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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀元年 第一次織田包囲網

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千五百七十年 三月上旬

冬の寒さが緩くなり始める二月下旬、織田家家臣の間で清酒の熱燗が流行り始めた。
濁酒でも熱燗は可能だが、温める事で独特の癖が出るものや酸味が強くなる酒が多い。

対して清酒は温める事で一層香りが際立ち、料理との相性が広まる。
また一杯目から呑んだ満足感が得られ、飲酒速度が適量なら少ない量で程よく酔える。更にアルコールの身体を温める働きが強くなる為、寒い日に清酒の熱燗を呑む事は理に適っている。

濁酒は熱燗が難しい酒だが、だからと言って清酒より劣っている訳ではない。
冷やす事で豊かな味と喉越しが良くなる濁酒は、冷酒(冷やした清酒)とは違った味わいがある。また酒質が清酒より変わり易く、経年変化による熟成を楽しむ事も出来る。
織田家家臣の中にも濁酒を好む者がおり、全員が右へ倣えで熱燗に嵌っている訳ではない。

冷やして呑む濁酒と違い、清酒の熱燗には一つ欠点がある。それは肴が欲しくなる事だ。
アルコールには胃液の分泌量を増やし、消化を促す作用がある。故に濁酒でも肴が欲しくなる事はあるが、熱燗はアルコールが温まっているので食欲を増進する二次効果が強い。
これは何も日本酒に限らず焼酎のお湯割り、苦味成分ホップや炭酸ガスのあるビールも食欲増進効果が高いと言われている。

酒の肴を求めるだけなら岐阜でも可能だが、海に面している尾張の方が種類は豊富だ。その様な意味でも静子のいる場所は最適だった。
宿泊する施設が整っている、酒の肴になるものが多く保管されている、岐阜から程よく近く、また海へも程よく近い、翌日は温かい湯につかれる、とくれば流行らない訳はない。
季節によるがナスの煮浸しや真鯵の干物、寒ボラの燻製、魚の骨を軽く炙ったもの、肉じゃが、タコの酢味噌和え、冷奴など多種多様の肴が好まれたが、中でも一番好まれているものがカラスミだ。
塩辛くて旨いカラスミは日本酒との相性が良く、自分で一切れの厚みを調整出来る所が好まれている。

日本でカラスミと言えばボラの卵巣で作られたもの、というイメージが強い。
しかしボラの卵巣はカラスミのうちの一つに過ぎず、本場の地中海沿岸では様々な海産魚の卵巣が用いられている。香川県はサワラあるいはサバの卵巣を用いている。
故に如何なる卵巣を用いようと、カラスミの製法に従って作ればカラスミになるのだ。

手間暇をかけている関係でカラスミの値段は高く、懐が寂しい者は手が出し難い。
しかし卵巣の味噌漬け干しという類似品が出来た事で、下級武士でもカラスミに近い味を楽しめるようになった。
作り方は単純で味噌にニンニク、味醂、酒を混ぜ、タッパーなどの保存容器に味噌、サラシ布、卵巣、サラシ布、味噌の順に入れて十日ほど冷暗所に保管する。
後は干し網でカラスミのように、表面が硬くなるまで天日干しすれば完成だ。
低価格、かつ塩分が控えめという事で人気商品となったが、酒の消費量が跳ね上がり懐を直撃するという問題も発生した。

熱燗の肴は何が一番かで白熱した議論を繰り広げる家臣たちだが、彼らの主君である信長は酒ではなくマントの出来に熱を入れていた。
最初は静子に作らせたマントを纏っていた彼だが、後に宣教師から献上されたビロードのマントを見て色々と気に入らない点が出てきた。

これは静子の性格上仕方ない事だが、彼女は見た目より機能を重視する。更に色合いは落ち着いた色を好む為、派手好きな信長としては物足りない色合いだった。
信長は鮮やかな赤色をしたマントを求め、紅花染めされた試供品を職人たちに何度も作らせる。
最終的に信長の眼鏡に適った製法で出来た赤色が採用された。

だが話はそれで終わらなかった。布地の色以外にも信長は多くの手を入れた。マントの端処理を行い、その上に金糸や銀糸で刺繍を施す。
背中部分に当たる場所には、一面柄模様が描かれた上に、端と同じく金糸や銀糸で刺繍を施す。留め具も見事なまでに精巧な細工が施されていた。

こうして細部に至るまで信長の趣味が採用された、時価総額不明の信長専用マントが出来上がった。
その出来栄えに大変満足した信長は、関わった職人たちに恩賞を与え、彼らに掛け値なしの賛辞を贈った。

「ふはははっ! どうだ、わしのまんとは! 大金を投じたがそれに見合う出来栄えであろう!」

出来上がったマントを信長は誰かに自慢したかった。
そんな時、苗の経過報告と堂上蜂屋柿の献上をするため居館に訪れた静子を見つけた。彼は有無を言わさず静子を捕まえると、彼女にマントの出来具合を見せつける。
上機嫌でマントを翻す信長に、静子はどう答えるか心の中で頭を悩ます。

