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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀元年 第一次織田包囲網

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千五百七十年 六月下旬

多くの動物たちを迎えてから一週間が過ぎた。静子はターキッシュアンゴラの雄にタマ、雌にハナと名付けた。動物の数が多い為、象亀や真孔雀の名付けは後回しにした。
犬の病気は種類によっては数ヶ月もの間潜伏する事があるとはいえ、隔離によってシェパードたちがストレスを感じていないかこまめに観察する。
幸いにもシェパードたちは広々とした土地で元気に走り回っており、傍目には病気を持っているようには見えない。油断は禁物だが、この分なら心配は要らないだろうと静子は思った。

タマはヴィットマンやカイザーと、ハナはバルティと仲良しになり、今では一緒に川の字で寝るまでの仲となった。
並び順としてはヴィットマン、タマ、カイザー、ケーニッヒ、アーデルハイト、リッター、ルッツ、少し離れてハナ、バルティだ。
タマの尻尾が稀にカイザーのお腹辺りを叩くが、カイザーはまるで気にしない。ハナなどお腹を見せて寝ていた。犬や猫にとってお腹を見せて寝る事は、警戒心がまったくない証拠だ。
外敵はいないと安心しきっている証拠なのだが、静子にはハナの寝姿は酒に酔い潰れた人の格好にしか見えなかった。

「仲が良いのは結構だけど、広い部屋に陣取るのは如何なものか」

呆れつつも静子は寝ているカイザーの顎の下を撫でる。すぐにカイザーは気持ち良さそうな表情をし、尻尾を勢い良く振り出した。
他も同じ反応をするか気になった静子は、ヴィットマンやケーニッヒの顎の下を撫でる。
バルティが一番反応は薄いものの、静子が顎の下を撫でると、どの狼も気持ち良さそうな表情をして尻尾を振った。

「おお、狼にも気持ち良いツボみたいなのがあるのかな?」

面白い発見だと思いながら顎の下を撫でていると、タマが鳴き声を上げながら起き上がる。
伸びをした後、何度か周囲を見回す。全員が寝ている事を理解すると、タマは一度だけ軽く鳴いてから部屋を後にした。

「自由気ままだなぁ」

動物たちの和やかな空気に静子は包まれていた。だが信長と徳川、久政、朝倉の周囲は張り詰めた空気が漂っていた。
久政は美濃に近い城の改修にとりかかり、朝倉は軍需品の買い取りや徴兵などを行う。
信長は家康に浅井征伐の件を伝え、森可成に軍の編成を一任すると自身は内政に着手する。
季節は梅雨の時期に入った為、道路整備の状況から計画を変更する必要があるか確認する必要があった。
軍事に使うルートの道路整備は急ピッチで終わらせたが、商業ルートを兼用する道路整備はまだ完成の目処が立っていない。
安定した財政を手に入れる為にも、商業ルートの整備は近江侵攻と同じぐらい重要案件だ。

信長は確認を後回しにしていた書類に不備はないか目を通す。彼が半分ほど書類を捌いた時、入り口が静かに開けられた。

「兄上、今宜しいでしょうか」

入り口を開けたのはお市の方だった。信長はお市を一瞥した後、小さく頷いてから視線を書類に戻す。お市は信長の正面に腰を下ろすと、深々と頭を下げた。

「まずは危なき所を助けて頂き感謝致します。夫は未だ気落ちしておりますが、きっと兄上に感謝しております」

「わしは振りかかる火の粉を払っただけだ」

大した問題ではないといった態度で信長は答える。
ぶっきらぼうな態度に見えるが、お市には信長が照れ隠しから悪態をついている事を理解する。
彼女は小さく笑みを浮かべたが、それ以上は何も口にしなかった。

「……兄上、これからどうなってしまうのでしょうか」

不安そうにお市は呟く。長政は既に浅井家の枠組みから外されている。
近江国の国人ではなく、単なる浅井長政だ。今は配下がついているが、いずれ彼らは長政の元を離れていくだろう。そうなった時、彼はほんとうの意味で独りになる。

「わしのする事は何も変わらぬ。義弟は守る、新九郎は殺す。それだけじゃ」

「変わりましたね。昔の兄上なら、その様な言葉を口にしなかった。兄上の言葉はいつも遠くを見据えた言葉でしたから」

「わしは何も変わらぬ。貴様がわしを変わったと申すなら、それは貴様が変わっただけの事だ」

「いえ、その……確実に変わったと思いますよ?」

困惑した表情のお市は、控えめにある場所を指差しながら言葉を続ける。

「昔の兄上なら、肩に猫を乗せるような真似事、されませんでしたから」

お市の指摘通り、信長の肩には彼が静子から譲り受けたターキッシュアンゴラが乗っていた。
だらんと力を抜いて全身を信長の肩に預け、足を真っ直ぐに伸ばしていた。間の抜けた表情で寝る猫に対し、信長は全く意に介さない。むしろ猫に気を配っているようにも見えた。

「愛いであろう」

お市の指摘に信長は堂々たる態度で応える。予想外過ぎる信長の態度に、お市は暫く唖然とした表情で凍りついた。
お市の頭の理解が追いつくと同時、猫が眠りから目覚める。顔を前足でこすった後、器用に信長の肩から下りた。もう一度伸びをしたと思ったら、ターキッシュアンゴラは甘えるような声を上げて信長の手を舐める。

「誰ぞある!」

「はっ! ここに!」

信長の一声にすぐさま小姓が駆け付ける。若干息を切らしている小姓だが、信長は意に介さず言葉を続ける。

「虎次郎が飯を望んでおる。すぐに用意しろ!」

「は? ははっ!」

一瞬、間の抜けた顔をした小姓だが、すぐさま顔を引き締めると信長に一礼をして調理場まで駆け出す。虎次郎はその間、人間の騒動など全く気に留めず畳の上をゴロゴロしていた。
信長は破顔して虎次郎の背中を撫でるが、一つ息を吐くとお市の方へ顔を向ける。

