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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

永禄十一年 上洛

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千五百六十八年 六月上旬

静子は野菜の作付け計画書を見直す事にした。
新しく入手した種や苗を考慮して、栽培の計画を練り直した方が良いと判断したからだ。
とは言え、四年サイクルの輪作を基本とするのは変更しない。変更するのは栽培する作物に留めておく。

しかしこれが一番厄介ではある。
作付け計画書は作物の土耕しから収穫までを計算に入れないと、収穫と後作の土耕しが重なる事故が良く起きる。
失敗すれば種まきの時期を逃す事もある。しかしこういったパズルのような組み合わせは、元来日本人の得意とする分野でもあった。
時期についても、カレンダーという共通の暦を使っているため、種植えの時期を誤るという事はなかった。
更に未だ伝来していない作物を除いて、現状栽培出来る作物の連作障害や、相性の良い、または相性の悪い作物の組み合わせの資料を作成し、百姓たちに配っていた。
つまり百姓たちは静子の陣頭指揮がなくとも、自分で作付け計画を練り直す事が出来るのだ。

なので静子は人が移住した事で出来た余った土地をどう分配するかについて、残った村人たちと話し合いはしたものの、彼らの作付け計画については相談を受ける程度に留めた。
流石に五十人が使っていた田畑を三十人で分配したので、かなり広い田畑を持つことになった。
分配された土地を整備すると、静子は畑を輪作用の畑を三つ、連作障害が起きにくい作物を育てる畑を一つの計四つに分けた。

まず連作障害が起こりにくい作物とされるカボチャ、サツマイモ、ニンジン、コマツナの四種類を栽培するエリア。これらは土地を回転させる事なく、毎年同じ手順で栽培する。
次に輪作プランAだ。これは大豆を育てるエリアなために最も広い畑を持つ。グループAに落花生、グループBにトウモロコシと大豆、グループCにサツマイモ、グループDは鶏卵だ。
輪作プランBはグループAの前作がトウモロコシ、後作が白菜。グループBの前作がナス、後作が大根。グループCの前作がトマト、後作がほうれん草。グループDは鶏卵だ。
最後の輪作プランCはグループAがスイカ、グループBがオクラ、グループCがじゃがいも、グループDは白花豆だ。

しかし綺麗に田畑を使い尽くすには至らず、幾つか猫の額程度に土地が余った。
放置するのも勿体無いので、静子は骨を丈夫にする栄養や免疫力を向上させる栄養が含まれているオカヒジキという作物を植えた。
これは虫が滅多に寄り付かないので農薬が不要、条件さえ揃えば栽培に手間がかからない、何度でも収穫が可能と小松菜のように手軽な作物だ。
石鹸の材料であるソーダ灰を作るためにオカヒジキが使われる事もあるが、現状で石鹸を作る事にメリットは薄い。
オリーブオイルが日用品として扱われる西洋と違って、日本は菜種やごま油などの植物性オイルは貴重品だ。
更にソーダ灰を作る為に大量の薪が消費され、副産物として生成される化学物質によって土壌汚染や大気汚染などの環境汚染も起きる。
それらのリスクを抱えて石鹸を作るぐらいなら、ムクロジを大量に植えて実の皮を入手する方が経済的でエコだ。

前作と後作を行う畑がある一方、単一品種のみを作付けする畑もあるが、これは土休めなどを行うためだ。
常に作物を育て続ければ土地が疲弊してしまう。そうならないように定期的に休耕地とし、大地の活力を取り戻させなくてはならない。

フレンチマリーゴールド、月桂樹ローリエはコンパニオンプランツの為、煉瓦用の土を流用した素焼きの四角い鉢に植えた。時期を見て、野菜が栽培されているエリアに置く予定だ。

果実は広い土地を用意したが、肝心の苗が一つや二つしかないため、広く整地された土地の一角にポツポツと苗が植えてある様は実に寒々しい。
本来は柿や栗も併せて栽培する予定だったが、柿や栗の木に作物の害虫が引き寄せられる事を考えると、畑の近くで栽培するのは問題があると考え植樹を断念した。

