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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀四年 室町幕府の終焉

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千五百七十三年 十月中旬

浅井・朝倉家の滅亡から一ヶ月が経過した。その間、信長は目立った行動をしていない。
秀吉と光秀は対立を表面化させつつも、それぞれ信長より任された領地の統治に腐心していた。
当初の争点となっていた黒鍬衆は、街道整備より戻った人員を含めて均等割りとし、それぞれに公平に割り当てられることとなった。
しかし、秀吉にとっては初の城。自分の威を示すため、また配下の求心力を高めるためにも、早急にかつ坂本城に負けない城を築きたいと意気込んでいた。

「優先的に資材を回して欲しいって言われても……私の裁量を超えているからなあ」

史実では齢62歳で没した秀吉の、30台も後半になって初めて築く城となる長浜城。融通を利かせてあげたいところだが、どちらか一方に肩入れする訳にもいかない。
迂闊に便宜を図れば、間違った政治的メッセージとして受け取られかねない。今回に関しては双方が使用する建材の価格を、ギリギリまで抑えることで納得して貰うことにした。

「さて、一つ片付いた。次は収穫に関する報告だね」

「はっ。米に関しては昨年並みの収穫となる見込みです。その他穀物や野菜についても例年並みであり、病害虫の被害も抑えられています。海産物については養殖部門が好調であり、今年初の(こころ)みとなる鮭は、早くも豊漁との報告が上がっております」

「そっか。鮭の稚魚を沢山放流したから、その成果が出ているんだね。でも鮭の回帰率(放流した鮭が戻ってくる割合)は低いから、せめて1パーセントぐらい戻ってきてくれると良いんだけどね」

鮭は一回の産卵で3000程の卵を産む。全ての過程を自然に委ねた場合、無事に成魚となって川へ戻ってくるのは数匹程度になってしまう。
天然産卵の場合は、まず孵化出来る確率からして4割を切ることが多い。無事に稚魚になれたとしても、成長過程の淘汰により数を減らし、最終的に親となれる個体は恐ろしく少ない。
しかし、人工孵化を行う場合は孵化率を95パーセント近くまで引き上げる事が出来、天敵のいない環境で成長出来るため、回帰率を大きく引き上げることが出来るのだ。
天然産卵の鮭は回帰率が0.5パーセント程なのに対して、人工孵化を行った場合の回帰率は条件次第で4から6パーセントにもなる。

「いちぱーせんと、ですか?」

「百に一つって事だよ。自然ってのは弱肉強食だよね。もっと多く帰ってきて貰うためにも、来年度の放流数は更に増やすよ。遡上してきた鮭は捕獲して、どんどん人工授精させてね」

「は、はい」

百分率を表すパーセントと言う耳慣れない言葉に不思議そうな表情を浮かべていた蕭だが、静子の指示を受けて思いを新たにする。
静子は満足していない様子だが、興奮気味に漁獲量を語る報告を受けた蕭は、静子が見据える先の遥かさに戦慄した。
今年の鮭の遡上量は文字通り桁違いなのだが、静子にとってはそれすらも通過点に過ぎないのだ。
静子が満足する結果を思い浮かべようとした蕭は、川から鮭が溢れそうになるという(おぞ)ましい光景が脳裏を過り、身震いした。

「鮭の豊漁を聞いて、耳聡い商人たちが集まっているみたいだね。近衛様の関白就任もあるから、相当数を流通させずに確保しないといけないし、どの程度を市場に流すかが悩みどころだね」

「鮭はさておき、例年通り農産物が続々と集まってきております。領地からの税収もあるのですが、それ以上に民から感謝の印として献上されています」

「うーん……五穀豊穣のお礼らしいけど、うちは神社じゃないからねえ。皆の好意だから無下にする訳にもいかないね」

「では、今年も収穫祭での振る舞いとして放出致しましょう」

その他にも細々とした報告をすると、蕭は一礼して去っていった。今年も見込み以上の収穫があり、民が飢えるような状況は回避出来ている。
不測の事態に備えて、随所に備蓄米を集積しているため、流通が遮断されるような大災害にもある程度対応できる見込みだ。

「折角の収穫期だし、色々と買い込んでくるかな。試してみたい料理もあるし」

秋と言えば、天高く馬肥ゆる秋との言葉があるように、食材が豊富な季節である。従来であれば、厳しい冬へ備えるため、質素倹約を強いられて兵の士気も低くなりがちであった。
早くから兵農分離を推し進め、職業軍人を多く抱える織田軍への影響は軽微であるが、多くの国にとって冬支度は死活問題となる。
尾張に於いても小規模農家などは懐事情が厳しくなるため、少しでも利益を還元すべく静子は秋口に色々な料理を試すことにしていた。

「彩ちゃーん、お金出して−」

「……ああ、もうそんな時期でしたね。承知しました」

静子は金庫番を自認する彩に金子を催促する。壁に掛けられた暦を確認しつつ彩が応じ、金銭や物品の出納を管理する出納簿をめくる。
予算の計上から出金までを彩に頼んだあと、静子は馬廻衆に声を掛けた。
才蔵は常に控えているため問題ないが、慶次の姿が見当たらないため、長可に行方を訊ねると「朝早くから出て行った」と聞き、諦めることにした。

