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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

永禄十二年 伊勢平定

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千五百六十九年 三月上旬

この日の会見は二時間あまり続いた。
日本という島国から見果てぬ世界へ思いを馳せる、信長らしい会見だった。
信長は世界の事についてフロイスへ質問をし、それに対してフロイスが答え、時折静子に確認を取り自分なりに情報を解釈することに終始した。
表面上は穏やかかつ文化的な会見であったが、フロイスは当初の目的を未だ果たせずにいた。

フロイスをはじめとした宣教師たちは、かねてより布教のための允許状いんきょじょう)(権力者が後見する許可証のようなもの)を欲していた。
前回は謁見すれど会話をすることが叶わなかったため、布教に繋げる取り掛かりを得られなかった。だが此度こたびの会見に手応えを感じたフロイスは、思い切って信長に切り出した。

「改めまして織田様、此度の会見にて是非ご検討をお願いしたいことが御座います」

「なんじゃ、改まって。気にするでない、遠慮なく申すが良い」

「我らは今、京での布教を許されぬ身……どうかお力添えを頂けないでしょうか。我らの布教が叶った暁には相応のお礼をお約束いたします」

第十三代将軍・足利義輝はフロイスたち宣教師を保護し、京での布教活動を許した。しかし彼が暗殺されると状況は一転し、今度は京から追放された。
その状態で数年経過し、信長が上洛して今まで京を支配していた三好三人衆を駆逐した。
昨年(1568年)までは信長にさして強い関心を持っていなかったフロイスだが、京の情勢を聞いて彼との会見に漕ぎ着けた。
だが初回の会見は何の成果も上げられなかった。だから今回はどうしても允許状を手に入れたかった。

フロイスたち京のキリシタンは銀の延べ棒三本を用意し、彼らを保護している和田惟政は自分の世話で七本の銀の延べ棒を用意した。
それを差し出して允許状を頂こうとフロイスたちは考えた。しかしその考えは、信長に限って言えば逆効果だった。
信長は献上された銀の延べ棒一〇本を一瞥したのち、フロイスたちにこう尋ねた。

「フロイスよ。貴殿はわしを少し誤解しておるな」

「……え?」

フロイスはその言葉に驚き、顔を上げる。
信長は銀の延べ棒を前にして喜んでいるというより、逆に不快げな表情を浮かべていた。

「わしは貴様たちの事をある程度は知っておる。これだけの銀を用意するのに、相当苦労した事は想像に難くない。しかし、考えても見よ。わしが貴様たちの布教に協力する対価としてこれを受け取れば、わしは暴力を以て権力を握りそれをほしいままにする腐敗した権力者と同じになってしまう」

権力を背景に賄賂を要求し、引き換えに許可を与えて私腹を肥やす。それはまさに信長の嫌う一向宗などの糞坊主どもと同じであった。
信長は想像する。その銀の延べ棒を受け取った時、自分が一体どんな表情をしているかを。
下卑た笑みを浮かべるそれは最早己の顔とは思えぬ畜生の顔であった。

「勘違いするでないフロイスよ。貴殿は己の信念の実現のために最大限の努力をした。わしはわしの信念ゆえに賄賂を拒絶した。従来であれば効果的であった努力をした事自体は正しい。わしがそれを好まぬ事を知らなかっただけじゃ」

「……はい」

「正しさとは人の数だけ存在し、絶対的な正義など存在せぬ。己が何を為そうとしているのかを自覚し、それを実現するため行動する事は正しい。だがそれが他者の正義とぶつかる事もまた必然。話を戻そう、京での布教活動に対する許可自体は問題ないが、允許状となると少し時間を頂こう。何、そこまで時間はかからん、数日の事だ」

その事にフロイスはホッと胸を撫で下ろす。允許状が手に入るなら京への布教が出来る。
仏教徒からの邪魔はこれからも発生するだろうが、それは信徒を増やしてこちら側もある程度の意見を言える立場になるしかない。
少数派の意見が黙殺されるのは世の常だから。

「我らが願いを聞き入れて頂き、心より感謝申し上げます。後日、改めて正式にお礼に伺います」

フロイスは深く頭を下げてから、もう一度信長に礼を重ねた。






その後、信長は和田惟政を呼び寄せると、フロイスと共に二条城の普請現場を見学するよう指示した。
普請現場を見終えたフロイスは、再び信長の所へ戻り、暇を告げると帰途についた。

「フロイス様、我らの悲願がついに叶いましたな」

ロレンソが喜ばしげに語る。
将軍足利義輝が暗殺されてから、彼らは京を追われ堺に逃げ延びた。それから四年の月日が経った今、ようやく京での滞在を許可され、更に布教の許可まで得られたのだ。
しかしロレンソと違ってフロイスの表情は硬かった。流石に反応が鈍い事に気付いたロレンソは、フロイスを心配げに見つめながら尋ねる。