「た、大変お似合いでございます」

「うむ! そうであろう、そうであろう!」

信長の上機嫌な態度から褒めれば何でも良いのだ、と静子は気付く。ただし信長がちょっとでも気分が変わると、途端に答えが変わるので注視しておく必要はある。

「さて話は変わるが、静子よ。技術街で走らせている荷車は、一体いつこちらに回せる?」

「え、あ、リヤカーの事ですか。あれなら大きな不具合を解消したので目下量産中です。四月末には百台ほど生産出来る目処が立っています」

「ふむ……米を使う以上、過剰な生産は難しいか。だが荷車を使った兵站を、早期に運用させたい。荷車を十台、第五軍へ納品せよ」

「はっ、了解しました」

これから忙しくなると静子は予感した。
何しろリヤカーのゴムタイヤ部分はファクチスで代用している。流石にゴムの代用品として選ばれるだけの事はあり、ファクチスの性能はゴムに近い。
ゴムと比較すると高温に対する耐久性に難があるものの、現状高温環境下でタイヤを使用することは無い。
市販されているゴムと同等と見て良いファクチスは、静子にとって農耕具の進化の道が切り開かれたと言っても過言ではない。

(本当なら生ゴムが欲しいのだけれど……現状はインドゴムの木しかないのよね。暫くはゴム樹液を輸入かなぁ)

現代ではパラゴムの木から取れるゴム液が一般的だ。
何故パラゴムの木が有名かというと、ブラジル国外への持ち出し禁止のパラゴムの木を、イギリスが密かに持ち帰り苦難の末、植民地各地で栽培する事に成功したからだ。
これはイギリスが原産地ブラジルと同様の熱帯雨林地帯の植民地を抱えていた事が大きい。
更に原産地の南米では子嚢菌による南アメリカ葉枯病のため、ゴムの木を増やす事が思うように出来なかった。故に今でも原産地では、天然の自生樹木からゴム液採取を行っている。

樹液の量はインドゴムの木よりパラゴムの木が優れているが、樹液の質はインドゴムの木の方が優れている。
またインドゴムの木は耐陰性、耐暑性、耐寒性に優れ、日本では戦前から観葉植物として栽培されていた。地域によっては庭植で大木に育っているインドゴムの木もある。

(ゴムの苗は輸入するとして……ガラス加工も軌道に乗ったし、ウォードの箱という成果も出た。石山合戦の日までに双眼鏡やフィールドスコープが出来れば……まずまずの成果かな)

テラリウムの先駆けともなったウォードの箱とは、大気汚染が深刻であったロンドンにおいて外界と切り離された世界を内包する画期的な発明である。
1829年頃に外科医師であったナサニエル・バグショー・ウォードが発明したこのガラス器は、容器外の世界からある種独立した環境を保持することで内部に植物の生育環境を閉じ込めたまま運搬することを可能とした。
これは世界各地で植物を集めるプラントハンターの活動を大いに助け、先駆的な植物栽培容器として評価が高い。

優れた可搬性を持つウォードの箱を利用した事例として、スコットランドの植物学者ロバート・フォーチュンは中国上海から茶の木二万本をインド東北部のアッサム州へ輸送した。
他にもブラジルから秘密裡に持ち出したパラゴム種子の発芽に成功したイギリスは、この箱を使ってスリランカのセイロン島や一大ゴム農園を計画し自国領であったマレーシアへと持ち運んだ。

現代では陸上のみの環境で飼育・栽培するテラリウム、水中のみの環境で飼育・栽培するアクアリウム、水中と陸地が混在した環境で飼育・栽培するアクアテラリウム等、ウォードの箱のように容器の中で飼育・栽培・鑑賞する技術が幾つも発明されている。

「(でもガラス研磨が職人のカン頼りだから、量産が厳しいのよね)」

ガラス製造が軌道に乗ったとはいえ、まだまだガラス製品は希少品扱いだ。
質の悪いガラス製品や職人が気に入らないガラス製品は世に出ず、細かく砕かれて再度原料に混ぜられる事も影響しているが、一番の理由はガラス職人が少ない点だ。
原材料にソーダ灰を入れようとも高い透明度を出すには、優れた研磨技術が要求されるのだ。

世に出ているガラス製品は非常に少なく、日ノ本で尾張切子を所持しているのは信長と家臣の森可成と丹羽長秀、信長から献上された帝、茶々の出産祝いとして贈られた浅井長政だけだ。

「何をぶつぶつと言っておる」

「あ、いえ、すみません。ちょっと考え事をしていました」

「ふむ……まぁ良い」

いつもの事、と考えて信長はそれ以上静子に問い質す事をしなかった。
その後、堂上蜂屋柿を献上して話を切り上げようと画策した静子だが、残念ながらその行為は信長のマント自慢話に干し柿の話が加わっただけだった。






三月上旬、静子は養蚕業を営んでいる村を訪れる。これは信長の命令を遂行する為ではなく、単純に個人的な理由で村を訪れていた。

「中々いないよね、緋鯉ひごい

個人的な理由とは真鯉の変種である緋鯉探しだ。

鯉は『日本書紀』に景行天皇が池へ放っていた記述があるほど、古くから飼育が行われている。
養蚕業の副産物である蚕の(さなぎ)は鯉の餌になる事から、静子は養蚕業を営んでいる村で鯉の養殖を行うようにした。
薬用魚や療養魚と言われるほど栄養に富み、汚れた水にも対応する高い環境適応能力がある事から、養殖するにはうってつけの川魚だ。
なまずも養殖したかった静子だが、孵化から稚魚になるまでが大変な上に、鯉と違ってどの田んぼにも棲んでいるなまずを養殖する意味が薄かったため見送った。

「色鮮やかな鯉ねぇ。俺は見た事ないが、才蔵の方は?」

「ないな。だからこそ興味が惹かれる」

「二人も見た事ないかぁ。こう……真っ黒な身体じゃなく色鮮やかな赤になっている個体の事なのだけど……やっぱり突然変異種はそう簡単に見つからないか」

しかし可能性がない訳ではない。錦鯉の元となった緋鯉は、食用鯉を養殖している時に生まれた品種だ。ならば養蚕業を営んでいる村のどこかで、緋鯉が誕生する可能性は零ではない。

