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睦月の論理

作者: ガルド






 まじゅつ‐し【魔術師】


 1 魔術を行う人。魔法使い。

 2 手品師。


[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]




 路地裏にはしばらく、ページをめくる紙の音だけがあった。

「どうだ?」

 不意に、妙齢の女性の声が響いた。その声は自信に満ちた、聞くものを圧倒させる響きと威厳の迫力を持っていた。

「ふむふむ、よーわかった」

 対し、これへ答えたのは大学生程度の男の声だった。女の声に反し、男は気の抜けたような大阪弁だ。

「ほい、これが約束のリストや」

 男は手元のA4の印刷用紙の束から顔を上げると、今度は自分のトランクからファイルを取り出して女へ手渡した。

 女はソレを受け取ると、さらに数枚のプリントと厚みのある茶封筒を差し出した。

 しかし男は茶封筒だけ受け取ると、持っていた冊子ごと女へと差し返した。必要無い、とでも言うように。

 女は一瞬の驚きのような表情を見せたが、何かを思い出したように優雅な笑みと共に受け取る。

 男の方は無遠慮に茶封筒の中を確認しだした。

「ひい、ふう、みい……っと。うい、まいど」

 数え終わった男が言う。

「しっかしまあ、よくこんだけの金をぽんっ、と出せるもんやなぁ」

「いやいや、【情報屋オリジン】。君の情報の確実性と貴重性、加えて実用性から見れば、こんな額はまだまだ安い買い物だと思うがね」

「いえいえ、ワイの名前なんてあんさんの【逆説真理パラドクシカル・トゥルース】の前には足元にもおよばへんで」

「当たり前だ。貴様と違い、私は自分のやった事実を隠蔽したりしないからな」

「……ま、ええわ。それで? 次のおもちゃの情報を欲しがったちゅう事は、今やってんのはもう終わりなんか?」

「ああ、皐月とはもう手を切ってきた」

「如月は自由でええなぁ」

「睦月もさほど変わらないだろう」

「つーか、あんさん皐月んとこ居たんかい。あんさんの好きそうな奴やったらあれやろ、どうせ【深層心離オウガ・レイズ】やろ」

「ああ、そこそこ楽しめた」

「あちゃー、あんさんいったい今度はなに作ったんや。わい、『深層心離』は嫌いなんや。厄介ごと増やさんといて―」

「寝ぼけた事を言うな。貴様には好きな魔術師なんてひとりも居ないだろう」

「そりゃそうや」

 壮絶な笑みと共に男はそう言うと、足元のトランクを再び開けた。

 茶封筒をしまい、中から皮ジャンと眼鏡ケースを取り出す。

 男は皮ジャンを羽織り、ケースから取り出した、レンズ部分が小さな丸型のサングラスを鼻へ引っ掛けて、

「じゃ、ワイはこのへんで」

 女へ背を向けて歩き出した。

 それを見送る女は最後に、と。

「ところで、どうして大阪弁なの?」

「今回の役作りー」

 男はやる気なさげに背を向けたまま、右手を上げて答えた。






 い‐し【意思】


 1 何かをしようとするときの元となる心持ち。

 2 法律用語。

   民法上、身体の動作の直接の原因となる心理作用や、ある事実に対する意欲をさす。

   刑法上、自分の行為に対する認識をさし、時には犯意と同じ意味をもつ。


[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]




 冷房の効いた教室。溢れ出した悪意。拳が来る。

 衝撃を覚悟して、しかし恐怖に目をつぶった。

 いつもの事といえ、やはり痛いのは嫌だし恐いものは怖い。

 視覚を失って、始めてセミが鳴いている事に気づき、その暗闇がさらに恐怖を増長させる。

 1秒にも満たない一瞬の間。

「うッ……」

 痛覚は肩を走った。

 痛みに顔をしかめ、さらに追撃が来ない事を祈りながらそっと目を開ける。

 そこには両の拳を構えた同級生――柏木の姿があった。

 全体的に筋肉質なのに線の細い印象があり、顔は細長く、鉤鼻が目に付く。薄く汗ばんだ半袖のワイシャツをはだけさせ、第三ボタンまで見事に開いている。当然のようにネクタイは無く、ズボンのベルトはだらしなく腰まで垂れ下がっている。髪はむしろ気持ちの良くなる位の茶髪で、耳にはピアス。どこへ出しても恥かしくない立派な見本のようだ。

 周囲には藤木、佐藤、菅原の3人。3人が3人、腕を組んだりニヤニヤ笑ったり、思い思いの反応で俺の行く先を見つめている。

 柏木は今、軽快なステップを踏みながら進退を繰り返し、俺の周囲を空間という空間を穿つ、という奇行、もといシャドウボクシングを行っている。

 よほど楽しいのか顔は口元は俺には真似できないような角度へ曲がっている。

 その顔へ更なる色が加わる。

 嫌な予感は一瞬。後はそんなものに関わっている暇など無くなった。

 腹、腕、脚、肩。

 ムキになるには強さが足りず、しかし無視するには痛すぎる。そんな痛み。

 イライラする。

 ……毎度毎度、どうして俺だけが。

 やりやすい、ということなら他にも墨田やなんかだっているはずだ。どうして、どうして俺なんだ。三財界のトップの長男だっていうのに。親父の性格上、親への言いつけなんて意味が無い。そのことも、知ったうえでやっているのだろうか。くそっ。俺が何をしたって言うんだ。

 素早く周囲へ視線をやるが、4人以外にこちらを見ている者は居ない。これも、いつも通りではある。いつも通りの経過の無視と結果の傍観だ。助けはない。

 藤木達は柏木の見事な連携に感嘆の声を上げている。

 殴りかえしたくなる衝動。

 ……だまれ、金魚のフンが。

 その舐めきった余裕に、その開いた腹に、その顔面に、拳を打ち込んだら奴らはどんな反応をするだろうか。分からない。完全に逆上して俺を半殺しにでもするだろうか、あるいは割に合わないと俺へ手を出すのは止めてくれるだろうか。試してみたい。柏木を殴り飛ばし、藤木、佐藤、菅原の順に端から顔面を打つ。……あー、拳が痛そうだな。

 その時、さらなる追撃として蹴りが来た。

 蹴り。柏木の、腰を落とした完璧な。

 膝を狙った。柏木の、恐らくは限りなく本気に近い。

 床へひれ伏せさせる。柏木の、ただそれだけの欲望のために。

 着弾。

 ドスンッ!

 授業が始まる前の、独特の活気に溢れた教室が一瞬静かになるほどの騒音。それに絡まるようにして鳴る、巻き込まれた椅子と机の倒れる音。その大音量に教室の沈黙の密度も濃くなる。

「っぐ……」

 当の俺は、倒れた時の反動で床へ思いっきり頭をぶつけていた。

「っしゃあ! どうよ? 今の連携。完璧じゃね?」

「バーカ。だいたいテメーはキックボクシングじゃなくてただのボクシングだろ……」 

 騒ぎの原因のはずの柏木は、こちらへ背を向けて仲間へ勝利のガッツポーズを決めている。

 ……それでも、反撃した方がやられっぱなしよりはずっと気持ちがよさそうだ。

 しかし、そんなたいそうな事を思ったところで、俺は立つ事も出来なかった。蹴りが完璧に決まっていたようで、打たれた左膝には全く力が入らない。

 教室は、部屋全体が水で満たされたかのような、緩慢な空気が教室を支配していた。ただ、4人の例外達のお喋りだけが響いて聞こえる。

 と、予鈴が鳴った。

 少し間の抜けた定番の音に、助かったとばかりに部屋全体が再びざわめきを取り戻す。

 俺はまだ立ち上がれない。

 活動を開始した教室から聞こえてくる、期間の迫ったテストの話と残留した痛覚が余計に俺を惨めにした。


 そんな時、開けっ放しの教室のドアから人が見えた。仰向けのまま視界の端で捕えたという奇妙なアングルで。

 そいつはそこに存在していることに不自然が無かった。

 そこに有るべくして有る。そんな印象を見ている者に感じさせる。

 だが、そいつはそんな第一印象にはあるまじき服装をしていた。

 青が焦げたような、使い古されたジーパンに、茶色の皮ジャンを羽織っている。髪は逆立っており、漆黒の丸眼鏡が鼻先に引っ掛っている。

 生徒ではないだろう。

 いくらなんでもあそこまで行くと、型にはまらないという格好良さよりも、場違いな間抜け感が先立ってむしろ滑稽だ。

 そもそも外見から想像できる年齢が、明らかに高校生ではない。間違いなく俺よりも5は上だろう。

 だからといって、教員かといったらそれも違う。だいたい、常識的に考えれば教員はあんな格好はしないし、ドラマなんかに出てくるようなユニークな先生が居たとしても俺がそれを知らないのはおかしい。

