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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

永禄十二年 伊勢平定

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千五百六十九年 八月下旬

時は少し遡り永禄十二年(1569年)五月、南伊勢の北畠家中は信長と抗戦か恭順かで意見が二つに割れていた。
そんな中、北畠具教の実弟で木造城を守る木造具政が、木造一族といわれる源浄院主玄(滝川雄利)や、柘植三郎左衛門らにそそのかされ、織田家に内通し宗家へ謀叛を起こした。
滝川一益の諜略を知った北畠具教は、すぐさま軍勢を派遣し木造城を攻める。
しかし長野家や神戸家が織田軍として救援に駆けつけ、また木造城が守りやすい低湿地に囲まれているため、北畠具教は木造城の攻略に至る事なく軍を引いた。

信長は神戸城の攻略を境に、大軍による力攻めから調略を主とした合戦に切り替えた。
その調略戦で信長は次々と伊勢の城を自陣営に取り込み、北畠具教の力を削ぎ落としていく。
兵力の差や信長の調略で北畠具教は苦境に立たされる。しかし彼は降伏する素振りすらみせず、それどころか信長への対決姿勢をむき出しにする。

北畠具教の態度を受け、信長は本格的に伊勢攻略へ乗り出した。
彼は森可成、柴田勝家、佐久間信盛、木下藤吉郎をはじめとする家臣に伊勢侵攻を通達する。
伊勢侵攻の通達は勿論静子の元へも届けられた。しかし内容は彼女の予想を超えるものだった。

「……いやー凄く驚きだね」

信長からの通達内容を確認した静子は、半分呆れ気味に呟く。彼女は呼び出した慶次と才蔵、長可、彩に通達の内容を説明する。
朱印状には慶次と長可の二名は伊勢侵攻軍に参加。静子と才蔵は諸般の事情に鑑み従軍せず自宅待機。彩は静子と才蔵を補佐する事、と細かく指示が書かれていた。

「二人は森様の指揮下に入る事と書かれているけど、実際は遊撃兵に近い扱いじゃないかな」

「うーん、久々に大きな戦だな。腕がなる」

「元服前に参戦出来るとは……これほど名誉な事はない」

伊勢侵攻の話を聞いて慶次は期待に胸を躍らせ、長可は感動の余り涙が流れそうになったが顔を上げて懸命に堪えていた。

「出陣は八月二十日だから、十八日までに準備を終わらせておく必要があるね。倉は開けておくから、使うものは後で彩ちゃんに報告をしておいてね」

「じゃあ五の倉にある刀、あれを貰っても良いか?」

静子の発言を聞くやいなや、長可がそわそわしながら尋ねた。
彼に言われて静子は五番目の倉に、ある刀を一本保管している事を思い出す。

「あー、あれね。別にいいよ、というか君が元服した時に、譲ろうと思っていた刀だし」

「本当かッ! 所であんな良い刀、誰から貰ったのだ?」

「お市様へ梅酒を贈ったら、返礼として贈られてきた刀だよ」

「……お前は相変わらず、変な事に手を出してるな。所で刀の名は何だ?」

「さぁ。私が貰った時には、それっぽい名前はなかったね」

「じゃあお前が決めてくれ」

「はい?」

若干焦った静子だが、期待をむける長可を見て言葉を詰まらせる。

「いや、ほら。刀鍛冶さんの名前の方が……」

「良いんじゃないかな。勝蔵もそう言っているのだし」

「左様。何も問題はございません」

期待を込めて慶次と才蔵に視線を向けた静子だが、期待は見事に裏切られた。
一度重い息を吐いた後、静子は長可の方へ顔を向ける。

「格好良い名前を頼むぞ!」

「(天上天下唯我独尊、は駄目だよね)うーん、四文字熟語だと『明鏡止水』・『一騎当千』・『威風堂々』・『剛毅果断』・『堅忍不抜』って所かな」

「……すまん、響きは良い感じだが、何て書くのかさっぱり分からん」

「ごめん。今書くからちょっと待って」

静子は先ほど口にした四文字熟語を紙に書き、長可に手渡す。
それを受け取った長可は、それぞれの紙を見て眉間に皺を寄せる。意味ではなく漢字の響き、そして見た目だけで決めていた。

「よし……この明鏡止水というのにしよう。意味はさっぱり分からんがな!」

「だったら人に聞こうね。ちなみに明鏡止水の意味は、邪念がなく、静かに落ち着いていて、澄み切った心の事を言うのよ」

「わっはっはっは! 邪念ばかりの勝蔵にはぴったりじゃないか!」

明鏡止水の意味を聞いた慶次は、長可を指差しながら大笑いした。






信長は伊勢侵攻を開始する一週間前、静子にあるものを自身の居館へ運ぶよう命じた。
命じられた静子は専用で使っている倉の地下室に保管されているものを地上へ運び出すと、新規開発したリヤカーに全て積んだ。荷物を積み終えると、偽装のために大量の乾燥草を被せる。
作業が終わると静子は慶次を伴い、信長の居館に向かってリヤカーを引く。