「さて、それじゃあ目新しい食材を探しに出発だ」

意気揚々と号令を掛け、静子は才蔵と兵を伴って港街へと出発した。






静子が目指す港街には、本願寺の人間が入り込んでいた。彼の名は下間(しもつま)頼廉(らいれん)。優れた武将であると同時に名うての政治家でもあった。
本願寺の重要人物でもある彼が、直接潜入しているのには理由があった。以前から静子の動向を探るべく、間者を放って情報を集めていたのだが、一向に成果が上がらない。
間者の潜入自体は成功するのだが、得られる報告は精彩を欠いていた。幾度も人員を入れ替えたが、状況が改善しないため、業を煮やして自ら乗り込んできたのだ。

(この街は危険すぎる)

頼廉は静子が管理する街を回り、間者たちが情報を持ち帰れなかった理由を知った。

(この街の生活は毒だ。清潔かつ快適であり自由だ。この状況に慣れた者が危機感を持ち続けることなど不可能だ。ましてや楽を覚えた人間が、その生活を捨てられるはずもなし)

間者として街に住み、腰を据えて活動すればするほど快適な環境という毒が精神を蝕む。人・物・金が集まり、活気に満ち溢れている港街では、働き口も多く、食うに困ることは無い。
爪に火を点すような一向宗の生活に戻れようはずがない。可能な限り滞在を引き延ばし、快適な生活を維持しようとする。その結果、頼廉の許には碌な情報が集まらない。
担当から外した間者が、その後連絡を絶った理由もこれではっきりした。頼廉ですら僅か数日の滞在で決意が鈍るほどなのだから、他の者ならば推して知るべしだろう。
苦難に耐えることは出来ても、快楽を断つことは難しい。早く調査を終えて、国許に帰らねばならない。そう思った頼廉の目に、異様な人だかりが飛び込んできた。

「ご覧下せえ! 今朝上がったばかりの大物です。見た事も無い魚でやしょう?」

「朝採りの野菜が入ってますよー!」

「山の幸ならうちが一番よ!」

大賑わいを見せる人だかりに近づくにつれ、彼らの掛け声が頼廉の耳にも届いた。誰かに売り込みをしていることは理解出来たが、それにしては売り手の人数が多すぎる。

「もし、これは一体何の催しでしょうか?」

既に商いが済んだのか、離れた位置で荷物を纏めていた商人に頼廉は声を掛けた。
僧形の頼廉に声を掛けられ酷く驚いた商人だったが、質素な身なりに好感を覚えたのか快く教えてくれた。

「この街じゃあ毎年恒例の行事さ。この時期になると静子様が連日大金を持ってお越しになって、色々なものを大量に買い付けていかれるんだよ」

「ほう……さぞや名のある御大尽なのでしょうね」

「まあ、飛び交う金子の桁が違うから御大尽には違いねえな。でもな、それだけじゃあないんだよ? ここで取引されたもんは、暫くすると面白いモンになって戻ってくるんだよ」

「いかように?」

「お坊さん、この街は初めてかい? なら、ここから少し離れたところに大きな街があるのは知ってるかい?」

商人の問いに頼廉は頷いた。港街に来る前に通った、中継地となる大きな街だろうと推察する。

「なら話は早い。あそこは静子様のお膝元、ここで買ったものを使って色々な料理をお試しになる。その料理の作り方が、各街の料理屋達に公表されるんだ。漬物なんかの保存食から、大店(おおだな)の旦那が召し上がるような高級料理まで、手広く教えて頂けるんだからありがたい。ようするにお買い上げ頂いた品物は、後日飛ぶように売れること間違いなしなのさ」

「なるほど……料理?」

「そうよ。この港街でも、ここから東に少し行くと、料理屋通りがあるから行ってみな? お膝元ほどじゃあないが、美味い料理が揃ってるぜ。海のもんに限りゃ、ここが一番よ。おっと、そろそろ戻って仕入れないと商機を逃がすってもんだ、お坊さんも気を付けてな」

人だかりが捌けてきた頃合いを見計らった商人は、言うだけ言うと頼廉の返事を待たずに去っていった。
慌ただしく話を打ち切られたが、それでも多くの収穫があった。料理屋についてはひとまず後に回し、静子の行動を観察しようと様子を窺う。
目に見えて人だかりが少なくなり、大商いが出来たのか上機嫌な商人が多く見える。

(これほどの人数から定期的に買い付けをするとは……中々に羽振りが良さそうだ)

人だかりは消えたが、静子達が立ち去る様子は無い。出物や大物をゆっくりと待つつもりなのだろう、その様子から潤沢な資金があることが窺えた。

(織田の異様な隆盛も、彼奴(きゃつ)の存在あってのことか。幾度も大盤振る舞いをしても尽きぬ財を、如何にして集めるというのか)

静子の底知れぬ財力の源泉について頼廉は思いを巡らせる。何気なく見やった店先の絵皿、その見事な大輪を見て彼は天啓を得た。

(そうか! 奴は己の所領だけではなく、尾張一円全体を繁栄させたのだ!)