「主も備前守も、気持ちが疲れておるから余計な事ばかり考える。わしの休養地で頭を空にしてこい。場所はそこで盗み聞きしている奴が知っておる」

「おや、見つかってしまいました」

静かに襖が開いて、二人の会話を盗み聞きしていた濃姫が入って来た。

「ではお市、参るぞ」

お市を掴むと濃姫は彼女の返事を待たず引きずっていく。突然の事に混乱したお市は、なすがままに濃姫に引きずられていく。

「え、あの、濃姫様」

「殿は放置しておけ。虎次郎と愛の語り合いをするゆえな」

「あ、あのー、で、では兄上、失礼します」

濃姫に引きずられながらも、お市は信長に別れの言葉を口にする。彼女が一礼をすると同時、音をたてないように襖が静かに閉じられた。






信長に保護されて以降、長政の凋落ぶりは悲惨の一言に尽きる。
一ヶ月前は近江国を支配する国人・浅井家の当主だったが、今は浅井家から追放された身だ。
家臣も遠藤(えんどう) 直経なおつね)と彼の親友である三田村のみ、兵士はゼロで身の回りの世話役しかいない状態だ。
誰がどう見ても長政に帰り咲く可能性はない、と見える。

「義理とはいえ弟じゃ。見捨てるなど漢が廃る」

信長は立派な武家屋敷と新品の衣装を長政の為に用意し、彼を丁重に保護した。
更に久政から送られてきた長政引き渡し要求の文に対し、信長は文を破り捨て、使者を斬り捨てて一切の要求を拒否する態度を示す。
長政は信長に感謝し礼を述べたものの、真面目な彼は親と敵対する事に思い悩む。

「しかし、お主の夫の落ち込み様は酷いのぅ。色々と思う所があるのだろうが、今は空元気を出す時じゃと思うのだが?」

濃姫の指摘はある意味正しかった。長政から離反した家臣は、長政の立場が悪くなったのもあるが、彼の落ち込みっぷりに呆れて離反した者もいる。
長政がもう少し咲き戻りに意欲を見せていれば、彼の惨状は軽減されていた可能性がある。

「……そうですね、家臣たちも呆れたのでしょう。それでも残ってくれた家臣がいる事に、夫は感謝しております」

「そうじゃ。義臣(ぎしんは大事にしなければならない」

「はい」

「もうすぐ目的地につく。そこでゆっくり、気を落ち着けるが良い」

それから数刻後、濃姫たちは目的地である静子の元に到着する。輿から降りると濃姫は大きく息を吸い込む。

「相変わらず土の匂いがする場所だ」

失礼この上ない台詞を零しながら背伸びをすると、勝手知ったる我が家の如く濃姫は目的地に向かって歩く。
対してお市たちは警備の厳重さに驚き、おっかなびっくりな態度で濃姫の後についていく。
すぐさま長政やお市たちは洗礼を受ける。見も知らぬ来訪者に気付いたヴィットマンファミリーが遠くから彼らの様子を伺う。
ヴィットマンたちだけではない。ハシボソガラスや大鷲、オウギワシのシロガネ、木菟のクロガネとアカガネが屋根の上からお市たちを見下ろす。

「心配無用。新参者に警戒しておるだけじゃ」

いつでも刀を抜ける体勢の直経に対し、濃姫は彼の心配を笑い飛ばす。そして他が警戒心を漂わせる中、堂々たる態度で歩を進めた。






濃姫が静子の元を訪れた頃、彼女は新しく建設した作業場・工房に篭っていた。工房は農業系の作業場ではなく木工系の作業場だ。工房を建設した理由はモックアップを作るためだ。
新しい道具類を説明する時、紙に書いたものより形がある方が全員のイメージを統一しやすい。
特に新しすぎる道具類は、職人たちが紙から形を連想し難く、その為余計な時間を消費している。
大型の道具を開発要求する場合も考えて、モックアップを作る事は静子と職人のイメージ違いをなくすため、そして余計な工数を減らすためにも必要な作業となった。

「大体出来たかな?」

「そうですねー。モックアップとしてなら、この程度で問題ないでしょうか」

現在、静子が作っているモックアップはゴム動力スクリュー船だ。勿論、これをそのまま漁船の動力源にはしない。何よりゴムは劣化が早い。そして動力源にするには強度が足りなかった。

「後は人力でスクリューを回せれば、それなりに速い漁船になるかな」

自転車の構造を応用し、チェーンと歯車でスクリューを回す構造が静子のイメージだ。
手こぎ木造漁船よりスクリュープロペラを低速回転させて水をかき、揚力を作って推進する力を得る方が労力は少ない。
しかしスクリュープロペラに水生生物の付着や、駆動軸のエネルギーの約1/3は推進力に寄与しないなどの問題もある。
それでもスクリュープロペラが動力源として優れている為、現代ではほぼ全ての船舶に標準で採用されている。

「しかしスクリュー漁船を作る理由は何でしょうか。別に手漕ぎ漁船でも、問題無いと思いますが?」

作業を手伝っているみつおはぽつりと呟く。彼の指摘通り、漁船がスクリュープロペラを装備してもさして意味は無い。
むしろ構造が複雑になる分、故障時の修理が高くつく可能性もある。

「いや、そりゃそうですよ。でも将来動力源が内燃機関になった時、スクリュープロペラが常識になっていれば、すんなり採用出来ると思うのですよ」

「なるほど。スクリュープロペラが常識なら、動力源が変わるだけで良いですしね」

「内燃機関は原油が必要なので戦国時代に再現は不可能ですが、蒸気エンジンなら構造を知っているので作れます。ですが船の動力源を蒸気エンジンにするにはスクリュープロペラが前提です。まぁ蒸気エンジンは効率が悪いですけどね」

