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戦国小町苦労譚 作者:夾竹桃

元亀三年 決戦、三方ヶ原の戦い

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千五百七十二年 八月中旬

七月十九日、信長はほぼ全ての家臣を集めて信忠(奇妙丸)の具足始(ぐそくはじめ)の儀を執り行った。
別名鎧着初よろいきぞめとも言われ、武家の男子が初めて鎧を着用する儀式の事だ。通常は元服と重なる事が多いが正式な決まりはなく、奇妙丸のように元服前でも行う事がある。
反対に武田義信のように、十三歳で元服してから二年後の十五歳で執り行うケースもある。
ゆえに具足始と元服は同一視されがちだが別物である。

具足始が終われば、次は小谷城にこもる浅井久政を討つべく、信長はおよそ5万もの軍勢を率いて出陣した。
北近江に到着し、信忠の初陣式を執り行った。これで信忠に関する一連の儀式は終了したことになる。

「この情勢において、よくぞ名だたる武将たちが(つど)ってくれた」

信長が初陣式に際して皆へと声を掛ける。

「我ら臣下一同、堅く結束し、奇妙様を守り通し、浅井家を討ち果たしてご覧にいれます」

未だ元服していないため、幼名の奇妙で呼ばれているが、甲冑姿は既に一端の武将であった。
いつもは厳しい表情の信長も、後継者である奇妙丸の初陣式が穏やかに行われた事が嬉しかったのか、幾分表情が和らいでいた。

「みな、呑むがよい」

信長の言葉で武将たちは祝い酒を口にする。これから浅井攻めになるが、彼らに気負いは見られない。もはや浅井家にかつての力はなく、今にも吹き消される風前の灯火となっていた。
朝倉もこれまでの逃げ姿勢が災いし、織田家家臣内では名を馳せた名家ではなく、ただの腰抜けにまで評価が下がっていた。
信長は敵対する国人たちと本願寺・延暦寺による包囲網も解け、浅井攻めに集中できると考えていた。
無論、第二次包囲網が着々と形成されている事は理解している。それゆえ、浅井と朝倉を暫く動けないほどに叩いておく必要があった。

「お館様、諸国より祝いの品が届いております」

小姓から贈答品の目録を受け取ると、信長はそれに目を通す。全て見終えると信長は小さく笑った。

「顕如も武田も食えぬ狸よの」

包囲網で押しつぶそうとしている相手に祝儀を送ってみせる。それはいつでも取り返せるという自信の表れか、はたまた外交儀礼と政治姿勢は別だと言うことか、ともかく信長にとっては面白い話だった。

(高見より睥睨している者の足場を崩し、こちらが見下ろしてやる、か。なるほど、確かにお濃の言う事も一理ある。全てが終わった時、奴らの顔が見物よ)

「お館様、何か不都合でもございましょうか?」

祝儀の目録にある名前を眺めて、信長があくどい顔で笑みを浮かべている事が気になった堀が、おそるおそる質問を口にする。

「顕如も武田も食えぬ狸よの」

対して信長は紙を丸めて堀へと投げ渡すと、先ほどと同じ言葉を口にした。丸められた紙を受け取った堀だが、信長の真意が分からず困惑する。
が、それに対して信長が何か言葉を口にする事はなかった。

「……こんなに大きい盃なのに底に僅かに溜まってる程度しかお酒がないんじゃ味気ないよね」

一方、信忠の初陣式にいた静子は、盃に雀の涙ほど注がれた酒を飲んでいた。
禁酒令が未だ解けない彼女は、形上は酒を出される場でも、酒ではなく水を出されていた。しかし水盃は縁起が悪いため、絶対に酔わない量に制限されていることを静子は知らない。
信長がかたくなに酒を呑ませない理由が若干気になったが、特に酒が呑みたい理由もないゆえ、気になるだけに留まっていた。

