第11羽 速水 ②レシピエント
時間は遡り。二月頭。
撮影も全て終わり、速水はやっと引っ越しを終えた。
そこで速水はエリックに、『私なら、貴方の病気を治せます』と言われた。
『貴方はもうステージ4まで進んでいます。ステージ5に到達すればぐっと楽になりますよ』
そう言ってエリックが机の上に置いたのは、いかにも怪しい茶瓶だった。
…どう考えても、中身はおなじみの小さな黒い錠剤。
最近どこの医者へ行ってもこれを渡される。
一度、マーケットで買い物して勝手に袋に入れられたときには、もう人生やめたくなった。
速水がそれを見たまま動けないでいると、代わりにエリックが蓋を開けた。
速水は、エリックを見た。
『症状を進めるための薬です。人によっては、強い吐き気やめまい、幻覚症状が出る事があります。飲み込めなかったら、舌の裏に置いて舐めるだけでも大丈夫です。一日、決まった時間帯に一錠。空腹時に飲んで下さい』
エリックは淡々と使用上の注意を速水に語る。
舌下投与って、ヤバイ薬だろ。
幻覚症状って、ドラッグだろ…。
…事情は聞いたが、ぜったい死ぬだろ。
『これからは外出は禁止されます、必要な物があったら私かウルフレッドがご用意します。食事も全てスタッフがご用意致します』
速水は、薬の瓶を見ていた。
『まずは一錠…。どんな症状が出るか、記録します。どうぞ?』
エリックが優しく微笑んで瓶を差し出す。彼はカルテを持っている。
もちろん速水には、エリックが悪魔にしか見えない。
速水は震えながらエリックを見た。
『…普通、どのくらいの間、飲み続けるんだ…?』
速水は聞いた。
『そうですね…個人差もありますが、二ヶ月ほどです。…大丈夫です。貴方は再検査を全てクリアしています。絶対、助かります。私と、『プロジェクト』が全力でサポートします。頑張りましょう…!!』
力強く手を握られた。
二ヶ月?…意外に短いのか?でもそれって逆に不味いんじゃ。
助かりますって。あっさり死ぬやつもいるのかよ…。
速水はエリックの手を振りほどきたかった。
――解けたと思ったら、手のひらに薬が置かれていた。
…昨日、速水はでかい病院に連れて行かれ、幼稚園上がる前に受けた検査ととても良く似た訳の分からない検査をされて、最後に歓声を上げられた。
『…ダンス、続けられるかな…』
速水は手のひらの上の薬を見てつぶやいた。
エリックは答えなかった。
■ ■ ■
『動こうと思ったら撃つわよ』
ケーキを食べ終わったルイーズは拳銃を取り出して、速水に銃口を向けた。
エリックが速水の後ろに立ち、速水の前でジョーカーがゆったりと煙草をふかす。
『…俺はお前を買ってるんだ。覚えてるか?茨城の、小さな、お前の初ステージ。…お前が十歳の時だったな。お前のダンスを見た時、俺は、ああ、そうかノアのライバルはコイツだ、って思ったんだよ』
速水ははっとした。
『馬鹿な審査員のせいで、お前はあの後すぐに帰っちまったが…。本当に、運命を感じた…。ジョンが日本に行ったのは、もちろん俺がそう仕向けたからだ。アイツとは長い付き合いだったが、まあ、超簡単だったぜ?俺が世界平和の為に、地道にジョーカーやってるって、アイツも、誰も知らなかったからな』
ぽん、と頭を撫でられた。
『速水朔、ジャック。お前はエクストラジョーカー、もう一枚のジョーカーさ。なぜって彼女がそう決めたからだ。…俺はこの奇跡に心底感謝してるんだ。将来はノアがGANのトップに立ち、お前がプロジェクトを引き継ぐ、どうだ、上手く行きそうな計画だろ?』
ジョーカーは笑った。
『お前は、俺から逃げられない』
■ ■ ■
「ハヤミ、時間です」
「――」
現在。二月二十四日。夕刻。
エリックが唐突に言って、速水ははじかれたように顔を上げた。
「もうぃぃ!俺は死ぬ!!生きてたって仕方無い…!!――っ殺してやる!!」
速水はエリックに掴みかかり、殴りかかった。
「ハヤミ!!?」
イアンが止めようとした。
「うわぁあ…、ぁああ…!!」
エリックを殴った速水は突然泣き崩れ、叫び、パソコンを投げ飛ばしキーボードを破壊する。
「っぁあああああああ!!」
机の上のケーキも皿もカップも引き落とし、椅子も机も壊して壊して、壊して、壊す。
「落ち着け!!」
暴れ出した速水をイアンが止めた。
「おい!ハヤミ!!どうしたっ!?」
物音が外まで響いたのか、ウルフレッドを拾いに行っていたレオンがバタバタと入って来た。
だが、それを上回る勢いで、レオンを押しのけ白衣の集団が入って来た。
「速水さん、落ち着いて下さい!」「鎮静剤を…!」
ざっと七、八名。人種はバラバラで白人も黒人も、日本人らしい医師もいる。
目茶苦茶に騒ぐ速水を集団でなだめている。
速水はそれを殴っている。そして捕まる。
「ハヤミ!!」
「…レオン、一旦外に出るぞ…『プロジェクト』について説明してやる」
イアンがレオンの肩を引き、有無を言わせずに部屋から連れ出した。
■ ■ ■
イアンはアパートメントの一階。階段の手すりにもたれた。
ここからは通りが見える。もう日が沈みかけている…。
「おい!!どういうことだ!!?あいつ等何なんだ!…プロジェクトって…!!」
レオンはイアンの襟首を乱暴に捕まえた。
どう考えても、普通じゃ無い。…速水は大きな何かに巻き込まれているのだ。
はぁ、と溜息が聞こえた。
「お前…こんな噂、聞いたこと無いか?」
「『ネットワークは超能力者を育てている』って」
襟首をつかまれたままイアンは言った。
「――なっ!!?」
レオンは絶句した。
エスパー!?
