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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

永禄十二年 伊勢平定

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千五百六十九年 三月上旬

信長の苛立ちは二月上旬に限界に達していた。
彼は二月、三千の軍勢を率いて別所に陣取る。そして港町である尼崎に矢銭を課したが、尼崎衆はこれを拒否した。
堺衆に続き尼崎衆の態度に、信長は軍事的圧力を加える必要があると判断した。
彼は尼崎衆と一戦を交えた後、それぞれが独立した町である尼崎四町(市庭町、別所町、風呂辻町、辰巳町)のことごとくを焼き尽くした。
この徹底した焦土作戦に諸都市は大混乱に陥った。信長への恭順を主張する派、あくまで徹底抗戦を主張する派、本願寺など他勢力と連携を主張する派など、内部に分裂が生じた。
内部分裂による自壊こそが、信長の真の目的だとも知らずに。
結局、尼崎衆を扇動していた堺衆は屈服し、二月十一日に事実上の堺接収が実行され、信長の上使衆が派遣された。
堺の会合衆は矢銭二万貫を出し、以降兵士を雇わない事と牢人(主家を去って俸禄を失った者。江戸時代中期頃から牢人を浪人と呼ぶようになった)をかかえない事を信長に誓った。
ここまでしてようやく許された訳だが、信長は他の諸都市への警告を兼ねて、堺へ厳しい年貢を課した。

これによって堺には大損をこうむり凋落した者もいれば、この機に勢力を伸ばした者とがはっきり別れた。頭角を現した者の筆頭が今井宗久だ。
彼はいち早く信長に服従の姿勢を見せた為、以降信長の鉄砲受注を一手に引き受ける鉄砲・火薬の御用商人となった。
これにより今井宗久は一気に堺衆のトップに躍り出る。しかし順風満帆に見えた彼にも思わぬ落とし穴が待ち受けていた。
信長の歓心を買おうと「茶の湯」に誘った今井宗久だが、彼の予想に反して信長は茶の湯に目覚めてしまった。
信長はかつて平家を西へ追いやり、上洛を果たした木曽義仲と同じ気持ちを抱いた可能性がある。
何しろ茶の湯は当時の貴人たちのたしなみ、つまりステータスシンボルだ。
公家や京の人間へのコンプレックスを跳ね除ける為にも、武力だけでなく最先端の文化を身につけ、天下の茶器を持つことで、天下を握るに相応しい実力者たることを証明しようと考えた可能性があった。

茶の湯に目覚めた信長だが、彼は最低限の茶器を揃え、自身の習熟に合わせて段階を踏んで道具を変えていくという定石の一切を無視した。
現代でも同じだが骨董品や美術品などの蒐集は、お金さえ出せば良いものではない。
値の張る物を矢鱈と集めては成金趣味になってしまうし、真贋を見抜く目利きを持っていなければ偽物を掴まされることもある。しかし信長は武力を背景に威圧することで質や品の良い物を供出させ、圧倒的資金力に物を言わせて根こそぎ買い占めた。
後の世に「茶器狩り」・「名物狩り」・「名器狩り」と称される信長の茶器収集は、堺や京の茶人を心底震え上がらせた。

名物狩りで少しは憂さ晴らしが出来たのか、信長の機嫌は幾分持ち直したかに見えた。
だが依然として衣食住の食住環境に不満を感じていた。中でも快適からは程遠い寝所、入浴がままならない環境、特に口に合わない食に不満を感じていた。
既に九人もの料理人が首となっており、一刻も早い解決が求められたが、解決策を示せそうな静子は信長の命令で尾張を離れられなかった。
結局、三月上旬まで秀吉や光秀は、信長の殺気にも似た威圧に晒され続ける事となった。






三月上旬、ようやく静子は陣頭指揮を執る立場を離れ、ある程度の余裕を捻出出来た。
それより少し前、二月上旬に三台の木製旋盤が完成し、二月下旬に手回し洗濯機が完成し稼働を開始した。
山場は過ぎたとは言え、まだまだ先行き不透明な時期に尾張を離れるのは勘弁願いたい彼女だが、秀吉と光秀から届く手紙の間隔が短くなった事に、これ以上の先送りは難しいと判断した。
手勢五〇〇名と慶次、才蔵、長可の三人を引き連れて京へ向かった。厳重な警護付の隊列になるため静子自身が準備した荷物も多かったが、便乗して京まで物資を運搬する荷駄の列も連なり後の大名行列の様相を呈した。
静子自身は荷物に先んじて京入りする必要があり、少数精鋭を率い、次々と馬を乗り換える事で先行した。
遅れて京に来る荷駄隊も秀吉から派遣された兵士のお陰で、数日遅れで大過なく無事に京に到着することとなる。