「そうだ、水田養鯉をする村にも行ってみよう」

水田養鯉とは名前の通り水田に鯉の稚魚を放流し、稲作と平行して鯉を育てる養殖方法だ。
合鴨農法と同じく水田に鯉を放つと、鯉の旺盛な食欲によって害虫や雑草が激減する。また鯉が泳ぐ事で水が濁り、雑草が芽吹くのを防げる。
稀に鯉が稲を傷つける事はあるものの、基本的に放し飼いするだけで成長する利点がある。
しかし大半の鯉は一年で食用に回され、数年かけて養殖される鯉は稀だ。

対して養蚕業が盛んな村は、餌である蚕の(さなぎ)が容易に手に入るため、水田ではなくため池や網いけす養殖が盛んだ。
一年鯉から三年鯉まで出荷の年数が調整し易く、ため池ごとに切り分けられているため、水田養鯉のように成長年数が違う鯉が混ざる心配もない。
ただ水田養鯉もため池養鯉も、四年以上養殖に時間をかける事はない。これは四年以上の鯉は身が硬くなり、産卵などで栄養が失われて味が落ちるためだ。

「むぅ……やはり駄目か」

水田養鯉が導入される五つの村を回ったが、定突然変異種の鯉は存在しなかった。
結局、見た目が色鮮やかな鯉は、大きさ問わず高値で買い取る旨を村長に伝えるだけで緋鯉探しは終わった。

「散歩代わりにシロを連れてきて正解だ。このもふもふが私を癒やす」

落ち込みながら静子は腕にのっているオウギワシを愛でる。名前で悩んだ静子だが、オウギワシの毛が白っぽい所から、彼女は(しろがねと安直な名前を付けた。
木菟たちは兄にあかがね、弟にくろがねという名前をつけた。単純に金属から取ったが、意外にも木菟たちやオウギワシは受け入れた。
ただし全羽の名前に「がね」が共通しているため、フルネームで呼ぶと全羽が反応する。故にオウギワシを「(シロ)」、木菟兄を「(アカ)」、木菟弟を「(クロ)」と呼んでいる。

道中何事も無く家に到着し荷物を置いた後、静子は家から少し離れた場所にある池へ向かう。

「折角作って貰った池なのに虚しいぜ……」

金魚や緋鯉用にと考え、徐々に深くなる浅瀬と野鳥から逃げられるように深さが最大80cmに変化する池に、砂利を敷き水草を植え、微生物に水を浄化させるシステムを組み込んだが、肝心の鯉や金魚がいなければ単なるため池だ。
自然石で日本庭園風を醸し出した池の浅瀬に、小鳥が遊びに来ないか期待したが、浅瀬は小鳥ではなくアカガネとクロガネの水浴び場になっていた。
綺麗好きなのか二羽は今日も元気に水浴びをしていた。周囲が水浸しになっているが、クロガネは気にせず浅瀬で羽ばたいていた。
アカガネに至っては羽を広げて器用に浮かんでいた。その姿はリゾート地のプールに浮かぶビーチマットに寝転んでいる人と同じだ。

「お前ら、気を抜きすぎじゃないか?」

池に浮かぶアカガネをつつくも反応が鈍い事に、静子は色々な意味で二羽の将来に不安を覚えた。






桜が咲く季節に入ると、信長は長政への諜略を強めた。
贈り物をしたり、文を交わしたり、時には対面で語り合ったりと、精力的に長政を自陣営へ心酔させるよう仕向けた。
長政の父親である久政は信長の思惑に気付き、妨害工作をして遠ざけようとしたが効果は芳しくはなかった。
それは信長が行う経済政策の影響で近江国の経済も刺激され、また京と美濃を結ぶ要衝がある事から物流が活発になり、結果久政の時代よりも近江国は潤っていたからだ。
利益が信長に集中すれば話は別だが、近江国に住む様々な人間の懐が温かくなっているため、多くの人間は利益を優先し久政の話を聞き流した。

今の自分たちは信長からおこぼれを頂戴するコバンザメだ、と考え久政は信長への反発を強めた。
久政の動向を間近で見ていた長政は信長に一定の尊敬を抱きつつも、実は彼が危惧するほど信長に心酔はしていなかった。
近江は京へ通ずる要衝の地だが、琵琶湖の関係で人口は少ない。必然的に経済を活性化するには、人の移動が活発化する必要がある。
そこを理解しているからこそ、信長の経済政策を長政はありがたく思っていた。同時に親の久政と彼の腰巾着たちの現実の見えなさにうんざりし始めていた。

信長、長政、久政の間で激しい駆け引きが行われている頃、濃姫を筆頭にまつ、おね、えいの四人が静子の元に集まる。

「ほほっ、ようやく食せるようになったか」

「はい、大変お時間を頂く事になりました事をお詫び致します。ですがようやく酪農も軌道に乗り、こうして濃姫様にご試食頂ける機会を得られました」

彼女たちの目的は黒豚アグーの料理だ。それ以外にも羊や牛の乳製品や肉など、戦国時代では珍しい料理が供される。
しかし牛の肉を美味しくするには、運動させず太らせて脂肪を調整する必要がある。無論、脂肪の少ない赤身の肉でも、大根やパイナップルの汁で肉を柔らかくする方法は幾つもある。