「ふふっ、しかし包囲網も解けて良かったのぅ」

「左様。でなければこれほど穏やかに行えなかったであろう」

「だが油断は禁物。浅井も朝倉も未だ健在。気を緩めれば一気に領土を失う」

武将たちの会話が静子の耳に届く。現状を見る限り、織田家に危機は迫っていないゆえ、彼らの声が幾分緊張感にかけるのは当然の事だ。
むしろこの緩やかな表情と口調の方が、各方面の間者を騙せてよいとさえ思った。

(そろそろ真剣に間者の目星をつけておかないとなぁ。でも私がやっても無理だろうし……誰が適任だろうか)

足満が一番適任だが、軍事方面は彼に丸投げしているだけに足満の負担が高くなりすぎないか、と静子は懸念していた。
足満本人は無理ならば無理と口にする気性であるため、気遣いは必要ないのだが、静子にとってはかけがえのない家族であり、彼に負荷が集中する事はなるべく避けたいという想いがあった。

(後で相談するか。それで今後の方針を決めよう)

結論を出した静子は、後は初陣式が終わるのを待つだけとなった。初陣式が終われば、彼女は浅井攻めに参加、ではなく尾張に帰還する必要がある。
もちろん武田戦の為の準備に取りかかるからだ。既に幾つかの物資が彼女の蔵に集まっていた。
中には新型火縄銃の部品まで入っていたが、それらは慶次たちにすら秘密にしていた。荷物の差配をする彩も、中身が何かまでは把握していない。
何しろ傍目には鉄の棒や木の型にしか見えないからだ。それらを製造している者ですら、最終的な形が何になるかを知らされていない。

(油断は禁物だけど流石に何百年もかけて編み出した技術や研究の末に洗練された到達点だからね。その足がかりすら知らない人達が見ても、何がどういうものか分からないでしょう)

そもそもの話として火縄銃を機能ごとに部品に分解し、それぞれ部品単位で大量に製造する、という考えすら異端過ぎて戦国時代の人間は誰も思いつかない事だった。
製造技術は秘中の秘、構造も簡単には知られていない時代だ。完成形が見つからなければ、それは何かの道具程度だと思われやすい。

(間者に教養があると困る人が多いのよね。だからこそ、簡単な事に思い至れないのだけど)

そんな事を思いながら、静子は盃に入っている酒を飲み干す。酒とは言え僅かに口を湿らせる程度では飲んだ気にもならない。

ぼんやりしながら考え事をしていると、祝いの品が運び込まれていた。敵対している顕如や武田信玄の六女・松姫、徳川などなど、各方面から色々なものが贈られていた。
贈り物は国内・国外問わず非常に高価な品々だが、贈られた本人である奇妙丸はあまり喜んではいなかった。

「奇妙、腹の中は見せるな」

「父上……はっ、申し訳ございません」

敵からの施しと思ったのだろうか、まだまだ若いなと側で見ていた信長が苦言を呈する。指摘されて理解が及んだのか、それ以降奇妙丸は心中を表情に出さなかった。






初陣式が終わり、いよいよ浅井攻めという状況になった頃、静子は全軍を集めて城攻め、ではなく尾張帰還を信長より命じられた。
理由は東側がきな臭いので抑え役になれ、である。他の武将から見れば武功を挙げられる機会を奪われている状況だが、静子は特に何も言わずそのまま帰り支度に取り掛かる。
ただし、虎御前山に築城予定があるため、後方支援部隊の内、黒鍬衆と一部の部隊のみ残すこととなった。

「あー、何もせず帰宅とか気持ちが萎える」

「仕方なかろう。織田の殿様は俺たちを使いたいが、俺たちばっかり使って他の者の武功の場を奪うのも問題だからな」

「わかるけどさ。せっかく暴れられると思ったのに、抑え役とか気力がわかん」

不平不満を口にする長可を慶次が慰める。今さら何を言っても決定は覆らないのだが、彼としては口に出す事がストレス発散なのだろう、静子は長可に愚痴をとことん言わせる事にした。
こういう時、女より男の方が気持ちの理解が良いという事もある。

