔵や長可、そして兵たちも同じだと彼は考えていた。

飢饉ききんを滅ぼすために天下を取る。織田の殿様とは違った天下を吠えた静っちの夢ーーーー良いねぇ、でっかくて深く、それでいて死ぬことを恐れぬ夢だ)

煙管をふかした後、慶次は静子の背中を見る。人は頭の夢の深さでついて行くことを決める。
その夢が深くて大きいほど、下の者は頭が何度負けようと立ち上がり、ひとたび合戦に出れば生を捨てたいくさ人となる。
その点を考えれば静子の夢は、底が見えないほど深く、そして海より大きいと慶次は思った。

「(この国を統一するのは過程。真の天下統一は誰もが飯を食える国を作ること。最後の敵は天そのもの……無謀すぎる話だ。だがそれがいい。それぐらいでかい夢だからいい!)静っち、今日の夕餉ゆうげは何かな?」

胸の熱い想いを押さえ込み、慶次は笑みを浮かべて夕餉ゆうげのことを静子に聞く。
質問を投げられた静子は顎に手を当ててメニューを考える。すると、今まで黙っていた才蔵が軽くせき払いをする。

「先日、みつお殿が作られたちゃぁはんとすぅぷ、あれは美味でございました」

「おいおい才蔵、こっそり要望を出すな。それなら、俺は親子丼ってやつが良いな」

「好き勝手言うのは自由だけど、実際に調理するのは彩ちゃんなの忘れないでね」

2人の要望に静子はあきれてため息を吐く。しかし、本気で嫌がっている様子はなく、むしろ夕餉ゆうげのことを考えるのを楽しんでいるように見えた。

「で、夕餉ゆうげ後の酒はどの程度欲しいの?」

慶次と才蔵は互いの顔を見てうなずき合った後、爽やかな笑みを浮かべて告げる。

「1升(1.8リットル)」

「駄目。4合(720ミリリットル)で我慢しなさい」

許可が下りなかったことに2人はがっくりと肩を落とす。そんな2人を見て静子はにこやかな笑みを浮かべて言葉を続ける。

「しかし私の手伝いをしてくれるのなら、1人7合(1.2リットル)まで許可を出すのもやぶさかではありません。さて、お二人の返答はいかに?」

静子の提案に2人は秒を置かず承諾した。






七月二十一日。
かつて畿内を支配した三好三人衆は阿波国岩倉城主の三好みよし 康長やすながや三好氏の家臣で阿波国上桜城主の篠原しのはら 長房ながふさらの協力を得て、阿波国から和泉国に渡海した。
七月二十七日に上陸すると、彼らはすぐさま進撃し摂津国中島の天満森に布陣した。
盟主に管領かんれい家の嫡流である細川(ほそかわ) 昭元(あきもと)を擁した三好三人衆軍の兵力はおよそ一万三千だ。
軍勢の中には後に本願寺に助勢し信長を苦しめる紀伊国の雑貨衆を率いる雑賀(さいか) 孫一(まごいち)鈴木すずき 重秀しげひで)、北伊勢の長島へ亡命している斎藤龍興などがいた。

八月に入っても三好三人衆は進軍を続け、かつての所領を回復する。続けて、京への侵攻を足掛かりにするために摂津国伊丹城の城主・伊丹(いたみ) 親興(ちかおき)を攻めた。
さらに石山本願寺にほど近い野田と福島に砦を築くと、淡路国から三好一族の安宅あたぎ 信康のぶやすが駆けつけ尼崎に陣取った。
摂津国池田城では城主の池田勝正が、三好三人衆の調略に乗せられた家臣の荒木村重と一族の池田知正(池田長正の嫡男)によって池田城から追放された。
池田長正の娘をめとり、池田家の一族衆になっていた荒木村重は、この混乱に乗じて池田家を掌握する。

この事態を重く見た将軍の義昭は信長へ連絡し、畿内の守護たちに三好三人衆の追討命令を下した。
義昭の命令に河内守護の三好義継と河内下半国守護の畠山昭高は応じ、河内国古橋城で三好三人衆の侵攻を食い止めようとした。
しかし、彼らの進軍を止めることはかなわず古橋城は陥落した。

