挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀四年 室町幕府の終焉

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

129/134

千五百七十三年 十二月中旬

静子の許に根を下ろした昌幸たち真田衆は、環境の違いもあって戸惑いはしたものの、一ヶ月と経たずに尾張の生活に適応していた。
嬉しい誤算として、間者の重要性を認めて評価してくれる昌幸を頼って、武田家の間者たちが続々と出奔して集まってきたという事があった。

「今は亡き信玄公が心血を注いで育て上げた間者たちを、そっくりそのまま貰えるのです。対して武田家は苦心して築いた情報網を失い、今や日々の連絡にも不自由しているとか。私たちは濡れ手で粟を掴むようにして、彼らの手足を奪えるのです。幸運だとは思いませんか?」

静子の家臣の一人が、昌幸の許に間者だけが増え続け、よそ者が大量に入り込むことを危惧し、静子に警告してきた。
それに対する静子の返答がこれだ。確かに数が増えれば管理が難しくなる。武田家から送り込まれた間者もいるだろうが、それすらも昌幸が手を尽くして取り込んでいた。
そして静子の指摘通り、現在の武田家は情報網が機能しておらず、自領以外の情勢などさっぱり判らない鎖国状態に陥っていた。
敵国に接する領地を持つ武田家家臣達は、外の情報を必要として間者を引き留めようとしたが、一度傾いた天秤が戻ることは無かった。
『三ツ者』、『歩き巫女』と言った諜報員を統括する組織が崩壊し、外部の情報が全く入ってこないという危機に直面していたが、国内を纏め上げる事に必死の勝頼は、これらを(かえり)みようとはしなかった。

「随分と人が増えたね。前の報告時点で200名ほどって話だけど、日々合流してきているみたいだし、実数はもっと多いんだね」

「信玄公直轄の集団もありましたので、実態を把握していたのは信玄公のみだったかと」

昌幸は集まってくる間者たちを、自分を頂点とした組織に取り込み、再編した組織の概要を静子に報告していた。
昌幸は精力的に働いていた。僅かな期間で指揮系統の崩壊した組織を再構築し、新たな諜報網として展開し、随時各地から情報が入ってくる体制を整えつつあった。
急造の組織ゆえか、情報密度の偏りが存在するものの、人員が行き渡れば満遍なく情報を得られるため、さしたる問題とは考えられていなかった。

「無理に指揮系統を組み替える必要はないね。従来の指揮系統の上に真田殿を据えるのと、監査要員を挟むぐらいかな? 急激な組織の改変は混乱を招きます。現状を維持しつつ、必要に応じて組み替えましょう」

「はっ」

「それにしても、短期間で良くここまで調べ上げたものです。上様からもお褒めの言葉を賜っています。これからの働きにも期待していますね」

「ご期待に()えるよう奮励努力いたします」

昌幸にとって今が正念場であった。かつての武功など、織田家に於いては何ら意味をなさない。しかし、働けば働くほどに評価され、活躍の場は広がっていく。
間者組織を刷新し、各地の情報を適宜収集し、それらを集約・精査して信長へと定期的に報告する体制。このシステム作りを以て武功として賞された。
織田家にとって有用であるのなら、その功はいくさ場に限らないという評価方針は、手勢に兵力を持たぬ昌幸にとって非常にありがたかった。
真田家を出奔するに当たり、有能な将兵は殆ど本家に置いてきた。昌幸はあくまでも『家督争いに敗れて放逐された』という(てい)でいなければならない。
自分に追手すら掛けた本家ではあるが、自分が原因で古巣にあらぬ疑惑を向けられる事に忸怩(じくじ)たる思いがあった。

「根を詰め過ぎないようにね」

見るからに肩に力が入り過ぎている昌幸を見て、静子は苦笑しつつ忠告した。






冬も深まり十二月に入ると、いくさの気配は遠のいた。農閑期こそ仕掛けやすいのは道理だが、それどころではない差し迫った理由が存在した。
織田家に関することだけを拾い上げても、京や近江と言った畿内の穀倉地帯からの税が集計され、大規模な不作が判明したからだ。
正確な検地が行われていないため、平均的な収穫量の計算は出来ないでいたが、百姓らの言に依ると例年の六割程度しか収穫出来ていないという。
信長の支配地に於いて、食料に余裕があるのは美濃と尾張のみであり、新たに傘下に収まった畿内の領地では、余裕など望むべくもない。
例年並みであってすら、ぎりぎり食いつなげるという状態であったため、四割も足らぬとあっては非常事態と言えた。
このまま放置すれば民は飢え、一向宗たちが扇動すれば容易に一揆に発展する。一揆が起これば堺と京、尾張を繋ぐ物流の大動脈が停滞することになる。
これらを考慮した結果、信長は美濃や尾張の余剰米や、新たな支配地用に積み立てていた備蓄米すら放出した。
この施策のお陰もあって、畿内での騒動は起きなかったが、信長にとってもいくさが出来る程の余裕は無くなった。
差し迫った脅威もないため、信長は支配地全域の統治強化に舵を切った。
これにより各地の統治を任されている家臣達も、検地や農業改革といった富国政策を重視した領地経営に勤しむようになった。

