5 ケモノの子
一線―――――。
それは、全身全霊をかけた、全ての命運をかける一撃。
全力を預けて伝家の宝刀“雪”による居合い抜き。
谷口の立ち位置はしっかり間合い―――というか、クリティカルヒットが可能だった。
「軽い…」
―――筈、なのに。
唇をかみ締めて、形だけは“雪”を構える。見据えるは前方、全身を覆っていた見事な銀色の体毛を己の流した血で赤く汚してはいるが、しっかりとその両足で立っている姿。
くっそ、アリエネェ……。
呼吸が乱れて大きく肩を上下に揺らす。激しい動きをしたわけじゃない、ほとんど空っぽになる勢いで“魔力”を込めて“雪”を使った反動だ。元々、“握る”事のできる状態で、かつ全力を出せるようにと、遠き先祖が作りし一族の守り刀。
オレの全力でも、全然余力があるんだよな……“雪”の方が。
「遅かったってか? ちくしょう、洒落になんねー…」
睨む先にいるのは、谷口だ。
ただ、人間が見たら絶対信じないだろうなって姿だが。
人としての谷口の面影は今や皆無だ。
生きている事を確かに告げる、僅かに動く肩と胸。だがそのいずれも、今や銀に波打つ毛皮で覆われていた。全身に毛皮を纏い、その耳は三角形にピンと天を射抜こうと立ち、呼吸のために開かれている口はせりでて鋭い牙を覗かせているし、俯き加減の頭だが薄く開かれている鋭い瞳は濃紺。極めつけは、両足の間から見える、尾。
人狼。
それが、現在呼ばれている、その存在の一族の総称だ。
海外ではJINRO、酒じゃない。………どうでもいいか。
かつての呼び名はその土地、その国によって区々だったが、各血族が血で血を洗う争いに終止符を打ち、1つに統合された数百年前に、人狼に統一された。
理由はいたって単純だ。
それぞれをまとめあげ、長として君臨した者が、その血族が、自らを人狼と名乗っていたから。ただそれだけだ。尤も、1つに統合したと言っても、各血族によってその能力や特性が違うから、人狼なんたらって個別の種族はあるけどな。
「―――は、ははっ…」
鋭く伸びた爪をそのままに、体毛で覆われた左手を頬辺りへと当てて、谷口が笑い声を立てる。
くそっ、全然平気そうじゃねーかよ!!
「腐っても、長の血族か…。やってくれる」
ぺろりと長い舌で口を舐め、
「頭も悪くはないみたいだな。仕損じたのに気付けば、止めを刺しに来ると踏んだが…」
言葉を紡ぎながら、俯き加減だった頭をゆっくりと上げた。
「見抜かれてたか」
愉しげに何言ってんだっつーの! こっちは立ってるのがやっとなんだよ!!
有り難いんだが、ムカ付く。買いかぶり過ぎだっつーの、こんちくしょー。
「―――で? そのままでいいのか、なりそこない」
悠然と、ぱっと見ぼろぼろの谷口は激しく上から目線でそんな科白を口にした。
「お前なん 「なりそこないには、無理か」
っ!!
自然と、拳に力が入る。
「なるほどな。だからこその、呼び名」
睨むオレに返るのは、歪んだ相貌。愉しげに、卑下するように―――
「……うるせぇよ」
「一族の誉れ高き、長の血族。歴代の長の中でもトップを争うと言われている、今代の長。その末子 「うるせぇ、黙れよ」 …哀しき、されど忌まわしき、混血の血ってか?」
っ、コイツ!!
