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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀四年 室町幕府の終焉

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千五百七十三年 五月中旬

静子は織田信長という人物を理解したつもりでいた。否、理解したつもりになっていたと言うべきか。
上杉謙信からの降伏受諾を伝える書状が届いたと一報を入れる際、信長の反応は早くとも明日の朝になるだろうと静子は考えていた。
しかし、報せを受けた信長は内容を把握すると政務を中断し、精度の高い情報を入手すべく静子の許へと出発する決断をした。
準備に手間取る馬廻衆を置き去りにして単騎で先行した。
剛毅にして果断。最速で行動する信長に追いつける者はいなかった。
通常半日はかかる距離を、馬を乗り継ぎ、僅か数時間で疾駆した信長が静子の許へと辿り着いたのは、日が沈み宵闇へと変わる時間帯だった。

「上杉家からの書状について疑義(ぎぎ)がある。使者と直接話がしたい」

疾風迅雷の如く移動したはずの信長だが、彼からは疲労感など見えず漲る覇気に圧倒されそうだった。流れる汗を渡された手ぬぐいで乱暴に拭い、真っ先に用件を切り出した。
静子は信長の剣幕に呆気に取られていたが、即座に彼の要望を汲み取ると、兼続に状況を説明して会見の段取りを整えた。
兼続自身も信長との謁見を予期していたのか、すぐさま身嗜みを整えて謁見に臨んだ。

「使者殿に問おう。即断した理由とは何か」

相手がたとえ童であったとしても、信長は上杉家の使者として扱う。兼続も予想よりも随分早い謁見にもかかわらず、実に堂々とした受け答えを返していた。

「御実城様が熟考された結果でございます」

「上杉の家臣に不満はないのか」

「不満があろうと無かろうと、御実城様の決断に従うのが家臣。無論某に不満などございません」

「上杉が望む要望とは何か」

「それについて、某は何も聞かされておりませぬ。ただ、乱世の終焉と民に十分な食い扶持を与えてやれるのは今だと、申されておりました」

静子すら圧倒される信長を前にして、臆することなく言葉を述べる兼続を信長は気に入った。
彼はニヤリと笑みを深めると、質問を続けた。

「貴様が課された役目とは何か」

「御実城様が臣下の礼を取るまでの間、人質となることにございます。もし、御実城様が約定を違えようなら、この首お好きになさいませ」

「その歳にしては見上げた覚悟よ。ふむ……概ねそちらの事情は把握した、お役目ご苦労。下がって良い」

「はっ」

「夜も更けた、出歩くには不案内であろう。特別に静子の家に部屋を取らせる、しばしその身を休めるが良い」

「過分なご配慮、痛み入ります」

兼続自身が知らされていない事もあったが、信長は然して気にした風も無かった。質疑を終えた信長は兼続を下がらせると独白する。

「くっくっくっ。こうまで狙い通りに動くと、そら恐ろしいものがあるな」

人払いが為され、独りきりの室内で信長は心底楽し気に笑っていた。それもそのはず、武田信玄を打ち破り、双璧を為す上杉謙信をも屈服させたのだ。
それらを僅か半年で成し遂げたのだから、信長でなくとも笑いが止まらない状況だろう。

「浅井と朝倉の焦慮に駆られる姿が目に浮かぶわ! 愚図共が、わしの文を蹴った事を(ほぞ)を噛む思いでいることじゃろう。愉快愉快!」

いち早く時流を判断した上杉と、対照的に愚鈍な浅井朝倉の行動を鑑みて、信長は高らかな笑声を上げる。
この時の信長の様子を記した書物に「格別の満足感」と表現されているところから、どれほど信長が喜んでいたかが窺える。
それほどまでに上杉の臣従という出来事は、彼の覇道に於いて欠かせぬ出来事であり、天下統一の試金石となり得る一事であった。

「静子! 酒蔵を開け、振る舞い酒よ!」

その後、ようやく駆け付けた馬廻衆や小姓たちを交えて、ささやかだが宴が催された。普段は深酒をしない信長も、この時ばかりは皆と杯を交わし次々と杯を()していった。
そして翌日早朝。日の出と共に出立し、来訪と同様に突風のように岐阜へと戻っていった。
流石に不要な単騎駆けはしなかったものの、誰もが信長の急な行動について行くのがやっとの思いであった。

