千五百六十七年 四月上旬
とうもろこしの部分で大きな勘違いをしていました。
それを沢山植えるだけで地下水が枯渇する事はなく。
・とうもろこしが成長する時期は暑い時期と重なり、畑の水が蒸発しやすい。
よって農業用水の量が他より沢山いる。
・他の作物より土壌の水分を多く吸収する。
そんな作物を年間雨量が少ない乾燥地域で栽培し、農業用水を地下水で補おうと際限なく吸い上げれば、地下水が補充されず減る一方との事でした。
そんな地域で農業をする理由は、乾燥地帯には強力な日光、二酸化炭素があるから、水さえあればという条件付の農業適地だからです。
後は単純にとうもろこしの方が収量単価が高いのが理由でした。
調べているようで、大きな勘違いをしていました。
とうもろこし栽培について、不安や誤解を招く描写をしてしまい、本当に申し訳ありませんでした。
一瞬、辺りに緊張が走ったが、それはすぐに霧散した。
侵入者が脇差を遠くへ放り投げ、手早く武装解除すると恭順の意思を示した。
それを見て周りを囲んでいた兵士たちは少しだけ肩の力を抜く。
しかし油断は出来ないと考え直し、警戒しつつ侵入者に詰め寄った。
彼は抵抗の意思を示さず、素直に両手を後ろ手に縛られた。
立て掛けられたままの槍と地に落ちた刀は回収され、丹羽の元へと集められる。
「あ、その槍ちょっと見せてくれませんか?」
どうしても槍の方が気になった静子は、槍を持っている兵士にそう声をかける。
兵士は目線で丹羽を伺うと、丹羽は言う通りにせよとばかりに頷いた。兵士は槍の中程を掴み、穂先を返し石突の方から彼女に槍を差し出した。
槍を受け取ると静子は穂先をじっくり見る。そこでようやく理解した。
この槍を何処かで見た事があるという感覚が、単なる気のせいではない事が。
「彫られているのは梵字と三鈷剣。これ三河文珠派、藤原正真の作だね。多分、蜻蛉切って名前だと思うけど……」
瞬間、今まで大人しくしていた侵入者が、ものすごい勢いで首を静子の方へ向けた。
「な、何故その名を!?」
目を見開いて驚愕を露わにしている彼を見て、丹羽が横から口を開く。
「静子殿。もしや、この者の素性をご存知なのですか?」
「うーん、蜻蛉切を使っている槍使いとなると……おそらく三河国の国人、徳川家家臣の本多平八郎殿じゃないかなー」
若干自信なさげながらも、静子は丹羽の質問にそう答えた。
三河国、後の江戸幕府初代将軍である徳川家康が治める国だ。そして信長は永禄五年に家康と清洲同盟を成立させている。
清洲同盟がある以上、幾ら盗人でも徳川家家臣となればそう簡単に処断するわけにはいかなかった。
「某はどの様に処罰されようとも構わぬ。何卒、何卒我が殿にまで咎が及ばぬよう某のみの咎として留め置き願いたい」
正規の手続きをせずに織田領土の中でも秘匿された場所に入り込んでしまった事を知った忠勝だが、本人は特に慌てる様子も、ましてや取り乱す様子もない。
ただ主人である徳川家にまで責任問題に発展させないで欲しい。その為なら自分の首程度、喜んで差し出すとまで言う始末。
それを聞いて、これが死の直前、否、死してなお家康に忠義を尽くそうとした本多忠勝か、と静子は思った。
彼のしでかした事は例え同盟国の間柄とは言え、無罪放免とするには大きすぎた。領土侵犯はもちろん、椎茸の人工栽培という当時であれば秘中の秘に当たる情報を目撃してしまったのだ。
その事を忠勝が正確に理解している訳ではないが、場の空気から自らが取り返しのつかない失態を犯したことを感じ取ったのだろう。大柄な体を小さくして悄然としていた。
「(どうしましょう……)」
静子は隣を歩いている丹羽に小声で話しかける。