「もう一度聞くが、なりそこない」
「黙れよ…」
「そのままでいいのか?」
「黙れってんだよ!!」
好きでこう生まれたわけじゃない。
「何も知らないくせに、エラそうに言ってんじゃねーよ!」
「だったら黙らせて見ろ、なりそこない」
「てめっ…――――くっ!?」
言い返す間もなく、谷口が跳躍して鋭く尖った爪を携えた両手を振り下ろして来る。慌てて振り上げた“雪”で受け止めて、いつかの再現。
「よく止めたなぁ」
相変わらず上から目線で、“雪”をはさんで対峙する。
「うるせぇ」
「さて、どこまで持つかな?」
ぎりぎりと力を入れられて、歯を食いしばって唇かみ締めて、口ん中に鉄の味が広がって。どこをどうやったって、力負けしてるのはあからさまだ。谷口にはまだまだ余裕がある、少しずつ力を込めて押してきてるのがいい証拠。それに比べてオレは限界ギリギリ。
でも、下がれない。
あそこまで言われて下がれるわけないし、大人しくやられるのも駄目だ。
コイツだけは、絶対に―――
「肝心な事を忘れてんなぁ、なりそこない」
嘲笑うように呟いて、鋭い牙を伴うその口をぱっくりと開いた。
「っ!!」
やばっ…。
一瞬、気がそがれて、力任せに“雪”を押し下げられる。肩口を狙って開いた口をぎりぎりで交わし、 “雪”を右から振り上げるように捻って谷口の手を逃れ、そのまま左へと一回転して跳ね起きて―――
「動きが鈍ったか?」
“雪”を構えるより早く、そんな声と一緒に右脇腹に鈍い痛みが走って、その勢いでふっとんだ。
数メートルを平行移動してから落下、それでも勢いは止まらず坂道を転がり落ちるようにして、
「がっ!?」
強かに背中を樹木に激突させて、止まった。
マ、マミーが……出る。
全身痛いからもうわけわかんなくて、そんな事が脳裏をよぎった。左手には確かに“雪”の感触、離さなかった。偉いオレ。
「寝てる暇はないぞ」
愉しげな声に、頭で理解するよりも先に躰が動く。
上体を起して右膝を立てて、“雪”を斜めに振り抜いて銀の刃を弾いた。次いで、振り下ろし、振り上げて、横に一線。
「さっきのは凡ミスか? 100点だ」
何故か拍手を貰った。
「うるせぇ」
肩で息を付きながら、視線を谷口へと…―――げ。
思わず顔が歪んだ。
くっそ、眼鏡! 気持ち悪……。
込み上げて来る嘔吐感を必死に堪える。視界に映るのは、さっきまでとはまるで違う世界だ。
同じ筈なのに、全く違う色を伴ったそれ。感じていた、谷口の臭いテリトリーであるその証、それが今はしっかりと視認できる。
歪んだ、鈍い藍。木も、空も、大地すら、いびつに歪んでみる。
一際、谷口の周囲がヤバイ。怨嗟の念が染み付いて、それを纏ってる。睨みたいのに、睨んでたら吐き気が…。
「くそっ、どこに…」
悪態を付く。さっき勢いよく飛んだ上に転がった、確かにそんな目にあったら眼鏡なんて吹っ飛ぶだろうなぁコンチクショー。
谷口だけは直視しないように、顔を向けつつも視線は地の上を張った。
アレがないと、戦えない。
くそ、情けねぇ…。けど、体感だけでも悪いっつーのに、それを目で捕らえたらもっと洒落になんねぇ。ただでさえ、状況最悪なのに、肌で感じるモノに上乗せして、それ以上のモノを視覚が伝えてくるから。
「次は倍だ」
オレの様子なんか気にするでもなく、ゆっくりと歩み寄りながら両手を広げる。
5の刃の倍は10、……つーかそれどころじゃねぇんだよ、こっちは!!
「行くぞ」
くそっ!
左に、右に、弾きながら立ち上がり、最後の一本を避けて、谷口―――の、足元……より手前を睨む。
本人直視は出来ねぇ……って、眼鏡!?
探し物は探してる時は見つからないってヤツか? ちくしょう。オレと谷口の中間辺り……いやまぁ、谷口よりだけど。そんなところに落ちてやがるよ。更に状況悪化。
壊れてない事を説に祈る。
………つーか、あれか? これは仕掛けるしかないってヤツか?