そこに気が付けば、今までは別個の点でしか見えなかったものが、線を結び、像となって浮かび上がってくる。
戦国時代における富とは、豊かな他者の土地を奪うことにある。今ある物をより豊かにするには時間も金もかかり過ぎる。
その点、他者の富を奪う方法は、いくさという博打を経て、勝てば即座に巨万の富を得ることが出来た。
今や尾張の価値は綺羅星の如く高まり、放っておいても人や物、金が集まってくる。
尾張一国だけでも、恐ろしい量の物を生み出し続けるのだ、織田の経済を封鎖するなど、夢物語に過ぎないと頼廉は悟った。

(点であれば押さえ込めもしよう。無数の点を繋ぎ合わせた面を相手に、少しぐらいの点を潰したところで他の点がそれを補ってしまう。主要な街道を封鎖しようにも、織田領を通る全ての道を封鎖するなど現実的ではない)

自分達が現状を如何に都合よく捻じ曲げて認識していたかを突き付けられた。今となっては織田を囲い込むことなど不可能だ。
反織田勢力が一致団結して死に物狂いで抵抗すれば可能性もあろうが、寄り合い所帯に団結など望むべくもない。

(遅きに失した。今更静子を調べても意味がない。もう既に奴がおらずとも繁栄する仕組みが出来上がっている。それでも静子を仕留めれば少しの猶予は得られようが、その為に必要となる犠牲が大きすぎる)

全てが遅すぎた。最初の織田包囲時に、どれほど犠牲を出そうとも多方面から同時に攻撃を加えられていればと、今更ながらに悔やんだ。

(上杉が織田に屈したのも、もはや巻き返しが利かぬと悟り、次の最善手を模索した結果。か)

被り続けていた深編笠で顔を隠すようにして、頼廉は己の行く末を憂いつつ立ち去った。






頼廉が気落ちしつつ立ち去った頃、静子は買い付けた目録と予算を突き合わせながら周囲に告げた。

「追わなくて良いよ」

静子を護衛する才蔵は勿論、兵たちも怪しげな僧形の男に気付いていた。頼廉だと見抜いたのではなく、本願寺の間者であろうと当たりを付けていた。
そんな彼らをして、静子は追跡不要と告げた。周囲が(いぶか)しむのも無理はない、自身の危機管理という一点について静子の信用は低い。

「いや、あんなに露骨だと流石の私でも気付くよ。あの様子だと、成果が上がらないから現場を見に来た上役ってところだろうし、自分で見聞きした内容を持ち帰って貰った方が、内部の士気が下がるかもしれないしね」

「承知しました。しかし、御身には十分ご注意下さいませ」

「判りました。さて、買い物を続けましょう」

才蔵の忠告を素直に受け取ったあと、静子は港街での買い物を続けた。
大口の買い物以外は、現物と現金でやり取りするため、ある程度荷物が溜まると、荷運びを雇って順次静子邸へと運ばせていた。
これが数日続くのだから、商人たちが商機と意気込むのも無理はない。頃合いを見計らって静子は帰宅した。

静子邸では、みつおや五郎が静子達に先駆けて運ばれてきていた食材を前に唸っていた。
(くりや)では四郎が下ごしらえなどの雑用をこなしていたが、静子は面識がないため新しい下男だと認識していた。

「これだけ新鮮な食材を集められるってのは凄いな……財力だけじゃ無理だからなあ。でも、これだけあると何から使ったものか悩むよな」

「だな。しかし、それをどう料理するかが腕の見せどころよ」

「いえ……味見役が……その……。あまり挑戦的な料理は避けるべきかと……」

みつおの言葉に居並ぶ味見役を盗み見る。
隣の座敷では信長を筆頭に、信忠など織田一族。柴田勝家や竹中半兵衛など、都合のついた織田家家臣たちに加え、少し離れた手前側の席には兼続や景勝など上杉家の者も並ぶ。
試食会への参加を切望していた家康は、あいにく都合がつかなかったが、次回も必ず声を掛けてくれと懇願していた。
更に身内枠として京に向かったはずの前久が座しており、試食会に参加するためだけにとんぼ返りを実行していた。ちゃっかり家司の進藤長治も隣に並ぶ。
同じく身内の長可や慶次など、静子の家臣たちがこの機会を逃そうはずもない。

「明らかに失敗が許されない面々だよな」

「食い意地の張った御仁たちだ……仕方ない。死力を振り絞るか!」

決死の覚悟で意気込む彼らに、空気を読まない静子が食材を運んできた。

「調子はどう?」

また新たな食材が追加されたと、みつおたちがげんなりしているのを他所に、静子はおがくずが詰まった箱から中身を取り出した。

「完全に凍り付いていたから、氷室から出して結構経ってるんだけど半解凍にもなってないねえ」

静子が運んできたもの、それは戻り鮭を活け締めして、内臓を取った後に冷凍しておいた生鮭だ。
寄生虫の感染リスクを避けるため、長期間冷凍しており、その中からいくつか見繕って解凍している。
現代では当たり前に食卓に並ぶ生鮭だが、戦国時代に於いては限られたものしか口に出来ない高級品となる。
冷凍技術や輸送技術が発達していないため、如何に金子を積もうとも、旬の時期と立地を兼ね備えた領地でしか手に入らない逸品だった。
五郎が頭を持ってぶら下げ、解凍具合を確認していると味見役の席から喚声が上がった。
旬の戻り鮭であり、これほど大型の物となると国人であってもそうそうお目に掛かれない。