「ふむふむ。こうして見ると、意外とものの移り変わりには意味があるのですね」

「まぁこんな事が起きない限り、知っても無意味ですけどね」

「無意味だからこそ趣味とも言えます。人間は大半の時間を無意味な事に浪費していますから、そう自分を卑下する事はないと思いますがね」

「あははー、そう言って頂けると有難いです」

そこで別の作業をしていた足満が、会話に混ざってこない事に静子は気付く。何をしているのだろうと思い、静子は彼の作業机へ顔を向ける。
自分で製造したモデルガンを片手に、少年のようにはしゃぐ足満がそこにいた。奇妙なポーズをしつつスピンコックしている様を見て、静子はそっとしておこうと考えた。

「話は終わったか?」

「楽しそうですね、足満さん。ちなみにそれは何ですか?」

みつおの問いかけに足満は不敵な笑みを浮かべる。スイッチが入ったと思った静子は、二人に気付かれないよう、こっそり足満の背後へ回る。

「みつおよ、男なら分かるだろう。いつだって男は武器に浪漫を感じる。これはわしが作った模型銃でな。名前はウィンチェスターM1873カービンと言う。ウィンチェスター社が作った最高傑作の銃の一つだ。別名『西部を征服した銃』と呼ばれていて装弾数は14発、作動方式はレバーアクション、全長は125.2cm、銃身長は76.2cm、重量は4.3kg、設計年は1873年、製造期間は1873年から1919年の間で、配備先はガンマンやカウボーイだ。スピンコックが出来れば見映えが良い」

「え、ええっと、と、とりあえず凄いのは分かりましたから、落ち着いて下さい」

「何を遠慮する必要がある。男なら銃に憧れて当然だろう。お前の分も作ってやるぞ」

止まらない足満の説明にみつおはたじたじになる。静子に助けを求めようと周囲を見回した時、足満の背後で静子が何かを振りかぶっているのがみつおの目に入った。

「えいっ」

可愛らしい声と共に、静子は模型銃の銃床で足満の頭を思い切り殴る。相当痛かったようで、足満は殴られた箇所を手のひらで抑えつつ涙目で静子を睨んだ。

「熱を入れるのは構わないけど、他人の迷惑にならない程度にしてね」

「……善処しよう」

「ま、まぁ落ち着いて頂ければ良いです。しかし模型銃を作れるとは、足満さんは多彩ですね」

「いえ、足満おじさんは銃マニアではないですよ。映画でバイクに乗った俳優さんが、スピンコックしながらショットガンを撃っているシーンに惚れて、設計図から何まで頭の中に入れちゃっただけなので、はっきり言うとこの銃以外の模型は作れないです」

「一度だけ映画の真似をしたら、警察のお世話になったのは良い思い出だ」

「……幾ら私有地でも、サングラスをかけたおっさんがバイクに乗りながら模型銃を振り回していれば、誰だって通報するよ」

「は、ははっ、足満さんも意外とワイルドなのですね」

「あの映画の主役は、わしが理想とする生き様そのものだ」

そんな会話を続けていると、三人の腹が空腹を訴えてきた。良い時間だと思った彼らは、誰が言うまでもなく後片付けを開始する。

「待ち遠しいです。大あさりの酒蒸し、あわびの踊焼き、さざえの壷焼き、ホンモロコの天ぷら」

新鮮な魚介類を手に入れた五郎が、今まで学んだ事の成果を見せたいと語り、本日の昼餉はレシピも含めて全て五郎が采配した。
よって静子やみつおが知っているのは、五郎がどんな料理を出すか程度だ。彼の今までの頑張り具合から、きっと美味なる料理が並べられると三人は期待で胸を膨らませていた。

「メインは車海老にきす、真あじの天ぷらを乗せた豪華な天丼。現代なら大金を払わないと食べられないものが、こうして腹いっぱい食べられる。酒があればなおよし」

「食に勝る快楽なし、です。さて、片付けが終わりました。昼食を楽しむとしましょう」

そんな彼らが、タイミング良く濃姫が訪れている事、そして厄介な客人を連れている事を知るのは、それから十分と少し後の事だった。






その日の昼餉はお通夜のように慎ましかった。
食事自体は美味だったが知らない人間が四人も混ざっていたため、互いに遠慮しあうという事態に陥った。
会話も途切れがちだ。この場をセッティングした濃姫は「失敗か」と呟いて以降、一言も言葉を口にせず食事に専念した。
いつもは飯のおかわりをする慶次たちも、昼餉の空気に辟易気味になり食事を済ませるとさっさと退散した。
奇妙丸は「空気が微妙になるから」という理由で、昼餉の席を辞退した。それらしい理由を言っていたが、実際は逃げたと静子は思った。

「すまぬな。市たちの気分転換になると思うたが、予想外に備前守殿の気落ちが酷いようじゃ」

場を白けさせた事に濃姫は謝罪の言葉を口にする。
違う空気に触れれば気持ちが切り替わると濃姫は考えたが、それが甘い考えだと知ると、これ以上余計な騒動を起こさないよう、お市や長政を連れてすぐに岐阜へと帰還した。

致し方ない部分があると静子たちは気持ちを切り替え、一週間後に料理の発表会をやり直す事にした。発表会は濃姫たちの代わりに、鶴姫と柴が昼餉に参加した。
重い空気になる原因はなかったので、その日の昼餉はみな楽しく過ごした。