あのまま進まれたら、谷口の背後に回る形になる。その方が楽に拾えるような気はするが、気付かれないとも限らない。アレがただの眼鏡じゃないって気付かれたら、壊されないとも限らない。そうなったら、オレ、終わり。
いやまぁ、すでに終わってる気もしないでもないが…。
「愉しいか?」
乾いた笑いを浮かべていたオレに、そんな声。
「お前は愉しいんだろうな」
「そうだな。しぶといからなお前、それになりそこないでも長の子供。狩りがいはある」
「狩り、か」
呼吸を整える。
まだ、動ける。大丈夫。まだ、やれる事は残ってる。
“雪”を握る左手を差し出すようにして正面に構え、右手を口元へと運ぶ。
「オレは、高いぜ?」
人差し指と親指を噛み切って、唇に付いた血を舌で拭う。
右手を柄へと当て、神経を集中させる。血を流す2本の指で柄に輪を描き、鞘側の鍔の上下に添える。
「抜けるのか?」
「出来なかったら、預かってない」
ただ問題は、オレの方が空っぽに近いって事。それでも、やり方がないわけじゃない。 “雪”は担い手の“力”を吸って、その威力を示すモノ。
本来は、ソレに触れるモノ全ての“力”を吸い尽くし、己の力を発動させるモノ。
制御する“力”が足りないならば、他で補えばいいだけの話。自身の持つ“力”以上を望むなら、それ以上に高純度なモノを“喰わせれば”いいだけ。
だから、親父はオレに預けてくれた。
このままでも、己を示せるように。何と言われようと、確かに、血族の者である証として。
“雪月花”が喰らうは、“力”。
従う事を示すは、作り主より続く血統。持ち主が常に血族の長であるのは、血を持ってその封を解く事が出来るから。
そして。
最大限にその“力”を示すには、絶対高純度の“力”―――――“魂”を喰らいて、“雪月花”は尤も輝く。
「“雪”、持って行け」
オレの呟きに、谷口の気配が変わる。
ゆっくりと右手で鞘の上をなぞり、その動きにあわせて“雪”が色を変えていく。
白い鞘は、紅の刀身へ。
血のように赤い、紅い、半透明な刃。
……いつ見てもコレは綺麗だよなぁ。
いろんなモノを喰らって、時にその命すら奪って行くというのに。
切先までその色を変えさせて、“雪”が露になる。
「2ラウンド目」
呟く。
出来ればコレを最終ラウンドにしたい、ウィナーは勿論オレで。
「なるほど。禍々しくも美しい…か」
感嘆した声が聞こえた。
「欲しいって言われてもくれねーよ?」
「扱える血統ではないからな」
そう言ってからクスクス笑い始める。
「ああ、だが、お前を喰らえばそれも可能か」
風が鳴った。
迫る銀の刃を弾き、“雪”を構えて地を蹴る。右手は添えるだけにし、続く銀刃を叩き落し、走る。
走る。
眼鏡に向かって!! ……な、情けなっ。
「…って、待っ!?」
谷口も向かってきた。眼鏡を軽やかにスルー……じゃなくて飛び越えて。
ちーん。
「ふざけんなーっ!!」
渾身の力で振り切りながら右側に跳ね飛んで谷口の側を抜ける。
手ごたえあり。
軽かったけど!!
「―――いい切れ味だ。意味はないが」
その声に気持ち悪いとか何とか言ってる余裕もなく反転し、構える。
我慢。我慢だ。後方5メートル、そこに眼鏡がある。それだけで到達出来るから。
谷口は半身になって、じっと自分の左手を眺めている。長く伸びていた筈の爪は、4本、極端に短くなっている。
……爪かよ!!
