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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

永禄十二年 伊勢平定

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千五百六十九年 五月上旬

四月上旬、静子の村を含む五つは、信長から朱印状が発行された事で正式に解体することとなった。
今後、彼女の村から北は岐阜周辺、南は知多半島の根本まで、本格的な再開発事業が始まる。
知多半島の周辺にはいくつかの港街が作られる。また、その港街と途中にある村などを道路で連結する。
道路は一里(時代や地域により様々な長さだが、静子の一里は4km)ごとに道祖神を配置する。
これは旅行者の目印として設置するもので、榎などの木を植えて旅行者が休息を取れるように配慮されていた。
更に主要街道限定だが五里ごとに水場、十里ごとに茶屋が設置される予定だ。
水場を含む土地は織田家の領土だが、いかなる身分の者でも自由に水を飲む事が許され、不法占拠をすれば武力を持って殲滅する旨の立て札が設置されている。
また茶屋には、旅行者が手軽に利用出来る価格で提供するよう法規制されている。

なお道祖神には通常の人間には分からない裏の情報が刻まれていた。
道祖神の設置場所は、経緯度けいいどで管理されているのだ。
GPS衛星がなければ分からないように思われがちな経緯度だが、実は太陽や星の観測から、観測地点の経緯度を知る方法は存在する。
必要なものは中学校レベルの知識、中学生が普通に使う道具、後は数人の観測協力者がいれば出来る。
勿論、現代レベルでの精度は望むまでもなく、容易にkm単位の誤差が出る。その上、陸地しか計測出来ず、海上の経緯度を知るにはクロノメーター(高精度な携帯用ぜんまい時計)が必須だが。

この再開発事業では尾張の主要都市を幹線道路で結び、その他全ての村に支道を巡らせ港街へと至る街道を繋げる。
幹線道路で繋がれる主要都市は規模こそ違えど現代で言う県庁所在地に当たる。それに見合うよう、都市の中央に立法機関・行政機関・司法機関を置き、西側に工業地帯と商業地帯、東側に農業地帯と醸造・漁業地帯を配置する。
そして各地に軍事施設を、美濃と尾張の国境、そして関ヶ原付近に要塞を建造する。

流石にこの計画は数年でどうにかなるものではない。十年、下手をすれば何十年もかかる、まさに大型国家プロジェクトである。
インフラをゼロから作り上げるのだから当然だが、インフラの整備が軌道に乗ればそれだけで利益を生む。
つまり従来は寺社が独占的に握っていた物流と商業の制御を、信長自身で執り行うことにしたのだ。ただし寺社勢力と違って、彼は試行錯誤を繰り返す必要がある。
信長には寺社勢力が長年培った支配のノウハウが蓄積されておらず、自ずと新制度を敷く上で発生しうるトラブルへの対処等の見識が無い。
そのノウハウを効率良く集めるため、信長は責任ある立場の人間全員に定期報告書に加えて、トラブル発生に際して発生原因からその対処、結果までの一連の流れを記した障害対処報告書を半年ごとに取りまとめて報告するよう申し渡した。

この紙にも信長は改革を入れる。美濃紙を公用紙として使用している信長は、紙のサイズがバラバラで統一性がない点に注目した。
度量衡を制定しても、実際に使われるものに制定した度量衡が使われなければ意味はない。
その点も考慮して、信長は現代のA0からA6にあたる、七つの寸法を制定した『用紙標準規格令』を出した。
勿論、制定と同時に静子が量産している「ものさし」の無料配布も行った。それと同時に、昨年に続き村人たちの強制移住政策が進められた。

快晴と言っても良いある日、代一を筆頭とした初期の村人三十名は村の入口へ集合した。

「村長、今までお世話になりました」

信長の移住計画により彼らは住み慣れた土地を離れる。代一たちだけではない。

「静子殿、貴女には大変お世話なりました。正直な所、貴女がいなければ我々は餓死していたでしょう」

防衛ラインの都合上、二作たちもまた移住する事となった。
代一はともかく、山の民である二作たちとは話が難航すると思っていた信長だが、特に揉める事はなくすんなり話が通った。

「いえ、私はきっかけを作ったに過ぎません。皆さんが力を振り絞り己の居場所を勝ち得たからこそ、今があるのです」

「ははっ、相変わらずご謙遜を。少しは己の偉業を誇られても良いのですよ。まぁ、村長がふんぞり返っている所は想像出来ませんが」

「そうだな。どちらかと言うと、静子殿はフラっと現れて、問題をあっさり片付けて、何事も無かったかのように去っていく印象が強いですな」

それがツボだったのか、どこからともなく笑い声が上がった。返答に困った静子は笑みを浮かべて誤魔化す。

「当時は笑えませんでした。何でこんな小娘が! とか思いましたしね。もし成果が出なかったら、それこそ一矢報いてやろうとも思いましたよ」

「ははっ、まぁ私もそう思われても仕方ないなぁと思いました」

例えそれが誤りであっても、彼らはこの土地に住み、今まで生活してきた。
それが突然静子のような小娘が出てきて、今から彼女が村長だと言われても村人たちはそう簡単に納得出来るはずがない。

「ですが貴女は我々に生きる希望を与えてくれました。食べ物に困らず、農作業を簡略化し、我々に平穏を与えてくれました。しかし……今だから言えますが、これがある問題を産んでしまいました」

「問題? 何かありましたっけ?」

多少の失敗はあったものの、計画が大きく揺らぐような失敗は耳にしていない。
何の事か不思議に思って首を傾げている静子に、代一は申し訳無さそうな顔でこう言った。

「平穏になりすぎた為に、村の一部から不満が上がったのです。村長が女なのが気に入らない、という非常に失礼な不満が……」

「え? そう言った苦情は聞いた覚えがないのですが」

「我々と、彩様で何とか押さえ込んだのですが、やはり無理に押さえたのがいけなかったのでしょう。同調する者が増える一方で……しかし、こんな事村長の耳に入れる訳にもいかず。結局、全員を移住させる事で回避する他ありませんでした」