白花虫除菊、ひまわり、アロエベラも広大な土地を用意した。特に白花虫除菊に対して割り当てを多くした。
理由はスマートフォンで情報を整理していた時、白花虫除菊は蚊取線香の材料に使われている事を発見したからだ。
この時、静子は神に感謝し信仰心が芽生えかけた。もっとも、それは掲げていた手から、スマートフォンが滑り落ちて額に激突した時にゼロになったが。

蚊取り線香は製法が容易であるにも関わらず効果抜群だ。現代でも電化されていない地域では、蚊取り線香は蚊帳と合わせて医療関係者が重宝している。
アロエベラも「医者要らず」と言われるほど様々な効能を持つ。こちらも量産して損はない。
ひまわりも種は食品として見ると若干油分が多いが栄養豊富であり、また植物性油を種から採取出来る。
唯一、何のメリットもない金鯱だが、これは育てれば育てるほど大型化するので、観賞用と考えれば面白いのではないかと静子は思った。

米二種類は順調に成長を遂げていた。やはり病気に強くなるよう品種改良されていることが大きい反面、肥料を与える前提の品種でもあるため土壌管理が難しい。
近辺に今まで育てていた米の苗があるが、それとは比較にならないほど力強さが感じられる稲に見えた。
しかし病気に強い米でも、白米にしてしまえば栄養が失われてしまうので、そこをどうやって改善するかが問題だった。

忙しくも充実した日々を静子は送っていた。信長は約束通り、緊急の命令以外は出してこず、もっぱら静子の好きなようにさせていた。
気楽な生活が送れるのだが、それに反して静子の表情は硬い。それは静子の村を訪れる信長の家臣たちが纏う空気が、いつもと違う事に気付いたからだ。
美濃攻略とも違う、それでいて美濃攻略時より強い熱気を感じた静子は、近い将来何が起きるかを理解する。

(遂に上洛が始まるのね)

天下布武への第一歩、京へ上洛し畿内を手中に収める戦が始まる事を。






信長が上洛を実行する、その判断を下した根拠は直感だけではない。
まず静子が出す様々な上申ごとに対する信長の応答が鈍くなっていた。一度なら偶然だろうが三度も続けば必然だ。
また、週一間隔で文通をしていた忠勝の文が、隔週で届くようになった。綿花の共同栽培にも顔を出さず、代理人を立てる始末だ。
極めつけが信長から異例の物資買付だ。物品も多岐に亘り米や塩などの軍需品に含まれる食料や材木、炭、革などの日用品に至るまで、およそ軍事行動に必要とされる様々な物資がリストに上がっていた。
大々的に行われた買い取りを知れば誰でも分かる。信長が軍事行動を起こそうとしている事が。
この先、信長が上洛までどう行動するのか見えなかった。だが今の彼女はそちらに気を回す余裕がない。

「これ静子、はよう焼き上げるのじゃ」

信長や家臣が忙しくなっていくに比例して、織田家で一番フリーダムな濃姫、それに随伴しておねとまつがたびたび村を訪れるようになったのだ。
無論世間話をしに来たわけではなく、どうやって知ったか不明だが、濃姫は静子が竹串を用いた『串焼き』や『焼き鳥』などを試作していたことを把握しており、彼女たちにとっては珍しい料理を提供するよう要求していた。
ガスなど存在しない戦国時代、当然全ては炭火焼きになる。これが意外と労力を要する上に熱気がこもり体力を消耗する。

「お、お待たせしました。もも、ねぎま、軟骨、ハラミ、皮です」

汗みずくになりながらも焼き鳥を焼く静子。彩がいれば分業態勢も取れるのだが、その彩は森可成に呼び出されてこの場にはいない。
更には長可や慶次や才蔵も、それぞれ呼び出されていた。
馬廻衆や近侍の者だけ呼び出しを受け、何故本人だけ放置するのか若干納得がいかなかった静子である。
しかし叫んでも状況が変わるわけではない。焼き鳥や串焼きを焼くのが、今の彼女の役目だ。

