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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀三年 決戦、三方ヶ原の戦い

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千五百七十二年 十二月下旬

武田軍の突撃を見た織田・徳川軍も負けじと咆哮を上げ、武田軍を迎え撃たんと突撃した。
武田の騎馬隊は有名だが、騎馬隊とは騎馬兵だけで構成される訳では無い。騎馬の利点はその突破力と機動力にある。
相手に素早く迫り、一撃を加えて離脱することに意味がある。勿論騎馬隊だけで突撃するのでは意味がない。
折角打ち込んだ(くさび)は押し開かない事には本領が発揮されない。後続の部隊が崩れたところを押し広げてこそ戦果が上がる。

また日本では馬に去勢手術を施さず、目隠しもしないため、馬が密集して並走することが不可能となる。
馬は視界が350度ほどもあり、生来臆病な性質であるため密集を嫌うのだ。今日の競馬などではブリンカーと呼ばれる目隠しを装着することがある。
仮に武田が馬を並走させられたとしても、三方ヶ原台地のような障害物の少ない場所ですら騎馬だけの運用はしないだろう。
それを証明するかの如く、武田の軍学書である甲陽軍鑑(こうようぐんかん)にも、騎兵運用に関する記載がある。
詳細については割愛するが、馬は大将と少数の騎兵だけで問題なく、いくさの主力は歩兵である。
馬を数多く並べて相手へ突進など、いくさを知らぬ愚か者の戯言に過ぎない、といった記述が見られる。

それゆえ敵味方を問わず、軍の主力は歩兵となる。
突撃の勢いのままに白兵戦へと雪崩れ込むかと思われたが、両軍とも弓の射程に入ると盾を並べて射撃の応酬となった。
先陣を務める者たちが互いに矢を撃ち合い、膠着状態に陥るかと思われた頃、ふいに乾いた銃声が空気を切り裂いた。

突然の銃声に驚いた武田軍だったが、銃弾が届かない事を知ると、猛然と矢を射かけてきた。それ以降も数度銃声がこだましたが、もはや武田軍も構いはしなかった。

「良い傾向だね」

双眼鏡で武田軍の動きを確認していた静子は、彼らが音の認識を誤ったと判断した。続いて自軍と武田軍を交互に見比べる。

「そうそう、まずは拮抗している(・・・・・・)事が大事だよ。最初から勝てる(・・・)けど、それをすると相手が警戒するからね。まずは武田軍に勝っているように思わせないとね」

それから暫く、静子は双眼鏡で最前線を確認していた。
織田軍と武田軍の小競り合いが膠着している状況が四半刻程も続いたころ、静子は双眼鏡を下ろして周囲を見回した。目当ての人物を見つけると、彼女は声を掛ける。

「終わった?」

「はい、殿。新式銃の較正は完了しました。これで命中精度は飛躍的に向上するでしょう」

「よろしい。各自に通達、準備が済み次第最前線に出なさいと。全員揃えば私も前に出ます」

「そ、それは危険かと」

最前線では今なお、激しい矢の応酬が繰り広げられている。いくら静子の甲冑が特別製であっても、鎧の無い部分は存在する。

「構いません。将が命をかけないで、兵がついてくるでしょうか」

「殿……はっ! 御身(おんみ)はこの命に代えても必ずやお守りいたします」

「頼みます」

短い会話を終えると静子は合図を送った。静子の合図を確認した将兵は配下の兵を所定の位置へと移動させる。鉄砲衆が前へ、そしてその後ろに長可隊が移動した。
静子は鉄砲衆と長可隊の間に陣取っていた。鉄砲隊たちは頭上に盾を掲げており、既に矢が飛んでくる位置にいる。静子の位置も一つ間違えば矢が飛んでくる危険な場所だと言える。

静子は空を見上げて太陽の位置を確認する。おおよそ予定通り(・・・・)の位置にあった。順調に計画が進んでいる事に、静子は薄く笑みを浮かべる。

「鉄砲衆たちよ! 辛く苦しい訓練によくぞ耐えた!」

気持ちを切り替え、静子は銃弾を装填し射撃準備に入っている鉄砲衆を鼓舞する。

「誇るが良い! 訓練に耐えた君たちは今、栄えある史の岐路(きろ)に立っている! この後何千、何万という人間が、諸君らの背中を追うであろう! まさに闇を切り裂く光明なり!」

軍配代わりのクーゼを天高く掲げ、静子は更に言葉を続ける。

「始まりの一歩を踏みし精鋭たちよ! 武田に、この日ノ本にいる者たちに、渾身の一撃を見せてやろうぞ! 全員構えぇ!……斉射ァーーーーーー!!」

静子がクーゼを武田軍に向けて振り下ろすと同時に、最前線に並んでいた鉄砲衆が一斉に射撃した。
間を置かず、武田軍の最前線を構成する小山田信茂軍の盾持ちたちが蜂の巣と化した。