「農業改革は良いけど、何かある度に私を頼るのは勘弁して欲しいね」

信長の支配地各所から、農業指導出来る人員を派遣して欲しいだの、非常識な程の短納期で農機具を大量に用意して欲しいだの、と言った要望が上がってくることに静子は辟易としていた。
なるべくなら現地で産業を起こして、内需を拡大する方針を取って欲しいと考えていたが、生き急ぐ武将たちに待てというのも酷な話であった。
現地近辺で賄えるものは、商人たちの伝手を通じて都合を付け、それすらも難しいものは静子が用意することで対応した。

そうこうしている間にも季節は巡り、十二月も半ばとなる。年の瀬を目前に控え、誰しもが慌ただしい日々を送っていた。
静子も忙しい仕事の合間を縫って時間を捻出し、金子の入った木箱を抱えて家臣たちの家へと向かう。

「静子様にご足労頂くなど、勿体のうございます。御用とあらば何時でも馳せ参じましたものを」

玄朗が静子に深々と頭を下げた。武田軍の撃退に始まり、その後の長島一向一揆、浅井・朝倉戦でも目覚ましい武功のあった玄朗は、信長より士分に取り立てられていた。
士分と言っても足軽ではなく、騎乗を許される士分として遇された。
名字を名乗る事を許された玄朗は、名字を尾張楠木(おわりくすのき)仮名(けみょう)を玄朗とし、(いみな)を静子から一字を頂戴して静興(しずおき)と名乗るようになった。

身分に相応しい衣類や調度、武家屋敷も与えられ、信長から拝領した刀を佩き、その名に恥じない出で立ちとなっていた。
明日をも知れぬ食い詰め者であった頃からすれば、信じられない立身出世を成し遂げ、一(かど)の成功者とみられていた。
尤も彼自身は何も変わっておらず、己を引き立ててくれた静子の恩に報いるべく、一層の忠誠を誓っていた。

「こういう機会でも無いと玄朗爺の顔を見られないからね。この一年、本当にご苦労様でした」

静子がそう言うと、後ろに控えていた小姓が進み出る。小姓は玄朗の前に膳を置くと、一礼して後ろに下がった。
静子は自身が抱える木箱から、美濃紙に包まれた金子を取り出して並べ、膳を玄朗の許へと滑らせた。
現代で言うところの冬の賞与である。年の瀬から新年にかけては色々と物入りとなる。
新しく家を興した玄朗ともなれば、その度合いも一入(ひとしお)であるため、それを補填するためにも静子が褒賞金を制度化した。

「格別のご配慮、(かたじけの)う存じます」

他の家臣達にも配るため、そこまで大金という訳ではないが、それでも自分を気遣ってくれる静子に玄朗は感謝の念を抱いた。玄朗は恭しくお膳から金子を頂戴すると、懐に収めた。

「本当は近況とか聞きたいんだけど、今日しか皆のところを回れる時間が取れないから、悪いけど失礼するね」

「ははっ! 貴重な時間を頂戴し、ありがたく存じます。年の瀬も迫り、人通りも多くございます。くれぐれも道中、お気を付け下さいませ。御身に何かあっては日ノ本にとっての損失。この玄朗、何を差し置いてでも駆けつけますので、御用の折はお声掛け下され」

「うん、十分に気を付けるよ。でも年末はゆっくり休んでね。体を休めることも大事な仕事だから」

「はっ!」

軽く言葉を交わした後、静子は玄朗の屋敷を後にした。これから仁助たちの家も回る必要がある。
本来であれば静子が出向くのではなく、彼らを屋敷に招いて褒賞を渡すのが道理である。
しかし、静子直属の功があった家臣だけでも、自ら出向いて暮らしぶりを確認して、その功を賞したいという静子の思いに、近侍達も根負けして、行列を作りながらの褒賞渡しが行われている。
無論、全員を回ることなど到底為しえないため、安全上の配慮からも側近や、特に功のあった者に対象が限られていた。

「確かこの辺りに……お、いたいた」

開けた土地にポツンと建つ道場のような建物に、静子は足満とともに足を踏み入れた。

「これはこれは静子様。このようなむさ苦しいところへお越し頂けるとは、どういった御用でございましょう?」

目的の人物は才蔵であった。この建物は鍛錬場と呼ばれ、長可が愛用しているのを見た才蔵や、高虎も触発されて鍛錬を行うようになった。
慶次は何かしら理由を付けて同行しないのだが、彼は見えないところで常識はずれの鍛錬を行っている。
しかし、傾奇者としては必死に努力している様など見られたくはないという、彼なりの矜持があった。