 いや、そうじゃない。そんなことじゃない。奴は高校生だとか教師だとか、そういった常識の範疇で収まらない人種だ。そう、唐突に思った。それは弥生 声高せいこうという、似た雰囲気を持つ知り合いがいる俺だけが受けた印象か。とにかく、俺にはそいつの相反する矛盾した印象が気になった。

 そいつは床へ転がっている俺を見下ろすでもなく、相対してるかのごとく細く鋭い目で、真っ直ぐに視線をぶつけて来た。

 視線が宙で交錯する。

 奴と俺、2人以外の全てが遠のいていく感じ。血の気が引くように、カメラの焦点が急速に画面奥へ集束していくように、目眩さえ感じる感覚。

 そいつは笑った。

 角張ったあごを引き締めて、唇を少しだけ持ち上げて。

 ニヤリ、という表現がお似合いの、実にキザったらしいものだった。

 不意に、本来ならそれを合図に授業が開始されるべきである、無機質な音が耳へ届く。

 じきに先生が来る。そろそろ立ち上がり、何食わぬ顔で席へと付かなくては。

 そう考え、一瞬。瞬きすればそれだけで終わってしまうような、そんな刹那の間。奴を意識の外へ置いた。

 奴は、

 もうどこにも居なかった。


 *


「……なぁ、柏木」

 オレは自慢の茶髪をがしがしと音が聞こえるくらいにかいた。

 さらにあくびが漏れる。アゴが外れるんじゃないかと思うほど大きいあくび。

 目尻には涙が溜まる。気だるげにこすった。

 ぁあー、だるい。ダルい。

 時はやっとこさ6時間目へ突入している。この時間が終われば今日のお勤めも終わる。全くもってはやくして欲しいものだ。厚顔無恥な時計へ向けて、無言の圧力をかけた。

 はだけさせたシャツの胸元を扇いでひと時の涼をとる。

 夏休みまで待ってくれない太陽は、容赦なくこちらの精神と肉体を蝕む。今日開けたばかりの梅雨の残り香で、湿度もハンパじゃない。だいたい、昨日まで3日3晩雨が降り続けていた。こういった雨のことを「宿雨」というらしい。へっ、頭が良くなった気分だな。ちなみに今、つまんねー自慢話をだらだらと垂れ流すことで有名な国語教員が言った言葉の受け売りだが……。

「柏木ぃ〜」

 今、長期の休みを前に、学校は全体的に勉強へ熱が入っている。

 教師はわざわざ職員室を出入り禁止にしてまで問題作りに、生徒は直後に控えた夏休みを気分よく過すための勉強に。

 しかしまあ、よくやる。

 暑くなくたって、やる気というものがひとよりいちじるしく欠如しているオレにとって、こんな意味のない時間など潰すための時間でしかない。

「おーい、」

 オレと同じ考えの奴も、さっきから背を叩いてくるし、な。

「んだよ、佐藤」

 振り向くと、机につっぷした佐藤がニヤッと笑った。

「どうせ暇だろ? 柏木だって、お勉強なんて柄じゃねーじゃん」

 違いない。

「ちっとジメイの奴からかって遊ぼうぜ。もう6時間目だし寝るのもだるい」

 断る理由などあるはずがない。

 ちなみにジメイというのは、「こんなのは自明の理だ」というのが口癖の国語教員、坂木 憲一のアダナだ。

 オレの顔を見た佐藤が、キツネによく似た顔で意地の悪そうに笑った。

 それを確認するとオレは前へ向き直った。

 キッカケは佐藤が作る。オレは援護だ。

 ……ネタは田村かな?

 にやけてしまいそうで口元を手でおおった。

「センセー」

 芝居のかかった動作で佐藤が声を発する。

「佐藤、なんだ」

「田村センセーとはうまくいってるんですかー?」

「なっっ」

 クラスがくすりと笑った。

 坂木の田村への片思いは校内では有名な話だ。

 本人は巧く隠しているつもりらしいが、時折漏れる言葉の端々や場所をいとわないクール(ただし風味だけ)なアタックの数々を目の当たりにすれば、誰が噂するでもなく広まるのは、それこそ自明の理だ。

「そうそう、昨日の階段ですれ違った時のアレは惜しかったですね」

 オレはタイミングを見計らって言葉を滑り込ませる。

 押し殺したような笑い声が、あちらこちらから聞こえる。

 あ、だんだん赤くなってきた。ホント、分かり易すぎ。

「先生はカッコイイっすから、きっと田村先生とはお似合いですよ」

 斜め前の席から、トドメとばかりに褒め殺しだ。

 そちらを見ると、藤木がごつい顔面のうちの片目をつぶり、ウインクしている。

 今度こそ、クラスは爆笑の渦だ。

 ジメイは目を白黒させ、顔を赤紅とさせ、完全に混乱している。

「ところで先生……」

 菅原の追い討ちの声が聞こえる。

 ここまで完璧にペースを持ち込めばこちらのものだ。残り時間、授業は潰れ退屈はしなくて済みそうだ。

 そこで、

 藤木の肩越しに人影を見た。

 そいつは3階にある2‐Cの窓越しに居た。

 ……バカな。

 そいつは盛りを迎えた大木の枝で、あぐらをかいて座っていた。

 動き易そうなあせたジーパンに、身を守るように纏った皮ジャン。鼻に引っ掛けたサングラスが妙に目に付いた。

 圧倒的な存在感でありながら、気をつけなければ景色へ溶け込んで見失ってしまいそうな希薄さ。

 そのグラサンは組んだ左足の膝へ肘をつき、有りもしないあごひげを撫で付けていた。

 ナニかを、実に興味深げに見ている。いや、観察していると言った方がいいかもしれない。その視線は、ジムの連中がオレを見やがる目にそっくりだった。

 こいつは使えるか? 利用価値は? デメリットは見合うか?

 楽しそうに、絡みつくように、汚らしく。

 見る。

 ……っ。

 軽い目眩がした。

 目が疲れた。目頭を抑えて強くまぶたを閉じる。

 もう一度、と勇んで開けた視線先、

 そいつは、

 もうどこにも居なかった。 


 ……たしか、あいつが見ていた方向は、

 視線を逆算する。

 間違いなく、奴はうちのクラスを見ていた。

 白昼夢か、とは思わない。絶対にオレはおかしなものを見た。

 おかしなもの、というのはいけ好かない。気持ちが悪いからだ。世の中の全ては白か黒で有るべきだ。とにかく、気に食わない。

 だから、そんなオレに出来る事は、奴が何を見ていたかを探る事だ。

 奴の視線。その先に有るものは、

 近藤 みのる。その生徒だった。

 ……何となく納得。神崎・近藤・堺の名から成る日本経済のトップ、俗に三財界と称されるひとつの世界。その一柱、近藤グループの御曹司。そしてオレにとって最も気に入らない同級生だ。

 今日も朝からブッ飛ばした。

 その近藤は頬杖をついて何をするでもなくただ、座っている。

 ただそれだけなのに、オレはソレを見ているだけで酷くイライラする。

 今だオレの耳の外で続く藤木達の行いに、皆のように笑うでもなく、墨田のように無視して自習をしているでもない。

 人の事を小莫迦バカにしたような中途半端な表情。冷静ぶった冷めた態度。

 トントントン、トントントン。

 己が地球を回してやってるとでも言いたげな傲慢な目つき。

 トントントン、トントントン。

 気がつけば爪を机の裏へ当てていた。うるさいと思うのに手は止まらない。

 トントントン、トントントン。

 教室はすでに収集のつかないほど騒がしくなっている。

 トントントン、トントントン。

 イライラする。理由なんてない。

 トントントン、トントントン。

 そんなものじゃない。

 トントントン、トントントン。

 見ているだけで殴りたくなる。そんな衝動を呼び起こす。

 トントントン、トントントン。

 別に、近藤が悪いことをしたわけでも、オレへ敵意を向けてきたわけでもない。だがそれが、逆にカンに障る。

 トントントン、トントントン。

 机の裏を叩く音が腹立たしさを増長させる。

 そんな時、

 近藤と目が合った。

 そこには、眉尻を下げた、媚びるような近藤の顔があった。何? とでも言うように首をすくめている。

 外面だけの顔。ソレを見たオレは、一瞬でも早く近藤を視界から外すために反射的に前を向いた。一連の動作で、机を叩いていた手を今度は思いっきり膝へ打ち付けながら。

 時計の針は3時を回った。

 久々にサンドバッグが恋しくなった。


 *


 学校が終わり、俺は何をするでもなく家路につく。

 交差点を渡り、商店街を歩き、土手の上を通り、学校から1km弱の家へ。

 街から少しだけ外れた場所に存在する、都会には場違いな豪邸。誰にも間違いようがないだろうが、ご丁寧に「近藤」という表札が張り付いている。

 気だるげに外門を開け、玄関を目指す。

 観音開きの戸を開けると、そこには珍しく親父の姿が会った。

 ガタイの良い身体にピシッとスーツを着こなし、几帳面にネクタイを締めている。今は靴べらをかかとへ差し込んでいる。

 その横には母さんが親父の無骨なカバンを持って控えている。

「稔か。お前、しっかりと勉強はしているんだろうな?」

 ……1ヶ月ぶりに息子に会って、言うことはそれだけか。

「あんな3流とも4流ともつかない高校へ入学しおって。最低でも学校で1番くらいにはなっておけ」

 親父は母さんからカバンを受け取ると、靴のつま先で地面を叩いた。

「ま、お前には別に何も期待しとらんがな。せめて近藤の名を汚さんようにだけは気をつけろ。最近は神崎の方も何かとうるさくてな、これ以上私のストレスの原因を作らないでくれ」