その光景は武田軍は勿論、射撃をした鉄砲衆たちですら息をのむほどであった。
僅かにずれたため増幅された破裂音が響いたかと思うと、前線を支えていた盾持ち達が一斉に倒れ伏した。
若竹を燃やしたかのような音がしたかと思えば、盾で身を守っていたはずの兵が盾ごと倒れる光景は、誰の目にも異常に映った。

鉄砲衆が驚くのも無理はない。彼らは自身が使う銃に数百メートルを狙えるポテンシャルがある事を知らなかった。
訓練では近距離で小さい的を狙って射撃を繰り返していたため、これほどの距離でも殺傷範囲にあるとは思っていなかったのだ。

「次弾装填!」

静子の号令により鉄砲衆の体は反射的に動いた。被害を受けた武田軍よりも訓練を積み重ね、頭よりも先に体が動くようになった鉄砲衆達が立ち直る方がはるかに早かった。
反射的に銃弾を込めた鉄砲衆は、そのまま狙いをつけると射撃体勢を取った。

「斉射ァーー!」

今度は揃った銃声が雷鳴の如く鳴り響いた。またしても武田軍が大きく欠けた。三度目の装填は落ち着きを取り戻し、射撃後すぐに行っており、すぐさま射撃体勢が整った。

「斉射せよ!」

静子の声とともに小山田信茂軍の兵は櫛の歯が欠けるようにバタバタと倒れていった。
攻撃力と防御力が均衡し、小競り合いが続いていた状況が、あっという間に織田軍優勢へと傾いた。
しかし、小山田信茂軍が劣勢を認識する暇はなかった。銃声が轟く度に無数の屍が量産されるのだ。火縄銃が使われていると言うのは銃声で理解出来た。
しかし従来の火縄銃に盾を撃ち抜く程の威力はなかった。そしてあり得ない発射間隔の早さが、混乱に拍車をかけた。

だが武田軍は歴戦の部隊。原因は分からずとも結果から判断することは出来た。

「う、うわあああああああああ!! 死にたくねぇーー!!」

それは銃声とともに兵が死ぬ。聞こえた時にはもう遅いという恐怖だった。そしてその死には盾も鎧も役に立たず、草のようにただ刈られるのみだという事実が心胆を凍らせた。
しかし敵に背を向けて逃げようとも、密集しているために満足に動けず、銃弾は次々に命を刈り取っていく。

(ーーーー見えた!)

双眼鏡で様子を確認していた静子の目に、小山田信茂軍が完全に瓦解した事、そして背後にいる武田軍最強の赤備え、山県昌景軍が入る。
素早く双眼鏡から目を離すと、静子はやる気に満ちあふれている長可軍に体を向ける。

「待たせたな、猛者たちよ! 小山田軍は崩壊した! もはや山県昌景を討ち取る障害はない! さぁ貴様らの出番だ! 鬨の声を上げよ! そして見事、山県昌景を討ち取ってまいれ! 赤備えを討ち取らば、末代までの(ほまれ)ぞ!!」

「うおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

一番先頭にいる長可が静子以上に吠える。それは腹の底にまで響く獰猛な獣の咆哮だった。そして長可なりの督励でもあった。
長可の咆哮に聞いた兵たちが、声を上げるとともに士気を上げる。やがて咆哮が最高潮に達した時、長可は武器を武田軍に向けた。

「全員、突撃だぁーー!!!」

長可軍が走り出す。静子と鉄砲衆たちは長可たちが咆哮を上げている間、彼らが通る道を空けるため脇によけていた。
地響きを立て、喊声(かんせい)を上げて長可軍は武田軍の最前線となった山県昌景軍へと突撃した。
鬼気迫る勢いで突進してくる長可隊を見て、僅かに残っていた小山田信茂軍の兵が這う這うの体で逃げ出す。

小山田信茂軍の背後にいた山県昌景は、突然前衛が崩れた理由を理解していなかった。しかし目前に迫った敵を見て、彼は咄嗟に小さな鶴翼の陣を構えて迎え撃つよう兵に命じた。
彼の判断は誤りではない。突出した兵に対して大軍の有利を活かせる鶴翼の陣は理に適っている。包囲して袋叩きにすれば歩兵の突撃などたかが知れている。

その判断は長可隊が通常の歩兵であった場合に限れば正しかった。
しかし残念なことに、静子が用意した対武田用兵器は新式銃だけではなかった。間もなく、彼らは信じられない光景を目にする事になる。

「何だ、あいつらは!」

山県の鶴翼の陣中央目がけて突き進む長可隊は、傍目には猪武者の自殺行動にしか見えなかった。
左右の翼にあたる部隊から矢の雨が降り注ぎ、中央へ辿り着く前に力尽きると赤備えは確信していた。
しかして長可隊は降り注ぐ矢をものともせず、勢いを保ったまま走り抜けた。
目の良い者は気づいただろう。長可隊へと降り注いだ矢は、殆どが弾かれ鎧に刺さっている矢すら稀であったことを。