「鍛錬を中断させてごめんね。ほら、言っていた冬の褒賞を渡そうと思って」

「静子様にご足労頂かずとも、お呼び頂ければ参じましたものを」

「気にしないで。私が好きでやっている事だしね」

笑いながら静子は足満から金子を受け取り、それを才蔵に手渡しする。才蔵は衣服を整え、一礼すると金子を恭しく押し抱いた。

「鍛錬は順調かな?」

「恥ずかしながら、捗々しくはございませぬ」

静子は訊ねながらも才蔵が吊るしたであろう紙を見やった。静子の視線の先を眺め、才蔵が自嘲しながら答えた。

才蔵が行っている鍛錬は単純だ。梁から糸を垂らし、その先に穴を開けた紙を結びつける。
第一段階は吊るされた紙を槍で斬る。第二段階は紙を突く。最終段階は鎧戸を開けて、風に揺らぐ紙を斬る、もしくは突くのだ。
口で言うのは簡単だが、いざ実行するとなると、その難しさが理解できる。

身近な例でたとえるなら、長さ3メートル程度のステンレス製物干し竿を用意し、先端に濡れたジーンズを吊るす。
その状態で、出来る限り手元を短く持って、先端を台座に載せようとする難しさだろうか。
重心が前方に偏っているため、先端を静止させることすら難しく、末端を握っているため、少しの動きが先端では大きな動きとなって現れる。

これが才蔵の用いる大身槍ともなれば、穂先が二尺を超えるダマスカス鋼製であるため、その重量たるや想像を絶するものがある。
前述の重心バランスに加えて、柄自体が重量でしなるため、標的となる紙に当てることすら余人には困難となる。

「斬る事に関しては苦労しませぬ。しかし、突くとなると勝手が違います」

流石は槍の名手たる才蔵らしく、先端をぶれさせる事も無く気合一閃、標的を切り裂いて見せた。次に槍を手元に引き寄せ、腰だめに構えると、槍をしごいて繰り出した。
しかし、槍の先端は標的から外れた空間を貫いた。槍とは基本的に叩くものだが、いくさではそうそう都合良く槍が振るえる状況ばかりではない。
そこで才蔵は、左右に空隙が無くとも攻撃できる突きや、突きから変化させることで斬撃に繋げる鍛錬を己に課していた。
使うかどうかは状況次第だが、切れる手札が多いに越したことはない。

「上から下に重量を載せて叩けば、相手を鎧の上からでも弱らせられますが、鋭く突いて引き戻せれば相手を屠った上で、より早く次の攻撃を繰り出せるのです」

叩いて転ばせ、突き殺すという二動作よりも、突いて引き戻せば、次の攻撃準備にもなる。理想を言えば一撃一殺が望ましい。
この考えは当然いくさ場でも有効だが、往来の多い街中などで護衛を務める馬廻衆としての考えが強く出ていた。
群衆に紛れて貴人を襲う輩を、人の隙間を縫って素早く仕留め、次の攻撃に備え続ける。
群衆だけでなく同僚を盾にされた場合も考慮し、僅かな隙間でも刺し貫ける精度を身につけようと懸命に考えた末の鍛錬であった。

「まあ、こういうのは一朝一夕に身に着くものじゃないよ。参考になるかは判らないけど、姉が長柄の武器を使う時は捻ると先端が安定するって言っていたよ」

「ほう! 捻るのですか?」

「なんだっけ、ジャイロ効果? ともかく槍を回転させながら突けば、先端は収束するみたいだよ」

「捻る……何やら光明が見えた気がいたします」

「手元だけで捻ると、逆にぶれるんだっけな? まあ、聞きかじりだから参考程度にね」

「はい、肝に銘じております。己の努力が正しいか、自問自答しつつ鍛錬を行って参ります」

「ならば良し」

才蔵の言葉に、静子は親指を立てて言葉を口にした。






冬の賞与を渡し終えた静子は、いよいよ年末の準備を始める。とはいえ、昔のように全ての作業を自分でする訳にはいかない。
彼女にとってはもどかしくとも、指示を出して配下に作業をさせる必要があった。

「うーん。年越しの準備は楽しいんだけどね」

腕まくりをしつつ、意気揚々と年越しの準備に加わろうとした静子だったが、彩と蕭から『主人が準備に奔走しては、家人の能力を疑われます。どうかご自重下さい』と諫められた。
結果的に静子は、為すべき作業をリストアップし、それに従って作業を進めるよう指示を出せば、後は一切やることが無くなってしまった。
実質的に家内の事は彩と蕭が取り仕切っており、静子に対して質問すらないため、思いのほか暇を持て余すことになった。
部下が優秀だと楽を出来るが、手持無沙汰なのも困るなと静子は思った。

「上に立つ者の宿命だな」

静子の愚痴に足満が応じる。
以前は静子一人に負荷が集中していたが、いくさで長期間家を空けることが多くなり、彩や蕭が留守を預かることで鍛えられ、彼女達で処理できる仕事の範囲が増えた。
もはや静子に残されているのは、報告を聞くことと、彼女でなければ決裁出来ない事案か、信長からの命令書などに限られる。

「私の役目って、金策と各部署の調整ぐらいしかなくなってきたよ」

「社長や会長が仕事の詳細を把握していないのと一緒だ。暇が出来たなら、畑仕事でもしたらどうだ」

「……ないの。皆、優秀でね。私が作業することが無いの」

足満の言葉に、静子は重いため息を吐いた。繊細な作業を求められる一部品種の栽培を除けば、静子でなければ出来ない作業は無くなってきていた。
それぞれの作物に担当者が付き、最初こそは助言を求められる事もあったが、今では立派に成果を出していた。
文字の読み書きを覚えさせたことで、栽培記録が付けられ、優秀な者がそれを元に教材を作るまでに至っていた。
これら全てが出世欲などではなく、いつも忙しい静子に楽をさせようと言う善意から来ているため、彼女としても口を噤むしかない。