 腕時計を締めている。

「それと、何度も言っているが私の書斎へは絶対に入るなよ」

 ……くどい。いったいこいつは何度同じ事を言えば満足するんだ。てめぇのこもっているような部屋なんか頼まれたってはいらねぇよ。

 こちらの心情ををどう考えているのか、あるいは全く考えていないのか。クソ親父は言いたい事だけべらべら喋った後、こちらの言葉どころか反応も待たずに去っていった。

 扉が閉まる瞬間、舌打ちをひとつ。

 それに反応するように、母さんが、

「稔ちゃんは稔ちゃんのペースでやればいいのよ。お父さんの言葉、あんまり気にしちゃだめよ」

 慈愛に満ちた目で見つめてくる。

 その、粘り絡みつくような視線を右腕で振り払い、靴を放り出すとそのまま二階への階段を上がった。

 普通の家よりも少し長めの階段を上っていく。

 階段を上りきると、使う目的も与えれない客室3室と俺の部屋、そして弟の蓮の部屋がある。

 ……今日は厄日だ。

 色々な意味をこめて思う。

 膝も後頭部もまだ痛いし、頭も痛い。

 階段を上る時に鳴る小気味良い音が、なんだか自分を励ましているようで脚へこめる力を強めた。

「あ、兄さん。帰ってらしたんですか」

 そんな時、数メートル先の蓮の部屋の戸が開いた。

「ああ。お前はまーた勉強か」

「はい、ちょうど今さっき高校3年分の予習を全て終えたところです」

 と、高校1年生の弟はほざきやがった。

「それにしても兄さん、経済学と言うのは本当に面白いですね。父上が何故この道を選んだかがよく解ります」

 俺には理解不能だ。

「ま、お前が何しようと俺には関係ないがな。じゃあな、俺はもう退散させてもらうよ」

 去れ、とばかりに手首を払って道を開けさせる。

 数歩あるいた後、黙って道を開けた蓮は俺の背へ痛烈な言葉を突き刺した。

「フッ、そんな無気力だから世継ぎから外されるんだよ」

 ぼそっと、聞こえるか聞こえないかの微妙な音量。しかし、その言葉はどんな大声よりも耳に痛かった。

 振り返ると蓮はもう部屋へ引っ込んでいた。

 さっきのあれは、聞かすために呟いたものなのか、思わす漏れた本音なのか。

 どちらであっても、楽しい空想にはなりそうになかった。

 自室のドアを蹴破るように開けると、そのままベッドへとダイビング。

「はぁ」

 やっぱり、

 ……今日は厄日だ。






 がい‐ねん【概念】


 1 物事の概括的な意味内容。

 2 《concept》形式論理学で、事物の本質をとらえる思考の形式。個々に共通な特徴が抽象によって抽出され、それ以外の性質は捨象されて構成される。内包と外延をもち、言語によって表される。


[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]




 時計の長針と短針がもうすぐ、最も高い位置で重なろうとしている。

 俺はそれをベッドから何をするでもなく眺めている。

 セミの声が聞こえる。

 街から少し外れたこの場所になると、夜では自動車が通ることも滅多にない。

 開けた窓から薄く焦げた夏の風が流れてくる。

 カーテンが流れる。

 夜は好きだ。

 ごちゃごちゃうるさい連中からも、俺を排除しようとする連中からも、同時に開放される唯一の時間だから。

 だから、嫌な事があったときは何もせず何もない時間を作る。

 その時間だけを楽しみに昼間を消費する。

 そうして、何もしていないと、逆に頭は色々な事を考える。

 教師も生徒も、誰も俺のことをまるで理解しない。だから、学校は嫌いだ。俺を理解してくれない連中が居るところなんて、ただ居ずらいだけだ。あんなにも、連中同士は解り合っているというのに、どうしてその一部でも俺の方へ向けてくれないのだろう。

 そして柏木だ。何故、奴は俺のことをあれほどまでに排除しようとするのだろう。俺が何かしたとでも言うのだろうか。被害妄想もはなはだしい。それとも自分が学校の支配者にでもなった気でいるのだろうか。

 クソ親父の無理難題や小言にも、母さんのうざったい態度にも飽き飽きだ。理解のかけらも、じつの両親からは感じられない。蓮だけは俺のことを理解しているようだが、あれは敵だ。

 結局のところ俺は救われず、居場所など何処にも無い。

 再びカーテンが流れた。

 その裏に、

「よお。近藤 稔やな?」

 キザな笑みを浮かべた、昼間のサングラスが窓辺に座っていた。

 ……バカな。ここ、2階だぞ。

 それも、普通の家よりもずっと高い。更に言えば、周りに足場になるような木の類は無い。俺の部屋を使わずにそこへたどり着くには、家の壁をよじ登らなくてはならない。それは、結構な命がけの行為だ。

 と、そこまで考えて、

 ……というか無理だろ。

 そう結論した。

 だが、現実として男はそこへ存在している。昼間と同様に、どうしても違和感というものが見出せない、という違和感を持って、そこに存在している。

「そう警戒せんでもえーやんか」

 男は言う。

 実際は、自分自身がこの不審者へ警戒心を抱いているのかが疑問だった。男が現れても俺はベッドから起き上がるでもなく上半身を上げただけ。大声を出すわけでもなくゆったりと眺め続けている。

