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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀三年 決戦、三方ヶ原の戦い

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千五百七十二年 九月上旬

みつおは買い物をしていた。彼はかつて子育てをした経験があり、育児に必要となるものを事前に把握していた。そのため必要になってから慌てるのではなく、事前に買い揃えておこうと考えたのだ。

「最優先は抱っこ紐ですかね。あれがあるだけで赤ん坊を抱いたまま両手が使えるから、飛躍的に楽になりますからね」

買物と言っても現代のように豊富な品ぞろえがあるわけでもなし、必然的に購入する点数も限られてくる。
しかし尾張にしかなく育児の手間を軽減してくれる画期的な製品、抱っこ紐(子守帯(こもりおび)とも言う)と霧吹きの二つだけは購入する予定だ。
抱っこ紐は親が装着し、赤子を抱く際に両手を塞がないための道具であり、霧吹きは赤子の下半身を洗うための道具である。
当たり前だが赤子は自分で便意を制御できない。
現代のような高性能おむつなど望むべくもなく、粗相(そそう)の度に替えてやる必要があるのだが、毎回お湯につけて洗ってやるのでは負担が大きすぎる。
そういう時に霧吹きが活躍する。おむつを替える際にぬるま湯を入れた霧吹きで赤子を洗ってやり、新しいおむつへと取り換えるのだ。

「店主、これを下さい」

「まいど」

抱っこ紐の方は簡単に購入することが出来た。貨幣経済が浸透し物々交換ではなく金子で買い物ができるのは誰に取っても便利であった。
物々交換では双方の求める品の価値が釣り合うようバランスを取るため、本来必要でないものまで購入する羽目になる上に、何を等価と見るかを見抜く目利きが必要とされるからだ。
金子を渡して商品を受け取ると、鞄にしまって担ぎ直す。次に探すのは霧吹きだ。
抱っこ紐は用途が単一であり、扱っている店を把握し易いが、霧吹きは違う。園芸にも使用するし、化粧の際にも用いられる。
店の分類が街道ごとにされているとしても、霧吹きを何に分類するかは店主次第だ。

「ものがいっぱいですね。初めて京へ行ったときは、冗談かと思うぐらい寂れていましたから、この賑やかさは良い事です」

軒を連ねる店を冷やかしつつ目的の物を探す。四半刻後、農具を扱っている店で目当ての品を見つけた。大きさで三種類に分けてあり、大・中・小とある中から大と中の霧吹きを選ぶ。
大は自分が使うものであり、中は鶴姫用に選んだ品だ。
育児において父親と母親にはそれぞれ別の責任がある。父と母では求められる役割が異なり、母親だけが世話をするのでは意味がない。
第一子である娘の時は勝手が分からず右往左往して失敗したが、今でははっきりと解る。
腹を痛めて我が子を産む母と異なり、男親は我が子との触れ合いを通して父親の自覚を持つのだと。

(世は乱世、明日も分からぬ時代に翻弄される子もいるのでしょう。ですが、私と鶴姫さんの子育てが徐々にでも広まっていけば、そういう不幸な子が減るかも……しれませんね)

尾張・美濃限定だが、子どもの死亡率は少しずつ低下している。捨てられる子どもも僅かに減っている。
仮に子を捨てねばならない状況に陥っても、ある程度は織田家が引き取って施設で子飼いの家臣として育てている。
無論流石の織田家といえども無制限に引き取れば破綻するため、一定の基準が設けられているのだが。
そして一度織田家に引き取られた子供は如何なる場合であろうとも親に返しはしない。何せ選に漏れれば死んでいた命だ、そのような親に任せる訳にはいかない。
しかし織田領内に限れば衛生環境も良く、栄養状態も比較的良いため早逝してしまう子供は少なくなっていた。
無論現代と比較すると医療技術が低いため、運悪く病気を得て容易く亡くなってしまう事もあるのだが。
そんな事をぼんやり考えていると、みつおは誰かとぶつかる。

