灯篭花ノ章 五輪目
長い黒髪をたなびかせ、砂利道を引き返す姿があった。
顔は冷静に保たれているようでも、内心これっぽっちも平常ではなかった。
『狐』の別称をもち尊ばれる彼女が御堂から出るなど滅多にないのだ。
そんな彼女が、今こうして外出していることを知られてはまずい。
足を急がせつつ、彼女は思いつめていた。
心のより所は数少ない。だからこそ、彼らの前で本音を言うことは出来ない。
自分は月秋を護る者として、大多数の期待に答えなければならないから。
ああ、駄目だ。私には重過ぎる。
「……」
その時、運悪く長老達と出くわした。
「!」
まずい。迷宮に荘和を送ったことがばれたら……。
なるべく平静を装って軽い会釈をする。
「やや、これは狐様!お出かけになるとは珍しい」
長老の一人が気さくに声を掛けてきた。
「ええ。少し気晴らしに……」
どうにかして話題を逸らさなければ。
「館になど、何用ですかな?」
「え……」
一瞬頭の中が真っ白になる。
心の臓が凍るような思いだった。
どう繕えばいいか。いや言葉に詰まっていては怪しまれる。適当に答えてしまえ…!
「と…灯に、久しく会っていませんので……話を、していました」
「ほう、そうでしたか。御堂を出てまで会いに行かれるとは、随分仲のよろしいことで」
「そうですね……」
愛想笑いをしながらも、長老達の探るような目線を前に気が気ではない。
握り締めた手のひらがじわりと汗ばむ。
これ以上下手に喋ることはしない方がいい。
長老は人を見ることに長けている。動揺しては終わりだ。
「では、私はこれで失礼致します……」
足早に去ろうとした時、後方から声が掛けられる。
「――そうじゃ、月秋の新入りにも宜しくと伝えてくだされ」
終わりだと思った。
ずしりと言葉が圧し掛かる。
「……はい、そう、伝えておきます」
私は、嘘をついた。
もう、どうすればいいのか分からない…。
私は唇を強く噛んでいた。
気持ちに任せて駆け出す。上手く足が動かないけれど、じっとしてもいられなかった。
転がり込むように御堂の中へ入る。
「…はあ、はあっ……」
しばらく這いつくばって呼吸をしていたが、しばらくすると落ち着いてきた。
しかし、それと入れ替わるようにして滲み出てくる、後悔。
裏切るのは苦手だ。どちらか一方を裏切れば、必ずもう一方が傷付く。
「……っ」
一番の迷い人は、他でもない私だったのに。
***
灯篭花。仄かに光るそれは、一体何を意味しているのか。
じっと花たちを見つめても、それらは何も教えてはくれない。
「どうしろって言うんだよ……」
あの女将の言葉が正しいとすれば、俺は軽い記憶喪失になっているのだと思う。
その失われた記憶こそが迷いであり、真相への糸口なのだろう。
でも、ヒントも与えられないまま出口の無い迷路を脱出しようとしても無駄なことだ。彼らは一体俺に何を期待している?
放っておけば自然に思い出すとでも思ったのか?
第一……なぜこの部屋に来なくてはならなかったのかも理解できない。
じっと考え込むだけで解決できるのならば、別に自分の家でもいいだろうに。
ましてこんな待遇を受けるほどの身分でもない。
いっそ放っておいたほうが邪魔にならないと思うけど。
……って、あらら、俺のはじめに来た頃の覚悟は何処へやら。
きっと物凄い記憶が眠っているのだろう。
俺は本当に特殊な状況に置かれているのだろう。
だけど、それが蘇らない限りはどうにも俺がそんな人間なのだという実感は沸かない。
いやしかし、あの女将の助言、本当なのかな……。
俺は違和感を感じざるを得なかった。
結局、何を信じればいいのか分からない……。
――と、さっきから部屋で胡坐をかいて物思いに耽っている。
瞑想のはずが雑念だらけになっているのはスルーとして、本当に何も無い部屋ですることなど、これくらいしかない。
今の自分が魂である以上、食事も風呂も必要ない筈だし、誰も温泉とか食事の説明をしなかったということは
勿論旅館にそのような設備はなされていないのだろう。
寝転がるだけのスペースはあるが、今寝る気にはとてもなれない。
誰か来てくれないだろうか?