昼餉後、静子と足満は工房へ移動する。

「何だか化学実験を思い出すよ。でもこれ、危険な薬品じゃなかった?」

ガラス職人に作らせたビーカーの中身をかき混ぜながら、静子が小さく呟く。
中に入っているものはとある液体で、毒性は低いものの扱い方に注意が必要な代物だ。

「戦に情けは無用だ。だが、これでも押さえている方だ。何しろこの時代ならTNTを精製しても、警察に逮捕されない」

「日本の警察は、そういう所は優秀だからね。量産しようとすると必ず足がつくような仕組みを作ったのは、とても良い事だとは思う」

「でなければテロリストだらけになる。高校の教科書を読めば、爆薬の基礎的な製造知識は手に入るからな」

「まぁね。でも今回のこれ、結構硝酸カリウムを使うと思うのだけど、その辺りは大丈夫なの?」

様々な化学物質の抽出作業を行っている静子と足満だが、大半のものには硝酸カリウムが必要になる。
黒色火薬も莫大な量が必要になるが、それらを足満が自由に使える許可を、信長から得ているか静子は若干不安だった。

「問題ない。織田の殿様から許可は得ている。何しろ火縄銃を大量に使う機会がないからな。そして静子の製法で余りに余っているようだ。別の使い道があるなら、それを教える代わりに大量使用の許可が下りた」

「大量に使うって……でも火縄銃以外に使い道があるの?」

黒色火薬、イコール火縄銃という考えが強い静子にとって、黒色火薬の別の使い道が中々思いつかなかった。足満は小さく笑みを浮かべると、静子の頭に優しく手を置く。

「静子は知らなくて良い。手を汚すのはわし一人で良い。わしは正々堂々と戦おうとしている人間を、汚い手で殺す事に躊躇しない。相手が汚い手を使えば、それ以上の汚い手で叩き潰す事も厭わない。それに静子と会う前から、きっとわしの手は血で汚れていたのだろう。だから、今さら汚れが増えた所で気にしない」

優しく語りかける足満の声に、静子は思わず頷きそうになった。
だが彼女はすんでの所で気を引き締め、静かに、けれど力強く首を横にふった。

「……駄目だよ。そうやって誰かに責任を押し付けて、私一人だけ安全な場所にいる事は、皆が許しても私が許さない。きっと、私は合戦でしなければならない。手を汚す事を」

「静子……」

今まで一度として人を殺めていない静子だが、それがずっと続くとは思っていなかった。
いつかは人を殺めなくてはならない。だが彼女はその『いつか』から逃げ、避け続けてきた。
しかし、もうこれ以上逃げる事は出来ない、決断の時だと静子は悟る。自らの手を汚して戦い続けるか、それとも手を汚す事を他人に押し付けて逃げ続けるかを。

「それに……私は気付かないだけで、きっと何人も殺してきたと思う。私が作ったものが、決して平時の時だけに使われていない事ぐらい分かるからね」

「……」

「そんな顔をしないで、足満おじさん。歴史を学んだから理解している。平和とは力と力の均衡が成り立っている状態。戦争は相手が問答無用で攻めてくる事から始まる。その事を自分で考えなくなったら何もかも手遅れになる。そんな事にも気付かず……こっちが武器を捨てれば、相手も捨ててくれると、あの時(・・・の日本人は甘ったれた妄想に取り憑かれた」

「……そう、だな。誰かを暗殺するのも、ご丁寧に知らせてからしない。機会があれば、それに乗じて暗殺しにやってくる」

「安易な人道主義や平和運動が、逆に侵略者の野心に火をつける。そう……私の親世代は知ったはずだよ。平和運動なんて相手を油断させ、有利に侵略を展開する為の戦術だって。平和なんて次の戦争が起きる日までの準備期間なのだって事をね」

「目的のために手段を選ぶな。正義とは勝者、悪とは敗者。相手を悪に仕立て上げれば、どんな弱いものいじめも正当化される、か」

足満の言葉に静子は頷く。

「誰かを傷つけずに済むなら、それに越したことはない。でも、そうも言っていられない時もある。だから、私は足満おじさんにだけ、手を汚させるつもりはないよ」

「分かった。静子の中にその覚悟があるのなら、これ以上は何も言わない。だが先に手を汚した者として忠告しておく。重荷は静子の想像を超えるほど辛いぞ。だから辛かったらわしを頼れ」

静子の頭を撫でながら足満は思う。やはりこの娘は優しく、そして強い娘だという事を。

「さて、話は終わりだ。ひとまずびっくりおもちゃ(・・・・・・・・)を沢山作ろう」

だからこそ足満は躊躇わない。どんな手段を使ってでも静子を守り通す。例えそれを実行する事で卑怯者の烙印を押されようとも、彼は止まる事はない。

(見守る事のなんとかたきもの。だがこの程度で弱音を漏らすなど言語道断。かつてこの娘は頑ななわしの心の壁を溶かし、そして人のぬくもりを教えてくれた。その時の静子の苦労に比べれば、わしのするべき事など易し)






久政のクーデターと朝倉家臣の美濃侵攻により、信長と浅井・朝倉の合戦は避けられぬ情勢となった。
報復合戦と言わんばかりに信長が『近江侵攻』の大号令を発して以降、久政や朝倉は商人から軍需品を買い取り、各地の農村から強制徴収に近い事を行い軍需品の準備を行う。
しかし朝倉はともかく久政は買い取りが思うようには進まなかった。理由は長政を支援していた近江商人連合が取引に中々応じなくなったからだ。
信長と明確に敵対する事で、今までのような商売が出来なくなる事を危惧し、久政との売買に消極的な態度となっていた。
だがそれを知った信長は近江商人連合の人間を岐阜へ呼び、久政と売買しても自身との関係は悪化しない事と伝えた。