―いや、――確かに、確かに…!
レオンは噂だけは聞いた事があった。
だがそれは、本当にただの噂に過ぎなかった。
いわゆる都市伝説だ。それが何の―。
「!!…まさか!?」
レオンは先程降りてきた方を振り返った。
「そのまさかなんだよ。…ジョーカーが最近進めてた、『計画』って言うのは、主にハヤミに関する事なんだ。…エリックは生え抜きのエリート研究者でプロジェクトの副主任だ…全く。どいつも狂ってる」
レオンは目を見開いた。
「………マジかよっ…、――冗談だよな?」
勘違いで無いのかと、もう一度イアンを見る。
「…」
イアンは黙ったままだ。
どう見ても、イアンは冗談とか言わなさそうなタイプだ。
思わずオーマイゴッド、と天を仰いだ。
「…っ。くそっ!」
レオンは舌打ちした。
言われてみれば…、確かにおかしな幻聴だとは思っていた。
速水の、鳥の声が聞こえる不思議な力。
「あくまでそうなる可能性があるってだけだ…。お前も知ってる、アビーもそれだよ。…彼女は失敗作だから超能力は使えないけど、もう一つの優れた人格を持ってる。実は、そのくらいなら結構いる。ハヤミが色々おかしかったのは彼が『なりかけ』だったからなんだ」
イアンは階段を少し上がり、段の上に腰を下ろした。
「なっ。アビーもだと!!?…――イアン、お前は内部事情に詳しいのか?」
レオンが聞いた。
「ああ。俺の実家、金があって。プロジェクトに莫大な出資をしてた」
イアンはうつむいて、つぶやいた。彼の眉は潜められたままだ。
そしてイアンは語った。
受給者――レシピエント。
ネットワークはステージ5に到達した超能力者をそう呼んでいる。
「速水は今ステージ4。それが5になる可能性があるって、今プロジェクトは必死なんだよ。――これは俺も良くは知らないけど。どうやら昔…彼とよく似た能力を持つ『受給者』がいたらしいんだ」
イアンは続ける。
ステージ1、三歳から五歳。ここで九割九分が、軽い頭痛くらいの自覚症状で消える。
ステージ2、五歳から、十歳程度。ここでまた残った大半が力を失う。
しかしこの時期から専用の機関で育てば、次のステージに行く可能性が上がる。
ステージ3、ステージ4…。繰り返し、能力は完成されていく。
ステージ5までたどり着けば、めでたく超能力者の完成だ。
だがそうなる途中で死んだり、発狂したり、そう言う例がとにかく多い。
「ネットワークにいれば、普通は十四、五歳くらいでステージ4まで行くけど、ハヤミはキャッチネットの外にいた分、やっぱり進行が遅いな…」
「…キャッチネット?」
「…ジャパンの精神科の医者には報告義務があって。ハヤミは、そうかもしれないって、幼い時、プロジェクトにマークを付けられてた…」
イアン曰く、プロジェクトはステージ1、ステージ2で将来レシピエントとなる可能性のある子供を拾い上げる仕組みを作っているらしい。
サロンの力が弱い日本もこれの例外では無く、むしろ政府が主体の、後ろ暗い国家プロジェクトだ。
日本の医者はそれらしい子供がいたら、一応国に報告する。
そこでプロジェクトは研究者を派遣する。
…と言っても、大半が空振り、もしくは勘違い。あるいは心の病。または発達障害。
「マークされたハヤミは…ただの病気と診断されてうまくネットから抜けた。その後は受診記録が消されてたらしい。子供を何とか守りたいって親と、一部の医者の間では、良くある事だ…」
それを聞いたレオンは、限りなく溜息に近い舌打ちをした。
「子供の頃から!?……くそ……」
だとしたら…速水は、初めから狙われていたのか。
…そもそもがジョーカーの肝いりの計画だ。
ジョーカーはずっと速水に目を付けていて、間違い無く攫うつもりだったのだ。
レオンは歯ぎしりをした。
根が深い――。
速水を何としても、助け出さなければ。
そこでレオンはふと首を傾げた。
「…だが…速水の力って、幻聴?…それが何の役に立つんだ?アイツは言ってたが、たまに癒やしになるとか、たまにうっとうしくて眠れないとか、それくらいじゃ無いのか?」
速水のそれは、通常時、鳥の声が聞こえる位で特に何かの役に立ちそうな力でも無い。
レオンのその言葉に、イアンは呆れたような表情で彼を見た。
その後に溜息。知らないなら無理も無い…、そんな感じだ。
「レオン。…チャネリングって言葉、聞いたこと無いか?…マイナーだし無いか。チャネリングってのは…シャーマニズムの一種で…、例えば、誰も知らない治療法を何故か知って、それで病気を治したりする、そう言う、不思議な力の呼称だ」
宗教を持つ者達は、それこそが自分達の神からの『恩寵』だと言うし、存在の証だと躍起になっているのだが…。
もちろん、真偽は不明だし、現代科学では全く説明が付かない。
「速水の持ってる力は、それじゃ無いかって言われてる。『グローバル・ネットワーク・プロジェクト』の目的はアカシックレコードの解明。…これは人類にとって有益な、素晴らしい研究だ。投資する価値は十分ある」
イアンは真剣だった。
真剣にこの話をしている。
…開いた口がふさがらない。
そんなレオンを余所に、イアンは上を見た。
「このくらいか…レオン。ノアはどこにいる?俺のエンペラーはノアを次のジョーカーに推すと決めた。お前との契約に従って、ハヤミの一生の安全は保証される。最も、ノアを確保する代わりに、ハヤミの待遇に便宜を図る…、って程度だが。後はジョーカーが変な気を起こさない限り」