「気にする事はない、待つのも楽しみの一つじゃ。さて、雑談に花を咲かせるのも一興じゃが、それでは料理が冷めてしまう。まずは料理を堪能しようぞ」

「はっ、ではまず……南蛮の飲み物である『牛乳』と『山羊乳(やぎにゅう)』をご試飲下さい」

濃姫たちの前に牛乳と山羊乳が並べられる。どちらも言葉通り、牛の乳と山羊の乳だ。
グラスの生産数が少ない事から、どちらも磁器で出来たマグカップに入れられていた。
目に見えない区切りを感じたみつおは、マグカップに牛乳を入れる事に抵抗感はあったが暫く考えて目を瞑る事にした。
幸いにも濃姫たちはマグカップに牛乳が入れられる事に嫌悪しなかった。彼女たちは牛乳を不思議そうな表情で凝視する。

戦国時代の日本には牛乳を飲む習慣など無かったと思われがちだが、実は六世紀ごろより限定的範囲で乳製品として食卓に上っていた。
牛乳の伝来については前述の六世紀ごろに孝徳天皇に薬として献上された記録があり、牛乳を管理する職として和薬使主やまとくすしのおみの称号を以て遇された。
これ以降、京都や奈良に乳戸にゅうこと呼ばれる酪農家が増え、時の帝一族へ牛乳を届けていたとされる。
更に酪農の拡大に伴い生産量が消費量を上回ると牛乳を十分の一にまで煮詰めた、乳製品のが登場する。
これにより927年に蘇を税として納める「貢蘇こうそ」の制度が成立した。

生産量の拡大と共に天皇家のみではなく、藤原家などの有力貴族にも蘇は健康食品、または薬として重用されることとなる。
しかし平安末期に武士の台頭と共に牛よりも馬の生産が重要視され、牛乳は表舞台から姿を消す。

再び牛乳が注目されるには江戸時代まで時を進める必要がある。
江戸幕府八代将軍吉宗がオランダ人獣医より、馬の治療に牛乳やバターが良いと薦められインドより白牛三頭を輸入した。
これを近代酪農の先駆けとされる千葉の嶺岡牧場で飼育し、馬の治療をはじめ、この牛の乳から作った蘇を白牛酪はくぎゅうらくと呼び、将軍や大名の食膳に供せられた。

山羊乳も牛乳と同様に長い歴史を持ち、世界最古のチーズは山羊乳から作ったとも言われている。
日本では15世紀ごろに中国より伝来したとされるが、これは採肉用であり九州や沖縄といった一部地方でのみ飼育されるに留まった。
本格的な採乳用山羊はペリー提督が来日した寛永年間に持ち込まれた。
つまり静子が飼育している山羊も採肉用ではあるが、当然妊娠すれば乳を出す。
単に乳の採取可能量が乳用品種に比べて少ないだけである。

「獣の乳など、と思ったが意外と口当たりが良い。妾は山羊の乳が好みじゃ」

獣の乳と言う事で敬遠されないか心配だったみつおだが、濃姫はその程度の事を気にする人物ではなかった。無論、彼女だけでなくまつやおね、えいも同様であった。

「妾は牛乳が好みです。まつ殿はどちらですかな?」

「妾はどちらもいけますよ」

「しかし……ふふっ、こうして大人になった今、再び乳を飲むとは思わなかったのぅ」

「南蛮では牛乳や山羊乳は、昔から健康に良いとされ愛飲されてきました。特に山羊は雑食ですが少食で、また牛より環境に適応する能力が高いので、山岳地帯など特殊な環境で暮らす人々には、貴重な栄養源として重宝されております」

元々、山羊は山岳地帯の断崖絶壁でも暮らせる高い身体能力を持つ動物である。
故に世界で最も高い地域のヒマラヤ山脈でも、山羊は過酷な環境を物ともせず生き抜いている。

「ふむ……悪くないな。しかし本日の主役は、琉球国とやらから取り寄せた黒豚じゃ。牛乳や山羊乳が良くても、黒豚が悪ければ意味がないぞ」

「これは手厳しい。ですがご安心下さい、本日はアグー尽くしの献立にしております。更に、南蛮菓子を食後にご用意致しております。では、お願いします」

その言葉に小姓たちが反応し、料理が濃姫たちの前に並べられる。

「ご説明致します。飯はアグーの生姜焼き丼、汁は豚汁です。また肉単品を堪能して頂く為にサイコロステーキにカツレツ、ソーセージを用意致しました。口直しは数種類の漬物でございます」

芳飯ほうはんに似ておるが、味噌汁が入っておらぬ。代わりに肉に汁がかけられておるな」

「味噌汁を抜くとは斬新な考えよのぅ。妾たちでは到底思いつかない料理じゃ」

「良い事ではありませんか。新しき料理とはふとした事で生まれ、そして広まるのです」

「左様。見た目がどうであれ旨いものは旨い、不味いものは不味い。ただそれだけの事じゃ」

丼ものやちらし寿司の原点は、飯の上に魚や野菜を刻んで乗せ、その上に味噌汁を注ぐ芳飯ほうはんが原点とされている。
しかし主食であるご飯とおかずを別々に配膳する事が基本とされている日本では、現代でも主食におかずを乗せる事を忌避する人がいる。

(かなりの冒険でしたが、何よりもインパクトが必要でしたからね。もしかして芸術家が貴族にパトロンを頼む時って、今の私と同じように胃を痛めながら反応を伺っていたのでしょうかね)

下手をすれば濃姫たちを激怒させていたが、その様な事はなく彼女たちは楽しくお喋りをしながら料理を平らげていた。
彼女たちの気分が良い状態なら、お願いもしやすいとみつおは思った。しかしみつおが何かを言う前に、濃姫は彼がどんな願いを口にするか察した。