「わしに遠慮する必要はない、浅井にはたっぷりものを売ると良い。必要ならばわしの領土から品を買うと良い」

信長の言葉に近江商人連合の使者は困惑するが、彼は気にせず言葉を続ける。

「織田が売買に圧力をかけ、武具が思うようには買えなかったから負けた、などと浅井に言い訳をされるとわしが困る」

久政との商売に関して信長は何も思わない事を、近江商人連合の使者はようやく理解する。

後日、近江商人連合は久政との取引に応じるようになるが、価格は平時より割増であった。
だが、それは商売人の原則である『安く買い、高く売る』を実行しただけに過ぎない。少しだけ信長へ使者を送った手間賃が含まれてはいるが。

合戦に向けて動く久政と朝倉に対し、信長は森可成に近江侵攻の全権を与える。
その森可成も第五軍に軍需品の準備を命じ、後は必要書類が上がってくるのを待つだけだった。
実際に働く第五軍は商人からの買い取り、農村への買い取り通知を出し、持ってくる人間にのみ買い取りを行った。
これは単純に保管されている軍備だけで十分賄えるが、商人や農村へ買い取り通知は必ず出すとの規則があるからだ。
この時、物々交換ではなく貨幣取引を行う事で、農民に貨幣を使う習慣をつけさせる狙いがあった。
後は集まった軍需品から近江侵攻の計画を立案し、信長に承認が得られれば森可成の仕事は完了だ。

そんな中、静子に信長からの伝令が届く。内容は浅井・朝倉征伐の従軍命令だった。
今回は近江国という事で第五軍の静子隊千五百名と精鋭弓騎兵三十名、慶次隊千名、才蔵隊千名、長可隊千名の計4530名の兵士と非戦闘員を含めた合計6000の独立旅団で動く。
残念ながら静子本人は、信長から別件の命令が与えられ居残りとなった。
覚悟を決めた静子だが出だしで足をすくわれた為、その覚悟が空回りしてしまう形となった。

みつおや五郎は当然お留守番だが、足満は従軍する事になる。従軍というより静子隊を動かす代理人という立場だ。
静子隊はある程度、足満の人なりや強さを理解している為、この命令に反論は唱えなかった。万が一の事を考えて、足満を隊の人間と交流させて良かった、と静子は胸を撫で下ろす。

合戦に参加出来ないなら、せめて準備期間の間はしっかり働こうと考えた静子は、方々走り回って金子や武具類を準備する。
だが彼女は軍事に関わる事は、徹底した合理主義路線を取っていた。
兵器は規格統一を行い、汎用性を最重要視し、職人生産ではなく工業生産を行っていた。
平時に使うものは職人重視の彼女が、こと兵器に変わると合理主義に切り替わる様は、静子を良く知る者でも驚きを隠せなかった。
何しろ矢の作り方に至るまで完全に規格統一がされ、長さや重さが均一に揃うようにするほど徹底していた。

矢などの兵器は勿論だが、彼女はそれ以外にも切り傷や擦り傷用のアロエ軟膏、よもぎ、ささの葉、消毒用のアルコール、脱脂綿や綺麗な布なども集める。
アロエ軟膏はアロエオイルを抽出し、ひまわりから乳化ワックスを抽出し、精油を混ぜれば精製出来る。
大量生産が行えない欠点はあるものの、生のアロエを運ぶより小型化・軽量化が行える利点がある。

全てが一旦静子の元に集められ、予定した数が集まったものから倉に仕舞われていく。
入ってくるものの半分近くは誰も価値が分からず、何故これほど大量に集めるか首を傾げた。
それでも商売が成り立つ以上、商人は黙って商品を集め、静子へ売った。

「へっへっへ、流石は静子様。沢山お買いになられていますなぁ」

胡散臭い笑みを浮かべた久治郎は、倉に運び込まれる品物を静子と一緒に眺める。

「南蛮からの香辛料の類はどう?」

「向こうが高価なもの、と考えているものは難しいですね。ただ、広く知られている薬草ですか。その手のものは順次集めております」

静子は中国との交易、印度や熱帯アジアとの交易、そして欧州ポルトガルとの交易ルートを持っている。そのルートで様々なハーブや作物を輸入しているが、やはり入手には時間がかかる。
そこで様々な作物を複数人に時間をずらして依頼した。費用は倍以上かかるが、確実に入手するには一番ベターな選択肢だ。

「そう……印度としている例の取引はまだ難しい感じ?」

「南蛮人にあれこれ言っていますが、いかんせん連中も価値が分からぬ様子。後は売ってくれる相手を見つけるのが困難と言っておりました。まぁ連中には存分に探して貰いましょう」

「そう、なるべく早く見つけてね。きっとあるはずだよ、ダマスカス刀剣が」

木目状の模様を特徴とする印度のウーツ鋼を使用し、シリアのダマスカスで製造された刀剣をダマスカス刀剣と言う。
ダマスカス鋼は古代印度で開発製造されたウーツ鋼の別名でもある。
異種の金属を積層鍛造し、模様を浮かび上がらせた鋼材をダマスカス鋼と呼ぶ事もあるが、これは本来のダマスカス鋼と別物であり、本物のウーツ鋼の製造技術は完全に失われている。
だが途絶えたのは19世紀であり、戦国時代ならウーツ鋼の生産に期待が持てる。
ただしウーツ鋼の製造方法は口伝くでんで技術継承されていた為、ウーツ鋼を製造している人間を探すのにかなり苦労する。
本来ならそれなりの金子が必要になるのだが、久治郎の口が旨いのかポルトガル商人は彼の良いようにこき使われていた。