「……足満のおっさんがやってたアレ、出してみるか?」

「ああ、冷たさと食感が面白い料理だったな。受けるかもしれない」

「不評を避けるためにも定番料理も出しましょうよ! 鮭のムニエルに粕汁……あ! 『はらこ飯』なんかどうです?」

「イクラの醤油漬けはあったかな? よし、鮭尽くしにしてみようか」

鮭を中心に野菜や調味料の入った箱をひっくり返しながら、みつおたちが意見を交わしている。すっかり静子の存在を忘れているようなので、彼女は苦笑しつつも自分の席に着いた。

「どんな料理が出てくるかな」

その場にいる全員の心情を代弁するかのように、静子は頬杖をつきながら呟いた。

「お待たせしました。鮭の炊き込みご飯である『はらこ飯』、鮭のムニエル、鮭のルイペ(融けた食べ物という意味のアイヌ語、半解凍状態の刺身)、鮭皮の焼き作りと鮭の粕汁です」

味見役の前に並んだ料理は鮭尽くしの名に相応しいメニューであった。






大好評のうちに終わった試食会から更に一ヶ月が経過した。本格的に冬が始まると思った頃に足満が越後より帰還した。予想外の人物を伴って。

「うん、真田家一党は予想していたけれど、どうして上杉家まで?」

東国の事情を知っているだけに、真田昌幸が上杉を頼って出奔する可能性があると予想はしていたが、上杉謙信まで同道してくるとは想定していなかった。
前回の対面時とは異なり、今回は若干の敵愾心(てきがいしん)が感じられた。事情が呑み込めないので、静子は足満だけを呼び止めて詳細を訊ねた。

「……五虎退(ごこたい)の譲渡は構わぬが、禁酒令に近い酒量制限などもっての外と言う事らしい。ここは一つ、呑み比べをして勝ったら、わしから静子に執り成してやると言ったのだ」

五虎退とは謙信が永禄二年に上洛した際、正親町(おおぎまち)天皇より賜った粟田口吉光作の短刀だ。遣明使の役人がこれを用いて五頭の虎を追い払ったとの逸話があり、それが号の由来と言われている。

「禁酒に反発されるとは予想していたけれど、呑み比べで決着を付けるってのはどうかと思う。お酒を控えることが健康に繋がるって伝えてくれた?」

「酒の量を減らせと言っただけで、聞く耳を持とうともせん。意固地な奴よ」

そう言いつつも足満は静子から視線を逸らした。勘の良い静子は、その仕草から足満が敢えてそれ以上の説得をしようとしなかったと察した。

上杉謙信と言えば、三合入りの『馬上盃(ばじょうはい)』を愛用する程の大酒豪だ。その酒好きが(あだ)となり、高血圧性脳出血を引き起こし、49才という若さでこの世を去った。
一説によると謙信は40才の時にも軽い脳出血を起こし、左足に後遺症が残っていたと言われている。その事を知っていた静子は、謙信の足を注視していた。

若干引きずるような仕草をしており、足も浮腫(むく)んでいた。時折あちこちを掻いているため、全身にかゆみが出ているのだろう。
現代で作成していた黒歴史ノートには、謙信を味方に引き入れた際のアルコール依存症対策をいろいろ調べたため、ある程度の対策は出来ると考えていた。

脳出血の直接的原因は高血圧であり、静子はまず高血圧対策に取り掛かろうと考えていた。高血圧の要因は運動不足にアルコールや塩分の過剰摂取が考えられる。
戦国時代の人間が運動不足になるとは思えないため、問題は食生活とアルコールだと静子は判断していた。
皮肉にも謙信の足満に対する態度が、彼のアルコール依存症を浮き彫りにしていた。

(アルコール依存症の人って、飲酒の害から目をそらすのよね。攻撃的になる事も依存症の心理に当てはまるし、これはいよいよ強制力を持たせた治療に取り掛からないと駄目かな)

史実通りに謙信が死ねば、家督争いから『御館(おたて)の乱』に発展するのは明らかだ。
それを理由に上杉家に介入することも考えられるが、東国の抑えとして謙信には健在でいて貰わねば困る。
謙信には健康で長生きをして貰い、その間に武田や北条、最上などの中部・関東、東北にかけての国人を掌握する。
ここまで持ち込めれば、上杉家の家督争いがどちらに転ぼうと対処ができる。

「……仕方ないか。自分が言い出した勝負で負ければ言い逃れも出来ないよね。今回の暴飲は必要経費と割り切りましょう」

「奴は誓紙を(したた)めておる。信仰心に掛けても約束を(たが)えることは無いだろう。何、相手はみつおだ。あいつが出禁になった飲み放題の居酒屋は数知れない」

「無茶をしそうになったら止めてね。これで肝硬変や脳梗塞になったら元も子もないから」

「心得ている」

静子は訝し気な視線を足満に向ける。若干挙動不審になった足満だが、腰に佩いた刀の柄に手を掛けた。いざとなれば力づくで止めるという事だろう。
少し呆れたが、仕方ないと割り切ると静子は奥に向かって声を掛けた。

「蕭ちゃん、みつおさんを連れてきて」

純粋に一対一の呑み比べにしようとしていた静子だが、ふとある考えが浮かんだ。直接対決するよりも、チーム戦にしてしまった方が負担も少ないのではと思い立ったのだ。
踵を返しかけた蕭を捉まえて、慶次や才蔵、長可も呼んでくるよう命じた。