「さって、準備が終わったら尾張に帰還。その後、私らはいつもの様に訓練。代わり映えしない日々になるけど、この訓練がいつか役立つので頑張ってやっていきましょう」

「はっ!」

長可と慶次以外の武将格の面々が返事をする。静子軍も宇佐山城の戦いからだいぶ回復し、今では万を数える軍となった。
とはいえ静子本人が動かす軍は2から3000程度で、長可、慶次、才蔵、高虎、足満の5人がそれぞれ1、2000の兵を動かしている。
それに後方支援部隊を足せば、他の有力武将と同等の勢力となる。信長が武功の場を他に譲るよう言ったのも納得できる勢力だ。

「よぅ、静子。見送りに来てやったぞ」

会議が終わると同時、静子の元に奇妙丸がやってきた。

「これは奇妙様。お見送りとは恐れ入ります。しかし、伴を連れずとは不用心でございます」

「やめろ、畏まるな。お前にそう言われても……その、なんだ。気味が悪い」

「酷い言われようだ。でも護衛ぐらいつけて来なさい。うちから何人か出すから、帰りは護衛をつけて帰りなさい」

言うやいなや静子は玄朗に護衛の兵を何人か見繕うよう指示した。それを聞いていた奇妙丸はげんなりした顔をする。

「護衛とか堅苦しい。俺はゆっくりしたいぞ」

「お館様の後継者に初陣で倒れられでもしたら、お館様はもちろんの事、周りの武将も不甲斐ないと(そし)られ不名誉をかぶるのよ?」

初陣式は派手に行われたゆえ、信長に敵対する面々が奇妙丸の暗殺を企てても不思議ではない。
何しろ奇妙丸は生まれた時から、信長の後継者になる事が内定していたが、今日初めて確定したのだ。
後継者を失う事は、戦国時代において死活問題になる。いくら信長が子沢山でも、言っては悪いが奇妙丸の代わりが務まる人間はいない。

「わーかった、わーかった。ったく、そこまで俺の腕は信用ないかね。この甲冑、お前の新技術(・・・・・・)が導入されているのだろう?」

「……まぁそうだけどね。でも、過信は禁物だよ。死ぬときはほんっとにあっさり死ぬからね」

史実通りならば、奇妙丸は本能寺の変まで生きる。しかし、今の歴史は既に静子が学んだ歴史から変わってきている。
ふとしたきっかけで本来死ぬはずだった人が生き、生きるはずの人が死ぬ場合もあり得る。
それを考えれば奇妙丸が好き勝手動くのも、静子にとっては容易に看過出来ることではなかった。

「ま、俺も初陣で間抜けに死にたくはない。ここは静子の助言を聞き入れよう」

珍しく静子が念を押す事が気になり、奇妙丸は静子の意見を聞き入れた。彼はその後、自由気ままな態度をやめ、玄朗が連れてきた護衛に囲まれて本陣へと戻っていった。

「さて、こちらは尾張へ戻るよ」

「その前に、少しばかりお時間を頂けませんか、静子殿」

今度こそ帰宅、という所でまた邪魔が入った。呆れ気味に声のした方へ顔を向けると、そこにはにっこり笑顔の竹中半兵衛がいた。

「少しばかり気に掛かることがございまして」

静子の視線を気にせず、竹中半兵衛は手に持っている紙をひらひらさせながら呟いた。






竹中半兵衛と「話し合い」をしたため、静子は尾張への帰還が半日ほど遅れた。しかし、今は大きく目立って武田や本願寺が動いていないため、特に影響はなかった。

七月二十一日、信長は準備が整うと柴田や佐久間、丹羽、秀吉に雲雀山(ひばりやま)虎御前山(とらごぜやま)を攻めるよう命じる。彼らは町を焼き払い、火のように攻め立てた。
阿閉貞征が守る山本山城にも兵を差し向けたが、すでに阿閉貞征は織田側に内通しているため、これは内通を悟られないための欺瞞工作に過ぎなかった。