先行して京に到着した静子は光秀に出迎えられる。

「ご苦労、良く来てくれた。強行軍の疲れがあろうが、お館様の事をよろしく頼む」

「明智様自らのお出迎え、恐悦に存じます」

胃痛を抱えている彼は、静子に向かって開口一番そう告げる。
想像以上に深刻な状態だと彼女は思った。光秀と顔を合わせるのは、今回が初だが彼は静子が女である事に驚いていなかった。
実際、彼女と初顔合わせをした人物は、ほぼ全員が静子の性別と若さに驚きを隠さなかった。
光秀が人から静子の事を聞いた可能性を加味しても、静子への関心の低さが、彼がそこまで気を回せないほど切羽詰まっている事を意味していた。

「風呂の方は配下の者に準備させています。先にお館様へお出しする、昼餐の準備に取り掛かります」

「ああ、済まないがよろしく頼むよ。調理場の方は準備を終えさせている」

そう言うと彼は胃の辺りを押さえながら立ち去った。放置すれば胃潰瘍で倒れそうな勢いだ。
このままでは信長のストレスが配下に伝播していく。最悪の場合、それが一因になり内部崩壊を起こす可能性もあった。

信長が何故、食事に強いストレスを感じているか静子は考える。答えは非常に単純だ。
京で地位がある人間は基本的に運動をしない。対して信長は武家の出身だ。必然的に京の人間より多く塩分を取らなくては体が維持出来ない。
どちらかが優れているではなく信長たち武家文化と、貴族などの公家文化では辿ってきた歴史的背景が違う。

だが公家は京の味が理解出来ぬ者、イコール野蛮な未開人だと考えて優越感に浸る。
自分たちこそが日本の中心だと優越感に浸り、自分たちの文化を恣意的に上位であると解釈し、他の文化を野蛮呼ばわりした挙句、自分たちの文化を押し付ける。
そういった行為こそ、人類史上頻出し衝突を産む最低の「野蛮」な行為だと気付かないまま。

話の焦点を食に戻そう。
尾張出身の信長は濃い味付けを好む。その事で京の文化人が影で信長の味覚を馬鹿にしようとも、京の実権を握るのは信長だ。
現実は非情である。信長を満足させなければ、京の未来は明るくならない。
その為に引っぱり出されるのは少々不愉快だが、愚痴を言っても仕方ないと考え、静子は信長の食事に対する不満の原因を考える。

余談だが関西と関東で味付けが異なるのには、なかなか複雑な事情がある。
例えば蕎麦のつゆは、関西では透き通った上品なつゆ、関東では色の濃い濃厚なつゆが使われる。この違いは「ダシ文化の違い」に起因するとされている。[*1]
関西風と関東風のどちらにも共通して言える事は、グルタミン酸とイノシン酸を合わせて旨みを引き出している点だ。
グルタミン酸は昆布や醤油に多く含まれる成分であり、一方イノシン酸は鰹節に多く含まれる事が知られている。
この旨み成分に対するアプローチの差が食文化の歴史的背景として現れてくる。

関西ではもともと昆布を使う習慣があったため昆布でグルタミン酸、鰹節でイノシン酸を補い、塩もしくは薄口醤油で味を調えていた。
このため色の薄いダシでも強い旨みをもつ料理が実現できた。
一方関東は昆布の生産地から運び込まれる時期が遅く、更に交通機関の未発達により昆布は高級品の部類だった。
よって昆布を使う習慣がなく、濃口醤油でグルタミン酸を補った。
これにより鰹節(イノシン酸)に濃口醤油(グルタミン酸)を加える事で、うま味を構成し、色の濃い関東風のつゆが生まれた。

纏めると関西では昆布でグルタミン酸を取ったため薄口醤油を少ししか使わなくて済み、関東では濃口醤油でグルタミン酸を取った為昆布は不要だった。
仮に関東にも昆布が大量流通したとしても普及したかは疑問が残る。
それは関東の水は、硬度が高い「硬水」だからである。硬水で昆布を煮ると、水に含まれるカルシウムが昆布に付着し、うまみが抽出されにくくなる。
そして付着したカルシウムが昆布の成分と結合し、アクとなってだしを濁してしまう。更に硬水で煮ると昆布の香りと同時に臭みが良く出てしまう。
「硬水」でも昆布出汁を作る事は不可能ではないが、手間がかかる上に軟水よりはるかに長い時間を要する。
と課題点が多く、関東で昆布が使われなかったのは歴史的必然であった。