話を大きくする気はさらさらない彼女としては、出来れば穏便に片付けたいと思っていた。
「(うーむ、どうするも……お館様の判断を仰ぐしかない)」
丹羽の方も、話を大きくして国家間の外交問題にしたくはなかった。
結局、信長がどのような判断を下すかで本多忠勝の処遇が決まる訳だ。
故に忠勝の扱いを信長に尋ねるべく、丹羽は早馬を出す。その間、忠勝は兵士駐屯所の一室に軟禁する事にした。
「相分かった」
暫く身柄を拘束する旨を説明すると、忠勝はただその一言を口にしただけだった。
豪胆なのか開き直りなのか、いまいち判断がつかなかった丹羽だが、ともかく大人しくしてくれるなら話は早いと思った。
そして忠勝を牢へと移送しようとしたその時、地響きのような獣の唸り声のような名状しがたい音が鳴り響いた。
腹の虫を盛大に鳴らした本人は目線を下に向け小刻みに震えていた。よく見ると耳まで真っ赤に染まり恥じ入っている様子が見て取れた。
それを見て静子と丹羽は互いに顔を見合わせると破顔した。ここまで豪快に腹を鳴らされては緊張感を保つなど不可能であった。
「……あ、そうだ丹羽様! 私、新しいお握りを考えたんです。ちょっと感想を聞かせて頂けないでしょうか」
「う、む。そ、そうか。ならば頂こうではないか」
忠勝に恥をかかせないよう一計を講じた静子は、さも今思いついたと言いたげに両手をポンと打ち合わせた。
丹羽の方は若干ぎこちない感じはしたものの、静子の話に乗った。
二人は少し引きつった顔で互いを見た後、揃って忠勝の方へ顔を向ける。
「ほ、本多様もご一緒に如何ですか?」
「そうですな。夕餉にはまだかなり時間がありますし、ここは一つ小腹を満たすのも一興」
「うむ……かたじけない。実は山に迷い手持ちの食糧も尽き、丸一日ほど水以外口にしておりませなんだ。お二人のご厚情承りとう存じます」
忠勝は居住まいを正すと二人の話に乗る。
かなり強引だったが三者の思惑が一致し、この場でお握り堪能会を開く事になった。
(ふぅ……無理やりだけど何とかなった)
心の中で安堵しつつ静子はショルダーバッグからお握りを取り出す。
ちょうど都合よく三個あった。笹の葉で包まれた大振りなお握りを丹羽と忠勝に一つずつ渡す。
「本来なら箸をご用意する所ですが、握り飯という事で一つ、手で掴んで召し上がってください」
「陣中食のようなものか。どれ……」
三人はめいめいに囲炉裏端に腰を下ろすと、丹羽は笹の葉を解く。中にあったのは玄米と雑穀米のさつまいもご飯で作った握り飯、それからいぶり漬けが数切れ入っていた。
「静子殿、これは一体?」
漬物のようで少し違ういぶり漬けを指さしながら丹羽が尋ねる。
流石によく分からないものを口に入れるのは憚られた彼だが、忠勝の方は違った。
「……旨い。握り飯などとうに食い飽きたと思っていたが、黄色いものに程よい甘みがあって飽きぬ味となっている。こちらの漬物のようなものは素晴らしい。どこか懐かしい、故郷を思い起こさせる味だ。何とも心に染みる」
彼は握り飯を掴むと一口食べ、続いていぶり漬けを一切れ口の中に入れた。
無警戒にこちらの差し出した食物を口にする態度に流石の丹羽も驚きを隠せなかった。そんな彼の視線に気付いたのか、口の中のものを飲み込んだ後、忠勝はこう言った。
「某の顔に何かついておりますかな?」
「いえ、毒を疑われないのかと思いまして」
「貴殿らが某を毒殺するような姑息な輩には到底思えぬし、殺すつもりなら機会などいくらでもありましょう?」
「そ、そうですが……」
男臭い笑みを浮かべたまま、忠勝は握り飯を食べる。
すっかり毒気が抜けた丹羽は、彼に続くような形で握り飯といぶり漬けを口にした。