「あ、失礼しました」

慌てて前を向くと、ぶつかった相手が抱えていた荷物が地面に撒かれる。
地に落ちたものは野菜類だった。踏まれてしまっては大事(おおごと)だと考えたみつおは、咄嗟に屈みこんで慌てて野菜を拾い集める。

「いや、こちらこそ失礼した。考え事をしていたゆえ、前を見ておらなんだ」

相手も謝罪の言葉を口にし、みつおと同じように野菜拾いを手伝う。幸い往来も少なく、誰にも踏まれること無く野菜類は集めることが出来た。
ところどころ土汚れがついてしまったが、持ち主は軽く手で払っただけで然して気にしない様子だった。

「本当にすみません。駄目になっていたら弁償しますので、遠慮なく仰って下さい」

「それには及びませぬ。こちらの落ち度でもあるゆえ……どうしてもと仰るのなら、茶を一杯付き合っては貰えまいか」

「茶をですか? 別にかまいませんよ」

「それは良かった。この辺りには不案内で、どこか休める場所をと探しておったのです」

みつおの案内で近くにある茶屋へ移動し腰を落ち着けると、みつおは男に色々な事を尋ねた。彼の名は四郎(しろう)。病気の母を療養させるため、最近尾張に来たとの事だ。

「全てを捨てて、こちらに来る事は一種の賭けでした。ですが、こちらに来て以来母の容態は少しずつ良くなっております。一時は今生の別れを覚悟したものですが安堵いたしました。妻子にも苦労をかけましたが、ようやく安心させられそうです」

四郎は人の良い笑みを浮かべる。自分も最初は鶴姫に苦労をかけたため、みつおは四郎に共感を覚えた。

「お子さんはおいくつですか?」

「(数え年)4つになります。古巣ではいつも暗い顔をしていたというのに、こちらに来てからはやんちゃになって手を焼いています」

「ははっ、でも可愛いでしょう。私もついこの間、娘が生まれましてね」

「それはおめでたい」

そう言うと同時に四郎は茶碗を掲げる。意図を察したみつおは、茶碗を手に持つと四郎の茶碗と乾杯をした。

「子が健やかに育つことを願って」

「我らの親好が長久する事を願って」

言い終えると同時、二人は茶を一気に呷る。飲み終えると二人はどちらからともなく笑い出す。
それから二人は互いの事を話し合った。だが楽しい時間とは早く過ぎるもので、あっという間に半刻が過ぎた。
流石に茶一杯で居座るには少々居心地が悪いと思った二人は、店主に長居を詫びつつ店を後にする。

「有意義なひと時でした。縁があればまた」

「お気をつけて。ご縁あって再会が叶いますれば、今度はうまい酒でも飲みながら語り合いましょう」

然様(さよう)ならば、これにて」

片手をあげると四郎は振り返る事なく立ち去った。実にあっさりした別れだが、みつおは不思議と爽やかな風を感じていた。

(そういえば五郎さん以外では、初めてですね。こちらの友が出来るのは)

なんだかんだ言いながら、あまり他人と接していないなとみつおは思った。それだけ毎日が満ち足りているとも言える。良いのか悪いのか、少し判断がつかなかった。

「ま、いいか。鶴姫さんの所へ行きましょう」

鞄を抱え直すと、みつおは鶴姫のいる病院へ足を向けた。






九月に入っても浅井・朝倉が城に篭ったままだった。
その沈黙は織田に怯えているというより、何かを待っているのでは、と諸将たちが考え始めたころ、突然信長は秀吉に城を任せ、自身は岐阜へ帰国した。
それまでずっと浅井・朝倉包囲を指揮していた信長が、九月も半ば十六日に突然帰国した事を、主だった武将は訝しげに思った。
だが同時に疑念をも抱いた。何か良からぬ情報が入り、それで帰国したのではないかと。
それを示唆するように、一旦解けた包囲網が徐々に再結成されつつあるという情報を、家臣たちは得る。