(少々の不便なら黙って我慢するお館様が、声を大にして不満を口にするのは、表層ではなく根っこの部分に原因があると思うのだよね)

ある程度の予想はつくが決定的な情報がない。そう思った静子は信長の料理に携わった人、そして彼の生活に関わった人から情報を仕入れる。
期待通りの答えが帰ってきた為、静子はすぐさま調理に取り掛かる。昼食にちょうど良い時間に、彼女は料理を完成させた。

「お待たせしました」

お盆を持った小姓と共に信長がいる部屋にはいる。
一番上座に信長が着座し、彼の左手側に秀吉と光秀が座っていた。

「おお、待っておった……ぞ?」

秀吉が静子を見るやいなや顔を明るくするが、出された料理を見て困惑の表情に変わる。

一言で言えば質素な料理だった。
茶碗に盛られた飯、長ネギの味噌汁、鶏肉じゃが、小松菜のおひたし、カブの皮の浅漬け。
鶏肉じゃがは別としても、秀吉から見れば静子が出した食事は、尾張では武将ならば日常的に食べている物であった。

「どうぞ、お召し上がり下さい」

盆を信長の前に置くと同時に静子はそう言った。

「食す前に、何故この料理を選んだか聞こう」

信長の表情は変わらず険しいままだ。その事に肝が冷えた秀吉と光秀だが、静子は力みのない自然体の笑みを浮かべたまま答える。

「失礼ながらお館様がここ数日召し上がられた献立を調べました。私の予想通り、贅を凝らした京風のご馳走ばかりでした。数日程度ならば物珍しさもあり苦にはならないでしょうが、連日ご馳走尽くしでは飽きが来るのは必然。これは私の推測ですが、お館様は食事を取る事に苦痛を感じていませんか?」

「……相変わらず自分で見たかのように語る奴じゃ」

「その言葉をもって肯定と受け取らせて頂きます。話を戻しますね。飽きが来ない日常の食事と、通常は一回限りのご馳走とは意図する所が違います。美食に食傷気味のお館様には故郷尾張を思わせる日常の料理こそ相応しいと考えました」

「ふっ、心の平穏を与える料理か。良かろう、遠慮無く頂くぞ」

信長は鳥肉じゃがのじゃがいもを箸で掴み口の中に入れる。
暫く無言だった。だが信長の顔から徐々に険しさがとれていく所を見るに、今回の作戦は成功したと静子は確信した。

「心を満足させる飯、か……」

料理を平らげた信長がポツリと呟く。
彼の呟いた言葉が、孤独感としての寂しさが含まれているように聞こえた静子だった。






「宜しいかな、静子殿」

才蔵を連れて信長の食器を下げていた静子は、背後から呼び止められて振り返る。
呼び止めたのは光秀だった。彼は静子の前まで来ると、背後に家臣がいるにも関わらず、静子へ深々と頭を下げた。

「感謝する」

短いながらもそれが信長の不満を解消してくれた事に対する謝辞だと気付いた静子は、慌てて光秀に頭を下げる。

「お、恐れ多いことです」

「はははっ、謙遜せずとも良い。しかし話には伺っていたが、本当に若い女子だったのだな。少し驚いたが、あのお館様を前に動じない胆力は見事である」

光秀は人の良い笑みを浮かべて豪快に笑う。

「それでは失礼する。これからもお館様の力となってくれ」

そう言って光秀は立ち去る。彼の背後にいた家臣は静子に一礼をした後、光秀の後を追った。
様々な評価がある光秀だが、静子の目には真面目な性格の人物に見えた。
しかし油断は禁物だ。彼は日本統一直前の信長を討ち、更に後継者の信忠も討ち取った人物だ。
光秀が本能寺の変を起こした理由がはっきりしない以上、完全に彼を信用するのは不可能だ。

(……もう一人、織田家家臣で注視しておく人物がいるのだけど……今は下手に動かない方がいいかな)

確証が持てない以上、下手に織田家家臣を疑い続けるのは余計な騒乱を招く。
今は本能寺の変が起こる予兆を、全て潰せる力を蓄える時期だと静子は思った。

(それには沢山の協力者がいるのだけど……下手に派閥を作るのも問題だなー)

