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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀四年 室町幕府の終焉

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千五百七十三年 八月上旬

慌ただしかった六月とは打って変わって、七月は比較的平穏に過ぎていった。偶に長可が出陣しては、不完全燃焼だったのか不満げに帰ってくる程度で、これと言った変化はない。
才蔵はいつも通りに静子の護衛に徹し、高虎は黒鍬衆と行動を共にしているため、頻繁に家を空けることとなり、顔を見せることは稀だった。
一方慶次は景勝たち人質の監視という名目で、毎日彼らと共に遊び歩いていた。
静子は新築祝いの騒ぎで滞っていた政務を片付ける日々を送るものの、政務担当者たちが事務作業に習熟してきたため、意思決定をすれば残りの手配を引き継いでくれるようになり、執務で忙殺されるという状態とは縁遠くなっていた。

そんな平穏な日々も、七月中旬に入ると終わりを告げる。信長がついに浅井・朝倉家討伐を号令した。
この出陣では信長自らが総大将として出陣し、嫡男である信忠(旧:奇妙丸)も副大将という立ち位置で信長に付き従っていた。
当然ながら静子にも声が掛かり、彼女自身も出陣する運びとなった。織田軍の総力が結集され、信長の意気込み具合を内外に知らしめた。

「えー。此度のいくさで上様は浅井・朝倉両家を滅ぼすおつもりです。相手も後がないため死に物狂いの抵抗が予想されます。油断して怪我などしないようしっかり対応しましょう」

いつも通りどこか気の抜けた静子の訓示に軍議に集まった、いつもの面子八名は苦笑を隠せない。

「今回、我々は朝倉家の対応に集中します。浅井家側の攻略は羽柴様が進めておられましたので、これまで通りお任せすることとしました。現場を知らない者がしゃしゃり出て不和を招いては本末転倒ですからね。羽柴様側から依頼があれば対応する程度で良いと思います。特別な事情があれば上様からご下命(かめい)があるでしょう」

その言葉通り、静子は自軍を朝倉家のみに集中する予定でいた。
これは前述の通り、秀吉が先任として浅井家に対応していたこともあるが、朝倉家が用いる城砦が浅井家の背後に位置しているのが大きな理由であった。
特に大嶽(おおずく)城はこのいくさの行方を左右する(かなめ)となる。大嶽城は浅井家の居城である小谷城と同じく、小谷山の北側に位置する城だ。
小谷城よりも北側に築かれ、朝倉家の居城である一乗谷(いちじょうだに)城への中継点として非常に重要な位置を占める。
つまりここを信長に抑えられた場合、浅井家は喉元に刃を突き付けられた状態となる。
浅井家は朝倉家と完全に分断され、兵数の劣る浅井・朝倉側の唯一の利点である連携が取れなくなり、各個撃破されるのが誰の目にも明らかとなるのだ。

「これに先駆けて足利将軍家が京より追放となります。まあ、これについては我々が何かする必要はないでしょう。ただ、浅井・朝倉攻めは将軍追放の後に行われると考えます」

「もう名前だけの将軍なんだし、いっそ始末してしまえば後腐れがない気がするがなー」

「上様としては将軍殺しの簒奪者という悪名を嫌われたのでしょう。それに形式上は相手が降伏して、それを受け入れたのですから、筋は通さないといけません」

「ふーん」

長可の言葉に静子が答える。特に深い意図はなかったのか、長可は生返事をして話を終わらせた。

「詳細については近江へ出陣し、道中の軍議で話します。いつも通り、準備をお願いします」

「承知」

「では、これにて軍議は終了です。予定日までは各自鋭気を養って下さい」

浅井・朝倉戦出陣の軍議は短時間でお開きとなった。
基本的に静子が通達事項を述べるだけで、相談するような内容が殆どないのが原因だ。信長は浅井・朝倉両家の領土を奪った後、越中一向宗をも締め上げる気でいた。
越中一向宗は越後、美濃、越前に囲まれることとなり、完全に行き場を失う。
そうなれば信長に屈服するか、落ち目の武田に庇護を求めるか、それとも破れかぶれでどこかへ攻め込むかを選ぶこととなる。
越中一向宗がそれらのどれを選んだとしても信長としては好都合だった。越中一向宗さえ落とせれば、石山本願寺の兵力は紀州門徒を残すのみとなる。
本願寺は比叡山などの寺社勢力とは異なり、自前の僧兵集団を持っていない。
彼らの強みは各地に散らばる門徒を動員した一向一揆という、必要な時に随時編成され、用が済めば解散となる自由度の高い戦力だ。
その基礎は門徒であり、それが減少すれば、必然的に本願寺の影響力は弱体化する。
故に信長は東日本に唯一残った越中一向宗を根絶やしにし、本願寺の門徒を自領の西側だけに限定するつもりでいた。

「これでよし、と」

静子は必要な書類を纏め、信長へ送る送り状をしたためる。
今回のいくさでは攻め手ではなく、後方支援に徹する必要があった。近江は領土の中央に琵琶湖が存在する関係上、どうしても平野部が少なくなり、領土の割に収穫量が他より劣る。
それゆえ現地での物資調達は難しく、伊勢や美濃、尾張からも軍事物資を運送する必要があった。現に先任たる秀吉も物資補給に関して、美濃からの支援に頼り切っていた。
今回、全軍が近江に展開するとなれば、物資の調達で難航する可能性がある。
その懸念を回避するためにも、静子の後方支援部隊が兵站を担い、過不足なく物資供給を施す必要があった。