「分かっております。ま、夏の終わりには一定の成果をお見せ致しましょう」

「お願いね」

ウーツ鋼のインゴット、ウーツ鋼で作られたダマスカス刀剣。その二つを静子は求めていた。
静子の時代では失われて久しいもの故、一度でも良いから見てみたいという気持ちと、ウーツ鋼で日本刀を製造した場合、どの様なものが出来上がるか見てみたい気持ちがあった。
勿論、日本刀だけでなくグルカナイフなども気になる。
現代では完全にロストテクノロジーになった、古刀に分類される鎌倉時代の日本刀製造技術も静子は興味があった。
とある文献には秀吉の刀狩り令によって、古刀の製造技術が失われたという記録がある。故に戦国時代なら古刀の製造技術が残っている可能性が僅かにあった。

(天下五剣もそうだけど、世界に散らばっているロストテクノロジーの蒐集も捨てがたいよね。歴史を学ぶたびに思い描いた代物が、自分の管理下に入るなんて……歴史好きにはたまらないよね)

腰に下げている童子切安綱と大包平、そして倉に保管している鬼丸国綱。残り三本の刀も、これから順調に成果を上げれば入手も夢ではなかった。

数珠丸恒次じゅずまるつねつぐ三日月宗近みかづきむねちか大典太光世おおてんたみつよ 。残り三本も早く手に入れたいなぁ。しっかし三日月って秀吉に伝わるまで何処にあったんだろう。数珠丸は身延山久遠寺、大典太は義昭が持っているのは知っているけど……まぁ三日月も義昭が持っているのでしょうね。彼には悪いけど、足利家所有の名刀は一本残らず頂きます)

静子の時代に名刀、名槍などの武具類は殆ど消失していた。
デジタル化で残された写真しか見たことがない静子にとって、現物の名刀や名槍を見ることが出来、あまつさえ自分の管理下における事はまさに夢であった。
民間技術も興味があるが、やはり戦国時代は戦の時代。甲冑や刀、槍の方に強く惹かれてしまうのは仕方ない。

無論、蒐集だけが目的ではない。
信長が天下の茶器を集め、自分は天下人に相応しい人間とアピールしているように、伝承を持つ名刀を持つ事は、家臣を必要とした時に集めやすくなる。
つまり『自分には信長から名刀を下賜されるだけの力がある』と、自分自身の力をアピール出来る。誰だって力のない人間の元には集まらない。自分に利が得られないからだ。

「もうすぐ近江侵攻が始まるから、これからちょっと大変かもねー」

「そうでした。あっしも戦に向けて準備をしなければならないのでした。では、これにて失礼」

言うやいなや、久治郎はあっという間に人混みに紛れて消えた。
彼の足の速さに静子は呆れ、小さく息を吐くと倉へ視線を戻し、どこか遠くを見るような表情で呟いた。

「そう……これから大変な事になるね」






姉川の合戦が起きる事を予め知っていても、静子は備えるだけで止める事は出来なかった。
幾つか歴史的事件が起きなかったとしても、浅井の同盟破棄や朝倉との敵対など大きな流れへ戻っている事に、静子は若干絶望していた。
今のまま歴史が進めば信長の最大の理解者である森可成が、宇佐山城の戦いで命を落とす。
それだけではない。小木江城の城主・織田信長の弟信興のぶおきが討ち取られれば、信長の長島一向一揆への対処は苛烈になる。
信頼の厚い信興のぶおきが討ち取られた事が、信長が長島一向一揆に対し、非情な手段まで用いた理由と言われている。

(ここは姉川の戦いで朝倉軍をほぼ壊滅に追いやり、越前から出てこられない状況にするしかないかな)

どうしても森可成の死は避けなくてはならない。
それを叶えるには、最低でも朝倉軍が後詰め(援軍)を行えないほど、損害を受けている必要がある。朝倉軍の参戦が不可能であれば、宇佐山城の戦いも有利に運べる可能性が出てくる。

だが問題がある。朝倉義景は状況が不利になった瞬間、すぐに撤退行動を取る癖がある。これが織田包囲網の穴になり、信長がピンチをチャンスに変える要因にもなった。
しかし今回はそれが仇となる。朝倉義景が生き残る事は問題ない。むしろ引きこもり傾向のある彼には、身内に裏切られるまで当主を続けて欲しいと静子は思っていた。
だが今回のように軍へ多大な損害を与えるには、無謀な突撃を行う猪武者の方が好都合だ。
虫の良い事とはいえ、静子はどのような策を講じるか頭を悩ます。

「うーん、やっぱりこの手は足満おじさんに相談した方が良いかなぁー」

自分一人では策が思い付かないと考えた静子は、足満の住む神社へ足を運ぶ。

「……なるほど、静子としては朝倉軍を壊滅させておきたい。しかしその方法が思いつかないという事か」

静子の話を全て聞いた足満は目を細め、彼女の目を見据えて聞いた。

「うん。そりゃ……ね。お姉ちゃんならTNT爆弾で爆殺とかしそうだけど、私はちょっと苦手かな」

「この時代でもRDXなら作れるぞ。精製に劇物を使うから、何人かの犠牲者(イケニエ)が必要になるが」

「……畜産の排尿からアンモニアとリンを回収する気? もしするなら肥料に回して欲しいかな」

「MAP(Magnesium Ammonium Phosphate:リン酸マグネシウムアンモニウム)法ならみつおの方が詳しいだろ。あれは畜産農家の副収入だったからな」

「畜産の排尿に水蒸気を吹きかければ、アンモニアが回収出来る。残ったものをMAP法でリン酸を回収する。取得したアンモニアを半分に分けて、片方をソルベー法で炭酸ナトリウムと塩化アンモニウムを精製。残り半分はリンと中和してリン酸二水素アンモニウムを精製し、ソルベー法の副産物の塩化アンモニウムを加えて冷却すればリン安が出来るし……炭酸ナトリウムはガラスの材料になるし……うん、中々良いと思わない?」

石灰窯いしばいがま)から二酸化炭素を回収出来るからか。そうなると燃料もバイオコークスが欲しい所だな。油圧プレスで加圧するから、油を大量に使用する欠点はあるものの、材料に困らない利点がある」

