挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀四年 室町幕府の終焉

しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

120/134

千五百七十三年 四月中旬

信長との会談を終えた静子は、慶次たちを連れて帰宅の途についた。
尾張にある静子邸の本殿に、雇い入れた奴隷の四名を待たせているため、彼女は慌ただしく着替えを済ませて謁見の間へと急ぐ。

「早速ですが、四人にはそれぞれ仕事をして貰います。虎太郎さんには書物の翻訳を、弥一さんと瑠璃さんには、それぞれ金属加工と絨毯の製法の伝授、紅葉ちゃんはある植物の栽培記録を取って貰おうかな」

ヨーロッパ諸国で記された書物を日本語に訳すには、現代の辞書があるだけでは不十分だ。静子が持ち込んだ電子辞書の類は、現代語のそれであり、中・近世の文法や語法とは異なっている可能性があった。
それならば、当時の翻訳家に日本語へと訳して貰うのが一番手っ取り早い。
言語学者であり、母国に居た頃より翻訳をしていた虎太郎は、ラテン語はもとより、フランス語やスペイン語、ギリシャ語も堪能であった。
日本語を流暢に操れるのも、そうした下地があったためである。尤も、複数の言語を知ったが故に、教会に目を付けられ、異端審問を受ける羽目にもなったのだが。

「翻訳自体は構いません。しかし、何か仰りたいことがありそうだ」

「報酬と言っては何だけど、地動説の根拠となる情報を与えましょう」

地動説と言う単語を聞いて、虎太郎の眉がピクリと動いた。
当時の主流は、宇宙の中心に地球があり、他の天体は地球の周りを自転しながら公転しているという説、即ち天動説であった。
これに対して宇宙の中心は太陽であり、地球やその他の惑星は太陽の周りを自転しながら公転していると唱えたのが地動説である。
地動説で有名なのはガリレオ・ガリレイだが、最初に提唱したのは古代ギリシャの天文学者アリスタルコスだとも言われている。

紀元前2世紀の天文学者アリスタルコスは月の満ち欠け、月と太陽との距離、月と太陽の大きさから太陽が地球を回っていると考えるより、地球が太陽の周りを回っている方が自然だと考えた。
余談だが月と太陽との距離について、アリスタルコスは「月が上弦か下弦の月の時、太陽は真横から地球を照らしている。そして地球と月とは一直線の位置関係にある。それならば、その時の月と太陽の仰角を測定すれば、地球から月、また地球から太陽との距離を三角測量で測定できる」と考えた。
そして彼は実際に計測を行い、その結果から太陽は地球から見て、月の19倍(実際には約390倍)遠くにあると考えた。

次に彼は月食から月の大きさを計測した。月食は月が地球の影に隠れるため、月に映る地球の影から、地球の大きさを求められると考えた。
そしてそれらを計測し、地球の直径は月の3倍である(実際には約4倍)として計測結果をまとめた。
これらのデータから太陽は地球など取るに足らないと言える程に大きいと、彼は結論付けるに至った。
仮説を打ち立て実証し、そのデータから導き出した結論から、アリスタルコスは「地球より大きな太陽が、地球の周りを回ると考えるより、地球が太陽の周りと回っている方が自然だ」として、地動説を発表した。
勿論、中世と同じく当時の天文学の権威から「そんな馬鹿な話があるか。神への冒涜だ」と一蹴され、激しく非難された。

その後、二千年近い時が流れて16世紀の中世ヨーロッパ、カトリック司祭のニコラウス・コペルニクスがアリスタルコスの研究結果に着目し、誤差や欠点を独自の計算で補って再計測をした結果、地動説が正しいと確信するに至った。
しかし、当時の常識である天動説を否定することは命懸けであるため、それを恐れたコペルニクスは死の間際にようやく発表した。