「何だって急に……」

重いリヤカーを引きながら静子は愚痴を零す。

リヤカーは牽引車両として海外から持ち込まれたサイドカーの概念と、当時主流であった大八車を融合させた革新的な発明品だ。
登場は1921年(大正十年)頃と遅く、発明者は静岡県富士市青島の望月虎一とされる。
重い荷物が運べ、振動・騒音を押さえ、重心が低くなるため安定した運搬が可能になったリヤカーは、あっという間に大八車に取って代わった。

静子のリヤカーは金属製パイプの代用品として竹で作られた骨組みに、麻製プラスチック板がはめ込まれ、タイヤは空気の代わりに樹脂を入れたノーパンクタイヤだ。
竹は加工さえしっかりすれば、金属製パイプの代用品として成り立つ。現代でも竹製の自転車や車椅子のフレームに竹が使われる事は珍しい話ではない。
鉄やアルミ等の金属製フレームよりも丈夫で軽く、しなる性質のために路面の振動を和らげ、木材よりも耐久性が高く、それでいて木材よりも入手しやすい利点がある。
樹脂を入れたタイヤは乗り心地は良くないが、荷物を運ぶ分には申し分ない性能がある。

平坦な舗装道路以外では性能が格段に落ちる、坂道(特に下り坂)での移動が困難などの欠点はあるものの、それでも荷車としては破格の性能を持つのがリヤカーだ。
何より馬を使わず人力のみで数百キログラムもの荷物を運搬出来る利点がある。
また工具不要の折りたたみ式を採用しているため、破損しても作り直す必要がなくパーツ交換だけで良い利点もある。

「中身が中身だからねぇー。静っち以外が運ぶと、帰り道に首と胴がさよならしちゃうよ」

「……分かるよ。中身が非常に大事なのは、分かっているよ。けどね、重いんだよこれ……」

傍目には積み荷が乾燥草だけに見えるが、本当の積み荷はその下に隠されている。
山盛りの乾燥草に隠した本当の積み荷、それは信長の隠し資産である金の延べ棒八十本、銀の延べ棒百二十本だ。

言うまでもなく静子は金山を所持しておらず、また金山開発を手掛けている訳ではない。
金山や銀山を持たない静子が、いかなる方法で金銀を獲得したか、その秘密は粗銅にある。

日本国内の鉱石から精錬された銅は多くの金銀が含んでいたが、江戸時代に入るまで日本には銅から金銀を分離する技術がなかった。
そのため古くから銅と金銀を分離する技術を持つ明や南蛮人は、日本から銅を買い叩いて金銀を抽出し莫大な利益を得ていた。
しかし1591年、後に住友財閥の業祖と呼ばれる蘇我(そが) 理右衛門(りえもん)が、泉州堺にて南蛮吹きと呼ばれる貴金属を多く含む銅から金銀を分離する精錬技術を完成させた事で、安価な粗銅の海外流出は止まった。

荒銅から金銀を分離する南蛮吹きのお陰で、静子は鉱山を持たない身ながら大量の金銀銅を保有している。しかし彼女が必要とする金属は銅と銀の二つだ。
精錬や加工が容易、熱伝導性や電導性、耐久性に優れた銅は人類に多くの恩恵をもたらし、もはや現代社会において欠かせない存在だ。
銀は硝子に無電解メッキ(銀鏡反応ぎんきょうはんのう))処理を行うと反射層を作る。これを利用したものが鏡だ。鏡は六分儀や測距儀を制作する上で欠かせない部品だ。

「まさか荒銅にあれほど金銀が含まれているとは……」

金銀銅が信長のお目こぼしを頂ける程度の量なら何も問題はなかった。
しかし出入りの商人たちが荒銅を集めては静子に売るのを繰り返した結果、彼女の手元には少しどころでは済まない金銀銅が集まった。
明らかに不相応な金銀を前に、静子は信長に報告する方が良いと判断した。

流石に荒銅から金銀が取れる事は、信長も想像の域を遥かに超えている話だったが、静子専用の倉の地下に保管された金塊と銀塊を見て考えるのを止めた。
暫く金銀は倉に寝かせる事、時期を見て少しずつ信長の倉へ輸送する事、そして輸送は静子が行う事、などの取り決めを静子は信長と交わした。

「今、思えば何で私が運ぶ事にしたのだろう?」

「そりゃー静っちよ。あれだけの金塊を見て、心を動かされない奴がどれ程いるよ」

紀元前の時代から金は富の象徴であり、黄金の輝きと不変の価値は歴史上の支配者を魅了し続けた。
日本では戦国時代、戦費獲得のため各国が金山開発を行った結果、ゴールドラッシュが起きた。その時代を制した豊臣秀吉もまた、黄金の茶室や便所を作るほど金に魅了された。
現代でも金一キロにつき500万近い価値があり、人類史において金が無価値になった事はただの一度もないのだ。
そんな金に対してのん気に構えられる静子が、慶次には不思議でならなかった。

「金子が余っているのに、金の延べ棒を所有しても扱いに困るだけだよ」

「一本ぐらい……とか思った事はないのかね?」

「慶次さん、私の国にはこういう言葉があるの。『信用を得るには永年の歳月を要するが、これを失墜するのは実に一瞬である。しかして信用は金銭では買うことはできない。これを取戻すためには今までに倍した努力が集積されなければならないのである』」