「爪じゃ、確かに意味ないな…」
ちくしょう、思わず同意しちまった。せめて腕の1本くらいくれてもいいじゃねーかよ。
つまらなげにブンっと左手を振ると再び元の長さに戻った爪をカチカチ言わせて、完全に向き直る。
「宝刀と呼ばれるモノが、その程度の筈はないだろう? 当然」
「たりめーだ」
ただ、扱うオレの方に問題があるけどなっ!!
正面に構え、じりじりと後退する。空気を持って体に伝うそれが、目で持って更なる嫌悪を呼ぶ。
………マジでヤバイ。
飛んで来た銀の刃を弾き、“雪”を横に掲げる。
「あぶねっ」
「後3センチってか」
“雪”で阻んでるとは言え、目の前でカチカチ鳴る爪先は気分のいいもんじゃない。先端恐怖症じゃなくてよかった…。
じゃねぇ!!
「力勝負に部がないってのはわかったかと思ってたが」
「十分わかってんだよ!!」
“雪”を捻りながら蹴り上げるが肘で止められる、左手を返して爪を防ぎ、もう1度蹴りを入れる。
ただし今度は、後方へ跳ぶための踏み台にするため。
「遅い」
ちっ!?
落下点、谷口の手が見えた。もう刃物を手にって次元じゃないよ、手が刃物だよ。うぃず刃物。
地に足を付いてすぐに後退、ギリギリで爪先が腹部を掠める。
服だけならセーフだ、セー…ふぅうう!?
「がふっ」
弧を描いて更に後方へ落下。間抜けにも蹴りをまともにくらった、つーかリーチの差が。経験値の差が!!
「……本当、面白いなぁ。やる気があんのかないのかわかんねーな」
蹴り入れたポーズのままでそんな事を言う。
うっせ! んなモノあるわけねぇえええええっ!!!!!
思ってるだけで、動けないんだけどな。ぁー…痛ぇ。
かくん、と首を右横に傾け――――やりぃ、蹴られ損になんなくて良かったぁ…。ま、かなりダメージ貰ってんだけど。苦笑しつつ右手を伸ばして、眼鏡確保。
「…めんどくせぇ」
思わず本音がぽろっと漏れた。
「ははっ、そうか。…安心しろ、すぐに面倒だなどと考えられなくなる」
「じょーだん」
眼鏡を手に上体を起し、しっかりと装着。よし、あちこち痛いが何とかなる。存外丈夫に出来てるからな、この躰。自然治癒能力ってのもあるらしいが、まぁ、ケモノっちゃケモノだけに、傷やら怪我なら治りは早い。つーかそうじゃなかったら、とっくに死んでる。谷口云々の前に、親父のせいで。
谷口を睨み付ける。眼鏡OK! 壊れてない、流石ばぁちゃんお手製っ!!!!
「めんどくせぇけど」
内心、微妙な安堵感に包まれながら立ち上がった。
「お前に喰われるのはご免だね」
右手を添えて“雪”を構える。結局、オレにはこの方法で“雪”を使うしかナイし。
姿勢を沈め、うっすらと双眸を細める谷口を正面から見据え、
「お前の血肉になるのも、“雪”を取られんのも」
若干前かがみに構えた谷口へ向かい、地を蹴った。
横に一線、かわされる。左から右へ振り上げ、かわされる。右から左へ振り上げ、かわされる。左から横一線、かわされ……エンドレス。
お互い様だがな。こっちの一撃は触れる事も出来ず、谷口の爪は“雪”で阻む。 ………オレの方が不利なんだが、まぁ、そこは今更ってヤツだし。
何度目かの攻防の後、3度目の焼き増し。
「力が落ちてきてるな」
上から目線の谷口。余裕ぶっこきやがって、無理もねぇけどさ。
「“雪”は疲れるんだよ」
正直な話“魔力”を込めて使うなら、そう躰に影響はない。まぁ、負った怪我やら動いた事による疲労感は別として。ただ今は、“魂”を込めて、開封中。疲弊の度合いが、通常の5倍増し。多分。
「お前が未熟なんだろ」
るっせ。最初の一撃がなかったら、そうでもねぇんだよ。こちとらガンガン死亡ルート一直線なんだっつーの!!