代一の話をまとめるとこうだ。
二年目までは良かったが、三年目から静子は殆ど村の事に関わりを持たなくなった。代一たちは信長の仕事が忙しい為に、こちらに関われないと理解していた。
一方で名ばかりの村長な静子に不満を持つ者も出始めた。中には静子が失敗するように画策して村から追い出してやろう、などと考える連中もいた。
そうした連中と代一は何度も話しあったが平行線のまま終わった。このままでは年貢にも影響が出ると考えた代一は、彩を通して信長にどうにかして欲しいと懇願する。
その結果が村に新しく追加した五十人の百姓と家族の大移住である。
突然、追加した五十人の百姓と家族を丸ごと移住させた、信長の裏事情を理解した静子だった。

「あ、あー、なるほど、それであれだけ引っこ抜いていったのですね。でも不満があるのなら、直接言ってくれれば良いのに」

「それは私も思ったのですが、織田様が『そんなに村長がやりたいのならやらせてやろう』と言って移住させてしまいました」

「はぁ……そうなのですか」

「多分、今頃後悔していると思いますよ。織田様は『静子ほどの事が為せるとは思っておらん。ゆえに静子が為した成果の半分を要求する。何貴様たちが出来ると言ったことの半分だ。これが出来ぬとあらばまさに半人前以下の烙印と共に放逐してやろう』と仰っていましたし」

「うわぁ」

どんな事を要求しているか手に取るように分かった静子だ。
達成不可能な無理難題は言わない信長だが、死にもの狂いで頑張らなければ為し得ないレベルを要求する。
つまり信長は相手に楽な要求を一つもしない。だがこれは信長に限った話ではない。
戦国時代、命は軽いが責任は重いのが標準だ。現代感覚では信じられないような要求も、命をかけて遂行する必要がある。
その分、見返りも大きい上に能力があれば更に上を目指せるが。

「お館様の命令ってしんどいですよ。何か疑問があれば質問攻めですし、ちょっとでも問題があればちゃんと返答しないと駄目ですし……その返答で疑問があれば更に質問が……」

「は、はい。それは私も嘆願しにいった時に感じました。あれをずっと続けてきた村長には頭が上がりません。しかしいつまでもおんぶに抱っこ状態は問題ですし、あのような事がまた起きないとも限りません。我々は村長の教え通り、自分たちの手で未来を切り開き、そして死に場所を見つけようと思います。それらの事もあって此度の織田様の移住計画を受け入れました」

「まぁこの歳で、代一と一緒にまた村を切り盛りするとは思わなかったが」

「元々、山の民と揉め事にならないように、村の人間を分けたのだが。僅か数十年で元の鞘に納まったな」

二人はそんな事を言いながらも笑っていた。これから新天地へ行く不安など微塵も感じられなかった。
静子は確信した。彼らは大丈夫だ。今後、彼らに困難が訪れようとも、必ず乗り越えられる、と。

「ははっ……それでは我々はそろそろ向かいます。村長……いえ、静子様、今までありがとうございました。貴女から受けたご恩は決して忘れません」

「困ったことがあったら、何時でもお呼びください。大した力にはなれないかもしれませんが、我々は貴女からのご恩に報いるため、何時でも駆けつける所存です」

二人はそう言うと同時に深々と頭を下げた。続いて村人たちも頭を下げる。

「皆様、ありがとうございます。私は幸せ者です。これだけ多くの人に想って頂けるのですから……どうかお元気で。私はこの地で、皆々様の新しい生活が幸多からんことを心よりお祈りいたしております」

静子は泣きそうになったが、それをすんでの所で耐え、彼らに深々と頭を下げた。
それが今まで切り盛りした村の、そして数年に渡って担った村長としての最後の務めだった。






代一たちが見えなくなるまで静子は彼らを見送る。
彼らの背中が見えなくなり、暫くしてから静子も自分の家へ足を向ける。

歩きながら彼女は、人の縁とは不思議なものだと思った。
理解出来ない超常現象で戦国時代へ飛ばされ、決して交わる事のない人と交流をする。
最初はどうして自分が、と現状を嘆いた事もあったが、今ではタイムスリップして良かったと思えるようになった。

(歴史に名を刻む気はない。ただ私が関わった事で、この戦国時代がどう変わるか……織田幕府が完成するのか、それとも歴史の流れは変わらず本能寺の変が起こるのか。どちらにせよ、今さら歴史が変わる云々なんて、考えるだけ無駄だね)

既に歴史は変わり始めている。信長は今、積極的に浅井長政を自陣営に引きこもうとしている。
果たして、これが浅井長政の裏切りを阻止するのか、それともまた別の理由で浅井長政は裏切るのか。
どちらに転んでも静子は己が出来る事をやる、そう新たに決意した。

彼女に感傷に浸る暇はない。仕事に忙殺されてあっという間に二週間が過ぎた。
その頃には長可や慶次、才蔵の仮住まいが完成し、後一週間で奇妙丸の仮住まいも完成する状況だ。
しかし彼らは暇さえあれば静子の家に入り浸る。特に食事時となれば、必ずと言って良いほど現れるのだ。
今では最初から五人分(静子、彩、慶次、才蔵、長可)の食事を作っていたりする。

「……欠食児童どもめ。うちにある食料を食い尽くす気か」

問題視するレベルではないとはいえ、このまま続くなら米の分配計画を見直す必要がある。

特に尾張米(ともほなみ系列の米)が大変だ。何を考えてか知らないが、信長は静子から献上された尾張米を徳川と浅井、そして京にいる義昭と帝にそれぞれ送った。
自らの領土に美味なる米が生産されている事を、周囲に知らしめようとしたのだろう。だが結果は信長の予想を遥かに上回った。全員、尾張米の虜になってしまったのだ。
普段は麦飯の家康も「この米なら毎日食べたい」と零すほどだ。
帝と義昭など「苗をよこせ」という始末。だが尾張米は日本の中部地方、もっと細かく言えば愛知県の環境に合わせて品種改良されているため、近畿地方での栽培は困難なのだ。
何より尾張米の情報は軍事機密だ。故に信長は生産が厳しい事を前面に押し出して相手の要求を断った。
その後、尾張米の先行予約とでも言いたげに、将軍と帝から色々と送られてきたのはまた別の話。
そんな尾張米を毎日食べている欠食児童三人衆(慶次、才蔵、長可)だったりする。