何故、コペルニクスが地動説の発表を恐れ、ガリレオ・ガリレイが異端審問の場において、自説を撤回したのか。
それは聖書に「神は大地を動かなくした」という一文があったからに過ぎない。
つまり天動説を否定することは、聖書が間違っていると糾弾することになり、ひいては神を否定するという、キリスト教国に於いて死活問題となる危険を孕んでいた。
それ故にカトリック教会は頑なに地動説を否定し続けた。
コペルニクスの地動説を擁護し、太陽系のような天体は宇宙に無数にあると唱えたジョルダーノ・ブルーノは異端審問にかけられ、異端と宣告されても尚、自説を撤回しなかったため火刑に処された。
火刑の後、彼の遺灰は川へと投げ捨てられ、教会は遺族に葬儀や墓の造営を禁じることを申し渡した。
ガリレオ・ガリレイは教会の苛烈な対応を知っていたため、異端審問の場で自説を撤回したと言われている。

「それが正しい事を証明できますか?」

「私がここで正しいと請け負っても、貴方は納得できないでしょう。ならば、正しいかどうかは貴方が証明すれば良い。私が示した根拠が誤りであったならば、私を嘘つき呼ばわりすると良いでしょう」

「なるほど、(いず)れにせよ己の目で追実験して確かめねばなりませんね」

静子の言葉に虎太郎は笑みを深める。

既に地動説が常識の世界で生きてきた静子が、虎太郎に地動説を確かめさせる理由は何か。それは静子が『結果』しか知らないからだ。
地球は自転している、地球は太陽の周りを公転している、と言うのは簡単だ。
しかし、それを証明するとなると彼女の根拠は「そう習ったから」になってしまう。故に虎太郎に根拠を示し、実際に計測させて証明させるのだ。

しかし、地動説を証明する根拠と一口に言っても、その詳細は多岐に亘る。
ガリレオ・ガリレイは木星に衛星があること発見して公転の根拠とし、金星の満ち欠けや太陽の黒点の動きから惑星が自転していることを主張した。

また、ケプラーの法則を確立したヨハネス・ケプラーによる天文表「ルドルフ表」(当時の星表と比較して30倍もの精度を持っていた)も発表された事で、地動説に有利な証拠は幾つも出てきた。

それでも反論は少なからずあった。中でも「地球が一度も停止せず動き続けていられる理由」については正確な答えが出せないでいた。
この問題を解決したのがアイザック・ニュートンである。彼の「運動の法則」と「万有引力の法則」という普遍的な法則で慣性を定式化した事で、地動説の疑問が全て解消された。

ただし、どれほど根拠のあるデータが出ても、カトリック教会が地動説を承認したのは、コペルニクスの地動説発表から数百年後の千九百九十二年の事である。

「絨毯、ですか」

「そうです。それが後に緞通(だんつう)へと繋がりますからね」

「あの……緞通って何でしょうか」

「いわゆる絨毯の親戚、とでも言うのでしょうか。何、細かく気にする必要はありません。貴女が知っている絨毯の製法を、職人に伝授すれば問題ないのです。後は、職人たちが勝手に自己改造するでしょう」

虎太郎との会話が終わると、今度は瑠璃が静子へ話しかける。
緞通とは敷物用織物の一種で中国製の絨毯を指す。絨毯と混用される事が多いが別物だ。色々と違う点はあるが、一番大きな違いは厚みである。

ペルシャ絨毯は非常に薄い絨毯だが、緞通は厚みを持たせた絨毯と言える。また製法も大きく異なり、ペルシャ絨毯は(たて)糸と横糸を結ぶが、緞通は横糸に経糸を通すだけだ。

「は、はあ……」

「過去をほじくり返す事になりますが、絨毯製法の伝授が終われば後は助言や監督をする程度で問題ありません」

これは後に話を聞いて発覚した事だが、瑠璃は一時期アラブで奴隷として売られ、絨毯を製造する工場で下働きをさせられていた。
時に職人を手伝う事もあったゆえ、製法については一通り知っているとの事だ。

その時に知った製法を尾張の職人へと伝授するのが彼女の仕事だ。
ただ、全ての工程を把握している本物の職人とは違うので、簡略化された手順などで覚えている可能性もあったが、その辺りは教わった職人たちで勝手に補完するだろうと考え、静子は余り気にしていなかった。