「おお、待っておったぞ……んむ、旨い」

「この汁がなんとも美味じゃ。甘辛くて良いぞ、静子」

「男衆は毒味や何やらで冷えた飯しか食えぬからのぅ。こういう熱々の料理を食せるのは妾たちの特権じゃ」

熱々の焼き鳥を無心に頬張る三人。国人や武将たちは毒味などの関係で、たいていは冷えた飯しか食べられない。
対して正室、側室は毒殺される可能性が武将たちよりは低い。何しろ毒殺されても次の女を、という風になりやすいからだ。
なお正室が一人のみと厳密に規定されたのは江戸時代の武家諸法度以降だ。平安時代の公卿、秀吉の茶々(淀殿)や京極竜子(松の丸殿)など、彼女たちが同時代の資料では正室扱いされていた事が確認されている。
勿論、毒殺される可能性はゼロにはなり得ない。時として刃傷沙汰にも発展する跡目争いは、どの時代でも起こり得るのだから。

「ほほっ、毒の心配などしておらんぞ静子よ。仮に主が毒を盛ったとしても、それは妾に人を見る目がなかっただけじゃ」

「い、いえ、そんな毒を盛るような真似は」

「人の変節は世の常なれど、少なくともお主は根が馬鹿じゃから権謀術数の世界へと踏み入る事はないじゃろう」

「ば、馬鹿って」

酷い評価だなと静子は頬を膨らまして抗議をする。だが静子の反応に濃姫は満足そうに笑みを浮かべる。

「よく考えてみるのじゃ静子。お主は今までどれだけの米や大豆を殿に献上した? そして最近では硝石や塩を殿に献上したそうではないか。お主のこれまでの所産を顧みれば、こんな田舎の村長を続けている方が不思議じゃ」

「濃姫様の仰る通りじゃ。場合によっては織田の血を引く者の正室になり、一生安泰に過ごす事も可能であろう。じゃが、お主は村娘の格好で焼き鳥を焼いておる」

「左様。まぁその辺りを気にしないのが静子の魅力でもあるかのぅ」

手酷い評価を受けたと思ったら、今度は手放しに褒められた事に静子は背中がむず痒くなった。
どうにもこの手の、裏表なしの称賛は苦手な彼女である。

「や、私なんて他人の技術を広めているだけですし……ッ!」

両手をパタパタとさせて照れる静子は大した事では無いというように振る舞う。

「他人の技術を広める事の何が悪いのじゃ? 世に溢れている技術など、元を辿れば誰か一人が考えついたものじゃろう。それにも関わらず皆、拙者は何々流だ、某はこれこれ流だ、とまるで己がもののように語る」

「そ、それは自己の中で技術を昇華し、新しい道を……」

「ならば静子も同じであろう。お主がその技術を身につける為に、どれほどの研鑽を必要としたかは判らぬ。だがお主はその力を存分に発揮し、今まで殿のありとあらゆる命令をこなして成功を収めた。それは確かに静子の中に技術が根付いているからであろう?」

「うっ……」

静子は言葉に詰まる。彼女は今まで信長からの命令を忠実にこなしてきた。
しかし彼女はどれだけ大成功を収めても、所詮自分は数百年という長い年月の間、絶え間なく努力してきた人々の技術を盗んでいるだけ、という意識が強かった。
だから自分は褒められるべき人ではない。賛辞を受け取るなどもっての外、と考えていた。
だが濃姫は静子の葛藤など無意味と言いたげに切り捨てる。

「もしも、お主が他人の技術に頼り切りの状況が嫌と申すならば、何か一つ、何でも良いから自分だけのものを作ってみるが良い」

「自分だけの……もの」

「そうじゃ。お主が胸を張って言える、自分だけのものをな。だが覚えておくといい、静子。努力した者が全員報われるとは限らぬ。時にはその努力が水泡に帰する事もある。しかし史に名を残すような成功を収めた者たちは、みな『すべからく努力すべし』と考えて努力した結果じゃ」