「来年になれば、一〇人は賄える量が生産出来るのだけど……うーん、今年はちょいちょい節約しないと駄目かな」

「織田の殿様が尾張米の生産を許可制にしているからねぇ。今の所苗の状態を持って良いのが静っちだけ。生産の許可が下りているのは、静っちの元村人だけだっけ?」

「うん。だから結構な広さの水田を作ったから、来年は問題ないのだけどねぇ。大体1haにつき四十から五十俵が平均として……全部で60haだから最大3000俵かな。生産は問題ないのだけどねぇ……一旦全部回収されるのが面倒だね」

尾張米は他の税と違い、生産したモノ全てが信長によって回収される。
そこから税を引き抜くのは変わらないのだが、他と違って尾張米は返却されず、代わりに1俵につき3から4俵の岐阜米が渡される。
つまり尾張米50俵を税として納めると、最大で200俵の岐阜米が手に入る計算だ。
幸いにして試供品として配った岐阜米は庶民に大受けし、対して尾張米は武家や公家に受けるという、一種の住み分けが出来た為、大きな混乱は生まれなかった。

実は彗星の如く出現した尾張米を巡って信長、家康、長政、義昭、帝の間で、激しい政治的駆け引きが行われていた。
勿論、静子は知らないし、もし知ったとしても『我関せず』という態度で通すだろう。何かが出来ると言うわけでもないが。

信長にも忘れられているが、尾張米は水の管理が非常にシビアだ。
そして病気に強いとしても、一切病気にかからない訳ではない。病気に対して的確なケアが出来なければ、他の米と同じで全滅する事もある。
要するに尾張米は他の米に比べて、栽培するのが非常に面倒臭い。しかもこの面倒な部分は、国人たちには理解し難い所だ。

「まぁ旨いのだから仕方ない。おまけに毎日食べているのに飽きないからな」

「……そりゃ、君はあれだけ副食を食べてればね。所で勝蔵君、そのいぶり漬け、どこから取ってきたか知らないけど、包んでいる奴は本多様に送るものだから気をつけてね」

瞬間、長可の顔色が真っ青になる。その態度から、静子は彼が本多忠勝用に包んでいたいぶり漬けから、何本か拝借した事を理解する。

「後で彩ちゃんに話をしておいてね。さて、今日は久々に石窯を使うかな」

別荘が出来たせいか、静子は濃姫たちからよく手紙を貰うようになった。手紙というよりは九割方、要望ではあるが。
その中でおねからの手紙に『パオン(パンのポルトガル語)という南蛮の食べ物が欲しい』という要望が書かれていた。
叶えるのは可能だが、問題はパンを膨らませる為の天然酵母だ。戦国時代の日本では天然酵母を自分で作るしかない。

「何を作るかは知らんが」

「試食なら」

「お任せ下さい」

長可、慶次、才蔵が三人息を合わせて宣言する。

「仲良いね君たち。今日作るのは南蛮の主食だよ。こっちで言えば米だね」

十六世紀の欧州は、ルターによるローマ教会への抗議(宗教改革の始まり)や、ローマ・カトリック教会に対する反乱(ドイツ騎士戦争)によって内部分裂を起こしていた。
宗教改革による影響で、ローマ・カトリック教会は十一世紀から十三世紀の最盛期に誇った政治権力を失いかけていた。
しかしそれでもパンは神の肉、ワインは神の血という考えは失われてはいない。

もっとも、静子も勘違いしているがキリスト教の影響がなかろうと、欧州は小麦パン・パスタ以外主食にはならなかっただろう。
何しろ米を育てるには大量の水と高温が必要であり、欧州の気候ではまず栽培出来ない。
そしてジャガイモは大航海時代にアンデスから欧州に渡るまで存在しない。結果、寒冷な気候でも育つ小麦がメインとなったのである。

「そうだねぇ……世界の主食である米と小麦とジャガイモ。それぞれで何か作るかな」

ジャガイモの冬栽培に成功した静子は、個人で消費するなら問題ない程度の量を確保出来た。
品種は不明だが雄性不稔の男爵薯ではないのは確実だ。何故なら、冬栽培のジャガイモに実が出来たからだ。
本来、ジャガイモは芋を植えて芋を取る栄養繁殖植物であり、実がつかなくても何の問題もない。しかし静子にとって果実は重要だった。
何しろ果実の中には真正種子が数十個入っている。そして真正種子から育った苗は、芋数や重さ、大きさで親に勝る優秀な苗が出てくる可能性があるからだ。

「ジャガイモっていうと、あの丸い奴かい? 正直な所、あれが食べられるものには見えないのだがな」

「え? ちょっと前にジャガイモ食べたはずだよ?」

静子がそう言うと三人は顔を見合わせる。だが三人ともジャガイモを食べた記憶はない。

「ほら、鶏肉と玉葱とジャガイモの煮物。三人で大皿の取り合いをしたアレだよ」

「……! あ、あー! あれか。え、アレにジャガイモが入っていたのか?」

合点が言った長可が両手をポンと合わせながら言う。慶次と才蔵も思い出したのか、長可と同じように両手を合わせた。

「ちゃんと言ったのだけどね……まぁ良いか。まずはパンかな」

幾つかある天然酵母の元から静子はレーズンを選んだ。
レーズンは保存食として優秀な上に、天然酵母の中ではパンと相性が良い。
少し酸味は出るしドライイーストほどではないが、無発酵パンよりは遥かに膨らむ。

作り方は非常に簡単だ。
まず葡萄を干してレーズンにした後、水でサッと洗って表面の汚れを落とす。
次に煮沸消毒した容器へレーズンを移し、レーズンが完全に浸るまで水を加える。
後は一日に四回ほど容器を振り、蓋を開けて空気に触れさせれば終わりだ。
レーズンが全て浮き、白い泡が出たら完成だ。

天然酵母があれば後は食パンを作るだけだ。
ただし牛乳やバターが手元にないため、それらを使わずに砂糖と塩、油と天然酵母、小麦粉だけで山型食パンを作る。
発酵や石窯の温度調整で時間はかかったものの、数個の食パンを焼き上げる。