「あ、軍が動くと人質である与六君たちはどうするんだろう? 慶次さんに任せるか。あとはこれを蕭ちゃんに任せて、出納(すいとう)管理は彩ちゃんがするから……うん、こんなものかな」

必要書類を書き上げた静子は、小姓を招くと蕭に渡すよう命じた。あとは蕭と彩が必要なものを揃えて後方支援部隊へ連絡するだけだ。
それだけで織田家に血液を送る心臓たる兵站が動き始める。

「領地経営も順調だし、今回のいくさで受ける影響も少ない。近衛様は京へと移り住んだ後、関白となられることが確定しているから……古書編纂事業も本格化するかな」

応仁の乱以降の混乱期に貴重な古書が遺失し、今もなお古書が散逸している事を器具した静子は、史実では塙保己一が編纂した『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』と同じく、散逸した古書を編纂する事業を興す気でいた。
ただし、この事業は公家や寺社に多大な影響力を持つ前久の協力が必要不可欠であった。
幸いにも保全事業に興味を示した前久は、静子に協力することを約束する。
ただし、現物を譲り受けることは不可能であるため、写本を作る必要があった。つまり原本を借り受けて写本を作り、それを以て編纂する流れとなる。

膨大な時間と人員、費用が必要となる割に利益は無い。
しかし静子は金よりも営々と続いた歴史の集大成たる古書が消えることを問題視し、余剰気味であった個人資産より費用を捻出すると約束した。
文化に価値を認め、古書を残さんとする事業は、意外にも朝廷を含む公家社会や寺社勢力などの文化人達に好意的に受け入れられた。
そのお陰かは不明だが、現代では10巻しか残されていない『日本後紀(にほんこうき)』全40巻が、写本ではあるが十五世紀以来、一世紀を経ての再結集となった。
朝廷秘蔵の書物などについても写本の許可が得られ、公家や寺社が秘蔵している様々な古書も同様だった。
しかし実作業には年単位の時間が必要となり、短時間で写本製作が終わる古書など無かった。

「史実では上京が焼かれちゃったけど、それが無かったから古書が残っていたのかな? ま、ともかく書物の焼失や紛失は、後世にとって大きな損失だから、取り返しが効く今のうちに全集を作る事業を始めないとね」

余談だが、塙保己一は計1273種の編集に四十年近くを費やしている。それ以上の古書が集まりそうな静子の古典全集編纂事業は、より多くの時間が必要となる可能性を示唆していた。
だからこそ、前久が関白という朝廷の頂点へと就任する時期に開始せねばならないと静子は考えていた。

「編纂には近衛様も協力してくださるから、後は根気よく事業を続けるだけだね」

静子が興した古書全集編纂事業の概要は以下の通りである。
まず可能な限り古書の写本を得る。この写本を元に、記載された文字を規格化された漢字と平仮名、カタカナで置き換える。
これは古書に記される文字が書き手次第で異なるためである。
規格統一された表記を用いることで、誰もが読める情報として残すのが目的だ。
文字の統一が完成すれば、それらを活版印刷(現代の原稿用紙と同様の縦書き段組みフォーマット)して書籍とする。最後に写本をそのまま印刷出来る木版が完成すれば終了となる。

「さて、他に仕事はないし……おいで、ヴィットマン」

部屋の隅でじっとしていたヴィットマン達に、静子は手招きしながら声を掛ける。彼女の声に全員がパッと起き上がると、一目散に静子へと駆け寄る。
静子がヴィットマンの頭を撫でると、彼は尻尾を勢いよく振って応える。すぐにカイザーたちも我も我もとせがみ出し、静子は苦笑しながら全員の頭を順繰りに撫でていった。

「よし! 散歩にでも出かけるか」

暫く久しぶりの触れ合いを楽しんでいた静子だが、天気も良いため外に出かけようと考えた。
思い立ったが吉日とばかりに突然立ち上がった静子に、最初は首を傾げて見上げていたヴィットマンたちだが、静子が外出の準備をし始めると目的を察して後ろに並ぶ。
彼らは群れの長たる静子が先頭を歩き、その横または後ろから尻尾を振りながら追いかける。

「今日は良い天気だあ!」

広い庭に出ると静子は背伸びをして存分に陽光を浴びる。
最近、引き篭もって事務作業ばかりしていたから、久方ぶりの太陽は少し目に染みた。ヴィットマンたちも、静子に続いて思い思いに伸びをする。

「明日も天気が良かったら、日向ぼっこするのも良いかも」

良い天気が続くことを願って、静子はヴィットマン達と共に歩き出した。
翌日は生憎の雨模様となった。






七月下旬、室町幕府最後の将軍たる足利義昭は征夷大将軍の位を返上し、嫡男である義尋を足利家の後継者とすると発表した。
義昭自身は、京を離れて備後国に下向する。嫡男である義尋を次期征夷大将軍するべく、信長が責任を以て育てるという話だが、誰もが義尋を人質だとみなしていた。
義昭自身の退位も体調不良によるものと発表されたが、誰の目にも信長の手による追放だとしか映らなかった。
とはいえ、腐っても元将軍という威光は残り、彼の生活が逼迫するようなことは無かった。

