挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

永禄九年 尾張国ノ農業改革

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

24/134

千五百六十六年 十二月上旬

声に反応して静子が後ろを振り返ると、そこには一〇歳前後の男の子がいた。
整った身なりをしているが、それは本人の意思というより他人が整えた感じが強い。

「何だ? 俺の顔に何かついてるのか?」

城にいる事から静子は彼を武将の息子の一人と考えた。
そして腰に刀を下げていない所を見るに、確実に一二歳以下だと判断した。

江戸時代、刀は武士の魂という考えだったが、それ以前の時代は大人の証という考えだった。
百姓でも元服すれば脇差を腰に携え、名前を変え、大人の髪型に変えたりしていた。
つまり腰に刀がない男の子は、まだ元服の儀式を終えていない子どもという事になる。
事情により元服を早める事はあるが、基本的に一二歳から一六歳の間、遅くても二〇歳までには済ます。
だから静子は彼を一二歳以下と見たわけだ。

「いえ、別に」

「そうか。所で貴様、地面に何を書いておるのじゃ? さっきから見ていたが、奇天烈な形ばかり書いておるようにしか見えん」

「あぁ……単に計算式を書いていただけですよ。えっと……南蛮風の」

「なんとっ! 南蛮ではそのような形で算術を行うのか。うーむ……見れば見るほど奇妙な形をしておる」

静子の言葉に驚いた少年は、彼女を押しのけて計算式の前に腰を下ろす。
随分と強引な子だなと思いつつも、立場的には弱い静子はちょっとだけ後ろに下がる。

少年は暫く地面に書かれている計算式に感心したり、驚いたり、納得したように頷いたりしていた。
恐らく殆どの意味は分かっていないが、物珍しいものに好奇心いっぱいなのだろう。
見ていて思わず微笑ましくなった静子は、知らず知らずの内に小さな笑みを浮かべていた。

「南蛮とはこの様な形で算術を行うのか。ううむ……女、他に何かないのか」

「は? はぁ……一応ありますけど……?」

「何でも良い。そうだな、戦に関係するものならなお良い。父上に自慢出来るしな!」

そう言われて静子は少しだけ悩んだ。戦に関わるような事など、パッと思いつかなかったからだ。
しかし一個だけ、少年の願いに該当するものがあった。

「……南蛮ではありませんが、中国……明には古来より伝わるとある兵法書があります」

「兵法書?」

静子は頷きながら言葉を口にする。文化や時代を超えた普遍的な戦略が書かれた兵法書の名を。

「その書物の名は『孫子の兵法』と言います」






孫子の兵法書。中国春秋時代の思想家孫武の作とされる兵法書である。
作られてから数千年経っているが、今もなお戦略に関しては最良の書と言われている。
もちろん西洋にも似たような書物はある。
カール・フォン・クラウゼヴィッツの『戦争論』、アントワーヌ・アンリ・ジョミニの『戦争概論』などだ。
時代は更に進むが、クラウゼヴィッツの『戦争論』と並び称される二十世紀の戦争学・戦略学の名著ベイジル・ヘンリー・リデルハートの『戦略論』もある。

「明には優れた兵法書が合計で七つあり、総称して武経七書ぶけいしちしょと言われます。その中で最も有名な兵法書でございます」

「ほほぅ」

「『孫子(そんし)』、『呉子(ごし)』、『尉繚子(うつりょうし)』、『六韜(りくとう)』、『三略(さんりゃく)』、『司馬法(しばほう)』、『李衛公問対(りえいこうもんたい)』。それらは各々―――」

「そんな事はどうでもよい。はよぅ『孫子』とやらについて教えろ」

「(チッ、誤魔化せなかったか……)では、孫氏についてですが、有名なお言葉をあげさせて頂きます」

そう言う静子だが実はそこまで詳しい訳ではない。
元々、姉が欲しいので買っておいてくれと頼まれたものを読んだ程度である。電子書籍としてスマートフォンの中に全て入ってるが、進んで読む事はまずなかった。

「(人生、何が役に立つか分からないねぇ)……『彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず』、『兵站こそ生命線』、『戦わずして勝つ事こそ最善の策なり』ですね」

「む、むむ……中々難しい、いや、中々良い言葉だな!」

少年は微妙に引きつった笑みを浮かべながら頷く。
どう見ても理解していない顔だが、実は静子もそこまで理解してないので、そのまま終わりにしたかった。
だが彼女の願いは脆くも崩れる。

「で、どの様な意味なのだ?」

「……『彼れを知りて己を知れば、百戦して殆うからず』。相手の実状を知り、自己の実情も知っていれば、百たび戦っても危険な状態にならないという意味です」

記憶の底から『孫子の兵法』の解説書の文章を思い出す。
歴史に登場する人物に影響を与えた、という事で兵法書を読んだ程度の静子なので、あまり過度の突っ込みはして欲しくなかった。
だから少年が考えて疑問を口にする前に、次の説明を口にする。

