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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀三年 決戦、三方ヶ原の戦い

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千五百七十二年 十二月下旬

馬場信春、山県昌景の討ち死に。その報せが信玄の許に届いたのは、静子が武田軍への突撃命令を下す直前であった。
誰もが伝令の齎した事実を理解しなかった。否、感情が理解を拒んだ。しかし時と共に事態を受け入れざるを得なかった。
武田はこの一戦で甚大な被害を出したという事を。

武田家最強との呼び名も高い山県昌景率いる赤備え、四十年もの長きを戦場で過ごし、かすり傷一つ負わなかった不死身の馬場信春。両名を失った武田は両腕をもがれたに等しい。

「お屋形様! 奴らに一矢報いねば武田の名が廃りまする! 某に突撃の命を!」

この時点ならば武田には二つの選択肢があった。即ち、継戦か撤退かである。しかし主力を欠いて尚、武田と織田・徳川連合軍との戦力は拮抗していた。
勝利の目があるうちに退却するという選択は彼らの矜持が許さなかった。何よりもここで撤退すれば、これまでに得た戦果が全て水の泡となる上に、払った犠牲が無駄となってしまう。
武田に恭順を示した遠江の国人たちも、再び寝返る手土産を求めて、武田へと追撃を放つ事は目に見えていた。
名誉のためだけならば屈辱に耐え、捲土重来の時を待つ事も出来た。しかし全軍を動員して戦果の無い撤退は、織田・徳川連合軍との継戦よりも損害が大きいと判断された。

「第三陣を向かわせよ。奴らをこれ以上、調子づかせるな」

継戦を決定した信玄は、本陣を除く全軍へと攻撃指示を下す。その号令に全軍が活気づいた。小山田信茂、山県昌景、馬場信春の軍は壊滅したが、武田は勇猛な武将に事欠かない。
内藤昌豊、真田信綱・昌幸兄弟に諏訪勝頼、武田信豊、米倉丹後守が加われば、勢いづく織田・徳川連合軍を押し返す事も容易いと思えた。

しかし信玄はここで致命的な失敗を犯す。彼は織田・徳川連合軍は全軍を以て赤備えや馬場軍に当たり、辛くも両名を討ち取ったと考えた。
信玄の判断を狂わせたのは情報不足であった。戦場は混迷を極め、敗因はともかく有力武将討ち死にの報が何よりも大事と優先され、新式銃や炸裂筒の脅威は未だ信玄まで届いていなかった。
そして信玄が己の失策を理解したときには、全てが遅きに失していた。伝令より急報が告げられる。

「ご注進!! 増援が……織田の増援が現れました! その数、およそ8000!」

「何だと!」

最悪のタイミングで現れた増援に、流石の信玄も声を荒げた。信長は防備をギリギリまで削って後詰めを送り出したはず、更なる増援など逆さに振っても出てこない。
尾張を捨てて救援に駆け付けたとも考えたが、それをすればこの場で勝利を収めようとも織田・徳川は共倒れとなる。
どこから8000もの戦力を捻り出したのか。信玄の目を以てしても、その糸口すら掴めずにいた。

「お屋形様! 援軍が掲げる軍旗に柴田に明智、丹羽と名だたる武将の旗印がございます! このままでは第二陣が()ちませぬ!!」

「ご注進!! 更に佐々に前田、羽柴、森の旗が確認されました!」

「お屋形様! 織田の猛攻を受け、内藤様の軍は壊滅! 内藤様は討ち死にの模様!」

「真田様の軍も破れました! 真田左衛門尉様討ち死に! 武藤喜兵衛(真田昌幸)様のお姿を見た者おらず!  おそらく討ち死にされたかと!」

「一線を退いていた森三左衛門が現れました!! 怒涛の進撃を続け、兵たちが浮足立っております!!」

信玄の許へ矢継ぎ早に訃報が齎される。増援の出現と共に釣り合っていた天秤は大きく傾いた。ただ一つ言える事は、このまま手を(こまね)いていれば、武田は敗北する。

(何が、一体どうなっておる!)

信玄は不可解な増援について考えるのを止め、その場の対処へと注力する。この状況は揃って打ち始めた局面に、相手だけが多くの持ち駒を隠し持っていたようなものだ。
しかし戦場にて()(まみ)える前からいくさは始まっている。その絡繰りを見抜けなかった己の不明を恥じた。
歴戦の強者たる信玄は、動揺を押し殺すと居住まいを正し、高坂昌信を呼ぶよう命じた。
間をおかず高坂昌信が現れると、信玄は彼に近くに寄るよう招いた。不思議に思いながらも高坂昌信は信玄の間近に跪く。
信玄が何事かを囁いたところで、高坂昌信が驚きに目を見開いた。そのまま信玄の顔を凝視する高坂に、信玄は決然と頷いた。

「お屋形様……心得ましてございまする!」

何かを逡巡するように高坂昌信は瞑目し、信玄を見つめ返すと深々と頭を下げてその場を去った。信玄はその後ろ姿を、感情を殺し無言で見送った。






刻は少し遡り、織田方は慶次と高虎。武田方は内藤昌豊に真田信綱・昌輝・昌幸兄弟とがぶつかり合っているころ、慶次は真田信綱と一騎打ちへと持ち込んでいた。

「おりゃりゃりゃりゃあああ!!」

軽妙な掛け声と共に、慶次は真田信綱の猛攻を全て捌いて見せた。
戦場にあって尚、目を引く傾奇者の姿からは想像できない武威。信玄から将来を嘱望された猛将、真田信綱と互角に打ち合う慶次に真田軍は動揺を隠せなかった。

「はっはー! お前さんの弟はちと物足りなかったが、あんたとなら面白い勝負が出来そうだ」

弟とは昌幸ではなく、真田 昌輝(まさてる)の方だ。慶次に討ち取られた真田昌輝に代わり、今は兄の真田信綱が名工・青江貞次が鍛えた一メートルもの陣太刀で慶次と戦っていた。