二十三、二十四日には越前との国境付近を中心に、一向一揆を企てた寺社や村々をすべて焼き払った。この戦いで近隣の住民や僧が、織田軍によって討ち取られる。
同時に光秀が中心となり、琵琶湖方面から攻め上がり一向宗たちの増援を阻む。

順調に敵勢力を討ち取っていった信長は、二十七日に虎御前山へ築城を命じる。手早く周辺の探索を済ませると、黒鍬衆たちが虎御前山に入り築城作業を始める。
一日経つごとに城が形作られていく様を見ても、久政には指を咥えて見守ることしか出来なかった。
すでに織田軍を追い払える兵力はなく、攻めても返り討ちにされるのが目に見えているからだ。
他勢力とも分断されて孤立状態の彼は、ここに至ってはやむなしと判断し、朝倉に偽の情報を流して援軍要請をした。

信長は長島一向一揆の蜂起で危機に陥っている、という久政の偽情報に騙された朝倉義景は自ら1万5000の軍を率いて越前を出発する。
しかし、近江に到着し織田軍が健在な事を知るや否や、大嶽山(おおずくやま)に陣をはってそのまま引きこもってしまった。

彼らが時間を浪費している間にも、虎御前山の築城は順調に進んでいた。幾つかの施設が完成していないが、堅牢な防御壁など主要な設備は既に機能していた。
手早く、されど着実に仕上げていく黒鍬衆の手際を見て信長はご満悦だ。一方、浅井も朝倉も付け入る隙が見当たらない事に地団駄を踏む。

睨み合いが続く中、朝倉側に動きが出た。八月に入っても築城の妨害・阻止をしない朝倉義景を見限ったのか、朝倉家家臣の前波長俊父子が織田へ寝返る。
前波長俊が寝返った翌日、日和見な態度の朝倉義景に業を煮やしたのか、それとも寝返った前波長俊を使って調略したのか、富田長繁や戸田与次、毛屋猪介など朝倉家家臣たちが次々と織田方へ寝返った。

「こうも寝返りが多くなると、面白みがないものですな、父上」

初陣式以降、目立った出撃はないものの、予定通りの快進撃を続けている事に奇妙丸は気を良くしていた。しかし、信長は奇妙丸の発言を聞いて小さく笑みを浮かべた。

「若いな、奇妙。相手が追い詰められてた時こそ危ういのだ、窮鼠は猫を噛むものよ」

「しかし、朝倉は引きこもったまま、浅井も目立った動きは見せません。一方的な勝利と考えてもよろしいのではないでしょうか」

「だからこそじゃ」

信長の言葉の意味がわからず、奇妙丸は首を傾げる。この辺りの勘所は実戦経験を積まねば磨かれぬか、と信長は苦笑する。

「浅井も朝倉も逃げる兵は出よう。だが、残った兵はもはや背水の陣、死兵となりて我らに襲いかかる。死兵の強さは貴様も知っていよう。かつて、我が軍にも死兵となり戦った者たちがいるのだからな」

「あ……」

そこでようやく奇妙丸は信長の真意に気付く。相手を不用意に追い詰めすぎれば、ただ前方のみに活路を見出し必死になるため手痛いしっぺ返しを食らうこともある。
古今東西、死兵というものは味方であれば頼もしいが、敵となれば厄介極まりない存在だ。

「そうじゃ。朝倉や浅井の兵が死兵となりて、我らに襲いかかる可能性がある。敵が少なくなればなるほど、敵を恐れるのじゃ。その恐れは臆病者の証ではない。その恐れが勝利をもたらすものになる」

「お父上の深謀遠慮には恐れ入ります、浅学非才な己を恥じて一層励みまする」

「よい、間違いは誰にでもある。大事なのは間違いを認め、己の未熟さを知り、それを糧に成長する事じゃ。己の失態を隠し、あまつさえ他人に押し付けるような輩は、一生かかっても成長せん。そんな奴は早々に斬り捨てる方がよい」