だがそれだけでは問題にはならない。
前回と違い、退路を断たれた訳ではなく、京が敵の手に落ちる様子もない。そして信長は岐阜に帰国している。この状態で包囲網を形成しても、織田に痛手を負わす事は叶わない。
それでも包囲網が形成されていく理由は何か。その予想を織田方の武将たちが巡らせた時、一つの重大な危機に思い至ってしまった。

「武田が攻める、ですか」

その重大事を危ぶんだ秀長は、単刀直入と言わんばかりに竹中半兵衛へ詰め寄った。

「左様。今、織田包囲網を作り上げても、織田を相手に痛撃できる戦力などありはしない。されど、奴らは一度崩れた包囲網を、もう一度作り上げようとしている。それはなぜか? と考えれば自ずと答えは出よう?」

「ふむ……確かに武田の動きは、ここの所怪しいですからね。そうお考えになるのも、無理はないでしょう」

「失礼ながら、何かお考えがおありで?」

「まさか。ですが若干、楽観視しているのも事実」

竹中半兵衛にとって武田の織田侵攻は既知の話だが、それをおくびにも出さない。
何かを探るように目を細めた秀長だが、すぐに人の良い笑みを浮かべる。

「できれば浅学な某にもわかるよう、ご教示願えまいか」

「そこまで難しい話ではありません。彼らでは軍資金が我々ほど多く用意出来ない、と知っているからです。もし攻めてきても、城に篭って抵抗し続ければ良い。いずれ彼らの軍資金は底をつき、国許へ帰らざるを得なくなります」

「本願寺がおりますよ。彼らが資金提供をすれば、武田は何年も戦えましょうぞ」

「仮に本願寺が資金援助を行っても、兵士たちの心までは買えますまい」

「確かに」

それで表面上は納得した秀長だった。しかしこの頃、竹中半兵衛が静子と秘密の会談を持っていることを彼は知っていた。
自分の兄である秀吉は、戦闘食について話し合っているで納得している。しかし、それならばなぜ、会談を秘密にしているのか、そこが秀長には引っかかっていた。

(そう簡単に口を割るわけはありませんな。まぁ、様子から裏切りとかのお話ではなさそうです。機会があれば知る事もできましょう)

知らないことを知るのは楽しいが、知らないことをあれこれ考えるのも楽しい。秀長はそう思い、これ以上竹中半兵衛へ深く尋ねようと思わなかった。

(しかし、静子殿にはいつも驚かされますな。(さき)の包囲網、相手の狙いを読み切って織田家に有益な家臣はしっかり生き延びさせた手腕は見事の一言。果たして此度の沈黙もまた、何事かの妙案あっての行動やも知れぬ。ふふっ……つまらぬ結末は許しませぬぞ、静子殿)