イアンは言った。
「…おい、ふざけるなよ?」
それは全く安全では無い。レオンは青筋を立てた。
そろそろコイツを締めて、拷問して洗いざらい吐かせようか。
「と言うか、ジョーカー候補って。もうノアで決まりじゃ無いのか」
その前にレオンは尋ねた。
他にも候補がいるような口ぶりだ。
「別にネットワークは世襲って訳じゃない。先代、今のジョーカーと親子で続いてるが、今のジョーカーの『平和的』なやり方に不満を持ってる奴らも多い。候補は他にもいるし、そう言う連中はノアを認めないだろうな」
それにしても、イアンは良く内情を話す…。
「…イアン、おまえやたらペラペラ喋ってるが、良いのか?」
「ああ。礼のつもりだ。速水のおかげで、俺の妹が助かったからな。俺は…本当は、ずっと礼が言いたかったんだ」
イアンは言った。
「…何だって?」
レオンは耳を疑った。
イアンはうつむいて、つぶやいた。
「…去年、プロジェクトから連絡があった。父さんがずっと探していた力を持つ『受給者』が見つかったってな。それがアンダーに居たハヤミだ」
…イアンの妹、ターへレフは難病を患い、生まれてこの方一歩も病院から出た事が無かった。
彼の父はプロジェクトに関わり、金を油の様に使い、順番待ち一番だったらしい。
代金は馬鹿高くて、上手く行く保証も無かった。賭だったが…。
「結果は、劇的だった」
イアンは、青い夕日の差す外を眺めた。
モニターとなったイアンの妹は、現在はリハビリ中。遅くとも夏には退院できる。
それを語るイアンの口元は微笑んでいた。
「家族では、父さんが一番プロジェクトに入れ込んでたんだけど、正直眉唾だと思ってた、こんな、夢のような力があったなんて、未だに信じられない。親父も母さんも、奇跡が起きたんだって!…本当に、この事は隠さず、もっと世界に発信するべきだ!その為に、ノアが次世代のジョーカーになるべきだ!」
イアンは興奮している様子だ。
「おい!!ハヤミはどうなる!!?」
その話が事実なら、この先速水はかなり不味い事になる!
…最悪の場合、研究対象としてこのまま一生どこかに隔離…!?
イアンは少し冷静になり、咳払いをした。
「言っただろう。まだ分からないって。速水は今ステージ4。ステージ4までは希少と言ってもいくらでもいる。けど、ステージ5まで行った例が何件だと思う?…たった3件だ。もしそうなったら彼に自由は無い。もう…しばらくは面会も出来ないだろうから、…いま、会っておけよ」
イアンは最後に、と言いかけて止めたらしい。
■ ■ ■
すっかり日も落ちた。
「ノア、久しぶりだな」
レオンはノアをホーム三階の一室で出迎えた。
テーブルの上にはノートパソコンがある。
ノアはベージュのニット帽、紫のダウンパーカー、カーキ色のカーゴパンツを履いている。
どうやら外に出てから買った物のようだ。
「レオン。呼びつけるなよ…」
入って来たノアは、キョロキョロしていた。
「ん?誰?…げっ。こいつ――奴らの手下!?」
ノアはドアの死角にいたイアン見て言った。
イアンのネクタイピンにはサロンのマークが入っている。ノアは何でココに。とでも言いたげだ。
「ああ。だがマシな方…か?」
レオンが疑問系で言う。
イアンは無言でそっぽを向いた。
「あっ。それで、あれから何がどうなったの?レオン達がサロンに行ってるって事は、リッキー達が報告してくれたけど」
ノアはレオンに詰め寄った。
リッキーはレオンの師匠の後継者で、情報屋に近い事もやっている。
「落ち着け。とりあえずそっちにでも座れ」「あ。うん」
ノアはノートパソコンが無い方の席に座った。テーブルには六脚の椅子。ノアは左手で中央の椅子を引く。
「ん?ノア、お前、腕どうした?」
椅子を引く動きでレオンは気が付いた。いつものノアはどかっと、豪快に椅子に座る。
椅子に座ったノアは、すっかり弱った様子だった。
「どうもこうも。…俺、レオン達と別れてから、死ぬかと思ったぜ…!ネットワークの連中?わかんないけど、…あいつら、俺の事、殺す気で捕まえようとするんだ。…この腕は車に跳ねられそうになって、植え込みに飛び込んで折った。直るまで、暇すぎて死にそうで…あれ。そう言えばハヤミは来てないの?」
ノアは少しキョロキョロした。
レオンは先に、地上で別れた後のノアの事を尋ねた。
…レオン達と別れたノアはまずベスの家に行こうとして、タクシー捕まえ『シカゴまで』と言ったり、なぜかNYで自由の女神を見たり、色々したらしい。
だが、そこでネットワークの追っ手が来た。
様子を聞くと、…実際には当てられ跳ね飛ばされたらしい。
「自分でなんとか添え木して、一気にロスまで来て、多分この辺のはず、ってうろついてたら師匠の知り合いに拾われた。まだ出ない方が良いって言われて、ベスにもエリーにも会えないし…ずっと寂しかった…」
ノアは目を伏せた。
潜伏中、ノアはベスの実家にせめて手紙を出そうかと思ったが、そこから自分の所在がネットワークにばれるかもしれない、そう思ってやめたらしい。
「そうか…。一応、シカゴに人をやって確認はした。ベスの両親は健在だから、落ち着いたら会いに行くといい…お前の口から言った方が良いと思って、それで引き上げさせた」
「うん、明日行く」