「はっ! 凄まじいな、この甲冑は。柳に風とばかり矢を受け流すのだからな」

先頭を馬で疾走する長可が軽口を叩いた。彼が言葉を発している間にも、右腕の篭手に矢が当たる。しかし鋭い鏃が付いたはずの矢は、曲面を滑ると刺さることなく逸らされた。
隊長格である長可だけが特別なのではない。末端の足軽に至るまで同じような光景が、あちらこちらで繰り広げられていた。

これこそが信忠(奇妙丸)の甲冑にも採用されている弐号装備。石英ガラスを高熱で処理し、繊維になるまで引き伸ばしたガラス繊維を編みこんだ甲冑だった。
現代ではFRP(ガラス繊維強化プラスチック)にも用いられているガラス繊維だが、戦国時代では強化プラスチックが手に入らない。
米と麻を使ったバイオプラスチックは実用化出来ているが、鎧を作る程の強度は持ちえなかった。
そこで金属繊維とガラス繊維を交互に編み込むことで鎧の表面を形成し、鎧の下に着る帷子部分にもガラス繊維を編みこんだ軽量かつ強靭な甲冑を実現した。
ただ古典的な製法でガラス繊維を作成しているため、不純物も多く強度を優先したために寿命が短い。
戦国時代基準では恐ろしい防御力を誇る反面、2〜3年で劣化してしまう使い捨てとも言える装備となった。
無論剛性が高いだけでは衝撃が浸透し、兵士がダメージを受けることになる。
しかしファクチスを衝撃吸収材として挟んだり、メッシュ状に繊維を編みこんだりすることで靭性を伸ばし、やっと矢程度ならば寄せ付けない強度を実現出来ている。

「おのれ、妖術の類か!? 何をしているのか分からぬが、このままでは終わらせぬ!」

叫ぶと同時に山県昌景は指揮棒を特定のパターンで振り、合図を送った。
それは第二陣に控える武田軍の諸将に前線の異常を報せるとともに、ある作戦の実行を報せる合図でもあった。

「あれは……皆の者、下がるぞ!」

山県昌景の命令が何かを理解した赤備えは、一斉に後ろへ下がる。その統制の取れた見事な撤収行動は長可たちにも戦局の変化を報せた。しかし足を止めるつもりは毛頭なかった。

長可からすれば山県昌景が鶴翼の陣を敷くことも、弐号装備に驚いて隊を下げることも想定通りの展開なのだから。

赤備えたちが山県昌景の命令に従い、左右の翼を残しつつ中央だけが後退してゆく。中央が後退するとどうなるのか。
敵の戦線は後退と共に縦に伸び、Vの字の谷へと誘い込まれ、懐が広がった左右両翼から長時間の攻撃に晒されることとなる。
長時間の猛攻に晒され、窮地を脱しようと後方や左右へと逃れる連中を叩く。現に加勢として第二陣の馬場信春や内藤昌豊などが駆けつけて、長可隊を包み込もうとしていた。

「よっしゃ! 引っかかったぞ、連中! 竜騎兵ども、頼んだぞ!」

だが長可には包囲網が閉じようとしている今こそが好機であった。彼は一緒についてきた竜騎兵、仁助や四吉たちに号令を出す。
彼らは長可の号令の下、一斉にコンパウンドボウを構えると、鶴翼の陣の左右の翼を担う兵たちの密集した地帯を射抜いた。
放物線を描き相手の中心に飛び込んだ矢の数はおよそ30本。敵兵の数に比べれば一本一殺が為ったところで雀の涙であっただろう。

矢は笛のような音を鳴らして飛翔し、重力に従って落下した。通常の矢であれば勢いを失えば終わりだが、その矢には続きがあった。
耳を(つんざ)く轟音とともに兵士たちが空を舞った。
爆心地付近にいた赤備えは今まで経験したことのない轟音と、理解の範疇を越えた衝撃をその身に受けた。
余りの衝撃に踏ん張ることもかなわず吹き飛ばされ、もうもうと立ち込める土煙と頭痛を伴う耳鳴りが赤備えの視覚と聴覚を奪っていた。

視界が晴れた頃、彼らは本日何度目になるか判らない衝撃を受ける。衝撃の発生源と思わしき場所は、すり鉢状に大きな穴となっていた。
酷い耳鳴りの合間にようやく聞こえるようになってきた耳に届くのは兵士たちの絶叫であった。周囲は阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
直撃を受けて体を欠いた者、破片を受けて体中から血を流す者、目や耳から血を流し、嘔吐しながら弱弱しく蠢くもの。
馬ですら引き裂かれ、赤黒い(はらわた)を晒して横たわっていた。およそ周囲に無事な者が見当たらない惨状が展開されていた。