織田家家臣の面々が思惑と疑惑を抱えている頃、信玄はほぼ全ての家臣を呼び寄せていた。その中には後の武田四天王と呼ばれた馬場信房や山県昌景の姿もあった。

「我らまで招集とは、御屋形様は本気のご様子」

「織田の小僧を捻り潰すのに、我らが全軍でかかる必要もないが、坊主どもが煩いのであろう」

「そういえば秋山殿、そなたは織田が近江へ目を向けている間、奴の支城を攻めているとの話。どのような様子じゃ?」

「これ、いくら御屋形様の屋敷とはいえ、大きな声で話し合う内容ではなかろう」

各自が自由に喋っていたが、信玄が入ってきた途端、会話はピタリと止まった。信玄はいつもの様に座ると、開口一番こう言った。

「神無月(十月)の初めより織田領を攻める」

言い終えると同時、家臣一同が平伏する。既に必要な話し合いは終わっていた。後はもう準備を進めて織田領へ侵攻するのみゆえ、軍議はあっさりと終わった。

「まさに神速。だが織田の小僧程度、いたずらに軍議を重ねる必要もなし」

「うむ。御屋形様の棋譜通りに動けば問題ない。既に勝利は確定した、後は詰め将棋を進めるのみ」

家康と信長を討ち取る算段は出来ていた。幾分傲慢にも見えるが、彼らは兵法の「勝軍は勝利を得てから開戦する」を実践しているに過ぎない。
いくさを始める前から勝利している状態を作っておけば、どう転ぼうと負けはない。
それは誤りではない。最初から詰んだ状態の盤面ならば、戦端を開いた瞬間勝利は確定する。ただし、信玄を除いて彼らは大きな見落としをしている。
自身らが「詰んだ盤面」を得ようとするなら、当然相手も「より早く相手を詰ませた盤面」を得ようとするという事に。

「各々、ぬかりなく、いくさの準備をしておけ」

家臣に釘を刺す意味で、信玄は若干強めの口調で警告を口にした。

一方、岐阜へ戻った信長は、各方面の情報収集を密に行っていた。事前に知っていたとはいえ、武田が攻めてくる、という事に彼は若干緊張していた。
既に支城の一つ、岩村城いわむらじょうで、武田と小競り合いが起こっているとの情報を彼は得ている。明らかに挑発行為、だが信長には援軍を送る余裕はない。
今、ここで援軍を送れば対武田戦で必要な兵力が更に減る。とはいえ援軍を送らないと、他の者も武田へなびいてしまう。

(分かっておる。これこそが静子の作戦だと……だが、やはり重苦しい。このような気持ちは今川の上洛の報を聞いて以来よ)

既に新型火縄銃、もはや火縄銃にあらず、別系統の銃にまで進化した銃が、数百丁製造されているとの報は受けている。
それでも、信長は不安を払拭できずにいた。例の銃は強い、だがそれだけで武田を降せるのかを。信長は疑問に思ってはいたが、それを静子に問いはしなかった。

何せ「全てを任せる」との宣言に彼女は「出来る」と答えた。その問いを投げかければ自分は静子を信用していない、と語るも同然だからだ。
それで静子との間がどうなるわけではないが、信長の全権委任はそれほど軽い物ではない。
一度置いた信を疑うは(かなえ)軽重(けいちょう)を問う(実力者の実力や能力を疑うこと)愚行、と彼は考えていた。

(いず)れにせよ、わしがどれだけ考えようとも、武田を屠り得る策が見いだせなかったのだ。あの銃と静子の作戦、それから奴のいった「新しい技術」に賭けるしかない。前の包囲網でも、奴は見事にやり遂げた。ここは信じて待つしかない)

その時、自由気ままに寝ているターキッシュアンゴラの虎次郎が信長の視界に入る。少しだけ虎次郎を見て、彼は顔を緩めた。

(そうじゃ、焦ろうが何も解決しない。静子はわしよりも、否、織田家の誰よりも一番危険な所に飛び込むのだ。奴が命をかけておるのに、わしが右往左往してどうする。いつもの様に、どっしりと構えておれば良いのだ)

信長は虎次郎の背中を撫でる。気持ちいいと言わんばかりに、虎次郎は顔を緩ませる。目を細めてゴロゴロしながらも、もっと撫でろと催促する。
顎の下や頭なども撫でると、虎次郎はもはやふにゃふにゃ状態だった。その頃には信長の不安は霧散していた。

「うむ。最初は獣なぞ、と思っていたが、猫を撫でるのは心地良いの。なんだったか……確か心の不安を、静子はすとれす? と言っておったな。良いぞ、心が軽くなる」

猫を可愛がる信長だが、彼だけが特別という訳ではない。
織田家は城や砦の中にある食料庫付近に猫を放し飼いにしている。これは食料庫にある食料を狙うネズミ対策だ。
古くから日本、否、世界の為政者たちは、食料庫に入り込むネズミに頭を悩ませていた。そのネズミ対策でもっとも効率の良い方法が猫の放し飼いである。
一説には紀元前4000年前から、イエネコの祖先と言われているリビアヤマネコを食料庫の周りに放し飼いにし、他の場所へ食料を運ぶ船にも同乗させていたと言われている。