ペルシャ絨毯は日本とあまり関わり合いがなさそうに思われるが、安土桃山時代に既に日本へと輸入されていた。
時の権力者である豊臣秀吉はペルシャ絨毯をいたく気に入り、裁断して陣羽織にしたという話もある。

「内容は簡単に聞こえますが、絨毯や緞通は外資を得るための貴重な商品になります。なので、その点にだけ注意して下さい」

「はい、わかり、ました」

「宜しい。弥一さんについては、今さら語る事はないでしょう。お好きなように物を作って下さい。後は職人が見て、勝手に対抗意識を燃やして、真似て何か作るでしょう」

「……それだけで良いのですか?」

瑠璃同様、弥一の仕事も端的にいえば技術の継承それだけだった。何しろ自分が作れるものを作っていれば良い、なのだから彼らが困惑するのも無理はない。

「構いません。こういうのは上からものを言っても、職人たちは動きません。対抗心を燃やす状況に持ち込めば、自ずと動くものです」

二人には普段通りの事でも、静子にとっては新しい技術が入る事が重要だった。それで良い技術が確立され、新しいものが出来るかは、彼女自身にも判断がつかない。
だが、最初の引き金を引かないことには話は始まらない。ゆえに海外の技術は、どんな些細なものでも取り入れる気でいた。

「分かりました」

「よろしくー。では最後に紅葉ちゃん。貴女は……そうだね、インドセンダンの栽培記録でも取って貰おうかな」

「は、はい!」

声をかけられてびっくりしたのか、紅葉は背筋を伸ばして返事をする。何か緊張するような事をいったかな、と内心首を傾げつつ静子は言葉を続ける。

「かたくならない、気を落ち着ける。ある程度は教えるけれど、それが確かかどうかを調べるのがお仕事だよ。別に難しくないよ? 正しければ栽培出来るし、間違っていれば枯れるだけだから」

「え、枯らしても、良いのですか?」

「ちゃんと検証した結果ならね。無意味に枯らす気はないよ? 何を、どうしたから枯れた、っていう記録は残しておいてね。そういった記録の積み重ねが、いずれ真実に辿り着く鍵となるのよ」

「はい。わ、分かりました」

紅葉の返事に、静子は満足げに頷く。
静子が紅葉に栽培させるインドセンダン(英語名ニーム、以降ニームと表記する)は、名前通りインド原産の植物だ。
インドでは古くから万能薬として家庭に常備された木だが、近年害虫避けの効果がある事が分かった。
木全体に何かしらの効果があり、インドの伝統医療であるアーユルヴェーダではニームの種子や樹皮、葉っぱを使った薬が幾つも記載されている。

その中で特筆すべきものは、種子や樹皮に含まれているオイルだ。アザディラクチンという成分が含まれており、これが何百種類という虫を寄せ付けない効果がある。
またこれを摂取した虫は成長ホルモンの働きを阻害されて死に至ることもある。これほどの効果があるのに、昆虫以外の動物には影響がないと言われている。
油を取った種子の絞りカスを粉末にしたものはニームパウダーと呼ばれ、土中へ潜む害虫を駆除する効果がある。
ただし効果は1、2ヶ月程度しか持続しないため、定期的にニームパウダーを追加する必要ある。

「ある意味では、紅葉ちゃんが一番きつい仕事かもね。延々と観測して記録を取り続けるだけだから」

化学農薬が入手出来ない戦国時代において、ニームの木や種子から取れるオイルなどは化学農薬と同等の能力を持つ便利な存在だ。
ただしニームの木は熱帯地域が原産であるため、気温と湿度に気を遣って栽培する必要がある。耐寒温度は10度で、株が小さいときは特に寒さに弱いという欠点がある。
栽培の平均気温は20度から25度、日当たりが良く、それでいて水はけが良い土が必要だ。水はけが悪いと根腐れを起こす。