対外的には足利幕府が存続しているが、京の民や朝廷、公家、他国の国人たちも幕府が滅んだと考えた。
後の歴史書には1573年7月下旬、室町幕府滅亡と記されている。

義昭が京から追放されたことで、彼を擁して間接的な信長の支配は終わり、信長自身が天下人として振る舞う時代が幕を開けた。
信長はすぐさま元足利将軍家の御料所を自身の領土として接収し、現在の元号を元亀から、天正へと改元を行った。
また、今まで幕府が行っていた業務を自身の家臣であり、京都所司代である村井貞勝に行うよう命じた。

「時代が変わるねえ。これからは上様の時代……って皆どうしたの?」

京より齎された報告書を読みながら、静子は時代の変わり目に立ち会えた事を想い、感慨深く思う。が、周囲の人間はそれどころではなかった。

「何って……暑い」

それは全員が暑さに閉口している様子を見ても明らかだ。今年は例年よりも気温が数度も高く、現代で言う猛暑が続いていた。
慶次など上着を脱ぎ去り、下着姿を晒しており、才蔵は何か言いたげな表情を浮かべるも、その気力が湧かないのか小言すらなかった。
毛皮を纏うヴィットマンファミリー、タマやハナなどの動物たちも焼けつくような日差しを避けて、日陰に留まるようになった。
現時点の静子邸で、元気とまでは言わないが、普段通りに行動しているのは静子だけだった。

「暑い日が続いているね。出陣も近いことだし、何か対策を考えないといけないかも?」

「というか……何故静子は平気なのだ。俺は暑くて死にそうだ」

「何故って、夏は暑いものじゃない?」

静子も暑さを感じていない訳ではない。
太平洋に高気圧が居座るため、日本の夏は風があまり吹かない気候だ。とは言え小氷河期である戦国時代の夏は、現代日本の酷暑日が続く灼熱地獄よりは随分と涼しい。
エアコンによるヒートアイランド現象があるわけでもなく、舗装された道路の照り返しがあるわけでもない。
僅かな風を遮る程に建物が密集している訳でもなければ、気密性が低い建築様式も相まって、室温が上がり続ける事もない。
このような理由から、もっと地獄を実体験で知っている静子からすると、この程度の暑さは多少不快な程度であり、慶次たちのように茹で上がる程暑いとは思わない。

「仕方ないわね。氷室(ひむろ)からスイカでも出して、食べるってのはどうかしら」

スイカの9割は水分で構成される。それゆえに涼を演出する夏の定番果実と言える。
また、赤い果肉から判るようにβカロテンやリコピンを多く含んでおり、意外にもカリウムも多く含んでいるため疲労回復や利尿作用が高い。
ただ水分が多い甘い果実と言うだけでなく、夏を涼しく過ごすための合理的なデザートと言えた。無論食べ過ぎれば体を壊すが、それはスイカに限った話ではない。

「あー、確かに井戸水で冷やしたスイカやトマトは旨いよな」

「はい! だらっとしない。今、準備して貰うからしゃきっとしなさい」

暫くして良く冷えたスイカと、先ほどまで井戸水で冷やされていた収穫したてのトマトが出てきた。

「んー、暑い日はこれだな」

慶次たちは冷えた水が入った桶に足を浸しつつ、トマトやスイカを食べて猛暑を乗り切った。






出陣の支度も終わり、予定日までの暇を持て余していたある日、静子は農具を担いで畑を目指していた。
その日は珍しく風が強く、暑さは若干和らいでいた。いつもは木陰が定位置のヴィットマンたちも、静子の後を元気よくついてくる程には涼しい日だった。
とはいえ夏の日差しは強いもの。静子はお手製の麦わら帽子を被っていた。

「ふふーん。夏こそが畑仕事の本番ですよ」

米は秋ごろに収穫期を迎えるため、微妙に農閑期でもある夏は畑仕事に精を出す。夏野菜などの整枝と摘葉、そして収穫が基本的な作業だ。
手慣れたもので、静子は作物の状態を確認しては素早く整枝と摘葉を行う。収穫時期の野菜や果物は篭に入れ、間引きするものは土に埋めた。

「ヴィットマンはこっち。カイザー、その篭取って。アーデルハイト、この紐引っ張って……よし、固定した。もう離しても大丈夫よ」

ヴィットマンファミリーと協力して畑仕事を片付けていく。ヴィットマンたちも慣れたもので、静子の指示に的確に応えて良く働いた。昼を少し越えた頃、予定していた作業は終了した。

「んー、完了っと。移動を考えれば8月3日か4日が出陣だから、後数日は畑仕事が出来るね」

背伸びをした後、静子は木の陰で休憩する。ヴィットマンたちは、静子の周りに陣取ると静子と同じように伸びをした。風がふわりとふいて、日差しに焼かれた体を冷やしていく。
心地よい陽気に眠気を感じた静子だが、汗をかいたまま寝ては確実に風邪をひくため、頬を叩いて気合を入れる。