信長の襲来から数日が経ったが、その後の彼からの接触はなく、またいくさ支度をするでもなく、比較的穏やかな空気が感じられた。
兼続は人質という扱いだったが、慶次は気にすることなく彼を連れ出し、街を遊び歩いていた。長閑(のどか)な空気に気も緩み、静子も久々に農作業に精を出していた。
カカオの木は成木となり、コーヒーの木も70センチ程にまで成長し、胡椒は順調に株数を増やして量産に勢いがついた。ライチやマンゴスチンなどの南国系果樹の生育も順調だった。
育成環境が最適でないにも関わらず、順調な成長をしている理由は、肥沃な土壌と気候条件などで適度にストレスが掛かる環境にあることが植物の生存本能を刺激し、早く成長して子孫を残そうとしているのではと、静子は推測していた。

自身が織田家の重臣となった事で、農作業だけに関われる時間が減ったため、各作物ごとに担当者を割り振って実作業から身を引いていた。
苦労して仕入れた作物に関われない不満はあるものの、生育が順調であることを静子は喜んでいた。

「そろそろバナナの3倍体にも挑戦してみようかな。多分、他と一緒で2倍体と4倍体を組み合わせれば、作れると思うのだよねえ。やっぱりバナナは種なしでないと」

自然環境下で偶発的にバナナの3倍体が発生した理由は現代でも不明だが、静子は種なしスイカ等と同様に2倍体と4倍体の交配によって、3倍体バナナが発生したと考えていた。
人為的に安定して3倍体を作り出す薬剤であるコルヒチンは、ローマ帝国時代において痛風用の薬として既に存在していた。
ただし副作用も強いため、現代では痛風に対してコルヒチンが処方されることは稀である。

「まあものは試しだから、4倍体バナナ作りの挑戦から始めているけど……3倍体に辿り着くまで数年は掛かるよねえ」

現代の種なしスイカの作り方と同様に、バナナの芽に恐らく抽出出来たであろうコルヒチン抽出液を処理した。
ただし、これが成功しているのか、そもそもコルヒチンが正常に抽出しているのかもわからない。
コルヒチンの抽出自体は輸入したイヌサフランの種子や鱗茎をエタノールで熱処理すると抽出できているはずだが、再結晶化するには酢酸エチルが必要となるため、目視で判断できないのだ。
故に抽出出来ていると信じて処理を行い、結果は天に任せるという方式だ。
そもそも4倍体が得られる確率自体が多くとも10パーセント程度なので、まだまだ種なしバナナは口に出来そうもなかった。

「うーん、気兼ねなく畑仕事に専念できるのは楽しいなあ」

ビニールハウス(厳密にはビニールを使用していない)から出ると、静子は勢いよく体を伸ばす。
今日は天気も良いし、仕事を終わらせたら縁側で涼みながらスイカでも食べようと、考えていた。
その時、ふとあることを思いつく。

「あ、そうだ。そろそろ皆落ち着いた頃だろうし、新築祝いでもしようか」

この発言を後に静子は後悔することになる。






静子が新築祝いの宴を催す。その情報はあっという間に信長や信忠(奇妙丸)の耳にも届いた。
時を同じくして、織田家譜代の家臣たちへも、少し遅れて徳川家と主要な家臣たちへも情報が流される。
静子としては身内でこぢんまりとした宴席を考えていたのだが、彼女の予想に反して多方から新築祝いが山のように届いた。
急いで参加者名簿を作った蕭が、氏族ごとに纏められた名簿を静子に渡したのだが、静子は渡された名簿の分厚さに冗談かと思ったほどであった。

「えーと、なんでこんなにお祝いを頂いているのかな? というか私、新築の報せを上様以外には出していないよ?」

「それは……静子様のことですから仕方がないかと」

「いや、意味が判らないよ蕭ちゃん。とにかく食材も什器も足りないだろうから、目一杯買い込んできて。これを見せればお金は彩ちゃんが用立ててくれるから」

「はいっ! では、必要な買い物一覧を準備しますので、私はこれにて失礼いたします」

「うん。よろしくね」

元気よく一礼した後、蕭は部屋を後にする。彼女が去って静子はもう一度名簿に目を通す。
上は信長や家康に始まり、下は本当に何処の誰だと尋ねたくなる人まで、参加者の数は膨れ上がっていた。
どこからか情報が漏れたのか、と少し警戒心を抱いた静子は慶次を呼ぶ。

「そりゃあ静っちよ。今や飛ぶ鳥を落とす勢いの静っちの動向。誰だってその一挙手一投足に目を払っている。屋敷は目立つから隠しようがない」

呼ばれた理由を知った慶次は、半ば呆れながらも答えを口にする。
よくも悪くも静子は監視されている。本人自体が通常時は鈍いため、気付いていないが、彼女が目に見える形で何かを行えば、少なくとも織田領内では全員に筒抜けとなる。
他領である徳川家にまで伝わったのは、誰かが意図的に流したのであろう。