猫はネズミ狩りの能力が高く、また食料庫にある食料を食い荒らしたりしない。生後二ヶ月から適切な訓練をすれば人に敵意を向ける事もない。
オスよりメスが優遇されるが、ネコ科はメスが狩りを行う動物だからだ。注意すべき点は親がネズミ狩りの経験を積んでいる事と、子は大きくなるまで親元から放さない事だ。

ネコは基本的に親から子へと狩りの手法を受け継ぐ。前述の通り母ネコが子ネコを育てる過程で、狩りの手法を見せて覚えさせるのだ。
子育て期の母ネコは特に優秀なハンターへと変貌する。これは母性本能の強い母ネコが、巣で己の帰りを待つ我が子のために少しでも多くの獲物を捕らえようとするからだ。
現代でも飼いネコが飼い主に己が狩ったネズミや昆虫の死骸を持ってくるのは、飼い主を狩りが出来ない未熟な子ネコだと考え、食料を分け与えようとしていると考えられている。

織田家でも食料庫を狙うネズミ対策を、ネコを放し飼いにする事で解決していた。ネズミ対策に人を雇うよりも安く、間者などの心配をする必要もない。
餌も狩猟するネズミだけでも問題なく、下手に人が手を加えて狩猟本能を鈍らせる訳にはいかない。無論、狩猟の成果が悪ければ餌を与えもするのだが。

「はははっ、愛いやつめ」

手に抱きついてすりすりする虎次郎を見て、信長の頬が自然と緩む。しかし、虎次郎を可愛がる事に集中しすぎて、彼は自分に向けられた視線に気付かなかった。
信長は己に絡みつく視線に気付くと、素早く虎次郎を抱えて間合いをとる。後ろへ下がると同時に小刀を懐から取り出して投げようとする。
だが、視線の主に気付いた所で、信長は手の動きを止めた。

「何をしておる」

先ほどの緊迫した雰囲気は霧散し、信長の表情に呆れが浮かぶ。入り口が少し開けられ、そこから顔を覗かせている人物は濃姫だった。
彼女は小さく笑みを浮かべると、入り口を静かにあける。

「殿が愛しい娘を手籠めにでもしておるのかと思い、こうして終わるのを待っていたのですよ」

「馬鹿者が。そんな事、毛頭思っておらぬであろう」

濃姫の態度から、堅物の信長が虎次郎と戯れているのを楽しんで眺めていたと推測出来る。
忌々しいと思った信長だが、無様を晒したのは自分ゆえ、今さら何を言おうとも恥の上塗りに過ぎないと考え口を噤む。

「それで、何用だ」

虎次郎を肩に乗せている間に隣へ座った濃姫に、信長は問いを投げる。常識を超えた自由を満喫している濃姫が、理由もなく信長の許を訪れる事はない。

「つまらぬからです」

「何?」

「一大事というのに、殿は全くお変わりがありません。それこそ鈍いぐらい動じておりませぬ。少しは右往左往して、妾を楽しませて下さい」

「貴様の悪趣味については、言うても詮無きこととして。今さら右往左往して何になる。すでに賽は投げられた。後は結果が出るのを待つのみだ」

「おや、毎夜あれほど悩んでおられた殿が、ここに来て妙案でも浮かんだのでしょうか」

「知りたくば自分で答えを見つけよ」

「ふふっ、確かに答えが簡単に分かってはつまらぬもの。欠片を一つ見つけてはあれこれ考えるのも一興」

およそ夫婦らしからぬ会話だが、今回が特別ではなく信長と濃姫の会話は基本今回のような感じだ。余人には理解出来ぬ心情ゆえ、他の国では夫婦仲は最悪と思われていた。
それゆえ濃姫に近づく間者は多いが、それが間違った選択肢である事を、間者は身をもって知る。