何が起きているのか理解できない。ただ一つ刻み込んだのは、笛の音と共に地獄の蓋は開く。
そして彼らの耳に、無慈悲な死を告げる笛の音が届いた。逃げる、という考えを行動に移す前に、幸運にも軽傷だった赤備えが肉片となった。
爆風と共に巻き上げられ、かつて赤備えだった者の腕や足が、長い滞空時間を終えて地面に落ちた。
遅れて血と臓物と糞尿の雨が降り注ぐ、停止した思考が激烈な臭気に晒され強制的に戻り、心臓を鷲掴みにされたかのような恐怖に絶叫した。

「は、半端ねぇな、あの炸裂筒。確かに静子が使い途を誤るなって何度も念を押すのも納得だわ」

炸裂筒とは、ダイナマイトを封入した筒を括りつけた特殊な矢を指す。
本来ダイナマイトのような爆発物は、密閉した空間で使う事が望ましい。密閉空間の方が衝撃を分散させずに、高い威力が期待できるからだ。
開放空間で使用した場合、衝撃の殆どが開放空間に放たれ効果が激減する。
判り易い例を挙げるのなら、掌で爆発すれば火傷で済む爆竹も、握り込んだ状態で爆発すれば指を根元から吹き飛ばす威力となる。
しかし本来は岩を破砕し、山を崩すダイナマイトである。至近距離で炸裂すれば如何に威力が減衰しようと、人間程度なら一溜まりも無いのは想像に難くない。

だが爆風よりも大きな効果を上げるのが音だ。新式銃もそうだが、炸裂筒も音の効果を計算して設計されている。
特徴的な『音』と共に『誰かが』死ぬ。相手にそう刷り込めば、音そのものが恐怖の対象となる。
音がするだけで体が竦み、戦闘などとても覚束なくなる。そしてそれが未知の物ならば効果は更に高くなる。
どういう原理で死ぬのか理解出来れば対処もできようが、未知の物への対処は往々にして難しい。
そこに恐怖が更に判断を鈍らせる。音恐怖症という病名もあるほど、正体不明の音は恐怖感や不安感を与える。人によっては正体不明の音を聞くだけで発狂し、失神する事もある。

「さて……ようやく見えたぜ、山県昌景ェェェェェェ!!!!」

鶴翼の陣を敷き、更に両翼を厚くしたため正面の防御が薄くなっていた。これこそ長可が待ち望んでいた状態である。長可は吠えると後ろの歩兵の速度を無視して、馬の足を早める。
急に長可が突出したことに気づいた随伴兵たちも、慌てて速度を上げるが反応が遅れた。一方、赤備え達は両翼の壊滅から立ち直れていなかった。
その間にも長可は迫り、ついに交戦圏内に入っても、赤備えたちは思考が麻痺していた。

「山県昌景ェェェェェェ!!!! テメェの首を貰いに来たぜぇぇぇ!! とっとと首を俺に寄越せぇぇぇぇ!!!」

今までに見た事もない巨大武器——バルディッシュ——が最前列にいる赤備えたちを薙ぎ払った。長可が錐と呼ぶには些か広範囲に穿った穴を押し広げるようにして、後続の兵たちも突撃する。
吹き飛ばされて大地を這い、ようやく窮地を悟った赤備えたちだが、既に心が折れていた。
萎縮した心では本来の力を半分も出せず、精強無比と言われた赤備えたちが次々と討ち取られていった。

「金子が転がっているようなものだぜー!」

「赤備えを殺せ! 地に落ちようとも武田の赤備えだ。首の価値は高い!」

長可隊の足軽や雑兵たちが口々に叫びながら、赤備えを討ち取っていく。目をぎらつかせて赤備えを狙う光景は異常とも言えた。だが彼らが赤備えを狙う理由はきちんと訳があった。
赤備えの首は末端の足軽でも、それなりの報償が出るからだ。幾ら防御力に優れた甲冑を身にまとおうが、炸裂筒という広範囲破壊兵器があろうが、死の恐怖は簡単にぬぐえない。
その恐怖を克服するには名誉だけでは無理がある。長可という先陣を走り牽引する存在、そして討ち取れば多くの報償を得られるという欲が、彼らに死の恐怖を克服させていた。
討ち取られている赤備えからすれば、名誉や面子はないのか、と憤慨するかもしれないが、足軽や雑兵からすれば、名誉で腹は膨れない。

「首だ! 首を寄越せぇぇぇぇ!!!!」

「恩賞のために首を寄越せぇぇぇぇ!!!!!」

こうして色々な思惑が混ざり合い、長可と彼に従う兵たちは山県昌景の首を狙って突撃し、それ以外の者たちは目に入る赤備えを討ち取るという混沌とした戦場が出現した。






「随分とまぁ……派手だね」

様子見をしてきた斥候の報告に、静子は乾いた笑いしか出なかった。足軽でも首一つにつき、割高な恩賞を出すと言ったが、予想以上に効果があった。
双眼鏡で他の場所を見ると、才蔵と足満の軍が馬場信春軍に、慶次と高虎の軍が内藤昌豊と真田兄弟と戦っていた。
山県昌景が第二陣の補佐を求めたように、静子も残り四人に長可の補佐を命じた。炸裂筒で第二陣連中の足止めが成功し、その横腹にそれぞれが穴を穿つ形で突撃した。