ノアは素直に頷いた。
今の状況では、いつノアがシカゴに行けるかは分からないが…。
レオンはひとまず口をつぐんだ。
「だが…ノア、こっちはかなり不味い事になっちまった。今からコイツが話す――」
イアンは座らず。その場で話し始めた。
■ ■ ■
「そんな事になってたの…!?って言うか、超能力!?――ネットワーク、マジでヤバイ組織じゃないか!!」
ノアは驚きつつ叫んだ。
「それでノア、今後のお前の事だが」
レオンは言った。
「!!そうだ、俺もヤバイんだった…!俺、どうなるの…?」
ノアはうろたえた。
相変わらず仏頂面のイアンが口を開いた。
「…君はジョーカーの候補になってるが、別にこの組織は世襲って訳じゃ無い。ただ、君のようなとろそうな人がトップの方が平和的かもな…」
「とろいだと!?」
ノアは思わず立ち上がった。
「…英語はまだ苦手なんだ。間違いだ。のんびりしたヤツ」
イアンは謝る気が無いようだ。
ノアはイラッとした。
イアンはノアが良ければ、このまま連れてエンペラーの所へ帰る、と言った。
ちょうどその時、イアンのポケットから携帯のバイブ音が聞こえた。
仲間からの連絡のようだ。
「…外してやるから、話し合え」
イアンは携帯を取り出しながら出て行った。
■ ■ ■
イアンが外し、ノアとレオンだけになった。
「…チッ…クソっ…おい!!レオン、不味すぎだろ。って言うか、勝手に人を売るなよ!!」
ノアはレオンを睨んで言った。
「悪い…。ノア、…イアンのエンペラーは、お前を推しても良いって言ってるらしいが。…お前は、どうなんだ?」
「どうって…!」
ノアは頭を抱えた。
「どうもこうも。…俺が行くしかないだろ…!ベスの仇だし、気安めなのがイタいけど…」
ノアは嘆息した。
「って言うか、レオン。もしかしてずっとその気だったのか?」
ノアがレオンを睨んだ。
「まあ、そうだな」
レオンは言った。
「ハヤミが何とかなりそうなら、エリック、イアン、医者連中を殺してここに連れて帰る気だった。…が、もうどうにもならない」
「……そんなに悪いの?」
ノアは心配そうな顔をした。
レオンは低く何度も唸った。
「悪いと言うか…。…薬漬けなんだ。エリックは『この薬はハヤミに害はありません』とか言ってた。…むしろ途中で管理が無くなる方がヤバイんだとよ…。くそっ、…エスパー云々の噂は親父から聞いたんだが…その親父もまさか、って言ってた」
レオンはエリックに詰め寄り、襟首を掴んで問いただした。
人体に害は無い。ただし途中でやめるのは不味い。私が一任されています。
そんな返答をされたのでぶん殴っておいた。
例え人体に害が無かったとしても、精神的な害は大ありだろう。
「…薬漬け…」
その単語にノアは顔色を無くした。
「でもっ!ハヤミは…レオンに、何も言わなかったの?ホントに一言も?」
ノアはそれが不思議だった。
ずっと一緒だったなら、助けを求める位は出来ただろうに。
レオンは項垂れた。
「ああ…。くそ…あの馬鹿…エリックを信じ切って、いや、あえて騙されやがった!!」
レオンはばかやろう!と言った。
「いや、騙したのはエリックだ!ハヤミは悪く無い!だが馬鹿野郎だ!!!くっそ…」
レオンは頭を押さえている。
「…エリックが?騙す?」
ノアは腑に落ちないようだった。
少し考え、ノアは光を見たような顔をした。
「…あ!レオン、もしかしてハヤミは『アンダー』で全部知らされてたんじゃ無いの?自分が超能力者だって知ってたなら!!エリックは味方かも…!」
レオンはすげなく首を振った。
「いや…イアンの話だと、催眠状態かナンカで、本人は覚えて無い可能性が高いんだとよ。…全く、エリックも、あの医者も怪しかったなんてレベルじゃ無い。真っ黒だったんだ…」
レオンがまた唸り、ノアも肩を落とした。
そしてお互いに無言になってしまった。
治療の名目で、一体何をしていたのか…。
レオンもノアも、妊娠中のベスでさえ、常にあの部屋に居たわけでは無い。
思い返せば…不自然かつ自然な理由で外に出された日もあった。
「…それって、…超酷い…」
ノアは呟いた。涙ぐむ。
気づかなかった自分達も酷いが、速水の置かれた状況はいつも最悪だ。
「――っ、そうだイギリスは…!?ケイならなんとか出来ないの?」
ノアは、はっと顔を上げて、身を乗り出した。
「確認したが、向こうにもプロジェクトの薬は無いってよ。プロジェクトの医者は完全強制派遣制で…しかも、その超能力者予備軍って言うのは、いやに女子供が多いらしくて、――まさかハヤミがそれかもしれないって、全く思ってなかったんだと。…ただ、もしそれらしい情報があれば、事態の予測は出来たはずだって、ケイは憤ってた」
レオンは拳を握りしめた。
なんとか出来ないかと、イギリスだけでなく他のツテも当たったが…どこにもその薬は無い。
そもそも『プロジェクト』が開発した怪しい薬だ。もちろん流出はしていない。
圭二郎は、速水に会いに来るべきだった、と言っていた。
彼も気が付いたかは分からないが、…速水のデリケートな病気の事を、レオンも、速水も、隼人も、当然ながらエリックも。圭二郎に話していなかった。
「…俺が気付けば良かったんだ!!くそ!!」
レオンはガン!!と机を叩いた。
超能力…。ささやかな幻聴…。これがつながるとか、そんな馬鹿な。