「だからお前の追っ手に選ばれてんだよ」
嘲笑う声。顔も多分嘲笑。実際余裕なんて全然ないけど、そうでもして谷口の余裕顔をどうにかしないと、そうすれば何かの隙も出来るだろうし。オレでもつけ込めるような。
……そこまで躰が持てばイイんだけど。
「お前らの4人の中で、1番下っ端なんだもんな?」
ピシリ、と空気が凍った。
三知にぃの時とは別の意味で。谷口の双眸が冷淡な怒りに燃え―――――肉の避ける音と、右腕に鋭い痛みが走った。
「ぁ、くっ…」
“雪”でなぎ払うも宙を切り、肩膝を付く。
ってぇ。直下の怪我はしゃれになんね……。だらんと落ちる右腕に視線を移し、更に顔を歪める。肘下から肩口まで、か。思いっきり裂かれてんね……はは。
「…ってぇ、ナメんな!!」
“雪”を左へ走らせ、谷口の爪を弾く。くそ、暢気にしてる場合じゃねぇ、本気になってる……。
落ちた膝を奮い立たせて、痛みの走る右手を添えて正眼に構えて―――――ぞくり、と、今日一番の殺気を感じた。背後から。
「くそっ!」
慌てて振り向きざま“雪”を走らせるが、宙を切り―――
「遅い」
冷淡な声がすぐ耳元でした。嘲笑うでもなく、怒りに満ちているでもなく、愉しむでもなく、ただ、事実だけを告げる声が。
漫画ならがぶり、実際にはずぶり。右耳に嫌な音が届くけれど、それ以上に右肩に鋭い痛みが走ったのも束の間、激しい熱を帯びる。右腕と左肩にも同じように痛みは走ったが、喰い付かれた右肩のそれには遠く及ばない。
背後からしっかりと捉えられ、耳障りな音が。
「…な、せよ、このやろっ!」
“雪”をくるりと反転させるように逆手に持ち直して、自由に動く左手で後方へと突き刺す。
「それはいらねーよ」
軽口が返るのと、“雪”が宙を切るのと、ほぼ同時。くそ、気付かず夢中で喰ってんのかと思ったのに…。反転しながら右肩に手を持っていく、大ダメージどころじゃねぇな、コレ…。
「しかし、やはり長の血族か。なりそこないの割りに上等だ、三知よりいい味だしなぁ」
両手と口の周りを血で染め上げてそんな事を言う。……全然嬉しくねぇ。
つーか深い、この傷、マジでヤバイ。すぐ治療しないと死ぬね、確実に! だからと言って―――
「血が流れて勿体無い。時間をやるから止血しろ」
酷く冷静にナメくさった科白を吐きやがりました。
「ヤだね」
「ならすぐに意識を飛ばす事だな」
事も無げに言い切って、一瞬で眼前に迫るといい蹴りを飛ばして来る。反応しようと躰が動いた瞬間、右肩に走った激痛が全てを台無しにしてくれた。
まともに右腕……じゃなくて右脇腹、もうどっちでも同じだけど、そりゃもう痛みが走って無防備になった所に綺麗に決まって。オレは躰をくの字にさせて、吹っ飛んだ。
……飛ばされるの何度目だ?