鉄砲衆もそれぞれ300ずつ連れているため、武田軍第二陣は山県昌景の補佐に参加出来なかった。それどころか慶次や才蔵、足満、高虎と戦うだけで精一杯だった。
特に足満の部隊が異質だった。全身に矢が刺さっている状態でも、声にならない声を上げながら敵陣に突撃する兵がいた。
口からよだれを垂らし、どこを見ているか分からない虚ろな目で、人間とは思えぬ力で鉄の棒を振り回す。そんな連中が100人近くいた。

「殺れ」

足満の命令で鉄砲衆が一斉射撃する。鉄の棒を振り回す連中ごと、馬場信春の兵が薙ぎ払われる。だが虚ろな目をする者たちは、ふらふらと立ち上がるとまた鉄の棒を振り回していた。
異常な光景に馬場信春の兵は震え上がった。味方ごと敵を撃つのも異常だが、何よりも鉄の棒を振り回す輩が全く理解出来なかった。

「奴らは味方ではない。武田の間者だ。連中ごと馬場信春の兵を殺せ」

鉄の棒を振り回す連中の正体、それは信長が捕縛した武田の間者だった。そして彼らに足満は恐るべき事を行っていた。
ダチュラから抽出した麻薬成分を元に、意識混濁やせん妄状態が強く出るよう改良した薬を精製し、間者たちに投与してマインドコントロールを施した。
度重なる薬剤の投与と洗脳により、間者たちは人格が崩壊し、ただ命じられるままに戦う殺戮マシーンへと変わり果てていた。
今、馬場信春軍に襲いかかっている連中も、薬物投与による恍惚感から痛みを感じていないため、銃撃されてもショック死することは無い。
しかし出血は確実に体の力を奪い、肉体の損壊はその寿命を縮めていた。
非道な作戦だが足満から見れば、使い捨ての間者を再利用しているぐらいの意識だった。

「よし、突撃だ」

おおよそ片付いたところで足満は、兵たちに号令を出す。一瞬躊躇した兵たちだが、足満が走り出すのを見て慌てて後を追いかける。
配下の兵たちが恐怖に震え上がり、馬場信春がいくら声を張り上げようとも誰も応じなかった。ゆえに突撃してくる織田軍に為す術なく、次々と兵が蹂躙されていく。

「ちい! あそこまで外道な策を使うとは!」

軍の立て直しはもはや不可能に思えたが、馬場信春はそれでも踏みとどまり奮起を促した。しかし彼の命の灯火は今まさに消えようとしていた。

「無駄だ。このいくさ、勝ったのは我らと宣言したであろう」

馬場信春の前に足満が立ち塞がった。子飼いが足満の足止めをしようとするが、一撃の下に斬り捨てられた。

「だが流石は馬場信春、ここまで耐えた事は褒めよう」

「貴様……こうまでして勝ちたいのか。貴様には武士の矜持というものがないのか!」

薬物で狂わせた兵を突撃させ、その背後で味方ごと敵を薙ぎ払う。まさに悪鬼羅刹の所行だと馬場は思った。

「ふん、貴様はまだそんな事を言っているのか。良いか、馬場信春。わしは征夷大将軍だった。だが京の連中はわしが邪魔だと考えた時、暗殺という手段を取った」

「それと今の何が関係ある!」

「分からぬか、愚か者。仮にも武家の棟梁たる征夷大将軍を暗殺したのだ。暗殺のどこに正道がある。だが暗殺された事を誰も非難せず、あまつさえ次の征夷大将軍を据えた。さぁ答えろ馬場信春、正道を説くならば、何故わしが暗殺された時に道を正そうとしなかった!」

「ッ!」

「理解したか。貴様の正道は、貴様の都合の良い正道に過ぎぬ! わしは暗殺された時に理解した。この世に正道も邪道もない。強いて言えばーーーー」

刀の先端を馬場信春に向けると、足満は感情が感じられない冷たい言葉を紡いだ。

「勝者にのみ正道があり、敗者には正道を口にする資格はない」

「この、減らず口を……ッ!」

何とか言い返そうと馬場信春が足満をにらみ返した時、彼は異常に気が付いた。足満は笑っていた。
それは勝利を確信し、敗者たる馬場信春を嘲笑う笑みではなかった。
異様な足満の態度を訝る馬場信春の耳に馬が駆ける音が届いた。音源を探して周囲を見回そうとした瞬間、彼の目には才蔵が槍を構えて突撃してくる光景が映った。