「化け物め……わしの打ち込みをこうも易々と捌くとは」

「易々とではないのだがな。お前さんの攻撃は、受け損ねることが許されないから必死になってるんだよ」

ハルバードを構えながら慶次は真田信綱を称えた。これほどの強敵に出会えた幸運、それに己の力が伍するという現実。慶次の心が躍らない訳がなかった。

「死線を潜ることを楽しむか。理解できぬな」

「死を前にしてこそ生が実感できる。だから良いんじゃないか!」

信綱には理解し得ないことだが、慶次はこの一騎打ちを心底楽しんでいた。刹那の間に交わされる命のやり取りほど面白きことは無し、と言わんばかりの笑みに、真田信綱は苦笑を浮かべた。

「傾奇者か……武士たるわしには分からぬわ」

「簡単さ。理解なんてしなくていい、あんたの全てをぶつけてくれりゃ良い」

会話の終わりとともに甲高い音が響く。ひゅうっという刃鳴りの音を響かせて、ハルバードと陣太刀がぶつかり合う撃刃の音だ。幾度こだましたか誰にもわからない。
一つ言えるのは、この音が絶えた時が決着の時だという事だ。

「分からんな。それだけの武勇があれば、どこへでも仕官出来たはず。武田にくれば、剛勇たる武士として名を馳せられたものを」

「俺は生来のへそ曲がりなんでね。俺は自由に生き、己が定めた死地で生を終えたいのさ。堅苦しい近習なんてまっぴらご免だ」

「近衛の娘に仕えていながら、近習は嫌だというのか。全く矛盾しておる」

打ち合いの合間に互いに声を掛け合う。およそ常人には成し得ぬ芸当だった。難なくこなす慶次も驚嘆に値するが、それに苦も無く付き合える真田信綱も恐ろしい武士だ。

「ははっ! 確かに外から見れば近習か。今の主は俺を縛ろうとはしない。無論最低限の働きは必要だが、そこさえ通せば俺の流儀を重んじてくれる。勇ましさは一切ないが、どうにも人を惹きつけて放さない。俺と相性が良かったんだろうな」

「はっ、ぬかしおる! 配下を縛らぬ主に、縛られずとも離れぬ配下。双方が矛盾しておるのだから相性は良かろう」

刃を交えた衝撃で、双方とも大きく身を離した。間合いは開いたが、一歩踏み込めば互いの斬撃の間合いとなる、緊張感を孕んだ立ち位置だった。
次の一合が勝負を決める。二人の間に漂う空気から、周囲の者は否応なくそれを理解した。
死合の中でも笑みを浮かべ続けた慶次も、静子ですら目にしたことのない真剣な表情となっていた。

不意に突風が吹いた。それは地面に横たわっていた、元が旗だったであろう布切れを宙に舞わせ、二人の間でその身を翻して踊らせた。
翻った布で互いが隠れた瞬間、二人は動いた。双方が一挙動で間合いを詰め、手にした得物を相手目がけて振り下ろした。
慶次のハルバードと、真田信綱の陣太刀は、しかし交差せずに振り切られた。双方とも斬撃の勢いのままに地面を穿ち、その姿勢のまま静止した。

静寂が場を支配し、誰一人として物音を立てなかった。やがて慶次が膝を屈し、少し間を置いて真田信綱が地面に倒れ伏した。

「わしの……生涯最高を超えるか」

地に刺した刀を杖に、真田信綱が身を起こす。彼は左肩から右腰辺りまでを袈裟掛けに斬られていた。
対する慶次も、身に纏った鎧が砕け、右肩から鎖骨にかけて一直線に刃傷が走り、僅かに出血していた。

「くくっ、たまらんよな。そんな芸当……されては、武士の面目丸つぶれじゃ」

踏み込みと斬撃は真田信綱の方が上だった。慶次は真田信綱より一拍置いて動いた。
真田信綱は回避を捨て、渾身の一撃を見舞った。対して慶次は迫る斬撃を回避し様に、逆撃を放った。
慶次でも滅多に出来る事ではない。
慶次の常軌を逸した反応速度、重いハルバードを小枝のように扱う驚異的な膂力、全力の踏み込みでありながら身を躱せる瞬発力、生と死の狭間という極限状態での集中力が揃って初めて為せる一撃であった。
わが身に刻んだ傷痕から、その事を理解した真田信綱は、満ち足りた笑みを浮かべた。

「一つ聞きたい。あんた、これが負け戦だと判っていただろう? 何で逃げようとしなかった」

口中に溜まった血を吐き捨て、真田信綱は答えた。

「……このいくさで思い知った。これからは鉄砲の時代となる。弓や刀、槍しか能のない武士は、いずれ時流に押し流される。己が生涯を懸けて磨き上げた技量が、無用の長物となる。わしにはそれが我慢ならなかった!! ゆえにこの身を賭して抗ったのだ!」

真田信綱はこの一戦で、いくさの在り様が変わり、鉄砲の数が勝敗を決する事を察した。それは個人の武勇が必要とされない、武士の時代の終焉であると理解した。
理解はしたが、真田信綱は納得できなかった。変化を受け入れられない己の未来を想った時、彼は三方ヶ原台地(ここ)が己の死に場所だと悟った。

「鉄砲で死ぬなど我慢ならぬ! わしは武士ぞ! 最期はいくさ場で、わしが認めた男との戦いの末に果てたい!」

真田信綱は激しく咳込み、口の端から血を溢す。近習たちが近寄ろうとするが、彼はそれを手で制した。もう己が助からない事は、彼自身が一番理解していた。

「生き方、死に方に拘る貴様なら分かろう。わしは己の本懐を果たした」

慶次は不敵な笑みを浮かべると、ハルバードをきつく握りしめた。

「先に行ってな。何、すぐ会えるさ。そしたら酒でも酌み交わそう」

「応! 貴様の生き様、あの世で眺めて待つとしよう」

それが真田信綱の最期の言葉となった。慶次はハルバードで真田信綱の首を落とした。真田信綱の死に顔は穏やかで、この世に後悔なしと語りかけるような涼しげな表情だった。
真田信綱の首に手を合わせると、慶次はポツリと呟いた。