大和国守護の松永久秀も大和と河内の国境境にある信貴山城に移り、この城を拠点として三好三人衆の迎撃体制を作った。
だが、後方にいる筒井や箸尾らの国人衆が蠢動(しゅんどう(力のないものが騒ぎ動くこと)する可能性があったため、積極的に三好三人衆へ討って出ることができなかった。

信長は三好三人衆の進軍に激怒すると、損耗した兵士を補填ほてんし、八月二十日に岐阜をたち、二十三日に京の宿所である本能寺に入った。
二日間休息した後、二十五日に進軍を再開し、二十六日に野田・福島から5キロほど南方に離れた天王寺に本陣を置いた。
信長は先陣部隊を天満・川口・渡辺・神崎・難波など各所に配置し、野田・福島の砦にこもった三好三人衆を遠巻きに包囲した。
現代の大阪には面影が一つも残されていないが、戦国時代の野田・福島は河川に囲まれた要害の州であった。

劣勢だった畿内の守護たちは織田軍四万の到来に活気づき、反対に三好三人衆は兵を出さず籠城戦の構えを取った。
姉川の戦いでの損害が癒やせていない信長は、力技で攻めこむことはできず、徐々に包囲網を狭める作戦に出る。
また、信長は八月三十日に義昭の出馬を強く求め、義昭は応じて動座し、九月三日に摂津中島にある細川藤賢の居城に入った。

野田・福島で起きた信長と三好三人衆の合戦こそ、日本史上初の鉄砲合戦と言われ、双方共に激しい鉄砲攻撃の応酬に明け暮れていた。
そんな中、信長から命を受けた足満と弓騎兵隊40名、そして護衛役の兵士百名が各陣を移動していた。

「ここか」

三好三人衆と火縄銃の撃ち合いをしている場所の一つに足満と弓騎兵隊20名、護衛役の兵士50名が到着する。
あらかじめ話を聞いていたであろう兵士が、背筋を伸ばして答えた。

「お待ちしておりました! 三好兵はあちらにいます!」

兵士の指さした方を双眼鏡でのぞくと、彼の言葉どおり三好兵が天然の壁や自分たちで作った壁を遮蔽物にし、火縄銃の準備を行っているのが見えた。

「歩兵はスタッフスリングの準備をしろ」

その言葉と共に歩兵たちがスタッフスリングにレンガを装填そうてんし、弓騎兵隊が矢をつがえる。
三好兵が火縄銃をつために顔を出した瞬間、弓騎兵隊が矢を放つ。その数21本、そして敵兵に命中した数は19本、実に9割以上の命中率だ。
向こうが動揺したのを確認した歩兵が、スタッフスリングをふるいレンガを投げる。
レンガは天日干ししただけのものだが、それでも幅と長さが10cm、厚さ5cmのレンガは十分人を殺せる凶器になる。
案の定、兵士の内の何人かが頭に直撃して地面に倒れ伏していた。

「よし、十分だろう。別の場所に移動するぞ」

そう言うと足満たちは今の現場を離れ、また別の場所で同じようなことを繰り返した。

火縄銃を使う兵士を可能な限り減らすことが、足満たちの仕事だ。
今回の任務に連射能力は必要ないため、足満たちはコンパウンドボウの威力を上げた。
そのおかげで射程が伸びた。火縄銃の殺傷距離は200メートルほどあるが、甲冑かっちゅうを貫通する距離は50メートルほどである。100メートルは十分、相手を殺傷できる距離だ。
だから、矢を放ったら即後方に下がり、火縄銃の射程外に移動、その間にスタッフスリングの兵士がレンガを投げる作戦を行った。

カプサイシン爆弾を使えば簡単に全滅できる。だが、足満はカプサイシン爆弾の対象は、雑賀鉄砲衆だけと考えていた。

(雑賀鉄砲衆は独自の戦法で火縄銃の連射を可能にした。つまり、ほかより固まって動くことが多い雑賀鉄砲衆は、カプサイシン爆弾の効果が高く得られる)

足満は雑賀鉄砲衆を優先的につぶそうと考えていた。そのために鉄砲同士の撃ち合いで、織田軍が劣勢な場所を回っていた。
そして、機会は意外と早く訪れた。織田軍が非常に苦戦している場所を足満はいくつか見つける。