「……」

濃姫は静かに箸を置く。静かな空間に、箸置きに箸を乗せる音のみが響いた。

「どのような道を歩むかは静子の自由じゃ。努力が無駄になるのが嫌、と諦めて今の環境を受け入れるもよし。努力して自身が胸を張って言えるものを掴むもよし。それを掴む前に夢半ばで倒れるもよし。全てお主が考え、悩み、選び、歩むのじゃ。あぁ、横から戯言を言う輩がいても無視してしまえ。己の歩む道への責任は、己以外には取れぬのじゃからな」

「は、はいっ! ありがとう、ございます!」

胸のもやもやが少しだけ晴れた気になった静子だった。これから先、何を選んで歩むか彼女自身は見えていない。
もしかしたら前途多難かもしれない。だけどそれを恐れて歩みを止めるのはやめよう、と静子は思った。

「ほほっ、懐かしいですね。濃姫様のご説法……妾が対象ではないのに心に染みます」

ふいにまつが昔を思い出すような顔でそう呟く。

「確か織田様に対しても、同じような事をしたと聞き及んでおります」

「何、大した事をしたわけではない。美濃の事でうじうじと悩んでおるから、頬を引っぱたいて気合を入れてやったまでじゃ」

(それはそれで……何というか凄いような?)

良く信長の怒りを買わなかったな、と静子は素直に感心した。

「その時は何と言われたのです?」

「悩むぐらいなら当たって砕けよ。まぁやる前から諦めて後悔するよりも、やれる手を全てやり尽くした後で後悔しろ、という事じゃ。簡単に言うと悩むのに刻を使うぐらいなら、美濃を制圧する策を考えるのに費やせ、じゃ」

「あの、濃姫様って斉藤家の方ですよね? 美濃を制圧してしまえ、とか色々と問題な気が……」

「父上は兄上に裏切られ討ち死にした。兄上は父上を裏切った割に、あっさり病に伏した。その時点で妾は美濃に対して想いを失うた。見た事のない兄上の子に情はわかぬし、話を聞けばかなり無能だったとの事。それなら殿に何も残さず滅ぼして貰った方が良いじゃろう?」

(容赦ねぇ……)

信長に対して『斉藤家の当主は無能だから滅ぼしてしまえ』と言い切ってしまう濃姫に心底驚嘆した。

戦国時代、攻守同盟を結んでも盟約が遵守される保証はない。
そこで関係強化に政略結婚が行われていた。これにより血族となる事で関係強化の担保とした。
だが政略結婚で嫁いでいった女性には、ある種公然の秘密とされる任務がある。
それは自分の家が利益を享受出来るように取り計らう事だ。
例を挙げると、信長が浅井長政の裏切りによって金ヶ崎で窮地に陥った時、いち早く浅井長政の裏切りを伝えたのがお市の方と言われている。
嫁ぎ先の浅井家から見ればけしからぬ裏切り行為だが、信長から見ればあっぱれな行為である。これもお市の方が夫の浅井長政より、自分の家である織田家を優先したからである。
この様な事があるため、夫が妻の嫁ぎ先と険悪な関係になると、妻は夫の許可無く行動出来なくなる等の制限を受ける。場合によっては実家に返される事となる。

濃姫の立場ならば、織田家の内情を探るスパイ行為、場合によっては信長の寝首をかく事が求められていただろう。
しかし彼女の言動は真逆で、斉藤家を綺麗さっぱり滅ぼしてしまう行動だ。斉藤家に未来がないからと言っても、肉親の情を切り捨て合理性のある行動が出来るのは、純粋に凄い事だと静子は思った。

「難しく考えておるな、静子。だがこれは何も難しい事ではない。国盗りなど二つに一つじゃ。美しき姫を手駒にするようにあやすか、それとも何も残らないほど綺麗に滅ぼし尽くすか。たまたま美濃攻略時に殿のとった行動が、綺麗に滅ぼし尽くす方だっただけじゃ」