「静子様? 如何なされました。明智様に何か思う所でも……?」

光秀が見えなくなってからも彼の方を向いていた静子に、才蔵が首を傾げながら尋ねる。

「京治安維持警ら隊の事聞きそびれたなぁ、と思ってね」

「ああ、京治安維持警ら隊は明智様が引き継ぎましたからね」

「現状を知りたかったけど……ま、今度でいいか」

静子の言葉に納得したのか、才蔵はそれ以上何も言わなかった。

「それじゃ、台所に食器を片付けてこないとね」






食事事情の改善以外にも静子に委ねられる案件は山積みになっていた。
まず尾張から輸送した岡部式木桶風呂と足湯用の桶で、信長の風呂に対する不満を解消させる。寝所は単純に布団を運び込んだだけだ。
信長の許可無く布団の製造は禁止されている。よって静子は信長が別荘に置いている布団一式を持ち運ぶ事にした。
木桶風呂、足湯用の桶、布団一式、その他座布団や陶磁器など、全て信長の不満を解消させる為に京へ運び込んだが、後に信長はそれらを静子の目論見と違う使い方をし出した。

まず陶磁器製の食器は、信長が使うために用意されたものであり、様々な意匠が施されている。
中には茶碗と味噌汁、おかずを乗せる皿を並べて、初めて一つの絵となるカラクリが施されたものもある。これは信長が瀬戸の陶器と同じように、静子の技術街で作る磁器に対して、様々な保護政策を行ったお陰だ。
磁器自体が珍しい戦国時代に、更にデザイン性が高い食器を当たり前のように扱う。
その事に今まで信長を「文化的教養のない粗暴な山猿」と馬鹿にしてきた京や堺の文化人は、驚きと共に劣等感を抱くことになる。足湯や湯の張った桶風呂、布団を知って更に言葉を失ったのは言うまでもない。
信長はタイミングを見計らって、何人かに陶磁器を褒美として下賜した。まるでそれらは当たり前のもので、何の気もとめる必要がないと言いたげに。
与えられた人たちは陶磁器の独創性に驚嘆した。中にはこの程度の品をひけらかすとは鄙ものよと人格攻撃しようとした者も居たが、自身がそれ以上の品を到底用意出来ない事から、結果的に自分の名誉を傷つけるだけとなった。

この時、信長は非情に邪悪な顔をしていた、と静子は後に語る。自分こそが文化人であるとうそぶく連中に、文化的で、かつ見たことがない品物を贈るのだから、さぞかし胸のすくような思いだったであろう。
だが信長自身も気付いていない事がある。人間は住んでいる地域や文化的な背景、人種が違っていようと共通する深い恐怖がある。
その中に「未知なるものは怖い」がある。つまり信長から陶磁器を譲られた事に、京や堺の文化人は驚きとともに言い知れぬ恐怖を抱いた。
特に信長は彼らに陶磁器を譲ったのは「自慢」に近く、敵意や悪意が殆どなかった為にそれも恐怖を倍増させる一因となった。
柴田や佐々が静子に敵意を向けるのも、彼女が女であるというより「未知なる存在」という点が強い。

信長が文化人の連中に意趣返しをし、食事に大変満足し、風呂で疲れを癒やし、布団で心地よく眠る事七日後。
今や信長に怯える配下はおらず、彼らは生き生きと己の任務を遂行していた。信長自身も最初の殺気にも似た雰囲気は鳴りを潜め、今は和らいだ雰囲気を纏っていた。
京での目的は達成された為、静子は尾張へ帰る旨を信長へ伝える。しかし帰ってきた答えは「しばし京に滞在せよ」だった。
理由を聞くために静子は信長の元へ出向く。
理由は実に簡単だ。数日前に南蛮の宣教師が謁見を申し込んできた。その南蛮の宣教師と会うのが明日という話だ。

(あー、時期はズレているけど、相手はルイス・フロイスだね)

昨年の上洛時、信長がルイス・フロイスと引見する事はなかった。
家臣の和田惟政からルイス・フロイスの状況は聞いているものの、彼は「南蛮人をどの様に出迎えればよいか分からぬ」という理由で会うのを断った。
その時は贈り物を一つだけ受け取り、その他は会わない事を謝罪するためにルイス・フロイスへ返したと言われている。

「今ひとつ南蛮というものが分からぬ。ちょうど良い、今日は世界について聞こう。貴様は南蛮出身だからな」

「…………………………え? あ、はい。そ、そうでしたね。はい……(まだ有効だったのだ、その設定)」

未来から来た事は気付かれていないものの、信長には静子が南蛮出身ではないと見破られていた。
だから南蛮出身だと言われた時、静子は理解が追いつかなかった。しかし雑念を払い頭を切り替えると、慌てて信長の言葉に頷く。