「何か気がかりな点がございましたか?」

「……織田殿の側に控えていた、少年のように高い声の従者。彼は我々の事を詳しく知っている感じだった」

「え、あ、あぁ……あの頭巾を被っていた人ですね。確かに女人のように高い声でしたが……そこまで気にかける人物なのでしょうか?」

「汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ……彼が口にした言葉は、聖書の一節だ。我々宣教師しか持っていない聖書の一節を、何故彼はそらんじる事が出来たのか。それに我々の文化についても詳しい。だがあれほど我が祖国の事に精通した人物が、この日ノ本に来たという知らせは受けていない」

ヨーロッパの文化を宣教師が伝える事はあっても、日本人がヨーロッパの文化を看破した事は一度もない。
フロイスはヨーロッパに精通した人物、もしくはヨーロッパから誰かが日本に移り住み、信長に仕えていると考えた。だが、それほど精力的に行動する人物なら、軌跡の一つや二つ残されていても不思議ではない。
だが不思議な事にあの人物に関する痕跡が一つもない。

「ともかく、彼の言動が織田殿にある程度の影響を与えているのは間違いない。和田殿に彼が何者か尋ねよう」

「しかし……和田様はご存知でしょうか。あの中で唯一顔を隠していたのに、織田様からお咎めを受けておりませんし」

「むむむ……諦める他ない……か」

今から人探しは不可能と理解した彼は、信長に尋ねなかった事を後悔しつつ確保していた宿に戻る。
目まぐるしい一日だった為に疲れを感じたフロイスだが、気合を入れて机に向かう。

フロイスは語学と文筆の才能を高く評価されており、1561年にゴアで司教に叙階され、各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。
その他にも自分の現状を知らせる手紙や報告書を度々出していた。この報告書はイエズス会で高い評価を受けていた。フロイスに続いて日本へ来る宣教師たちが、適応政策をする際に参考資料として熟読したほどだ。
机に向かったフロイスは今日の事を思い出しつつ筆を走らせる。

『本日、日ノ本を代表する人物である織田殿と会見を行った。人の噂とは当てにならぬ。冷酷、非情、感情的な人物と聞いていたが、実際に会えばその噂は事実無根と断ぜられる。
彼はとても理知的で聡明な人物だ。我々の話に耳を傾け、疑問に思えばすぐに質問をするなど、好奇心が旺盛と言える。
だが反面、彼は何も信仰していない。我が神は勿論、坊主たちの信仰する仏陀という異教の神すら信仰していない。法華経に帰依しているが、それすらもまともに信仰していない。
自分が神だと驕り高ぶるかと思っていたが、そういう感じではない。仏教徒を憎んでいるかといえば、そういう感じでもない。
とにかく彼の信仰に対する態度は奇妙の一言に尽きる。一体何を思っているのか、私では皆目検討もつかない』

その他にも京への滞在を許可される可能性が高い事、布教を許される事など色々な報告を記載する。
やがて全てを書き終えたフロイスは筆を置く。だが見返してある事が抜けていた事に気付き、彼は筆を手に取ると文の最後に書き足す。

『織田殿の配下で一人だけ奇妙な人物がいた。顔を頭巾で隠し、声はまるで少年のように高く若年であることが推察されるというのに、賢者に匹敵するほど叡智に溢れている。織田殿の様子から、彼は織田殿の知恵袋と思われる。実際のところ、我々に布教の許可が下りたのは、彼の意見による所が大きい。
それだけではない。他の人物は織田殿に何処か畏怖を抱いていたが、彼だけはあるがまま、極めて自然体で織田殿と接していた。それに対して織田殿は何も言わない。
これは推測だが、彼は極めて織田殿の信認が厚く、優れた叡智を以て彼の要望を次々と実現していったのであろう。でなければ彼があれほど信頼される理由が思いつかない。
そのような彼が我が神を信仰してくれるのなら、これほど心強い事はないだろう』






フロイスは静子の事を男、それも信長の側近であると判断した。
無論、信長が意図的に誤解するように仕向けたというのは言うまでもない。
フロイスは静子の事を『頭巾宰相』と便宜上名付け、色々な伝手を頼って情報を収集しようとした。
しかし『頭巾で顔を隠した声の高い人物』と、情報量が少なすぎたために良い報告を耳にすることは叶わなかった。
そうこうしている内に彼を苦しめる人物が現れる。

天台宗の僧である朝山日乗あさやまにちじょうだ。
後奈良天皇から日乗上人の号を賜った彼は、一貫してキリスト教宣教師の追放を訴えていた。
彼はまず信長へ執拗に宣教師追放を訴えた。ある時、フロイスが信長の元へ訪れると、たまたま日乗が同席していた。
そこでふとしたことからフロイスと日乗による宗論が始まった。二時間に及ぶ長い議論の結果、フロイスの言葉に日乗は激しく怒り、歯ぎしりしながら立ち上がった。
ロレンソの首を斬ると叫んだ彼は部屋の片隅にかけてあった信長の長刀に向かって突進し、長刀の鞘を外し始めた。
流石にこの行動は看過出来ず信長、和田惟政と佐久間信盛、他の領主たちが一斉に日乗を取り押さえる。
数人掛かりで取り押さえられ、身動き叶わぬ日乗を見据えて言い放った。