「とはいえ、足懸かりは簡単に分かります。が、それは口にせず、妾の胸の内に留めておきましょう。殿、妾の考えを知りたくば、自分で答えを見つけて下さい」

「先ほどの意趣返しか。ふん、馬鹿者が。貴様の考えなどお見通しよ。何年、貴様と連れ添ったと思っておる」

「おや、これは嬉しい話です。殿はそれほど妾を思うてくれておられるのですね」

「好きに考えよ」

「では好きに考えさせて頂きます。さて、それでは殿、妾は静子の許へ向かいます。もうすぐ旨いものが多く手に入る時期。まつやねねも誘って、食を堪能して参ります」

暦では秋に入り、米を含む多くの食材が集まる時期だ。静子軍は職業軍人なので田畑の仕事は関係ないが、百姓時代が懐かしいのか近くの村の収穫を手伝う事はある。
静子自身も重鎮に上り詰めていようが、田畑の仕事は行っている。特に東南アジア諸国の果実は今、静子の許にしか存在していない。
そして最近、マンゴーに続きバナナという作物を収穫し始めている情報が濃姫の許に届いた。

「……好きにいたせ」

信長は濃姫の狙いがバナナにある事を察したが、その質問を口にはしなかった。






バナナは栽培時期によって収穫時期が異なる。また、現代の種なしバナナと違い、戦国時代には原種とも言える種ありバナナしかない。
現代日本の農林水産省による定義では、バナナは果樹に分類される。農林水産省の基準では一年草を野菜、多年草を果樹(かじゅ)として定義しているためだ。
この定義に従えば流通上は果物に分類されているスイカやメロン等も一年生植物(いちねんせいしょくぶつ)であり、野菜になってしまうのだ。
野菜の中でも特別な位置づけとして「主食」があり、日本では米が指定されているが、欧米では米は野菜に分類される。
何を野菜にし、何を果実とするかは地域によって定義が異なる。

「バナナって言っても、種が堅い上に多くて食べにくい。おまけに現代の品種ほど甘くない」

現代のバナナは糖分が高いが、野生のバナナは言うほど甘くない。
中にはマッシュポテトに近い食味を呈する品種もあり、果実というより焼いたり揚げたりと料理の材料に使われる場合がある。
また、一見すると果実以外に利用できる部位が無さそうに思えるバナナだが、バナナを収穫した後の茎の部分から丈夫な繊維を得ることができる。
この繊維は性質が麻と酷似しており、代用品として様々な製品に利用されている。
バナナの茎から繊維を取り出す解繊(かいせん)工程において、化学薬品による処理が不要かつ、手間が掛からない点も評価されている。
現代ではその栽培量から産業廃棄物扱いのバナナの茎だが、戦国時代の日本では静子のところでのみ少量生産されているに過ぎない。
したがって別手間をかけてまで繊維を取る必要はなく、気候を選ばない麻で充分事足りる。

他にもパイナップルの葉からも繊維を取ることができる。しかし多くの労力を必要とする割に、得られる繊維量が少なく生産性が低い傾向にある。
パイナップルの葉からとれる繊維で作られる布はフィリピンに於いてピーニャと呼ばれ、羽衣のように薄く繊細な織物として伝えられている。
ピーニャの生産性が低い一因は葉脈繊維であるため切れ易く、必要な長さに織り上げるには高度な技術が必要とされるからだと言われている。
尚、現代では扱い易い絹糸を経糸(たていと)に用いたシルクピーニャが開発され、生産性と需要が上がってきている。