「貴様の知っているだけで良い……そこでは話しにくい。もっと近う寄れ」

そう言われて静子は二歩ほど信長に近づく。だが納得してないのか彼は「もっと近くによれ」と言いたげな雰囲気だった。
仕方なく一歩、一歩前に進みながら信長の様子を確認する。遂には上座の手前まで来てしまったが、それでも信長の表情は変わらなかった。

(えぇ……こ、この上に上がって良いの? いや、いくら何でも……)

「構わん。さっさと上がって来い」

戸惑いを隠せない静子に、信長は上座に上がれと促す。
小姓や配下は驚きを隠せなかったが、それ以上に静子の方が驚いていた。上座は身分の高い人が座る所であり、入り口からもっとも遠い席だ。
少しだけ迷った静子だが、背を屈めて上座に上がる。ここまで接近を許すのは、信長に何かしらの思惑があると考えたからだ。
静子が信長のほぼ眼前にまで移動した所で、信長は小さく頷く。そこで良い、という合図だ。

「言葉だけでは分からぬ時もある。手で持てる黒板を用意した。それを説明の補助に使うと良かろう」

言葉とともに黒板が手渡される。よく見ると黒板には文字が書かれていた。

『これに意識を向けず、わしの質問に答えろ』

思わず信長の顔を見そうになったがすんでの所で止め、静子は何事もなかったかのように黒板を軽く払う。
手で信長が書いた文字をうまく消すと、黒板を信長へ返す。

「質に問題はないですね。お館様も何か書くと思われますので、話す人が黒板を持つ事にしませんか?」

「ふむ……良い案だな、それで行こう。最初に……わしには仏と神の違いが分からぬ。坊主どもは伴天連を邪教徒と罵っておる。だが、どちらも神である事に変わりはない。一体、神と仏にいかなる違いがあるのか」
『宗教勢力は強固な支配力を持っているが、その信仰の根幹を為すものは何だ』

言い終えると同時に黒板を渡される。なるべく黒板へ意識を向けず、静子は信長の質問に答える。

「そうですね……仏も神も『力を顕す』という点では何の代わりもありません。しかしその顕し方が違います。仏は力を『性質』で顕し、神は力を『人格』で顕しているに過ぎません」
『寺院は要塞都市であり、武器製造の基地でもあります。また商業及び物流の拠点を支配しており、そこから利潤を産んで莫大な富を得ています』

「力を顕す形が違うか。確かにその考えなら、神も仏も大差はないと言える。結局は、人が『力』をどう捉えるかだけだな」
『畿内における寺社で勢力の強い所は』

「私は個人的には仏も神も信じておりません。いえ……信じていないというより盲信していないと言った方が良いでしょうか」
『まず日ノ本最大の富豪組織であり、荘園領地を多数領有し、高利貸しのような足元を見る貸付を行い、商業及び物流を支配している比叡山延暦寺。現在の比叡山の天台座主は、伏見宮貞敦親王ふしみのみやさだあつしんのう)の五男である応胤入道親王(おういんにゅうどうしんのう)です』

「ほぅ、わしが言うのも何だが、貴様からは仏の信仰心がまるで感じられぬが?」
『本願寺は』

「私の祖母は常々言っていました。最初から全て神仏に頼り切るのは良くない、と……最初から神仏に頼むのではなく、まずは己の努力を全てやり遂げる。それら全てをやり終えて、初めて人の手に届かぬ事に対して神仏の力を乞うべきだ、と」
『本願寺は畿内の流通拠点を押さえています。そして、お館様が岐阜で施行された楽市楽座政策の原型で利潤を生んでいます。本願寺の第十一世は顕如。顕如は法名であり、院号は信樂院、諱は光佐。妻は如春尼で、彼女の姉は武田徳栄軒信玄の正室である三条の方』

「己の仕事を神に見せて、その結果を待つという事か」
『相変わらず詳しいな』

「盡人事而待天命。人事を尽くして天命を待つ、と言います」
『何故、詳しいかはお話できませぬが……私は決してお館様を裏切りません』

「しかしこう言っては何だが、最初から神仏に頼む方が楽ではないのか?」
『そこは問わぬ。出身が分からぬからといって、才ある者を遠ざけるなど愚の骨頂。それに貴様の今までの行動を見て、わしは貴様を信用するに足る者と見ておる』