「真田左衛門尉、真の武士(もののふ)なり」

真田昌輝に続き真田信綱まで討ち取られた事に、真田軍の士気は瓦解した。膝から崩れ落ち、武器を捨てて亡き主人を偲んだ。

「宜しいか」

そんな兵をかき分け、馬に跨がった一人の武将が前に出る。

「やるかい?」

雰囲気から武士と分かった慶次は、ハルバードを軽く持ち上げて問う。だが武将は首を横に振ると、腰に佩いた刀を地面に投げ捨てた。

「我が命で兄上二人の首、そして兵の助命を乞う」

「……あんた、名は?」

「武藤喜兵衛。武藤家へ養子に出た身だが、そなたに討ち取られた真田左衛門尉の弟なり」

語りながら武藤喜兵衛、後の真田昌幸は甲冑を脱いだ。籠手と臑当(すねあて)のみになると、再度慶次の顔を見やる。返答はいかに、と彼の目が問いかけていた。

「分かった。あんたの提案、受け入れよう」

少し考えて慶次は頷いた。元より慶次は真田の首を必要としていなかった。今以上の地位など足枷にしかならない。大将首など無くとも十分な報酬を得ている。
だが、この場でそれを口にすれば、一命を賭して兵の助命を乞うた武藤喜兵衛に恥をかかせることになる。
静子の許へと連れ帰り、適当な時に開放すればそれで良いと考えた。

「感謝いたす。皆の者、良く聞け。もはやこのいくさは終わりじゃ。兄上たちをどうか弔ってくれ。よろしく頼むぞ」

「は、ははっ!」

真田の兵たちは滂沱と流れる涙をそのままに、力強く応じた。手早く真田昌輝と真田信綱の首を陣羽織で包むと、敗軍の兵とは思えぬ統率を見せて去って行った。
兵たちの動きに満足げに頷いた武藤喜兵衛は、死を覚悟した者特有の澄んだ目で撤退を見送った。
やがて真田家の兵が全て立ち去り、訪れた空隙に慶次が武藤喜兵衛に声をかけた。

「さて、その首を……と言うところだが、その前にあんた、うちの大将にあってみないか?」

「何だと?」

慶次の奇妙な提案に武藤喜兵衛は首を傾げる。だが慶次は気にせず言葉を続ける。

「あんたを殺すよりも、うちの大将と引き合わせた方が面白いと、俺の勘が囁くのさ」

「それに何の意味がある。わしの首を取り、武功の証として突きだせば良かろう」

「まーまー、暫く俺の戯れ言に付き合ってくれ」

「分かった。元よりわが命はお主に預けておる。お主の余興に付き合おう」

「そうこなくっちゃ。さて、そうと決まれば早速行くぞ」

「待て。今からか? お主の前には戦場があり、武功を立てる機会がそこら中にあるのだぞ? それをふいにしてまですべきことなのか?」

敗走している武田軍ならば容易く武功を立てられよう。特に勇名を響かせた武将や智将を討ち取れば、恩賞は思うがままだ。
その機会を捨てて、武藤喜兵衛を静子に引き合わせようとする意味が分からなかった。

「このいくさ、最初はどう転ぶか分からなかった。だからこそ面白い。が、今はあんたの言う通り、勝機はこちらにある。追撃は他の連中に任せれば良い。俺は恩賞欲しさに首級を掻き集めるような浅ましい真似をしたくない。俺は俺のやりたい事をする」

「この……へそ曲がりが」

「よく言われるよ。さて兵たちよ、俺は本陣に戻る。お前たちは好きにすれば良いさ」

問われた慶次の兵たちは、苦笑して肩をすくめる。

大将(たいしょう)、置いてけぼりは酷いですよ」

「そうそう、大将が戻るってなら付いていきますよ」

「何より、大将について戻れば、これ以上いくさに参加しなくて良い理由になるしな!」

「おいおい、玄朗爺に知れたらどやされるぞ」

兵たちはどっと笑った。誰一人として武田軍へ追いすがり、手柄を立てようとしなかった。慶次はなんとも言えぬ表情をした後、一つ太い笑みを浮かべると兵を見回して声を張った。

「よぅし、俺に劣らず馬鹿どもよ。静っちの許へ戻るぞー!」

「おー!」

慶次の声に兵たちが武器を掲げて応える。
こうして、慶次隊は他の軍が勝ちいくさ気炎を上げるなか、堂々と本陣へ戻るという常人には理解しがたい行動をとった。
無論、慶次の行動に後の歴史家が揃って頭を悩ませたのは語るまでもない。






双眼鏡で武田軍の動きを監視していると、静子は奇妙な違和感を抱いた。第三陣に布陣していた諏訪勝頼の軍が下がり、代わりに本陣から別の軍が前に出ようとしていた。
この場で勝頼を下げる狙いは何かと悩む静子だが、すぐさま理由に思い至った。信玄は敗北を受け入れ、最後の一撃を繰り出そうと覚悟を決めたのだ。

「鉄砲衆は前へ! 武田が最後の攻勢に出るぞ!」

「ははっ!」

陣太鼓が打ち鳴らされ、鉄砲衆が突出する。静子は爆竹が括り付けられた矢を番えると、それを天に向かって放った。
空中で幾つもの爆竹が破裂する。太鼓と爆竹の合図を聞いた織田軍が後退する。熱が入って下がらない部隊もいたが、静子軍が介入して無理矢理後退させた。
そうして織田軍は所定の位置(・・・・・)まで移動した(・・・・・・)。織田軍の猛攻に晒されていた武田軍は、突如として緩んだ圧力に訝しんだ。
戦場に訪れた束の間の休息に、武田軍は反撃をするのではなく、自軍の陣形を立て直す方を優先した。

織田軍が下がりながらも左右へと広がっていく様は、まるで武田軍を飲み込まんとするかのようだった。
その動きを上空から俯瞰するものが居れば、織田軍が鶴翼の陣形へと切り替えていることが判る。
しかし神ならぬ武田軍は、今こそが好機と戦力を温存することを優先し、織田軍の行動について確認を怠った。
それこそが武田軍最後の一撃を鈍らせ、決定的な敗北へと導く道しるべとなった。