そこで話を打ち切ると、信長は武将たちを集め、彼らに宣言した。

「しばし睨み合いが続くが心配するな。すぐに機会はやってくる」






八月に入って少し状況が動いたが、相変わらず織田と浅井・朝倉の間は膠着状態に陥っていた。
信長は何度か朝倉に決戦を申し込むが、義景は全く応じなかった。その臆病っぷりを揶揄しながら、信長は秀吉を残して横山城に移動する。
秀吉軍のみになっても、相変わらず浅井・朝倉に動きはない。

「やれやれ、浅井も朝倉も、引きこもってばかりでつまらぬ事です」

定時報告を受け取った秀長が、肩をすくめながらぼやく。単なる睨み合いも飽きてきたと彼は思っていた。無論、そう思っているのは彼だけではない。

「お館様は何と」

「変わらず監視だけに留め、注意を怠るな、ですよ。どうして、一気に攻め落とさないのでしょうかねぇ」

同じく定時報告を受けた竹中半兵衛を見ながら、秀長は腕を組む。何かを聞きたがっている風に見えたが、竹中半兵衛はそれに対して何も答えなかった。
信長としてはこれから起こる大事を前に、可能な限り兵を減らしたくなかった。それがわかっているからこそ、竹中半兵衛はあえて消極的に見える作戦を取り続けた。

「こちらが弱気を見せれば、彼らは侮って出てくると思ったのですが……思いの外、朝倉は周りが見えていないようです」

「ははっ、これは手厳しい。ですが、彼の弱腰のおかげで、こちらに寝返った人間は何人もいる。ここは一つ、ずっとそのままでいてほしいものですな。無論、武将としての手柄は立てたい所ですが」

「お気持ちはよくわかります。ですがーーーー」

竹中半兵衛が何か言おうとした時、荒々しい足音が彼の耳に届く。彼だけではない、秀長の方も足音に気付いた。
今いる場所で、誰かの耳に届くほど荒い足音を立てられる人間は一人だ。

「今戻ったぞー。全く、挨拶まわりは疲れるのぅ」

「おかえりですぞ、兄者」

秀吉である。彼は適当な場所に腰を下ろすと、小姓へ茶を持ってくるよう命じた。

「で、浅井・朝倉に動きはなしか?」

問わずともわかっているのだろうか、秀吉は苦笑しながら質問する。その問いに秀長が頷いて答えた。それを見た秀吉はこれみよがしにため息を吐く。

「浅井はわかるが、朝倉は何しに来たって話だ。あいつら、このまま引きこもって、冬になれば越前へ戻るつもりか?」

「その可能性が一番高いかと。冬になれば道が雪で塞がりますからね。そうなれば、彼らは雪解けを迎えるまで帰国できなくなります」

「やっておれんのぅ。お、ご苦労。茶をおいたら下がってよいぞ」

話の途中で小姓が茶を持ってきた。秀吉はお膳から器を手に取ると、そのまま一口飲む。冷えているとは言い難いが、あちこち歩き回った体にはぬるい茶でも馳走だった。

「ま、お館様は監視だけは怠るな、と仰ったのだ。我々は、その命令に従って動くのみ。体がなまるかもしれぬが、それはそれ。適度に運動をするようにしておけ」

「承知しました」

「承知した、兄者」

「よぅし、話はこれでお終いだ。さて、今日の夕餉は何かの。久々に静子の台所衆がおるのだ。期待してしまうのも、無理はなかろう?」

秀吉の言葉に、秀長と竹中半兵衛は苦笑するしかなかった。






一方、浅井・朝倉攻めから外された静子は、尾張に帰国すると軍を解散させた。八月は暑い時期なので、訓練自体は緩やかだが軽いとは言い難い。
しかし、慶次や長可たち武将格は別だ。彼らは責任ある立場なので、常に厳しい訓練を受けておく必要がある。だが内容は訓練というよりシゴキに近かった。
特に長可は森可成が直接稽古をつけていた。その凄まじさは見ている方が不安になるほどだった。