この言葉は1955年(昭和30年)3月、八雲工場食中毒事件発生後に、当時雪印乳業株式会社の社長であった故佐藤 貢が全社員に対して発した言葉の一部分である。

不満を口にしていても、本当は静子も理解している。金銀を静子に運ばせる理由は、静子なら数を誤魔化さずに精製した金銀を届けると信長が信用しているからだ。
静子を信用していないのであれば、信長は信のおける森可成に運ばせるだろう。
だからこそ、静子は信長の信用をはした金で裏切る真似は死んでも出来ない。それは今までの自分をも裏切る事になるからだ。

「勿論、地位や財産を求めるのが悪いって言わないよ。ただ、私はそういう人たちと目指す場所が違うだけだね。さ、この話はもう終わり。さっと岐阜へ行ってものを届けよー」

言うやいなや静子はリヤカーを押す力を少しだけ上げる。少し離された慶次は、静子の背中を何ともいえない表情で見つつ呟いた。

「やっぱり静っちは不思議だな」

だがそれが良い、と慶次は心の中で呟くと静子の背中を追った。それから道中何事も無く、静子と慶次は無事信長の居館に到着した。

「待っておったぞ……なんじゃ、その珍妙な被り物は」

笑みを浮かべて二人を出迎えた信長だが、静子の被り物を見て首を傾げる。

「あ、これは麦わら帽子です。字のごとく麦わらで編んだ被り物です。通気性が良いし、日除けのつばが広いので結構気に入っています」

日本では麦わらを漂白か染色を行い、平らに潰して真田紐(さなだひも)を渦巻き状に縫い合わせたものを麦わら帽子と呼ぶ。
しかしい草や経木などの素材であつらえた、つばの広い帽子の総称として麦わら帽子という言葉が使われる事もある。
かつて岡山県は麦わら帽子が主産品であったため、今も麦わら帽子を手がける専業メーカーや歴史博物館が存在する。

「ふむ、帽子と後ろの荷車については後で話を聞こう。まずは例のものを倉へ運ぶぞ」

信長に案内された場所は数ある倉の内の一つだ。外見からは他の倉と変わらない雰囲気だが、良く見れば倉の窓が他より幾分小さい事に気付く。
僅かな違いだが出入り可能な箇所を、極力減らす考えが窺える倉だ。

「では積み荷を下ろします」

リヤカーに乗せている乾燥草を取り払うと、その下には麻製プラスチックで作られたプラダンケースが姿を見せる。
木箱より軽いプラダンケースは、使用環境によっては百回以上荷物の往復に耐える強度があるため、金銀を運ぶには持ってこいのダンボールだ。

静子と慶次はプラダンケースから一キロの金と銀の延べ棒を取り出し、信長指定の位置に延べ棒を並べる。流石に金銀合わせて二百キロともなれば、それなりの時間と労力を要した。
作業を終えひと心地つく二人に対し、信長は延べ棒の山を含み笑いしながら一瞥する。

「中々の量だ。これだけあれば暫く戦費には困らぬな」






信長が岐阜城を出陣してから三日後、木造城へ入城した頃に濃姫が静子の元を訪れた。
今回はいつもの面子であるねねとまつに、森長可の母親である「えい」が加わっていた。
彼女たちは夫や子どもが戦場へ行く事などなんのその、朝からきては温泉を堪能していた。
そして昼食前に静子は彼女たちから呼び出された。
呼び出される事に違和感を覚えなくなった静子は、疑問すら持たず濃姫たちの所へ赴く。

「茶会のようなもの……ですか?」

「左様、殿は茶会だの何だの言っておるが、妾から見れば非常に下らん。教養だ茶器だと下らん事を気にせず、楽しめる茶会を開きたい。そこで良い案はないか、との事だ」

濃姫の要望は実に簡単だ。
武将たちの間で流行っている茶会のように、細かい礼儀作法や形式に拘るのは馬鹿らしい。
もっと気楽で、誰でも参加出来るような茶会を開きたい。そこで良い案はないか、という事だ。

「うーん、茶会ではなく喫茶(茶を飲むという意味)ですかね。茶を飲みながら、茶請けを食べる程度の……」

「ほぅ、中々良いな。じゃが茶の粉は入手が困難じゃぞ。その辺の生産は手をつけておるのか? それから『ざるそば』とやらはまだか。妾はよう食したいぞ」

「濃姫様、一度に言うと静子も困ってしまいます」

矢継ぎ早に言葉を口にする濃姫へ、まつがやんわりと苦言を呈する。
しかしその程度で止まっていれば、織田家随一のフリーダム姫という称号は得られない。フリーダム称号は静子が勝手につけただけだが。

「何を言う、まつ。殿たちが出払っている今、妾たちが一番に『ざるそば』とやらを食せるのだぞ。ついでに言うと、お主は静子の畑から結構な量の西瓜を収穫しておったな」

「妾は静子にちゃんと依頼しておりましたから。ついでに言うと、ねね殿が静子の倉から蜂蜜酒とやらを持ちだしておりました」

「静子から倉にあるものは、持ち出しても良いと許可は得ておりますよ。ついでに言うと、えい殿も静子の倉から梅湯(梅酒の事)を持ちだしておりますな」

「おや、ねね殿も同様に梅湯を頂戴しておりませんでしたかな?」

四人の言葉を聞いて、頭が痛くなった静子である。
特定の倉以外は中にあるものを自由に持ちだして良いと伝えた。しかしここまで堂々とされると、持ち出しを禁止にした方が良いのではと、段々思えてきた静子だった。
もっとも、言っても耳を傾けてくれるか怪しい人たちではある。