「鉄砲衆に弾種切り替えを伝達! 弾丸は弐式カ弾と弐式サ弾! 弾頭の色で区別して、間違わないよう徹底して!」

「了解! ご指示を伝達いたします!」

伝令が静子の命令を復唱した後、すぐさま馬を操って最前線へ向かう。再び双眼鏡で武田軍を確認すると、静子の予想通り周囲の軍が集結していた。
武田軍が敗走し下がったところを深追いした織田・徳川連合軍の陣が縦に伸びたところで、手痛いカウンター攻撃を仕掛けて反撃するという武田の目論見だったが、織田・徳川連合軍が後方へと退いたため肩透かしを食った形となった。
しかし作戦を変更する様子はなく、ほどなくして武田軍の先駈けが動いた。それに続く形で後続も次々に突撃してくる。

「殿、弾種切り替えが終わりました」

「ご苦労様。後は連中が殺しの間に達するまで時を待つ。高見は、武田の先駈けが目印を越えたら(・・・・・・・)知らせよ」

「はっ!」

敵の動きを確認するため、太い木で作られたはしごを立てる。それを周囲の人間が支えて、一番上まで上り、そこから双眼鏡で敵の状況を確認する役目を負った者が高見だ。
視力は勿論、高所でも正確な観測が出来るバランス感覚と、不確かな足場に臆さぬ胆力が求められた。高見の報告次第で戦況が判断されるため、非常に重要な役目を担っていた。

「殿! 連中、目印を超えました!」

「合図を送れ! 弐式カ弾一斉射撃にて、先駆けの勢いを止めるのだ!」

陣太鼓で合図が送られると同時、左右五百丁、合計千丁もの銃声が鳴り響く。殺しの間に入っていた武田の先駈けは、手にしていた木製の盾ごと撃ち抜かれ、次々と地に伏した。

「どんどん撃て! 盾持ちが居なくなれば弐式サ弾にて面制圧をする。命中精度は気にするな!」

「はっ!」

鉄砲衆は次々と発砲した。その度に武田軍の兵たちが面白いように倒れていく。従来の火縄銃と異なり直進性に優れた新式銃であるため、固まって射撃をする必要がない。
装填が終わり次第、各自がそれぞれに撃つため、射撃間隔にばらつきが発生していた。
通常であれば一斉射撃をした方が制圧力も高く効果的だが、今は武田の勢いを挫くことが最優先であるため、途切れることなく銃弾が飛び交う随時射撃の方が都合がよかった。
そして下がった密度を補うための弐式サ弾であった。

弐式弾とは、現代で言う二重装填弾に分類される弾丸だ。酷く乱暴に言えば薬莢の中に弾頭を二発縦に重ねて装填した弾丸だ。
二発の弾頭を飛ばすため装薬量は多くなり、弾丸も重くなるため数は用意できない。しかし特筆すべきはその圧倒的貫通性能にあった。
激発した火薬がまず後ろの弾頭にエネルギーを伝え、手前の弾頭を押し出し、次いで後ろの弾頭も飛び出すため、前の弾頭が穿った穴に後ろの弾頭が突入して更にその穴を深く掘り進む。
木製の盾など物ともしない貫通性に特化した弾種。それが弐式カ弾、カは貫通弾のカである。

しかし貫通力が高くなる反面、打撃力が一点に集中するため、どうしても制圧範囲に劣ってしまう。
それを補うべく開発されたのが弐式サ弾だ。これは(さき)の二重装填弾の後ろ側に位置する弾頭を少し傾斜させておくことで、一回の射撃で二ヶ所への攻撃を可能とした弾丸である。
直進するのは前の弾頭のみで、後ろ側の弾頭は狙点から上下左右に僅かにずれた地点へと着弾する。当然到達距離が伸びれば伸びる程に、二発目のずれは大きくなる。
これにより射線上から身を躱しているのに、その身に銃弾を受ける武田兵が続出した。因みに弐式サ弾のサは散弾のサである。

これらの二重装填弾はベトナム戦争の頃に開発されたが、連発銃が当たり前の近代戦闘に於いて、重量増加というデメリットを覆す程の戦果を挙げることが叶わなかった。
しかし単発式の銃ならば評価は変わる。一挙動で二発撃て、貫通力と攻撃範囲のそれぞれに応じて対応できるという利点は大きかった。
そして銃声以上の弾丸をばら撒く制圧力は凄まじく、目に見えて武田の勢いは落ちていった。

「殿! 武田の勢いが止まりました! 雑兵から後ろへ逃げ始めています!」

「殿! やりましたな!」

高見が興奮しながら報告を上げる。その報を耳にし、傍に控えていた玄朗も歓喜の声を上げる。
だが静子は報告を聞いても表情を変えず、戦況の変化を観察し続けた。

「まず勝利を得て、それからいくさをせよ。しかる後、勝って尚、兜の緒を締めよ」

「は? なんと仰いました?」

意味が分からず玄朗が首を傾げる。他の者も静子が何を言いたいのか分からず、困惑した表情を浮かべた。

「いくさとは、相手に勝てる準備を整え、尚且つ勝機が来るまで待つ。二つが揃って初めていくさをし、勝利を己が手中に収めるのです。しかし勝利の美酒は、勝者に増長を齎す毒でもあります。ゆえに勝利しても油断せず、次のいくさへと備えるために兜の緒を締め直して用心せよ、という格言です。まあ私なりの、いくさへの哲学でしょうか」

「な、なるほど。常に先を見通すご慧眼恐れ入ります。武田に勝利するという大金星にも気を緩めず、己を律しておられるお姿に頭が下がりまする。それよりも、そろそろどの様な作戦だったのか、我々にも分かるよう概要をお聞かせ願えませぬか?」

玄朗は褒め称えたが、静子は微妙な表情を浮かべるだけだった。機嫌を損ねたか、と焦った玄朗は、慌てながら話題を変える。
配下の称賛を素直に喜べないでいる己の失態を悟った静子は、表情を引き締めてから玄朗の問いに答えた。

「細かい点は省いて一口で言うならば、相手を恐慌状態へと追い込み、組織立った統率を失わせて優位を得る。それが私が今回使った策の概要です。次々に想定外の状況へと追い込み、初見殺しで圧倒して状況を悪化させる。訳も分からず追い立てられ、刻一刻と悪化する状況に身を置けば、誰しも錯乱状態へと陥ります。恐怖や焦慮は伝播し、恐慌した兵は相乗的に増え続け、ある一点を越えると兵は統率から離れ、軍の指揮系統は崩壊します。そうなれば、後は数が多いだけの烏合の衆です」