だが、レオンは気付かなければいけなかったのだ。
「…それは俺でも無理。…だって超能力とか、オカルトがほんとにあるなんて…絶対考えないよ…」
ノアが言って、しょんぼりと項垂れた。
「…イアンは『こんな、夢のような力があったなんて、未だに信じられない。親父も母さんも、奇跡が起きたんだって!…本当に、この事はもっと世界に発信するべきだ!その為に、ノアが次世代のジョーカーになるべきだ!!』ってベキベキ言ってたが。もしお前がトップになったら、真っ先に中止しろよ」
そんな力、人間が手に入れても、ロクな事にならないに決まってる。
レオンは吐き捨てた。
「うん、分かった。…超能力ってあったら凄いけど…。……レオンの言う通りだ」
ノアは頷いた後、少し考えたが、顔を上げてキッパリと言った。
「ハヤミには会えないの…?」
ノアが言った。
レオンは頭をかきむしった。
「エリックがな…。あいつ、マジで最悪野郎かも知れない。権限とかで、以後面会は許可できません。お別れを、とか抜かしやがった…!」
速水を連れ去られてはたまらない。キレながらそう言うレオンに、エリックは『では自宅入院という形で』とあっさり頷き、プロジェクトの手下共にてきぱきと指示を出していた。
…その時、散々暴れていた速水は自分のベッドにうち捨てられぐったりと寝ていたが、それを見下ろすエリックは涼しい顔をしていた。
『アンダー』で見た、パンストを取った素顔。
彼は地上へ出てからもずっと素顔で通していた。
エリックはネットワークから抜けたのだと、レオンと同じように、速水も思っていただろう。
――だが、そのにこやかな仮面を剥いだ後に出て来たのは、狂った科学者の顔だった――。
レオンは、はかりかねていた。
エリックのことは、ジャックの世話役をしていた頃から知っている。
…悪い奴では無いと思っていた。
エリックはアンダーにいたときから、相当、速水に入れ込んでいたように思う。
だが、それは『極上のモルモット』への感情だったのでは無いか?
「スクール越しの、もっと言えば、下手したら、速水がガキの頃からの計画だ…。ハヤミはエリックが助けてくれるって信じるしか無い、って言ってたが…エリック個人としてはさほどあいつに思い入れが無いんじゃ無いか?」
つまり。この状況ならエリックは喜々として研究を優先する…?
レオンの懸念を聞いたノアは、嫌そうな顔をした。
「そう言いたいの?…さすがに狂いすぎだろそれ!もしサラが人質になってるんなら…それで嫌々従ってるとか、きっと。きっとそんな風だよ!…レオン、お前もうちょっと他人を信用しろって、ジャックにも注意されただろ?」
「む…」
指摘されたレオンは唸った。
付き合いの長いノアは昔のレオンをよく知っている。
スクールに来た当初から、淡々と踊り、誰よりダンスが凄くて。あっと言う間に順位を上げた。
…彼はジャックに負けるまで、ずっと誰とも打ち解けなかった。
レオンのネックレスを馬鹿にしたノアは――あれはノアも悪かったが、…アバラを折られた。
自分以外、誰だって信じない。信じられない。仲間だと?チームだと?下らない。
根は悪人では無いし、ジャックのおかげで大分丸くなったが…レオンはそんなヤツだった。
「あ。そっか、無理もないか…。ハヤミ…馬鹿だから」
ノアはふと思い至って呟いた。
速水は態度こそ無愛想だが、レオンと違って人を信じている。そんな気がする。
――だが、それで自分がボロボロに傷ついては元も子もない。
馬鹿すぎるとノアでも思う。
日本人だから?それとも速水が特別なのか?ノアには分からなかった。
「…レオンはハヤミを信じられなかったんだろ?初めは見下して、苛ついていた。でもまあ、途中から、面白いとは思ってた。…当たりだろ?俺見てて分かった」
ノアはそう言って、レオンを指さし、クスクスと少し意地悪げに笑った。
「む…」
ノアに指摘され、レオンは自分の行動を省みた。
レオンは『外に出てからは、ハヤミをまた見直して一目置くようになった』と言いたかったが、確かに、それだとずっと見下していた事になる。
未だにレオンは速水がよく分からない。
頭が回るくせに、不安定で、やけっぱちで、感情的。
クレイジーで、キレていてもどこか冷静で冷淡。
スクールで、アンダーでレオンから見た速水はそんな印象だった。
頭は悪くないと思っていた。むしろ相当良いと、そこは感心していた。良くやっているとも思っていた。大した奴だと思って頼りにもしていたし、誘拐という事情があるだけに、仲間として最低限は守らなければいけないと思っていた。
…変だと思ったのは、外に出てからだった。
日本で普通に育ったはずなのに、ウルフレッドをさらって、容赦無い洗脳拷問をした。
その癖に、サロンでもずっとベスの事を引きずって。いつもどこかを眺め、死んだような目をしていた…。
レオンは舌打ちした。
ベスが死んで精神的にやばかった事を差し引いても…キレてるなんてレベルじゃ無い。
そもそも関わるのはヤバイ奴だったんだ。
そうかあいつ、だから友達少ないんだ――、日本人の対人感覚センサーは凄いな。彼はそんな事も考えた。
レオンは本当に速水の為になるであろう行動を取れなかった。
異邦人、あるいは異質な人間をもてあまし、あと一歩を踏み込めなかったのだ。
もしかしたら、持病でもあるのかとは思っていた。
何の薬か聞くべきだった?