「うーん、単にちょっとした食事会の予定が、随分と大事になっちゃったなあ」

「諦めるしかない。武藤のおっさんも言っていたが、静っちに取り入ろうと思う奴は、こういう機会を狙っている。露骨にすり寄ってくる輩には気を付けないといかん」

「勘弁して欲しいね。権力は必要だけど、過剰な権力闘争は国内をボロボロにするだけだもん」

「そうだな。ただ静っちはあちこちに投資しているだろ? あれが他人には羽振りが良く見えるのさ。金と権力、人が道を踏み外すには十分なもんさ」

「金も権力も、結局は何かを成すための道具にすぎないのにね」

「そう思わない奴の方が、この世には多いのさ」

静子の言葉に慶次は肩をすくめる。

「ま、この程度なら問題ないだろう。注意を払うのは良いけど、気に掛けすぎても良くないぜ」

「そうする。ごめんね、長々と引き留めちゃって」

「気にするな。与六の相手をするのは楽しいもんだ。問題があるとすれば、与六が人質って立場を完全に忘れているところかな?」

謙信が信長に降伏するという報せが届いて以来、信長は幾度か謙信とやり取りをしていた。その際に交わされた文書により、兼続は正式に織田家預かりの身となり、謙信が信長の許を訪れるまでの間、事実上の人質として扱われることになる。
これ程の重大案件に人質が近習一人かと信長は訝しみもしたが、もし謙信が約定を違えれば童一人に責を負わせて切り捨てたと喧伝できるとも考え、兼続の身柄を受け入れた。
そして今も兼続は慶次監視の下、静子の邸宅にて寝起きしている。
しかし、監視付きとは言えど、行動が制限されることなど殆どなく、時折二人揃って街へと出かけては、夜遅くに帰ってくるということもザラだった。

「それは慶次さんにも問題があるんじゃない?」

「失礼な。きちんと監視はしているぞ」

「監視という名の下に連れ立って遊んでいるようにしか見えないけれども」

昼頃起き出したかと思えば兼続を連れてはどこかへ遊びに行き、帰ってくればたらふく飯を食って寝る。
慶次は油断を誘って本性を見ている、というがどう見ても遊んでいるようにしか見えなかった。
兼続も礼儀が必要とされる場では武家らしい態度で臨む。
だが慶次とよほど相性が良いのか、二人揃うと途端に精神が緩む。傍目にはだらしなく見えるが、何もかも立場を取り払った年相応の少年らしさが出ている、と静子は思った。

「ま、元気に過ごしているなら良いか。その内、上杉が上様へ挨拶しに来るから、その時までと考えれば目をつむれるしね」

「そういう事。じゃ、俺はこれで失礼するさ」

言うやいなや慶次は部屋を後にする。スキップでもしそうなぐらい楽しげな雰囲気だと感じたので、また街にでも遊びに行くのかなと静子は察した。

「さて……上杉はいつ頃来るのかな。ま、そこは上様が考えているから、気にする必要はないか。私は新築祝いの参加者の処理をしよう」

そういつつ静子は机に向き直った。






静子が新築祝いの準備に忙殺されている頃、信長は本願寺との和睦に関する準備を行っていた。
謙信の降伏がよほど衝撃だったのか、本願寺は慌てて信長へと和睦の打診をしていた。
朝倉や浅井も衝撃を受けていたが、信長にとって彼らはもう意識する程の相手ではなかった。
信長は本願寺との和睦条件に、必ず通貨発行権を認めさせる気でいた。

幸いにも通貨発行権の重要さに本願寺は気付いていなかった。
それは通貨発行権を握る狙いを理解していなかったのもあるが、信長が他に到底許容できない無茶な要求を出したのが原因だ。
信長が無茶な要求を本願寺に提示したのは訳がある。いわゆる「ふっかけ」である。
ドア・イン・ザ・フェイス・テクニックと呼ばれる、要求の落差を利用した交渉術だ。日本では譲歩的要請法と呼ばれている。
これは最初に無茶な要求を行う。当然、相手は受け入れられず断る。
そこから徐々に要求を下げ、最終的に自分が望んだ要求を、あたかもそれだけ譲歩したと思わせて、相手に要求を飲ませる交渉術だ。
これは「恩には恩で返す」や「好意を向けられた相手に好意を返す」など、施しや好意を受けた場合、何かしらのお返しをしなければという思考になる「返報性の原理」と呼ばれる心理法則を用いている。