「ここか。お前たち、手順どおりに事を行うぞ」

対雑賀鉄砲衆の作戦を実行するため、足満はコンパウンドボウに矢をつがえた。






野田・福島で織田軍と三好三人衆が合戦を行っているころ、静子を筆頭に慶次、才蔵、長可と兵7500は尾張にいた。
信長から従軍命令は来たが、静子はその命令に従わなかった。もちろん従軍できない理由をきちんと説明して、信長になぜ従軍できないかを伝えた。

「さて……と、これから死地に行くことを伝えないとね」

静子は全軍を整列させると、急造した台に上る。彼女は台の上から兵士たちを見据えた。
目上の者、目下の者、前途ある若者、妻子ある者、かつては自分より身分が上だった者、ただ食べるだけのために従う者、そしてこんな自分を大人物と思い込み慕ってくれる者。
さまざまな人間が入り交じった軍だ。そんな彼らにこれから死にに行けと宣言することの、なんと難しいことかと静子は思った。
だが、逃げることは許されない。この戦いに勝たねば、何もかもが狂い始めるのだ。運命の歯車を破壊するには、逃げることを考えるなど許されなかった。

「我々はこれから宇佐山城へ向かう」

静子の言葉に兵士たちがどよめく。
宇佐山城は朝倉義景と浅井久政の南進に備え、また琵琶湖と北国街道の押さえとするため、信長が森可成に命じて近江滋賀郡に築いた城だ。
今、信長が戦っている場所は摂津国、移動する場所としては遠すぎた。

「さまざまな情報を照らし合わせた結果、浅井・朝倉が良からぬことをたくらんでいると考えた。よって、我らは織田本軍が挟み撃ちに合わぬよう殿部隊となり、宇佐山城にて連中の南進を防ぐ人柱となる」

兵士たちは声を上げなかった。だが、静子は構わず言葉を続ける。

「今の宇佐山城には、浅井・朝倉連合軍を迎え撃つ準備がない。宇佐山城が落城すれば、連中は堂々と京を支配下に置く。そうなれば摂津国に残されたお館様は退路を失い、いずれ討ち取られる。つまり、宇佐山城は敵軍を止めることのできる最後の城だ」

「……」

「織田家が滅べば、多くの人々は虐殺される。生き残った者もすべてを奪われ、奴隷となり下がる。それを止めるには我々が血を流し、命をかけて敵の南進を止めるしかない。もう一度言う。宇佐山城で敵軍を止められなければこの国は滅ぶ」

静寂が場を支配する。1人として声を上げなかった。ただ真っすぐ静子を見たまま、彼女の次の言葉を待った。

「皆に問う。我らの生活は、先祖が血と命を散らした上で成り立っている。もし……もし貴方たちの心に守りたいものがあるのなら、我らの国を守るために力を貸してほしい」

今ほど沈黙が重苦しいと思ったことはない、と静子は思った。最初の言葉から兵たちは一言も言葉を口にせず、ただ黙って自分の語る言葉に耳を傾けていた。

「殿」

重苦しい沈黙の中、1人の足軽が前に出る。彼の名は玄朗と言う。静子を大人物と思い、彼女を『殿』と慕う初老手前の人間だ。彼は数歩前に出ると、陽気な笑みを浮かべた。

「難しい言葉を並べるなど、らしくありませぬぞ。貴女はただ我々に『死んでこい』と命じれば良いのです」

「玄朗……爺ちゃん」

「あいも変わらず目が離せなく、放っておけない人ですな、殿は。戦う意義とかなんとか、そんなことはどうでも良いのです。事は単純なのです。さ、我々にお命じください。死地へ向かうぞ、と」

玄朗の言葉に涙が出そうになった静子は、とっさに目頭を押さえる。これから宇佐山城に向かえば、多くの血が流れ、無数の命が失われることは確実だ。

(今までのことはすべてお館様のため……でも、宇佐山城は私のためだ。私は名将のようなまばゆい魅力もなく、ただ土をいじっていただけの小娘だ。こんな私のために命を捨てて本望なはずがあろうかーーーー!!)