「よーし、汗を流そう。それからゆったり過ごそうね」

カイザーの頭を一つ撫でると、静子はすっくと立ちあがる。農具の片付けを下働きに任せたあと、静子は土や汗にまみれた体を風呂で洗い流した。
風呂を出た後は、少し遅めの昼餉を取り、軽く事務処理をして過ごした。

出陣前の緊張感を孕みつつもゆったりとした空気は、織田家重鎮となってしまった彼女に許された、僅かばかりの休息であった。
静かで心安らぐ時の流れだ。しかし、確実に過酷ないくさ場へと向かう日は近づいていた。ゆえにこそ、この穏やかな日常を彼女は大事にしていた。

「おや、ゆっきーとしろちょこじゃないか。珍しいね」

書類を眺めていると、入り口を開けてユキヒョウのゆっきーとしろちょこが入ってきた。二匹は静子が書類を確認しているのを見ると、彼女の袖口を咥えて引っ張る。
座っているだけならこちらを構え、という意思表示である。静子としても急ぐ書類ではないため、机の上に置くとゆっきーの頭を撫でる。

静子が仕事を中断したことに真っ先に反応したのはヴィットマンファミリーだった。
彼らは静子の仕事を邪魔する暴挙に驚いた顔をしたが、いざ仕事が終わったと判ると表情を引き締め、抜群のチームワークで静子の周囲へ陣取った。
定位置を確保して勝ち誇った顔を浮かべるヴィットマンたちだが、ゆっきーとしろちょこは席次に拘りがないのか、ヴィットマンたちに構わず尻尾をふりふり、静子にじゃれついていた。

「そんなに密集されると暑いのだけどね。ほれほれ、お前は顎を撫でられるのがお気に入りだったね」

頭や顎を撫でていると、いつの間にかタマやハナも部屋に入ってきていた。シロガネやクロガネ、アカガネは開け放たれた障子の外から静子を見ていた。
静子の周りはちょっとした動物園状態になっていた。静子は後ろにいたカイザーの背中を撫でた後、頭を乗せて寝転ぶ。

「これが一番落ち着くね」

呟きながら再び心地よい疲労に襲われた静子は、抵抗せずに意識を手放した。

存分に畑仕事をしてはヴィットマンファミリーをはじめとする動物たちと戯れる日々を送って迎えた出陣の日。
静子はヴィットマンたちに家の事を頼むと、出陣のために甲冑を身に着ける。戦装束を纏った時、いつもの緩んだ表情を浮かべる静子はどこにもいなかった。

「長く続いた浅井・朝倉との戦いも最後だ。今回で決着を付ける」

「ははっ!!」

「いざ、出陣!!」

兵たちの呼応に満足げな笑みを浮かべる静子は、出陣の号令を掛けた。行軍を始めて少しした時、兼続が見送りに来ていることに静子は気づいた。
静子は笑みを浮かべると、右手を二の腕に当て、左腕を上に曲げる所謂(いわゆる)ガッツポーズを取って見せた。
見慣れない所作に驚いた兼続だが、力こぶを浮かべる仕草だと気付くと笑みを浮かべて静子と同じポーズを取った。
それだけのことだったがなんとなく意味は通じたと静子は感じた。

8月6日、小谷城包囲が続くなか、静子が陣へと到着した。同時に山本山城の阿閉貞征が信長側へ寝返ったという報せが織田陣営に届けられる。
前々から密かに織田側へと内通していた阿閉だが、改めて織田側に寝返る事を内外に宣言した。この報せを受けた後、信長は岐阜から近江へと出陣した。

8月8日、信長が山田村付近に陣取る。この情報を得た朝倉は、次がないと理解したのか全軍を以て出陣し、木之本付近に陣取った。
織田軍と朝倉軍は高時川もしくは山田川を挟んで対峙した。織田軍は朝倉軍と対峙しつつ、小谷城の抑えとして虎御前山にも兵を配した。

余談だが朝倉義景は田上山に本陣を敷いた事だけしか分かっておらず、他の武将をどのように配置したかは不明である。
予想としては朝倉一門衆が義景の本陣を囲むように配置され、信長と睨み合う高時川付近に山崎義家などが布陣したと思われる。

一方の信長は対朝倉として柴田勝家や前田利家、佐久間信盛等を配置、虎御前山に羽柴秀吉、その近辺に信忠の二人が浅井の抑えとして配置された。
信長本陣と虎御前山の中間辺りにある丁野城の抑えには明智光秀が配置された。その他に稲葉一鉄や蒲生氏郷が信長の本陣付近に布陣していた。

そして静子がどこに布陣したか、それは信忠の傍である。しかし、信忠の傍に陣こそあるものの、肝心の静子はその場所にいなかった。

「虎御前山の砦は修理が必要……小谷城の抑えとして鉄砲衆250を配備。物資はひとまず十日分を置いておきます。六日経ったら補給部隊を派遣します」

静子不在の理由は、今回の主目的が兵站担当だからである。
信長としては今回のいくさで浅井・朝倉を滅ぼすつもりであるため、確実にことを進めたかった。しかし、総大将たる自分があちらこちらへ移動する訳にもいかない。
そこで白羽の矢が立ったのが静子である。
武田との合戦で勝利を得たことで、静子には積極的に戦果を求める必要がなく、しかし誰からも軽んじられない発言力と影響力を持つようになった。
物資運搬や鉄砲衆の派遣などの援助を受ける立場であるため、他の武将としても邪険には出来ない。