「旨かったぞ、みつお。これだけのものなら、きっと殿も気にいるであろう。鶴姫の事も、妾から口添えをしておこう」

「ありがとうございます」

島津家から嫁いできた鶴姫には、尾張・美濃の移動に制限がかけられていた。特に重要な拠点については、かなり口煩い状態だ。
当然ながら静子の元へ、彼女は中々こられない。更に入手する道具類もそれなりに制限がかかるという、不便な生活を強いられていた。
しかし濃姫から口添えがされるなら、幾分生活が楽になるとみつおは思った。

「(事情を説明した覚えはないのですが……信長の正室ですし知っていても不思議ではないですね)食後は南蛮菓子バウムクーヘンをお召し上がり頂きとうございます。特殊な調理器具が必要でしたが、静子さんにご協力頂き作成する事が可能となりました」

「そうじゃ、静子はどうした? 奴がこの手の話に出てこないとは、不思議な事もあるのぅ」

「本日は私のアグー試食会でしたので、出しゃばるのは失礼と言って裏方に徹しておられます」

「ならば仕方ない。今回は静子の意を組んで、みつおの料理を真剣に楽しもうぞ」

「ありがとうございます(絶対遊ばれるから逃げる、と言っていたのは聞かなかった事にした方がいいですね)」

みつおの心の言葉通り、静子は濃姫に遊ばれる前に戦略的撤退を完了していた。






濃姫が黒豚アグーに太鼓判を押している頃、静子は足満と共に果樹園にいた。

「肉料理はやっぱり胡椒が欲しいね」

「日本の環境で胡椒の栽培は、厳しいのではないかね」

胡椒はインド原産のコショウ科コショウ属のつる性植物だ。日本で栽培するには、熱帯性植物を栽培するための温室環境を用意する必要がある。
更に胡椒への知識と栽培する技術が要求されるため、一般の家庭菜園には不向きな作物だ。

「確かに難しいね。何より種の発芽率が悪すぎる。けど……一度、発芽すればビニールハウスさえあれば行けるね」

「……コスト的な意味で割に合わない、と静子は言っていなかったかな」

「現代日本ならね。確かにあの時代で、私は胡椒の栽培に挑戦していたけど……あれも単に意地になっただけ。だけど戦国時代に胡椒栽培が出来るなら、優秀な交易品になるわ」

「その為にビニールハウスが必要、という訳か」

「ガラスハウスは高度な建築技術を要求されるからね。まぁ試験的に建築はしてはいるけど……難しいかな。お、みかんとレモンを接ぎ木で増やすための台木は、順調に育っているね」

みかんとレモンはどちらも柑橘類に分類されるので、台木はカラタチが最も優れている。
一般的に接ぎ木は育種年限の短縮化を図る為の技術だが、もう一つ高接ぎたかつぎと呼ばれる技術がある。
これは収益性が低下した品種を、新しい品種に短期間で更新するための技術だ。この技術を応用すると、一本の木に何種類もの果樹を作る事が出来る。
りんごで例えると、とある品種のりんごの木を台木にふじ、つがる、むつの三種類が収穫出来るようになる。
しかし高接ぎたかつぎは品種によっては成功率が低く、十本ほど高接ぎたかつぎをして全滅、という事もあり得る。

「接ぎ木は問題無いか。話を戻すが胡椒を育てるには、温度計が必要だと思うがそれはどうするのだ?」

「ん? 簡単なストロー温度計なら既に実用化しているよ? ただ単に、ビニールハウスみたいな場所でないと、あんまり意味がないけどね」

「……確か胡椒は七度以下になると枯れるのだったな。ならば胡椒の苗や種が手に入り、ビニールハウスが出来たならば、胡椒栽培に取り掛かれるという事か」

「実際はもっと面倒な事があると思うよ。苗や種の入手には大金が必要だし、戦国時代の日本で発芽するかどうかも分からないしね」

胡椒は種を植えてから実を収穫するまで三年かかり、そこから十五年から二十年の間は収穫が出来る。
静子が胡椒栽培で一番躓いたのが、発芽率の悪さだった。胡椒は種からではなく挿し木で増やす理由も納得出来るほど、胡椒の種を発芽させる事は困難を極めた。
結局、温度や水の量を小まめに記録し、最適な温度と水量を探り当てる為に十粒五百円の種を二十袋ほど消費した静子だった。
流石の静子もそれ以上、種から栽培する事はなく、挿し木で増やしていく方式を採用した。

「(流石にライバルの胡椒栽培を邪魔する為、相手の畑から挿し木を頂戴するとは思わなかったけど……)まぁ順調に苗と種は入手出来ているよ。ビニールハウスも今月には出来そうだしね」

南蛮や明と交易するルートを持つ静子は、早くから胡椒の栽培に目をつけていた。
しかし欧州で胡椒は貴重な香辛料だ。幾らイエズス会の協力があろうとも、取引に応じてくれる商人は少ない。更に久治郎経由で取引の話をするため、話のテンポも悪かった。

それでもようやくイエズス会の話に応じる人物が現れた。イエズス会はその人物に、胡椒の挿し木を作る方法を紙に纏めて与えた。
しかしその人物はイエズス会から教わった方法を勘違いし、収穫の妨害をするためライバルの胡椒畑から頂戴するという暴挙に出た。
その話を久治郎経由で聞いた時、静子が頭を抱えたのは言うまでもない。しかしそのお陰で、予定数より多くの苗や種を運搬中との事だから、良かったと言うべきかどうか悩む所だった。