「『戦わずして勝つ事こそ最善の策なり』。百回戦争をして百回勝利を収めるのは最善の策ではない。戦わずして敵の戦意を挫くことこそ最善の策である」

「意味が良くわからん」

「要は自分の兵を丸ごと残したまま、相手の国を取る事こそ一番良いって意味です。自分に四万兵士がいて、相手には三万。これを消耗して国を取るより、自国の兵士が四万そのまま残って、相手の国を取る方が今後もよいでしょう? って意味です」

そう言いながら静子は地面に漢数字を書いていく。

「例ですが、戦わずして勝利し、相手の軍隊を丸ごと取り込めたとすれば兵士の数は七万人。戦をして互いに半分になった上で勝利したら兵士の数は三万五千人。武功などの面もありますが、無用な戦を避けた上に兵士が増えた方がよくありませんか?」

「ぬぅ……た、確かにそうだが……」

「もちろん戦うべき所というのはあります。ですからそれまでに兵力をなるべく温存し、ここ一番という所で全軍を投入した方が結果的に損害は少なくなります。そこで最後の言葉、『兵站こそ生命線』が関係してきます」

大雑把な地図を地面に書きながら静子は説明を続ける。

「自国には兵糧が五万人分あるとします、そして敵国には四万人。もしも自国から兵糧を運ぼうとすると莫大な費用がかかります。ならば現地で兵糧を賄う方が手軽ではありませんか? だから将は出来るだけ敵地で食糧を調達するよう努めろって意味です」

「……む、むむ……南蛮や明は戦にそこまで考えを巡らせているのか」

ようやく頭の理解が追いついた少年は、とても感心したような顔で頷く。
彼にとっては馴染みがない考えだが、少年である事が幸いしてそこまで拒絶反応を見せなかった。
後は少年が武将ではなかったため、静子の言葉も多少は聞き入れたのかもしれない。

「中々興味深い話だった。そろそろ戻らねばならぬゆえ、これ以上尋ねる事が出来ないのが悔やまれる」

「そうでございますか。では、続きは又の機会という事でお願いします」

心の中では次がない事を祈る静子だが、それをはっきり言うわけにはいかなかった。
何しろ相手は誰か分からないけど武将の息子なのだから、下手に怒らせてしまうのは得策ではない。
本音と建前を使い分けて、無難な言葉を口にする方が楽なのだ。

「おう! 所でお主の名前は何と申すのじゃ?」

「……静子、でございます。あの、よろしければお名――――」

「静子か、覚えたぞ。では、次の機会が早く来る事を願う。さらばだ!」

少年の名前を尋ねようとした静子だが、その前に少年はそのままどこかへ走り去っていった。
現れた時と同様、去る時も唐突であり瞬く間に視界から消え去った。

「……帰るか」

所在なさ気に空を掴んだ手を下ろした後、静子はポツリとそう呟いた。

一方、少年の方は上機嫌で鼻歌を歌っていた。
そのままスキップすらしそうな勢いの彼に、とある人物がこう声をかけた。

「なんじゃ奇妙丸、随分と楽しそうじゃな」






十二月中旬、厳しい寒さが身に染みる頃、静子の家にようやくある設備が完成した。

「じゃーん、囲炉裏でーす」

「楽しそうですね、静子様」

それは囲炉裏である。屋内に恒久的に設けられる炉の一種で、主に暖房・調理目的に用いる設備だ。
古くは比多岐ひたき地火炉じかろとも呼ばれた、伝統的な日本の家屋には必ずついているものである。
囲炉裏には暖房、調理、照明、衣類や生木などの乾燥、木タールによる家屋の耐久性向上、家族とのコミュニケーションなど様々な機能を有している。
そんな便利な機能なのだが、静子のテンションについていけない彩の反応は鈍かった。

「ぶーぶー、反応が鈍いぞー。でも、これでようやく冬の寒さを凌げるねー」

家の完成自体は早かったのだが、囲炉裏だけ材料が足りず完成するのに時間がかかってしまった。
その事で信長のお叱りが工事関係者に何度か飛んだが。

「それより静子様。あれは何ですか?」

囲炉裏よりも別のものが気になった彩は、それがある場所を指差しながら静子に尋ねる。
そこには木で出来た横長の座椅子のようなものがあった。
長さは静子が寝転んでも十分余裕があるほどで、彩が寝転んだら半分ほどスペースが余るぐらいだ。