(回りくどいやり方だなあ。でも天下が近づくと織田家内部でも権力争いが始まるし、上様が動くと影響力があり過ぎるから仕方ないか)

基本的な配置は信長の決定だが、最終的な判断は静子に一任されていた。
(てい)の良い調整役を押し付けられたようにも見えるが、信長が政治的な裁量を静子に任せるのは稀であるため、信頼の証と思うことにした。

虎御前山に物資が運ばれる隊列が続く。浅井へと圧力をかけるためにも、物資運搬に用いるリヤカーの数を必要以上に多く使用した。
この策はそれなりに効果があったようで、浅井軍は織田家が運用する圧倒的物量に戦慄していた。

「順調のようですね」

後方支援部隊に指示を出していると、竹中半兵衛が静子に声をかけてきた。今いる兵たちに指示を出し終えると、静子は竹中半兵衛へ向き直る。

「ええ、順調です。こちらには鉄砲衆を250配備します。まあ浅井は残兵力が少ないので、攻めてくるような事はないと思いますが、念のために」

「こちらの調べでは、よくて2000ほどと思われます。城を守るだけで手一杯といった感じでしょう。しかし、窮鼠猫を噛むとも言います。追い詰めすぎれば、手痛い反撃を受ける事になりかねません」

「油断大敵ですね。ところで何かご用でしょうか?」

竹中半兵衛が純粋に雑談するべく静子に話しかけるなどと、彼女は最初から思っていなかった。
小谷城を落とせるか否かで、羽柴軍の武功は大きく左右されるのだ。他人と雑談をしている余裕などない、と静子は考えていた。

「お察しの通りです。実は羽柴殿が静子殿にご相談したいことがあるとのこと。そう大したお時間は頂きません、少しご足労願えませんか?」

「……これから明智様の許へ向かう予定ですから、それほど多くの時間は取れませんが、それでも宜しければ」

静子は申し出に応じつつも内心ではため息を吐いていた。既に織田家家中の有力者同士で牽制し合っているように思えた。
この頃、光秀は他の家臣たちより発言力が高まっていた。信長の意図を酌みとり京を支配し、坂本では名君としての名をほしいままにしていた。
慎重一辺倒かと思いきや、時として大胆な調略を行ってみるなど、その働きぶりは信長が直接褒めそやす程だった。
立身出世を望まぬ静子から見れば、信長の天下統一が早くなると喜ぶことだが、他の家臣たちからすれば面白くない話であった。

「重々承知しております。それでは、こちらに」

残務を他の者に引き継ぐと、竹中半兵衛に案内されて秀吉の陣へと移動する。彼らは軍議の場で、地図を前にして唸っていた。
目端の利く秀吉はいち早く静子を見つけるやいなや、ニコニコと人好きのする笑みを浮かべる。

「おお! 待っておったぞ、静子殿。いや、急に呼び出してすまぬな。実は折り入って頼みがあるのだ」

言いながら静子を地図の前へと案内する。ここで武功を立てられるか否かで、これまでの苦労が報われるかどうかが決するのだ。彼もより高い報酬や、地位を得たいと必死であった。

「実はここから先、どのように攻めるべきか意見が割れてのう。皆と話し合ったが、これと言った良案がない。そこで、静子殿に部外者である第三者の視点からみた意見を貰えまいか?」

「ええ……お求めとあらば構いませんが」

返事をしつつも静子は軍議に参加している面子を見やる。
誰もが面白くなさそうな表情を浮かべていた。ただ一人、秀吉の弟である秀長だけが、何かを期待するような楽し気な表情をしていた。
当然の話である。幾ら大将たる秀吉の方針とは言え、部外者の意見を重視するなどと言われては、これまで軍議に参加して頭を捻っていた者としては面白くない。
ややもすると敵意ともとれる視線の中、胃が痛いなあと思いつつも、静子は地図の一点を指さした。

「今回のいくさで焦点となる場所、それは焼尾砦と大嶽城になります。特に大嶽城が落とされると、浅井と朝倉の連絡を遮断できます。そうなれば反対をおして出陣した朝倉は、浅井を見捨てる他なくなります」

「ですが、地の利は相手方にあります。大嶽城を奪還しようとするのではないでしょうか?」

秀長が表情を変えずに静子へ質問する。他の面々は秀長が静子の案の穴を指摘したのかと、ニヤニヤと笑みを浮かべつつ見守る。
しかし静子は気にすることなく、筆を取って地図になにがしか描き込むと持ち上げて見せた。

「それはこれを見ても、同じ事が言えるでしょうか?」

言われて秀長を含む全員が地図を眺めるが、静子が描き込んだ記号が何を示すのか判らない。だが竹中半兵衛がすぐに敵軍の兵力が時系列で変化する様を示唆していると気付く。
少し遅れて秀長も気付いて唸った。しかし二人を除く他の面々は一向に理解できずにいた。

「はっはっは、兄上。見方が分かれば実に明瞭です。我らが大嶽城を落とし、浅井が小谷城から大嶽城を奪還すべく出陣したとしましょう。その動きがこの記号です、小谷城に残る兵数が大きく減りました。兄上ならどうなさります?」