そんな交渉術を使う理由は明白だ。信長はこれから「譲歩した」ふりを対外に見せつつ、己が望む要求だけは確実に通す気でいた。
本願寺は何かしら難癖を付けてでも要求が飲めないと交渉してくる、と信長は考えていた。事実、本願寺側からは泣き言にも近い嘆願書が届いた。

「くっくっくっ、愚か者どもめ」

信長はほくそ笑みながら、予め用意していた二つ目(・・・)の和睦条件が書かれた文を、本願寺へと送りつける。当然、それも本願寺が拒否する事は想定済だった。
よしんば条件を飲まれたとしても信長にとっては、本来の条件におまけが付いてくる。断られれば三通目の和睦条件を送るだけだ。どちらに転んでも信長に損はなかった。

「そのうち、音を上げるだろう。他所からの圧力や苦情が多くなれば返答を遅らせよ。じきに痺れを切らして行動を起こす」

交渉が難航していくさを仕掛けてくるのなら好都合だった。世間的には信長は二度も譲って見せたのだ。
交渉が思い通りにならぬからと、いくさを仕掛けてくるのなら本願寺に大義はない。度量を見せた信長と、自分本位で狭量な本願寺。人々がどちらを支持するのかは明らかであった。
焦って和睦を申し出た時点で、本願寺に勝ち目はなかった。信長は、いつ顕如たちが和睦を受け入れるのか、はたまた破れかぶれで仕掛けてくるのかを密かに楽しんですらいた。

そんな腹黒い外交とは無縁の慶次は、今日も兼続を連れて尾張をあちこち散策していた。
兼続は人質の身分であるが、監視役の慶次は全く気にもしていない。兼続を連れて日がな一日遊び回っていた。

「むう……噂に違わず、民草の表情が明るい。病人や、やせ細った老人など何処にもいない。童子すら元気に遊び回っているな」

「今ではこうだが、十年も前なら酷いもんだったぞ。織田の殿様はこの辺り一帯を取り潰して、商取引の座を開こうか、と考えていたぐらいだからな」

肥沃な大地が多い尾張だが、無論全ての土地が肥沃だった訳ではない。中にはやせ細った土地に住む者もいた。

「これから向かうのは、静っちが最初に手掛けた村の連中だな。面白い話が聞けるかもしれないぜ?」

「それは楽しみだ」

そんな会話をしつつ二人は、静子が最初に任された村へと入る。
まず兼続の目に飛び込んできたのは、異様な光景の一言につきた。
立ち並ぶビニールハウス、水車小屋と連結した垂直農場用の設備など、彼の脳裏にあった田園風景とは全く異なる景観であった。

「何とも……なんだこれは?」

兼続は目の前の光景に混乱し、呆然と立ち尽くした後、ふらふらと歩み寄った。

「こらあ! 誰だ、畑を荒らす奴は!」

横合いから掛けられた怒声に、兼続はようやく我に返った。無意識の内にかなりの距離を歩いていたようで、彼の足は畑の中にまで踏み込んでいた。
慶次は誰かを探していたのか、兼続から視線を外しており、彼も兼続が畑に踏み込んでいた事に気付かなかった。