「は、はぁ……ですが中には察しの良い者や、肝の太い者もいるのでは? 兵が怖気づいただけで天下の武田軍が崩壊するものなのでしょうか?」

いまいち状況を理解しかねる玄朗は首を傾げた。自分が思いついた疑問を次々と静子へ投げかける。

「最初の問いへの答えですが、それは居ても問題ありません。命がやり取りされる戦場で、理性を保てる人間がどれほどいますか? 千人のうち、片手で足りる程度でしょう。彼らは総力戦を挑みました。三万もの大軍に、数十人程度(さと)い者がいても、多くの兵が恐慌状態なら、その声はかき消されます。彼らは精鋭無比の大軍が強みでしたが、今回はそれが仇となりました」

大軍というのは往々にして勝っている間は非常に強い。しかし今回は初見殺しを多用し、その強さを局所的な勝利で挫いて見せた。
指揮系統が瓦解すれば、兵の数が三万だろうが十万だろうが大差はない。むしろ狂騒する兵の絶対数が多くなり、指揮する者や智い者の声は兵に届かなくなる。

「次の答えですが、一度のみの敗北ならば武田軍はすぐに立て直し、大勢を挽回するでしょう。第一陣の敗北も、織田軍が奇跡的に勝ったとして汚名返上を狙って奮起さえするかもしれません」

静子は指揮刀代わりのクーゼを戦場へと差し向ける。既に勝敗は決しており、武田軍と呼べるような集団は、三方ヶ原台地のどこにも存在していなかった。

「しかし彼らは、立て続けに敗北を喫した。第二陣の敗北は織田軍の実力がまぐれではないと思わせ、武田兵の心に猜疑の種を植え付ける。間を置かずに第三陣までが敗北すれば、種は芽吹いて疑惑は敗北の恐怖という花を咲かせる。死の恐怖は兵を蝕み、体を萎縮させ、最後には必ず心が折れます」

ほうほうの体で逃げる武田兵が、静子の目に入った。甲冑を脱ぎ捨て、腰に下げた刀を投げ捨て、後ろを振り返らず一目散に逃げる姿が。
武田兵の無様な姿を見ても、静子の心は凪いでいた。一つ間違えれば、あの姿を晒していたのは自分だったからだ。
いつ自分に訪れるとも限らない、と思えば武田兵の姿を笑うことなど出来なかった。とっとといくさ場から引退して、農業をするだけの余生を送りたいとさえ思った。

「心が折れた状態で、なおも奮戦できる者は、それほど多くありません。多くは命を惜しみ、わが身可愛さに逃走を選びます。指揮系統が崩壊し、兵の心が死から逃れることに塗りつぶされたなら、たとえ信玄その人であっても流れを変えることなど出来ないでしょう」

誰の目にも分かりやすく勝敗が決した場合、雑兵たちは保身に走る。それは当然の考えであった。よほどの事情がない限り、雑兵たちは武将のために殉死するという選択はしない。
恐怖に駆られた雑兵は我先にと逃げ出し、それを目にした者たちも我も我もと逃げ始める。雑兵に続いて足軽たちすら逃げ始めれば、崩壊は決定的となる。
そうなればもはや軍とは呼べず、武将は否応なく敗北を受け入れる。

「なるほど……あ! 殿! 徳川の軍旗が武田の後方に現れました!」

武田軍の背後に、今まで姿を消していた徳川軍8000が突如として現れた。逃走中の元武田軍は動揺を隠せなかった。
唯一の退路である背後を塞がれたということが、彼らの中でギリギリ保っていた理性を崩壊させた。雑兵たちは少しでも敵兵の少ない方へと、散り散りになって逃げていく。それは武田一族の者とて例外ではなかった。

「予定より少し遅れていますが、さしたる問題はありません」

これこそが一年かけて、静子が三方ヶ原台地の地形を調査した理由だ。
徳川軍が『ある場所』から武田軍の背後に回り込む時間。その時に織田軍がどこに居れば包囲が完成するか、武田軍をどこにおびき寄せれば良いか、それを知る為の調査だった。
多くの費用を投じた割には地味な内容に思えるが、この包囲の有無が非常に重要な意味を持つ。そのため絶対に必要な調査であった。

織田軍が鶴翼の陣を敷き、武田軍が中央の一点突破を図る。そこで両翼の軍は用いず、中央だけで武田軍を受け止め、その勢いを挫く。武田軍の進撃が止まった時、唯一の退路である後方に徳川軍が蓋をする。
上空から見れば織田軍の中央を頂点とした二等辺三角形の中に、武田軍が閉じ込められたことになる。どの方向を目指そうとも分厚い敵兵に阻まれ、もはや逃走も叶わない。
信玄ほどの人物が、己の置かれた状況を把握できていない訳がない。
状況を察したからこそ武田軍は動きを止めた。どんな手を講じようとも、自分達が生き残る未来はないと理解していた。

「雑兵や足軽だけではなく、武将たちも認めました、自分たちの敗北を」

武田軍は撃退されたのではなく、初めての完膚無き敗北を喫したのだと認識した。
武田自らが負けを認めたという事実は、反織田連合の諸氏へと激震を齎すだろう。武田の御旗に集っていた反織田連合の思惑は、根底から覆されたのだ。

「これにて詰みです。これ以上戦っても武田に勝利はありません。無駄な犠牲を出さないためにも、投降するよう武田へと呼びかけなさい」

「ははっ!」

四拍子で陣太鼓が叩かれる。それは勝利が確定し、敵兵に投降を呼びかけろという符丁であった。囲まれながらも抵抗する武田軍に、織田・徳川連合軍が投降を呼びかける。
一部は尚も抵抗しようとしたが、大部分は勧告に応じて武装解除した。強く抵抗していた集団も、新式銃の銃口を向けられ、足元に銃弾を叩き込まれると、何もかもを諦めた表情で投降した。