「なんだ、そのへっぴり腰は! そんなもので敵を討ち取れると思っているのか!!」

「し、死ぬ……いや、死んでたまるか!」

「脇が甘い!」

「ぐえっ!」

必死で食らいつく長可だが、可成は容赦なく彼を叩き伏せる。カエルが潰れたような声を上げながら、長可は地面に倒れ伏す。

「何度も同じ失敗しているが、貴様は頭で覚えるような器用な真似はできぬ。すべて体で覚えよ。安心しろ、何度忘れようとも、そのたびにわしが体に叩き込んでやる」

「ど、どこに安心できる要素が……こなくそ! こうなったら意地でも親父から一本取ってやる!」

「よい気迫だ。だが体がついてきておらんぞ!!」

「げほ!」

長可の攻撃を軽くかわすと、可成は隙だらけになった彼の体に痛烈な一撃を叩き込む。致命的な打撃だったのか、長可は周囲の目も気にせず地面でのたうち回る。
だが可成はさして気にせず追撃を仕掛ける。すんでのところで回避した長可だが、誰が見ても満身創痍なのは明らかだった。
可成は肩を負傷して一線からは退いた身だが、今の光景を見れば今でも戦場を任せられるのではと思えた。

「どうした、耄碌爺一人倒せぬようでは、貴様は一兵卒にすらなれんぞ」

「ど、どこが耄碌しているのか聞きたい。が、今は泣き言言っても仕方ねぇ……今日こそ一本取ってやらぁぁぁぁぁ!!!」

口の中にある血を吐き捨てると、長可は可成に突撃する。少しずつではあるが、可成と長く打ち合えてはいた。しかし一騎打ちの駆け引きにおいては可成が一枚上手だった。

「甘いっ!!」

「ぐえぇ!」

結局、今日も長可は可成から一本も取れず訓練を終えた。






信長が浅井・朝倉攻めをしている頃、武田は熱心に情報収集を行っていた。敵の織田軍はもちろん、味方側の本願寺や浅井・朝倉も同様に調べていた。

「全て御屋形様の読み通りに動いております。ご慧眼、恐れ入ります」

「奴らはわしにとって将棋の駒に過ぎん」

言いながら信玄は報告書をその辺へ捨てていく。すでに分かっている報告を、彼は改めて確認する必要を感じなかった。
次々と報告書を読み捨てる信玄に、家臣たちは恐れ慄いていた。どれほど調べ上げた内容も、「その内容で報告が上がってくる事」が、まるで決まっているかのように見えるからだ。
全て捨てられると思っていた矢先、信玄は一つの報告書を手に取った所で動きを止めた。そのまま報告書を広げて中身を確認する。
信玄の珍しい行動に家臣たちの間に動揺が広がる。だが、信玄は周りの反応を無視して言葉を口にする。

「帰国した、と」

「は? はっ、此度の織田の浅井攻め、近衛の娘は外されました。嫡男の初陣式には参じましたが、それが終わると同時に……」

「帰国させた理由はなんだ」

「近衛の娘は武功を立てすぎたため、周りの不満を解消するためと言われております」

家臣が言った理由に信玄は納得しなかった。信長の性格なら逆に静子にもっと武功を挙げさせて、周囲の武将たちに発破をかける方だ。
武功の立て過ぎで前線から外した、など建前で本音がどこかに隠れていると考えて当然、と信玄は思っていた。

(また近衛の娘か、織田め……何を考えておる。そしてその娘に、どんな力が隠されているのだ)

間者たちに発破をかけて静子の情報収集をさせたが、集まりは芳しくなかった。どこへ探りを入れても、どこからも肝心の情報が手に入らなかった。
周囲は仁比売 (ニヒメ)の後継者、などと呟いていたが、仁比売の存在そのものが信長の調略だと信玄は見抜いていた。