「馬場信春!! その首、貰い受ける!」

周囲の兵たちも足満に意識を向けていたため、才蔵の存在に気付くのが遅れた。

最初から足満は馬場信春を討ち取る気はなかった。才蔵が馬場を討ち取るための囮役に徹していた。

武田の話を足満が何度も蹴り続けたのは、馬場信春が出てくる時期まで待っていたからだ。
馬場信春と会談した時、必要以上に彼を挑発し侮蔑したのも、自分を見れば馬場信春が必ず戦いを挑むと足満が判断したからだ。
どれだけ冷静になろうと努めても、あれだけの人がいる前でこれ以上ない程に面罵されれば、叩き潰したいという感情がわく。
そうして内心怒りに震えた馬場信春を最前線に出し、深く食い込んできた所で馬場信春を才蔵が討ち取る作戦だ。
途中まで才蔵の軍が全く目立たず陰役に徹していたのも、馬場信春と彼の兵たちに才蔵の軍は恐るるに足らずと油断させるためだ。

こうまでして早くに馬場信春を討ち取ろうと考えたのは、何も最初に討ち取りやすい位置に彼がいたからではない。
彼は指揮能力や戦局の分析能力に優れている。だからこそ何十年もの間、かすり傷一つ負わずいくさ場で暴れられた。
そして戦局の分析能力に優れた人間は、いくさの後半になればなるほど厄介な存在になる。

武田四天王や武田二十四将をどれだけ討ち取ろうとも、肝心の武田信玄を討ち取れなくては意味がない。
逆を言えば武田軍がどれほど生き残ろうとも、信玄の首さえ上げればお釣りがくる。
それほどに信玄の首は重要であり、その最大の障害となる人物が馬場信春だった。初戦で彼を討ち取ろうと考えるのは、戦略上至極当然の判断だ。

だが通常の戦闘を仕掛けても、多少損害を与えるだけで立て直しを図られるのが落ちだ。
だからこそ外道・非道の誹りを恐れず、相手の首を討ち取るために何でもする足満が採用された。
心理的な揺らぎが一つもなく、人を当然のように使い捨てる足満の作戦を実行して、初めて馬場信春は敵の真意に気付かず戦う状況に陥った。
そして様々な怒りを覚えて足満に意識を集中したため、最初にして最後ともいえる馬場信春を討ち取る好機が生まれたのだ。

瞬時に今までの足満の言動は自分を討ち取るための策だった、と馬場信春は気付いた。だが気付いた時には手遅れだった。
刀で才蔵の攻撃を防ごうとしたが時既に遅し、馬場信春が刀を抜くより早く才蔵の槍が疾走(はし)った。

馬場信春の首が宙を舞う。刎ねられた首は胴体と離れた事を知らず、空中でまだ鬼の形相を浮かべていた。
やがて地面に落ち、ころころと地面を転がる。何かにぶつかってようやく馬場の頭は転がるのを止めた。馬場の頭がぶつかったのは才蔵の足だった。
彼は馬場の頭を掴むと、天高く掲げて宣言した。

「馬場美濃守が首、可児才蔵が討ち取ったりぃ!!」






刻は少し戻り、馬場信春と足満・才蔵が戦っている中、長可は一直線に山県昌景を目指していた。今や随伴兵が30ほどしかついてきていないが、それで十分だった。
彼らは長可の子飼いであり、精鋭中の精鋭だ。たとえ心が折れていなくとも、赤備えに後れを取るような連中ではない。
子飼いたちが一薙ぎするたびに、赤備えが斬り伏せられていく。冷静に考えれば数で押せばどうにかなるものの、心が負けてしまった赤備えは長可に近づこうとすらしない。

「山県昌景ェェェェェェ!!!!」

長可は叫ぶ。それが子飼いたちにとって助勢なのか、彼が叫ぶたびに子飼いたちに気力が満ちあふれていく。
バルディッシュを振るい、障害となる敵兵を薙ぎ倒していく。そうしてどれほどの時間が経ったのか判らなくなったころ、ついに長可は赤備えの囲みを突き破った。
赤備えの後方にいた山県昌景を視界に捉えると、長可はバルディッシュを持ち直す。ことここに至れば、もはや退路や周囲を窺う余裕など頭の片隅にも過りはしなかった。
ただ一直線に山県昌景を目指す。山県昌景の方も長可を確認したが、彼は撤退という選択をしなかった。

今でさえ後方に陣取るという無様を晒している。その上、敵に喉元を突かれて逃げ出したとあれば、赤備えの名は地に落ちる。それだけではない。
兵は勿論、その家族まで肩身の狭い思いをすることを強いられる。そして大一番で臆病風に吹かれて逃げ出したと末代まで語り継がれる。
もはや山県昌景だけの話では済まない。彼の両肩にはこれまでの赤備えの名誉と、一族の名誉、そして赤備えに関わる全ての者の名誉がのしかかっていた。
ゆえに彼は撤退しない。逃げるという考えすら浮かばないのだ。たとえ破滅が待っていようとも。