だが彩には座椅子に馴染みがない、というよりそもそも用途が思いつかなかった。

「あれは座椅子だよ。背もたれついてるから結構快適だよ」

「座椅子……?」

「あぁ……床几しょうぎに近いかな? でもこっちは背もたれによりかかるように座る椅子だから、ちょっと違うかなぁ」

神社や結婚式場などで使われている移動用の簡易腰掛けを床几しょうぎと言う。
脚二本をエックス状に組み合わせ、上端に革や布を張って座席とし、移動時は折り畳んで携帯する。
日本で椅子が普及したのは明治に入ってからなので、近世に至るまで広く使われていた。
現代でも稀にその姿を見る事はある。
背もたれや足置きの板を取り付ける事も可能だが、基本的に足置きの板ぐらいしか取り付けない。
それは背もたれがあると、背後からの襲撃時に、背もたれがない時より一動作多く動く必要があるからだ。
僅かな時間の差だが、それが生死の境目になる可能性もあるため、基本的に背もたれは取り付けない。

「こうやって寝転ぶと、なんと簡易的な寝所! あぁ……快適、快適」

座椅子を簡易的な寝所にした静子は、貴重な布を使って座布団、もとい枕のようなものに頭をのせる。
中身は鶏の毛を使っているため綿ほど快適さはないが、それでも戦国時代という事を考えれば贅沢品である事に変わりはない。

「そうですか……ってこんな所で寝ないでください。寝るならちゃんと……あぁもう! 涎が垂れてますよ!」

囲炉裏による暖かい空間、座椅子による寝所、ふかふかな枕による快適さにより、静子はあっさり眠りに落ちた。
それから彩が究極の荒業、座椅子から蹴り落とすを実行するまで静子は夢の中だった。






囲炉裏が出来てから静子はその部屋を中心に活動するようになった。
特別な用事がなければ囲炉裏で暖を取りつつ日々を過ごす。
必然的に彩もその部屋を中心として活動する事になり、結果二人は部屋に引きこもる事が多くなった。
だが二人だけ引き篭もっているわけではなく、どこも似たような感じだった。
村人が活動する時間も、普段なら日の出から日の入りまでの間だが、冬だけ昼前から日の入りより一時間前というかなり短い時間だ。
家事をする女性はもう少し早く活動するが、洗濯は温泉のぬるま湯を使ったり、食事は手軽かつ温まりやすい汁ものが多くなったりした。
男性の方も似たような感じで、なるべく冷たい水に触れないようにしたり、農作業後には入浴をして身体を温めたりしていた。

村人たちはそれなりに寒さ対策をしていたが、静子はもう少し何かないかと考えた。
人体は寒冷環境におかれると、体温が低下しないよう末梢血管の収縮や寒冷ふるえなどの体温調節反応が起こる。
それに付随して筋肉の動きが悪くなって手作業がしにくくなったり、寒さのストレスで心身ともに参ったりと様々な生理的・心理的負担が生じる。

なるべく軽減したいと考えた結果、静子が思いついたのは『湯上がりのストレッチ』と『ラジオ体操』の二つだった。
長湯をした後にストレッチをすると筋肉が伸ばされて身体が柔らかくなり、副交感神経が働いてリラックス効果を得られる。
特に身体を柔らかくしておく事で、ぎくしゃくした硬い動きにならず、腰痛や血行不良による冷えなどを防げる。

ラジオ体操第一は朝行うと脳の血液循環をよくして神経を活性化し、寝ぼけた頭をしゃっきり目覚めさせる事が出来る。
更に僅か三分一〇秒で一三種類の動きが入っており、四〇〇種類以上の筋肉を刺激出来る。
有酸素運動、筋肉トレーニング、ストレッチ、バランス運動の要素を兼ね、筋肉や関節を効果的に動かせる。
続けると体熱の産生や姿勢の保持などに重要な役割をする「骨格筋」の筋力アップや、血行促進、基礎新陳代謝のアップの効果等、実は隅々まで考えぬかれているのだ。

その二つを村人に広めてみたが、毎度の事ながら村人の殆どは最初半信半疑だった。
しかし一週間、二週間と続ける内に徐々に効果が出始め、それを聞いた別の村人が真似をし、今では村人全員が朝にラジオ体操をし、夕方に入浴してストレッチをするようになった。

「……よっと。ふぅ、だいぶ曲がるようになったぜ。しっかしこのじんわり温かくなるのが心地えぇー」

「俺の方がもっと曲がるぜ。こいつのお陰で夜もぐっすり眠れるぜ」

「おーい、すまねぇ。誰か背中を押してくれー」

楽しそうな声があちこちから聞こえてくる静子の村は、戦国の世とは思えぬほど穏やかな時間に包まれていた。
村人の誰もが思った。否、願ったという方が正しいだろう。

この時間が永久に続いて欲しい、と。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