「後はタマゴサンドを作れば終わりかな。ジャガイモは今回、鶏モモ肉と一緒に塩麹で煮ただけだから楽だし」

そうこうしている内にあっという間に夕方になった。
お陰で全員の夕ごはんがタマゴサンド、鶏南蛮タルタルソースサンド、鶏モモ肉とジャガイモの塩麹煮、味噌汁と尾張米という意味不明なメニューになってしまった。
だがパン系での料理は好評を得る事が出来た。






今年はある実験を行おう、と静子は前々から考えていた。
彼女の行う実験は『稲のバケツ栽培』と『農作物の空中栽培』の二つだ。
バケツ栽培は名前の通りバケツを使って稲を栽培する方法だ。決して効率が良いとは言わないが、子どもたちに稲栽培の仕組みを実体験を通して学習させられる教材として重宝する。

むしろメインは農作物の空中栽培だ。
これは逆さ栽培とも言われ、地面から離して栽培する方法だ。
メリットとしては荒れ地を畑に開墾する必要がなく、従来の土壌に植えて栽培するより空間を効率的に利用出来る。
デメリットは保水能力が低いため通常の栽培より多く水を必要とし、また栽培が終わった後に土の交換作業が発生する点だ。
それでも山城など通常なら畑を開墾する事が出来ない場所で、作物を栽培出来るメリットはデメリットを打ち消してくれるほど大きい。
この空中栽培で最も良いとされるのが薩摩芋だ。

通常、薩摩芋は平地で栽培されるが、この薩摩芋を多層の棚で栽培する方法が空中栽培だ。
多層棚の段によっては僅か一平米につき、二〇キロもの薩摩芋が収穫出来る。その気になれば地下水脈から水を汲み上げる城で、大量の薩摩芋栽培が行える。
籠城戦になり補給路が完全封鎖されても、ある程度の食料が自前で確保出来る。兵士たちの糞尿を堆肥に加工する施設を併設すれば循環環境を構築出来る。
松の木と並んで、薩摩芋の空中栽培は万が一の備えとしてはうってつけだ。
この薩摩芋の空中栽培で、最も効率が良いプランを調べるのが静子の実験だ。
ベストと言える環境は、僅かな土と堆肥で多く収穫出来、更に水の消費が少ない事だ。
その理想環境を探し出す為に、毎日計測を続ける静子だった。

そして時は少し経ち五月に入る直前、毎日数値と睨めっこしている静子の元に茶葉が送られてきた。
季節柄一番茶に該当する茶葉だが、届けられた茶葉は抹茶(茶葉を揉まずに乾燥して粉末にしたもの)ではない。
栽培方法で種類を分けており、煎茶、玉露、かぶせ茶の3種類を用意した。
新芽が出てから摘むまで一切日光を遮断しないのが煎茶。新芽が出た頃から茶摘みの三週間ほど前から、被覆栽培(遮光布を被せる)で育てて摘むのが玉露。
茶摘み十日から一週間ほど前に、被覆栽培を行い、玉露より低い遮光率で育てて摘むのがかぶせ茶だ。

何故、遮光して茶の木に光合成をさせないかは味に関係する。
茶の葉は光合成を行うと渋み成分のカテキンを増やし、旨み成分のテアニンの含有比率を減らす。つまり光合成を抑えると、茶の葉のカテキンの増加を抑え、テアニンの含有比率を上げる調整が可能だ。
その結果、煎茶は程よい渋みと爽やかな香り、玉露は甘みとコクのある味と遮光栽培独特の覆い香と言われる香り、かぶせ茶は煎茶と玉露の中間的な味わいという違いが出る。

「随分と沢山送ってきたね。それほど豊作だったと思うべきかな」

壺の蓋を開けた静子は、開口一番そう言った。

「お茶を試飲しますか?」

「うん、勿論するよー。あ、冷めていても良いからご飯と梅干しも出してね」

「それは……? あぁ……はい、分かりました。冷や飯ですがお出しします」

「その間は何なのか気になるけど、まぁ良いか。どうせ欠食児童たちも匂いに気付いて来るだろうから、彩ちゃん含めて五人分お願いね」

「分かりました。少々お待ちください」

静子に頭を下げた後、彩は準備をするため台所に向かった。

彼女が茶葉を送られる理由は至極簡単だ。
静子は茶畑を持つのではなく、既に茶畑を持つ農家と契約を結んだのだ。
戦国時代、茶は高級品ではあるものの、宇治茶のように高級茶もあれば、少し下に見られる茶もあった。
岐阜は美濃茶があるものの、日本三大茶に数えられる静岡茶・宇治茶・狭山茶もしくは鹿児島茶ほど有名ではない。
よって静子でも上手く行けば契約を結ぶ事は可能だ。何より信長の名を使えば、話し合いぐらいは簡単に出来る。
しかしそこから契約にこぎつけるまでは、静子の話術に左右されたが。

茶畑の状態を確認しつつ、最終的に静子は四人の農家と独占契約を結んだ。
契約と言っても堅苦しい内容はなく、静子の指示通りに茶の木の環境を整えて育成し、摘んだ茶葉は指定通りの加工を行うなど、互いの取り決めに近い。
そして独占契約なので一番茶から四番茶まで、静子の取り分は当然の如く全てだ。ただし茶葉の代金代わりに米や塩などの食料を静子は農家に送っている。

彼女が茶畑の農家と独占契約をした理由は、漁村から『小魚の処理が思いつかない』と泣きつかれたのが原因だ。
最初は肥料にして畑にでもまこうかと考えたが、小魚が安定して供給される訳ではなく、日によってまちまちだった。
魚を圧搾して脂肪分を取り除き、乾燥させてから粉砕した「魚粕」を作っても、使いどころが難しいと理解した静子は、魚粕が効率的な作物はなにか考える。
結果、茶畑を持つ農家に使わせようと独占契約を結んだのだ。
つまり漁村が小魚の処理に困らなければ、静子は茶畑を持つ農家と独占契約を結ぶ気は微塵もなかったのだ。