「つぼみも食べてみたけど、割と普通だったかなぁ」

バナナは紫の花が咲き、それが後退した後、上から順に果実へと置き変わる。しかし、先端に大きな雄しべが残り、この雄しべは果実に変わらないため、適切な時期に切り落とされる。
放置してもひとりでに地面へ落ちるが、切り落とす事で果実へより多くの養分が送られる。また、日本では馴染みがないが、東南アジアではつぼみも野菜として扱われ食されている。
バナナのつぼみは、タケノコのように外皮を剥がして、中の部分だけを食す。食感はタケノコと似ているが、生のままでは少し食べづらく、衛生上の観点からも湯通しした方がよい。
東南アジアではゲーン・フアプリー(名前の通りバナナのつぼみスープ)が定番だ。

「まぁ放置して腐らせるのももったいないし、バナナを収穫して帰ろう」

虫がつかないように袋を被せられたバナナから、熟して食べられるものを選別して収穫する。現代では熟す前に収穫し、輸送中に熟させる方法が一般的だが、商品ではないので熟すまで待てる。
種からでも栽培出来るが、バナナは根元から出る吸芽を株分けして増やす方が良い。とはいえ、種と吸芽で成長スピードや収穫時期は殆ど変わらない。
単純に調理に使われる事が多いので、種はあまり期待していないだけだ。
ただ株分けではクローンが増えるだけであり、品種改良をするためには種を採取する必要がある。このため優良個体の果実は食用に回されない。
種と吸芽、両方で栽培して人間にとって有用な遺伝形質を固定していくのだ。この点は他の作物と変わらない。

「よし戻ろう」

バナナが入ったかごを抱えて静子はビニールハウスを出る。しかし、家に戻る途中、見覚えのある駕籠が見えた。と同時に静子は回れ右をする。

「これ、逃げるとはいかな理由ぞ」

だが回れ右をした瞬間、背後から両肩を捕まれた。いつの間に近づいて背後に回ったのか、静子は全く分からなかった。だが、そんな事をする人間は一人しか知らない。

「逃げた訳ではないですよー。準備がいるかなーと思っただけですよー」

若干、棒読みで静子は言い訳を口にする。言い訳は通じなかったようで、返答の代わりに頬を引っ張られた。

「そちらには台所も倉もないぞえ。妾を避けるとは寂しいぞ」

「いいひゃら、はにゃひしてくだひゃい」

「おお、そうじゃった。で、かごのものはなんぞえ?」

静子の頬を引っ張るのをやめた直後、濃姫はめざとく静子がかごを持っている事に気付く。中は見たこともない形をしたもので、濃姫はすぐに興味を引かれた。

「南蛮の果実バナナですよ。以前、伴天連より献上されて、お館様もお召し上がりになったと思いますが」

記録として残っている中では、日本で最初にバナナを食べたのが信長とされている。
もしかしたら、それ以前にバナナを食べた日本人がいる可能性はあるが、記録にないものは考慮されない。
現代の種なしバナナは突然変異で生まれたものゆえ、当時信長が食べたのは種がつまっているバナナだと考えられている。

「おお、そうじゃった。なにやら種が詰まって食べにくい、と愚痴をこぼしておられたな」

「まぁそうですよね……どう見ても、そのまま食べるものじゃないですよね」

原種バナナには硬い種が詰まっている。これを種なしバナナにするには、原種バナナが「二倍体」(染色体の数が二本ずつになっている)状態から「三倍体」(染色体の数が三本ずつになっている)状態に変化させる必要がある。
一般的に染色体が三倍体へ変異すると細胞分裂が不規則になる。それにより種が出来にくい性質を持つようになる。場合によっては成熟する事なく、成長し続ける事もある。

現代で作物に限らず魚なども三倍体にする方法が盛んに研究されている。飛騨大天女魚(ひだおおあまご)など一部では方法が確立され実用化されている。
その理由は性成熟をしないため産卵に栄養を取られなくなり、肉質も変化しないまま成長し続けるためだ。
他にもいくつか理由はあるものの、三倍体の動植物のもっともな利点は、人間が食用するのに都合が良く、子孫を残せないため生態系にダメージを与えない点だ。
(ただし三倍体魚の自然水域への放流は、水産庁の要綱(ようこう)で禁じられている)