「お待たせしました。ざるそばをお持ちいたしました」

重い溜息を吐いた時、彩がその言葉と共にざるそばを運んできた。
彼女が部屋に入った瞬間、今まで静子の後ろに待機していた才蔵が、目だけ動かして彩の方を見たのを静子は見逃さなかった。

(自分の分が含まれているか、確認したのね……)

自分が原因とはいえ、後世に名を残した武人を食べ物に拘る人に変えたのは、歴史的に見て大失態だったかもしれない、と静子は内心頭を抱えた。

「ふむ、事前に聞いておったとはいえ、蕎麦粉、つなぎ、水で練ったものを糸のように細く切るとは何とも珍妙な調理法じゃのぅ」

言い終えると同時、濃姫は直感的に食べ方を理解したのか、静子が説明を始める前に左手で蕎麦猪口を持ち、右手の箸でそばをすくって食べ始める。
すすると口の中に柔らかな感触が広がり、噛めば噛むほど蕎麦の香りと甘味が鼻腔をくすぐる。

「う、お、あの、濃姫様……?」

「なんじゃ、静子。変な顔をしおって……ざる蕎麦は旨いぞ、皆も食すが良い」

「いいのかなぁ……」

「ふふっ、食べ方に問題ありと静子は思うたろうが、気にする事はない。妾が旨いと感じた食べ方こそ、正しい食べ方なのじゃ」

静子の心配を濃姫は一笑に附した。






九月頭、静子は京や九州から仕入れた作物を栽培している畑の様子を見る。仕入れた種や苗の関係上、他の畑と違い栽培面積がちぐはぐ、そして栽培している作物も種々雑多だ。

静子は端から栽培している作物の様子を見る。まず最初の作物がカブの変種である酸茎蕪すぐきかぶらだ。これを使った漬物が酸茎漬けすぐきづけだ。
酸茎漬けすぐきづけは伝統的な京漬物の一つで、柴漬、千枚漬と共に京都三大漬物の一翼を担っている。
静子がこれを栽培する理由は、酸茎漬けすぐきづけは乳酸発酵漬物であり、インフルエンザ予防に良いとされる植物性乳酸菌「ラブレ菌」があるからだ。
京でも栽培を進めているが、やはり尾張で栽培出来る方が良いと考え、静子は京と尾張の両方で栽培を開始した。

次は唐辛子だ。
唐辛子の原産地は中南米で、メキシコでは数千年前から食用として栽培されている。
日本では1552年にポルトガルの宣教師バルタザール・ガゴが豊後を訪れ、大友宗麟に「トウガラシ」の種子を贈った記録が残っている。
この事から16世紀半ばには、欧州から日本へ唐辛子が伝来したと言われているが、他にも諸説があり未だ定説が定まっていない。
唐、という言葉から中国から日本へ伝来した説もあるが、中国に唐辛子が伝来した時期は日本より更に後の十七世紀半ば(明時代末期)である。

戦国時代、唐辛子は観賞用、薬、毒薬、足袋のつま先に入れて霜焼け止めとして用いられた。
江戸時代には食用に用いられた記録が幾つもあるが、どれも魚や野菜本来の味を消し潰さない『慎ましやかな辛さ』的な使われ方だった。
第二次世界大戦後、日本で食の多様化が進むまで唐辛子は脇役的な存在だった。
欧州でも唐辛子は長い間、観賞用植物として栽培され、調味料として使われ始めたのは19世紀に入ってからだ。

唐辛子は食材や調味料、自然農薬の材料と使い方が豊富な作物だ。その関係で唐辛子は他の作物より広く栽培されている。
しかし栽培している唐辛子には一つだけ問題があった。伝来した唐辛子の種類が記録に残ってないため、一体どの程度の辛さを持つ唐辛子か判別出来ない。
現代日本で一番辛い唐辛子は、能鷹(のうたか)唐辛子と呼ばれる品種でスコヴィル値が十万から十二万五千と言われている。
市販されている中で最も強力な催涙スプレーが十八万スコヴィル、一般的な催涙スプレーは一万五千から九万スコヴィルという事を考えれば、能鷹唐辛子がどれほど強力な辛さを秘めているか推測は出来よう。
なお世界にはキャロライナ・リーパー(キャロライナの死神)が150万から300万スコヴィル値、トリニダード・スコーピオン・ブッチ・テイラーが146万3700スコヴィル値という、もはや何の為にその辛さが必要か疑義の念を抱く唐辛子も存在する。

最後は日本薄荷ニホンハッカ)である。これは日本固有種ではなく中国が原産地と言われているが伝来についての詳細が定かではない。
明治初年に薄荷取卸油として輸出されたものが日本の独占品であったため、名前に日本を冠するようになったとされるシソ科ハッカ属の多年草であり、国外からは和種薄荷ワシュハッカと呼称された。
西暦918年(延喜18年)に完成した「本草和名ほんぞうわみょう」と言う薬物書には、中国の薄荷は日本の「めぐさ」に相当するという記述がある。
これより薄荷ハッカという名称が定着し、古くから薬用として栽培されてきた。