「君たち、天下にその人ありと言われる酒豪になってみたいと思わない?」

こうして尾張チームと越後チームによる呑み比べが勃発した。次々と樽が開けられ、アルコール臭漂う会場から早々に退散した静子は、翌日に優勝者から直接結果を聞いた。
尾張や美濃、越後の威信を掛けた酒豪たちによる呑み比べ、夜が明けた時に立っていたのはみつお一人だけであった。






呑み比べで消費された酒の量を思うと頭が痛かったが、静子は謙信が約束通り酒を断つ決意表明として『馬上盃』を割った事を知って喜んだ。
熾烈を極めた呑み比べであったが、当のみつお本人は一部から「酒神様」と崇められ困惑していた。
暫定的に天下一の酒豪となったみつおに鶴姫が惚れ直し、顔を合わせる度にみつおが惚気ると、足満は苦々しい表情をして言い捨てた。

「仲良きことは美しきかな。さて、ついに出来ましたか、新貨幣」

静子はお膳に載せられた新貨幣を眺める。金、銀、銅の三貨だ。
史実でも信長は三貨制度の構想を持っていたとされるが、貨幣は卑しいものとする価値観が多かったため、後回しとなっていた。
しかし『今の信長』には余力も、新しい価値観を打ち出し、普及させる発信力もあった。
信長は不換紙幣を時期尚早として諦め、三貨制度を通して金本位制度に舵を切り、やがて兌換貨幣への切り替えを見据えて、新貨幣の運用を開始した。

新制度とは言うものの、取り立てて目新しい物はない。
銅貨は流通している永楽銭に似せて鋳造されており、銀貨は四角い板状、金貨は江戸時代に流通していた草鞋形の小判となっていた。
交換レートを大きく変更すると混乱をきたすため、銅貨1枚を現在の精銭と同価値とし、銀貨1枚を銅貨100枚に定めた。
そして金貨1枚を銀貨10枚と等しいとし、金貨1枚で1000文、即ち1貫文とした。

それぞれの貨幣の金属混合比は極秘とされ、通貨発行に関与しないため静子も把握していない。全容を把握しているのは信長と、通貨座を統括する職人のみとなる。

渡来銭(中国の銭貨)の流通は今も続いているが、日ノ本の通貨を統一するには移行期間が必要だ。
暫くは渡来銭、信長の新貨幣、各国が独自鋳造している領国貨幣の三種類が混在することになるだろう。
信長自身も性急な貨幣移行は経済に影響が出るとして、今後20年を目処に新貨幣に切り替える計画でいた。
新貨幣の普及は京や堺などの畿内一帯、尾張や美濃などの信長の直轄領内に留まると見込んでおり、日ノ本に於ける通貨制度の刷新を信忠の仕事とした。
兌換紙幣や不換紙幣については、信忠の子孫の課題として長期計画を立てていた。

「来年から税の徴収は、この新貨幣でやり取りされるのか」

今年の税に関しては今まで通りとし、来年より納税に限り新貨幣のみとされる。鐚銭(びたせん)は尾張と美濃のみ、他に先駆けて今年限りの使用制限とする。
鐚銭や精銭の新貨幣への交換は随時行われているため、信長のお膝元に限れば早い段階で切り替えられると見込んでいた。
尾張や美濃を試金石とし、京や堺などの近畿圏は3年を目処として鐚銭駆逐を実施する。それぞれの国が独自に発行している領国貨幣については、5年を目処に使用不可能となる。
これらの制度は朝廷の名で全国に発布され、違反した場合は朝敵として処罰されるという厳しい内容となっていた。

「偽造貨幣である私鋳銭を造れば朝敵となり、使用期限を過ぎた通貨を納税に使えば死罪か。容赦ないねえ。まあ、数年の猶予があるのに両替しないんだから、当然と言えば当然だよね」

しかし、これらはあくまでも『通貨を使用する』際についての制限事項であり、使用期限を過ぎた通貨を持つこと自体は罪と見做されない。
現代でも使用できない通貨、所謂古銭を蒐集するコレクターは数多くいる。
公の場に於いて使用しないのであれば、新貨幣以外を大量に抱え込んでいても問題ない。
しかし、移行期間を過ぎれば両替できなくなり、古銭を価値ありと認める好事家の間でしか取引が成り立たなくなる。

「ふーむ。大きな商取引をするには金貨1種類だけじゃ不便だから、銀貨、金貨については数種類用意するよう上様に上申しておくかな」

「静子様。真田様がお越しになりました」

「お通しして」

新貨幣を前に予想される問題について思いを巡らせていると、小姓が真田昌幸の来訪を告げた。
すぐに通すよう静子が命じると、小姓の一人が昌幸を迎えに行き、他は謁見の準備を整える。
二日酔いなのか顔色の優れない慶次や才蔵なども集合して暫くすると、小姓に先導されて真田昌幸と数人の男性が入ってきた。

「ゆっくり休めましたか?」

「過分なご配慮痛み入ります。衰弱していた妻子も、すっかり元気を取り戻しましてございます」

静子の問いかけに対して、昌幸は頭を下げたまま答えた。
足満が昌幸を連れ帰った直後の状態は、極度の疲労から酷く衰弱しており、食べ物も固形物は受け付けない程に弱っていた。
そんな状態ではまともに会話など出来ようはずもなく、静子は昌幸たちに数日の休養を言い渡していた。