彼女の言葉は斉藤家を滅ぼした信長への憎しみ、斉藤家が滅んだことへの悲しみ、そのどちらも感じられなかった。






静子の村で濃姫が暢気に焼き鳥を堪能している頃、信長は立政寺で足利義昭と会見をしていた。
この時、彼は義昭に銭一千貫、太刀、鎧、馬などを贈って手厚くもてなした。

「ほっほっほっ、織田弾正忠殿よ。そちの忠誠をわしは嬉しく思うぞ」

義昭は上機嫌だった。

実は信長が義昭を擁して上洛する事は、今回が初めてではない。過去に一度、永禄九年に信長上洛の計画が持ち上がった。
その時、北近江を支配する浅井とは同盟関係がなく敵か味方か不明、美濃を支配する斉藤とは戦争状態だった。
義昭はそれぞれに、講和もしくは同盟関係を結んで協力するべし、という内容の手紙を送った。
当然ながらどの国人も受け入れられる状況ではなかった。特に足利義栄を担ぐ三好三人衆が、六角氏へしきりに足利義昭を上洛させないよう圧力をかけていた。
もしも六角と浅井、もしくは六角と斉藤が結託すれば、それだけで信長は袋の鼠状態に陥る。一族の破滅が俎上に上がるとあらば、信長でなくとも逡巡しない者はいないだろう。

結局、戦略的にも戦術的にも大問題の状況では上洛など夢のまた夢、と信長は考えてこの話はお流れになった。
だが将軍家である足利家の命令には従うのが当然、という意識の義昭はこの事にいたく立腹した。
結局、織田家の老臣佐久間信盛は永禄九年八月二十八日付けで、大和の柳生宗厳に『近江の様子が不穏なので、信長の上洛は延期する』と申し送りしていた。
上洛を延期したその年、信長は木曽川を超えて美濃を攻め入ったが斉藤側にボロ負けしてしまった。
義昭が信長を『前代未聞の体たらく、まさに天下の笑い者なり』と嘲笑い、こき下ろしたのは言うまでもない。

「して、上洛はいつ頃を予定しておるのじゃ? わしを庇護していた朝倉家は口だけで、わしを何年も放置しおったからのぅ。わしもちと心配なのじゃよ」

「ご心配には及びません。三日後には京へ進軍を開始します」

浅ましい顔をして信長を見る義昭に、彼は平然とした態度で答える。

「みっ、三日ッ!?」

「ええ、三日です。ご安心下さい、京にいる三好連中を駆逐した後、将軍をお迎えする手はずになっております。それまでしばしの間こちらでお寛ぎ下さい」

それは予測や推測ではなく、確定した未来を語るような口調だった。
その事に頼もしさを覚えた義昭だが、彼と一緒に信長に会見している細川藤孝は内心驚愕していた。

(聞きしに勝る行動力。通常、上洛のような大きな軍事行動は年単位での準備を行う。それが僅か三日……この男、最初から上洛を計算に入れていたというのか)

細川は義昭と信長の顔を一瞥する。義昭は明らかに信長を見下している感があった。
当然だろう、彼の中で最大の希望の星は信長ではなく上杉謙信だからだ。元々、義昭は謙信に多く手紙を送っていた。
自分を擁して上洛するよう何度も働きかけ、また彼の敵対者には上杉と同盟を結ぶよう働きかけていた。
だが謙信には上洛のような大きな軍事行動を起こす余力はなく、ただ傍観するしかなかった。
それでも義昭は手紙を送り続けた。それは信長が義昭を擁して上洛すると決まった後も、謙信に対して手紙を送り続けた所から、どれだけ義昭が謙信に期待していたかが伺い知れる。