記録によれば安政年間(1854-1860年)、つまり江戸時代末期に岡山県や広島県で商用作物として栽培が始まったとされている。
とは言え大々的に栽培されたのが江戸時代であり、前述の通り平安期より存在する植物であり中国地方で入手できることを静子は知っていた。
彼女は早速出入りの商人を通じて堺の豪商、更に尼崎の豪商へと伝手を頼り見事四本の挿し木用日本薄荷を入手した。
幾人もの手を経由したため、相応の金額を支払う事になったが、日本薄荷より得られる収益を思えば微々たる額であり先行投資として割り切った。

薄荷の栽培は比較的容易であり降雨量が少なく、温暖であれば素人でも育てることができる。
また地下茎を形成する植物の例に漏れず旺盛な繁殖力を示し、地中深くまで仕切りを入れる等の対処をしないと野放図に勢力を拡大していく。

「これが大金に化けるとは到底思えませんが……」

「今年は無理だけど、来年から薄荷油、薄荷脳メントール、精油(取卸油とりおろしゆという)が採取出来るよ。ま、薄荷は栽培が簡単だし、そんなに手がかからない品種だよ」

日本薄荷は他の薄荷と比べて薄荷油中のメントール含有量が格段に多く、ペパーミントがおよそ50%なのに対して、日本薄荷は実に80%近く含まれている。
このため薬用には適しているが、料理やハーブティには不向きな種である。

「それよりくすのき集めはどう? 出来るだけ使い物にならない部分で、という注文をつけたけど、うまくいっている?」

「持ち込まれたものは、全て倉へ運び終えております。しかし薪にも使えない部分で、一体何を作られるのでしょうか?」

静子は樟集めを出入りの商人に依頼したが、その時に「市場に出回らない材や剪定された枝、根など」という、市場価値がないものという条件を付けた。
薪にも使えない木屑にどんな価値を見出したか、それが分からず彩は静子の意図をつかみかねる。

樟脳(しょうのう)だよ。こっちも樟脳油と樟脳結晶が作れるね。薄荷と同じで水蒸気蒸留をするから、こっちも作った方がいいかなと思って」

「は、はぁ」

樟脳はセルロイドの可塑剤として大量に消費され、日本の国益を担う専売品として世界の注目を集めた。しかし高度成長期にセルロイドが石油由来のプラスチックにとって代わられ需要を大きく減らす事となった。
現在では九州地方において数か所程度が天然樟脳を製造しているに過ぎない。九州地方に集中している理由として、樟脳の原料であるクスノキ分布の偏りがある。本邦におけるクスノキの8割までもが九州に集中しており、原材料を安く調達できる生産拠点のみが生き残っていることを示している。

「樟脳作りで樟の残りカスを燃やして出来た灰を畑の肥料、樟脳を採り終えた樟は熱源にして灰は同じように処理、樟脳結晶と樟脳油は防虫剤・防臭・芳香として売りに出す。薄荷は水蒸気蒸留して黄緑色の精油を作る。そこから精製して薄荷脳と薄荷油を採取する。使った薄荷は家畜の飼料として使えば良い。ほら、殆ど集めた材料で作れるじゃん。それに防虫作用のあるものはとっても便利だからね。時には虫が病気を運ぶ事もあるし。その点を考えたらお館様や濃姫様にも必要かと思うのだけど、彩ちゃんとしてはどう思う?」

「……学がない私では静子様の仰られる事が、殆ど理解出来ませんでした。ですがひとまず静子様が、一応先の事を考えて行動している事は理解しました」

「何だか褒められているのか、けなされているのか分からないけど……まぁいいか。防虫効果のあるものは、夏になると便利だからねー」

刈り取った薄荷の生草を乾燥させた後、水蒸気蒸留することにより精油を得る。
日本薄荷の場合、精油を冷却するだけでメントール結晶が析出する。固体を取り除いた後の液体が30%前後のメントールを含む薄荷油となる。

「揮発性が高いから、油紙の生産と壺形の磁器生産を依頼したけど、あっちはどう?」

「特に問題なく、順調に生産しております」

薄荷油や樟脳油は揮発性が高く、気密性の低い容器で保管すると時間の経過と共に蒸発する。
故に磁器の瓶に蓋を取り付け、油紙で蓋を覆い紐で縛る必要がある。更に高温、多湿、火気、直射日光を避け冷暗所に保管するなどの注意が必要だ。

「山に自生している葛の茎から作った、葛布の売れ行き具合はどうかな?」

「葛布は尾張・美濃より、京の方が良い売れ行きと報告を受けております」

「ふむふむ……(葛粉は労力が必要だから諦めて葉茎に絞ったけど、悪くない売上なんだね)」

葛は絡みついた木を枯らす事があるため、静子は人夫を使って木に絡みついた葛の茎を伐採し尽くした。
根を収穫すれば暫く勢いを抑えられるが、葛が地表を覆い尽くす事で土壌を雨滴の侵食から守り、落ち葉が腐植質を与え、土の地力を増進し保水力を高めている関係から根の収穫は出来なかった。