「口で敵わぬと知ると刃を抜くか。貴様の暴挙を許せばこの茶番に延々付き合わされた我らも未開の土人と成り果てるのじゃが、貴様はそれをどう考えておる?」

他の領主たちも同意見だったが、フロイスたち伴天連を保護している和田惟政は「織田殿の前でなければ、直ちに日乗の首をはねていた」と語った。

フロイスとの宗論は日乗の暴走で終わったが、その後も彼は宣教師追放工作を続けた。
しかし信長が伴天連の追放を指示しないと見るやいなや、次は義昭の元へ向かった。
ここでも良い返事を貰えなかった彼は、最後の砦と言わんばかりに正親町天皇に泣きついた。
ようやくここで『伴天連追放綸旨』を受け取れた彼は、それを持って意気揚々と義昭のところに向かった。
しかし『伴天連追放綸旨』を見た義昭は彼に対してこう言った。

「内裏に伝えよ。誰を都に入らせるか、追放するかは余の管轄であり、陛下が差配するべき事ではない。余は司祭に対して、この日ノ本で自由に布教をする許可状を与えている。また、これに加えて御父織田弾正忠殿の許可状も得ている。よって、彼を追放する理由はない」

平たく言うと「朝廷がゴチャゴチャ言うな。政治は征夷大将軍である自分が取り仕切る」である。
しかし信長は『伴天連追放綸旨』に対して、内裏に一任する態度を示した。これにより、京では再び宣教師追放の動きが高まっていった。






信長と秀吉に光秀、静子という織田家の事実上の重鎮が留守にしている時、濃姫はとある事を質問するため足満を呼び出した。

「のぅ足満、妾は兼ねてより気に掛かっていることがあるのじゃが、ひとつ尋ねても良いか?」

昼餉を摂りつつ、濃姫は目の前に控えている足満に言葉を投げる。
どちらに転んでも「はい」しか選択肢がないと理解している足満は、小さくため息を吐きつつ頷く。

「おぉ、そうか。では一つだけ……お主が大事に下げているその刀、何処で手に入れたのじゃ?」

「野盗どもを追い払った時、一本頂戴したまでです」

「そうか。ではその野盗は大層身分が良い者だったのじゃな。何しろ三条宗近の作・三日月を所有していたのだからな」

三日月という言葉に、足満は僅かばかりの動揺を見せる。常人なら見逃す僅かな時間を、濃姫の目は見逃さず、彼が動揺から立ち直るまでの所作を余すところなく捉えていた。

「そのような名刀とはつゆ知らず、ぞんざいに扱っていた己の不明を恥じております」

「ふふっ、隠すでない。のぅ足満……お主がその刀を大事に扱っている事を、妾が知らないと思うてか?」

白飯をゆっくり咀嚼して飲み込んだ後、濃姫は力みのない自然な笑みでこう言った。

「しかし流石の妾も驚いたぞ。まさか殺されたー」

最後まで濃姫が言い終える前に、足満が動いた。彼は目にも留まらぬ速さで懐に隠していた小刀を取り出すと、躊躇いなく投げた。

「せっかちな男子おのこじゃ」

しかしその小刀は濃姫ではなく入り口の襖の一つに突き立っていた。
足満は濃姫の言葉を無視して、襖に刺さった小刀を手に取り無造作に引き抜く。
引き抜かれて少しすると、襖の向こうで小さな水音と共に重量物が倒れる音がした。しかし彼は気にもとめず、小刀についた赤い液体を拭き取ると、それを懐にしまった。

「せっかく武田の間者で遊ぼうと思ったのに、すぐに壊れてしまったのじゃ」

「……一つだけ言わせてもらう。貴様はわしが出会った女の中で、最高に悪趣味な女だ」

「褒めても何も出ぬぞ。しかし始末した間者が、そろそろ三十に達する故、妾の手元にはこれ以上来ぬかも知れぬな。それで、死人殿はどうして今更姿を現したのじゃ?」

話題を逸らせなかった事に、足満は舌打ちをする。刃傷沙汰など珍しくもないのか、それとも元より意にも介さないのか、どちらにせよ彼にとって濃姫の存在は危険に過ぎた。
何処から情報を仕入れて、自分の正体に気付いたのかが分からなかったから。

「そう警戒するでない。前にも申したが、お主には殿の夢の手伝いをしてもらいたいだけじゃ。例えお主がやんごとない生まれでもな」

「……それは理解しておる。だがわしも理由までは把握しておらん。奇妙な老婆に『己の役目を果たせ』と言われただけだ。一体、何が役目なのか皆目見当がつかない」

「ふむ……まぁ良い。誰ぞある、片付けろ」

濃姫がそう宣言すると、どこからともなく女使用人が複数現れ、彼女の前にある什器(じゅうき)と襖の向こうにある間者の死体を慣れた手つきで片付けていく。
彼女たちが片付けを終え、静かに出て行ったのを確認した後、濃姫は楽しそうな笑みを浮かべてこう言った。