「(織田の小僧にしてはやる。だが、余計な事をすれば、それは逆に周囲へと疑惑を広げる)足満とやらの方はどうなっておる」

「はっ……これがどうにもならぬ男で、全く話を聞こうとしません。卓越した技の持ち主で、力づくで取り込もうとして返り討ちにあいもうした」

「早く片付けろ。足満が例の者ならば駒の価値が上がる」

それだけ言うと信玄は家臣を追い払う。家臣はそそくさと立ち去り、それと入れ替わるように別の家臣が信玄の元へやってきた。

「御屋形様にご報告!」

「みなまで言うな、分かっておる」

「は、はっ!」

報告を言う前に全てが見抜かれた事に、家臣は驚愕の表情を浮かべる。だがすぐに平伏すると、報告書を膳においてそそくさと部屋から出ていった。
置かれた報告書を見向きもせず信玄は思案にふける。

(何もかも棋譜通りのはずじゃ。なのになんだ、この胸騒ぎは)

喉に引っかかる魚の骨のような違和感を信玄は感じていた。それを消そうと彼は原因を探る。しかし、いくら考えても胸のもやもやが晴れる事はなかった。






伴も連れず足満は一人歩いていた。最近では自分の周りですら間者がうろついているため、連中を処分するのは一人の方が手軽だからだ。
しばらく整備された道を歩いていると、前方に人影が見えた。目を細めて詳しく見ると、女が一人泣き崩れていた。
が、足満から見れば道端に転がる石ころレベルだ。顔色一つ変えず彼は歩調を緩めず歩く。そしてシクシクと泣く女の横を素通りする。
10歩歩いた所で女の鳴き声が消えた。正確には嘘泣きをやめた、という事だ。

「女の涙にすら素通りか。噂通りの男だね」

足満は足を止めるが振り返りはしない。だが背後で地面に座っていた女が、ゆっくり立ち上がるのを察する。女は振り返らない足満に、とくに不満もなく言葉を続ける。

「我らが御屋形様から話がある。いい加減、文を受け取って欲しいものだね」

そこでようやく足満は振り返る。女は振り返った足満に満足げな笑みを浮かべながら、懐に入れていた文を取り出し、彼に差し出した。
奪うようにして文を手にとると、足満は間をおかず文を破り捨てる。ビリビリに破った文の破片を捨てると、呆然としている女の顔に拳を叩き込む。

「何だ、このゴミは。ゴミの分際で人の言葉を喋るのか」

殴り飛ばされ、痛みで苦悶の声を上げる女の髪を掴むと、近くにあった木の幹まで引きずる。
歯が折れ、鼻から血を流し、髪を引っ張られる痛みを味わっていた女だが、視界に入った木の幹で、これから彼が何をするか理解したのか、顔色が一気に青くなる。

「や、やめ……」

女は最後まで言い切れなかった。その前に、足満が女の顔を木の幹に叩きつける。1回だけではない、二度、三度と女の顔を木の幹に叩きつける。
砕ける音が水っぽい音に変わったころ、掴んでいた女の髪を離す。血と体液と肉片の混ざった水たまりに女は顔から突っ伏す。
その場で痙攣するだけの女を、足満は冷たい目で見下ろす。やがて女の痙攣が止まったころ、足満は女に興味を失い、そのまま放置してその場を去った。

足満が立ち去ってからしばらく時間が経った頃、どこからともなく男が二人姿を現した。男たちは静かに女の元まで歩み寄る。
一人が女の首に手を当て、そして首を横にふった。