――いや、アイツが言うまで待とう。プライバシーは大切だ。
エリックは知っているようだし…それに自分の事だ。よほど何とか出来るだろう。
レオンはそう思った。
アンダーを出た後、すぐに日本へ帰すべきだった?
――いや、残りたいと言ったのはアイツだ。
それに残れと言ったのは俺だ。
レオンはそう思った。
…どうすれば本当に速水の為になったのか。
レオンはパソコンに目を落とした。
ネットワークを潰したい、目的は同じだったはずなのに。
同じ方向を向いていたはずなのに。――俺は。
「…習い性ってやつか……」
レオンは後悔も露わに呟いた。
ノアはレオンを気遣わしげに見ていた。
そして考える。
「レオン…エリックは大丈夫だと思う…根拠は無いけど。助けてくれるかは分からないけど…」
ノアは言ってみたが、本当に根拠は無い。
本当にエリックはネットワークの、ジョーカーの手下なのだろうか?
速水の事をどう思っているのだろうか?――実験動物?モルモット?まさか金づる?
…あんなに、仲が良さそうだったのに…。
「ああもう!俺、エリックに会いに行く!!ハヤミと話を――、ってレオン…、さっきから何いじってるの?」
立ち上がったノアは、不思議に思ってレオンに聞いた。
レオンは先程からノートパソコンで、ディスクを入れたり出したりしている。
「…ノア、ちょっと待ってろ。俺も行く」
レオンは呟いた。どうやらディスクのデータをコピーしているようだ。
「はぁ?お前も行くならさっさとしろよ!何それ?」
ノアは椅子に乱暴に座って肘をつく。
「…ああ…」
レオンはそう呟いたきり返事は無い。レオンは酷く真剣だし、何か重要な物なのかも知れない。
メカオンチのノアが見ても分かるとは思えないので、待つ間、ノアは自分のこれからを考える事にした。
…本当、二人ともどっか抜けてるって言うか。馬鹿だって言うか。
俺がいたら多分まだマシだった。――かも知れない。
ノアは、速水の為にイアンについていくしか無い。だが、それでどうなる?
(速水の安全はジョーカーの気分次第だってイアンは言った…)
ノアは舌打ちした。
サロンはネットワークとは多少は違うのだろうが、ハッキリ言って似たような物で、ほとんど一部で。もちろんノアの怨嗟の対象だ。
だが今、一番憎いのは。
「ジョーカー!…くっそ、もし会ったらぶん殴ってやる。ベスを何で殺したって…。ハヤミに謝れって…!!」
ノアは一人拳を握った。
ノアの覚悟はとうに決まっている。アイツをぶん殴るために、イアンと行く。
ジョーカー候補とか、絶対嫌だけど。
部屋の外ではイアンが待っている…さすがにそろそろ痺れを切らしているだろう。
「レオン。俺はハヤミに会ったらイアンと行くけど。お前はこれからどうするんだ?」
問われたレオンは顔を上げてノアを見た。
…レオンは懐から紙を取り出し、テーブルに広げて置いた。
「ノア…ハヤミが最後の力を振り絞って、ネットワークを潰す為の計画を立ててくれた。俺はお前に、絶対協力して欲しい。見て見ろ」
ノアはレオンが取り出した紙切れを見た。―速水が?
速水はぱっと見は無鉄砲そうだが、かなりの策略家だ。どんな凄い計画を――ノアは紙を手に取った。
そこに書かれていたのは、たった五行。
「は?…何コレ?」
ノアはあっけにとられた。
「これで行くんだとよ。大マジだったな。あいつ、馬鹿だろ」
ノアは紙を眺めた。
「…超シンプルだね。って言うか雑…馬鹿野郎だ」
舌打ちする。
「ああ。だがもうこれで良い気がしてきた。実は…まあ、言うが…それを貰った後。あいつと本気で喧嘩したんだ。殴り合いの」
「へえ?どっちが勝ったの?」
ノアは紙を見たまま言った。
レオンは相当強いが、速水もアンダーで腕を上げた。速水は技の吸収も早く、身体能力、センスもある。特殊兵にもなれる逸材かもしれない…。って、あれ?そうだ、俺たち…ダンサーだった。ノアはちょっとげんなりした。
げんなりしたノアが紙を置き、レオンは続ける。
「まあ、勝ったが。…全く。速水はマジでイかれた、馬鹿みたいなヤツだな。…そのくせ、アイツ地上に出てからずっと、うじうじうじうじ。知名度ならお前が適任だって言っててな。俺はハヤミに我が儘言うな覚悟決めて闘えって言ってキレて、そんなに嫌ならダンスやめちまえって言ったが…、もともと、あいつは無理だって思ってたんだろうな」
レオンは項垂れた。
ダンスをやめちまえと言われた速水は見事にキレて、『俺に何でも押しつけるな!!俺だって平気じゃ無い!!』と言ってレオンの襟首を掴んで殴りかかった。
その後は叫び合いながら乱闘だ。
「覚悟が無かったのは俺の方だ。この先アイツはどうなるか分からない。だが、俺はネットワークを潰す。…俺はこの馬鹿な計画の通りに、ダンスで世界を変えるんだ。――俺はそう言うつもりだが。お前はどうする?」
レオンはノアを見て、静かに笑っている。答えが分かっているからだ。
「もちろん。俺も協力する!――」
ノアは目を輝かせた。
レオンは急にうつむいた。
「…アイツはな。お前のダンスがかっこよくて、いつもあんな風に踊りたいって、思ってたんだとよ――ホントに、馬鹿な奴だ…」
涙声。
「畜生…。…何だろうって、見てみたらこれなんだよ……!!」
レオンが肩を震わせた。
「レオン…?」
ノアが立ち上がって、レオンの脇からノートパソコンを覗き込む。
「これ…!!」
ノアはパソコンを奪い取り、下手くそな操作で画像を見る。
「…あいつが、持って来やがった」
エリックの育児日記と、エリーの写真。
情報は全部USBに入っていた。
ただし、日本の…調べれば絶対分かる宇野宮の連絡先のみ。
あとは、渡されたディスクが全てこれだ。
レオンはそう言った。
賑やかそうな少年、優しそうな老婦人。
少し大きくなったエリー。元気そうで…。笑ってる。
ノアはベスがいなくなって、呆然として…でもエリザベスが居るから、と歯を食いしばって立ち上がった。
ずっとずっと、会いに行きたかった。
速水は、データを持ち出す事が出来なかった?