「さて、足満よ。退屈じゃ、何か面白い話はないかえ?」






危急の要件に取りあえず目処を立てた静子は残りの作業を引き継ぐと、権謀術数の渦巻く京から逃れるように尾張へと戻る。
往路よりも復路の方が随伴する人員が多くなっている事が気になったが、その分安全は確保されると静子は前向きに考える。

道中何事も無く岐阜に到着し、そこで隊の半数以上は岐阜に駐留した。尾張に到着する頃には出発時と同様、五百名の配下と慶次、才蔵、長可だけだった。

(流石に京の着物は綺麗だったなぁ)

心の中で呟きながら彼女は自身の格好を見下ろす。シンプルな馬乗り袴(剣道等の稽古着に近い)だ。普段着は小袖だがこちらもシンプルな柄だ。
彼女はまだ二十歳に満たない。おしゃれをしたい気持ちは人並みにはある。

(せっかくだし綺麗な柄の小袖でも買おうかな)

静子は単調な文様の繰り返しではなく、季節感のあった多彩な絵文様が描かれる染めや繍が使われている小袖をイメージした。
悪くない、と思った彼女は帰宅後、彩を通して多彩な絵文様が描かれている小袖、という条件を付けて五着ほど注文した。
注文を受けた職人たちは恐ろしい難易度と五着を揃えるために必要となる人手に思いを馳せ、暗澹たる気持ちになった。

(それにしても上々の収穫。本当に手に入ると思わなかったなぁ……童子切安綱どうじぎりやすつな大包平おおかねひら

信長が茶の湯に目覚めたのと同時期、静子は誰にも理由を明かさず刀剣を蒐集し始めた。
とは言え彼女は日本刀を巧みに扱う腕前はない。後年になって散逸する名刀を集めるためでもあるが、美術品としてではなく実用する目的で集め出した。
だが簡単に名刀や名槍が手に入れば苦労はしない。大抵は人のもの、それも身分が高い人物が所有している事が多い。
しかし彼女は運が良かった。信長の機嫌を良くした事、そしてフロイスとの会見で見事補佐を成し遂げたことで褒美として下賜するとの約定を取り付けた。
そこで静子は願いが通れば儲けものとばかりに二本の刀を所望した。それが童子切安綱どうじぎりやすつな大包平おおかねひらだ。
普段は感状だけで済ませる静子が珍しく現物を希望した事に、信長は気を良くして、今までの分も報いてやろうと奮起した。
人を使って大包平おおかねひらを探し出し、殆ど武力を背景に現持ち主に献上させた。
童子切安綱どうじぎりやすつな は足利将軍家が重代の名刀として所有していたが、こちらも武力を背景にほぼ脅して奪い取ったような形だった。

なお史実では童子切安綱どうじぎりやすつなは義昭から秀吉、家康、秀忠と受け継がれた。
大包平おおかねひらは信長の重臣・池田恒興の次男池田輝政の代から長らく池田家が所有していた。池田家以前の伝来は不明である。
故に静子も信長が大包平おおかねひらを入手した経路を知らない。

「次の仕事を頑張れば、鬼丸国綱おにまるくにつなを頂けるとおっしゃってたし……天下五剣が手元に揃うなんて夢みたい」

現代ならまず所有不可能な名刀を、自分の管理下に置き、目的に向かって邁進できる。
その事を理解した静子は密かにほくそ笑むのだった。

だが彼女の気持ちとは裏腹に、田畑の仕事に技術街での打ち合わせ、更に醸造関係を纏めた街の建設と、静子は常時忙しい日々を送っていた。

静子が最も傾注してるのがガラス開発だ。
何も珍しいから開発するのではない。ガラスレンズを使った望遠鏡を作る事が彼女の目的だ。
望遠鏡は口径の大きな対物レンズと、口径が小さい接眼レンズの二つで構成されている。
なおガリレオ式望遠鏡は対物レンズが凸レンズ、接眼レンズが凹レンズで正立像になるが視野がとても狭い。
ケプラー式望遠鏡は対物と接眼レンズがどちらも凸レンズで倒立像になるが、反面視野が広い。
逆さまになる倒立像だが正立プリズムと呼ばれる技術を駆使すれば、正立像にするのは可能だ。
更にこの技術を応用すれば測距儀も作れる。基本は三角測量であり、ピタゴラスの定理を知っていれば作成は比較的容易である。

ガラスの材料は美濃・尾張で集まり、研磨剤も江戸切子で使われている金剛砂(ガーネットの粉末)で可能だ。
ケプラー式望遠鏡の完成で問題になる素材は一つもない。問題はガラス職人が一人もいない事だ。
正確にはガラスという西洋の技術を、やりたいという職人が果たしているのか、という所だ。

だが静子の懸念は空振りに終わる。
玻璃として知られるガラス工芸以上の物を造りたいと意欲を燃やす人間は、職人街に八人もいたのだ。
十代後半から二十代前半という若い世代だが、彼らは静子が考える以上にやる気に満ち溢れていた。