心の中で嘆きながらも、静子は目頭から手を離し力拳を作る。双肩は今にも押しつぶされそうなほど重い。しかし、静子は歯を食いしばり、めいいっぱい拳を突き上げる。

御下知有り(おんげちあり)

迷い、悩み、苦しみの中考えて出した答えが、自分の進むべき道だと静子は確信した。
ゆえに、今の彼女に迷いは一切なく、隣の芝は全く青く見えない。進むべき道を見据え、静子は言葉を続ける。

「(現代に帰るとか、そういうことはもう考えない。私はこの時代で、(かな)しき家族と共に生きる)我らは宇佐山城へ向かう。だが心せよ、宇佐山城で戦いが起ころうとも、我々の名が史に残ることはない」

「ーーッ!」

「だが! 我々の血と命がこの国の明日を、平和へと繋げるのだ! おのおの方、顔を上げろ! 武器を手に取れ! 我らの誇りと覚悟を敵に見せつけてやろうぞ!」

瞬間、兵たちが天高く拳を突き上げ、雄たけびを上げた。彼らの熱を感じた慶次や才蔵、長可は、無意識の内に鳥肌を立てる。それは遠くから静子を見ていた鳶加藤も同じだった。

(何という熱……年がいもなく合戦への興奮が湧き上がってくるわ)

足満の熱の入れようが気になり、それとなく静子を見ていた彼はようやく理解する。彼女は良い意味でも、悪い意味でも目が離せなくなる人物だ。
無意識の内に彼女の言動を、目で追っていることに気付いた鳶加藤は小さく笑みを浮かべる。

(この生命尽きるまで、貴女の動向を見させてもらいますぞ、静子殿)






野田・福島にいる織田軍の面々は、静子隊の居場所が分からないことに若干不安を覚えていた。

「安心しろ。奴らは今、別件の仕事を行っている最中だ」

具体的に何を、という言葉は決して言わず、信長はあくまでシンプルに「任務中」とだけ答えた。
単純な言葉を延々と繰り返すことで、家臣たちの不安を払拭ふっしょくしようという試みだ。そしてそれは成功し、織田家家臣たちは安堵の息を吐く。

注目の的である静子の本軍は、坂本守備隊で宇佐山城の城主である森可成の元にいた。
しかし、城の中にいるのは静子と慶次、才蔵、長可とわずかな兵士だけで、残りの兵士たちは宇佐山にブービー・トラップを仕込んでいた。
ブービー・トラップを仕掛けている理由は、静子たちが宇佐山に到着したとき、延暦寺えんりゃくじの僧兵集団に襲われたからだ。

何とか追い払うことに成功し、無事宇佐山城に入ることができた静子たちは、そこで森可成たちが延暦寺えんりゃくじの僧兵がいることを知らないという事態に気付く。
どれだけいることが分からぬ以上、僧兵の存在自体が心理的負担になると考えた静子は、逆に僧兵へストレスを与える手段を講じた。

手段とは、精神面に与える威力が高いブービー・トラップを仕掛けることだ。
ブービー・トラップは地の利を生かしたり、心理的な盲点を突いたりするゲリラ戦術の一つだ。
坂本守備隊は静子の軍を合わせても一万程度、対して連合軍は三万という数倍近い差がある。
これから来る浅井・朝倉・延暦寺えんりゃくじの連合軍を相手に、静子はブービー・トラップを利用して僧兵たちの情報伝達速度を落とし、心理的につぶす作戦に出た。

兵士を手負いにする罠という目的から、坂本守備隊の面々にはなかなか理解が得られなかったブービー・トラップだが、反対に現場でトラップを設置している兵士たちは嫌というほど理解した。
四六時中、罠におびえる僧兵の何人かが精神的に追い詰められ、膝を抱えて震える姿を見たころから、設置している兵士たちは考えるのを止めた。

静子が延暦寺えんりゃくじの僧兵を対応している内に、ついに歴史の大事件が起こった。
九月十二日の夜半、石山本願寺の法主・顕如が挙兵し、野田・福島の合戦に参戦した。
無論、織田軍ではなく三好三人衆側についた。この日より信長と顕如の長い戦いである『石山合戦』が始まった。

幕府(織田)勢力と三好三人衆勢力の抗争に、今まで中立の姿勢を続けていた石山本願寺が挙兵した理由はいくつかある。
まず信長が延暦寺えんりゃくじの山門領を奪ったことで、いずれ自分たちの領土も奪われるのではないかという危機感を覚えた。
次に教如きょうにょ)証意しょうい)など、信長を仏敵として征伐すべし、という強権派の声が無視できなくなった。
最後に信長の布陣が石山本願寺を取り囲むような形であり、三好三人衆の次は自分たちが標的にされるのではという不安を感じた。
信長のそれまでの経緯を見ても、次に狙われるのは自分たちと考えた顕如は、ついに決起に踏み切ったのである。