「誰だおまえさんら……って慶次様じゃないですか! あ、お前は早く畑から出ろ!」

ようやく慶次も現状を理解した。未だ混乱気味の兼続を引っ張って畑から出すと、怒り心頭の男性に頭を下げた。

「すまん、俺が見ていなかったばかりに畑を荒らしちまったな」

「い、いやいや、そこまで酷くないので大丈夫です。んで、こっちの子供は誰ですか?」

「あー静っちの客人か、な?」

人質というと見聞が悪いと思い、慶次は兼続の素性を誤魔化した。男性もそこまで兼続に興味はないのか、慶次の言葉を聞くと納得した表情を浮かべる。

「申し訳ない。見た事もない光景であったゆえ、呆然としてしまい田畑を荒らしてしまった。この通り謝罪いたす」

「いや、こっちこそ怒鳴ってすまんな。あ、俺は田吾作って言うんだ。村長……静子様の客人なら、俺らにとっても客人だ。何にもねぇとこだけど、ゆっくりしていってくれ」

「与六と申す。そんな事はない。こちらから見れば、何もかもが目新しいものばかりだ」

先ほどとは打って変わって、田吾作は友好的な態度になる。静子の名前を出しただけでこうも変わるのか、と兼続は改めて静子が民にどれほど慕われているか理解した。

「しっかし、相変わらず謎なものが多いねぇ」

「へへっ、ここは静子様が忙しくて出来ない事を、色々と任されておりますから。お陰で他の村からきた奴らは、たいてい目を回すんでさあ」

「差し支えなければ、具体的に何をしているか聞いても良いか?」

兼続の言葉に田吾作は、待ってましたと言わんばかりの表情を浮かべた。横で慶次が苦笑い浮かべている事に気付かず、兼続は田吾作の次の言葉を待つ。

「おう、ちょっと待って下せえ……あった、これだ。まずはこいつを試してます」

そう言って元来た道を戻った田吾作だが、すぐに何かを手に持って戻ってくる。兼続は田吾作が持っているものをじっくり見るが、それが何か分からなかった。
何しろ傍目には、透明は箱に草木が浮いているようにしか見えないのだから。

「こいつは水耕栽培っていう新しい農法なんでさあ。静子様はこいつの研究をしたいようだが、どうにも時間が取れないって事で、うちが水耕栽培の研究を引き受けたって訳です。管理が難しいし、俺には学がないから土も無いのに何で育ってるのか分からないんですがね」

水耕栽培とは従来の土で栽培する農法と違い、水に浸して栽培する農法だ。通常は無機肥料を使用するが、現代では有機液肥など有機肥料を用いた栽培も行われている。

「……確かに何が起きているのか皆目見当もつかぬ」

「だろう! なんだか判らねぇけど育つ! ほんと、静子様は頭の出来からして俺らとは違うぜ!」

水耕栽培にも驚いたが、兼続がもっとも驚いたのは静子が考えた事を、まるで自分が褒められたかのように喜ぶ田吾作だった。

「田吾作殿は、静子殿を敬愛しておられるのですね」

「へへっ、まぁ今でこそ皆同じだけど、最初は反発が酷かったんだ。何せいきなり女の、それも俺らより年下の娘っこが村長になるんだぜ。幾ら織田様の命令でも、それはちょっと……と思う奴がいっぱいいたさ」

「村長……? もしかして静子殿は昔、ここの村長をされていたのですか?」

「おうよ! 俺たちの村は年貢の納めが悪くてな。そのとき、村の取り潰しをしない代わりに、静子様が派遣されたって話よ。それから数年、あっという間に食い詰め村は蘇ったんだ。ほら、あそこに年嵩の子供がいるでしょう? あいつ、昔はガリガリの飢えたガキだったが、今じゃあ腹一杯飯食って大きく育った。あいつの母ちゃんが飯を用意するのが大変ってぼやく程の大食らいさ」

田吾作が指さす方に兼続は顔を向ける。指した先には何人かの子どもが遊んでいた。みな、血色の良い肌をしていた。田吾作の指さした人物は、中でも一際背も高く横幅も大きかった。

「どうよ、静っちが目指す世の中、少しは見えたかな?」

今まで黙っていた慶次が、子どもたちの遊ぶ光景に釘付けになっている兼続へ質問する。子供たちに見惚れていた兼続が、慶次の言葉でハッとする。

「十分だ。しかし、これではいくさ人は不要になるな。悲しい話だが、このような世に、いくさだけを生業とする者は役に立たぬのだからな」

そう語る兼続は、言葉と裏腹に朗らかな笑みを浮かべていた。






五月中旬、信長と本願寺との間で和睦が成立した。信長がもっとも欲しがっていた通貨発行権を、彼は見事獲得した。
その他にも信長の許を訪れる者への便宜を図ること、土地の所有者整理に協力すること、経済発展を見越して道路整備などのインフラ事業に資金を出資することなど、他にも細かい取り決めが交わされた。
周囲から見れば信長が土地を得た訳でもなく、また賠償金を得た訳でもない。随分と穏当な和睦に見えたが、本願寺自体は信長を警戒する姿勢を見せた。
しかし、既に目標を達した信長は気にすることなく、家臣たちへ通貨の開発を急ぐよう命じた。

「交通の便が良くなれば、必ずや経済は発展する。資金は本願寺が出すゆえ、気にせず多くの人を雇え。特に生活に困っている者へと優先して仕事を回せ」

合わせて信長は道路整備も家臣に命じた。とにもかくにも、道路整備が最初で最重要だ。道なくして人は動かず、人動かずして物動かず、だ。
物流を促進させ、経済を活性化するには京周りだけ道が整備されているのでは足りない。日本各地、僻地と言われようとも、信長は全ての場所に道を通す気でいた。
無論、道路に関しては運用から関所まで、幾つもの法が取り決められていた。これら法については本願寺にも順守するよう約束させた。