「本来なら六角義弼殿を説得し、京までの道を確保するのが筋でしょう。ですが、向こうは将軍家の使者の説得にも応じなかった為、強行突破を行う他ありません」

「うぬぬ、あやつめ! わしが侍所所司代の地位を約束してやったと言うのに!」

憤慨する義昭だが信長、そして細川は六角が応じるとは思っていなかった。何しろ彼は過去、三好三人衆と結託して義昭を亡き者にしようとした。
今さら義昭に許しを請える立場ではない。仮にそんな事をすれば、今度は三好三人衆から攻められるのは確実だ。

「構わん! あやつなど滅ぼしてしまえ!」

「ご安心下さい。公方様に歯向かう愚か者たちには、全て正義の鉄槌を下しましょう」

厳密には征夷大将軍(公方)ではない義昭だが、信長はあえて彼をそのように呼んだ。

「うむ! そちには期待しておるぞ!?」

神輿(義昭)は頭が軽いから。






「ふんふんふふ〜ん」

信長と義昭との会談の翌日、静子の元にも信長上洛の一報は届けられる。
それを聞いた静子は上機嫌だった。その理由は簡単だ。

(ふっふっふ、古来より武士は験を担ぐ者。例に漏れず勝蔵君も慶次さんも才蔵さんも、皆いなくなったね)

戦国時代、女性は穢れという考えが常識だった。百姓たちは別だが、殆どの武家の人間はそう思っていた。
故に出陣三日前から女と性行為は禁止、魚や肉を食べるのも禁止。また妊娠中の女が軍衣に触るのも禁止だった。
数日後に出陣を控えているのに平気で静子を呼んだり、慶次のように気にも留めなかったり、才蔵のように命令を忠実にこなす人物は稀だ。
そんな彼らでも上洛という、一生に一度あるかないかのイベントには、流石に験を担ぎたくなったのだろう。

(つまり! これから暫く、私は誰にも邪魔されず農作業が出来る! 勝蔵君も角力大会の恩賞か知らないけど、上洛についていけるようだしー。あー、誰にも邪魔されず畑を耕せるのって素敵ー!)

一度出陣すれば一ヶ月近く音信不通になるのは当たり前、呼び寄せようにも本来静子の警護に当たる五百名の兵士は上洛の影響を受け未だ配備されない。
今は六月だから最低でも七月の中旬までは放置される事間違いなし。上洛後もあれこれ忙しいだろうから、そこを考えれば九月ぐらいまでは平和だと静子は思った。

「カイザー、ケーニッヒ、そこの道具取ってー」

ここ数ヶ月余り相手をしてあげられなかったカイザーたちに静子は命令を飛ばす。待ってましたと言わんばかりに、カイザーとケーニッヒは道具を咥えて静子の元へ駆け寄る。

「おー、よしよし。えらいえらい」

道具を届けた二匹の頭を静子は撫で撫でする。畑なので控えめに尻尾をふりふりする二匹。
と言っても二匹だけ贔屓にせず、それぞれに命令を出しては頭を撫で撫でしていた静子だった。

「ルッツ、この縄を咥えてて……そうそう……よし。もういいよー。あ、リッターとアーデルハイト、木桶をこっちに持ってきて。バルティは……ヴィットマンとじゃれているの……ね」

何やかんやで手足のように動いてくれるヴィットマンたちは、畑仕事にとって頼もしい相棒だ。
普段でも頼もしいのだが、こと畑仕事なら右腕と言っても過言ではない。ただし田んぼでの作業の際は立ち入りを禁じていた。
一度、止めたのにカイザーが田んぼへ入ってきて、泥に足を取られて動けなくなった事件があったからだ。それ以来、畑仕事は手伝って貰っているが、田んぼの時は近くで待機してもらっていた。

「うーん、今日はこのぐらいでいいかなー。霧吹き器の試作品が出来そうって話だけど、後で様子見に行くかな」

霧吹きの動作原理は単純だ。
ストローを2本用意し、区別し易いように片方を黒く塗る。
液体をビーカーなどの容器に入れ、そこに無塗装のストローを縦にして立てる。
次に黒い方のストローで無塗装のストローの頭部分に横から息を吹き込む。
この時、呼気の噴出口が立てたストローの頭部分にある程度遮られるようにすると、ストロー本体に当たった呼気が遮られ気流の剥離が発生する。
これにより立てたストロー頭部分付近の圧力が下がり、ビーカーの中の液体を吸い上げる現象が発生する。
ストローなどはなかったので代用品を用いて実験し、霧吹きの原理を職人たちに伝えた。

(ま、流石にそれを見せた後で、これを行える道具が必要だから作る事、は御無体だったかな……?)