 自分自身の余裕に、自分自身が驚く。

 俺は今、不審者を前には余りにも無防備だった。

「誰だ? お前」

 なんとか、それだけ搾り出した。

「お、そやったな。自己紹介がまだやった」

 男は皮ジャンの裏から1枚のカードを取り出し、指に挟んでスナップスローで投げた。

 カードはくるくると綺麗に回転し、俺の腹の上へ見事に着地した。

 拾い上げてみると、それは名刺だった。

 「睦月 はじめ」、それが男の名前らしかった。さらに、職業欄だと思われるところには、


 魔術師。


「…………」

 ……印刷屋さん、嫌だっただろうなぁ。

 その2つの上には小さい字で、「序列一番目 弁論者」なんてのと、「旧暦十二家1の情報屋!(自称)」なんてものまである。

 つーか、自称ってなんだ自称って。自称を自称してどうする。

 呆れ顔であろう事が自覚できる。

 しかし、その自称魔術師は俺の反応などガン無視だった。

「さて、自己紹介が済んだところでやなぁ、ひとつ、相談というか取引と言うか」

 睦月は中指でこめかみを軽く叩き、考えるような仕草をする事1秒足らず、

「ま、ワイら流に言えば『契約』やな。『契約』を申し込みたい」

 訳の解らない事を言い出した。

 しかし、魔術師の次は契約か。ゲームの世界じゃあるまいし、とことん胡散臭くなってきやがった。

「ふゥン。で? その突然人の部屋へ現れた魔術師は、一般人にいったい何の契約の申請するんだ?」

 取り敢えず、あくまで取り敢えず、今のところは付き合ってやることにした。

 こういう話は必ず、話していくうちに論理的には説明できない矛盾が出てくるものだ。

「お、意外に話が早いな」

 皮肉で返したつもりだったが、睦月は全く意に介さないポジティブ思考でさらなるクロスカウンターを放ってきた。

「話は簡単や。【お前の最も望んでいるモノをくれてやる。対価として近藤 たけるの書斎へ入れろ】」

 腕を組んで、毒々しい笑みで言い放った。

 近藤 武。つまり、俺の偉大なるクソ親父たる近藤グループの会長の書斎へ入れろと、そういうことか。

 しかも俺の最も望んでいるモノ、とな。抽象的な物言い、さすがに魔術師を自称するだけの事はある。

 ……冗談じゃない。

「俺がそんな条件で了解するとでも?」

「答えは急がんでええ」

 睦月はあくまで余裕を崩さない。

 いらいらする。

「いくら俺が親父の事を嫌ってるったって、やっていい事とやっちゃいけない事の区別くらいつくぜ?」

「なにも物取りをしようというんやない。ただ、取り返したいものがあるんや」

 首をすくめて、なんら悪びれずに睦月は言った。

 つまり物取りじゃないか。

「なにぶん、モノがモノでな」

「なんだよ?」

「日本刀や。知人の作品なんやけど、渡るべき人間へ渡る前に盗まれたんや」

 む、その言い方は引っ掛るな。

「つまりうちの親父が盗んだと?」

「いや、ちゃうやろな。事情なんて知らずに、ブローカーへ流された『時雨』を回りまわって手に入れただけやと思うで」

 事情を知っている人間なら時雨をあんなふうには扱わんやろから、と付け加えた。

 取り敢えず、身内の恥ではなくて安心する。

 だが、正規のルート、かどうかは怪しいが、それでもそれなりの手順を踏んで手に入れたものなら、こいつのやろうとしている事はやはりただの物取りだ。

「クソ親父がバカ親父じゃなかったのは安心したが、それならなおさらその契約とやらは無理だな」

 思った事を素直に口にする。

「だいたい、あそこには会社とか三財界の事とか、他にも大量の大事な情報が保管されてんだ。身内の俺だって、あそこには入った事は無い。契約を持ちかけるんなら相手が違うぜ」

「ん、警戒されて当然の部分やな。だがワイは、【近藤 武の書斎にあるデータ、本、書類、それに類する情報を記載されている物は部屋から外へは持ち出さない】。ほれ、『契約条文』や」

 睦月は笑みを絶やさず、1枚の仰々しい紙を取り出した。

「なんだ? これ」

 受け取って目を通す。

 確かにそこへは近藤 稔の望んでいるモノと引き換えに日本刀(時雨というらしい)を取り返すこと。他の物を外へ持ち出さない、という旨のものが書き込まれている。

「ワイらのルールや。あとはお前がサインするだけで『契約』完了や。……あ、サインは判やのうて筆でええで」

 まずい。だんだんとペースに巻き込まれてる。

「それをどう信用しろと?」

「然るべき組織がある、んやが」

 睦月はいつの間にか取り出していた懐中時計を見て、

「今日はもうええ。さっきも言うたが別に答えを急かす気はないんや」

 またな、と睦月は窓辺から外へと飛び降りた。

 2階から1階へと、飛び降りた。

「しまった」

 俺はベッドから跳ね起きて窓へ飛びついた。

「俺の最も望んでいるモノをなんだと思ってるのか聞き逃した……」

 そこには吸い込まれそうな漂う闇と、遠くの方から木々の泣く声だけが見えた。


 *


 日はすでに真上まで到達して、急斜面からオレ達4人を照らしつけていた。

 周りに遮へい物は無く、青い空と灰色の床と白っぽい緑の金網だけが視界を占める。

 完全に出来上がっている藤木が缶チューハイを片手に大声で話す。

「それでな! おれはその時言ってやったわけよ。お前には無理だって。だっつうのにジメイのやろう全くきかねぇんだよ!」

 その藤木を佐藤が抑える。

 馬鹿野郎、ここが学校の屋上で今が授業中なの忘れんな! たしなめているはずの佐藤の声もだいぶデカイ。

 その事で、さらに皆で大笑いする。

 身体がふわふわする。

 なんだか心地よい。

 げらげらげら。

 オレも一緒になって笑っておく。

 もはや何がおかしいのかさえ分からない。おかしいことがおかしい。だめだ、息が辛くなってきた。

 オレは過呼吸寸前までなりかけた呼吸を整え、涙を拭った。

「お前、度胸あんな〜。ジメイって柔道部の顧問だろ。投げられなかったのか?」

 と、菅原。

「ああ、その後生徒指導室に呼ばれたけどシカトした!」

 再び弾ける笑い。

 オレは笑いながら缶のビールを一気にあおいだ。

 熱が身体の内側を伝う。

 下った熱は上昇し、頭をも侵す。

「いやいや、まだまだだな。オレならもっとスゴイ事やってやるぜ!」

 自分が何をいっているのかも、あまり深く考えられない。

 口が油をさしたかのようによく滑る。

 その言葉に藤木が、真っ赤にしたごつい顔を少しムッとさせて、

「じゃあお前は何すんだよ。ジメイの野郎でもぶっ飛ばすか?」

「近藤を今度こそ本当に殴り殺すってのは?」

 キシシ、とちょっとアブなめの笑いと共に相当アブないことを漏らす菅原。

 オレはビールへ口をつけた。

 びびったのではない。どちらも魅力的過ぎて迷ったのだ。

 が、佐藤人差し指を左右に振って、チッチッチッなどと舌で鳴らしだした。

「お前ら、今がどんな時期か忘れたか?」

 はぁ? といった感じで誰も答えない。

 佐藤もじらす気はない様でさっさと答えを告げる。

「夏休み前の大一番! テスト1週間だよ、1週間前!」

 オレ達3人を置いてけぼりに、1人大笑いしている佐藤。

 少し腹立たしげに促す。

「それで?」

 前からやってみたかったんだ、と前置きをしてから、

「柏木ぃ、お前、職員室から問題用紙盗ってこい!」

 一瞬の沈黙というか間というか、

 そして、

 同時に藤木と菅原の目も耀き出した。

 オレはほてる頭で、手近にあった新しいビールのプルを開けた。

 口をつける。

 液体がのどを通過する感覚。

 なるほど、テストも楽できて一石二鳥だ。夏の度胸試しとしては、結構楽しめるかもしれない。

 缶が軽くなる。

 一気にいく。

「ぷはー。うっし、んじゃ今夜辺りやってやろうじゃねぇか!」

 学校の屋上に歓声がこだまする。

 リングで敵をKOした時と似た爽快感。

 倒れる敵と、それを見下ろすオレ。

 ……う〜ん。あの爽快感には少し劣るかな、やっぱ。

 バッ、とコンクリに身体を大の字に放り投げて、仰向けになる。

 手の届きそうな雲と弾くような太陽と痛快な蒼。

 倒れた時の視界の端に何も無い屋上に生えた唯一の品、出入り口の巨大なでっぱりが見える。

 その上に、サングラスのようなものをかけた誰かが居た気がした。

 今はもう誰も居ない。

 オレ達以外に他にもサボり組が居るのだろうか。

 一気飲みの分の酒が回りだしてうまく頭が回らない。

 ぐるん、ぐるん。

 鳥が回る、雲が回る、世界が回る。

 ぐるん、ぐるん、ぐるん。

 次に起きた時はもう忘れているだろうな、と思い、何を忘れるのかもうよく解らなくなり始めていた。

 勤勉な生徒も顔を出す昼休みまで、まだもうちょっとある。

 オレは少しの間だけ意識を手放す事にした。






 にん‐しき【認識】


 1 ある物事を知り、その本質・意義などを理解すること。また、そういう心の働き。

 2 《cognition》哲学で、意欲・情緒とともに意識の基本的なはたらきの一で、事物・事柄の何であるかを知ること。また、知られた内容。


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 下校。

 3時を過ぎて中途半端に時が経った今、俺は土手を歩いていた。

 手さげのスクールバッグを半袖のワイシャツの肩にかけ、舗装された道を行く。

 道の両脇に緑を携えた、盛り上がった大地。川が併走する道。

 黄昏にはまだ早く、昼間には余りにも遅すぎる。

 歩く。

 何も無いな、と当たり前の感想を抱く。

 土手の下はグランドになっており、いくつも連なっている。熱心な野球部員達が、ひとつのグランドで忙しなく動き回っている。夏もだんだんと深まってきた。歩くだけで汗だくなるような時期だ。部員達は額にしわを寄せて、喉をからして。忙しなく動き回っている。