三十分後。
本当に何処から聞きつけたのか慶次、才蔵、長可の三人に加え、奇妙丸と彼の教育係の爺まで試し茶に集まった。

「今日は一体どういうものが出てくるのだ?」

期待を隠せない長可が静子にそう尋ねる。

「……今日はね、煎茶道の為の茶葉を試すのよ。ちなみに抹茶を用いる抹茶道と違って、急須を用いて茶葉に湯を注いで飲む形式だから、皆の知っている茶道と随分違うよ」

一般的に茶道とは抹茶を用いる抹茶道の事を言い、急須で淹れた茶を飲む煎茶道は余り知られていない。
元々中国文化であった煎茶を日本に広めたのは江戸時代初期に黄檗宗おうばくしゅう(禅宗の一つ)を開いた隠元(いんげん) 隆琦(りゅうき)とされている。
戦国時代において、煎茶道は海の物とも山の物ともつかぬ未知の文化と言える。
因みに現代における茶道は三千家さんせんけが主導しているが、煎茶道は主流派が存在せず群雄割拠の様相を呈している。

「論より証拠、急須一式は用意しているから、煎茶、かぶせ茶、玉露の順で飲むよ」

専門的に煎茶道を学んでいない静子だが、元々煎茶道は形式にとらわれず煎茶を飲む「煎茶趣味」が基本的な考えだ。
よって茶を入れる時に気をつける『沸騰した湯を使わない』・『急須を回さない』・『一気に湯呑みへ注がない』という三つのポイントを抑えておけば問題ない。
なお湯の温度だが煎茶は大体80度、かぶせ茶と玉露は60度ぐらいが良しとされている。

湯冷まし器にお湯を入れて冷ましながら、茶葉の準備にとりかかる。
準備を終えた後、80度近く冷めた湯を急須に注ぎ、茶葉が開く(およそ一分半)のを待つ。
玉露やかぶせ茶も同じようにして茶を入れる。

「まぁまずはお茶だけ飲んでみて。ついでに慶次さん、さっきからあそこに置いている冷や飯を見ているけど、それは後でちゃんと出すからね」

静子の言葉にばつの悪そうな顔をした慶次は、他の二人からの追求を逸らすために玉露を一気飲みした。

「んー何というか砂糖が入ってないのに甘い茶だな」

「味わって飲め。ふむ……確かに茶の湯で飲む茶と味が違うな」

「茶の湯を経験した事がないから分からんが、これは旨いぞ静子!」

「旨い、それだけしか思いつかん」

「年寄りには茶の湯は疲れます故、こちらの方が好みでございます」

それなりに良い評判が出た事に満足した静子は、茶碗に飯を盛り、茶を入れ、最後に梅干しを添えた。
いわゆる茶漬けである。白湯をかけた場合でも茶漬けと呼ばれる事はあるが、白湯をかけた場合は湯漬けと呼んで区別されている。
茶漬けの始まりは番茶や煎茶が普及し、茶が庶民の嗜好品として定着した江戸時代中期以降と言われている。
煎茶には若干の旨味成分(グルタミン酸ナトリウム)が含まれており、白湯より味が良かったが、庶民は基本的に番茶(煎茶のように若葉ではなく成長した葉)をかけて食していた。

「湯漬けではなく茶漬けかぁ。こういう食い方もあるのだな」

「しかし何でまた、こんな料理を出してきたのだ?」

「……いつだったかなぁ。試作品を作って食べていたら、ずるいとか言っていた人が四人ぐらいいたのだけど?」

瞬間、目を逸らした慶次、才蔵、長可、奇妙丸の四人だった。






五月上旬、静子の元に一通の手紙が届く。
差出人の名前が記載されておらず、悪戯目的なのかと訝しんだ彩だが、それにしては上質な紙が用いられており、悪戯にしては手が込んでいる。
疑問に思いながらも、一通りの確認を済ませた後、最終的な判断を仰ぐため静子に手渡した。

「これ奉書紙ほうしょがみだね。これで手紙を出してくるという事は……」

手触りや紙の厚みから、奉書紙だと理解した静子は手紙を開いて内容を読む。
楮を原料とした厚手の紙で、基本的な構造は椿紙とは変わらないが、黄葵の根や白土などを混ぜ、強度と厚みを持たせている所が異なる。
この紙は室町時代から漉かれており、また室町幕府が奉書紙を公文書として使用していた事から、命令書という意味の「奉書」紙と呼ばれるようになった。

「ふむ……ふむふむ……むむむむ……」

「あの、一体誰からですか?」

眉間にしわを寄せて手紙を読む静子に、彩は恐る恐る尋ねる。
信長の手紙の時ですら見せた事のない表情に、一抹の不安を感じた彩だが、静子は彼女の問いに答えずこう言った。

「彩ちゃん! 幾ら使っても良いから、岐阜にある私の別館の掃除をしておいて! あ、それから色々と食材を集めるけど、私が精査するから送るのは待ってね!」

これは駄目だと理解した彩は、表情を変えず静子の頭にチョップを振り下ろした。

「ぎゃふん」

「落ち着きましたか、静子様」

「痛いです……お、落ち着いたから、その手を下ろしてくれるとありがたいかなぁ」

彩が手を振り上げたのを見て、静子は素早く頭を庇いながら数歩後ろに下がった。
盛大なため息を吐いた後、彩は手を静かに下ろす。どちらが主人か分からない光景だった。

「それで、どなたから文を頂いたのでしょうか。静子様が我を忘れるほど興奮する相手は、正直想像がつきかねます」

「一応断っておくけど、これは公方様からの奉書じゃないよ。私は公方様に用はないし」

「ええ、それは存じております。それに、公方様が静子様にわざわざ文を寄越すとも思えません」

「まぁね。送るならお館様宛でしょう。で、誰から来たかというと……ふっふっふ、聞いて驚くなかれ。現近衛家当主様からよ! ほら、花押が公家様式ではなく武家様式でしょ。近衛様は十年近く前から、武家様式の花押を使っているから間違いないね」

「(どうしてその辺りの事情を知っているか……は尋ねても意味ありませんね)失礼ですが、現近衛家当主は公方様の兄殺しに加担した罪がございましたが……?」

「うん、それで?」

何が問題かと言いたげな態度の静子に、質問した彩は言葉に詰まった。

「その辺の事情は彩ちゃんより詳しく知っているよ。でもね、そういう悪い噂を考慮しても、近衛家は織田陣営に取り込む価値があるの」

「……分かりました。静子様がそこまで仰られるなら、さぞかし有能な御方なのでしょう」

「まぁね。それにしても、今まで手紙出しても完全に無視されていたのに、どうして急に話を聞く気になったのだろう。ま、考えても仕方ないか。とにかくこの話を上手く纏めて、近衛家当主を織田陣営に取り込もう」