彼らは基礎的な事を静子から学ぶと、三段式登り窯を改造してガラス製作に取り掛かる。
だがその道のりは敷かれたレールを歩むような平坦な道のりでは無かった。
ガラスを溶かすには1300度以上もの高温が要求されるが、彼らは登り窯内部の温度を1300度以上に安定して保つコツを掴むのに一ヶ月を費やした。

彼らは一か月もの間何の成果も上げないままに貴重な燃料を浪費し続けているように見えた。当然他の職人たちとしては面白いはずもなく、無駄に使うぐらいならこちらに回して欲しいとの苦情や不満が噴出した。
ガラスがどうしても必要だった静子は、彼らに「二ヶ月以内にガラスを製造する事」という期限を設けた。
そしてこの二ヶ月を守れなかった場合は、才能なしと判断し、以降八人にガラスへ関わる事を禁ずるという厳しい措置を取った。

これで他の職人たちの不満は収まったものの、八人は影で「灰かぶり屋(薪を燃やして灰を作るだけの人間)」と揶揄され続けた。
登り窯を御し、ガラス製品と呼べるものの製造に漕ぎ着けはしたが、まだまだ課題は多かった。出来たガラスは鉄分の除去が不完全だったため、とてもではないがレンズに使えるような透明さはない。

「うーん、クリスタルガラスには程遠い、か」

並べられたガラスを確認しつつ静子は呟く。
薄茶色なガラスから、色が混在しているガラスなど、およそ透明と言えるガラスはひとつもなかった。
また形も問題だった。小鉢の状態からガラスを広げる作業は、遠心力を利用して広げるが、この作業が熟練の業を要する。
ようやくガラス加工が出来るようになった彼らでは、歪みがなく均一な品質を保ったガラスを製造することは出来なかった。

「済みません……」

高い理想を抱いただけに、ままならぬ現実を突き付けられた八人はすっかり意気消沈していた。

「まぁ最初から完璧に成功するとは思ってないよ。まずは窯を交換しよう。登り窯じゃ広さがあって熱伝導率が悪い。たんく窯……は無理だからるつぼ窯かな」

大量生産に向かないるつぼ窯だが、その分燃料の消費が改造登り窯やたんく窯より低い。
ガラス加工の製法を確立させるためには、とにかく数を作らせる以外にないが、それでも燃料の消費は抑えなければならない。
変わらず燃料を消費し続ける彼らに、再び不満が付きつけられるのは目に見えていた。

「窯の材料は後日運び込まれるとして、設計図はこれね。残念だけど人は雇えなかったから、君たちが組み立てるしか無い」

「は、はい」

設計図を広げても誰一人として顔を上げない。無理もない、彼らは徹底的に打ちのめされている状態だ。
二か月かけてやっとコツが掴めた所で、また環境をごっそり変えてやり直しという深淵を覗くが如き難題に誰もが希望を見出せないでいた。

「……君たちのやる気はその程度だったの?」

少しばかり悪役になって発破をかけるしかない、と考えた静子は腕を組んで言葉を口にする。
勿論、この程度で彼らが顔を上げないのは予想していた。だから彼女は続けてこう言う。

「君たちは見たはずだ。新しい、誰も通った事のない道を、不安と期待で見ていたはずだ。だけど数回の失敗で、君たちはその道を諦めようとしている。君たちの情熱はその程度だったのかな? 多少の失敗で情熱を失うほど情けないものだったのかな?」

「……」

「七日あげる。それまでに身の振り方を考えてごらん。ここで辞めるも良し、諦めず挑戦し続けるもよし。私は強要しないよ、全て君たち自身で答えを出すんだ」

それだけ言うと彼女は資料を纏めて彼らに背を向ける。
しかし外へ出る直前、彼女は八人に背を向けたままこう言った。

「失敗を恐れるよりも、挑戦しない事を恐れなさい」






一方静子はと言うと何の成果も挙げないままに、資源を浪費し続ける開発を継続することの申し開きをする必要に迫られていた。
もし静子が知行地を持ち、その支配下にある土地の資源で開発を行っていたのなら、この様な事態にはならなかったであろう。
しかし彼女の浪費する資源は、織田家が支配する土地から集められたものだ。

織田家における静子の地位は信長の取り立てもあり、また常人では成果が出しにくい方面で成果を出し続けたこともあり、最早重鎮としての立場を確固たるものにしていた。
女人であり、しかも若輩かつ戦場で功を立てたわけでもない、安全圏で畑仕事をしているだけで偶然運が良かっただけの成り上がりという風に見る輩も当然居た。
ただそれらは織田家において傍流であり、更に急先鋒だった柴田と佐々も偶然とはいえ主流派に懐柔されてしまっている状況だ。

対して主流派の面々は、静子の功績や此度の実験についても理解を示していた。
本来は誹謗中傷の類を無視していても問題は無かったのだが、静子を良く思わない面々を纏め上げ一つの勢力として立ち上げた人物が居た。
名を木下秀長(後の豊臣秀長)。秀吉の異父弟として織田家内部で密かに影響力を伸ばしていた男であった。