「まぁ大半は死んでいるでしょうね。運良く生き残った強い個体を使い、ミニチュアのビニールハウスで栽培。上手く行けば良いのだけれど……失敗すると一からやり直しはきついかなー」

油断は禁物だった。現代と違い、胡椒の挿し木を運ぶには最低でも一ヶ月はかかる。その間に半分近くは腐るだろうと、彼女は考えていた。
真面目に扱ってくれるかも疑問だった。更に彼女はイエズス会に「胡椒の研究」と伝えているだけで、本来の目的である「胡椒栽培」を伝えてはいない。
最も、胡椒を栽培すると言っても真面目に取り合ったかは疑問が残るが、可能な限り不安要素は消しておきたかった。
騙し打ちをしているように見えるが、こうでもしなければ入手自体が不可能になる上に、下手すると日本への侵略に熱を入れる可能性がある。余計な事は黙っておくに越したことはない。

(報告では挿し木用が百本、種が七十個だったね。城一個が出来るほどの資金を使ったけど……うまく行けば五年で取り戻せるかな)

色々と手間が掛かりすぎて、日本に苗や種を輸入する事が難しくなっていた。胡椒の他にも熱帯作物の苗や種を購入しようと奮闘しているが、状況は芳しくなかった。
熱帯雨林気候を仮想的に作る計画も、肝心の苗や種が手に入らなければ無駄に終わる。

「あ、そうだ。足満おじさんにお願い事があるけど……良いかな?」

「静子がわしを頼るとは珍しいな。遠慮はいらん、何でも言え」

「そこまで構える話じゃないよ。私の持っている火縄銃に、ライフリングを刻みこんで欲しいの」

「……ミニエー弾か」

足満の言葉に静子は小さく頷いた。






四月十四日、信長は二月末から整えていた朝倉征伐の準備を終えた。
彼が朝倉征伐の準備をしていた理由は、一月に畿内や近隣諸国に対して「上洛し禁裏の修理や幕府の御用をするべし」という書状を発した事に由来する。
表向きは朝廷や幕府の威信を取り戻す形だが、実際は信長に敵対する勢力と服従する勢力をふるい分けるためだ。

この呼びかけに直接応じたのが徳川家康、北畠具房、三好義継、松永久秀などで、太田垣や大友などの遠方にいる国人は使者を遣わした。
だが信長と緊張感が漂う関係の朝倉義景はこの呼びかけに応じなかった。前もって分かっていた事だが、信長は対外的な意味も込めて理由を尋ねる文を何度か朝倉に送る。
無論それらの文に対し、朝倉が返事を寄越す事は一度としてなかった。

禁裏や幕府の権威を背にした上洛命令に従わない朝倉を、信長はこの時初めて敵とみなした。
しかし表向きは朝倉征伐ではなく、「若狭国守護である若狭武田氏と被官の武藤氏征伐」を掲げた。
この時、若狭武田氏の最後の当主(第九代)である武田(たけだ) 元明もとあきは、1568年に若狭へ侵入した朝倉氏によって拉致され、一乗谷へ連れ去られていた。

若狭武田氏が武田の姓を名乗る理由は、甲斐源氏嫡流甲斐武田氏と同族だからだ。
鎌倉政権発足時の甲斐源氏嫡流甲斐武田氏は、甲斐守護だったが、承久の乱後に安芸の守護職も獲得した。
そして甲斐源氏嫡流甲斐武田氏の第10代当主である武田信武の時、甲斐守護は嫡男の信成が継ぎ、安芸守護は次男の氏信が継いだ。この時、氏信が安芸武田氏の祖となったのだ。

最後の当主元明が一乗谷にいる以上、武田氏の若狭支配は実質的に終わりを告げているが、信長には関係なかった。
彼の目的は朝倉征伐である。目の前に都合の良い大義が転がっているのなら、利用しない手はない。

四月二十日、信長は自身の軍に同盟の徳川軍合わせて三万を率い、建前の若狭を目指し坂本を出陣した。
目的は幕命に背いた若狭国の武藤友益の征伐という事になっているが、誰がどう見ても朝倉征伐が真の目的にしか見えなかった。
それらを払拭させる為か、信長は幕臣や公家も行軍に同行させ、独断の出陣ではなく官軍の立場で出陣した事を周囲に見せつけた。

出陣時には三万から四万程度の軍勢が、近江路より若狭国に入ると若狭衆など各地から軍勢が集まり、総勢十万の軍勢に膨れ上がった。
若狭にいる小浜の武田一族や、被官人の一部が反信長を訴えていたが、若狭守護武田氏の譜代の臣・粟屋越中守勝久は信長に通じていた。

四月二十二日に信長は近江から若狭に抜ける熊川宿に入る。
この時、家康は得法寺に泊まった。その得法寺には、敦賀へ出発する時に腰掛けたという松(家康腰掛の松)が伝承として残されている。

四月二十三日、京で元号が永禄から元亀に改められた。
これは信長の意向ではなく、義昭の独断であった。朝廷が行う改元に介入した事で、彼へ不満を持つ層が増える事は言うまでもない。

四月二十四日、信長は若狭と越前の国境にある国吉城に入城した。国吉城の城主である粟屋越中守勝久は、長年朝倉の若狭侵攻に対抗してきた人物だ。
ここで信長は一旦軍の前進を停止させた。そこでようやく信長の軍が奇妙である事に、家康は気付いた。