「例え話でございますが、ある国になんでも出来る万能な王がいたとします。配下たちは万能な王の決断は常に正しいと考え、どんな事も王の判断を仰ぎます。例え夫婦喧嘩の事ですら」
『非才の身ではございますが精一杯ご信頼に応えられるよう努力致します』

「最初から強者に頼る態度は、確かに気分が悪くなるな。なるほど、だから己が出来る全てをやり尽くした後、天の采配を待つのか。悪くない考えだ……話を最初に戻そう。伴天連とはどういったものだ?」
『話を戻そうか。現時点で寺社勢力に敵対する事についてどう思う。遠慮はいらん、包み隠さず話せ』

信長はわざとらしく咳払いをする。空気を変えようとしたのだろう。
無論、周囲の人間ではなく自分と静子の間にある空気だが。

「南蛮……私は欧州と呼んでいますが、欧州最大の宗教です。他の宗教もない事はないですが小規模と言ってもいいでしょう」
『現時点で寺社勢力と敵対は得策ではありません。まずはお館様に敵意を持っております朝倉と浅井左兵衛尉殿をどうにかするべきかと。このまま放置しておけば、いずれ何らかの形でお館様に敵対すると思われます。私としては浅井新九郎様をこちらの陣営に引き込む事を具申いたします』

「こちらの仏教みたいなものか」
『どうやら状況はわしの想像よりはるかに悪いようだな』

「そうですね。日ノ本の仏教のように、欧州では伴天連が広く信仰されています。欧州からこちらへは宣教師と呼ばれる人たちが来日し、布教活動を行っています」
『決して脅す訳ではございませんが……一度に敵を作り過ぎれば四面楚歌に陥ります。お館様にとっては歯がゆいかもしれませんが、ある程度許容範囲を設けて対応をお願いします』

「なるほどな。余り先入観があっても良くないじゃろう。伴天連の話はこの程度で良い」

話は終わった。ようやく終わった事に静子はほっと胸を撫で下ろす。
時間にして二時間程度だが、彼女は半日近く話し込んでいた気持ちを抱いた。
信長に頭を下げ、静子はゆっくり上座から下りる。話が終わったのだから上座に長居する理由もないし、何より上座にいるだけで胃が締め付けられる。

「ご苦労だった。今日は帰って身体を休めるが良い」

「勿体なきお言葉。では本日は失礼させて頂きます」

「うむ、明日も宜しく頼むぞ」

聞き捨てならない言葉に静子は思わず信長を見返す。
彼はいたずらっ子のような笑みを浮かべて、静子にこう言った。

「明日は貴様にも同席して貰う」






翌日、信長の宣言通り静子はフロイスとの謁見に同席させられる事となった。
防犯的な意味で顔を隠す必要がある、との事で頭巾を被って武家の正装を着用し、胸部にサラシを巻いて可能な限り男に見えるようにする念の入れようだ。

(む、胸が苦しい……ッ!! いや、人に自慢出来るほど胸が大きい訳じゃないけどさ。それに顔が蒸れる……)

ここまでして謁見に参加させたいのかと思ったが、よくよく考えれば今回の謁見は簡単な話ではないと彼女は理解する。
京や堺は法華信徒が多い。しかしこの法華宗、信徒拡大をするために他宗の誹謗中傷をするなどかなり強引な面が多い。
その結果、合戦とまではいかなくとも血なまぐさい抗争に発展する事がよくあった。
そういういざこざに巻き込まれないための配慮なのだろう。しかしそこまでして出席させなくても良いのではないか、が静子の本音だった。

史実通り、信長は二条城を作っている工事現場の橋の上でフロイスと引見する事となった。
先に到着したのは信長で、それから少し経ってから司祭らしき人物と信徒らしき人が現れた。

(ルイス・フロイス司祭、それから通訳のロレンソ修道士だね)

遠くの方で頭を下げている二人の内、四〇近くの男性がフロイス司祭。
反対側が日本人イエズス会員のロレンソ了斎修道士イルマンかなと静子は思った。

(キリシタン保護派の和田惟政が見当たらないな。確か文献ではフロイスを輿に乗せてこちらに向かったはずなのだけど……?)