「その内、マンゴーとか南国系の果実も手が離れるかもね。カカオも来年の五月ぐらいには実を付けそうだし……コーヒー豆も順調だし……。新しい作物の種でも輸入しようかしら」

「考え事は構わぬが、さっきから手が止まっているぞ。持ち時間はもうないから、考慮時間を使い切る前に次を指せ」

砂時計を示しながら足満は将棋盤に目を落とす。
戦局は既に静子の負けが9割方確定している状態だった。大駒である飛車は残されているが、敵陣に単騎で取り残され、身動きが出来ずに見事に死に体となっていた。
王を守る囲いも半ば崩壊し、足満に一手の猶予が出来れば静子の負けが確定する。静子としては足満に王手を掛け続けなれば、即座に敗北するという崖っぷちに追い込まれていた。

「いや、ここに桂馬を打てば、合駒は利かないから詰みだよね!」

「残念ながら、それでは駒が一つ足りぬ。ほれ、こう逃げれば次の王手は出来まい」

「ぐぬぬぬっ」

将棋盤を舐めるように見つめるが、どう考えても王手を掛ける事が出来ない。そして一手空いてしまえば、後は足満の王手連打を凌ぎきれずに投了となる。

「ありません。こいつに誘われたね……ていっ」

投了を示す言葉を告げて頭を下げる静子だが、負けるのは悔しい。そんな思いから、勝敗を分けた足満の『銀』に向かって、己の『歩』を指で弾いて飛ばす。

「やめなさい」

弾かれた駒を足満が掴みとり、元の位置に打ち直す。素直に態度を改めた静子に対して、足満主導で感想戦を行い、それぞれの局面での最善手を模索する。
それが終わると将棋盤と駒を片付け、足満はすっかり冷めて温くなった茶で喉を湿らせた。

「次は負けないよ。積年の屈辱を晴らしてくれる!」

「そうは言うが、随分と黒星が溜まっておるぞ。感情に流されず、負けた原因を追究して精進せよ」

「私が将棋の手ほどきをしたって言うのに!!」

「まあ、そこは年の功と言うものだ」

静子が再戦を求めていると理解した足満は、再び将棋盤を戻して駒を並べる。静子も自分の駒を並べ終えると、振り駒をして先手を決めた。

「そうそう、新居に移って以来、屋敷内がすっきりしているな」

今回は静子が先手となり、互いに駒を指す音しかしないなか、不意に足満が言葉を発した。
彼の言にある通り、以前の静子邸では敷地面積に対して物が多く、雑然とした印象となっていた。
しかし、新居に移って以降は家人が増えたためか、細かいところまで目が行き届き、整理整頓が徹底されている感がある。

「5Sを教えて、徹底させているからね。PDCAサイクルとかはまだ無理だろうけど、5Sは基本だからね」

5Sとはサービス業や製造業に於いて、円滑に業務を遂行できるよう考えだされたスローガンだ。
『整理』『整頓』『清掃』『清潔』『躾』の5項目からなり、ローマ字で表記すると、全て先頭がSとなることから5Sと呼ぶ。
5Sとは特別な理念を説く訳ではなく、日々の生活に於いて心掛けるべき事を明らかにし、個人ではなく組織全体として取り組む処にある。
余談ではあるが、企業によっては更に項目を追加し、7Sや10Sとする場合もある。

静子はこの最も基本的な5Sを、静子邸に奉公する全ての人間に徹底して叩き込んだ。
毎朝社訓を読み上げさせる経営者よろしく、5Sを確認させる時間を各食事前に設け、暗唱できればおかずが一品増えるという目に見える飴を与えた。
これは若年者ほど覿面(てきめん)に効果があり、家人の仕事ぶりを彩や蕭から聞き取り、ことあるごとに優秀者を皆の前で褒めた。
5Sを徹底すれば静子の覚えがめでたくなるとあって、皆が競い合うようにして5Sを学び、また実践していく。
このお陰もあって、新居では洗い場に漬け置かれた食器なども見なくなり、蓋が開いたままの長持(ながもち)も姿を消した。
しっかり整理整頓が行き届いた仕事場を維持しているお陰もあって、小さなミスや事故が目に見えて減っていた。
今では、より効率の良い整理整頓法が模索され、蓄積されたノウハウを体系化するまでに至っていた。

「読み書き算盤(そろばん)に加え、こういった生活の基礎を教え込めば、別の家に奉公しても役立つしね」

「今では静子の図書館で書を読む下女もいるらしいな」

当初は少なかった蔵書も、蒐集が進むにつれて部屋を圧迫するようになった。
そこで静子は一枚の美濃紙を二つ折りにして綴じる、袋綴のいわゆる和装本(わそうぼん)で本を管理するようにした。
大きさも形式もバラバラの巻物や、紙束を整理して纏め、規格化された美濃紙にガリ版印刷して糸で綴じた。原本は蔵に保管し、複製本に連番を振って木製の書棚に並べた。
初期には単に書庫と呼ばれていたが、静子が普段から図書室と呼ぶため、いつしか図書室の呼称が広まった。