頭の中はやっぱり妙な方へ行っちゃうんだが、そんな事はお構いなして落下もせずに樹木に激突して、落下。
木に寄りかかるようにして、上体が起きた状態で止まったのはいいんだか悪いんだか、わかんねぇし、もう声もでねぇし。息も絶え絶え、とは言わねーけど……結構、あの世の入り口が近づいてる感がひしひしと伝わってくる。
谷口がゆっくりとした足取りで近付いて来る気配が伝わって、木に背中を預けるようにして向き直った。
「まだ意識があるのか。…随分と血が流れているように見えるが?」
「てめーで付けといて、何言ってんだっつーの…」
「口だけは達者だな」
視線がオレからずれて左下へ。
「そんな状況になってもソレを手放さない、か」
「死んでも離す気はねーよ」
「安心しろ。綺麗に喰ってやるから」
馬鹿か! 何でそんなんで安心出来るってーんだよ、ちくしょー……。ぁーも、眩暈がする。悔しいが谷口の言う通り、勢いよく血は出たし、ま、今頭も撃ったしなぁ。ここまでか、オレ? あーごめん、兄貴。勉強無理だった。でもさ、やっぱ、コイツだけは絶対仕留めるから。
谷口が側まで来たら、全てを“雪”に込めて、開放する。
………この辺り一体吹っ飛ぶだろうが、まぁ、こんな時間にこんな山ん中歩いてる一般人もいねぇだろうし、いいだろ。別に。大事の前の小事ってヤツだ。協会で旨く後始末はするだろーしな…。コレ使うハメになるとは思ってなかったな…、オレがやったら、オレ自身が耐えられないから、まるっきり自爆だし。
ああ、本当、情けねぇ……。
近づく谷口を見据えるのもやめて、俯く。今更、しかも一番したくなかった覚悟をするハメになるとはなぁ。本当、アリエネェ。
気配だけが伝える、谷口の歩み。
やるなら、1番効果あるゼロ距離だよな。そう思い、躰を少し右に傾けた。これなら左肩に喰らい付こうとかするだろう。 “雪”を掴む手を緩めて、開いた掌にその柄を乗せているだけの状態にする。まぁ、握る力がもうほとんど残ってないからだけど。触れてさえ入れば問題ないし、何よりそれで谷口が油断して近付いてくれるなら恩の字だ。
………?
その時をシュミレーションしながら待っていたオレは、それに気付くのに少し遅れた。
谷口が足を止めている。
気すらもオレより逸らしてからやっと、訝しむようにして顔を上げた。
「…は?」
谷口は、明後日の方へ頭を向けている。躰はその場に立ち止まったであろう状態のままで。そうして、その顔が、瞳が、愉しげに歪むのを目にして、ゆっくりと同じ方向、左へと顔を巡らした。
「なん、で…?」
思わず驚愕の呟きが漏れる。
それは完全なイレギュラー、ありえない、あっていい筈がない。
谷口のテリトリーであるこの空間の外れに、森から出てきたのであろう、小さな人影が1つ。小学生、もしかしたら低学年かもしれない、まだ幼い子供だ。距離があるし木陰の暗がりにいるから表情は読めないが、躰と顔の向きから察するに、谷口を正面に見据えているんだろう。
多分、驚きと恐怖でソレから目が離せなくなってる。
退魔師協会やら人外の存在なんてのは、表を生きてる一般人からすれば夢物語だ。大人でもそれを目にしたら、泣くか、狂うか、逃げ出すか。時々平然としてるヤツもいるけれど、そんなのは極めて稀で―――――じゃねぇよ! あんな一般人ってか子供が何でこんな時間に山ん中にいんだよ!? 親は何やってんだっ? だいたい、あんな所にいられたら、使えねぇじゃねーか!?
どうする、どうするよ、オレ? ―――――って、そんなの決まってる!
「お前、逃げろっ!!」
渾身の力で叫んだ。もう痛いとかそういうの言ってらんない、今すぐ逃げろ。すぐに立ち去れ、“雪”の影響の出ない所まで。
「死ぬ気で走 「逃がすわけないだろうが。―――この時間に小さな子供か、前菜には丁度良い。迷って出た己の不運を嘆くんだな」
前のめりになって叫ぶオレを、無常な谷口の科白が遮る。
「谷口! お前っ!?」
「なりそこない、お前は後でゆっくり喰ってやる」
一瞬だけ視線をオレに戻して、歪んだ双眸を愉しそうに輝かせて、くつくつと笑った。