握り拳を作って静子は気合を入れる。
その後、静子は宣言通り信長が用意していた静子用の別館に、自身が選んだ最高級の食材を運び込む。
姑よろしく部屋の隅まで掃除が出来ているかチェックし、出来てなければ再度やり直しという念の入れようだった。

派手な動きをする静子だから、当然近衛家当主と会談する話は瞬く間に京にいる信長の耳へ入った。
普段、必要以上に人と関わらず、裏方に徹している静子が周到な準備をして近衛家当主との会談に臨む。何が目的か、信長も彼女の腹の底が読めなかった。
おまけに詳しい内容は彩にも伝えておらず、ただ口癖のように「近衛家当主は織田陣営にとって良い力となる」としか答えない。
その良い力が何なのか、信長には理解出来なかった為、頭を悩ませる事になる。
若干悩んだものの、彼は静子の今までの行動から自身への敵意はないと考え、彼女の周囲に護衛を兼任する間者を数名忍ばせておくに留めた。

そんなこんなで静子の周囲が少しだけ騒がしくなった頃、近衛家第十六代当主の近衛前久と近衛家家臣であり家司の進藤長治が岐阜に到着した。

「さて死人の宣告は嘘か真か」

岐阜の町並みを眺めながら前久はそう呟いた。
五摂家のひとつである近衛家当主の前久は、年は三十三歳だが二十代と言われても違和感を抱かない程に若々しい雰囲気を醸し出す顔つきをしており、公家の人間らしかぬ豪胆と言っても過言ではない、ある種の風格のようなものを纏っていた。
前久は僅か19歳で関白を務めるほど朝廷随一の政治家だったが、永禄11年に信長が足利義昭を奉じ上洛を果たした後、彼は第十三代将軍・足利義輝殺害関与の嫌疑で朝廷から追放された。
追放された後は黒井城の下館に流寓し、二ヶ月後に関白を解任されると摂津国大坂の石山本願寺に寄寓した。

「し、しかし……その夢に出てきた死人の言う事を、真に受けなくても良いのではないでしょうか」

「確かにな。しかしあ奴の狂人めいた目は忘れられぬ。思い出すだけで古河城に残った時よりも、身の毛がよだつ思いがしたわ。故に会談を行い、さっさとあ奴を成仏させぬとな」

長治の進言もどこ吹く風、前久は冗談を混ぜながら豪胆に笑った。しかし頬に一筋の汗が流れている事を、長治は勿論の事、前久本人も気付いていなかった。
それから暫く岐阜の観光をしながら、二人は半刻ほどかけて静子の別館に到着する。

「……小さいな」

前久の第一感想はそれだった。
岐阜にある静子の別館は、周囲にある別の織田家家臣の邸宅と比べて二回りも小さい。
悪く言えばみすぼらしい、良く言えば過飾を払い必要最低限のみを残しているとも言える。
静子の別館は縁側のある伝統的な日本家屋だ。勿論、瓦屋根など幾つか先進的な技術を導入してはいる。

「だが悪くない」

軒を深く取り、視覚的に低重心の落ち着いた佇まいの家を、前久はとても気に入った。
しかしいつまでも門の前で佇む訳にもいかず、長治が門を何度か叩く。
予め門の近くで人が待機していたのか、すぐに門は開けられた。

「ようこそお越しくださいました、近衛様」

出迎えたのは彩だった。普段の動き易い格好ではなく、公家の人間と会うに相応しい身なりをしていた。

「我が主が中でお待ちしております」

前久は護衛の兵士がいない事に驚きはしたものの、彩の言葉に頷くと彼女の誘導に従う。
門から家の中に入るまで、恐ろしく静かな事に前久は動揺を隠せなかった。使用人の生活音すらしない、俗世と切り離された場所と勘違いしそうなほどだ。

「静子様、近衛様をお連れしました」

そう言って彩は障子を静かに開ける。

「遠い所からようこそお越しくださいました、近衛様」

「……あ、あぁ」

近衛前久は愚者ではない。事前に静子という存在を、可能な限り調べ尽くした。
静子が女性である事も彼は知っていた。それでも自分より一回りも年若い人物が、織田家家臣の中で重要視されている人物と一致しなかったのだ。
言葉に詰まった彼だが、気を取り直してひと通りの挨拶をし、静子指定の場所に座る。

「先に宣告しておく。腹の探り合いは、互いに時の浪費以外の何物でもない。隠し事はなし、互いに本音を出して語り合おう」

勿論、前久は素直に本音を語る気はなかった。
本音で語ろうと言っても、静子は本音を隠して会談をすると考えたからだ。そこを突いて会談の主導権を握ろうと前久は思った。
しかしそれは余りにも無意味だった。

「そうですね。では単刀直入に申します。こちらの要望は二つです。一つは織田陣営に味方していただく事。そしてもう一つは本願寺法王顕如の長子である、教如殿との猶子ゆうしを解消して頂きたく思います」

何故なら、静子に本音を隠す必要など無いのだから。






「とは言え、遠路遥々ご足労願いましたことですしお疲れもありましょう。お食事を用意させて頂きましたので宜しければご賞味下さい」

そう告げると静子は縁側にある客間へと二人を案内する。
最上座へ前久が座り、南向きの縁側の方へ長治が座す。二人を案内し終えた静子は襖前の下座に着座した。
彼女は前久を一瞥した後、軽く手を叩いて合図をする。すぐに襖を開けて彩が部屋に入り、慣れた手つきで茶碗を乗せたお膳を三人の前に置く。

「尾張は京と比べると田舎ゆえ、一流の物とは言いかねますがこちらが用意できる精一杯の物を準備いたしました。まずはこちらをお召し上がり下さい」

二人は目前に置かれた茶碗に注目する。
一見すると何が入っているか分からぬ蓋付きの茶碗に、二人とも首を傾げる。
茶が入っているのかと思ったが、蓋がある上に木製の匙が添えられている点から、茶ではないと考えた。
軽く触れるとしっかり熱を伝えてくることから、中身はあつものであることが推測できた。