「土地は全て検地しろ。邪魔する奴は武力で黙らせても良い。土地の持ち主は差出方式で決定しろ」

土地の所有者を確定させるため、道路整備と合わせて家臣に命じる。これは二つの目論見があった。一つは土地の所有者をはっきりさせ、支配体系を整理する事だ。
もう一つは寺社勢力や公家が持つ荘園を含めて、一体どこにどれだけの土地があるか正確な数値を手に入る事だ。
領内を一括管理するには、正確な数値が必要不可欠だ。データを元に徴税を行う事で混乱は少なく、地域間で差が出る事による抗争もなくなっていく。

「良いか、手は一切抜くな。検地を誤魔化した者は、立場を問わず打ち首だ」

その一言で家臣の顔は真っ青になる。信長は規律を破った者を、立場問わず打ち首にした過去がある。ゆえに調査を誤魔化せば、待っているのはお家取り潰しに近い厳罰だ。
それを理解した家臣たちは、信長の機嫌を損ねる事を怖れ、一切手を抜かず仕事を遂行していく。

一方、信長と本願寺が和睦した事で、謙信は加賀や越中の一向宗と間接的な和睦をする事となった。無論、祖父の代から争っている間ゆえ、和睦と言ってもすんなりとは行かない。
しかし本願寺が和睦した事と、和睦条件に「信長の許へ訪れる者に便宜を図る」というものがあった。
そしてこの条件を守らなかった者は、織田側がどのように処分しても本願寺は口を挟まない、という条件も。

「何やら不思議な気持ちだ。京で手を取り合った者たちが、揃って織田殿の許へ向かうなど」

謙信は精鋭兵5000を引き連れて春日山城を出る。いかに信長と本願寺との間で約束を交わそうとも、謙信はそれを完全に信じるわけにはいかなかった。
それゆえ軍の中には直江(なおえ) 景綱(かげつな)河田(かわだ) 長親(ながちか)など、謙信の側近が幾人もいた。
更に本庄(ほんじょう) 実乃(さねより)などに越後の留守を任せた。

「……わしの身は織田家にあり、とうの昔に将軍ではない。今回は例外中の例外だ」

「はっはっはっ、そうだろうな。今では……おや、まだ何も言ってはおらぬぞ? そう怖い顔をしないで欲しいな」

足満は謙信に対して不承不承に言葉を返す、それが面白かったのか前久が足満をからかう。
言葉の途中で足満が前久を睨んだため、前久は最後まで言わなかったが口元には笑みを浮かべていた。
明らかに面白がっている様子だと理解した足満は、忌々しげに舌打ちする。

「カリカリするな。もうすぐ会えるさ」

「……貴様、何が言いたい」

「おや? 言っても良いのかな?」

肩をすくめる前久に、何を言っても無駄だと理解した足満は舌打ちした後、馬の足を早めた。

「はっはっ、からかいすぎたようだ。待て友よ。何も無碍にからかったのではない。お主は辛気くさ……コホン、気難しげな顔をしすぎておる。もう少し笑ってはどうかね」

「余計なお世話だ。わしが気難しい顔をしていようが、貴様には関係なかろう」

「友からの助言だ。少しは聞いてくれても良いであろう?」

「考慮に値せぬ」

足満と前久のやり取りを、謙信は眩しげに見る。羨ましいとさえ思った。二人は何気なく会話をしているが、建前を排して本音で話せる友がいるということが得難い奇跡のように思えた。
越後は他の地域に比べて武士が土地に拘る傾向が強く、それゆえ内乱や家臣同士の対立が絶えなかった。特に初期の上杉家では地域ごとに派閥が出来るほどだった。
初期の謙信の側近である大熊(おおくま)朝秀(ともひで)が出奔し、後に武田家へ仕えたのも越後の特殊な環境に嫌気がさした、もしくは派閥争いの影響で追い出されたとも言われている。
そうした環境ゆえ、謙信には心許せる友がいなかった。友など求められぬ立場とはいえ、こうして目の前で見ると羨ましいという気持ちがわいてきた。

「友とは良いものだ。心気兼ねなく言葉を交わし、困難な道を歩もうとすれば、何も聞かず傍にいてくれる」

「御実城様」

「すまぬ。ただの無い物ねだりだ」

それだけ言うと謙信は馬の歩を早めた。声をかけた景綱は謙信の心中までは察せなかったが、彼が何を言わんとしたかは察した。
しかし、その事を景綱は言葉にしなかった。言えば謙信の苦労が水泡に帰するからだ。