 ……なにが愉しんだろう。

 風が吹いた。

 汗をかいた身体にしみる。

 グランドで快音。

 皆が苦しそうな中、ひとりだけ良い顔をしている部員がいる。そいつが、酷く浮いて見えた。

 そいつが良い顔のまま、再びバッドを構えた。

 暑い。

 道の脇の緑へ、真っ白な唾を吐き捨てる。

 進む。

 もうすぐ鉄橋の下へ着く。

 うだるような暑さが歩を速めた。

 太陽の作る影へ入る。

「はぁ、」

 一息つく。

 橋の下には先客がいた。といっても相変わらず土手下の道だが。

 中学生らしいポロシャツの集団だ。

 人数は計5人。1人を囲むように4人が立っている。

 彼らの関係など、誰も言わなくとも誰だってわかる。

 少し、立ち止まってしまう。

 声は聞こえない。

 4人の中で一番でかい奴が何か言った。

 周りががやがやと何か言う。

 中心のメガネはただ小さくなっている。震えているようにも見えるが、まさか泣いているのだろうか。情けない。

 醜い顔のボス猿が視線で子分へ合図する。

 1人がメガネをどついた。

 メガネはよろめき砂利道へ倒れこむ。

 痛そうだが、それだけでしかなさそうな攻撃。一瞬の痛みと数時間の余韻を、自分の中だけで抱え込んでしまえば丸く収まるような、そんな痛み。病院で血を抜かれる時の注射の痛み。決して痛みを感じないことは無く、決して我慢の限界を迎えることもまた、無い。

 倒れたメガネの肩を、また別の1人がわざとらしい親しみに満ちた顔で抱く。

 メガネはしきりに同じ言葉を、

 何度も、何度も、何度も、

 口にしている。

 声は聞こえない。

「あーあ、えげつない事しとるのう」

 声が聞こえた。

 土手下から顔を上げれば、

「よう、近藤 稔。奇遇やな」

 そこには睦月の姿があった。

「なっ、何でお前がこんな所に……」

 と、途中まで言いかけて、昨夜俺の部屋へ来たのだったら、ここにいるのは別になんら変なことでないことに気が付いた。

 しかしなんとなく、睦月はあまり昼間は出歩かないイメージがあったので、ついそんな言葉がこぼれた。

「や。たまたまや、たまたま」

「たまたまって」

 一瞬の驚きから開放されて、冷静になってきた。

 昨日の今日。しかもまた俺の前へ現れるような事を言って立ち去ったのだ。

 奇遇ってのはどうも嘘くさ……

「嘘や」

 愕然とする。

「ホンマは、お前に会いに来たんや」

 サングラスをキザにかけ直す睦月。

「そんな事より見てみい、あれ」

 睦月は土手下の方へ向き、中学生達を指差す。

 ボス猿がゆっくりと歩いてメガネに近づいていた。

 メガネはゼンマイの切れたように、もう動こうともしない。

「近藤 稔。お前はこの状況をどう見る」

「どうもこうも、イジメだろ。中学生の。おおかた、万引きでも強要されてるんじゃないのか」

「ふむ、なるほど。確かにイジメだな。では近藤 稔、お前はどうしてあの男子学生はイジメられていると考える?」

「どうして? イジメられるのに理由なんてあるはずが無いだろう。ま、強いてあげるとすればあのボスの気に食わなかったんだろ、その男子学生は」

 どうして俺はこんなにべらべらと喋っているんだ?

 しかし思考する間もないほどに、睦月は矢次に喋りだす。

「そうだ。あの男子学生はボスの気に食わなかった。これは立派な理由だ。因果、と言い換えてもいい。この世の全ての事は原因と結果、そしてその副産物で成り立っている。この場合、原因は気に食わなかった。結果はイジメだ。ところで、近藤 稔。お前は運命とやらをどう考えている? 決まっていて、変える事の出来ない絶対的な線路だと思うかね。それとも、そんなものは無く、弱者の言い訳だと思うかね」

「……特に考えた事は無いな」

「特に考えた事は無い、ふむ。理想的で模範的な答えだな。魔術師を相手に自分を判断されるような要素は安易に与えるべきではない。だが喜ばしい事に私の話し相手は魔術師ではない。君と違ってな。

 私はこう考えているよ、運命は存在するとね。だが私の考える運命とは他人の指すそれとは多少異なっているようだがね。全ての事には原因がある、といったように宇宙の始まりにも原因がある。そしてその結果が次の原因を創り出す。地球の誕生にも原因がある。人類の始まりにもだ。それぞれの原因が結果を生み出し、生み出された結果が原因を創る。ひとつの原因から複数の結果が生まれ、複数の原因がひとつの結果を生み出す。それぞれは複雑にに絡み合い森羅万象を成す。原因によって結果が決まる以上、その連鎖はつまり運命という『概念』に当てはまる、と私は考えるわけだ。私が生まれた事にも原因があり、君が運命について考えた事が無いのにも、その思考体系を作った環境や遺伝やらの複雑な、原因と結果の、結果だ。だがこの考えは決して受動的な考えではないはずだ。なぜなら人がモノを成す時は、結果と原因をつなげる為に『意思』が必要だからだ。それが例え、他の原因によって生み出された結果によるものだったとしても、な。

 さて、それじゃあだ。近藤 稔。この中学生達のイジメに置ける『意思』とはなんだ?」

「ま、まあ、イジメようとするのは『意思』、なんだろうな」

「そうだ。イジメという『概念』を選択した人の『意思』、原因と結果を繋ぐ『意思』だ。更に言うならその『意思』に付き従うのも『意思』だし、『意思』を表明しないのもまた、『意思』だ。だが、近藤 稔。この場に存在する『意思』はそれだけだろうか?」

「知るかよ。だいたい、お前の論理ではその『意思』なんてのはそれこそ数え切れないぜ」

「私が思っていた以上に君は賢いようだ、近藤 稔。確かにその通りだ。ではこの場合は最も見えやすいモノだけに限定しようじゃないか。といっても、その限定という行為にも明確な基準などないのだからいい加減なモノではあるが、まあいいだろう。君の指し示した『意思』は加害性の『意思』だ。そこに加害性があるという事は、どういうことか解るな?」

「……解らないな」

「落ち着け、落ち着けよ近藤 稔。お前は考えていないだけだ。無知と無能を混同するな。……そうだな、ヒントをやろう。物事は原因と結果、絶対的に一方通行などというモノは在り得ない。全てに等しく相対する存在が有るのだよ。それはまた、『意思』も然り」

 加害性。

「……」

 相対。

「…………」

 そこに位置する存在。それは、

「………………。イジメられる、『意思』」

「その通りだ。ようやく『認識』してくれたか。やはり君は頭が良い。見込み以上だ。……『意思』無くして結果は在り得ない。選択を迫られる場合はあっても全ての事象、結果に対する最終決定には常に『意思』が付き纏う。そのことさえ『認識』してもらえればなんら問題は無い。『意思』を持って創まり、『概念』という力を伴い、『認識』をもって完結する」

 なんだか、睦月の言葉に背に冷たい汗が流れる。

 喉が渇く。

 息が苦しい。

 視線を睦月へ戻す事が出来ない。

 空気が睦月の魔に当てられたかのように俺へ絡みつく。

「さて、それでは近藤 稔。貴様の『意思』は、我に何を望む?」

 沈み込むような、重々しい声。

 今、俺の横に居るのは昨日の夜に人ん家の窓から飄々と現れた人物ではなかった。

 その時、土手の坂で何かが爆発した。

 連続。立て続けに起こる破裂音が地を滑っている。

 心臓が跳ね上がる。

 しかし、破裂音は1秒と持たずまさに一瞬で止んだ。

 冗談じゃなく、心臓が止まるかと思った。

 爆発音のショック療法で動くようになった体で横を見れば、やはりというか睦月の姿は無かった。

 坂を少し下り、爆発のあった場所へ行くと、そこには使用済みのネズミ花火がひとつ落ちていた。

 それを拾い上げて土手下を見やる。

 中学生達は、もう見る影も無くなっていた。


 *


 日付が変わろうとしている。

 あと10分という頃合だろうか。

 夜闇が匂いを強くする。

 部屋の電気はつけていない。

 窓を開けたまま、俺は何をするでもなくベッドへ体を投げている。

 視界の中心でカーテンがひるがえっている。

 頭の下に両の手の平を置き、枕を作っていた。何をするでもない。

 それでも、頭の中は流れるように循環を続ける。

 闇は深く、光は無く、天秤はシーソーを続け、傾きは抑圧される。

 助けは無く、求めるべくも無く、敵は存在せず、その事に恐怖する。

 望み、妬み、苦み、苦しみ、痛み、悩み。

 羨望、願望、希望。立場、約束、常識。良識、悪識、建前。契約、魔術。プライド、ルール。

 己を縛るものは無く、故に自らは律される。そんな義理は無く、望みは手を伸ばせば届く、ソレは無防備に目の前を転がる。ここからでは見ることも出来ない一寸先。待つものは闇か、それともそれ以外か。全てを決するのは、