「駄目だな」

「聞きしに勝る冷酷さ。女であれ敵ならば関係なし、か」

男たちは互いに顔を見て頷くと、女の死体を目立たない位置に移動させる。身分を示すものは何ひとつ持たせていないが、死体を放置する訳にもいかなかった。

「次の方法を考えなくてはな」

死体を片付け終えた男の一人が呟いた。しかし、その言葉にもう一人の男は答えなかった。疑問に思った男が、片割れの方へ顔を向けると、そこには驚愕の光景が広がっていた。

「作戦が失敗した場合、どれだけ素早く現場から逃げられるかが生存の秘訣だ」

驚愕の表情を浮かべる男に、足満は顔色一つ変えず言葉を発する。男の片割れは首が普通では曲がらない方へ曲がっていた。

「武田のゴミか、それとも北条のクズか。どちらにせよ、わしの周りを嗅ぎ回っている者は」

言い終えると同時、足満は男を斬り捨てる。電光石火の抜き打ちが、未だ呆然としている男の体を骨ごと斬り裂いた。

「例外なく殺す、いずれ仲間も後を追おう。安心して死ね」

男の体から血が間欠泉のように噴き出すが、足満は無言で刀を仕舞うと静かに立ち去った。後に残されたのは3つの死体だけだった。






静子軍の面々は順調に訓練をこなしていた。遠巻きに間者が監視している事は知っているが、訓練内容自体が知られても、大して問題にはならないと静子は考えていた。
そもそもの話になるが、間者は静子が兵士に課している訓練が、一体何を目的としているか理解できない。理解できないものを上に報告されても、余計に混乱するだけで要領を得ない。
これは予言者が何とでも受け取れるあやふやな表現を用いるのと似ている。
彼らが仮に未来を覗き見られたとしても、見たことも聞いたものを表現するには、既知の物を喩えに使った要領を得ないものにならざるを得ないのだ。

「良い傾向だね。これなら十二月までには間に合う」

兵士の体力測定データを確認した静子は、十二月までに十分な手応えがあることを確信した。他のデータも問題なく、兵士たちの基礎体力向上は順調に進んでいた。
兵士側からすれば多少謎でもあったが、毎日鍛錬するだけで金子が貰えるのだから、不満を口にするような事はなかった。

この頃、静子は兵士のように鍛錬は行っていなかった。無論、なまってしまわない程度には鍛錬を行ってはいるが、武将たちが行っているハードな訓練は受けていない。
兵士や武将たちからすれば、静子が前に出るのは心臓に悪く、できれば後方で指揮をとって欲しいという希望があったためだ。
良いのか悪いのか判断がつかなかったが、ともかく大半の武将たちが望むなら、と静子は後方で指示を出す方向で調整した。

「まぁ謎だけど、深く考えるのはよしておこう」

静子が行う仕事は他にもあり、そのうちの一つである溜まっていた書類を片付ける。花押を持っている静子だが、やはり印鑑の方が手早いため、もっぱら押印を利用していた。
しかし国人や公家と違い、静子は墨で押印する黒印状の方だった。印判状とはいえ正式な書類として扱われる。
書類の中身を精査し、問題なければ押印、問題があれば疑問点を記載して返していく。大量にあった書類があっという間に処理される。
終わった書類を小姓たちに命じて、書類を次の工程に移させた。

「あーっ、終わった終わった。事務仕事って疲れるのよね」

肩をトントンと叩きながら、静子は凝り固まった体をほぐす。仕事が終わった途端、入り口を器用にあけてヴィットマンたちが入ってくる。
静子が仕事中は邪魔をしないが、終われば遠慮は無用と、思うさま静子に甘えるヴィットマンたちだった。
仕事中であろうと我が道を行くマヌルネコの丸太は、いつもの定位置で大の字になって寝ていた。
ターキッシュアンゴラのタマやハナ、ユキヒョウのゆっきー、しろちょこはネコ科らしく、入るも入らぬも気分次第である。今日は珍しくしろちょこが入ってきた。
入ってきたとはいえ、適当な所に座ると自由気ままに休んでいるが。

「私の部屋は休憩所じゃないんだぞ」

言いながらもカイザーの背中に覆いかぶさって、もふもふを堪能する静子だった。
+注意+
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