「ほぅ……このような料理は見たことが無いが、一体何という名の料理かな?」

前久の問いに、柔らかく微笑んで静子が返答する。

「つい最近尾張で作る事が可能になりました、茶碗蒸しと申します。鳥の卵を主役とした蒸し料理にございます」

静子の弁を受けて、被せられていた蓋を長治が開ける。
まず目に飛び込んで来るのは生成り色の滑らかな生地。続いて具として入れられた肉厚の椎茸の黒。更に脇に添えられた魚卵と思しき赤茶色に、鮮やかな緑色を示す柑橘類の皮らしきもの。
目にも鮮やかな色彩は、口にする前から長治に美味の期待を抱かせた。

「熱い内に召し上がって頂くのが最良ですが、毒味もせず召して頂く訳にも参りませぬ。ご希望でしたら私が毒味役を行いますが、いかが致しましょうか」

「それには及びませぬ。毒味に関しては某がつかまつります。大変申し訳ありませんが、貴女が細工をしないという保証にはなり申さぬ」

「分かりました、当然のご配慮と存じます。此方としましては異論を差し挟むつもりはありません」

長治の申し出に静子は頷く。
茶碗蒸しを一旦下げると、それぞれのお膳へ長治が無作為に選んで再配膳する。

置かれた茶碗蒸しをまず静子が食し、その様子を確認して次に長治が食する。最後に時間を置いて前久が食べるという流れで会食を進める運びとなった。
静子は茶碗蒸しの蓋を取ると、匙で掬って口の中に入れる。
四度ほど彼女が口に入れた所を確認した長治は、目線で前久に確認を取ってから蓋を開く。
ふわりと漂う芳しい香りが長治の胃を即座に掴んだ。馥郁たる出汁の香りに、爽やかな柑橘系の香りが心地よい。
空腹という腹具合ではなかったと言うのに食欲を抑えられず、長治は思わず匙を取り生成り色の部分を掬って口に運ぶ。

「なんという柔らかさ……完全に煮崩した粥よりもまだ柔らかい」

続く言葉が出なかった。
口に含んだ瞬間トロリと蕩ける滑らかな口当たり。反面濃厚な出汁の味を口に残して消えてゆく。
今までに体験したことのない未知の食感に、長治はもう一匙掬って口に運ぶ。毒が入っている可能性は常に頭の片隅にはあったが、彼の手は意に反して動いていた。
肉厚の椎茸に齧り付く。茸の持つ芳醇な香りとともに、弾ける旨みの塊となった汁が口の中を蹂躙する。

「この赤茶色をした粒々は一体何かな?」

最上座にて蓋を外して中身を見分していた前久が問いを発する。

「これは近海で偶然獲れました鮭という魚の卵を醤油に漬けこみ、雪室にて寝かせて置いた物となります。少々癖がありますが精が付く食べ物ですので、このように玉子生地と鮭の卵、柚子の皮を一緒に食べてみて下さい」

そうまで言われては食べるしかなくなった長治はちらりと前久を仰ぎ見る。
前久は無言で頷き、それを合図に長治も匙を差し入れイクラの醤油漬けとともに茶碗蒸しを口に含む。
やや単調になりがちな味を強めの塩味で引き締める魚卵がプチプチと噛みしめる度に弾け、魚介の旨みを吐き出す。
その生臭さをすっきりと爽やかに押し流す柑橘類の皮。これは非常に計算されつくした繊細な料理であると認識した。

「して味はどうなのだ? 先ほどから柔らかいとしか言っておらぬぞ」

主人たる前久の言に窮する長治。
即座に応えたいが己の知識では表現し得ない味に素直に感想を述べる。

「私が今まで口にした物の中で、最上の味であることは保証致します。ですが私はこの味を表現する術を持ちませぬ。似たような味の食べ物すら皆目見当がつきませぬ。まずは全てを味わい毒見役を果たしてご覧に入れます」

そう答え、長治は改めて茶碗蒸しに挑む。中ほどまで食べ進んだところで、また異なった具材が現れる。
真っ白でつるりとした表面を晒す勾玉のような形をした未知の食材に、彼は眉をひそめる。

「それは百合根と申します。言葉通り百合の鱗茎、つまり根っこですね。芋のようなものとお思い下さい」

静子の言葉を聞いて長治は首を傾げる。百合根は百合ひゃくごうという漢方の薬というのが長治の認識だ。
苦味と渋みが強い薬と思っている彼は、百合根を恐る恐る口に入れる。
口に入れた瞬間、百合根は僅かな苦みを含みつつも甘く儚く蕩けた。甘さ、塩辛さ、苦さ、酸っぱさこれらが混然一体となっておりなす味覚の饗宴。
なまじ味が解る舌を持つだけに、深く深く魅せられる。
気が付けば最後の一片まで掬い取り、無作法にも匙まで口に含んでいることに愕然とした。

「あいにく季節が外れておりますので、完全な茶碗蒸しをお出しできなかったのが残念ですが、お気に召していただけたようで何よりです。そこまで喜んでいただけると作った甲斐があったというものです。少し冷めてしまいましたがそろそろ近衛様も召し上がっては如何でしょう?」

季節が至ればこの料理は今よりも更に旨くなるのかと戦慄が走る思いの長治に、ついに焦れた前久が茶碗蒸しを手に取ると、一匙掬って口に運ぶ。

(なるほど……長治が絶句していたのも頷ける。単純に見えて凄まじい完成度の料理である)

僅かに熱を残した茶碗蒸しは、普段口にする冷え切った料理とは一線を隔す、まさにご馳走であった。一匙一匙を確かめるように口にする前久を眺めつつ、静子が次の準備を促す。

「食事を摂る姿勢になって頂けたところで主菜をお持ち致します」

静子が柏手を打ち鳴らす。再び奥の襖が開き、盆を持った彩が現れる。
今回の料理は重量があるためか二回に分けて運ばれてきた。

目前に並べられた物体に前久は見覚えがあった。

「これは櫃ですかな? ご自慢の尾張米を頂けるのですな」

「ええ、それも狙いとしてありますがそれだけではありません。もしかするとお耳に届いているかもしれませんが、かつて京で鰻を乱獲したことがございまして」

僅かに頬を染めつつ苦笑交じりにそう話す。

「その鰻を美味しく食べるために研究を重ねたその成果がこちらになります。櫃まぶしと称します」

そう言い添えて櫃の蓋を取る。
途端に暴力的な香りが辺りに溢れ出す。飯の上に乗せられた鰻の腹を開いてタレを塗して焼いたもの、飯にまでタレが染み込み茶色い大地を作っている。
さらに上から振りかけられた山椒の粉が一服の涼風を添える。