あるいは消された?これだけ、何とか持ち出した…。
…ノアはボロボロと泣き出した。
「ホント、あいつらしい…」
レオンが小さく呟いた。
■ ■ ■
『お前は、俺から逃げられない』
「うるさい!!うるさいっ!だまれ!!ジェスター!!」
速水は真っ暗闇で叫んでいた。
『これから大変だと思うが、頑張ってくれ。お前なら乗り越えられるって俺は信じてる。そうだな――、あの独裁国家を買い上げたら迎えに行くから、それまでに立ち直れよ。最高のステージを用意してやるぜ』
「…何でジャックを殺した…?ルーク…って、…まさか、まさかお前がやれって命令したのか――…!!」
声を絞り出すが返事は無い。
かわりにすぐ後ろから違う声が聞こえた。
『速水君…!!すまなかった!すまなかった!!私だ!!私を殺してくれ!!』
『違う、俺だ!っくそ俺の会社が――あの照明がいけなかったんだ!!殴ってくれ…!!』
「!――ああ、やめて下さい。俺は…大丈夫ですから。怪我も大したこと無いですから、ジャックの葬儀にも出ます。その後、現場にも花を添えて…」
ベッドの上で速水は笑った。
『何か一言…!』
「………俺は、ダンス続けます…、ジャックの代わりには、絶対っ、なれないけど…。ごめんなさい……」
速水は泣いた。体を丸め、嗚咽を漏らす。
どこかでガチャガチャと言う音がした。
『貴方がジャックの代わりに死ねばよかったのに…っこんな花なんか!』
「そんなの、偶然だろ…!馬鹿!やめろよ!!」
『ジャック、ジャック戻って来て!!』
「薬…、飲まないと…あした…また、おどらないと…」
速水はぶつぶつと呟いた。ガリガリと薬を砕く。
『速水朔、死ね!!』
『ジャックぅぅ…ジャック…』
「…あたまいたい…いたいよ…」
助けて。
死にたい。
「…ぁああ…」
何で気がつかなかったんだろう。
そうだ、死ねば良かった。そうだ、そうなんだ。
『そうだよ』『お前が死ねば解決だ』『お前もやっと楽になれる』『最高だ』
『おかしいやつが二代目とか無理』『じゃあ俺は死のう』『それがいい』『駄目よ!』
…ジャックもカラスも、俺も、皆もそう言っている。
ガチャガチャと言う音がする。
それは拘束の音だった。
速水は実際には起き上がっておらず、薄いブルーの入院着を着て、頭にネットをかぶり、測定用のコードをいくつも付けられた状態で、ゲストルームのベットに横になっていた。
ベッドには医療用の拘束バンドが取り付けられ、両腕は腰の横で固定されている。
両足も同じくしっかりと固定されている。
頭のコードを引っ張りたくても、頭を抱えたくても、のたうち回りたくてもさっぱり動けない。幻覚は続く。
『ジャックだ!』『ジャックー!!頑張って!!』
「俺は…そんな…つもりじゃない…!違う…!」
リサはどこだ…?ジャックのマネージャーで妹なのに、なんで葬儀に来ない?
ロブは…?何でロブもいないんだ。葬儀に出て、それから…。
皆は…連絡が取れない…。仕方無いか…。ハウスも閉鎖されたし…。
『朔、本当に大丈夫か?』
「…隼人!……」
隼人…は今オーストラリア…修行の邪魔しちゃいけない…。
「うん…大丈夫だって。心配しすぎ」
速水は手を伸ばそうとしてやめた。
『どうだ、フランスに来ないか?』
速水は振り返った。
ウィル。
そうだ、ウィルはずっといてくれた。
「…ありがとう。うん…行こうかな。……なぁ、ウィル、何でジャックが死んだんだ?どうして―」
速水は言って、我に返った。
急にぐにゃりと周囲がカラフルに歪む。
「うっ、げぇええ」
ぐるぐる回って、死ぬ。胃液がこみ上げ速水はまた吐いた。
「ゴホッ、うぇっ」
食事は取ってなかったが、吐く物も無いがもう死ぬ。はぁはぁ言いながら歯を食いしばる。
あいつら、全員で俺を取って食う気なんだ…!!