 『意思』、か。

「なあ、だったら『意思』ではどうにもならないことはどうするんだよ」

 カーテンへ話しかける。

 と、カーテンが答えた。

「そんなものは無い、と答えるんや」

「『意思』さえあれば何でも出来るって言うのかよ」寝っころがったまま、無気力に言う。「魔術師なんて言うわりにはスポコン精神じゃねえか」

 睦月はおかしそうにククッ、と笑う。違いない、と。

「せやけど実際、限界なんてものは脳の、『認識』の生み出すまやかしなんや。相応の『意思』さえあれば、限界なんていう脆い『概念』、どうとでもなる。ようはどう『認識』するかの問題っちゅうこっちゃ」

 肉体の限界。我慢の限界。才能の限界。限界の限界。

「どんなものでも、どんな場合でも同じ事や。全てはどう『認識』するか、や」

 風が吹く。けっこう強い。

 カーテンが大きくひるがえり、その先には窓辺へ座るシルエットと月がひとつづつ。

 月はよく銀に例えられるが、見える月は黄金だ。

 なんとなく、しかしなにか確信めいて思う。金の方が銀よりずっと、魔的でキレイだ、と。

「『認識』ねぇ」

「所詮、世界ってのは人の頭ン中にしかせえへんのや。『認識』さえ改めれば、世界なんてモンはいくらでも変えられる」

 それを『操る』んがワイら魔術師や、と睦月は歌うように言った。

 よく解からない事を言う。掴んだかな? と思って手の平をほどくと、そこには真っ黒なススだけが残っている。こいつとの会話はそんな感触がする。

「世界が変わった。日本人はこういう言い回しをするやろ? つまりそういうこっちゃ」

 ますます訳が分からない。

 その姿を捉えようと、暗がりへ目を凝らす。でも輪郭以外には何ひとつ捉える事は出来なくて、ただこの暗闇でもあのサングラスをかけているんだろうなぁ、という事しか分からない。言い様のない不安。

 とにかく何かしらの手がかりが欲しくて、更なる言葉を作った。

「ところで、さ。昨日の続きなんだけど、なんで魔術師には『契約』が必要なんだよ」

 求めさえすれば、輪郭は答える。

「そりゃあ、あれや。魔術師全員が好き勝手やっとったら、そのうち喧嘩が起きるやろ? ちゅうか、実際は昔に何度か起こったんやけど。まあつまり、もういっぺんそうならんようにルール決めとるお偉いさん達と、その直属の組織があるからや」

 その時、雲に透けて少しだけ月明かりが強くなった。

 睦月の姿がほんの一瞬だけ、見えた気がした。

「ふーん、そんなもんか」

「そんなもんやで。魔術師の間でもやな、社会っちゅう『概念』はしっかりと働いとんのや」

「案外つまんないもんだね。睦月が倒しちゃえば?」

「冗談! 『機関』に喧嘩売るなんて、ワイらの業界じゃ狂気の沙汰やで」

 しかし、言葉に反して睦月はいつまでも笑い続けている。静に、しかしいつまでも。

 なにかがツボにはまったらしい。

 ふと、全く関係のない事が頭をよぎった。

 親父は今、何をしているだろうか。

 部下への指示だろうか。

 はたまた三財界に関する会議だろうか。

 あるいは、俺と同じように何か考え事でもしているのだろうか。

「…………」

 部屋にはただ、忍び笑いともんもんとした沈黙だけが漂う。

 ……下らない感傷だな。

 そう、自分に決着をつける。

「睦月、お前なら別に、家の者の了解なんかなくたって書斎へは入れるんだろ?」

 大人が小学生へする質問のような、それは結果への、

「当たり前や。だてに魔術師やってへんで」

 経過という手段。

 それなら、仕方がない。

 例え魔術師を抑制する組織があったところで、表の社会にあるように裏の社会にだって抜け道はあるのだろう。そんな組織の存在そのものだって、嘘の可能性がある。もしかしたら、こいつはその組織に喧嘩の売ることが出来るほどに強力な魔術師かもしれない。

 だったら……

「ま、霜月のターゲットだけは勘弁やからせぇへんけどな」

 そんな言葉は要らない。

 必要ない。

 必要なのは、

「ん、そろそろ時間やな」

 睦月は胸ポケットから懐中時計を取り出して言う。

「さて」

 必要なのは、

 睦月は窓辺から俺の部屋へ優雅に降り立ち、芝居のかかった動作でうやうやしく頭を垂れた。


「我は序列一番目の魔術師・『弁論者』、【オリジン】睦月 源」


 首をもって顔だけを上げ、

 正真正銘悪魔の笑みで、

 必要なのは……

「汝、『意思』を持ちて。我に何を願う?」






 ま‐じゅつ【魔術】


 1 人の心を惑わす不思議な術。

 2 手品。特に、大がかりな仕掛けを用いるものにいう。


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 オレは服装に制服を選んだ。着慣れた半袖のワイシャツに長ズボンをいう組み合わせは、ネクタイさえしなければそれほど動きにくい格好ではないし、まあ、学校へ行くのだからなんとなく。

 家を出たのが12時ちょうど。

 学校まで歩いて15分。だらだらと歩いたから、もうちょっとかかっただろうか。

 見上げた先に時計の姿は確認できない。

「ふぅ」

 ラジオ体操のジャンプのように、ピョンピョンと飛び跳ねる心臓を落ち着ける。

 夜の学校というのは、例え霊なんてものを少しも信じていなかったとしても、それだけで雰囲気があるもんだ。

 ……などと、少し感心しつつ校門を楽々と乗り越える。

 監視カメラも有刺鉄線も無し。

 有難がるよりも先に拍子抜けしてしまうような手軽さだ。

 軽快に着地。

 靴が地面を擦る音が、耳鳴りのするような無音へ飛び込む。

 思わず数秒の間、固まってしまう。

 物音は無く、呼吸音はひとつだけ。

 胸を撫で下ろして夜の校庭を歩き出す。

 1歩、2歩。進むにつれ闇に校舎の姿が浮かび上がってくる。

「ほぅ……」

 自分でも意味のよく解らないため息が出た。

 そして、校舎の輪郭がハッキリしてくるにつれてもうひとつ、校庭のど真ん中に在る、"なにか"が在るのが、見えてきた。

 人影、……だった。


 どくん、と。


 心臓を鷲掴みにされ、さらに心臓がその束縛から逃れるように脈を打ちつける。

 人影は陽炎のように突っ立ち、

 人影は圧倒的な存在感と威圧感を伴って、

 人影は絶対的にそこへ存在する。

 汗が背筋を伝い、頭には軽い頭痛。喉は渇ききり、飲むつばは位置がハッキリと感じられる。

 校庭に有る、人影以外の影という影が一斉に動いた。

 反射的に身をすくませる。

 次の瞬間、

 黄金の月が世界を照らした。

 確固たる地面が、悠然たる校舎が、花壇の木々が、闇が、無音が、無人が、人影が、

 認識していた世界が、目もくらむような一瞬でその本性すがたを顕した。

「こん……どう……?」

 それは、

 近藤 稔だった。

 とたん、目に入る光景に色彩が戻ってきた。

 だから、不機嫌を抑えるどころか無駄に全面へ押し出して、言う。

「こんな時間に、お前なにやってんだよ」

 取り合えず自分のことは棚に上げておく。

「…………」

 だが近藤は何も答えない。

 虚ろとも言えるような、焦点の合っている様な合っていない様な。そう、例えるのなら寝起きの時の夢につかっている時の顔だ。

 だが、そんなことはありえない。

 近藤も半袖のワイシャツに学校指定の長ズボン。腰にはベルトといった具合で、やっぱりネクタイは無い。というオレと全く同じ格好だった。

 夢遊病、という単語が出てきたが、やはりすぐに打ち消す。ありえない。

「んだよ。ヤクでもやってラリッてんのかぁ?」

「…………」

 やっぱり無視。

 イラっとした。

 ぶん殴ってやろう。と、そう思った。

 だから1歩、無造作に近藤へ向けて踏み出した。


 完全に失念していたのだ。あの雰囲気も、あの存在感も、紛れも無くこの近藤 稔という人影が放っていた事を。


 *


 瞬間移動。

 そんな単語が頭をよぎった。

 それほどまでに近藤の動きは速く、警戒を怠っていたオレには視認する事もままならなかった。

 ガードできたのはひとえに、長年のボクシング経験からなる条件反射だ。反応するまでにはいたっていない。

 もう一度、同じタイミングでこられたなら、受けきれるかどうか……。

 身をすくめ、脇を締めて防御の姿勢を取ったオレの身体はしかし、だいたい1メートルくらい拳を受けたポジションから後ろへ下がっていた。左腕がしびれる。踏ん張っていなかったわけじゃない。吹き飛ばされたのだ。