「さて、足満から概要は聞き及んでおりますが、確認の意味も込めて改めて伺います。真田家の事情と、ここに至るまでの経緯を出来る限り詳しくお話し下さい」

「はっ」

昌幸は事前に認めておいたのか、一言断ると懐紙を取り出し、それを確認しながら訥々と語り始めた。
まず真田家を取り巻く状況に関して、真田家は昌幸の父に当たる幸隆が健在だが、嫡男の信綱と次兄の昌輝が共に討ち死にしている。
そこで三男である昌幸が急遽真田家に復して家督を継いだ。
しかし、既に嫡男の信綱が当主となっていたため、この家督継承は混乱の引き金となった。まず昌幸は武藤家の家督を放棄し、代わりに武藤常昭が後を継いだ。
そして亡き長男・信綱の嫡女(正妻の長女)である清音院を妻に迎え入れた。これによって真田家当主として、嫡流の血筋という正当性を担保しようとした。
しかし、ここで問題が発生した。一先ず真田家内の継承問題に区切りをつけた昌幸は、嫡男の信之と彼の母である山手殿を武田家に人質として差し出そうとしていた。
その矢先に、昌幸は諏訪勝頼より所領のいくつかについて没収を言い渡された。真田家にとっては青天の霹靂であり、真田家に継承問題が再燃した。
主家である勝頼に昌幸の復姓と家督相続は認められたものの、いきなり領地を没収されるような人間を真田家当主に据え置いて良いのかと家臣達が割れた。
更に残された所領についても他より重い税を課せられ、昌幸排斥派の勢いが大きくなっていった。
この騒動は(さき)の継承問題よりも長く続き、武田家に対して人質を送るどころではなくなった。

昌幸は父の幸隆と話し合い、これ以上の騒動は真田家を断絶に導くと判断した。昌幸が当主である限りは、この騒動は収まらないため、昌幸は自ら進んで身を引くこととした。
そこで越後を織田軍が訪ねた際に、昌幸は自身が追い出される形で真田領を後にして越後領を目指し、そこで織田軍と合流して静子の許へ戻ることを計画した。
用意周到で知られた昌幸が珍しく発作的に行動したため、様々な行き違いが発生した。
当初、昌幸は嫡男の信之を真田領に残し、幸村(諱は信繁が正しいが、混乱を避けるため後世の名である幸村表記とする)のみを連れて出奔しようとした。
真田領を出発してから一行に信之が含まれている事に気付き、完全に真田家を裏切った逃避行として真田家から追手を掛けられることとなった。

「なんというか……藪蛇というか、裏目に出ちゃった感がありますね」

経緯を聞いていた静子は、計画性の無さと間の悪さに呆れた。しかし、異例な行動だからこそ、逃げ延びられたとも言える。
入念に計画して行動する昌幸の性格を知っているだけに、大きく迂回した脱出経路を辿ると予想され、追手の数が少なかったからこそ無事に合流できたのだ。
静子は顎に手を当てて、真田家と敵対したことについて考えるが、既に動き出した事態は変えようがない。
昌幸の件については信長にも報告しており、必要な情報を引き出した後は、彼の処遇を静子に一任すると言われていた。

「ご無礼を承知で申し上げる。進言致したき話がございます」

彼の処遇について考えていると、昌幸の後ろに控えていた男の一人が進み出た。昌幸が彼の動きを止めようとしたが、静子はそれを手で制した。

「構いません。発言を許します」

「有り難き幸せ。手違いゆえに殿は手勢を率いておられず、我ら乱破(らっぱ)のみが同道することになり申した。いくさ場にて戦力とは数えられない我らですが、いくさ場以外での陰働きにてお役に立って見せましょう。どうか殿にお慈悲を賜りたく、お願い申し上げる次第」

彼の悲壮な決意を聞いて静子は認識にずれがあることを知った。
昌幸は身一つで静子の許に参じ、真田家と穏便に袂を分かった後、手勢を招くつもりであったため、彼が引き連れてきたのは僅かな側近と昌幸の目や耳となる大勢の間者だけであった。
戦国時代の常識からすると、彼らは到底戦力として数えられない。お荷物として冷遇されるのではないかと、間者の男は考えたのだろう。大変な誤解だと静子は思っていた。

「誤解があるようなので訂正しますが、私は元より貴方たちに戦力を期待していません。他所の流儀に染まった正規兵よりも、柔軟な対応が出来る乱破の方がありがたいぐらいです。私は真田殿の智に期待してお招きしたのです。判断の元となる情報を取ってくる、目や耳である貴方たち乱破を軽んじるはずがありません。私はいくさ場での武功よりも、それまでに如何に情報を得るか、いくさ場に於いてもいち早く情報を得る事を重視しています」

この考えは静子に限ったものではない。信長の方針が静子や他の家臣たちへ直ちに伝達されるのは、信長自身が情報を重要視しているためだ。
彼は街道整備の一環として、各地に『駅』を設けている。
駅は小規模なものから、宿場町とも言える大規模なものまであるが、一様に交換用の馬と、伝令たちの休憩所、食料や資材を調達できる設備が整えられている。
伝令がリレー形式で情報を伝達するため、他に類を見ない速さと、秘匿性を持ったまま家臣達に情報が届けられていた。
これら情報や物流のインフラ整備にも力を入れている事もあり、間者を卑しいものとみる風潮を嫌っていた。