「小僧がぁ! わしの名を呼ぶなど十年早いわ!」

長可に負けじと叫び返すと、山県昌景は手綱を操って突撃する。まさかの単騎突撃に山県昌景の側仕えたちは唖然とした後、慌てて彼を追いかけた。

「小僧じゃねぇ! 俺の名は勝蔵! 森勝蔵長可(もりかつぞうながよし)だ! よぉく覚えてから地獄に落ちやがれ!!」

「減らず口を! 我が名は山県三郎(やまがたさぶろう)兵衛尉(ひょうえのじょう)昌景(まさかげ)!! 貴様を冥府へ送る者の名よ!!」

一騎打ちになる。双方の子飼いは誰が言うまでもなくその事を理解すると、一騎打ちの邪魔にならないよう離れる。
その他、駆けつけた武田の赤備えや長可の兵も、一騎打ちが始まると理解すると、それぞれの背後に陣取った。

『良いか勝蔵。貴様が山県と相対するとき、圧倒的に不利と心得よ。幾つものいくさ場を渡り歩いてきた山県と、貴様とでは圧倒的に経験が違う。刻が経てば経つほど不利になり、経験がものを言うようになる』

長可は父親である森可成の言葉を思い出す。言われた時は分からなかったが、こうして山県昌景と相対して初めて気付く。
山県昌景は大剛なる武士である事を。相対するだけで押し潰されそうな重圧、肌がヒリヒリするほどの気迫、何もかも今の長可にはないものばかりだった。

『若さに任せた気勢など、歴戦の猛者の前では風前の灯火、何の役にも立たぬ。更に山県は追い詰められた状態だ。単なる将ではない、一騎当千の死兵である事を心得よ』

(分かったよ、親父……今まで経験した事のない……本当の強敵って奴をよ!!)

バルディッシュを持つ手に力を込める。長可は最初の一撃に全てを込める。成功すれば山県昌景を討ち取れるが、失敗すれば長可が討ち死にする事は確定だ。
既に大戦果を挙げている長可にとっては分の悪い賭けになる。
しかし山県昌景の首を挙げないことには勝利はない。ここまでしてようやく長可たちは、名にし負う武田の赤備えを自分の土俵に立たせることが出来たのだ。
もし長可が破れれば、今までの苦労は全て水泡に帰する。一時の勝利など山県昌景を逃せば、すぐに立て直されてしまう。

「山県昌景ェェェ!! その首、貰ったァァァァ!!!」

(ふん、若造が。馬上槍の難しさを噛みしめて死ぬが良い!)

馬上槍を扱うには相当な修練が必要となる。武田軍ですら殆ど武将は馬上槍を用いず、突撃後は下馬して歩兵として戦うのが常である。
そもそも馬はいくさ場を素早く移動するための手段であり、高い位置にあることや勢いの有利を以ての突撃や、機動力を生かした歩兵では取りえない迂回からの側激という後方攪乱が主要な運用となる。
それゆえに戦場の華となるものの、馬の足が止まれば一気に優位性を失う。一度勢いが死ねば、全ての行動が隙となる致命的な欠点が馬上槍にはあった。

「この腕、貴様にくれてやろう!」

片腕を犠牲にして長可の攻撃を防ぎ、馬の操作が乱れた所で長可を討つ。
それが山県昌景のとった作戦だ。最上とは言えずとも極めて有効な戦法だった。山県昌景でなくとも誰しもそうしたであろう。

「ああああああああああああああああああっ!!!」

叫びながら長可がバルディッシュを振るう。山県昌景は片腕で長可の攻撃を受け止めようとした。バルディッシュの攻撃を受けた瞬間、彼は篭手ごと己の腕が粉砕される音を聞いた。

(骨が砕けたか。だが……何ぃ!)

骨が砕けたが腕自体は無事、そう思っていた。だが山県昌景は致命的な間違いを犯した。長可の膂力は彼が知る若者とは、比較にならないほど強いという事を。

「俺を、なめるなぁぁぁぁぁ!!!!」

叫び声とともに、長可は限界を超えた力を発揮する。
バルディッシュの勢いは止まらず、山県昌景の腕を両断すると、その刃は彼の首へと迫った。下から振り上げる刃で鎧ごと腕が断ち切られるという予想外の事象に、山県昌景は防御出来ないまま長可の攻撃を受けた。

「うあおっ!」

勢い余った長可は、山県昌景を斬ると同時に落馬した。馬は勢いのまま駆けると、少し走ったところで足を止めた。対して長可は痛む体を無理矢理起こして、山県昌景の姿を確認する。

「ば、馬鹿な……ごぼっ……こんな餓鬼の……どこにこんな力が……」

首から血を噴き、口からも血を流す山県昌景が、驚愕の表情で長可を見つめていた。長可の一撃は山県昌景の腕諸共、左脇腹を通り抜け逸らした首すらも切り裂いていた。
誰が見ても助からないと判る傷だった。己の状況を察した山県昌景は、ニヤリと太い笑みを浮かべ、無事な右腕で刀を握った。