その後、忠勝は牢ではなく空き部屋に歩哨を立てる形で拘禁され、翌日別の場所へ移される事となった。
忠勝を取り囲むような配置で、護衛兼監視役の兵士たちが三〇名と丹羽が付き添う事になった。
しかし忠勝は特に慌てる様子もなく、大事そうにいぶり漬けが入った包みを抱えて馬に乗っていた。
何故彼がそんなものを抱えているかというと、いぶり漬けをいたく気に入り味の虜になった忠勝は、出立の直前に静子へ幾つか分けて貰えないかと持ちかけた。特に秘密でもない上に燻煙されており、痛む心配も少ない食べ物であるため彼女はこれを二つ返事で了承して現在に至る。
結構な量が入った布の包みを彼に渡したところ、忠勝は静子の手を両手で握って感謝の言葉を述べる。
なお、忠勝が他人に両手を預ける事は、彼なりの『貴方を信頼しています』という意味を持つ。
だが分かりづらい上に、たいてい忠勝はテンションが高いので相手に伝わる事はない。
「……桜の木か」
ふと横を見た忠勝の目に桜の木がうつった。
もう大半は散っている桜の木を見た彼は、ふと心の中にある言葉が浮かんだ。
忠勝はそれを素直に口にした。
「春風が 桜の花を 散らせども 輝き咲くは 我が心の花」
「は?」
「あ、いや、何でもない」
隣にいる丹羽が怪訝な顔をしている事に気付いた忠勝は、少しだけ顔を赤らめながら咳払いをする。
どうしてそのような言葉が口をついたのか、彼自身もよく分かっていなかった。
「後、一刻ほどで到着です」
「相分かった」
特に気にするでもなく丹羽は話題を変える。
これ幸いと忠勝は表情を引き締める。しかしすぐに小さくため息を吐いた。
「そこでお館様からの返答を待ちます。流石にどの様な判断が下るかは分かりかねますが……」
「(……出来ればあの場所にいた事を、これ以上追及はされたくないな)相分かった。出来れば殿には咎が及ばぬようにご配慮頂ければ有難い」
それにしても、と口の中で言葉を呟くと、忠勝は続きを心の中で呟いた。
(馬に逃げられた挙句、あの場所に迷い込んだなど恥以外の何ものでもない)
四月頭、代一たちに田畑の作業管理を任せた静子は、昨年大豆を植えた畑にきていた。
彼女は井戸を掘る道具で、大豆ととうもろこしを植えていた場所の土をそれぞれ取り出す。
取り出された土を地層のように並べる。
「……参ったなぁ。この問題を忘れていた」
一見、彼女の前に並んでいる土に大した差は見受けられない。
しかしよく見れば一部分のみ土が酷く乾燥していた。それは地上から大体1.5メートル近くの土中から採取した土だ。
地表面は申し分ない水分が含まれている土なのに、一定の深さにある土中は水分が枯渇している。
周りから見れば不思議な現象だが、静子はこの原因を知っている。
「コンパニオンプランツとして大豆と共に育てているとうもろこしは、土中の水分をかなり吸い尽くす事を忘れていたよ……」
原因は大豆用に並べて育てているとうもろこしだ。
とうもろこしは水分含有量が実の重量に対して四分の三ほどもある作物な為、他の穀物より多くの農業用水を必要とする。
同一面積で比較すると、とうもろこしは小麦の三倍もの農業用水が必要になる。
必然的に土壌に含まれる水分も、他の作物より多く吸収されてしまう。
地表面辺りは水を与えて常に水分含有量を保つ事が出来るが、とうもろこしの根は230cmほども伸びると言われている。
これは大豆や小麦と比べて二倍近く、じゃがいもやイネと比べると三倍近く長い。
更に時期的な問題も発生する。
とうもろこしが一番成長する時期は、畑の水分蒸発が激しい暑い時期と重なる。