 でたらめな力強さのパンチだった。

 その、当の近藤はオレが怯んでいるうちに、再び先ほどと同じくらいの距離を取っていた。

 約5歩。

 互いに一瞬では詰めきれない、間合いとしては長めの距離。通常ならば。

 だが、近藤はこの距離を反応を許さないほどの高速で詰めて来た。

 審判もセコンドも居ない試合。そこでKOされるという事。なかなかぞっとしない。

 近藤は今も格闘とは無縁の無構え。あの体勢から、どうやって。

 ……いや、

 オレはガードを解くと自然にファイティングポーズを取った。

 ……そんな事はどうでもいい。

 右拳で水月を守るように、左拳でアゴを守るように。

 ……目の前には敵がいる。ただ、それだけの話だ。

 足は重心の置き位置をカカトから親指の付け根へ移行し、そこで縄跳びをするように、軽く地面を叩く。

 戦闘態勢。

 準備完了までは一瞬。1秒どころか0,5秒だって必要ない。何度となく繰り返してきた作業だ。

 それと同時に神経が尖る。世界は色彩を失い、外界は音を失い、オレは思考を失う。考える事など何もない。より早く、より正確に、反応することだけ。真っ暗闇の三次元にオレと近藤。目的はひとつ。敵を打ち滅ぼせ。考える事など、他にない。

 弾くようにして地面を蹴る。

 一歩。

 敵まで、距離にして3メートル。敵は今だ無構え。

 二歩。

 身をかがめて懐へ。射程距離。

 より前へ構えている右腕を近藤のアゴヘ。ジャブ。

 教室でふざけている時とでは比較対象にもならない、ボクサーとしての本気の拳だ。

 もう避ける事は出来ない、必殺の間合い。

 しかし、近藤はまたも信じられないスピードで左手を動かし、オレの拳を叩き落とした。

 動体視力も、反射神経も、どうかしているとしか思えない。近藤の普段がどうというより、もはや人間という種の限界さえ超越してしまっている気さえする。

 それでも身体は動く。考えるよりも早く、染み付いた経験が身体をリードする。

 力を溜めた左拳によるストレート。ワン・ツー。

 だが、やはりというか、ジャブの時同様に左手で無造作に外へ弾かれた。

 弾かれた勢いに逆らわず、そのまま一歩距離を取る。

 足の内側へエッジを立て、膝をクッションにして地面を穿つ。

 息つく暇もなく、暇も与えず、再び射程へ、その身を投げる。

 ジャブ、ジャブ、ストレート、後退。

 攻撃はことごとく弾かれる。

 前進、フェイント、ワン・ツー、サイドステップ。

 息は上がり、脇腹は軋む。

 飛び込み、跳ね上げ、打ち下ろす。

 無駄をそぎ落として完成させたはずの攻撃は、無駄の塊だとしか思えないモノの前にただ阻まれる。

 それでも、

 ウツ、うつ、打つ、撃つ、討つ!

 右拳を引く頃には左の拳を。左の力を溜める時には右の拳で。もはや正確な狙いなどなく、右拳を、左拳を、身体を、前へ、敵へ、近藤へ、強迫観念にも似た何かに急かされて、撃ち続ける。

 それでも……

 攻撃の手を休めてはいけないと、経験と本能が同時に悲鳴を上げていた。

 打ち続ける。

 腹、腕、脚、肩。

 打ち続ける。

「うわあああーーーーー!!」

 肺も悲鳴を上げる。

 腕も悲鳴を上げる。

 胸も悲鳴を上げる。

「っっっ―――――」

 そこで、ようやくオレは悲鳴を上げている自分に気が付いた。

「ぐぅ……」

 もう、なにもかもが分からなくなって、オレはただがむしゃらに蹴りを放った。

 それは、本来のオレにはありえない攻撃。それだけにむちゃくちゃで、それだけに意外性があった。

 近藤は突然の足技に半瞬、反応が遅れた。

 …………。

 それだけで十分だった。

 最初にして最後、そして恐らく最大の、敵が見せたスキ。そのスキを前に、オレは冷静さを取り戻す。

 蹴りのために引っ込めた左腕を、ただその力を解放した。

 余分な力は入っていない。狙いは正確。今度こそ防御は間に合わない。

 ドスッ

 くぐもった打撃音。

 左手には腹を貫いた確かな感触。

 ……勝った――――――――。

 だから、追撃はしなかった。もとよりそんな余力は残っていなかった。

 その確信への返答は浮遊感。

 ただ最後に、人の身体が地面へ倒れこむような、嫌な音だけがヒトゴトのように耳で反響した。


 *


 柏木の左ストレートが腹のど真ん中を抉った。

 痛みはなかった。

 だた、身体が肺の空気を吐き出す、ヒュウ、という耳障りな音が聞こえただけ。痛くないのだから異常など有るはずがない。

 だから、視界も思考も靄のかかったまま、俺は柏木をぶっ飛ばした。

 文字通り、柏木はぶっ飛んだ。

 漫画や映画のように、何十メートルも吹き飛ばされているわけではない。ないが、その匙加減が絶妙すぎて、リアルすぎて、まるで本当のようで、むしろ俺はこの夢に対するリアリティを失った。

 そう、夢だ。

 これは俺のユメであり、そして夢だ。

 何をしやがったのかは知らないが、睦月の仕業だろう。

 あの後、睦月が『解枷士けっかいし』だの『暗示式』だの【逆説真理】の複合能力実験だのと、ワケの分からない単語を羅列した当たりから記憶があやふやだ。気が付けば校庭のど真ん中で立っていた。

 まず間違いない。

 俺では夢を操ってユメを見ることなど出来ない。

 なぜなら、

 現実の柏木はこんなにも遅くない。現実の柏木の拳が痛くないはずがない。現実の柏木に近藤が勝てるはずがない。

 つまり、そういうことだ。

 一陣の風が吹く。鼻にしみるような風だ。

 夜色の空白を敷き詰める。

 木々はただ、二度と取り戻せない何かへとすすり泣く。

 だが、睦月の言っていた『認識』論は、ここへ居るとなんだか解って来る様な気がする。

 ここは近藤 稔の夢だ。

 つまりここは近藤 稔の『頭ん中へ存在する世界』だ。

 それはつまり、ここは近藤 稔の無意識と意識が支配する世界だ。

 その事さえ自覚、いや、『認識』すれば、確かに世界は一変する。

 柏木より速く動けるのは道理。柏木の拳が痛くないのも道理。柏木が近藤に負けるのも道理。

 なぜならここは近藤 稔の頭の中なのだから。

 ここには限界など無く、ここには痛みなど存在しない。

 故に悲しみも無く、苦みも無い。

 だから喜びも無く、達成感も無い。

 俺は自分の拳を見下げた。

 だというのに、

 自分の拳を握りつぶす。

 なんという不快感。

 数メートル先に仰向けのままの柏木。それを見ている自分。

 柏木は、いつもこんな光景を見ていたのか。

 冴える理性と疲弊した本能、眠る頭と醒める身体。

 それとも、俺と柏木の世界は徹底的に違う在り方なのか。

 なんという不愉快。

 風、舞う。砂、舞う。景色、舞う。

 なんという苛立ち。

 ノイズが走る。

 血管という血管が沸騰し、脊髄は芯から冷水を被る。

 木々の泣き声。月の歌声。世界の呻き声。

 こめかみの辺りがちかちかとフラッシュする。

 眠りは近く、寝覚めも近い。

 月は天上へ君臨する。

 遠のく意識の中に思う。


 薄明は、まだ遠い。


 *


 沈み込むような浮遊感、その息苦しさにオレは目を覚ました。

 気が付けばここは自分のベッドの上で、つまりは商店街の終着点にそびえるおんぼろアパート郡の中の一室、柏木家だった。

「…………?」

 なんだかよく頭が回らない。

 何か、とても重要な事を忘れている。

 とりあえず時計を見た。6時。

 もとより2人しか住んでいない家には今、自分だけしか居ない。うちの若作りババアはまだお仕事らしい。

 頭をぼりぼりとかきながら、洗面所へ向かう。

 鏡へ映った男の髪は茶髪。当たり前。顔を洗ってタオルでふく。少し目が覚めた。

 そして、気が付けばオレは何故か制服のままだった。

「…………」

 腹の重みを思い出す。

 そうだ。

 とんでもない夢を見たのだ。

 ありえない、夢。

 頭をかきむしる。

 だが、

 おそるおそる、ワイシャツを捲り上げて腹部を露わにする。

 本当に? 昨夜の事は、本当に本当ではなかったのか?