「学習の機会は平等に与えるべきだよ。適性があるかは本人次第だけど」

「学んだことは無駄にはならぬ。知識は誰にも奪えない財産となるのだからな」

静子の言葉に足満は笑みを浮かべて頷いた。






従者たちは年越し準備に忙殺されていたが、主人である静子は暇を持て余していた。久々に本でも読もうと、彼女は図書館に足を向けた。

「これは静子殿」

図書室には先客がいた。上杉家から差し出された人質として逗留している長尾喜平次、後の上杉景勝である。彼は手にした本を閉じると、文机から立ち上がって一礼する。
静子も思わず頭を下げて、礼を返してから声を掛けた。

「最近じゃ、図書室の(ぬし)って呼ばれているみたいだけど、そんなに気に入った?」

「はい。ここには古今東西の書が集められており、全てに目を通すとなればどれほど掛かるか想像もつきませぬ」

「お金に飽かして、あちこちから掻き集めたからね。随分とお金を使ったけど、それに見合うだけの蒐集は出来たつもり」

「蔵書の量だけならば僧院の方が多いでしょう。しかし、量と質が段違いです。これほど広範に亘って叡智が集約されている場所など、この日ノ本中を探してもここ以外にはありますまい」

「そう言って貰えると集めた甲斐があるよ」

「しかも一部を除きその殆どを無料で開放するなど、最初は正気を疑いました。しかし、利用するにつれ、その意義が判るようになり申した」

「ふーん。その心は?」

「皆がここで知識を得れば、織田家全体の教養が高まります。下の者が学んでいるのに、上が無学では示しが尽きませぬ。そうなれば皆が勉強に励むことになり、尾張全体に智慧が根を下ろすことになりましょう」

「随分と遠くが見えるようになったみたいだね」

「ただ、南蛮の書は難解で、日ノ本の言葉に直されているのに理解が及びませぬ」

「あれでも筆記体から印刷用のブロック体に直して、それを更に和訳しているんだよね。原本は蚯蚓(みみず)がのたくっているようで、私も読めないぐらい」

「あれでも読み易くなっているのですか……」

喜平次は愕然とした面持ちで呟いた。

「南蛮人の虎太郎が解読してくれないとね、あんなくせ字は見分けがつかない」

人質という立場だが、静子の気さくな態度に喜平次も気が緩んだのか、幾分口調が柔らかくなった。

「しかし、我々とは全く違う土壌で育まれた感性で書かれる書には、和書にはない趣を感じます。出来るならば原書を読んでみたくあるのですが、流石に南蛮の言葉を習得するのは……」

「うーん、南蛮語の辞書も作ってはいるんだけどね。ただ、流石に写本になってない原書は閉架書庫に仕舞ってあるし、閲覧するのにも上様の許可が必要だから、貸し出しは無理かなあ?」

静子の言葉通り、彼女の図書室の閉架書庫には現代で言う稀覯本が山のように眠っていた。
例を挙げるとコペルニクスが1543年に出版した『天球の回転について』の初版本。
ニッコロ・マキャヴェッリの『君主論』や『戦術論』。
デジデリウス・エラスムスの『痴愚神礼賛』や『校訂版 新約聖書』。
マルティン・ルターが発表したとされる『95ヶ条の論題』。
1555年にリヨンのマセ・ボノムにて出版されたと言われるノストラダムスの『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』の初版本などだ。

中にはレオナルド・ダ・ヴィンチ手稿と言う、現代では失われたものまでが存在していた。
その真贋については定かではないのだが、二万ページにも及ぼうかという膨大な資料が、万が一にも本物であった場合、遺失させるにはあまりにも惜しいと考えた静子が買い取った物である。

他にもカトリック教会が危険視した書籍のリストである『禁書目録』に名を連ねる本もあった。
そういった本が日本に持ち込まれたのには、為政者や宗教家たちの妥協という背景があった。
カトリック教会としては禁書に指定した書籍は処分したい。しかし、膨大な資金を掛けて作られた本を灰にするには惜しい。
出来る事なら掛かった費用は回収しつつ、現物は闇へと葬りたいというのが本音であった。
そこで白羽の矢が立ったのが日本への売却であった。非キリスト教国であり、旺盛な知識欲と金に糸目をつけない購買力から、商人や宣教師たちが(こぞ)って持ち込んだ。

通常であれば、言葉も判らない西洋の書籍など、少数の好事家が買い集めるぐらいだが、静子は大々的に買い取りを宣言した。
その結果、西洋から持ち込まれる書籍の殆どが、静子の許へと集まってくるようになった。
カトリック教会としても危険な知識は処分され、対価として少なくない金を得ることが出来る。
かくして双方の思惑が一致した結果、静子は西洋の本を制限なく購入できるようになっていた。