しかし完成すれば木酢液や竹酢液を葉っぱに振りかける事が楽になる。何としても形になって欲しいと思っていたが、思いの外あっさりものに出来たようだ。
ちょっと職人を侮っていたと静子は反省し、旋盤が完成したら彼らに対してお祝いをする予定だ。

「あ、そう言えばにんにくや唐辛子の種はまだかな。唐辛子はともかく、にんにくは既に栽培されていたはずなんだけどなぁ」

霧吹き器が欲しいのは竹酢液などを吹き付ける為だが、もう一つが食材などを使った自然農薬を吹き付ける為だ。
良く無農薬は体に良いと言う人がいるが、それは大きな勘違いだ。摩り下ろしたニンニクの汁を使ったものでも農薬だ。
木酢液や竹酢液、米酢やネギ液なども農薬となりうる。体に良いともてはやされるどくだみも、小麦粉と米糠と練り合わせれば、防虫効果の高いどくだみ団子と言う農薬として用いられる。
農薬は外部からだけではない。作物や果実にはカビや病虫害の被害から自身を守るため、人間の免疫に該当する物質が含まれている。
いわゆる「生体防御たんぱく質 ( 感染特異的たんぱく質 ) 」と呼ばれる物質だ。それが原因で稀にアレルギー症状を引き起こす事は、かなり昔から知られている。
そしてこの生体防御たんぱく質は、病気や害虫の被害に遭うたびに増えていく。逆に農薬を使って病気や害虫の被害を防ぐほど、この生体防御たんぱく質は少ないとの研究結果が出ている。
だから安易に農薬は危険と考えるのではなく、人に毒性を示す農薬が使われていないかを気にする方が良い。

農作物の安定供給を考える上で、農薬という薬剤は必須だ。
ただし化学物質で作られた化学農薬と呼ばれるものは手に入らない。その為、作物の持つ能力を利用して作る自然農薬というものを作る事にした。

(自然農薬の中で足りないものがある。最も使っていた自然農薬は木酢液・酢・焼酎を混ぜればいいけど、肝心の焼酎がない。これに唐辛子とにんにくを混ぜて強化する必要もある。うーん、蒸留器が完成したとはいえ、焼酎が出来るのは来年だし……唐辛子は種が手に入るか怪しいし、にんにくも微妙かなぁ……)

焼酎に浸した唐辛子液、にんにく液、草木灰、そして木酢液・米酢・焼酎・にんにく・唐辛子を混ぜて漬け込んだものなどがある。
手軽で高い効果が期待できるのが草木灰だ。これを葉面に散布する事で病害虫全般に対する予防効果が期待できる。
農作物の病害として有名なウドンコ病、モザイク病、腐敗病に対しては特に高い効果を発揮する。
既にアブラムシやカタツムリに食害されている作物に対しても直接散布することで害虫を撃退することができるほか、葉面に付いた草木灰は表面の水分と結合しアルカリ性の膜を形成する。
これにより葉がしまり病原菌や害虫が寄り付きにくくなる。水に溶ければアルカリ性を呈するが、雨などによって根元に流れても土壌表面の酸性を中和し植物が吸収しやすいカリウム分の栄養となる。
とはいってもこれらはあくまで『農薬がない』状態と比べて効果があるだけで、決して過信してはならない。
効果があれば嬉しいな、程度に留めておくべきである。