それゆえ日本では沖縄などの亜熱帯地域でしか戸外栽培が出来ず、日本の本州では冬になれば戸内栽培に切り替える必要がある。必然的に鉢植え栽培が基本となってしまう。
木そのものが害虫対策なので、病気や害虫は殆ど気にしなくて良い利点はあるが、栽培そのものはそれなりに難易度が高い。

「が、頑張ります」

「よろしくね」

一息つくと静子は改めて全員を見据える。

「さて大体の仕事は説明したと思う。これは全員に言える事だけど仕事をこなしていたら、空いた時間は何をしても良いよ。勿論、我が国に仇成す行為をした場合は、それ相応の返礼はさせて貰うけどね」

返礼という単語に少し身構えた四人だが、静子は人の良い笑みを浮かべて言葉を続ける。

「難しく考える必要はない。普通に我が国の法を守り、普通に生活していれば殆ど問題はないよ。気になったら質問してくれれば良い。大事なのは一人で抱え込まない事」

四人は互いの顔を見た後、ボソボソと相談した。そして静子の方へ顔を向けると、承知したと言わんばかりに大きく頷いた。

「よし、では衣食住について案内させる。小姓たち、案内しなさい」

四人の返答に満足した静子は、外に控えている小姓に四人の案内を命じた。






彼らを迎えて三週間が経過した。表面上は特にいざこざもなく、最初は職人たちと多少ギクシャクしたものの、物珍しさから来る遠慮だったため、二週間も経てば仲良くなっていた。
瑠璃は人が苦手なようで、兄である弥一の後ろに隠れる事が多かった。尤も、職人の妻たちによる機関銃のような会話に対応できないという面も否めない。

虎太郎は翻訳を手早く終わらせると、地動説の検証へと取り掛かった。殆ど引きこもりに近かったが、たまに出てきては慶次たちと酒を酌み交わしていた。
ワインが欲しいと呟いていた、と聞いたので、その内ワイン造りに手を染める可能性がある、と静子は考えた。

弥一は寡黙な職人で、黙々と製品作りに精を出していた。
決して職人たちを拒絶している訳ではなく、今までキリスト教徒から拒絶され続けた為に、どう接して良いのか分からないように見受けられた。
しかし、職人たちと酒を酌み交わすにつれ、無骨な雰囲気は変わらぬものの、少しずつ喋るようになった。

紅葉は真面目だった。真面目過ぎて仕事に熱が入りすぎるのが玉に(きず)だが、それでも順調に仕事をこなしていた。
ただ、他の三人と違って他人と接する機会が少ないため、日本語の習得は少し遅れ気味だった。

「うん、問題ないね」

三週間経って静子は彩から四人の報告を受け取った。内容は十分で、特別問題となる点は見受けられなかった。

「四人とも十二分に働いています。問題があるとすれば、静子様が紅葉に気を遣いすぎて、本来の仕事が遅れている点ですね」

「あーそれは、ごめんね。何とか間に合わせるからさ」

「気を遣うのは構いません。しかし、あまり気を遣いすぎると、紅葉が他人のやっかみを買います。静子様は多くの者を抱える身です。何事もほどほどにお願いします」

「お、嫉妬かな? 私はいつも彩ちゃんが大好きだよ?」

言うやいなや静子は彩に抱きつこうとする。しかし、彩はさっと身を翻すと静子の抱擁を避ける。

「ぶー、彩ちゃんは素直になるべきだと思うよ」

「馬鹿な事を仰っていないで、ご自分のお仕事を終わらせて下さい。10万石の統治なのですから、これから今以上に書類が増えます」

「ちゃんとその手の職員は用意しているよ。私は決済するだけ、そこまで仕事は増えないよ」

静子は信長が10万石を統治しろと言った時から、統治に必要な才能を持つ人間を集めていた。
10万石の内、5万石は前久がどのように統治するかにもよるが、残り5万石は静子だけで統治しなくてはならない。そこで、静子は5万石を細分化して、それぞれ専任の代官を立てた。
税管理の一番小さい単位を治める者を市長、複数の市長の上に立つ者を区長、それら区長を取り纏め、一番上に立つのが静子だ。
静子が主にする事は法整備、税制改革、市場改革、土地の所有者整理、インフラ開発、金融改革、予算の立案と執行だ。