「どうするって、決まっておる。小谷城の防備が減ったのなら、その隙を突いて攻め込……あっ!」

そこまで言ってようやく秀吉も理解に至る。静子が何を言わんとしたのかを。

「そうです。浅井か朝倉が大嶽城へ向かえば、数で勝る織田軍にとっては彼らの背後を叩く好機です。数で劣り、慎重になっている相手がそれに気付かないはずがありません。生半可な兵力では奪還できない、さりとて大軍を派遣すれば本陣が落ちる。唯一の連絡路は分断され、互いの思惑を知ることは叶わない。完全に詰んだ盤面です」

竹中半兵衛が扇子で静子が描き足した記号と意味を解説しながら説明する。ようやく秀吉の家臣たちも静子の境地に立ち、同時に驚嘆した。
頭を突き合わせて悩み続けた自分達が気付けなかったことを、静子はいとも容易く気付いて指摘して見せた。著しく自尊心を傷つけられたが、同時に負けてなるものかと発奮した。

「つまり、我々で焼尾砦と大嶽城、この二つを落とせれば大戦功が確定する、という事ですぞ兄上!」

「言われずとも判っておる! なるほど……この二つ、いや大嶽城だけでも落とせば勝利の天秤は我らに傾く!」

「上様があの位置に本陣を置かれたのも、これを見越しての事でしょう。恐らく数日のうちに、何かしらの動きがあると思われます。そこからは時間との勝負かと思われます」

さて、と呟いて静子は太陽の位置を確認して時間を推測する。今から出発すれば、光秀の許に日があるうちに到着できると見積もった。
光秀の軍は遊撃隊であるため規模が小さく、物資運搬や鉄砲衆の配置にそれほど時間を要しない。
明日は朝倉方面の柴田勝家や前田利家の陣へと向かう予定であるため、本日の業務は予定通りに終わる見込みだ。

「それでは時間も押しておりますので、私はこれにて失礼いたします」

静子は秀吉たちに辞去を告げるが、既に誰の耳にも届いていなかった。皆が地図を囲んであれやこれやと意見を交わしている。
この必死とも言える武功への執念が秀吉軍の強みなのだろう。静子はそう思いつつ、一つ頭を下げると彼らに背を向けた。

(流石は静子殿。的確に物事の中核を見抜き、それを判り易く他者に伝える。さてはて、此度のいくさを彼女はどのように楽しくしてくれるのやら)

静子が軍議の場から去る姿を、秀長は楽しそうに笑いながら見送った。






少し急ぎ足で静子は光秀の陣へと到着した。事前に通達していたため、警備の兵士に要件を告げるとすぐさま物資の搬入が始まった。
光秀が攻略する丁野城攻めの部隊には鉄砲衆が100配置される。
秀吉に250、柴田や前田に450と言う比率を見ると少なく見える。これは光秀の部隊が遊撃隊として編成されているためである。
大人数を引き連れれば必然的に行軍速度が遅くなるため、100名のみの配置となっていた。そして光秀の陣には鉄砲衆の他に、竜騎兵(新式銃装備の騎兵)50が配置された。
鉄砲衆100に竜騎兵50、これらを運用して光秀は丁野城を攻める。

「ご苦労様です、静子殿」

物資搬入の指揮を執っていると、背後から光秀が声を掛けてきた。静子は内心ため息を吐きつつ、しかし表情はにこやかに光秀に応じる

「これは明智様」

「ああ、堅苦しい挨拶は抜きにしましょう。迅速な物資搬入ありがとうございます。お陰でこちらの鉄砲衆も弾薬の心配がなくなりました」

新式銃の配備はそれほど順調ではない。高い工作精度を求められるため、製造には時間を必要とする。
その為、殆どの部隊では従来の火縄銃を継続して使用している。万が一にも敵に鹵獲されるのを信長が恐れて配備先を厳選しているとも言える。
火薬については静子が初期から製造し続けていたため、他の国人たちが調達に四苦八苦しているなか、信長は家臣たちに十分な量の供給を実現していた。

「足りなくなったのなら、申し出て下さい。追加で百三十三貫(約五百キロ)までなら、自由に使っても良いと上様の許可を頂いております」

約五百キロという物量に、近くにいた兵士や小間使いの数名が反応する。察しの良い光秀は、それだけでおおよその状況を把握した。彼はにこやかに笑みを浮かべながら続ける。

「それは重畳。我が陣だけで(・・・・・・)、あと百三十三貫(・・・・・)も融通して頂ける余裕があるという事ですね。そして本陣にはそれ以上(・・・・・・・・)の余裕もあると、それは良き事です」

反応を見せた小間使いや兵士たちの顔が強張った。しかしそれも僅かな時間に過ぎず、そそくさと仕事を再開する。余りにも露骨すぎて、光秀には珍しく歯を見せながら笑っていた。