幾ら本願寺から独立傾向が強い加賀や越中の一向宗でも、流石に謙信の精鋭兵と武田を打ち破った織田軍とを同時に相手は出来ないと考え、道に神輿を置くなどのちょっとした嫌がらせをしつつも本格的な対峙は避けた。
神輿とは端的に言えば神が鎮座する輿(こし)だ。それゆえ、神輿は神の領域と考えられていた。

「捨ててこい」

もっとも、嫌がらせと言っても足満には何ら意味なく、逆に足満の、ある意味では冷酷とも言える現実主義(リアリズム)を思い知っただけだ。
彼は道に置かれた神輿をゴミと断じ、付近の崖へ投げ捨てた。重量ある神輿が落下の衝撃であちこちが砕け散る。
無残な姿になった神輿を一瞥もせず足満は行軍を再開する。神罰を畏れて近づこうとしない謙信の兵たちとは、対極の態度だった。

「恐ろしい。彼は神罰を怖れぬのか」

歴戦の猛者である景綱でも、こと神罰となれば畏怖する。むしろ景綱の態度こそ、戦国時代の武士では普通だった。足満のように神輿を平気で投げ捨てる真似が出来る方が異端だった。

「彼にとっては神も仏も畏れる対象ではないのでしょう。私には理解は出来ませぬが。ま、奴の考えなど、誰にも理解出来はしないでしょう」

「あのような者を抱えて、織田殿は不安にならぬのか」

「流石に最初は驚いたでしょう。しかし、時には彼のような人物をも使いこなす必要がある、と織田殿は考えているのでしょうね。時折、彼に仕事を命じています。私程度では織田殿が何を目的で仕事を任せているか、推し量る事など出来ませぬが」

言葉とは裏腹に、前久が軽い口調で景綱の疑問に答える。
足満は神仏に対して敬いも、畏れも、何ら特別な感情を持たない。前久に分かった事は、今の足満は昔の将軍時代の彼とは違うだけだ。
今の足満は道徳も倫理も良心も投げ捨てた、氷のように冷たい現実主義者だ。それでも根っこ部分が変わっていない為、前久は変わらず足満と付き合っていた。

「近衛様も神罰を怖れぬのですか」

「一度は断たれた縁が、また結ばれたのです。これも神仏のお引き合わせ、ならば今度は最後まで、損得を抜きにして付き合うのが友というものです」

「神罰より友との縁を大事になされるのですか」

「進んで神罰に巻き込まれにいくなど、世では愚の骨頂と笑われましょう。しかし、この縁もその神仏が与えて下さったもの。これを大事にするのはそれほどおかしい事でしょうか。いえ、確実におかしいのでしょうね」

景綱は何も言えなかった。表面上は仲が悪く見えても、前久と足満は深い部分で繋がっている。そこに損得や世間の風評は一切意味を成さない。
ただ、友のために動く。シンプルで、そして戦国時代では異端とも言えるものだ。

「いえ、某は羨ましく思います。友とはかくもありがたいもの、と再度思い申した」

今までの厳しい表情が霧散し、景綱は人の良い朗らかな笑みを浮かべて言った。






信長と和睦した本願寺は、並行して情報収集を行っていた。何故、武田軍は一夜にして敗北したのか、その原因が分からなければ信長への対応が取れないからだ。
数ヶ月かけて分かった事、それは顕如や頼廉を驚かせる内容だった。

「では織田は、最初から対武田を考えて行動していたというのか?」

顕如たちを驚かせた内容、それは信長が織田包囲網を攻略する時、引きずり出される武田を潰す事を前提に動いていた事だ。
織田包囲網には強力な軍が必要、そしてそれは謙信より武田が担う可能性が高い、と信長は読んでいた。そして彼の予想通り、武田は甲斐より出陣し、三方ヶ原の戦いで敗北を喫する。
武田が織田包囲網に参加した事も、その後の本願寺や他勢力が行った事も、最初から信長がそうなるように仕組んでいた、という事になる。
要するに、反織田連合は信長の手のひらで踊っていたにすぎない。