「金融には銀行が必要なのだけど、それには上様が通貨発行権を得る必要があるのよね。ま、今でも銀行は稼働させているから問題ないけど」

銀行には「金融仲介」と「決済機能」と「信用創造」の3大機能が必要となる。
だがそれよりも、銀行は民からの信用が重要になる。信用なくして金の借り貸しである金融仲介は行えない。信用なくして決済機能は使われない。信用なくして信用創造は行えない。
何においても民から信用がある事、これがなければ民がお金を預ける事はないし、貸したお金が順当に返済される事もない。

金融仲介は名の通り、借り手と貸し手の仲介を行う機能だ。借り手と貸し手の間をうまく調整し、取引におけるリスクやコストを軽減出来る。
決済機能は預金を使って現金を使わず送金や支払いを行う機能だ。決済機能は銀行のネットワークと豊富な資金があって初めて実現する。

信用創造は難しく聞こえるが、簡単に言えば預金と貸付を繰り返し行う事で、最初に銀行が受け入れた金額の、何倍もの預金通貨を作り出す事だ。
たとえばAさんとBさんが各一千万円ずつ銀行に預けたとする。この時、銀行には二千万円の本源的預金が存在する。
この内、準備預金という一定の金額を残し、残りを貸付のお金に回す。
そしてCさんが銀行から一千万円を借りた時、銀行にはAさん預金一千万円、Bさん預金一千万円、Cさんへの貸付一千万円の合計三千万円が銀行の口座預金に存在する事となる。
最初の本源的預金が二千万円だったため、銀行には新たに一千万円の信用創造がなされた事となる。
この繰り返しを行う事で社会に存在する通貨が増え、経済活動が円滑になる。この機能を信用創造と言う。
ただし名前の通り、銀行に信用がなければ成立しない機能だ。

「まー銀行と言っても、今は信用がないので金を預かる事しか出来ないけど」

銀行が出来る、イコールすぐに金を預けてくれる、とはならない。銀行という機能自体が初めてであり、金を他者に預ける事に抵抗感を抱く者もいる。
武田を打ち破った事で一定の信用を得られたのか、徐々に金を預ける人間は増えているが、それでも細々としたものである。
だが信用を得るには多大な労力が必要なので、顧客を大事にして地道に信用を獲得していく以外にない。

「徐々にですが預金者は増えております。やはり、出入りの商人が一斉に預けたのが、効果的だったようです」

出入りの商人、特に久治郎は銀行のメリットにいち早く気付いた。それは現金を銀行に預けておけば紙のやり取りだけで金子の処理が行え、現金を持ち歩くより何倍も安全という事だ。
仮に決済が実行されなくとも、口座の残高さえ確保しておけば、銀行の責任となり、久治郎の信用は傷つくことがない。
大きな商談を纏める際にも、金主を探して相手ごとに条件を詰めながら交渉せずとも、銀行側が多くの金主を取りまとめて仲介してくれることで、多くの資金をより安く調達することが可能となる。
金子のやり取りが早くて容易、この二点が久治郎にとって大きなメリットだった。

「大金が預金されたよね。この信用を維持するためにも、内外の敵は容赦なく徹底的に取り締まってね。仲間がいるのなら、吐くまで容赦ない取り調べも許可するよ」

「はい。警備においては最上位の状態で対応させています」

セキュリティがしっかりしている事、これがまず信用を得る第一歩だ。警備の者もおかず、何のセキュリティ対策もしていない銀行へ金を預ける馬鹿はいない。
金を略奪する者には容赦しない、そういった厳しい態度を見せることで信用は得られる。
特に戦国時代おいては、銀行強盗犯はその場で斬り捨て、一族郎党を連座させて晒すぐらいの態度でなければならない。