新規農作物を栽培している畑の経過観察を終えた静子は、次に果樹園の経過観察を行う。
果樹園は静子たちの居住区から少し離れているが、その分広々とした土地を使う事が出来た。
現在栽培している果樹は畿内から運び込んだ金柑、中国原産のすもも、鎌倉時代初期から栽培されている山梨県原産の甲州ぶどう、みつおが持ち込んだスイカ、中国原産のビワ、日本に古くからある(カラモモ)とアケビ、桃、甘柿だ。
梅も果実故に果樹園で栽培するべきか静子は悩んだが、梅干しが軍需品になる関係から分けた方が良いと考えなおし、別の土地で梅だけを育てる事にした。

渋柿が栽培されていない理由は、美濃には平安時代から続く堂上蜂屋柿どうじょうはちやがきがあるからだ。
朝廷(天皇)や将軍に献上され、朝廷への昇殿を許された格を持つ意味の「堂上」の名が許された蜂屋柿の味に織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三傑は揃って魅了された。

堂上蜂屋柿は美濃の気候風土があってこそ完成する。
故に静子は渋柿ではなく、1214年に発見された日本固有種の甘柿『禅寺丸』を栽培することにした。
無論既存の蜂屋柿についても栽培を奨励し、より大きくより甘い干し柿が出来るよう技術指導も行った。
結果として上品かつ比類なき甘さを誇る蜂屋柿の知名度は天下に鳴り響き、静子は毎年上物の干し柿を届けられるまでになった。
蜂屋柿を愛して止まない信長が少し、否、かなり羨んだのは言うまでもない。

「貧乏公家から丸金柑(マルキンカン)を買い取って移植したけど、順調に根付いているね。まぁ私が欲しい品種は輸入待ちだけど」

寧波金柑(ニンポウキンカン)……でしたか。確かそちらは連絡待ちでしたね。つい先日、届けられた文には、それなりの数を持ち帰れるとの話でしたが……」

金柑の原産地は中国の長江中流域だが、現代日本で主流の金柑は逝江省寧波(にんぽう)で栽培されている寧波金柑だ。
寧波金柑は江戸時代(1826年)に渡来したものだが、静子が栽培している丸金柑(マルキンカン)は鎌倉時代から室町時代の間に渡来したと言われている。

「別に金柑にこだわる必要はないよ。その他にも、沢山あるお隣の国の果物を、我が国に導入するからね。多少、良く分からない作物でも良いよ」

孟宗竹の時にある程度の商業ルートが構築されたのか、細いながらも静子は中国や印度、欧州との交易ルートを手にれた。
いつまで維持出来るか分からない以上、本来なら江戸時代や明治初期に渡来する作物を、静子は早めに日本へ伝来するよう尽力する。

現在、静子が伝来時期を早めようとしている品種は以下の通りだ。
寧波金柑と江戸時代末期に渡来した唐金柑(トウキンカン)
1654年に明から帰化した隠元(いんげん)禅師が伝えたインゲン豆。
十九世紀末の安政年間に渡来した結球型のキャベツ。
江戸時代に渡来しボタンナと呼ばれた紫キャベツ。
江戸時代に中国から日本へ渡来したいちじくやライチ。
リンゴやナシの接木の台木に使われるマルバカイドウ。
その他にもオリーブやアボカド、アセロラといった欧州や新大陸(アメリカ)原産の種や苗の輸入を静子は目指した。

(改めて考えると、ヨーロッパの影響は大きいなぁ。大航海時代に彼らが種を持ち帰らないと、こっちは何も出来ないのだから)

静子が農作物の伝来時期を早める理由は、農作物の育種(品種改良とも言う)を行うためだ。
染色体やDNA鑑定が行えない以上、静子は交雑育種法しか選択肢がない。
しかし交雑育種法は一つの品種を作るのにおよそ十年かかる。そのため、栽培環境を早くから整えておく必要があるのだ。

「レモンは順調に結実しているね」

レモンは品種毎に適切な収穫時期はあるものの、基本的に一年中季節に関係なく収穫出来る。
収穫せず果実を放置すると木に負担がかかるため、早めに収穫を行う必要があるが、レモンを多用する機会は少ない。
そこで静子は収穫したレモンを調味料である塩レモン、そしてもう一つは運動後の疲労回復に良い蜂蜜レモンを作る事にした。

塩レモンの作り方は簡単だ。
まずレモンを綺麗に洗って水気を切り、両端を切り落とした後、八等分のくし形にカットする。
次に殺菌した保存瓶にレモンを入れ、その上に塩を加えて蓋をする。
最後に蓋を油紙で巻いて紐で縛れば、後は二、三日に一回、瓶を振れば良い。

発祥地の北アフリカ・モロッコではレモンを切らず丸ごと使用するが、輪切りやペースト状、X型に切っている方が塩の馴染みが良い。
だが輸入された柑橘類には「ポストハーベスト問題」がある。そのため現代で塩レモンを作る場合は国産レモンを使う事が望ましい。
重曹を使って農薬ワックスを落とす方法もあるが、薬品が果肉にまで染み込んでいる可能性を考慮すると国産レモンの方がより安全である。