 そこには、

 あれは、


 矛盾を内包するアザが、

 夢だったのか、ユメだったのか、


 不確かな認識が、


 そこにはあった。



 歩く。

 活動を始めたばかりの商店街を足早に。

 振動で腹部が痛む。吐き気さえする。

 それでも歩く。歩は学校へ向けて、問いは解を目指して。

 白黒をつけるために。

 歩を速める。

 道のタイルをこづき、コンビニを無視して、入ったこともない店々を素通りし、行きかう人を睨みつけて。

 熱を持ったアザは疼き、生贄を求める。

 商店街を抜けた。

 ……遠い。

 家から学校まで約15分。だるいとは思っても遠いと感じたのはこれが初めての体験だ。

 なんでもない道を行く。

 両脇に白い柵の歩道を携えた車道。アスファルトで塗り固められた、風景ともいえぬような風景。

 にじむような苛立ちをぬぐう。

 昨夜のアレは夢だったのか。

 ……そんなことはない。

 昨夜のアレは現実なのか。

 ……そんなことはありえない。

 解を持つ者を目指す。

 もう校門まで3分もない。

 ともすれば走り出しそうになる自分の足をいなし、それでも速くなる足で近藤を目指す。

 最後の一直線。

 動悸がする。

 もう校門まで1分もない。

 その校門に、流れに逆らい留まる者がひとり。

 それを見た瞬間、


 視界が真っ赤に消えた。


 昨夜の事だとか、

 事の真偽だとか、

 なんでお前がオレを待っているようにしてそこへ居るのだとか、

 全てがトんだ。

 近づく。拳一閃。

 気が付けば腹を押さえてうずくまる近藤が目の前に居た。

 何の感慨もなく近藤を見下ろす。

 木がかさかさと鳴っている。

 急速に景色は色取りを失い、光景は光を失っていく。

 風は止み、波は静まり、興味は薄れ、水面はただ見たものを返す。

 フタをする。

 魔法はこの世に存在せず、キセキは起こらないが故のキセキで、

 問いは問うまでもなく、解は遥か昔から一度とて揺るぐ事はない。

 昨日有った事は全部夢で、

「ふん……」

 もう一度だけ、近藤を見下ろす。

 近藤は腹を抱えてうずくまり、必死に呼吸を整えている。顔は、残念ながら見る事が出来ない。

 頭をかく。

 そろそろ周囲の目が痛くなってきた。

 殴りたりないが、引き際だろう。

 歩き出す。うずくまる近藤の横を通り過ぎ、あくびをかみ殺しながら校舎へ。

「……てよ」

 砂を引きずる音とせみの鳴き声。マーブリングしたその音はとても耳障りだ。

「……まてよ」

 せわしなく流れる人の波。同じ空間にありながら、名前さえ知り得ない有象無象。相手にする価値もない。

「っ、……待てっつてんだろ!」

 響く大声。

 少し驚く。まさかあの近藤がこんなリアクションを取るとは。

 足を止めて振り返る。

 そこには、右膝を地に付けたまま眉尻を上げた、挑むような近藤の顔があった。

 どくり、と。

 全身の血管がひっくり返った。

 威圧感など無い。あの時感じた負けるという恐怖も、劣っているという焦燥も無い。だいたいからして、あの時とは表情そのものが違う。あの時は人形のような無表情で、今は苦しさに耐えるような情けない表情だ。だというのに、

 だというのに、その表情に昨夜の最凶を重ねてしまうのは何故なのだろうか……

 バッグを放り投げる。

 ネクタイを緩め、1歩目を踏み出す。

 夢の時の相手どころの話ではない。近藤の反応は論外だった。顔は迫り来る痛みに歪み、だというのに身体の方は1?として動かない。

 比喩でもなんでもなくサンドバッグにしてやった。

 昨夜の分も利子をつけて殴りまくった。

 近藤の誠意に答えて、手は抜かずにいった。

 最後の一撃を殴り終え、パンパンと手をはたく。

 近藤は再び地へ伏した。

 今度こそ折ってやった、という虚無感ただよう優越感。自分が勝っているという自慰。オレにとっての最大の快楽。

 がらんどうを胸に抱えて、満足してきびすを返す。

「柏木」

 血に濡れた唇で近藤はそれでも言う。

 振り返らない。

 それでも、

「あぁ? ……んだよ」

 足を止めて聞き返してやるぐらいはしてやってもいいだろう。

 ヒュウ、ヒュウと肺の軋ませる音を無様にも外へ漏らしながら、

 苦しみに顔を歪ませながらも、

 それでも強く、

「お、ぼえでろ……よ、このバガ……野郎、が」

 強く、言った。

 一陣の風が吹いた。

 それに、

 オレは、

「はぁ? 随分と偉くなったんだな、ザコ。テメェは一生そこで這いつくばってんのがお似合いだ」

 つばを吐き捨て、最悪に不機嫌な声をもって答えた。

 舌打ちをひとつ残して場を去る。

 場が動き出す。

 近藤へ近寄ってくれるものは、まだ居ない。

 オレも同様に独り、校舎へ向かう。

 正体不明の満腹感が胸を満たす。それがとにかく腹立たしくて、次はどう近藤をいたぶってやろうか考える事に、没頭する事にした。


 *


 澄み切った透明な空に低空飛行の雲2つ。

 熱に侵された空気を肺から追い出す。血の味がする。だけど、そんなに悪い味じゃない。

 小石を更に10分の1くらいにしたような小砂利のグランドを背中でくすぐったく感じる。

 さっきまでは痛みに体をうずくめていたが、今では大の字になって寝そべっている。

 少しばかり視線が痛いが、気にしたらそこで負けだ。

 柏木は行ってしまった。

 やっぱりアレは夢だったのだろう。

 やはり俺では柏木に敵わない。昨夜の事を確かめるまでもなく、結果は今さっき出た。

「へへっ……」

 でも、今日はどうしてだか嫌な気分ではなかった。

 柏木はやはりムカつく。自己中心的で、思い通りにならなければすぐに手が出る。自信過剰でやかましい。お調子者で浅はか。ああいう奴は嫌いだ。

 痛いのなんて嫌に決まってる。

 楽はしたいし面倒な事はなるたけ避けていたい。

 だけど、楽なことがイコール幸せ、という訳ではないと思った。

 右手を空へ突き出す。

 ……これから大変そうだけけど、

 まぶしさに目を細めて、

 ……なんとかやっていくよ、睦月。

 輝く太陽へ、手を差し伸ばした。






 こん‐げん【根源・根元・根原】


 1 物事の一番もとになっているもの。おおもと。根本。

 2 物事の始まり。

 3 本家。元祖。


[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]




 頭の先から足の先まで一部の隙も無くスーツを着込んだ青年がいる。

 その鼻先にサングラスなど無く、髪の毛も逆立っていない。その雰囲気に軽さなど微塵も無く、潔癖なまでに完璧を目指す、若きエリートといった風体だ。

 そんな青年の持つ荷物は2つ。

 ひとつはトランクケース。海外から帰国したばかりとでも言わんばかりの巨大なものだ。

 そしてもうひとつは竹刀袋。青年が街中で肩にかけて持つには少々不似合いなものだった。だが青年は気にしない。それがさも当然であるかのように。だから当然、人々も気にしない。それは当然のことなのだから。

 青年は歩きながら情報を整理する。今回得た、真の目的、多くの情報を整理する。

 少年との約束は破っていない。もとより破る必要などないし、破っては本当に後が怖い。

 瞬間記憶能力。

 青年の持つ情報屋としての生まれついての才能のうりょく。見聞きしたモノを瞬時に記憶し、決して忘れない脳味噌だ。

 青年はポケットから携帯を取り出す。

 次いで脳味噌から情報を取り出す。カテゴリーは「三財界」→「神崎の動向」。

「さて、ウワサの【姫君】はどの程度だか……」

 魔術師は独り、薄く笑いながら通話ボタンをプッシュする。


 我が名は【全一の根源オリジン】。万事の初まりを司る魔術師。

 汝、その『意思』をもって、我が『概念』に、いづれの『認識』を望む?




 『神無月の姫』の少し前にあたる話。

 出筆時期は『神無月の姫』よりもだいぶ前。これもこれで完結しています。

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― 新着の感想 ―
[一言] どーも、短編のほう、ということでこちらでよろしかったんでしょうか? 正直、非常に考えた理論は確かに確立されていると思います。『概念』『運命』『認識』『意思』と、まさに哲学的に素晴らしい理論を…
[一言] 神無月の姫ともども読ませて頂きました。 はい。 面白かったです。 金持ちだからこそが抱える跡取りの問題や、その境遇にある上での主人公の内心がうまく表されていたと思います。文も分かりやすく良か…
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