「法的にも銀行強盗犯の殺害は問題ないけど、全員殺しちゃったら背後関係が洗えないからね。その辺はちゃんと対応するように言って欲しい」

「心得ております」

「よろしくねー。多分、ここ数ヶ月程は大きな動きも無いと思うから、ゆっくりでいいよ」

そんな事を語った静子は、後にこの時の発言を後悔する。
そのビックニュースは瞬く間に日本中を駆け巡った。そのニュースを知った時、誰もが「まさかそんな」と口を揃えた。
それは静子も、策を実行した信長ですら予想外の出来事だった。

戦国の世を震撼させた大ニュース。それは越後の龍こと上杉謙信が、信長の臣下となることを受諾したと言う事実だった。






その報が最初に齎されたのは静子邸だった。

「静子殿にお目通り願いたい!」

ともすればふてぶてしい態度にも見える少年が、門番にそう語ったのは四月中旬を少し過ぎた頃のことだった。
少年とはいえ身なりは立派で、風貌もひとかどの武士と思えたため、門番は少し逡巡した後、人が訪ねてきた事を静子へと報告した。
蕭にスケジュールを尋ねたが、彼女からは誰かの訪問が予定されてはいないという返答だった。
通常ならお引き取り願うところだが、たった一人で訪ねてきた人間を無碍に帰すのもどうかと思い、静子は少年と会う事にした。
そして謁見の間で少年の姿を見て、ようやく静子は少年の正体を知る。

「おや、与六君じゃないか。かれこれ一年ぶり……かな? 今回は何の用かな?」

「此度は拝謁の機会を賜り、伏して感謝申し上げます。つきましてはーー」

気軽に訪問の理由を尋ねる静子に対し、兼続は居住まいを正して丁寧に言葉を選んでいる。しかし、途中で盛大に腹の虫が鳴った。

沈黙が場を支配する。誰もが何か発言しようとして言葉を飲み込む。誰の腹の虫かは皆知っているが、それを口にするのは憚られた。
頬を掻いていた静子は、天井を眺めてどうするか考えた後、咳払いをして空気を変えた。

「急ぐ話でなければ、昼餉をとりながら話すとしましょう。今日は良い魚が手に入ったので、味の感想をお聞かせ願いたい」

「……は、はい。お心遣い(かたじけの)う存じます」

そう言って頭を下げた兼続の耳は真っ赤であった。折角格好を付けたのに、見事に馬脚を晒してしまったのだから、恥じ入るのも致し方ない。
静子は深く突っ込まず、手を叩いて小姓たちに昼餉の用意を命じる。ほどなくして、馳走にはほど遠いが温かそうな食事が全員の前に並べられる。

「では頂きましょう」

「いただきます」

食前の挨拶をした後、みなが食事を取り始める。腹の虫を鳴かせた兼続は、最初こそゆっくり食べていたものの、空腹には勝てなかったようで途中から掻き込むように食べていた。
前回で友情が芽生えたのか、ただ単に腹が減っていたのか、慶次や長可もまた食事を取るスピードが上がる。

「飯をおかわり! 椀じゃ物足りん。俺にはお櫃で持ってこい!」

「あ、ずるいぞ! おい小姓、俺にもお櫃で頼む! 慶次よりでっかいのでな!」

「慶次殿、勝蔵、お前たち静子様の前でーー」

「俺も負けてはおれぬな! おかわり、一番大きなお櫃で頼むぜ!」

才蔵が苦言を呈するが、慶次や長可に声は届かなかった。何かの火がついたのか、兼続までお櫃でおかわりを要求する始末。

「……ええい! 小姓よ! 某にもお櫃を持って参れ!」

ついに才蔵の対抗心にも火がついた。こうなると、もはや誰も手が付けられない状態だった。

「どこに入っているんだろうね」

目の前で繰り広げられる大食い競争に、静子は呆れながら呟いた。

まず長可が脱落し、続いて才蔵、慶次と兼続の一騎打ちになったが、体の大きさで慶次が勝利する結果となった。茶をすすりつつその様子を、生暖かい目で見守った静子だった。
茶を飲み干してお膳の上に置くと、唸りながら寝転んでいる兼続に声を投げる。