「では和睦内容にも、奴が何か仕掛けていると考えて良いのではないか!?」

「待て。それは我らも考えた。しかし、奴は土地を要求したり、我らに退去を求めたりしてはおらぬ。それに、あれ以上突っぱねれば我らに和睦の意思なし、と織田に取られる」

「我らには毛利の支援がある。我らは籠城してひたすら耐えれば良い。金も米も無尽蔵にある。その間に奴らの資金源を包囲すれば、勝手に国力を失う」

「恐れながら」

間者の報告で慌てる顕如の側近たちだが、頼廉が言葉を発するとぴたりと発言を止めた。

「織田の経済を封鎖するより、武田を打ち破った織田の主力である近衛静子(・・・・)の対策を考えた方が良いと思います」

「それは一理あるが……所詮、女であろう? どうこうする……いや、失礼した」

頼廉の言葉に一人の僧が反論する。だが頼廉が睨むと、僧は慌てて意見を引っ込めた。頼廉は一度、顕如の側近たちを見据えてから言葉を続ける。

「おのおの方、女子相手にと思われますが、我らはその女子の策に負け申した。これは否定出来ぬ事実。ここで言い訳を述べても、我らの立場は一向に変わりませぬ。それとも侮ったまま再び足元を掬われ、手の施しようもないほど敗北する未来をお望みか?」

頼廉の言葉に顕如までもが黙する。
実は顕如をしても所詮は女と若干侮っていた。しかし、軍事指揮官であると同時に優れた政治家の頼廉は静子を侮らなかった。
彼は静子が女だからこそ、これ程に上り詰めるまで誰もが見落としていたのだと察した。
そして今もなお、彼女が女である事で侮る人物がいる。それは恐ろしい事だと頼廉は悟った。何しろ何をしても、どんな手柄を立てても侮られるのだ。
相手を侮らせる事が出来れば、不利な状況を覆す事が出来る。それを自然と行えるのだから、静子の立場が非常に羨ましいと頼廉は思うほどだった。

「女子どもであれ、否、女だからこそ相手を油断させられる。我らは知らず知らずの内に、静子の術中にかかっております。油断大敵。我らは奴を女ではなく、織田と肩を並べる敵と認識するべし。さもなくば、武田と同じ末路を我らは辿る事になる」

「しかし……具体的にどうすれば良いのでしょうか。織田については調べていますが、その静子とやらは全く未知の存在です」

「その為の和睦。時間をかけて、ゆっくり静子について調べるのです。今、本人の事で分かっているのは卓越した知を持つ事、刀の蒐集に熱を入れている事、奴は管理する土地の者に慕われている事、そして奴の率いる軍が他に類を見ない事です」

咳払いして頼廉は空気を変える。彼自身、ここまで女を敵とみるのは屈辱ではあった。しかし、その怒りで目を曇らせれば、女にあっさり負けた軟弱者、と後世で笑われる。
ならば屈辱よりも耐えて勝利を得るべし、と頼廉は頭を切り換えた。

「奴の軍には八人の側近がいる。森勝蔵、可児才蔵、前田慶次、足満、藤堂与吉、玄朗、仁助、四吉。全員が異色の出自の者だ。普通なら軍として機能しない、色の強い連中を纏め上げている。それだけでも指揮能力は優れていると言って良い」

「確かに……特に前田慶次などわしらの耳にも届くほどの傾奇者。我が生き様を通すためには、何者にも屈さぬような男が、何故大人しく軍にいるのかほとほと不思議でならん」

「それこそが奴の強み。だが、どんな強者にも弱点は存在する。それを知るまでは耐えるしかない」

頼廉の言葉には説得力があった。今のまま織田と正面衝突しても勝ち目はない。また、籠城しようにも織田側には謎の発破筒が存在するため、城門が意味をなさなくなっている。
ならば片方の手で手を握るふりをして、反対の手で殴りつけられる時期までひたすら待つ、これが今の本願寺に取れる最も有望な選択肢だった。

「今の我らは織田の勢いを挫く弱点を、近衛静子の弱点を見つけるまで、耐えに耐え続けるが最良。嘲笑う者には言わせておけばよい。我らが最後に勝てば、それらの嘲りは消え去る」

「そうじゃ! 下間刑部卿法橋殿の言うとおりじゃ!」

軍議に参加している一人の僧が立ち上がると、興奮気味に叫ぶ。その声に他の者も同調し始める。

「そうじゃ、最後に勝てば良いのじゃ」

「織田には言わせておけば良い。獣の如き武士に、雲上人たる僧が負けるはずなし! 最後は仏の加護ある我らが勝利する!」

「早速、籠城に向けて手を打とう。何、金も米も無尽蔵にある。十年でも二十年でも耐えて見せる」

今までの沈黙が嘘のように、全員が意気揚々と声を上げる。士気低下を気にしていた頼廉は、彼らの態度に少し安堵する。

だが頼廉も、そして顕如たちも気付かない。そもそも静子は自分の弱点を隠さず、敢えて晒している事に。晒した上で、それが弱点となり得ないよう、互いに庇い合える体制を整えている。
その事に気付ければまだ対応は変わったのだが、残念ながら彼らがその事に気付く事はついぞなかった。
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