ただし、静子の裏工作が功を奏し、顕如が挙兵を考えたのは九月に入ってからであり、そして挙兵は最終手段と考えていたため、彼らは決起に対して備える時間が足りなかった。
しかし、それも時間の問題、石山本願寺が立ち上がったとすれば機内のさまざまな勢力が信長討伐に立ち上がる。
そのことを嫌というほど理解した信長は、先ほどまで座っていた床机しょうぎを蹴り飛ばしながら叫んだ。

「撤退じゃあ!」






もともと、十日には信長の元へ本願寺が不穏な動きをしている情報が入っていた。
そこで、信長は本陣を天満森から、野田・福島から10町ほど北にあたる海老江に移した。
天満森は石山本願寺と野田・福島の中間地点にあり、左右から挟まれるという立地的に問題のある地だからだ。
だが、海老江でも多少の違いはあるものの、左右を挟まれた状態なのは代わりない。

将軍である義昭が死ねば自分の立場も危うい。そのことを理解した信長は野田・福島の合戦で展開する兵を引き払い、義昭を供奉ぐぶして中島に出ることにした。
今回の連絡は確実性を必要としたため、信長は連絡犬を複数放つ。そもそも犬を連絡用に使う発想が本願寺勢力にはないため、連絡犬は狙われることなく目的の場所にたどり着く。
火急の事態だと理解した各陣の武将は、すぐさま撤収作業に入る。

しかし、十三日には早くも石山本願寺勢力が織田勢力に鉄砲を撃ち入れ交戦状態に入る。
午前は押し気味状態だった織田勢力も、午後には守勢に追い込まれる。
翌十四日に本願寺勢力は石山を出て天満森まで迫った。対応するために信長も兵を出し、淀川堤で両軍は激突した。
織田軍の1番手は佐々成政だったが負傷したため退き、変わって2番手に前田利家が堤通りの中筋を進み、そこで左右から敵軍に殺到したため乱戦となった。
この日も午前は優勢だったが午後には防戦気味になり野村越中守が討ち死に、最後に三好三人衆の軍が切った淀川の堤で、信長の陣は浸水するなど散々な結果に終わった。

さらに事態は悪い方向に進む。
三好三人衆に和睦を働きかけるが完全に拒否され、彼らの援軍として根来衆、雑賀衆、湯川衆、紀伊国奥郡衆、合わせて約二万の戦力が来援した。
彼らは住吉や天王寺に陣を張り織田勢力へ鉄砲3000丁を撃ちかけた。
野田・福島の合戦が日本史上の初の鉄砲合戦なら、このときの合戦は鉄砲が前面に躍り出た初の合戦である。

この劣勢にも足満率いる弓騎兵隊は活躍を見せる。
彼らは卑劣だの正々堂々だの言ってくる敵の言葉をたわ言と断じ、徹底的に矢で殺した後に疑似撤退を行う作戦を行った。
今まで鉄砲隊を射殺していた足満だが、このときから負傷兵を生産する方に切り替えた。
彼らの矢尻には人間にとって危険な雑菌やカビにまみれている。しかし、見た目は普通の矢尻にしか見えないため、突き刺さったところですぐには死なない。単に感染症で死ぬだけだ。
その感染症がまん延すれば、織田軍にもわずかながら勝機はあるからだ。

だが、圧倒的に矢の数が足りなかった。面倒なことに、弟にあたる義昭やその家臣がいるため、顔を隠しているので視界が悪かった。
普段は高い命中率を誇る彼も、いくぶん矢を外し気味だった。

(早く静子の元に戻らねば……ッ!)

焦る足満だが事態はなかなか好転しない。十三日から続く石山本願寺との戦いは引き分けか敗北を続ける。
形勢不利を感じた信長は十六日に一時休戦し、石山本願寺との和睦交渉に入った。