蜂蜜レモンは皮ごと輪切りにしたレモンに蜂蜜、お好みで砂糖とすり下ろした生姜を加えてかき混ぜ、一日冷蔵すれば完成だ。
ビタミンB1、B2、C、ブドウ糖、クエン酸が含まれる蜂蜜レモンは、高い疲労回復効果を持つ。

塩レモンの保存期間は梅干しに匹敵し、未開封であれば十年の保存に耐えた例もある。
蜂蜜レモンも蜂蜜の殺菌効果により、常温でも半年近く保つ。当然のことだが、どちらも長期保存を主眼においており塩分及び糖分が過剰に加えられているため、常食すれば健康を損なう。

「カラタチの成長も順調だね。何だか上手く行き過ぎてて、ちょっと怖いかなぁー」

レモンの木を増やしている静子だが、柑橘類は結実に至るまで時間がかかる。
同品種を大量生産するには接木技法を使うのが望ましいが、穂木と台木であるカラタチの栽培を並行で行っているため接木技法で増やす事はまだ行えない。

耐病性や耐寒性に優れ、柑橘類との親和性が高く、果実品質が優れているカラタチは、今後も多用する事から実に二〇〇という膨大な数を植えている。
一年間カラタチを栽培し、そこから接木技法でレモンとみかんを増やせば、数年後には数百本を栽培するみかん畑とレモン畑が出来上がる。
本来ならカラタチは二年生台木が望ましいが、数を増やさない事には話が始まらないので初期は一年生台木で接木作業を行う。

しかし順調に進んでも最短で三、四年(一五七三年頃)は必要だ。
それまで信長には我慢して貰う必要があった。若干不安はあるものの、こればかりはどうしようもないのだから諦めて貰う他ない。

何しろ接木技法が再現出来るようになれば、接木雑種つぎきざっしゅという異なる品種の作物を接木して、突然変異を起こし人為的に新種を生む事も出来るのだ。
勿論、全く意図しない接木雑種が出来上がる可能性もあるが。






更に静子の経過観察は続く。
次は各地から集めた作物を育てる畑ではなく、少々特殊な栽培を行う畑だ。
その畑は作物が見当たらず、代わりに竹が地面に突き刺され、傍には柿渋染めした麻と竹で作った支柱ネットが設置されていた。

「毎度の事ながら、静子様のなされる事は突飛過ぎて分かりません」

畑の見回りに付き合っている彩が、奇妙なものを見る目で畑を見つつ呟く。

「ふっふーん、これは私独自の栽培方法だからね。ま、別に秘密でも何でもないよ。これは自然薯の栽培だよ。網を張っているのは、ムカゴを収穫しやすくするため」

自然薯の栽培においては種イモの採取に注意が必要となる。天然の自然薯はヤマノイモモザイクウィルスに感染していることがままあり、これを栽培しても歩留まりが悪い。しかし罹病種の多くは沿岸部より15キロメートル以内に集中しており、海岸から充分離れた深山の日陰に自生する優良種を選定して採取することでリスクを軽減できる。
無論潜在的キャリアを避けたところで、アブラムシなどが媒介することで感染する可能性は否めなが防除は比較的容易い。

自然薯の繁殖方法は幾つかあるが、一番手っ取り早いものが切いも種を使用する方法だ。
催芽することが条件だが、その年で収穫出来、更に収量が多いメリットがある。

しかし自然薯は土の中で波打つように成長する。自然薯を傷つけず掘り返す点からも、まっすぐ成長して貰う事が望ましい。
現代であればクレバーパイプを使った栽培が数多く見受けられるが、ビニールもない戦国時代ではクレバーパイプを用意する事は不可能だ。
木の板を使う方法も考えたが、こちらも柿渋染めをして防腐処理を施す必要があり、更に平らな板を作る手間を考えればコストが見合わない。

身近にあるもので代用品を作れないか考えた結果、静子は竹をクレバーパイプ代わりに使う事を思いついた。
竹は節を貫通させるだけでよく、長さも調整しやすい。更に土に埋めても腐敗する事はなく、自然薯の栽培期間である半年程度なら十分持つ。
一度加工が終われば数年は使えると考えた静子は、自身の竹林から竹を伐採してクレバーパイプもどきを作成する。

静子は孟宗竹の竹林を一つ、真竹の竹林を三つ、淡竹の竹林を二つ所持している。
竹林などの森林資源は軍需品に該当するが、彼女は技術街の職人に自由な伐採の許可を出している。
更に他の農村にも連絡さえすれば伐採の許可を出していた。代わりに外へ出ないよう地面を掘ってコンクリートで囲う以外管理されておらず、森林的な美しさは皆無であった。
唯一、不文律として「地下茎は掘るな」だけは徹底させた。地面を掘って地下茎を傷つけられでもしたら、竹林全体に影響が出るからだ。

直径と長さから静子は真竹でクレバーパイプもどきを作成する。
クレバーパイプの長さはおよそ一メートル、真竹は節間の長さが三十から四十センチ。上手く加工すれば節の加工は三箇所ですむ。
道具も旋盤に主軸一個の簡易ボール盤機能を取り付ける事で、穴あけ加工が容易に出来るようにした。
他にも工具が必要と考え、ボール盤とフライス盤の開発に取り組むようにした。
どちらも旋盤を応用すれば製造が可能のため、旋盤ほど大きな問題は発生しなかった。