「皆の者! 声を上げよ! 我らの勝利だ!!」

静子が勝ち鬨を上げると、あちらこちらの兵が続く。武田軍は次々と武器を地面に落とし、たいした混乱も生まず、歴史に名高い三方ヶ原の戦いは終わりを告げた。






徳川軍の到着が若干遅れたため、おしくも諏訪勝頼と高坂昌信を取り逃がした。だが信玄の身柄を確保できたため、彼らの逃亡は些末事だと静子は断じた。

信玄捕縛の報を受け、静子は捕縛されたのは影武者の武田(たけだ) 信廉(のぶかど)では、と少し疑った。
だが間者(鳶加藤)が入手した武田信玄の衣類と、捕縛した武田信玄の臭いが一致した事で、武田信玄本人であると断定した。
程なくして影武者の信廉も捕縛した。甲陽軍鑑どおり信玄と非常に似ているため、区別をつけるため影武者の方には色布で腕を縛り、彼だけを信玄や近習とは違う場所へ移動させた。

実は静子には信玄を討つか、それとも捕縛するのか最後まで判断できずにいた。これは信長や家康の政治的な思惑が絡んだのが原因だ。
信玄が攻め込んだのは、あくまで遠江であり、そこは信長ではなく家康の領土である。
信玄と家康との争いに織田軍が必要以上に活躍すれば、家康はよくとも徳川家家臣の間に不満が残る。
ゆえに武田家家臣は織田軍が討ち取るが、信玄の首級は家康に一任するというのが、最も妥当な判断だった。家康がどちらを選ぶかは、策が伝えられるまで不明だった。

そして家康が選んだ選択肢は捕縛だった。
信玄を討ち取らずに捕縛した理由は、やはり政治的な思惑からだった。逃げる信玄を討ち取れば、本物の信玄は逃げおおせた可能性があると、世に思われる。
そして武田軍壊滅のお膳立ては、織田軍が整えたため、家康は信長の添え物であると思われる可能性もあった。
それらの判断を潰すためにも、生きた信玄を捕縛し、自らに敗北を語らせる必要があった。

そして捕縛までの一連の流れは、最初から最後まで織田と徳川双方で織りあげた策だったと強弁できる。
誰が見ても家康は最後の最後まで兵を温存し、一番美味しいところだけを掻っ攫う形だが、そんな美味しい立場をみすみすくれてやる国人はいない。
美味しいところを取れるだけの貢献があったと世は判断する。勝者だけが歴史を紡ぐ権利を得る。幾ら武田側が違うと叫んでも、負け犬の遠吠えと断じられてしまうのだ。

ゆえに信玄だけはいくさで単純に討ち取る、という結論にはならない。その後の外交カード、国内での政治的な思惑など、様々な事が否応なしに絡んでくるのだ。
もっともこれは信玄に限らず、信長や家康でも同様だが。

ともあれ信玄が捕縛された事で、武田に戦う力は殆どなくなった。諏訪勝頼が武田家の家督を継いでも、じわじわと包囲網を狭めて潰されるのが落ちだ。
何より勝頼はこれからジレンマに陥る。武田の力を取り戻すには金子がいる。だが、今まで無茶な徴収をしたせいで、もはや甲斐に金子は殆ど無い。
金子がなければ力は取り戻せない。だが、金子を今以上に無茶な方法で集めれば武田家は崩壊する。どうしようもない二律背反が、これから勝頼に襲いかかる。

「ふぃ、終わった。全部綱渡りだったけど、何とかこちらの予想通りに進んだね」

疲れをはき出すかのように、静子は盛大に息を吐いて肩の力を抜く。傍目には順調に進んでいるように見えたが、実際は最初から最後まで綱渡りの作戦だった。

まず武田が祝田の坂の入り口で陣取る事が絶対的な条件だった。これに失敗した場合、今の状況になっていたかはなはだ疑問である。
何しろ徳川軍は一緒に出陣したふりをして、その実浜松城から三方ヶ原台地を大きく迂回して祝田の坂の出口に移動し、静子の合図を機に入り口へ突入していたからだ。
徳川軍の移動ルート、及び行軍時間までを静子たちは入念に調査していたが、徳川軍が祝田の坂の出口に到着する時刻と、織田軍が武田軍と相対する時刻は、ほぼ同時刻でなければ信玄に策を見破られる危険があった。
そのため、もしも祝田の坂の出口に武田軍が待ち構えていたら、のこのこ現れた徳川軍はあっという間に蹴散らされ、時間はかかるものの静子の策も見破られた可能性がある。

そうなれば静子の策は根底から覆された。念のため、静子は祝田の坂を荒らして、武田軍が進軍しにくくしておいた。
だが、信玄がそれを無視して進軍する可能性があったため、祝田の坂の入り口で武田軍が陣取ったと報告を聞いたとき、静子は内心快哉を上げていた。
ただし、祝田の坂を荒らした事で、徳川軍の到着が若干遅れた、という失敗も引き起こした。

次に突如現れた織田軍の武将たちは、どこからどうやって移動させたか。
それは単純明快な話で足満がいくさ前に物資をピストン輸送した時に、輸送の護衛兵として浜松城に入りこんでいた。
後は静子の軍にいる本来の物資輸送を護衛兵と入れ替えれば、多少人数が増減した程度で傍目には差が分からない。
何よりピストン輸送して人の出入りが頻繁に行われていたのだ。入ってきた時と出て行く時の面子が違うなど、中々気付けるものではない。
こうして密かに浜松城へ織田軍の精鋭たちが布陣する事となった。

勿論、彼らは急遽呼ばれたのではなく、静子が兵を融通して貰うよう前々から掛け合っていたからだ。
流石に柴田勝家や明智光秀など武将本人が出てくるとは、静子も思っていなかったが。
彼らを呼んだ第一の理由は、武田軍に驚きを与えるためだ。いくさにおいて混乱で思考が停止する事は、時として致命的な敗北を招くことがある。
特に武田信玄のように、直感ではなく理論でいくさの流れを組む者にとって、想定外の状況が舞い込む事は思考の深みにはまりやすい。

実際、馬場信春と山県昌景討ち取られ、突如として織田軍の増援が現れた事で混乱した信玄は、次々と軍が瓦解していく事に対処しきれなかった。
ようやく信玄の思考が立ち戻り、武田軍を立て直したものの、状況を変えようとした一点突破は、新式銃による面制圧を前にあえなく崩れ去った。