しかし、天は信長を見放したと言っても良いほど、十七日に信長の陣所へ最悪の情報がもたらされる。

浅井・朝倉・延暦寺えんりゃくじの連合軍三万が近江を南下し、坂本へ押し寄せている、という情報が。






九月十三日、宇佐山城に浅井・朝倉連合軍が南下したとの報が入る。
野府城のぶじょうを任されていた信長の弟・信治の加勢もあり、坂本守備隊は兵一万に膨れ上がっていた。

「皆の者、今はこの様な状況時だ、余計な私事は捨てろ。さて静子殿、そなたの軍は7500、この中で誰よりも兵を持つ。この軍議にそなたが参加することをわしは認める」

坂本守備隊は軍議を開いたが、森可成はそこに静子と慶次、才蔵、長可を参加させた。
三人はともかく静子の参加にほかの家臣は反対意見を述べたが、森可成は一蹴する。

「たはは……皆さまの嫌悪は理解しております。ですが、今は織田家の危機、若輩の身ではありますが軍議に参加させていただきます」

さて、とつぶやくと静子は宇佐山城周辺の地図を広げる。
地図は簡素かつ大きめのサイズだった。細かい情報はないものの立地が簡単に分かるように書かれていた。

「こちらで調べた内容をご報告させていただきます。まず三好三人衆の摂津国侵攻は、お館様を摂津国にくぎ付け状態にするための陽動です。ですが、三好三人衆だけでは物足りない。何か巨大な勢力が動く、と私は思っていました。延暦寺えんりゃくじの僧兵に襲われたことで、ようやく誰が動いたか確信しました」

「本願寺勢力のことかね」

予感はあったのか、静子の言葉に森可成は付け加えた。

「そうです。そして、浅井・朝倉と延暦寺えんりゃくじは結託し、連合軍として近江国を南下してきました。恐らくですが本願寺の一向衆も加わっていると思われます。その数、三万から四万と見て良いでしょう」

「三万ッ! 我らは一万しかおらぬのに……」

森可成の家臣たちに動揺が走る。今のままでは連合軍に数で踏みにじられることは、目に見えていた。

「……討って出るしかない」

「お待ちください。討って出るのは時期尚早です。数が劣勢のとき、有効な戦法がございます」

「朝駆け夜討ちのことかね」

森可成の言葉に静子は首を横にふると、人さし指だけを立てながらこう言った。

遊撃戦(ゲリラ)です」

ゲリラとは小規模な非正規部隊を運用し、あらかじめ攻撃目標を定めず臨機応変に奇襲や待ち伏せ、後方支援の破壊などの撹乱行為や攻撃を行う戦法である。
古代からゲリラ戦術は存在したが、ゲリラという言葉が生まれたのは1808年にスペイン独立戦争でスペイン軍や民衆が、ナポレオン軍に対して行った作戦を「小さな戦争(ゲリーリャ)」とスペイン語で呼んだことが語源である。
優勢な敵に対して、消耗戦や神経戦を強いて精神面にダメージを与えたりできる。だが反面、ゲリラ戦だけでは決定的な軍事的損害を与えることは困難である。

「幸い、私の軍は『存在しない』状態です。1000人ほど割けば十分な効果が期待できます」

「そのことは良いが、具体的にどうするのだね?」

朝駆け夜討ちもゲリラ戦術の一つと言えるが、それでも『お行儀の良い戦闘』であった。
反面、これから静子が行うことはまさに『外道』と言える戦術だ。果たして、彼らが納得するのだろうかと静子は腕を組んで考える。

「うーん。内容を言っても良いのですが……余り気持ちの良い話ではありませんよ? 一言で言えば『外道』な行為をするのですから」

「構わん。四の五の言っている余裕は我々にない。お館様もおっしゃった。いかに行儀よく敗れても、負ければすべてが悪行と化す。自分の矜持を守るためには勝つしかない、と。ゆえに、わしはどんな手も使う覚悟だ」

覚悟を決めている森可成だが、すんなり納得することはできないのか、わずかに迷いが見て取れた。

「分かりました。一例をあげますと、沸騰した油を浴びせることや、陣への放火、敵勢力の食料へ汚水を投げる等の食料汚染などですね。ほかにもありますが、そろそろ止めておいた方が良いでしょう。皆さま、気分が悪そうですし」

静子の言葉どおり、森可成家臣の何人かは顔色が悪かった。想像力が豊かな彼らは、ゲリラ戦術の怖さが理解できたのだ。

「皆さまは気になさらなくて大丈夫です。私たちは存在しない軍、浅井・朝倉軍に何か起きても知らぬ存ぜぬを通せば問題ありません」

「……気をつけたまえ」

森可成の言葉はGOサインだと理解した静子は、小さくうなずいた。
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