彼は決して表だって静子を批判する姿勢を取る事なく、反意を抱く人物に接触しては誰それも同じような事を言っていたという噂どうしを結びつける手法でもって反静子を煽った。
反静子勢は己の意思で団結したと思っているであろうが、裏から手を伸ばし傀儡に仕立てあげ漁夫の利を得ようと秀長が画策していようとは夢にも思わなかった。

反静子勢の面々は数を頼みに各所において静子が成果をあげることなく浪費を続けているのを見過ごすのは信賞必罰の信念に反すると騒ぎ立て、静子擁護派である織田家主流も対処に迫られていた。
静子擁護派と反静子派が家臣同士の諍いなら信長の一喝で終わったが、反静子派が茶筅丸(後の織田信雄)を急先鋒として担ぎ出した為、簡単に終わらない状況になってしまった。

結局、この騒動は信長預かりとして一旦沈静化させた。そして信長は森可成を通じて、一年以内に何らかの成果を見せよとの通達を出す。
信長からの通達に静子は一人苦悩する。元より地位や名声に興味が無いため、己一人が責任を取らされるのは構わない。
だがレンズ開発は、攻めばかり強くなり過ぎた織田家の守りを高める上で必須の技術だ。
多方面から攻め込まれる守勢の折に、情報をいち早く取得する観測機器を作り出す必要があった。
ただ技術という物は一人が秘蔵していれば良い物ではなく、広く伝播させることで新たな技術を生み出す素地を築く必要がある。

ガラス職人見習い達の必死の努力を知ってはいるが、ここで責任を取らされて開発が断絶してしまう事は回避せねばならない。
最悪の場合は全ての責任を己が取り、後は一村長として彼らを見守る覚悟を決めた。

七日後、静子は再び八人のガラス職人見習いの工房を訪ねる。
八人は前回と違い、命がけの仕事に赴く男の顔をしていた。それだけで静子は回答を理解したが、あえて彼らに問いかけた。

「答えは出た?」

「はい……俺たち、ずっと悩みました。足りない頭で悩んで、悩んで……そうして出た答えが、負けたくないだったのです」

「……」

「お願いします。どうか、俺たちにもう一度機会を!」

その言葉と共に八人が頭を下げる。

「一年。今から一年以内に成果を収めなければ私を筆頭に君たちも責任を問われる事になる。全財産を没収の上に命も絶たれ名誉も地に落ちる。それを覚悟の上で、もう一度機会が欲しいと言っていると考えて良いかな?」

「はい! これで駄目なら、俺たちは沙汰を待つまでも無く、己で命を絶ちます。ですが最初から失敗するつもりは、俺たちの中ではありません!」

「良いでしょう、その言葉と、君たちの中にある失敗を恐れぬ心を信じます」

その後、静子は彼らに開発資金と凸レンズの設計図を渡した。
期限は翌年の夏の終わりの九月上旬。
それまでに望遠鏡に使えるガラスレンズが完成しなければ、静子自身の失脚を以てしても開発の継続を許されるか定かではない。

彼らの課題は板ガラスの製造技術と、その板ガラスを凸レンズに研磨する技術の二つだ。
それはまさに職人技としか言えない技術であり、静子も教えられぬ領域の話だ。
八人はそれを手探りで見つける以外にない。
それでも以前と違い、己だけでなく、静子自身もこの開発に命を懸けていることに気付いた彼らは、死地に活路を見出す決死の意思を見せていた。

彼らの顔つきを見て、静子はきっと出来ると信じられた。
だが反静子派を黙らせるには、レンズの他にもう一つ目に見えて価値が分かるガラス工芸品が必要と静子は考えた。
そこで彼女はレンズの前段階として、切子(カットグラス)の設計図も彼らに渡した。
江戸切子、薩摩切子などと言われる美しいガラス工芸品であれば、反静子派の面々を説得しやすくなる。

とは言え静子はガラスレンズにだけ関わっているのではない。他にも沢山のプロジェクトに関わっている。
それらの状況を確認するのが静子の仕事の一つなのだが、今までと一つだけ違う事がある。
それは竹中半兵衛、そして彼の弟である竹中久作がついてくる事が多くなった事だ。
弟は兄の竹中半兵衛を護衛していると思われるが、兄の竹中半兵衛は何が目的か全く分からなかった。
悪意あるつきまといではないのは確実だが、目的が分からないので若干不気味に思った静子だった。
だが彼女が知らないのも無理はない。竹中半兵衛は個人的興味で静子の行動を観察しているのだから。

「ほぅ……これが算盤ですか。前に前田又左衞門殿が使っていたのは、この様な形をしておりませんでしたが」

「あれは算盤スワンパン)です。私のは十進法の概念で作られた計算補助器具です。十進法……まぁ数の数え方が0から9を使って数えると思っていただければ」

「なるほど……出来れば、今度使い方をご教授頂きたい」

「あ、あはは、基礎的な事だけですが、私でよろしければ。所でそこで関係ないって顔をしている勝蔵君。本来は君に教える内容だから、知らないふりしても駄目だよ」

瞬間、長可は物凄く嫌そうな顔をする。勉学はある程度出来るようになった今でも、頭より身体を動かす方が好きなようだ。
新しい事を知る喜びを覚えてくれたらな、と静子は思うが無理強いは逆に悪化を招く。