「いけませんね。歳を取るとついつい若者をからかいたくなります」

「時には童心に帰る事も大事かと」

「左様ですな。さて、立ち話が長くなりました。この後のご予定はないと聞いております、ご一緒に夕餉など如何ですかな?」

「お心遣い痛み入ります。それでは、お言葉に甘えさせて頂きます」

予想はしていたが、苦手な腹芸を前に静子は頭が痛くなった。とはいえ秀吉と同じく、表情には出さずにほほ笑んで対応する。

夕餉の内容は質素なものだった。最低限の栄養は取れるため、問題ないが彩りの華やかさは無かった。
贅沢と言われればそこまでだが、やはり食事は目でも楽しめる要素が欲しいと静子は思った。

「静子殿、少しだけお話してもよろしいでしょうか?」

和やかな雰囲気の食事だったが、それは光秀が幾分真剣な表情で静子に声を掛けたことで終わりを告げた。光秀の様子を見て静子も気を引き締め、箸を置いた。

「私に答えられることでした、何なりと」

「ありがとうございます。実は私が任されている坂本の街について、ご相談したきことがございます」

「それはどういった内容でしょうか?」

坂本は比叡山延暦寺の門前町や石積みの町と言われている。特に穴太衆の美しい石積みが有名だ。現代では国から重要伝統的建造物保存地区の指定を受けている。
その坂本で光秀に託された役割は、延暦寺の監視と琵琶湖の支配、それに京へと通じる街道確保だ。その為に信長は光秀に坂本城の築城を命じている。

光秀は築城に造詣が深く、それゆえ坂本城を琵琶湖の水を利用した水城形式にした。さらに大天守と小天守を戴く豪華絢爛な城として築城した。
史実では天正十年に明智秀満が城に火を放って一族とともに自害するまで、坂本城は安土城に次ぐ美しい城だとルイス・フロイスに評されていた。
現在の坂本城の殆どが琵琶湖の湖底で眠り、当時を思わせるものは僅かに残された石垣のみだ。

「ご存知のように、坂本の街を我らは一度、徹底的に焼き払いました。それゆえに町人の反発が強く、統治に少し難儀している状態です。そこで静子殿のご意見を窺えまいかと思いまして」

「私なら考慮致しません。住み家を焼かれたことに起因する悪感情は、どれだけ相手に媚びを売ろうとも決して消えません。そのような事に労力を費やすぐらいなら、道路を整備して少しでも生活環境を向上させる方が有意義です」

民を大事にする静子とは思えない苛烈な意見に光秀は少し面食らうが、静子は気にせず言葉を続けた。

「こう言うと身も蓋もありませんが、民に取って誰が支配者であろうと構わないのです。彼らは『自分の生活を守ってくれる、良い未来を与えてくれる支配者』を歓迎します。その観点から見れば街を焼き払った我々は、生活の破壊者ですから良い印象がありません」

家財を奪った相手に好印象を抱く人間はいない。少なからず不満はあって当然だ。
特に坂本の街は比叡山延暦寺の門前町として栄えていた。
延暦寺から漏れるおこぼれに与って甘い汁を吸っていた人間からすれば、織田家は自分達の飯の種を奪った憎い相手である。

「これを前提にすると、権力者の懐柔が良く実施される手だと思います。しかし、私ならば権力者も貧民も全て平等に一個人として扱い、最大多数の最大幸福を追求する統治を行います。最初は不満も出るでしょう。しかし、それらの不満から『何を解消すれば最も多くの人が幸せになるか?』を考えて政策を施せば、不満の声は徐々に小さくなると私は考えます。とは言え少数派を無視して弾圧しても良いというのではなく、理想は全員が幸福になることです」

全員の最大幸福が最上。しかし神ならぬ身である限り、不可能な話だ。人と人は些細な事でも衝突する生き物である。全員の最大幸福を実現するというのはあり得ない。
それゆえに理想は全員の幸福と定め、現実的には最大多数の最大幸福を実現する。これが現状取り得る最もマシ(・・)な政策ではないかと静子は考えていた。

「……」

光秀は呆気にとられた表情を浮かべる。彼だけではない、同席していた明智家の家臣たちも同じだった。
何か変な事を言ったかな、と思い自分の発言を振り返る。自分が語った内容は民主主義の思想に近かった。この時代に民主主義を語っても、賛同は得られないと理解した。
なぜなら、人々の思考が違うからだ。民主主義でもそうだが、そうした思想はポンッと出てくる訳ではない。社会がそれを求めるようになったから、思想が生まれるのだ。
社会に生きる人々が求めていないのに適用すれば、人々は混乱するだけで社会は機能不全に陥る。

「あ、いえ、少し前に読んだ南蛮の本の影響が出ていますね、すみません。頭を真っ白にして、一から考え直します」

「あ、ああ……」

慌てて言い訳を並べて静子は話を誤魔化した。幸い、光秀は理解が追いついていないのか、先ほどと変わらず呆気にとられたままだった。

「坂本ですから、やはり琵琶湖に港を作るのは如何でしょうか。水運は勿論、坂本の景観は素晴らしいものがあります。この景観を楽しめる観光船なども運行するとか……そうやって坂本にお金が落ちれば、徐々に不満は消えていくかと思います。えーと、琵琶湖はこのような形ですから……航路はこことここを結ぶ感じでどうでしょうか」

途中、紙と筆を持ってきて貰い、静子は紙に琵琶湖の形をざっくりと描く。それに坂本や大津、安土、長浜などを書き込んで丸をつけ、それらを線で結んだ。
簡素ながら航路を書いた紙を光秀に渡す。読んでいる内に落ち着いたのか、彼は静子が描いた琵琶湖の航路案をじっくり眺めていた。