「半蔵、織田殿の軍に森殿の姿は見たか?」

「……京にいる時から見ておりませぬ」

それは信長の右腕である森可成の姿がない事だ。これほどの大きな戦で、彼の姿がない事は奇妙の一言だった。
家康は考える。武辺に優れている森可成を、信長が朝倉征伐に連れてこない理由が何か。
彼が思案している間、半蔵の配下が何処からともなく現れ、半蔵に報告をする。それを聞いた半蔵は、ゆっくり家康の方へ向きながら言葉を口にした。

「殿。報告によれば、織田軍は二つあり、一つは関ヶ原辺りに集結しているとの事です。その数、三万は下らないかと」

「……浅井殿が裏切る可能性を考慮して、か」

「恐らく。浅井備前守殿と、左兵衛尉殿は完全に対立状態です。ですから織田殿は、左兵衛尉殿が裏切り、背後から急襲するのを防ぐ為に関ヶ原へ軍を置いたのでしょう」

「とすれば、関ヶ原にいる織田軍を率いているのは……森殿か」






美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)は、天下分け目の合戦と言われた関ヶ原の戦いが行われた場所だ。
一般的に関ヶ原の戦いは文治派と呼ばれる政務を担った諸将と、武断派と呼ばれる軍務を担った諸将が、関ヶ原を主戦場として行われた野戦と言われている。
しかし文治派の中心である石田三成と、武断派の中心である徳川家康は、どちらも豊臣秀吉の家臣だ。故に両者が争った理由は、豊臣政権における主導権争いだ。

関ヶ原は東国と西国を結ぶ要地であり、ほぼ全ての人間は関ヶ原を経由しなければ東国から西国、もしくは西国から東国へ行けない。
その点を良く理解している信長は、大軍が展開出来る関ヶ原を重要地点と考え、防衛施設を多数建築し、何重もの防御陣を敷いた。
しかし未完成な所が多数ある関係で、周囲には防御地点としてしか認識されていない。

要塞化が進む関ヶ原に織田軍三万が集結していた。総大将は森可成、副大将は柴田勝家だ。
織田家家臣随一の猛将柴田勝家と、「攻めの三左」の異名を持つ武勇の誉れ高い森可成が、揃って関ヶ原に布陣している。
その事に一番驚き、畏れ慄いたのは言うまでもなく浅井久政だ。彼は信長が朝倉領土へ侵攻すれば、金ケ崎で朝倉と連携し挟み撃ちにする算段だった。
しかし森可成が関ヶ原に布陣していては、織田軍を挟み撃ちにする作戦は行えない。下手をすると自分たちが挟み撃ちの対象になるからだ。
久政は信長の行軍を傍観する事以外、何も出来ない自分たちに気付いたが後の祭りだった。

「浅井左兵衛尉殿が裏切るか、それとも諦めるかはお館様の行動次第だ」

関ヶ原にある城の一つに布陣している森可成は、非常にゆったりした雰囲気で呟いた。
長期間滞在する可能性が高い為、彼は気を張りすぎる事は逆に精神をすり減らすと考えているからだ。だが家臣たちの目には森可成がゆったりしながらも、常に臨戦態勢に見えた。

「お館様は国吉城から四日も動かれておりません。朝倉が進軍しているとの話ですが、悠長に構えても大丈夫なのでしょうか」

「気にするな。お館様は武藤征伐が目的だ。そこへ攻撃を仕掛ける大義が朝倉にはない。万が一、朝倉が攻撃を仕掛けたら、それこそ朝倉征伐を堂々と掲げられる。そして左兵衛尉殿も朝倉征伐に反論が出来ぬ。いや……朝倉と連携して貰える方が、我々にとっては戦う場が出来て都合が良いか」

おどけた態度を取り、森可成は家臣たち一同の笑いを誘う。

「報告します。お館様、動きなし。浅井、動きなし。朝倉、一乗谷から進軍したとの事です」

「ご苦労。柴田殿から何かあるかね」

「はっ。腕が鈍って困る、と申されておりました」

柴田の愚痴にまた森可成の家臣たちは笑う。彼らは決して油断している訳ではない。この関ヶ原に留まる事で、彼らは目的の半分を既に達成しているから心に余裕があるのだ。

更に二日後の四月三〇日、ようやく信長に動きがあった。しかしそれは、浅井・朝倉を驚かす動きだった。
国吉城にいる信長は久政と朝倉の予想を裏切り、その場で官軍を解散した。
そして徳川軍を引き連れて朝倉領に入らないよう注意しつつ、長政の居城を目指す。
官軍が解散された事で幕臣や公家は、進軍ルートを使い京へ帰還した。
関ヶ原にいる森可成は一万の兵を率い、信長の進軍に合わせて長政の居城へ進軍し始めた。

信長率いる織田・徳川連合軍と、森可成率いる織田軍の距離を考えれば、森可成が行軍するのは信長より数日遅れになる。
しかし予想を裏切り、両者がほぼ同時に行軍した事に朝倉は驚き恐れ慄いた。彼は木芽峠を越えた所で軍を停止し、情報収集に努めつつ軍を後退させようとした。

しかし散々信長に舐められた態度を取られながら、何もせず朝倉が撤退を選んだ事に家臣たちは反発した。この反発に朝倉は前にも後ろにも動けない状態に陥る。
木芽峠で釘付け状態になった朝倉軍を嘲笑うかのように、織田・徳川連合軍は越前の国境をかすめるように進軍した。

最終的に信長の挑発に対して然るべき大義が上げられない事を理由に、朝倉は家臣たちを説得し一乗谷へ帰還した。
朝倉軍が一乗谷へ戻ったとの報告を受けた久政は、密かに集めていた軍を解散させた。
朝倉も久政も機会を逃したと悔しがったが、信長が進軍しなかった目的が何かまでは考えに至らなかった。