「まずはこのままお召し上がりください」

静子自身が手ずから碗に飯をよそった。差し出された碗には脂の乗った鰻が、タレを吸った飯が暴力的な香りを放っている。
矢も楯もたまらず握りこむように箸を取ると、長治は鰻と飯に箸を差し入れる。よほどの名人が焼いたのか抵抗らしい抵抗もなく箸が沈み込む。掬い上げた飯と鰻を口に入れ、噛みしめる。

「ーーーーーーーーー!!!!」

最早声もなかった。否、長治には語る言葉が存在しなかった。
無作法であることは承知の上で、彼は碗に口をつけて箸で掻き込むようにして流し込む。
たっぷりと脂の乗った鰻は口入れるとホロりと解け、脂とともにしつこいほどの旨みを解き放ち、それを甘辛いタレが味を引き締める。
主役は鰻であるものの、帝や将軍すらも魅了した尾張米があってこそだ。
鰻の脂とタレを吸い込み、なおかつ米自身の旨みを損なわずにどっしりと受け止め、混然一体となった味を饗する。
尾張米でなければこれほどの味を含ませることはできないであろう粘りと、噛みしめる度に溢れ出す旨みが長治の口中いっぱいに広がる。

「次は薬味を添えてお召し上がりください」

静子の声で長治は我に返る。
最早当初の目的など頭にはなく、更なる味わいを提供してくれる静子を凝視する。
櫃の横に添えられた皿より三種の薬味を乗せた碗を差し出されると、彼はひったくるような勢いで碗を受け取る。
長治が解るのは刻んだ葱のみ、何やら黒い紙のような細切りと薄黄緑色のすりおろしは見たこともない。しかし彼はそれが何か、を考える前に櫃まぶしを口の中に入れていた。

「この薬味は青葱、刻み海苔、わさびのすりおろしになります。わさびはかなり辛いので一気に口に入れないようにお気を付けください」

静子の声は不思議と耳に残り、聞き流しているのに告げられた内容は理解できていた。
食べ進み腹が満ちてくるとともに、鰻の脂がしつこく感じられるようになる直前のタイミングでの薬味たち。
葱の辛みで脂が中和され、刻み海苔が磯の香りを伝え、そして少量のわさびとともに食べることでしつこさを一気に押し流す。
腹の満ち具合や味への慣れを計算し、最後まで飽きさせない工夫が凝らされた絶品の料理だ。
薬味を調整すればその味は千変万化し、各人が異なる己の真なる美味を追及できる楽しさまである。

「最後の一杯はお茶漬けにしてお召し上がりください」

そう告げられ、空になった碗に更に盛られた飯と鰻、その上に刻み海苔とわさび、そして燻り漬けが乗せられた碗に土瓶より茶が回しかけられる。
腹がくちくなりそろそろ箸を置こうかと思ったところに、茶の芳醇な香りに再び食欲をそそられる。
通常のお茶ではここまでの香りは立たない、と彼は訝しげに思った。

「先日良いお茶を仕入れることができましたので、あぶってほうじ茶にしてみました。さっぱりとして口当たりが良いのでお茶漬けに合うと思います」

(なるほど……煮だすだけでも良い香りを放つお茶が、焙ることでさらに馥郁たる香りを放つようになるのか)

長治は幾度も常識を覆されていることを自覚した。
お茶漬けとなった櫃まぶしを改めて口に入れる。お茶と薬味と鰻とタレ、それぞれ違う香りだが不思議と喧嘩をせず、調和して心安らぐ味わいとなっていた。
満腹も近くなりやや疲れた胃腸にお茶漬けが染み渡る。気が付けば飯粒一つ残すことなく完食してしまっていた。

「して毒は入っておったか? いや、もう良い。私も頂こう」

前久はそう言うと櫃の蓋を取り、漂う香りを存分に吸い込む。
既に茶碗蒸しを食べ終えてかなりの時間が経っている。胃袋は早く食えとばかりに己を苛む。
長治がそうしたように、まずは素のままで一杯の飯を彼は瞬く間に平らげた。
次に薬味を一種類ずつ乗せてはそれぞれに味わい楽しむ。最後に全ての薬味とお茶を掛け充分に熱いお茶漬けを啜り込む。
そして放心したかのように吐息を漏らす。

「ご満足頂けたようですので、食後のお茶をお持ちいたしますね」

そう声をかけて彩とともに櫃まぶしを下げ、新たに盆に茶碗を乗せて戻ってくる。
茶碗蒸しの時とは異なり、蓋がついていない茶碗からは香ばしい香りが立ち上る。
お茶だけの香りではなく、どこか酸っぱい香りも漂っていた。

「少し変わり種になりますが、食後に飲むと不思議と落ち着くお茶です。ご賞味ください」

満ち足りた腹をさすりながら長治は茶碗に手をかけて、一口呷る。
香ばしさとともに柔らかな渋味と磯の香り、そして最後にすべてをそそぐ梅の香り。

「梅こぶ茶と申します。昆布という海藻を乾燥させて削りお茶とともに淹れ、干した梅の実をほぐし入れてあります」

計算され尽くした歓待を受け、前久は静子という人物を評するには時期尚早だと思い至った。
会談の前からこれほどの計算をする人物に、早々にぶつかっては己の底を露呈するのが落ちだと思い知った。
しばらく友誼を結んだ後に取引へと進まねば、己は良いように掌で転がされてしまう。
それに友誼を重ねるということは、またこのような席もあろう。己の食への欲を取引に必要なことと正当化した前久は静子に切り出す。

「静子殿、私は少々焦り過ぎていたようです。そちらの要望はしかと承りました。また日を改めてお会いすることは叶いますかな?」

静子は己の歓待が良い結果を引き寄せたことを確信すると柔らかく微笑み、頷くのであった。
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