目だけ動かして和田惟政らしき人物を探す。だがそれらしき人物はどこにも見当たらなかった。
彼女がそんな事をしている内に、信長は彼らに近くへ来るよう合図した。

「ルイス・フロイスです。本日は拝謁の栄誉を賜り感謝いたします」

日本人ではない外国人特有のイントネーションでフロイスが自己紹介と、会見への謝意を伝える。

「今日は日差しが強い。帽子をかぶると良い」

(私は顔が蒸れそうですよ)

陽が強い為に頭巾の中は少々暑かった。だが外す訳にもいかず、我慢する他なかった。
静子はルイス・フロイスを見る。外見は欧州人特有の顔つきや体つきだ。身長は平均的な日本人より一段高いが代わりに細身だった。
フロイスは秀でた観察力と分析力を持ち、彼の書いた報告書はイエズス会で高い評価を得ている。

「織田様とお近づきになれた記念にと、今日は贈り物を用意させて頂きました」

(あ、有名なアレが出るのだ)

最初からゲームクリア状態で若干面白みがない感じがしたが、やはり書物で知るのと自分の目で見るのでは感動に差が出てしまう。
フロイスが何を献上するか知っていても、ついわくわくしてしまう静子だった。

金平糖コンフェイト有平糖アルフェロア)でございます」

それを見た信長は思わず表情をゆるめるほど感銘を受けた。彼だけではなく、周りにいる武士たちも、その不思議なものに一瞬にして魅了された。
唯一それが何か知っている静子だけが、内心は感動していたが見た目は冷静な態度をしているように見えた。
優れた洞察力を持つフロイスが、それを見逃すはずはなかった。しかしすぐに、顔を頭巾で隠しているから驚いたように見えないと考え直した。

「中々に興味深い」

すぐに手にとるかと思われた信長だが、彼は金平糖が入ったフラスコ瓶を静子へ渡すよう手で指示をした。

「(あー、何か教えろと)こちら、フラスコ瓶に入ったものはコンフェイトですね。ケシの実に糖蜜をかけて固めた砂糖菓子です」

「こ、こん……?」

発音が聞き取れなかったのか、奇妙な顔をして信長が聞き返す。静子は若干気持ちを落ち着けさせてから、もう一度金平糖の語源となったポルトガル語の単語を口にした。

「コンフェイト、でございます。日ノ本の言葉に訳すと、金平糖こんぺいとう)でございます」

「……なるほど。こっちの筒のようなものはなんじゃ」

「アルフェロアでございます。こちらも日ノ本の言葉に訳すと、有平糖(ありへいとう)でございます」

金平糖も有平糖も南蛮菓子の一種だ。どちらも湿気さえ気をつければ、砂糖と同じく二年から三年は味が変わらないとされている。
特に金平糖は伝統的製法で作れば、湿気さえ気をつければ二〇年から三〇年は持つといわれるほど保存性が良い。
活動に必要なカロリー摂取、唾液の分泌を促進する、カラフルな菓子を見る事でストレスを軽減する効果がある事から、氷砂糖と共に非常食の乾パンと同梱される事がある。

(どっちもポルトガル語を語源としているから、ちょっと聞き取りにくいのかな……おや?)

視線を感じた静子はそちらへ顔を向ける。フロイスとロレンソが顔色を無くし、明らかに畏怖を抱いて静子を見ていた。
宣教師たちが献上した南蛮菓子などは、どの国人でも驚きの目をもって迎え入れられた。
それはフロイスが日ノ本の代表と考えている信長ですら同じだった。しかし彼の側に控えている人物の一人に、自分の贈り物が何なのか看破されてしまった。
フロイスは言い様のない恐れを抱いたが、それを信仰心で無理やり押さえつける。

(神よ、ご加護を)

フロイスは彼の噂をいくつか聞いていたが、余り当てにならないと考えなおした。
信長は配下の意見をほぼ聞き入れない、自分で見たものしか信じない。だが現実は配下から意見を取り入れ、その中で最上のものと自分の意見を突き合わせて判断を下している。
日ノ本に来て何人もの支配者と謁見したが、信長のようなタイプは初めてだとフロイスは思った。
善き理性と明晰な判断力を有した稀に見る優秀な人物であり、大いなる賢明さを持ち合わせながら他者の意見を聞き入れる度量を持つ。
家臣たちが信長に対してどことなく恐れ慄いている理由も納得出来た。それ以上に不気味なのが、顔を隠した武士(静子の事)だが。

信長はゆったりした表情でフロイスと会談する。
どちらかと言うと信長がフロイスに質問をし、それに対してフロイスが答えるという感じだが。
その内容は多岐に渡り、年齢はいくつか、住んでいる国はどこだ、インドとはどういう国だ、どれだけ日本の言葉を勉強するのにかかったか、など好奇心旺盛な信長らしい内容だった。