「それを聞いて安堵いたしました」

「他所でどのような扱いを受けてきたかは知りません。しかし、心して下さい。情報を重要視するからこそ、それを見極める目は厳しくなります。貴方たちが集めた情報で、我々はいくさの行方を判断します。間違った情報を齎せば、勝てるいくさに負け、勝てぬいくさに身を投じることになるのです。それほどに情報とは『重い』のです」

静子の言葉に間者の男は驚愕を浮かべる。しかし、静子は気に留めずに言葉を続ける。

「巷ではいくさの勝敗は頭数のみと考える人もいますが、私のところは違います。精度の高い正確な情報を得られるか否かで、我々の運命は大きく左右されます。決して卑しい仕事などと考えないことです」

「……はっ、肝に銘じます」

「あ、それと一つ言っておきますね。情報は量があれば良いと言うものではありません。情報が『ない』という事もまた情報なのです。何故、『ない』と判断したかを添えれば立派な成果として判断します。私が最も恐れることは、『情報の取りこぼし』です。情報が無い時に無理に報告をしようとせず、必要な時に必要な情報を得て下されば結構です。良い情報にはそれに応じた報酬を約束します」

「それは……」

「信賞必罰。功有るものは必ず賞し、罪過あるものは必ず罰します。何もおかしい話ではないでしょう?」

それは当たり前ではないと間者の男が口にしかけたが、静子の台詞が男の発言を遮った。間者の男はそれ以上何も言わず、ただ深々と頭を下げた。

「例の物を」

話が一段落したところで、静子は小姓に命じて木箱を運ばせた。小姓たちは白木の木箱を昌幸の前に幾つか並べると、一礼して隅に下がった。

「何をするにしても資金が必要でしょう。しかし貴方たちは、未だ成果を出していません。故に民からの税で費用を賄うわけにはいきません」

そこで言葉を切ると、静子は昌幸に木箱を開けるよう促した。
昌幸が木箱の一つに手を掛けて蓋を開く。中には隙間なく金子が詰まっていた。途方もない大金が用意されていることに昌幸は驚愕する。

「それ故に、私費で支度金を用意しました。これだけあれば当面の資金に困ることはないでしょう。これ以降は基本的な報酬に加えて、働き次第で成果報酬も出します」

「格別のご配慮……この昌幸、感謝に堪えませぬ」

「一つ忠告しますと、他人の金とは思わないことです。人は労せず得たあぶく銭を簡単に浪費してしまいます。これを失えばもう後は無い、命銭だと思って有効に使って下さい」

「肝に銘じます」

静子の忠言に昌幸は深々と頭を下げて返答した。






何をするにしても昌幸はまず、尾張に生活基盤を作るしかない。そう考えた静子は、昌幸に当面の住居を斡旋し、身を落ち着けるよう命じた。
その身一つで尾張に来たため、生活拠点が整っていない。得てして土地屋敷の取得は、地元の人間の協力なしにはうまくいかない。
まずは身を落ち着けて、いつでも動ける態勢を整えるのが彼の初仕事となった。

それから数日空けて、静子は昌幸にとある命令を下した。
彼女が命じたのは人集め、それも甲斐出身の中でも竜地(りゅうじ)団子(だんご)などの甲府盆地にある村出身者、もしくはそれらの村に詳しい者を探させた。
昌幸は言われるままに、手勢から対象者を選び出したが、集まったのは僅か4名に過ぎなかった。

「『泥かぶれ』という病を知っていますか?」

集められた人間に対して静子が問いかけた時、昌幸を含む全員が何を言いたいのか理解した。

泥かぶれ、後に日本住血(にほんじゅうけつ)吸虫症(きゅうちゅうしょう)と命名される地方病である。
初期は発熱や下痢などの軽微な症状だが、重症化すると手足がやせ細り、腹が膨れ上がって死ぬ。
泥かぶれに相当する病気が初めて記載された文献は甲陽軍鑑であり、重症化した小幡(おばた)豊後守(ぶんごのかみ)昌盛(まさもり)が勝頼に暇乞(いとまご)いをした時の様子が書かれている。
これが甲斐に泥かぶれが蔓延していた可能性を示唆する記録であると考えられている。

この病気がいつから広まったのか不明だが、少なくとも千年以上も昔から流行し続けている疾患と考えられる。巷では「甲府盆地の百姓は泥かぶれで死ぬが定め」とまで言われていた。
これは支配者層が殆ど感染せず、百姓や小作人ばかりに罹患が集中していたことに起因する。
それゆえ流行地である村へ娘が嫁ぐ場合、棺桶を背負わせて送り出せと唄われるほどであった。
百姓たちも流行地に偏りがあることに気が付いていたが、何が原因で発病するのか皆目見当もついていなかった。
この泥かぶれに行政が本格的に取り組み出すのは明治十四年。流行の終息宣言が出されたのは実に平成八年二月十九日である。実に百十五年という長きに亘る挑戦であった。

「腹が膨らんで死ぬ病のことでしょうか?」

間者の一人が恐る恐る発言する。静子は一つ頷いて言葉を続けた。

「その通り。君たちの仕事は、泥かぶれが発生した村をこの地図に書き記すことです」

「それだけで宜しいのですか?」

「記憶にある限り全て頼みます。予防対策はありますが、未だ甲斐は武田が支配する土地。今は状況を把握する以外に出来ることはありません」

静子が『予防対策がある』と口にした瞬間、4名のうち1人が目を見開いた。

「防げるのですか!?」

「発病すれば治せませんが、何に気を付ければ避けられるかを知っています。南蛮でも同様の病気があり、そこで一定の効果を上げた対応策がありますので」

無論、静子は現代の知識で感染源も対策方法も知っている。しかし、彼らにそれを教えても意味がない。
静子の取れる対策とは感染源から遠ざかることであり、感染源を根絶する事ではないため、生活をする上で感染源に接触せざるを得ない彼らに教えても対策のしようがないためだ。