皆して俺を殺す気なんだ!
舐めるだけでもヤバイのに、今日は無理矢理、しこたま飲まされた。
用は済んだので、もう容赦は要りません。どうぞ、お願いします。ってそんなエリック…。
「ひぁは、ははは!ぎ、」
――ぶっ壊れる…!!
速水はのけぞり外に届かない悲鳴を上げた。
助けて!!と泣き叫ぶ。ひぃひぃと呼吸をする。ベッドがガタガタと揺れた。やっぱりエリックは悪い奴だったんだ。
「ぁああ!!!ぁ!!!」
周囲が凄い速さでぐるぐる回る。ガチガチガチ、がちゃがちゃ、ぎしぎしと音がする。
――あれ…俺、何でがんばってたんだっけ。
――だって別にもう良いんじゃ無いか。
カラカラの喉でひぃひぃ苦痛に喘ぎながら、速水はどうやって死のうか考えた。
涙が流れてるのに何で部屋の様子が良く見えるんだろう。
速水は見慣れた天井を見る…たくさんの鳥の目が速水を監視している。
恐いこわい…。怖い、…怖い!!皆が何かひそひそ喋っている。
急激に手足が冷える。震えが止まらない。
『朔、母さんは死んだ…』
鳥が鳴いているし、カラスが鳴いているし、こっち見てるし、罵倒してるし、何よりも。
皆が俺をあざ笑っている――!!!
『ハヤミサン』『ハヤミサン』『ハヤミサン』『ハヤミサン』
『ハヤミサン』『ハヤミサン』『ハヤミサン』『ハヤミサン!』
…ジャック?
声が聞こえてそちらを見たら、ジャックが死んでいた。
「…あ、あ…あぁああ。…ーーーーーーーっ!!」
そしてまた繰り返す。
「はっ、はぁ…」
ようやく、症状が治まり始め…速水はひどい倦怠感に襲われた。
呼吸が苦しい。
「…エリック……エリック…」
速水は小さな声で泣きながらうわごとのように助けを呼んだ。あいつ、ころしてやる。
しばらくして、いつものように扉が開かれた。
ああ、これでやっと解放される。
速水はそう思った。
入って来たのはエリックでは無く男性と女性…二人とも看護師だ。
女性は大きなトレーを持っている。
速水は頭を持ち上げられた。てきぱきと枕元のベッドカバーが外され、新しいカバーが付けられた。乱暴かつ丁寧に、濡れたタオルで顔を拭かれた。
「はい、今日は注射しますからね」
男性看護師が微笑む。カチャカチャと音がする。
「え…?」
横になったまま、速水は腕を消毒された。エタノールでひんやりする。
そして彼は無色透明の何かを注射された。
■ ■ ■
その様子を、エリックと複数の研究員はリビングで見ていた。
速水が荒らしたリビングは綺麗に片付けられ、代わりに運び込まれた計器が山ほど置かれ、パソコンの画面には数値が表示されている。
速水のパソコンがあったキッチンは研究員の休憩スペースになっている。
うっとうしいレオンに言われたため、このアパートメントは適当な理由を付けて、丸ごとプロジェクトが買い上げた。
もちろんゲストルームにはしっかりと防音工事が施された。だから速水がどんなに泣き叫んで暴れても平気だが、周辺への配慮は必要だ。
速水は二月頭から、決まった時間になったらゲストルームに籠もらされていた。
自発的に黒い薬を飲む為で、その時は特に拘束も無かったが…もう種明かしは終わった。と言う訳で、今日から速水も『養生』し万全の体制だ。
『薬』への耐性も十分付いている。
後は結果を待つのみだった。
注射をしてから十分が経過した。
速水はひたすら目を見開くばかりで、肝心な変化が現れない。
「副主任、これは…数値が低いですね…」
白衣を着た白人の男がファイルをめくる。医者らしい。
側では雑用の看護師がデータを見ている。
「だが彼が受給者なのは間違い無い。それも一級品の…」
もう一人の男性医師――彼は黒人だ。彼が白人医師に答えた。
「やはり…シャドーが現れるか?…どうだ?」
「だめですね。ゼロです」
男性看護師が答える。
「ハァ…やっぱり…もう十九でしょう?しかも男性…」
女性医師が溜息をつく。
「もう少し待ちましょう」
エリックが言った。
それから五分も経たずに速水は気絶した。
これはまるきり、薬を注射された一般人の反応だ。
医者達が溜息を付く。
「やはり…もう手遅れか…」「くそ、ジョーカーめ!…もったい無いっ」
「だから、4で進行を止める手段を早く…」
「いや、まだ分からないぞ。まだ可能性はあるはずだ。追加するか?」
彼等は話し始めた。
「…副主任、これからどうしますか。続けますか?」
黒人医師が振り返って確認した。
この薬は危険性が高い。無駄なら止めた方が良い。
「受給者にはそれぞれ特徴があります。そのパターンを解析するのが我々の使命。貴方がたから見て、彼はどうですか。4が5になる可能性はありますか?」
エリックが言った。答えが分かっている時でも、彼は聞いてくる。
研究者達は黙り込んだ。
「やはり…そうですか」
エリックはうつむいた。
「仕方無い。では念の為、あと一月ほど投薬を続けて、データ収集。サンプルも取れるだけ取りましょう。次世代にどんな結果が出るか、楽しみですね」
エリックは微笑んだ。
〈おわり〉