「餓鬼……いや、森勝蔵長可よ! 見事なり。だがこの山県昌景は貴様の手には掛からぬ。我が死に様を……とくと見届けよ!」

言うやいなや山県昌景は自分で自分の首を切り落とした。切り落とされた首から鮮血がほとばしる。長可は呼吸を整え、山県昌景の首に手を合わせる。

「山県三郎兵衛尉の死に様、天晴見事なり。大剛なる武士(もののふ)とは、彼のためにある言葉なり」

長可は山県昌景を褒め称える。自分の攻撃が届かなければ、首を落としていたのは自分の方だった。手を合わせ終えると、長可は山県昌景がニヤリと笑ったように見えた。
我を討ち取った事を誇れ、そんな事を言っているような笑みだった。長可は笑みを浮かべると山県昌景の首を天高く掲げる。

「山県三郎兵衛尉が首、森勝蔵長可が討ち取ったりぃ!!」






長可が山県昌景を、才蔵が馬場信春を討ち取った時間は殆ど同じだった。僅かに静子の方へ報告が届くのが早かった。それが勝負の分かれ目となった。

「太鼓を鳴らせぇ!!」

「はっ!!」

陣太鼓がドンドンドンと鳴り響く。一度だけではなく、三拍子が二度、三度と続けられる。
それを聞いた静子軍は勿論、左右にいる佐久間、平手、水野、そして後方の徳川軍に変化が起きた。

「待たせたな、者ども! 目の前に武功が転がっていながら、今まで抑えてくれた事を感謝する!! だがもう耐える必要はない!!」

「うおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

「おおおおおおおおおおおおおおおおおっ!!!」

静子の声に兵士たちが雄叫びを上げる。静子は満足げに頷くと、クーゼを天高く掲げる。少し遅れて兵士たちが続く。
軍旗など色々なものを掲げたため、武田側からは織田・徳川軍の後方が見えにくくなった。ゆえに後方で起きている事に気付けなかった。

徳川の軍旗が一つもない、という状況を。

徳川軍の軍旗はなくなったが兵はそのままだった。そして兵たちが指している軍旗は、全くの別物だった。

「やれやれ、ようやく出番ですね」

そんな事をぼやきつつ、羽扇で自分を仰ぐ人物は竹中半兵衛だった。彼だけが参加したのではなく、周囲にいる兵たちは秀吉の軍旗を掲げていた。
まごう事なき秀吉の軍である。そして秀吉の軍だけではない。彼らから少し離れた場所に陣取る軍は、柴田軍の軍旗が掲げられていた。

「まさか本当に討ち取るとはな。皆の者!! 女子に負けておられぬぞ!!」

率いる武将はまさかの柴田勝家だった。彼らの他にも佐々成政、明智光秀、丹羽長秀、前田利家など、様々な織田家家臣たちの軍旗が掲げられていた。

「最初は滅茶苦茶な話と思ったが、それぐらいでなければ武田には勝てぬか」

「皆の者!! 武田を討ち取れば末代までの誉じゃ! 斬って斬って斬りまくれぇ!」

あちらこちらで武将による鼓舞が行われる。武田の側近中の側近を討ち取った事は、既に全軍に知れ渡っているので、武田と聞いて怯える兵は一人もいなかった。

「本当に山県を討ち取るとはな。天晴れとしか言えぬ」

そして後方の織田軍の中に、森可成の姿があった。彼はいつもの甲冑を纏い、これまで何度敵を討ち取ったか分からない愛用の十文字槍を握っていた。

「父上。無茶をされては体に毒でございます」

長男の森可隆(よしたか)が森可成の体を労る。だが、彼は首を横に振る。

「心配をかけてすまぬ。だが、血が……わしの血が騒ぐのじゃ。肩の負傷で諦めようと何度も思った。じゃが血の滾りには抗えぬ。安心せよ、これで最後じゃ」

「父上……わかり申した。某はもう何も申しませぬ。存分に、戦い下さいませ」

「わしが有終の美を飾るのに、武田は贅沢すぎじゃがの。だがわしが戦うのは本当にこれで最後となる。しかして我が武勇、その目にしかと焼き付けよ」

「ははっ! 父上の雄姿、我が(まなこ)にしっかり焼き付けます!」

可隆の返事に森可成は満足そうに頷く。全軍の士気は熱気のように溢れだし、陽炎のように揺らめいて見えた。後は静子が全軍突撃を命じるのみ、それを今か今かと待ちわびていた。

「皆の者!! 我に続け!! 全軍、突撃ーーーーーー!!!」

そしてその時はやってきた。静子の号令とともに、織田軍は雄叫びを上げながら、武田軍へ突撃した。

突撃するのは織田軍のみ、では徳川軍はどこへいるのか。忽然と消えた徳川軍が、一体どこにいて何をしようとしているのか、その事を信玄が知るのはもう少し後の事である。
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