「とりあえず草木灰を生産し、畑全体に撒かないとね。今、一番入手が楽で効果が高い物がそれぐらいだし」

材料でも集めておくか、と考えた所で向こうから誰かが近づいてくるのが目に入った。
米の事もあって村人たちと田畑のエリアが違うので、静子に用がある人物しかこちらには来ることは無い。
そう思ってもう一度その人物を見る。

「何だ、彩ちゃんか」

いつもクールフェイスの彩がこちらに向かっていた。

「やっほー、彩ちゃん。仕事は終わったのかな?」

「はい、全て滞り無く終わりました」

相変わらず表情が崩れない子だなと静子は思った。そして笑えば可愛いのに、とも思った。
そのせいか静子は彩をニヤニヤと気持ち悪い笑みをして見ていた。彩が若干後ろに下がったのは秘密である。

「お疲れ様。さてさて……これで暫くはまったり出来るかな」

「残念ですが、そうも参りません。静子様宛に甲冑が届いております」

「………………………………………………は? ごめん、私の聞き間違いかな。私宛に甲冑が届くって、そんな馬鹿な」

手をパタパタと振りながら彩の言葉を否定する。しかしそんな静子に、彩はいつものクールフェイスで地獄に叩き落す言葉を口にした。

「……残念ながら夢でも幻でもなく現実です」

「Hi! ちょっと待とう。Why? 甲冑? 一体何のために私宛に届くかな。そこんとこ詳しく!」

あまりの事に錯乱して変な口調で語る静子だが、彼女が慌てれば慌てるほど冷静になる彩だった。
彩自身も不思議に思っていた。何しろ信長は今まで一度として、静子を戦場に連れて行っていない。
人手不足で鉄砲隊や長槍部隊に女が入る事もあったが、今回の上洛は兵士の数が織田軍だけでおよそ四万。
同盟の徳川や浅井を合せて総勢七万の軍勢になると言われている。つまり兵士が足りないから女を連れて行く、という条件には当てはまらない。

「その件について私は詳しく存じません。お館様の文を預かっておりますので、そちらに書かれているかと思われます」

「……何かすごく嫌な予感がするんだけど」

信長の文に良い思い出がない静子は顔を曇らせる。しかし中身を確認しない事には、信長が何故自分に甲冑を送ったかが分からない。
彩から文を受け取り、それに視線を落とす。必要ない所は読み飛ばし、該当する所だけじっくり読んだ。

「……うん、やっぱりろくでも無い事だった」

手紙の内容は端的にいうと『女が軍勢にいると宜しくない、という験担ぎなどぶち壊す』だ。

戦国時代、女性が戦場へ出向くのは稀だ。女性は家を守るために、という意識が強かった為である。
しかし完全に切り離され、女は戦に全く関与しないという訳でもない。
籠城戦で飯を炊くのは女の仕事だし、城主を逃す時の時間稼ぎに参加する事もあった。
女は弱いという意識は江戸時代以降の事で、逆に戦国時代の女は逞しかった。
本多忠勝の書き残した書にはこんな内容の文がある。

『俺が若い頃の戦は、人手不足で女も戦場に狩り出されていたな。男の中には血の臭いをかぐだけでぶっ倒れる奴もいるのに、女は血に慣れているのか平然としていた。そして度胸も据わっていた。攻めこまれた時、いの一番に突撃したのは女だったな。ほんと女は逞しいよ』

しかし秀吉が戦場に正室・側室を連れてきてもOK、という許可を出すまで戦場に女を連れてくるのは基本的にNGだった。
その理由が『縁起が悪い』だからだ。つまり信長にとって意味のない験担ぎだから、そのような事はないと証明する為に静子を連れて行くのだろう。

(巻き込まれる方はたまったものじゃないけどね……)

彩は文と言ったが、静子宛に出された文の最後に『天下布武』の朱印があった。
つまり朱印が押された公的文書『朱印状』だ。企業になぞらえるなら辞令に当たる。

「……まぁ……分かったよ。所で甲冑が届いたという事は、もうすぐ戦に行くんだよね? 一体いつなの?」

静子の問いに彩は申し訳無さそうな顔でこう言った。

「明後日です」
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