「そろばんか……静っち、そのそろばんは俺にも教えてくれないか?」

話を聞いていた慶次が珍しく意欲的な姿勢を見せた。

「一応、理由を尋ねるけどそろばん覚えて何するの?」

「叔父をからかう」

「……傾城町の時みたいに遊びすぎないでね」

以前、京へ行った時、慶次は仕事をせず傾城町(島原)という公娼地で遊び呆けていた。
その時に「紙飛行機」を教えた静子だが、それで彼は通行人をからかうという非常に趣味の悪い事をし出した。
勿論単なる通行人ではなく、質の悪い客相手だけだが。

(だからと言って漢文を書いた紙で、飛行機を折って飛ばすのはどうなのかな)

漢文の内容も「馬鹿な事をするもんじゃない」的な内容だが、よく分からない内容が書かれた紙がふよふよと飛んでいる様は一種の不気味さがあった。
お陰で質の悪い客が近寄らなくなって花街の人間には好評だったが、静子には頭痛の種だった。
しかし傾奇者を良く理解していた静子は、立場上小言は言うものの「傾奇者」故の風流を好んでいた。

「さてっと、旋盤は正常に稼働していた、水車型洗濯機は試験中、歯車は研究中、クランクは試作型を作成中……後は土嚢袋を二十個持って帰ればいいかな?」

木製旋盤は去年の十月にようやく試作型が完成した。そこで不具合を洗い出し、先月に二台の旋盤が完成した。
しかし不具合を直すために試作型から更にパーツが追加され、製品は総重量が一〇〇キロ近くになった。メインパーツは一〇キロ近くある為、一度設置してしまうと容易く位置を動かせるような代物ではなかった。
結局、パーツごとに運搬し稼働させる場所で、一日近く使って組み立てる事となった。
苦労は沢山あったもののそれに見合う成果が得られた。

水車型洗濯機は名前の通り、水車が動力源の全自動洗濯機もどきだ。
こちらは力の伝達部分で難航している。強度を重視すれば力の伝達が悪く、逆に力の伝達を重視すれば強度がなくなる。
その関係で歯車やクランクという機構を伝えた訳である。

職人街はカカァ天下が多いのか、職人たちは妻たちから急かされている状態だ。
何しろ洗濯物を入れていれば、後は時間が経てば洗濯が終わるのだ。炎天下の中、または身も凍る寒さの中、川に入って洗濯板で洗わなくても良い。
おまけに手回し洗濯機のように時間が拘束される事もない。とくれば妻たちが職人たちをせっつくのも無理は無い。

「土嚢袋でしたら某も少々数が欲しいです。仕切りを作るのに丁度良いので」

竹中半兵衛はそう言うが勿論、静子のように「肥料運び用の袋」という使い方をしない。
静子自身は気付いていないが、土嚢は軍隊で陣地の設営になくてはならないものである。どこにでもある土で耐弾性のある壁を作ることが出来るのだ。

ぱっと見静子の作るものは生活環境を快適にする道具が多いが、実は使い方に工夫を加える事で軍事転用出来るものが多い。
元々、道具類は民間市場に出回る軍用物品から開発されたのだから当然と言えよう。
そのようなものを余さず見つける事が、静子を良く観察している竹中半兵衛の目的である。

中でも成果を上げているのが土嚢袋と網だ。
土嚢袋は土を入れて積み上げるだけで、火縄銃や矢すら通さない強固な壁が出来上がる。水を含ませて高い所から投げれば、それだけで人を殺せる武器に変わる。
麻糸が材料だが、静子の作ったシュリヒテン剥皮機のお陰で麻糸は簡単に入手出来る。
つまりどこにでもある土で作る事が出来、土を抜いておけば運搬は容易、多少の穴程度なら繕えば充分実用に耐える、また使えなくなったら火を焚きつける材料にすれば良い、と捨てる箇所の無い軍事物資なのだ。

網も投網という点で大活躍だ。
騎兵や歩兵の集団に投げれば網が絡まり、行動に大きな制限が加えられる。後は矢を網に向かって射てば、それだけでパニックになる。
山岳など行動が制限されやすい場所で使えば効果は更に上る。問題があるとすれば、設置しても百パーセント相手が引っかかってくれる保証がない点だ。

「竹中様って田畑関係の仕事をされていましたっけ?」

一番の問題は、そういう転用が出来るものだと静子自身が気付いていない点だ。
この辺りが改善されれば、静子からもっと便利な軍用物品が出来るかもしれない、と竹中半兵衛はたまに思う。

「簡易的な壁を作るのに便利なのですよ。ご心配には及びません、きちんと代金をお支払いします」

「あ、いえ、その点は気にしていません。ただ足場を作るだけの袋を、必要とする場面が思いつかなかったので」

「まぁ色々ですよ。色々」

含みのある言い方だが、人それぞれと思った静子はそれ以上尋ねなかった。






後世に『越後の虎』・『越後の龍』・『軍神』と崇められた上杉平三輝虎(「不識庵謙信」は法号。1570年12月から称した)の治める越後国。
その輝虎は居城・春日山城かすがやまじょうにて、軒猿からの報告を聞いていた。