「植物油ならヒマシ油かな? 粘度高いし食用に使えないから、大量に使用しても問題ないしね。今まで生薬用にしか栽培していなかったけど、バイオコークスを作るなら大量栽培するかな」

「話がズレているな、戻そうか。現代の様な科学兵器がなくとも、今の手札で静子の願いを叶える事は可能だ」

その言葉と共に、足満は予め用意していた資料を静子に渡す。受け取った静子は資料を一読する。

「これ……本気?」

資料を読み終えた静子は、眉をひそめて足満に質問を投げる。資料に書かれているものは扱いを間違えれば危険だが、決して命に関わるようなものではない。
これらを使ってどの様に朝倉軍を壊滅に追いやるのか、静子はとんと思いつかなかった。

「わしらなら『おもちゃ』と理解しているが、彼らにとっては『未知』だ。さて静子、集団行動をする時、してはいけない事はなんだ」

「えと……パニックを起こす事?」

「そうだな。今の時代、軍隊は殆ど統率の取れていない集団だ。そこに恐怖や不安を与えれば、どうなると思う」

「軍の維持が不可能になる?」

「正解だ。一度、恐怖や不安で士気が落ちた軍は、あっという間に崩壊する。誰だって無駄死は嫌だからな。普通ならこれで問題ないが、静子の要望を叶えるには一工夫が必要だ」

顎に手を当てて足満は考える。暫く考えた後、彼は静子を見据えつつ言葉を続けた。

「ひとまず今回は破壊兵器を使わない方法で行く。ただし沢山の血が流れる事は理解しておけ。後、必ず成功するとは限らん。特に朝倉はすぐに逃げる腰抜けだからな」

「それは理解しているよ。きっと沢山人が死ぬ。それは悪いことだと思う自分がいる。でもこの価値観は私がいた時代の価値観。決して戦国時代の価値観じゃない」

「……」

「そんな顔をしないで、足満おじさん。と言っても、多分心の何処かで気楽に考えている自分がいると思うから、安易に『覚悟の上だ』とは言えない。だから……引き金を引いたのは自分、と自分に言い聞かせておくよ」

「わしは様々な手段を用いて、大勢の敵を殺し傷つける。その引き金を引いたのは静子自身……という訳か」

「そういう事」

足満の言葉に静子は力なく笑いながら頷いた。






久政は美濃との国境近くにある長比たけくらべや刈安尾に、城砦を築く作業を急ピッチで行う。更に横山城や鎌刃城の守備を固めて防衛網を布いた。
しかし信長の命を受けた秀吉・竹中半兵衛の調略により、長比城の樋口直房、鎌刃城の堀秀村、更に箕浦城までが織田方に寝返り、早くも久政の防衛網に綻びが生じた。

浅井家の本城・小谷城の防衛網へ風穴を開ける事に成功した信長は、調略後僅か一日足らずで長比城に着陣した。
信長の迅速な行動は、久政に崩れた防衛網の再構築を行う暇すら与えなかった。
精神面に若干の弱さがある彼は、信長の異常とも取れる行動に動揺を隠せず、体勢の立て直しに失敗する。

挫折から立ち直った久政は朝倉へ援軍の要請をすると共に、横山城や大原観音寺に三千の兵士を投入して防御を固める。
だが信長は、既に小谷城の南西約四キロに位置する虎御前山(虎姫山という名でも呼ばれている)に本陣を据えていた。
ここで尾張・美濃・伊勢国から催した兵二万に、援軍として駆けつけた徳川の先鋒隊五千が加わり総勢二万五千の軍勢となる。

信長はまず池田恒興や樋口直房らに、小谷城下の徹底的な放火を行うよう命じた。
これは野戦で決着をつける為に、小谷城に篭もる久政の軍勢を挑発するための対応だ。しかし信長の挑発行為に久政は乗らず、籠城抗戦の構えを崩さなかった。

後詰めの朝倉軍が到着するまで久政が籠城する事を理解すると、信長は小谷城攻めを中断し、南方九キロほどにある横山城を先に攻める作戦に切り替えた。
本陣の移動を浅井側が察知すると、彼らは追撃隊を繰り出して背後から急襲をかける。だが殿軍の佐々成政らの働きによって織田軍は龍ヶ鼻までの移動を同日に完了させた。

龍ヶ鼻に移陣してから二日後、信長は横山城攻めを開始する。
家康本軍五千が合流し織田・徳川連合軍は三万の軍勢になるが、時を同じくして久政にも朝倉景健を主将とする一万の軍勢が到着する。
久政は総軍を率いて小谷城を出ると、朝倉軍と合流する。そして横山城の後巻(うしろまき)(後援の事)のために大依山(おおよりやままで進む。
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍の合戦が始まる。周囲の国人は勿論、将軍や帝まで合戦の成り行きを見守る。

その頃、静子は人夫の募集をかけ、黒鍬衆と共に動物園もどきの建設に取り掛かっていた。
まず4000坪の広さを更地にし、動物たちが逃げ出さないよう四方を城壁で囲う。
この時、城壁は漆喰を使用した白壁にした。漆喰の壁は防火性に優れているが、雨に濡れると溶けてしまう欠点がある。
その欠点を防ぐため、雨に濡れやすい場所へ板張りをし、十年から十五年に一度、壁を塗り直す必要がある。

城壁が完成すれば、次は城壁の内側に動物園用の水を兼ねた水堀みずぼりを作る。防衛が主目的ではない事から、堀の幅は通常の15間(約27m)より狭い12間(約21m)とした。
深さは水を蓄える事も兼ねて3mから4mの間とする。更に堀の内側に土塁を築き、内部からの逃亡を防ぐ設備を整えれば、後は各動物にあった環境を作るだけだ。