ボール盤があれば銅線の量産が可能になる。銅線の基礎技術であるダイス伸線(鋼板の穴に線を通して引っ張る伸線法)の工具が作れるからだ。
銅を引っ張る力は人力では不可能だが、十九世紀初頭の日本は水車の動力を利用し銅線を量産していた。
ならば戦国時代でも銅線の製造が可能ではないか、と静子は考え銅塊を板状に延ばしたり、線状に伸ばしたりして銅を成形する伸銅工場の建設に取り掛かった。
工場の基本構想は、動力の非人力化・自動化を行い、銅塊から線・板全般を統合的に生産する近代工場に近かった。

「ムカゴは鉄分、カリウム、マグネシウムなどが豊富に含まれているからね。これを栽培しない手はないよ。まぁ……ムカゴも自然薯も滋養強壮には良いのだけど、強精効果のあるアルギニンを含んでいるから大丈夫かどうか心配だな」

「何が大丈夫なのですか?」

「まだ彩ちゃんには早い話だよ。コホン、まぁ山に自生する自然薯じゃないし、栽培品種だから山芋の方が呼びやすいかな?」

「呼び方は何でも問題ありません。例え前例があろうとも、お館様が変えてしまうでしょうから」

「……ありえそうだね。ま、ま、自然薯、じゃなかった山芋ね。これが出来ればトロロ麦飯とか、山芋で作った蒲焼きとか出来そうだけど、すりおろすのに手間がかかりそうだね。何か良い方法ないかなぁー」

「私としては、静子様がこれ以上の権益を増やす意味が分かりませんが……」

「ほえ? 権益? 私、権益とかそういうの持ってないよ?」

不思議そうに首を傾げる静子を見て、彩は頭が痛くなった。

今や尾張・美濃において静子が影響を及ぼしていない場所は寺社を除いてほぼないに等しい。

衣類なら静子は麻糸、絹糸、木綿の三つを製造している。麻糸は汎用性が高く、軍需物資で言えば土嚢の材料、生活で言えば網などに使われる。
絹糸は高級衣類の材料として、木綿は火縄銃の火縄として使われている。それ以外も農作技術による収穫量向上と栽培品種の増加、漁村では塩の生産量向上、及び副産物による新製品。
ものがあっても交通の便が悪ければ話は始まらない。しかしマカダム舗装技術で、尾張・美濃は交通の便がとても良く、更に楽市楽座政策のお陰で商人の商売がし易い。

信長は商人の保護を名目に、彼らから税金を徴収すれば良い。商売出来る数が多ければ多いほど、信長の懐に入る金子の量は増える。
つまり静子が新しい事業や栽培を始める事は、そのまま信長の軍用金が増える事を意味する。
これが周辺国に謎と見られている信長の錬金術の一つだ。しかし謎に思うのも仕方ない。
静子が新しい事業を始める事は、信長の意向が殆ど絡まないのだ。彼女が勝手に新しい事業を始め、それを商人が目ざとく見つけて商売にし、信長の懐に入る金が増える。

全ては静子が信長に対して『絶対なる忠誠心』を持つ事で成り立っている話だ。
そして静子本人が人間としての欲はあるものの、身の丈に合わないものはすっぱり『不要』と切り捨てる為、織田家家臣たちに立場が危うくなるという危機感を募らせない事も関係する。

「静子様は今や織田家の重鎮。その意味を良く理解して下さい」

「私、その手の権利って全部、お館様が持っているものと思っていたよ?」

「名目上はお館様ですが、実際は静子様が持っているのです。たまに来る金子、あれは静子様の持つ権益を使った商人から得た、税金の一部を褒美として贈られているのですよ?」

「え? そうなの? 別にいらないのだけど……でも、お館様としては信賞必罰をする必要があるから、必要な措置なのかな」

本人に自覚がないとは言え、織田軍の軍用金を増やしている静子に褒美を与えない事は、信長にとって色々と問題がある。
奉公人に褒美を与えないケチな国人、というイメージがつくと部下の気概にも影響する。
故に信長は静子の事を褒め、報奨金を出す義務がある。その金を使って静子が新しい事業を始める為、彼女が常に金を減らそうとしている努力は、実は金を増やす努力に他ならなかった。

「えー、でもお金を貯めるのも経済的に問題なのよね。慶次さんぐらいパーッと使ってくれると、私としてもありがたいのだけど」

静子が新しい事業へ金子をつぎ込む理由は、馬廻衆の才蔵は金子を中々使わない、長可は訓練ばかりで金子を使う暇を持たない、彩は言うに及ばず、と慶次以外は金子を使わない生活をしているからだ。
経済は血液のようなもので、金子を市場へ流さなければ意味は無い。あちこちの業界に金子を撒く行為は、経済活動を刺激する意味でも必要な措置なのだ。
特に信長の貨幣経済政策を成功させるには、金子を持っている人間が市場へ流し続ける必要がある。

「金子を使う習慣がありませんので……」

「徐々に慣れていけば良いよ。その内、嫌でも貨幣取引になるからね」

静子に指摘されても、どこか納得していない顔の彩だった。
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