「それで、何の用で来たのかな?」

「うぷ、文を届けに参った。後、借りた金子の返済も兼ねておる」

お腹を苦しそうにしながら兼続は文、続いて金子が入った袋を差し出す。両方を小姓が受け取ると、中を確認したのち静子の許へと届ける。

「金子は彩ちゃんに渡しておいて。文は中身を検めます」

「はっ」

命を受けた小姓は静かに部屋を後にする。

「今さらだが確認しなくとも良かったのか?」

「君が持ってきたのだから、金子袋の中身を確認するまでもないでしょう」

大の字で寝転んでいる兼続の質問に、静子は文を広げながら答える。元より、返ってくるとは思っていなかった。そんなお金を兼続はわざわざ持ってきた。
ならば中身を確かめる必要はない、借金した金額がきちんと入っている、と静子は判断した。

(お金より文の内容が何か……だね。どれどれ……)

寝転がっている連中を放置して、静子は文の文字を追う。読み進むにつれて彼女の眉間にしわが寄っていく。最後まで読んだところで静子はもう一度、最初から文を読み直した。
四回ほど文を読み直した後、静子は丁寧に文をたたんだ。

「念のため確認するけど、冗談や何かじゃあないよね」

「冗談で済ませる内容ではなかろう。仮に冗談だとしたら、ここへ来る前に俺の首は飛んでいる」

「そうよね……ごめんね、まさかそんな、という内容だったからね」

「まぁ文を見たら、誰もが最初はそう思う。聞かされた時、俺も我が耳を疑った。だが御実城様が熟考した結果、出された結論だ。俺はそれに従うだけだ」

「そう、分かったわ」

兼続の返答を聞いた後、静子は納得するように小さく頷いた。

「紙と筆を用意しなさい!」

入り口へ顔を向けると、静子は大声で命令を飛ばす。滅多にない静子の大声に、小姓は何事かと思い、慌てて紙と筆を用意する。
用意された紙に静子は文の内容を簡潔に要約して2通書き記す。内容に問題がないか確認した後、花押を入れて丁寧に折りたたんだ。
更に元の文を一緒に入れて木箱に封じ、小姓を呼びつける。

「早馬を乗り継いで、上様の許へ最速で届けるよう伝令に伝えなさい」

「はっ!」

文を小姓に渡し、可能な限り急ぐ必要があることを念押しして伝えるよう命じる。ただならぬ雰囲気にあてられた小姓は、文を受け取るやいなや飛び出すように部屋を去った。

「……どういった内容なんだ」

あまりの慌ただしさに文が気になった長可が、頭だけ起こして静子に質問を投げる。
(おとがい)に手を当てて考え事をしていた静子だが、長可が質問してきた事に気付くと要約した文書を揺らしながら答えた。

「これには上杉家は織田家に臣従する、その事を上様に伝えてくれ、って内容が書かれていたのよ」

「…………んあっ!?」

最初は呆けた表情を浮かべ、続いて(かぶり)を幾度か振った後、天井を眺めて考え込む仕草を見せる長可。やがてその意味するところが腑に落ちたのか素っ頓狂な声を上げる。
予想外に過ぎる内容だったのか、慶次や才蔵でさえも口が半開きになっていた。

「偽物、じゃあないよな?」

「足満おじさんと近衛様が連名しているから、偽物でも冗談の部類でもないと思うよ。何より与六君を使ってまで、こちらを騙す理由もない。正真正銘、これは上杉家の降伏文書(こうふくぶんしょ)よ」

「まじか……」

文が本物だと理解し、長可が驚嘆の声を上げる。上杉謙信は武田信玄の好敵手と評されるほどの人物だ。
そんな人物が一戦も交えることなく、降伏に同意するのだから驚くなという方が無理な話だ。