その問いに答えた後、時々顔を隠した武士に何かを尋ねている事に、フロイスは若干気にしていた。

「フロイスよ、主の親族は汝と会いたいと思っておらぬのか?」

「は、あ、いえ……大丈夫です」

突如として質問がプライベートな内容に変わった事に、フロイスは回答につまる。
しかし信長は大して気にせず言葉を続けた。

「そうか。だが親は大事にするべきだ。孝行したい時に、親がいないのは寂しいからな」

端的に言うと「親孝行したい時には親はなし」である。いわばフロイスを気遣った内容だ。

「ありがとうございます。ですが私は父や母に教わりました。どの様な苦難が待ち構えていようとも、どんな挫折を味わおうとも、自分に課せられた使命をやり遂げる事こそ最大の親孝行であると。私はその教えを守ります」

「では我が国でデウスの教えが広まらなかった場合、貴殿はどうするのだ?」

宣教師の使命は他の国にデウスの教えを広める事だと信長は思った。ならばフロイスは教えが広まらなかった場合、どう行動するのか少しだけ彼は興味をもった。

「例え信者が一人になろうとも、私はその者の為に終生日ノ本へ留まる決意であります」

迷いのない答えだった。フロイスの表情、そして何よりも彼の目は、その言葉が嘘偽りなき本音である事を語っていた。
信長はフロイスが、自身の信仰する宗教を広めるためにこの国を訪れたと判断する。
フロイスは気付いていないが、信長はフロイスたちイエズス会を詳しく知っていた。宣教師たちが本国の斥候となり、侵略の手助けをしている事も知っている。
彼らイエズス会の宣教活動が『適応政策』に則って動いている事も知っている。いわばイエズス会の事を日本中で誰よりも詳しく知っている国人だ。
だからこそ信長はフロイスが植民地政策の斥候兵なのか、それとも単に本気で信仰心の為に動いているのか判断する必要があった。

「貴様はどう思う?」

信長は自分の中では『布教の許可を出す』と結論を出した。しかし他人がどう思っているかを知る必要があり、配下の者たちに声をかける。
かけられた方からすればたまったものではないが、自身の考えを言わない訳にはいかない。
ただ声をかけられた武士の殆どは無難な答えしか口にしなかった。

「……貴様はどう思う?」

まともな考えが出てこない事にしびれを切らした信長は、静子に向かって尋ねる。

「これから先、彼らには多くの試練が待ち構えています。仏僧たちは彼らを邪教と罵り、布教の妨害をするでしょう。彼らの考えを受け入れない人たちも出てくるでしょう。彼らに罵詈雑言を投げつける人も出てくるでしょう」

そこまで言うと静子は一度目を閉じ、再び開いてから言葉を続けた。

「ルイス・フロイス様、ロレンソ了斎様、お二人は敵のために祈れますか? 『汝の敵を愛し、汝らを責むる者のために祈れ(マタイによる福音書五章四十四節)』ますか?」

「その言葉……はい、我が主の教えは『汝、憎むなかれ。汝の敵を愛せよ』です」

静子の言葉に聖書の一節が出てきた事に、フロイスは一瞬だけ表情を強ばらせる。
だがすぐに表情を緩めると、慈愛に満ちた笑みを浮かべて答えた。

「ならば問題ありません。お館様、わた……某は彼らの布教を認めるべき、と進言させて頂きます」

「その理由は」

「彼らが愛をもって布教をするのなら、某には反対する理由がございません。それに某は彼らと刃を交え、戦いたくはありません。某は彼らの友になりとうございます」

それっぽい事を言っているが、実は静子はあまり深く考えていない。
なんとなく思いついた言葉を並べて、なんとなく識者のような雰囲気が出るように頑張っているだけだ。

「南蛮人と友か。もっと積極的に説き伏せるかと思ったぞ」

その考えが信長に見透かされたのか、彼はニヤリと意地の悪い笑みを浮かべる。
疑問を口にしているようで、その実静子の宗教観を尋ねていた。だが静子はその辺りに気付かず、思ったままの言葉を口にする。

「僭越ながらお館様。某が彼らを説き伏せて、頭を下げる姿をご想像して下さい。その時の某はどのような顔をしていましたか?」

「……」

「そうです。彼らを見下すために説き伏せるのではないのです。某という存在を、そしてお館様の事を、これから知ってもらうために友となるのです」

静子の言葉に信長はニヤリと笑った。

「面白い」
【参考文献】
[*1]Column Latte
関西と関東、そばつゆの色が違うのはなぜ?出汁から学ぶ日本食文化 (1/2)
   参考URL:latte.la/column/26965537
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