これらを虎太郎がブロック体に書き直したものと、日本語に翻訳したものがガリ切りされ、ガリ版印刷に回される。
そうして原本と複製された印刷物に管理番号を振り、原本と原語版は閉架書庫に保管され、日本語訳に関しても検閲を受けて問題なしと判断されたものだけが開架書庫に公開されている。

そして開架書庫に並べられた書籍であれば、静子邸で働く者は自由に閲覧が可能であった。
侍女たちは『枕草子』や『源氏物語』に熱中し、小姓たちは『徒然草』を読んでは、内容について語り合った。
ガリ版印刷に適した薄くて硬い紙が用意できないのと、陳列スペースの物理的問題により複数部数あるはずの本は常に誰かの手にあり、順番待ちが発生する程の人気を博していた。
日本三大随筆の一つにも数えられる『方丈記』は、他の二冊に比べると人気が無かった。

「まあ、南蛮の言葉については追々覚えていくと良いよ。翻訳出来る人が増えるのは大歓迎だからね。それに他国の思想もなかなかどうして馬鹿には出来ないよ。環境が違うから、全てが適用できるわけじゃないけれど、日ノ本でも通用する概念もあるしね」

そう言いつつ、静子は一乗谷から持ち帰った書籍が並ぶ書棚から一冊を抜き出して手に取った。
この図書室には明文化されていない暗黙のルールが一つだけあった。新しく図書室に並んだ本を最初に読むのは静子であるというルール。
それが為、一乗谷から持ち帰られ、複製を待つ原書が並ぶ棚は手つかずであり、静子だけが順番に借りては読んでいる状態だった。

「よし、今日はこれの貸し出しをお願い」

「はい、承りました」

静子は本と一緒に、木札を司書に手渡した。静子の図書室で司書を務めるのは、奇妙丸の教育係でもあった爺であった。
奇妙丸が元服し、信長の許で活動するようになると、彼はお目付け役としての役目を終えた。
静子は教養もあり、学問に造詣の深い人材を埋もれさせるのは惜しいと考え、図書室の司書として働かないかと打診した。
特に断る理由もなく、待遇は破格に良かったため、爺は二つ返事で引き受けた。それ以来、静子の図書室での貸し出しを一手に担っていた。

図書室から本を借りる方法は現代のそれと大差ない。
まず司書に申請して個人用の図書室利用カードに相当する木札を受け取る。借りたい本を貸出台まで運び、自分の木札と一緒に提出する。
司書である爺が、本の管理番号を木札と台帳に書き込み、台帳には更に貸出日と貸出先を記入する。木札は司書が預かり、図書室で管理し、本の返却を以て木札を返す。
本を乱暴に扱ったり、汚損したりすれば被害に応じた罰金が科せられる。

「どうぞ」

「ありがとね」

記帳を終えた後、爺は静子に本を渡し、木札を壁に設けられた貸出札入れに差し込んだ。

「それじゃあ、私は失礼するね。あんまり根を詰めないで、偶には外の空気を吸うのも大事だよ」

本を受け取った静子は、読書に集中する喜平次に声を掛けて図書室を後にした。本の世界に没頭している彼の耳に、彼女の忠告が届いていたかは謎である。






本を抱えて自室に戻る途中、静子は少し回り道をすることにした。

「やあ、調子はどうかな?」

「おや、御主人。直々のご来訪とは珍しい。手探りながら進めておりまする」

ここは虎太郎が管理するワイン醸造蔵だ。醸造蔵と言っても、その敷地の殆どが貯蔵スペースとして利用される。
ワインには赤、白、ロゼの三種類があり、主な製造工程は共通している。赤ワインは皮ごと仕込み、白ワインは皮や種子を取り除いて発酵させる。
ロゼワインについてはいくつか製法が存在するが、虎太郎はセニエ法と呼ばれる途中で果皮を取り除いて発酵させる製法を採用していた。

今回収穫された甲州ぶどうは淡い赤紫色の果皮を持ち、果実は優しい印象の薄桃色を呈する。酸味は弱めで甘みもそれほど強くなく、ワイン造りに適しているとは言えなかった。
しかし、西洋に於けるワイン造りの権益は教会が握っており、彼らは挙ってぶどう畑を開墾しては醸造技術を磨いていた。
中には教会を訪れる巡礼者にワインを振る舞う事もあり、これが居酒屋のルーツとも言われている。なお、現在のようにワインを瓶詰し、コルクで栓をするようになったのは十七世紀末の事だ。
そうした背景もあって、教会の秘儀に属するワインの製法は秘匿され、ワインそのものならともかく、ぶどうの種子や苗木となると途端に持ち出しが難しくなる。
イエズス会に要望を出してはいるものの、未だに見通しが立たず、日ノ本でワイン醸造をしようと思ったら甲州ぶどうを用いる他なかった。