「首尾はどうじゃ」

「上々にござりまする」






信長が官軍を率いた理由は、武藤友益征伐でも朝倉征伐でもない。
浅井久政の軍事に関する情報、そして朝倉軍の情報を集める事こそ信長の真の目的だった。
無論、嘘は言っていない。武藤友益征伐を目的とし、あわよくば朝倉征伐も彼は目論んでいた。

朝倉軍は二万の兵を動員し、内六千を国内に残し、兵一万四千を率いて一乗谷を出陣した。
浅井軍は一万八千の兵を動員出来るが、久政と親朝倉派だけでは八千が限界だった。
浅井・朝倉両名を合わせても、兵力は三万に満たない。軍に関する情報が得られた事で、信長の真の目的は半分達成された。
更に浅井・朝倉両軍に無駄な浪費をさせる事も成功し、まずまずの成果と言えた。

だが軍の情報を集めるだけでは終わらない。信長はもう一つの目的を達成する為、長政の居城・小谷城へ向かう。

「遠い所からよくお越しくださいました、義兄上。本日はどのようなご用向きでしょうか」

丁寧な挨拶を口にする長政だが、その事に不快感を覚える家臣は多かった。彼らにとって長政の言動は、信長にへりくだっているようにしか見えなかった。
最も、そういう思いを抱くのは決まって久政陣営だ。如何なる相手でも礼儀には礼儀を、非礼には非礼を返すのが長政の考えだ。

「(これは、届いておらぬようだな)武藤征伐で厄介な話が舞い込んできた」

「失礼ながら義兄上が言われる厄介なお話と、我が城へ参られた理由は関係しておるのでしょうか」

「少々関係する。まず幕命に背いた武藤氏だが、彼の主君は一年前に朝倉軍によって拉致されていた。武藤氏は主君の若狭武田氏を差し置いて、自身が上洛する事に抵抗があったのであろう。そしてそれを言い訳にせず、座して戦う姿はあっぱれな忠義心という他ない」

信長の手放しな称賛に久政陣営は若干どよめく。未だ信長の事を田舎国人と思っている為か、武力だけでのし上がった粗暴な人間、という誤ったイメージが払拭出来ていないのだ。

「若狭武田氏の救援に向かう事は可能だったが、相手が朝倉氏となれば事は単純に行かない」

「これは異な事をおっしゃる。仮に朝倉氏と事を構えても、それは朝倉征伐が大義名分となるだけです。それに兵力が違い過ぎます。ご心配する事はないかと思いますが」

「忘れたか。朝倉氏と事を構える場合、わしはそなたと話し合うという約束を交わしておる。故に朝倉氏の進軍を知った時、そなたにこの件で話し合う旨の文を送った。しかし先ほどからの態度を見るに、文はそなたの手に届いておらぬな」

信長は考え事をする素振りを見せながら、視線だけを久政の方へ向ける。

「わしがその文を隠しているとでも言いたいのか!?」

その視線が自分を責めているように見えた久政は、反射的に立ち上がって大声を上げる。
心に疚しい事がある人間そのものの態度だが、頭に血が上った久政は気付かない。

「突然どうなされました、左兵衛尉殿」

「貴様ッ!」

「その様に興奮なされては、お体に毒ですぞ。お怒りを沈め、冷静に話しあおうではありませんか。わしが何か悪い事をしたのでしたら、先に謝罪を申し上げます」

久政の激昂に信長は冷静な態度で返答し、更に謝罪の言葉とともに頭を下げた。
既にどちらが是で、どちらが非か明らかなのだが、久政は信長の謝罪すら自分を馬鹿にしているように見えた。

「下がりなされ!」

なおも何か言いかけた久政だが、長政の一喝にそれはかき消された。
信長から長政に怒りの表情を向けた久政だが、長政は冷静に、そしてはっきりと断言した。

「浅井家の当主はこのわしです。貴方の出る幕はありませぬ」

それは決定的な台詞だった。
長政と久政は修復不可能なまでに関係が悪化した、と浅井家家臣たちは瞬時に理解した。

「義兄上、父上の無礼、変わって謝罪致します」

「気にしておらぬ。そして過ぎた事を言っても始まらぬ。話を戻そうか、若狭武田氏の事はお主に任せたい。どうも朝倉殿はわしを嫌っておるようでまるで話を聞こうとされないし、わしは武力でしか物事を解決しないと周囲に思われがちだからな。これ以上はわしが関わるよりも、朝倉家と関係の深い浅井家が解決する方が良いと思ったのじゃ」

「下手をすれば背後から襲われるにも関わらず、そこまで考えて頂いた義兄上の思慮深さに感謝致します」

「では宜しく頼むぞ」

朝倉を上洛させるのは浅井の仕事、その確約がとれた信長は早々に会談を終わらせた。

その後、彼は長政と共にお市、そして赤子の茶々の元へ向かった。お市と挨拶を交わし、茶々を抱き上げたが、茶々は信長に抱き上げられた瞬間、大泣きをした。

「どうやら茶々姫は、わしの武骨な腕がお気に召さぬらしい」

周囲の人間は慌てたが信長はさして気にも留めず、それどころか豪快に笑っていた。
それでも抱き上げられなかった事が内心悔しかったのか、何度か茶々の抱き上げに挑戦した信長だった。
しかし何度やっても茶々に泣かれてしまい、うまく抱き上げる事は出来なかった。

「わっはっはっ、茶々姫は一歩も引かぬようじゃ。昔のお市を見ているようで小気味が好い。大きくなれば、良い女子になるであろう」
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