泥かぶれは寄生虫症であり、汚染された水などに接触することにより感染する。
日本住血吸虫の幼生であるセルカリアは、水中に潜み終宿主である哺乳類と接触すると、その皮膚を食い破って体内に侵入し繁殖する。
このセルカリアは非常に小さく、目視では確認できない。このため根絶対策の為に取られた施策は、日本住血吸虫の中間宿主であるミヤイリガイの絶滅であった。
日本住血吸虫の中間宿主はミヤイリガイでなくてはならず、他の淡水産巻き貝類には寄生出来ない。

日本住血吸虫の生活史は、糞便を通して水中に放たれた虫卵が孵化し、ミラシジウムとなる。このミラシジウムがミヤイリガイと接触し、この巻き貝の体内でセルカリアに成長する。
セルカリアはミヤイリガイを脱して水中へ移行し、水に接触した哺乳類へと経皮感染を行う。
哺乳類に感染したセルカリアは成虫である日本住血吸虫となり、その名の通り血管内部で1日に3000個もの産卵を行う。
これが糞便を経由して再び外に排出され、雨などを通して水中へと戻るライフサイクルを取る。

この生活史に於いて、人類にとっての感染源となるのはミヤイリガイに寄生出来た場合のみであり、ミヤイリガイを根絶出来れば日本住血吸虫も駆逐できる。
しかし、ミヤイリガイ自体が繁殖力旺盛であり、水中に留まらず陸上でも生活できることから根絶は困難を極める。
実際に、流行地からミヤイリガイを駆逐するまでに70年もの月日を要している。

余談だが日本住血吸虫には、終宿主である哺乳類に寄生するまでに厳しいタイムリミットが存在する。
卵から孵化したミラシジウムは18時間以内にミヤイリガイへ、幼虫のセルカリアは48時間以内に終宿主に寄生できないと死んでしまう。
これは如何なる環境でも同様の結果となり、ミラシジウムの段階では人に感染する事が出来ない。このためミヤイリガイさえ絶滅できれば、日本住血吸虫の虫卵がどれ程残っていようとも、人類にとって脅威となり得ない。

「そう……ですか」

何か思うところがあったのか、間者は顔を手で覆って涙を流した。近くにいた別の間者が彼の肩に手を置いて慰める。

「申し訳ございませぬ。彼の妹は泥かぶれで命を落としましたので……」

「それは残念です。しかし、彼の妹のような被害者を出さないためにも、この仕事に真剣に取り組んで欲しい。覚えている限りで構いません。感染者を出した村に印をつけて下さい。私の考えが正しければ、特定の河川流域に集中しているはずです」

「ははっ!」

間者たちは深く頭を下げ、4人が寄り添うようにして地図を片手に部屋を後にした。一緒に退出しようとした昌幸だったが、静子がそれに制止を掛けた。

「……暫く東国の情報収集をお願いします。特に武田の動向については詳細に願います。検地や商工業への関与、富国に繋がる情報を重点的に集めて下さい」

「はっ! 承知しました。しかし、今の武田にかつての栄光は取り戻せぬかと思いまする。それほどの人員を割く必要が無いかと愚考します」

「いいえ、今の武田は窮鼠(きゅうそ)です」

静子は昌幸の言葉を明確に否定してみせた。武田信玄に黒星を付けた静子が、そこまで断言することに昌幸は驚いた。

「我々は勝利を得るために準備を整え、勝てる場所へと誘い込み、相手の実力を封じる形で勝利しました。相手の土俵で勝利した訳ではありません。追い詰められ、残された領土を守るため必死になった鼠は、猫にさえ牙を剥きます。油断して侮れば手痛い一撃を喰らうことになるでしょう」

静子の言葉に昌幸は思うところがあった。誰しも自分の安住の土地を奪わんとされれば、死に物狂いで抵抗する。そこに勝てる勝てないの勝算は関係ない。

「追い詰められた人間は、短期的には常人を凌駕します。本拠地だけとなった武田には後がありません。腹が据わってしまえば、甲斐の精兵は脅威です。再び力を取り戻さぬよう、弱り切ったところを見極めるためにも、徹底した情報収集が必要になるのです」

「目から鱗が落ち申した。必ずやご期待に応えてみせましょう」

「よろしく頼みます。話は変わりますが、子供は元気になりましたか?」

突然の話題転換に戸惑う昌幸だが、静子に他意が無いと知ると笑みを浮かべて答えた。

「元気過ぎて手に余ります」

「それは重畳。私の見立てでは、二人とも猛将となりますよ。惜しむらくは、我々や貴方の働き如何によって、泰平の世となれば活躍の場がなくなることでしょうか」

「確かに言えますな。せめて10年、いや5年早く生まれておれば、お役に立てたやも知れませぬ」

「しかし、武家の男が軟弱ではいけません。いずれ時期を見て鍛錬に参加させましょう」

「心得ております」

静子の言葉に昌幸は人の好い笑みを浮かべて言った。
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