「樽に詰めているってことは、これから熟成するのかな?」

「樫の小樽で発酵を行いましたが、故郷のオークとは勝手が違うため、どんな香りが付いたか判りませぬ。味見をした限りでは少し水っぽい印象を受けました」

今回虎太郎が仕込んだのは赤ワインとロゼワイン。
まずは収穫されたぶどうの実を房から一粒ずつに(ほぐ)す。この際に、ぶどうを洗うと表皮についている酵母菌が落ちるため、極力洗わないようにする。
次にぶどうの実を軽く圧搾して果汁を流出させ、用意しておいた小樽に丸ごと移して発酵工程に入る。
後は一日数回かき混ぜてカビないようにしつつ、数週間かけて発酵を行う。

ある程度発酵が進んだ段階で、セニエ(フランス語で血抜きを意味する)を行い、液体の中に果皮や果肉、種子の比率を高めて凝集感を出す。
こうして抜き取った部分が赤ワインとなり、残った部分はロゼワインとして次の工程に進む。
ここまでを一次発酵と呼び、一次発酵が終わると果汁のみを抽出し、残った皮や種子に強い圧力をかけて圧搾する。これらの混合物を再びアルコール発酵させる。

これが終わると、貯蔵用の樽に移して熟成させる。ここまでの工程を二次発酵と言う。
この後は熟成期間が進むにつれて樽の下部に(おり)と呼ばれる様々な沈殿物が溜まるため、澱引きという上澄みだけ別の樽に移し替える作業を何度か行う。
熟成を終えたワインは残った沈殿物を取り除くため濾過され、最後に瓶詰めを行う。

いずれも単純な作業だが、用いるぶどうの品種や、熟成させる樽の材質、樽の加工処理や、熟成させる年月等によってワインの味わいは変化する。
同じワインであっても若飲みするのと、長期間の熟成を経てから飲むのとでは違った味わいを見せる。

ワインを飲むうえで外せないアイテムとしてデキャンタが挙げられる。お店などでボトルを注文すると、卓上用の容器に移してくれる。この容器をデキャンタと呼ぶ。
厳密に言うと『カラフェ』と『デキャンタ』の二種類があり、それぞれ用途が違うのだが、ここではデキャンタのみを扱うこととする。
ワインをデキャンタに移し替えることをデキャンタージュと呼び、主に沈殿した澱を除去するために用いられる。
瓶詰後もワインの熟成は進み、その過程で色素の成分やタンニンが結びついて澱となる。この澱はワインの味わいを大きく損なうため、わざわざ移し替えることで澱を取り除くのだ。
長期間熟成したヴィンテージワインはデキャンタへ移すことが多い。ただし、ワインの種類によってはデキャンタに移すことで魅力を損なう事もあるため、注意が必要だ。

「上手くいけば美味しいワインになるかもね。ただ、血のような色合いが忌避されるかも知れないけど」

「売れなければ私が責任を以て消費しますし、南蛮人への手土産にもなりましょう」

「くれぐれも呑み過ぎには注意してね?」

「ご心配には及びません。体を悪くする前に酔い潰れますので」

「それはそれで、風邪とか引いたりするから心配なんだけど」

「一人酒は控えますのでご安心を」

根本的な解決になっていないと思ったが、これ以上しつこく言うのも逆効果かと考え、静子は彼を信用することにした。

「ま、ほどほどにね。私は飲めないけど、上様はワインに興味を持っておられるみたいだから」

「熟成が終わった段階で出来の良いのを選び献上致します」

「任せたよ」

それだけ言うと静子はきびすを返してワイン醸造蔵を後にした。






美濃と尾張の市場には少量ずつだが信長の新貨幣が流入し始めていた。需要に対して供給が追い付いておらず、市場では混在して利用されている。
それでも新たな銅貨の流入により、僅かずつとは言え鐚銭が回収され始め、市場から撰銭(えりぜに)に起因する騒動が少なくなってきていた。
貨幣の呼び方を変える気が無かった信長だが、最も身近な銅貨が従来の永楽銭と同じく丸型で穴が開いているため、「先を見通せる」、「商売の縁(円)が出来る」として、いつしか「円」と呼ばれるようになっていた。

そうした市場の動きを他所に、静子は新居の傍に新しい施設を建設し始めた。それは私塾、現代で言うならば私立学校に当たる。
今までは徒弟制度よろしく先達が後輩に教え伝えるので十分であったが、先達に対して教えを乞う後輩の数が多くなりすぎ、先達は本来の業務が疎かになり、後輩に関しても教育の度合いにばらつきが出るという問題が発生していた。
そこで急遽学校を建築し、専門の教育機関として独立させることにした。
学校とは言っても収容人数は百人に満たず、平屋造りで部屋数もそれほど多くない。
ただし、教室以外にも特殊教室として図書室、技術室、家庭科室、音楽室、美術室、武道場に運動場と、現代の中学校程度の設備は整えられていた。

何もかもが手探りで始まった学校ゆえに、入学できる者は静子の邸宅で働く者のみに限られた。
教育内容は基本的な文字の読み書きに加えて、算盤を用いた四則演算までを必修とした。
この他にも必修技術として料理に裁縫、掃除に洗濯と言った生活に必要な技能を男女わけ隔てなく教え込む。
選択科目として、希望者には農機具などの整備や修理、楽器の演奏や譜面の読み方、絵画や書道、華道、茶道と言った芸事なども学ぶことが出来る。