「しかし、一度もいくさをせず、降伏なんてよく同意したよな」

「……仮に織田家と戦う場合、上杉家は越後を背負っていくさをする事になるからね。武士なら戦力差を気にせず、華々しく散るって言う道もあるけど、民を背負ってそれをしたら亡国のいくさにしかならない。ならば矜持を捨ててでも、越後にとって何が一番かを選ぶ必要があったんじゃないかな」

信長と謙信がいくさをした場合、信長は方面軍を派遣するが謙信は本人が出陣しての本土決戦となる。
そして信長は仮にいくさに負けてもやり直しが利くが、謙信は負ければそこで終わりだ。
謙信にとって信長と戦端を開く場合、決して負けることの出来ない連戦が相手の力尽きるまで続くことを意味する。
国を賭けたいくさにて、敵との戦力差を覆す事が出来ない場合、いずれは消耗し続け最後には必ず敗北する。その時、越後に何が起きるかは想像に難くない。

「でも、一回ぐらいいくさをしても、罰は当たらんのじゃない?」

「上杉家からすれば、()じゃないと駄目なんだよ」

越後を一番に考えた時、謙信は武士としてあるまじき臆病な行為との誹りを外部から受け、内部から多くの批判が上がろうとも、この時期に降伏する事がもっとも良いのだ。

「上様の敵、もしくは敵になりそうな連中は西側に本願寺、本願寺に従う雑賀衆や一向宗、毛利家、浅井家、朝倉家。東側は明確に敵対していないけど北条家に奥州の国人たち、といっぱい挙げられる。この状態で上杉家がいくさをした場合、旗色悪しと見てからの降伏は上様が受け入れない。なぜなら、武田家に続き上杉家を打ち破った、という箔が付く。そっちの方が何倍も外交で有利に立てるから」

「お、おう」

いまいち分かっていないのか、長可は困惑した表情を浮かべる。慶次はあえて聞き流し、才蔵は真面目に聞いていたが、内容は半分ぐらいしか理解出来なかった。
兼続は先ほどからずっと大の字で寝転がっていた。胆力があるのか、それとも単に図太いのか判断に迷うところだった。

「でも結局、上様には上杉家を屈服させた、という箔が付くね。ただ、それと引き替えに上杉家が何を言い出すか、が気になるところね」

「降伏するのだから、頭を下げて終わりじゃないの?」

「いや、そんな訳ないでしょう。降伏するといっても、条件は出してくるでしょう。おそらく上杉家にとって降伏条件を交渉する場こそ、外交という名のいくさ場になるでしょうね」

頤に手を当てて静子は考える。謙信が降伏を受け入れる条件として、何を提示してくるかを。
一番に考えられるのは土地だ。越後の国人は土地への思い入れが強い。全領土を安堵するという条件は言い出すと考えて間違いない。
他に考えられるのは関東管領(かんとうかんれい)の固持だ。義昭が征夷大将軍を返上すると言っても、室町幕府が与えた全ての役職が消滅する訳ではない。
次に誰かが征夷大将軍に就任するまで、足利将軍家による室町幕府の残滓は残り続ける。たとえ権威も権力もなくなり、完全に信長に乗っ取られた状態であろうとも。

「(いや、関東管領は認められないかな。それを認めたら、上杉家は織田家をバックに、関東一円の支配権を確立しようとする。流石にそれは認められない。一番の落としどころは謙信の身の保障と土地の安堵かな)ともかく上様がどう判断をするか、だね。明日の朝には来るでしょう。上様を迎えるために、今日の内に食料を買い込んでおきなさい」

信長へ出す料理の食材を買っておくよう、静子は外にいる小姓へ命じる。小姓は返事をした後、静子の命を伝えるために席を外そうとした。

「それから毛布を一枚持ってきて。豪胆な子だけど、風邪でも引いたら大変だから」

「は? ははっ」

少し困惑しながらも小姓は命をこなす。買い物担当の人間に食料の買い出しを伝え、毛布を一枚抱えて戻ってきた。静子に毛布を渡すと、小姓は礼をして部屋を出る。

「本当に豪胆だね」

呆れながら静子は大の字のまま寝入っている兼続に毛布をかけた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