だが信玄もやられっぱなしではなかった。高坂昌信に一点突破が失敗した場合、諏訪勝頼を連れて撤退しろと命じていた。そのため、織田・徳川連合軍は諏訪勝頼を逃すこととなった。
三方ヶ原の戦いで完全に武田を壊滅させるという信長の思惑は、達成する事が出来なかったが、それでもこれ以降、武田が織田に勝つ事は不可能となった。
ただし武田の滅亡は信長にとっての悲願であるため、たとえ武田が僅かな兵しか動かせなくなっても、完璧に滅ぼし尽くすだろう。

「お見事です。策が綺麗に決まると、こうも美しいとは思いもよりませんでした」

投降兵の処理を終えた竹中半兵衛が静子を労る。

「お疲れ様です。あの、死傷者はどれほどでしょうか?」

武田軍の死傷者は想像も付かないが、織田・徳川連合軍にどれだけの死傷者が出たか、それは静子も把握していなかった。
何しろそのような事を把握する前に、次々と策を実行しなければならなかったからだ。落ち着いた今、竹中半兵衛が調べてようやく死傷者の数が判明した。

「ふふっ、驚くべき事です。我らの死傷者は100ほどです。徳川と合わせれば300から400になりましょうが、これは高坂や諏訪の抵抗が予想以上に激しかったためでしょう。ですが武田の総力戦を相手にして、この数は驚きとしか言いようがありません」

大げさな手振り身振りをして驚く竹中半兵衛だが、冷静な彼でも今回の死傷者の数は驚くべき結果だった。同時に、新式銃がいくさの勝敗を決め、負傷者の数を増やす事も理解した。

「がっはっはっはっ、武田が尻尾を巻いて逃げる様は、二度とお目にかかれないであろうな! かの上杉ですら見たことのない光景、まっこと小気味よいわ!」

「二度と見られぬ光景というのは賛同いたすが、あまり下品にわめくものではないぞ」

「良いではないか。こういう時は、派手に騒いだ方が、みな実感がわくものよ」

後片付けを終えた柴田や光秀、佐々など織田家の武将たちが、静子のいる本陣へ戻ってくる。遅れて森可成や前田利家が戻ってくる。
そして武田の背後に陣取っていた徳川軍が戻ってきたところで、ようやく織田・徳川連合軍が集結した。
長可や慶次は彼らより先に戻っていたが、森可成に褒められた事で感極まった長可を落ち着かせているため、現在静子の許にはいない。

「お疲れ様です、静子殿。まずは我が徳川の危機を救って頂き、感謝の念に堪えませぬ」

戻ってきた家康が静子を見るやいなや、頭を下げて礼を述べる。後ろにいた忠勝や半蔵も、家康に続いた。
彼らだけではない。あまり面識がない徳川家家臣たちや、彼らの近習、さらには兵たちまで同じだった。

「お、お顔をお上げ下さい、徳川様。そんな、私ごときに下げられて良い頭ではございません」

「いいえ、貴女がいなければ我が国は武田に蹂躙されておりました。この家康の頭で良ければ如何ほどにも下げさせて頂きます」

困ったな、と思った静子は視線を彷徨わせるが、見事に全員から視線を外された。裏切り者、と内心泣きつつ家康が頭を上げるのを待つ。

「徳川殿」

ようやく家康が頭を上げた時、佐久間と平手、水野が一歩前に出た。彼らは兜を脱ぐと、家康に対して頭を下げた。

「徳川殿へ武田と内通という疑心を向けた我らの無礼、心よりお詫び申し上げたい」

「徳川殿の立場を理解せず、己の浅慮で徳川殿と家臣の方々を侮辱した我らの罪、平にお詫び申し上げます」

「徳川殿のご裁定に従い、いかなる処分も甘んじて受ける所存でございます」

「あの状況では仕方ありません。終わりよければすべてよし、です。何もかも水に流しましょうぞ」

「徳川殿の寛大なお心、ありがたく存じます」

織田と徳川の間にあったわだかまりが消え、同盟が強固になったと静子は思った。空を見上げると空はあかね色に染まっていた。
いくさを始めたのが昼間辺りだから、かれこれ数時間は戦っていた事を、静子は今さらながら認識する。
だが静子には武田とのいくさの後に、もう一つやる仕事が残っていた。とはいえ、今はその事を忘れ、勝利に酔いしれて騒ぐ時間だと思った。

「では浜松城に戻りましょうか」

「あ、その前に一つご相談、というお話があります」

「はい? 何かありましたでしょうか?」

すぐに話し合わねばならない事があったかな、と静子は小首を傾げた。
いつになく可愛げのある仕草に忠勝が悶絶していたが、生暖かい表情を浮かべた半蔵と康政が素早く静子の視界に入らないよう隠す。
家康の後ろで謎の攻防が繰り広げられている事に気付かない静子は、家康の次の言葉を待った。

「捕縛した信玄が貴女に会わせろと五月蠅くてですね」

「ああ、え? 私に?」

「はい。なにぶん、我らの一存では決められないため、判断を伺いに参りました」

家康曰く、信玄は口から血を吐きながらも、静子に会わせろと言っているとの事だ。静子はあくまで信長の家臣であり、家康の意向で会わせる訳にもいかなかった。

「会う必要はない。どうせ敗戦の恨みごとを口にするだけだ。そんな戯れ言に付き合う必要はなかろう」

静子が考える前に足満が即断で拒絶の意思を示した。誰もが判断に迷う中、一瞬で結論を出すのは流石と言えた。

「うーん、別に良い気がするけど、最期に会うのが私とか後々不名誉にならないのかな?」

首を取られる直前に女子と会っていました、などと言われれば信玄の名誉が傷つかないかと静子は考えた。流石に自分のせいで信玄が笑い者になるのは勘弁願いたかった。

「問題なかろう。本人が選んだ道だ。その結果を本人が甘んじて受けなくてどうする」

「そうかな。まあ向こうが望んでいるのなら、私としては別に問題ないけども」

静子の一言で面会は実現した。だが仮にも一番の立役者をそのまま、という訳にはいかなかった。事後処理に数名残ったものの、大半の者が護衛として静子に付いていく事となった。

(とんでもない事になったなぁ)