(武芸で薙刀の指南が出来る人は蕭ちゃんに伝手があるらしいけど……さて、剣術の指南役は誰にしようか。宮本武蔵はまだ先だし、塚原卜伝はもう亡くなっているし、上泉信綱は無理だろうね。とすると、やはり上泉信綱から免状を与えられた柳生宗厳しかいないか。今は松永久秀に仕えているはずだから難しいかな……一回足満おじさんに相談してみるかな)

「お、静子。ここに居たのか……ああ、そのままで構わん」

色々と考え事をしていると背後から声を掛けられて振り返る。信忠が馬上から手を振りながらこちらに近づいてくる。馬から下りようとした静子を、信忠は手で制した。

「こっちに顔を出すのは珍しいね」

「偶には静子の顔を見ないとな」

そんな事を話しつつも信忠は静子へちらちらと視線向ける。
その様子から何か良い事があったのだが、自分から言い出すのは憚られる。何があったか聞いてくれという雰囲気を漂わせていた。
あえて無視する事も出来たが、それをして臍を曲げられても面倒だと考え、譲歩することにした。

「随分とご機嫌だけど、何か良い事でもあったのかな?」

「ふっふっふ、判るか? どうしてもと言うのなら教えてやらんでもない」

(面倒だなあ)

信忠のテンションが上がるほどに、静子のテンションは果てしなく下がっていった。しかし、有頂天の信忠には静子の態度も目に入らない。

「聞いて驚け、静子! 俺は年明けより、父上から東国征伐の総大将に任命されることが決まったのだ!」

「へー、良かったね」

「おい! もうちょっと喜んでくれても良いだろう!」

「うん、良かったね。良い子良い子」

「やめぬか! 俺はもう二十前だぞ! 頭を撫でられて喜ぶ歳ではないわ!」

頭を撫でられた信忠が恥ずかしさのあまりに叫ぶ、その声に驚いた馬が動き出しそうになったため、手綱を引いて制動を掛けた。
その間、身動きできない信忠の頭を、静子は存分に撫でまわした。

「それで、東国征伐はいつから始めるの」

信忠の頭を撫でるのをやめると、静子は東国征伐の話をふった。
東国征伐と言うが、相手は武田と考えて良い。上杉は既に臣下となっているが、それが影響してか武田はますます態度を硬直させ、織田側との交渉を蹴り続けている。
信長としても武田の態度は織り込み済みであり、度重なる交渉は『対話は十分行った』という実績の為であった。

「俺としては年明け早々にでも軍を進めたいが、それに先立つ情報がまるで足りぬ。ここは腰を据えてじっくりと情報を集めなくてはならない。特に敵方の城の配置と補給路、水源地や河川の位置なども判れば尚良し。これらを押さえた上で、必殺の作戦を練って、一息に叩き潰すのが理想よ。無論、武田が動かぬ前提ではあるがな」

「取りあえず攻め込んで、現地で作戦を考えるとか言ったら、引っ叩いてでも止める気だったけど、その必要はなさそうだね」

「流石に以前の単騎突撃のような真似はせぬ。必勝を期さねばならぬからこそ、一撃で仕留めねばならぬ」

「徳川、上杉との連携も考えないとね」

「そうだ。上杉は実際に動かずとも良い。攻め込む気配を見せるだけでも、武田としては兵力を割かざるを得ないからな。とは言え、不安が無い訳でもない」

「それは?」

「北条だ。今もなお、奴の旗幟は定まっておらぬ。しかし、敵となるなら、武田と一緒に潰すまでだ」

「勝頼の妻は北条の人間だからね。それを考慮しても北条は動けないんじゃないかな?」

「それならそれで構わん。武田が滅べば北条がどう足掻こうと、もはや状況は覆らぬ。北条さえ潰せば残りは烏合の衆よ。後はじわじわと圧力を掛ければ良い」

既に頭の中では大枠の計画が見えているのか、信忠の態度は自信に満ち溢れていた。実際に信忠の考えは間違っていない。
彼我の戦力を考えれば、慎重に計画を推し進め、確実に武田を滅ぼしさえすれば、後はどうとでもなる。
織田に降れば良し、さもなくば敵として潰すのみ。信長の手法を真似ているが、定石通りであり、そこに大きな間違いはない。
しかし、静子には奇妙な不安がしこりのように残っていた。

(……やめよう。根拠のない不安で手を停めれば、機会を失う)

物事が順調に運んでいる時こそ危うい。好事魔多しの故事にあるように、思い通りに物事が進み過ぎている事に静子は不安を感じていた。
意識して、頭の中から不安を追い出すと、静子は人の好い笑みを浮かべる。

「上手くすると東国は数年で平定出来るかもね」

「そう願いたいものだ」

静子の言葉に信忠は屈託なく笑った。
【宣伝】
戦国小町苦労譚 七、 胎動、武田信玄 (アース・スターノベル)
「戦国小町苦労譚 農耕戯画」第1巻(アース・スターコミックス)
 ともに12月15日発売決定しました。よろしくお願い申し上げます。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