「織田領の状況は、如何なる様子であった?」

「はっ、やはりお屋形さまの読み通り、織田軍は膨大な軍需品を保有していました。軽く見積もって……五万の軍勢を六〇日ほど動かせる量でございます」

傍に控えている直江(なおえ) 景綱(かげつな)が輝虎の問いに応える。
彼は長尾為景・晴景・景虎(後の上杉輝虎)の三代わたって仕えた宿老だ。
主に内政・外交面で活躍したが、七手組大将として軍事面でも活躍した、まさに長尾家(上杉家)家臣の中で側近中の側近である。

「そうか。民の様子はどうじゃった」

「圧政に苦しむ様子はないと。この乱世に驚くほど活気に溢れていた、と軒猿たちは我が目を疑ったようです。野盗や乱波なども厳しく取り締まり、治安はかなり高いとの事です。ただ……」

「ただ、なんだ?」

「その治安を維持する体制が、過剰に高いところが何箇所かあるとの事です。軒猿の報告では犬が多かったとの事です」

直江の報告を聞き終えた輝虎は目を閉じて考える。
織田領の繁栄は上杉の目から見て異常だった。恐らくそう考えるのは自分だけではない、と輝虎は思っていた。
その証拠に、織田領には武田や北条、同盟国である徳川や浅井の間者が、幾人も入り込んでは情報収集に勤しんでいた。

(堅牢な防御を誇る場所……更に犬を操れる人間か。これほど厄介な事はないな)

輝虎は犬の恐ろしさを十分に理解している。落ち武者が死ぬ主な原因の一つが、野犬に襲われる事だと知っているからだ。
いかに訓練された軒猿や他の国の間者であろうと、野犬を相手にするのは分が悪すぎる。特に野犬は統率の取れた群れで動く為、単独や数人で動く間者では最初から劣勢なのだ。

「して、一体いかなる者が織田領を繁栄させたのじゃ。さぞかし叡智溢れる者であろうな」

ゆっくり目を開きながら輝虎は直江に問いかける。

「それが……全くもって奇妙な事に、それらしい人物の話を一つも聞かなかったそうです」

「……知行地を与えられたとか、莫大な富を下賜された話が、一つもないと申すのか?」

「奇怪な事に、その手の話が一つもありません。一時期、織田が感状を大量に発行していたぐらいで、それ以外の話は……」

「ますます奇っ怪な話だ。それほどの功を収めた者なら、相応しい褒美が与えられて然るべきだ。だがそれを織田と、その人物は気にしなかった。あるいは感状で満足したか……」

「それはあり得ぬ話かと」

尾張の石高を二倍にして、褒美が感状一枚で満足する人間などこの世にいるはずがない。
それが輝虎と直江にとって常識だった。勿論、静子にその常識が当てはまらないのだから、彼らが静子に辿り着けないのだ。

「……その人物を探し出すのを最優先にしろ。肥沃な大地を持つ尾張を、更に豊かにしたのだ。その力、必ず我が国の為になる」

「はっ、軒猿に総力を上げて探し出すよう命じます」

「うむ。恐らく他の国も、わしと同じ考えに至るであろう。これから先、誰が最初にその者を見つけるかが勝負になる」

輝虎の予感に似た考えは当たっていた。

「織田領を豊かにした人物を探し出せ。その者の力、この乱世では貴重な存在だ」

彼が軒猿に命令を出した頃、彼の宿敵・武田信玄もまた自身の持つ忍び集団に、静子捜索の大号令を出していた。

「織田領を富ませた人物は隠れるのが好みの様子。だが、その力……わしの為に使わせて貰うぞ。風魔に命じよ、必ずやその人物を見つけ出せと」

時を同じくして北条も輝虎や信玄と同じく、静子捜索の大号令を風魔に出した。
勿論、静子を狙う国人は敵国だけではない。

「半蔵、配下を使い静子殿の行動をつぶさに調べよ。なるべく刺激はするな? あくまで慎重に行え」

同盟相手の三河国の国人家康もまた、静子を狙う人物の一人だった。
他の三人と違う点は、彼が静子の能力を正確に、そして信長以上に高く評価している所だ。
そして静子を信長から奪い取るのではなく、覗き見をしてその技術を横から頂戴する事もまた、他の国人たちと違う考えだった。
それは彼が信長を出し抜く気がなく、また少し遅れる方が極めて自然に技術が広まったと信長に思われやすいからだ。

甲斐や越前のような敵国、そして同盟国がこぞって尾張・美濃の技術を欲するのは、何も大量生産が可能だからという理由だけではない。
信長は立証したのだ。天候が荒れやすくて作物がまともに育たぬ乱世であろうと、農業の技術を極めれば安定した収穫を手に入れられるという事を。

「へくち……むむむ、風邪を引いたかな」

ただし毎度ながら静子本人は、自分の価値を全く理解していなかった。
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