真孔雀は繁殖を考えて各つがいに10坪・高さ四メートルの禽舎を用意し、更に幅50センチ、高さ70センチ、奥行90センチのトンネル上の箱を四隅に設置する。
トンネル上の箱を用意する理由は、真孔雀の雌を繁殖期の雄から守るためだ。繁殖期の雄は雌に対し攻撃的になり、時には雌を殺す事がある。
雌の殺傷を防ぐ為、逃げ場である箱を禽舎の四隅に用意する必要があった。

更に雄が雌にプロポーズするために広げる羽、名を上尾筒じょうびとうと言うが、それを回収する必要もあった。
雄の孔雀が雌にプロポーズする羽は、生涯変わらぬ羽と思われがちだが実は毎年新しく生え変わっている。
繁殖期の四月から六月にかけて最も美しくなり、それを過ぎた七月から徐々に羽が抜け始め、十一月には全てなくなってしまう。
そして十二月頃から新しく生え始め、また繁殖期の四月から六月にかけて一番美しくなる。
抜け落ちた羽を装飾用の素材として使用する予定だが、静子にとっては入手出来れば儲けもの程度の扱いだった。

ゾウガメには産卵用の防鳥ネットで囲われた区画と、入り口が狭く、中に柔らかい土を敷き詰めた寝所を用意した。
ゾウガメは水があればあるだけ飲む為、極力水を遠ざけておく必要がある。
通常の動物なら水分不足に陥る環境だが、彼らは野菜や野草、果実から取れる水分で十分な身体の作りをしていた。
ただし寒さに弱いゾウガメは日本の冬が超えられない為、秋の終わり頃から冬は温泉の近くにある小屋へ移動させる必要がある。

幸いにもシェパードは狂犬病などの病を感じさせず、今も元気に走り回っている。
彼女たちを台雌にし、犬の品種改良を考えている静子は、シェパードの環境に一番配慮した。
だが彼女たちは広い土地や快適な環境よりも、新しいオモチャの方に夢中だった。
大型犬のシェパードによる荒い歓迎に、数日でオモチャがボロボロになったのは言うまでもない。

4000坪もの広さに屋敷や城以外の施設を建設する。
何とも奇妙な土木工事だと中間たちは思ったが、金子が貰える上に合戦のような危険がない。
土地に縛られない中間にとっては、まさに楽園とも言える働き場だった。だからこの危険のない土木工事に中間が取られすぎないように、静子は信長が出陣するまで募集を止めていた。
よほど合戦が好きな人間でない限り、土木工事で金子を貰う方が良いと中間が考えるからだ。

静子は動物園の建築に大きく関わらず、大半を黒鍬衆に一任していた。理由は信長から命じられた火縄銃の特別訓練を行っていたからだ。
虎次郎を預かる事、猫用のペットハウス『猫ちぐら』の製造指揮など、他にも仕事はあったものの、一番大きな仕事は火縄銃の特別訓練だった。

火縄銃と言えば信長が長篠の戦いで使用した三段撃ちが有名だが、現実的に考えればそれは不可能な話だ。
指揮者に従って一斉射撃をしようにも、距離が離れれば離れるほど命令が遅れて伝わる。その上、準備に手間取る人間と素早く終わる人間が出てしまい、多くの無駄な時間を使ってしまう。
鉄砲隊一斉射撃による三段撃ちをせずとも兵力で勝る織田・徳川連合軍には良い手がある。
簡潔に言えば武田軍を囲んで袋叩きにすれば良い。いかに屈強な武田兵であろうと寡兵な時点で、包囲戦の前に屈するのは自明の理だ。

長篠の戦いで信長は以下の様に対応したと考えられる。
まず兵力をわざと分散し、本陣を武田軍より少ない状態に見せて勝頼を誘い出し、その間に鳶ヶ巣山砦と四つの支砦(中山砦、久間山砦、姥ヶ懐砦、君ヶ伏所砦)を落とし長篠城を救援する。
酒井奇襲隊の奇襲が成功した事により、設楽原に進んだ武田本隊は退路を脅かされた状態となり、最終的に織田・徳川連合軍の本陣へ突撃する。
武田軍の突撃に対し、信長は三段撃ちではなく三方から武田軍へ攻撃を仕掛け、名のある武将を多数討ち取り武田軍を壊滅状態にしたと考えられる。
武田軍が一万名以上もの犠牲を出した事を考慮すれば、効果が期待出来ない三段撃ちではなく、三方向からの半包囲網戦を敷いたと考える方が、より現実的だと筆者は考える。

話を戻す。
静子は早合はやごうによる射撃訓練、そして島津家が得意とした弾込め役と撃ち役を前後に交替させながら撃ち続ける輪番射撃の訓練を行う。
この訓練により通常四〇秒から五〇秒かかる火縄銃の射撃が、僅か一五秒から二〇秒にまで短縮出来た。
訓練の成果は上々で全員一分間で4発の発射が出来るまで腕を上げていた。輪番射撃はまだぎこちなさが残っており、長期に渡る訓練が必要と感じた。

「後はお館様が決めるでしょう。姉川の戦いから帰ってきたら、織田軍の鉄砲衆もそこそこ強化されるでしょうね」

更に強化するならばミニエー弾が使用可能な火縄銃の開発が一番良いが、そちらは足満が行っていた。
一口に開発と言ってもライフリング加工の道具製造や、ミニエー弾の規格統一などやる事は多々あった。
特に火縄銃の口径は手作り故に統一性がなく、最初に最も平均的な口径に合わせたミニエー弾のサイズ設計が必要だった。

「ま、そっちは足満おじさんに任せておこう。私は私の出来る事をすれば良いや」

余計な雑念を捨て、静子は鉄砲衆の訓練に集中した。
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