故に本来なら年間を通して雨量の多くなる梅雨や夏季の夕立による水分が、地下水の層まで達する前に吸収されてしまい徐々に地下水が減っていくという負の連鎖に陥ることになる。
「うーん……掘り返すのも重労働だね」
農業用水の計算を間違えた事、降雨量が少なかった事により発生した土壌の水分不足だが、幸いにも畑の規模が小さかった為に被害は軽微だ。
だがこのまま大豆の生産高拡大と共にとうもろこしが広まれば、いつかは川水だけでは足りなくなり、地下水を使用する事になる。
そうなれば急激に吸い上げられた地下水によって地盤沈下が起こる。
最終的には地下水を枯渇させてしまい、土壌水分不足が悪化して土壌が乾燥、いわゆる干ばつを経て砂漠化を引き起こしてしまうだろう。
現代ではとうもろこしといえばアメリカ合衆国が有名だが、彼の国は地表面に水を撒くだけの方法を二〇〇年間続けた。
水源はもちろん地下水だ。
アメリカ合衆国には地下水源が幾つかあり、場所によっては蓄えられている水の量が四兆トン(琵琶湖の水、百五十杯に相当)という規模の地下水源もある。
莫大な貯水量ではあるが、広大な農地を潤すためにそこから際限なく吸い上げ続ければどうなるか。
結果、地下水が枯渇状態になってしまった。アメリカ中西部では、日本の面積ほどもある巨大地下水源がなくなろうとしている。
これらを元に戻すには五〇〇〇年は必要、という研究報告がなされている。
とうもろこしによる土壌の水分不足、及び地下水の大量使用を回避するには土地休めをすればいいだけだが、そうなると大豆の生産も止める事となる。
もしも大豆が静子の予想通りの生産高になれば、信長は確実に生産高の維持を求めてくる。
だが続ければ、豊かな土地の尾張を破壊してしまう。下手をすれば数十年の内に、尾張は不毛の地へとなってしまうだろう。
「病害虫の対策……方法はあるけど、今度は米栽培が疎かになりそう」
大豆は化学肥料による増収効果は高くないため、生産高は地力と根に共生する根粒菌の働きに依存している。
その為、大豆を有機栽培する時の技術的問題点は病害虫の多発か雑草繁茂である。
特に病害虫が蔓延すると大豆が大きく減収する。この問題をクリアするためのとうもろこしだが、今度はとうもろこしによる地下水の枯渇が問題となった訳だ。
大豆の主要害虫はカメムシ類と蝶蛾類だ。どちらも雑草が繁茂する畦畔等の日陰を主な住処として生息する。
そして初夏から初秋にかけて、主に登熟する大豆の莢や子実に加害する。
つまり害虫を防ぐには、大豆の作付け前に圃場周辺の雑草を残らず刈り取るか焼くかする必要がある。
それによって越冬虫の個体を減らす事が可能だ。故に根こそぎ刈り取る必要がある。
「……うん、そうだね。今年は方法を変えよう」
もう一つの問題、雑草については比較的簡単だ。大豆は中耕・培土を主体とした雑草対策が有効だ。
大豆を育成する前に、雑草の発芽抑制措置を徹底するのと、中耕・培土を行うだけでもかなり違う。
とうもろこしによる地下水の枯渇対策は派手な技術に頼らず、もっと基本的な、それでいて堅実性のある技術を導入する事にした。
内容は至極簡単だ。とうもろこし畑に竹で作った樋を設置する。
無論、ただの樋ではなく、ところどころに小さな穴が開けられている。
それに水を流すと開けておいた小さな穴から少量ずつ水が漏れ、地表を常に軽く濡らせられる。
これを行う事で水の使用量が七〇%カット出来、かつ根を張る栄養を成長に回すことが出来るのだ。
しかし、やはり一番は雑草対策だ。これを行うのと行わないでは収穫に雲泥の差が生まれる。
「つまり……焼き討ちだー!」
そんな意味不明な事を言いながら、静子は勢い良く後ろへ振り返る。
「……」
目と鼻の先に彩がいる事も知らずに。