「なるほど。港があれば街は人と物で溢れかえります。人と物が集まれば商売が始まり、商売が盛んになれば人々は活気づく。人々が活気づけば、坂本に落ちる金も多くなり、不満も徐々に小さくなりますね」

「え、ええ……少し時間はかかりますが……あ、そういえば失敗作にされてしまった中型の輸送船、あれを琵琶湖の商船に改造出来るかもしれません」

「ほう、それは興味深いお話しですな」

静子の言う失敗作にされた中型の輸送船とは、スクリュープロペラの輸送船だ。無論、和船ではなく竜骨のある船だ。
建造された船は何度か使用されたものの、河川で使うには大きすぎ、海上で使用するには小さすぎる、という低評価を受けた。
それゆえ失敗作という烙印を押されてしまった。その輸送船も琵琶湖で使うならば、日の目を見ることになるのでは、と静子は考えた。
幸い失敗作と聞いても、光秀は輸送船を採用する話に乗り気だった。
琵琶湖についての話で華を咲かせた頃には、光秀も、光秀の家臣たちも静子が語った民主主義もどきの思想は頭の中から消えていた。
その事に内心快哉を叫んだ静子だった。ただし静子は読んでいる本の影響を少なからず受ける、と光秀たちに思われるようになった事には気付かなかった。






楽しい話で一日は終了、とは行かなかった。日が沈む直前、光秀の陣へと信長の使者がやってきた。内容は光秀ではなく、静子に対してだった。端的に言えば本陣に来い、である。

呼び出しの報を受けてから、静子は慌ただしく動いた。食事を流し込むように食べ終えると、兵たちの作業状況を確認し、残りの仕事の指示を矢継ぎ早に出していく。

「慌ただしくて申し訳ありません」

「いえいえ、何の。楽しい一時でした。また、機会があれば是非に」

見送りに来てくれた光秀に静子は謝罪するが、光秀本人からは気にしている様子を窺えなかった。ホッと胸をなで下ろすと、静子は手綱を握る。

「それでは私は失礼します。何かあれば残した兵にお訊ね下さい。担当の者がお答え致します。それでは!」

言い終えると同時、静子は馬を走らせる。慌てて駆けていく静子の様子に、光秀は苦笑を浮かべていたのだが、今の静子にはその事に気付く余裕すらなかった。
日は既に沈みかけている。このままでは本陣に着く前に夜になってしまう。それはなんとしても避けたい静子だった。
幸い馬を酷使したお陰で、ギリギリ日暮れと言える時間に本陣へ到着した。

「遅い」

しかし、信長からは開口一番、不満の声が飛んできた。それほど急ぐ用件があったかな、と思いつつ静子は信長に謝罪する。

「これを見よ」

信長は簡素な机の前に広げて置かれた地図を指し示す。言われた通り静子は地図を見る。秀吉のそれと違い、敵味方の布陣状況など細かい情報が地図に描かれていた。
つまり浅井と朝倉両陣営に、調略の手は深く浸透していると言っても良い。でなければこれほど詳細に、敵方の情報を得ることはできない。

「(朝倉は周囲の反対を押し切って、今回の出陣を決めた。となれば、義景に反感を持つ一族や家臣が、信長の調略になびくのも当然か)ほぼ勝ち、ですね」

「理由を述べよ」

秀吉に語った内容が信長の耳にも届いたのかな、と思いつつ静子は地図のある地点を指さす。

「焼尾砦の攻略が済めば、残りは大嶽城だけとなります。これにて浅井・朝倉は詰みとなります。朝倉は今回、周囲の反対を押し切って出陣しました。大嶽城が落ちれば、援軍に駆けつけた大義名分を失います」

「続けよ」

「大嶽城が落ちれば、朝倉軍に動揺が広まり、撤退の声が大きくなります。これには義景も逆らえないでしょう。ですが、朝倉軍が撤退するには本陣から敦賀まで、細長い山道を通る必要があります。つまり、一直線に、長い行軍を強いられます。後は……尻を槍で突いてやれば終わりとなります」

「それを踏まえて、貴様ならどうする」

信長が何を考えているか依然として不明だったが、静子は言われた通り信長に『自分ならこうする』という内容を告げた。
流石に大きな声で言う内容ではないので、信長に聞こえる程度の声量に絞ったのだが。

「面白い。天候に左右されるが、奴らの度肝を抜けるな。くくっ、それにしても、これは流石に驚いたぞ」

「策と言うのは『まさかそんな』が肝心かと思います。それに、我が軍にはこのような策に、うってつけの人物がおります」

「愉快じゃ。焼尾砦の攻略は明日にも終わろう。何しろ貴様の話を聞いて、サルが必死に計略を練っておるからな」

やはり静子が秀吉に語った内容を、信長は何らかの手で知ったのだろう。そうであるならば、光秀に語った内容も、彼は把握していると静子は考えた。
ただし、光秀の話は興味の対象外なのか、信長が坂本の件で根掘り葉掘り聞いてくる事はなかった。

「明日から忙しくなる」

心底楽しそうに信長は言った。
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