いつも以上に周囲ががっちり固められている事に、静子は笑うしかなかった。しかし、この期に及んで自分が間抜けをすれば、それは他の者の不名誉になるため護衛を受け入れた。
移動といってもたいした距離は歩かない。信玄は捕獲されている身だが、病気が理由で動かせないゆえ、三方ヶ原台地に仮で立てた陣の中にいた。
彼だけでなく、近習たちもまた同じように捕獲されていた。

立場のことも考え中央に家康、左側に忠勝などの徳川家家臣、右側に静子と才蔵、足満、そして柴田や佐々などの織田家家臣が陣取る事となった。
各自が所定の位置に就くと家康は兵に信玄を連れてくるよう命じた。少しして後ろ手に縛られた信玄が兵に連れられてくる。

信玄はトレードマークとも言える甲冑や兜は身につけておらず、坊主を彷彿とさせる服装の姿だった。呼吸音は荒く、一目で容態が悪い事が窺えた。

「お待たせしました。貴方の望み通り、近衛殿の娘をお連れしました」

ギョロリと信玄の目が動き、静子を捉える。全てを見透かそうとするその目に、静子は思わず腰が引けそうになった。だが腰が引けるより前に、足満が前に出て信玄から静子を隠す。

「殺気を向けるなら容赦はせぬ」

「いや、大丈夫だよ。それより見えないから退いて頂戴」

信玄を睨み返す足満だが、静子から邪険に扱われて悄然としながら身を退いた。自分に活を入れた後、静子は一呼吸置いて信玄を見つめ返す。
暫く無言で見つめ合っていたが、ふいに信玄が笑みを浮かべる。

「ふっ、このような間抜けな女子にわしは負けたのか。しかし、何とも言えぬ心地じゃ」

それは信玄なりの褒め言葉だが、静子は誰と顔を合わせても、毎度間抜けと言われる事に泣きそうになっていた。
どうしてその評価になるのか不思議に思う静子だが、他の武将のように気迫がなく、ともすれば恫喝で日和りそうな見た目と雰囲気を漂わせている事が原因と本人は気付いていない。

「近衛の娘よ、名は何という」

「え、あ、はい。静子と申します」

「そう畏まる必要はない。そなたはこのわしを打ち倒したのだ。堂々としてくれねば、わしの名が廃る」

そう言って信玄は笑う。彼はただただ心地よかった。人生に於いて最初で最後の大黒星、それが静子のような者に付けられたのだ。
他の者ではこういった気持ちにはならなかったと、信玄は漠然と思った。

「いや、私だけじゃなく、みんなが付いてきてくれたからで、私は後ろであれこれ言うだけでした」

「ふはははっ! 天下の武田との勝ちを驕らぬとはな。あくまで目立つのが嫌、か。貴様は何をしていても己を誇示しようとしなかった。だからこそ周りも見落としてしまった。わし自身も、嫌な予感だけで説明がつかなかったから無視してしまった。ふふっ、完敗じゃ」

それは誰もが耳を疑う言葉だった。信玄が明確に敗北を認めた。それも完敗という言葉で。言葉を紡いだ信玄よりも、織田・徳川の武将たちの方が動揺した。
周囲の驚きを無視し、信玄は独り言を呟く。言葉を吐くたびに彼は自分の中で折り合いをつけているようだ。信玄の表情が徐々に毅然とした面持ちに変わっていった。

「徳川の坊ちゃん、わしから盗った軍配団扇を静子殿に渡せ。あれは貴様如きが持って良いものではない」

不遜たる態度で信玄は家康に命じる。信玄の堂々たる態度に、勝った側にいる家康が狼狽していた。
場の雰囲気に飲まれた家康は兵に命じて、信玄の軍配団扇を持ってくるよう命じる。少しして兵が信玄の軍配団扇をお膳に載せて戻ってきた。

「それじゃ、間違いない。はよう渡せ」

「あのー、盛り上がっている所すみませんが、軍配団扇より来國長(らいくになが)とか和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)の方が良いのですが……」

静子が小さく手を上げながら、おそるおそる信玄に声をかけた。来国長とは武田信玄が愛用した佩刀だ。
史実では信玄亡き後、紆余曲折を得て江戸時代に柳沢美濃守吉保が、信玄菩提寺の恵林寺に奉納した。他にも(2代)和泉守兼定という信玄所用の愛刀がある。
静子にとっては信玄の軍配団扇を貰っても使い道がないため、譲られるなら彼が愛用した刀の方が良かった。

「……く、くっくっくっ、はっはっはっはっ! 噂通り刀の蒐集家か。構わん、持って行け。貴様が持つなら安泰だ」

何が理由で静子を気に入ったのか不明だが、信玄は気前よく刀も静子に譲った。こうして静子の許に信玄が使った軍配団扇と愛刀が置かれる。
一瞬だけ刀に目を輝かせた静子だが、自分がどこにいるか理解するとすぐに表情を引き締めた。

「次は泉下(せんか)(あの世)にてやり合おう」

この世でするべき事は終えた信玄は、これから斬首されるとは思えないほど穏やかで、泰然とした表情を浮かべていた。

「もうこんな疲れる事はご免です」

「ぬかせ、勝ち逃げなどゆるさんぞ。泉下で家臣たちと切磋琢磨し、今度はわしが貴様の度肝を抜いてやる」

静子の返答にニヤリと笑った信玄だが、急にその顔が歪み強く咳き込んだ。三回目の咳き込みで、彼は口から血を吐いた。
信玄は胃ガンを患っていたと言われているが真相は不明だ。その病状が悪化したと思った静子は、衛生兵を呼ぼうとした。

「良い、わしの体の事じゃ。わしが一番よく知っておる」

口の中の血を吐き捨てると、信玄は呼吸を整える。落ち着きを取り戻したところで、彼は周囲の驚きを無視して立ち上がる。

「また会おう」

それが信玄の最期の言葉となった。日が沈む前、彼は忠勝の手によって首を斬り落とされる。
忠勝が信玄の首を落とした理由は、信玄が捕縛されても一切うろたえる事なく、戦国最強の名に相応しい最期を見せてくれた事への、織田・徳川連合軍の武将たちなりの手向けだった。
そして信玄の首は衆人の目に晒される事なく、信玄の近習たちの手によって甲斐へと帰国した。

武田(たけだ)徳栄軒(とくえいけん)信玄(しんげん)、三方ヶ原の戦いにて討ち死に(・・・・)
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