「魚のように種を消す事は不可能かえ?」

「アマゴの事ですか? あれは卵をぬるま湯に付けるだけで、環境変化を起こせましたがバナナはなんとも……」

アマゴの受精卵を通常の環境で育てれば、二倍体の染色体を持つアマゴが誕生する。しかし、受精卵をぬるま湯につけるという環境変化を起こせば、三倍体のアマゴが誕生する。
人間からすれば水とぬるま湯にさしたる違いはないが、魚からすれば温かい水という時点で大きな環境変化が起きているのだ。
それによって三倍体のアマゴが誕生する。通常一年で産卵し寿命を迎えるアマゴが、三倍体になると産卵せず数年成長し続ける。

染色体の変化、というと遺伝子操作をしていると思われがちだ。
しかし実際はぬるま湯につける、通常の環境にはない水圧をかけるなど、動植物に環境変化だと認識させて、本来排除される染色体を保持させて三倍体にしているだけだ。
また「スーパー男性症候群」や「スーパー女性症候群」、「クラインフェルター症候群」など人間でも三倍体のような染色体の突然変異は起きている。

「アマゴは鮭のついででしたし、三倍体にした方が利益も良いですからね」

「最初、あれがアマゴと言われた時は、妾をからかっておるのかと思うたぞ」

三倍体アマゴは成長具合如何によって一キロまでにも成長する。平均百グラムの二倍体アマゴに比べれば、別の魚と思われても不思議ではない。
実際、六百グラムの三倍体アマゴを出した時、静子は信長から拳骨を頂戴するところだった。

「ちょっとした環境の変化で、本来とは違った性質を持つのですから、生物って不思議ですよね」

「それっぽい事を語って、妾の質問をはぐらかすでない」

「バレましたか。バナナでも可能ですが、植物は割と難しいのですよね。だから三倍体に出来るとは思いますが、いつ出来るかは確約出来ません」

現代では二倍体の種なしバナナも存在するが、それはたゆまぬ努力の結晶だ。そう簡単に三倍体、二倍体の種なしバナナが出来れば苦労はしない。

現代では種なしスイカなども出回っているが、アマゴや鮎より手間がかかる。まず通常のスイカを栽培し、芽生えの時期にコルヒチンなどの薬品を芽にかける。
これをそのまま育てると四倍体のスイカとなる。翌年、四倍体のスイカから採取した種をまき、二倍体のスイカと受粉させて育てる。
育てたスイカから種子を採取すると、その種子は三倍体の種子となっている。それを育てると三倍体、つまり種なしスイカが出来上がる。単純計算して三年もかかる寸法だ。
その間の手間暇を考えれば、種なしスイカが市場に多く出回らないのも無理はない。

「期待せず待っておこう。まずは静子の持っているバナナとやらを堪能しよう」

「(あ、やっぱり食べるんだ)では、どうぞ」

静子はかごに入っているバナナから1房を選び、一番端のバナナを一本千切る。濃姫に差し出すと、彼女はバナナを受け取って皮をむいた。しばし実を眺めた後、一口食べる。

「甘みの中に、ほのかな酸味がある。それが甘さを引き立てるのぅ。種の処分が少し面倒じゃが」

種ありバナナはアケビ同様、種ごと口に入れて可食部と種を、口の中で分離する。少々疲れる食べ方だが、種が硬いのでかみ砕くよりは楽だ。
種をかみ砕くほど濃姫のあごは強くない。必然的に食べては可食部と種を口の中で分け、種をはき出した後、可食部を堪能していた。

「殿が食べにくいと仰ったのも納得じゃ」

そんな事を言いながらも、バナナを三本平らげた濃姫だった。
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