暇な時は誰かと話をするに限る。
何気なく、誰もいない所に向かって話しかけてみた。
「……誰かー。いない?」
「どうかしたかい?」
「うおえっ!?」
俺の声はナースコールか!?
出入り口の方向をがっ、と振り返ると、女将の瓊歌さんが外から少しだけ顔を覗かせていた。
あれ、さっきと比べて随分口調が男前になっているような……。
女将は驚いている俺に構わず喋りかけてきた。
「確か名前は荘和くんだったね。少しは真相ってやつを見つけられたかい?」
「……んー…何か思い出せないかと考えていたんですけど」
それを聞いた女将の表情が一瞬曇ったのを、俺は見た。
しかし、すぐに溌剌とした笑顔を向ける。
「無理に思い出すことは無いんだよ。何も思い出せなかったとしても、それはそれであんたの真相なんだから」
「そうなんですか?」
おかしいだろ。
全く釈然としない。記憶を取り戻せと言わんばかりだったのに今度は明らかに思い出して欲しくない
といったニュアンスが言葉の中に含まれている。
それに口調、動作、気質…ここまで変わるものだろうか。
女将は二重人格か?それとも双子か?
「あの…余計なこと訊くようですけど、此処の女将は二人いらっしゃるんですか?」
女将はきょとんとした顔で俺を見た。
「いいや、あたしだけだよ。誰かあたし以外に見かけたかい?」
「…い、いや、何でもないです……」
おかしいな…。二重人格か別人って路線が最有力だな。
月秋とかいうこの世界のことをまだ一部しか知らないし、怪奇現象が起こったとしてもそれは此方で不思議とは言わないのかもしれない。
少し考えを巡らせていたらしい女将は、かなり間を空けて、ああ、と納得した様子で頷いた。
「そりゃお稲荷様かもしれないね。時々いらっしゃるんだよ」
そんなのがどうして俺の部屋に……。記憶がどうとかって助言するなんて恐ろしい狐だな。
「へえ…こっちにも稲荷信仰ってあるんですね」
「この世界の守り神だからね」
「そうなんですか。俺、なんか迷いについて助言授かりましたよ。記憶を取り戻せとか何とかって」
「……え?」
女将は心底驚いたような顔をした。
それからしばらく言葉を詰まらせていたが、その間を取り繕うようにして言った。
「ええと…お稲荷様は悪戯好きだからね、助言はあてにならないよ。気にしないでいいの」
「……本当に?」
「本当だよ!……あ」
強く言ってしまってから、女将は我に返ったようだ。
「……とにかく、惑わされちゃいけないよ」
そう弱々しく言い直す。
「…じゃ、あ、あたしは仕事に戻るからね」
女将は逃げるようにして扉の向こうへ消えた。
残された俺はその方向をじっと見つめ続けていた。
「……正直者の女将だな」
灯より余程分かりやすい。
信仰している稲荷の助言があてにならないだと?そんな不自然な言い訳バレバレだぞ。
あの助言は的を射ている。だからこそ、疑わしいのだ。
ひょっとしたら今のも……稲荷?
それとも、あれこそが本物の女将?
「……っ!」
ばん、と拳で地面を叩く。
「畜生…結局何が真実なんだよ……!」
頭がおかしくなりそうだ。
こんなの、誰のせいで……!
脳が掻きまわされているみたいで、もう訳が分からない。
こんな閉所に長時間居るだけでも気分が不安定になるのに、それに加えてこの状況か。
疑心暗鬼になってしまえばもうどうにも取り返しがつかなくなるとは分かっていても、心は疑念の底へと突き進んでいく。
どこからが正しくて、どこからが罠?
誰が真実を教え、誰が偽証をしている?
俺は本当に迷い人なのか?
答えは何処にもない。
「……」
目を伏せた。
現実から視界が遮断されたから何かが変わるとは思わない。
逃げたりなど、しない。
だけれど……――
物言わぬ灯篭花だけが、その様子をじっと見つめていた。
***
館の外は静寂に包まれている。
幾千の曼珠沙華は風の無い空の下、静止していた。
彼女に紐を解かれた面を懐から出して、暫し見つめる。
やはり、向かうべきか。
声無き叫びに気付いてやれなかったことの、代償に。
青年はしかし、足を一歩も進めようとしない。
己が御堂に行ったとして、それが相手の救いになるとは限らないと彼は考えたが、何もしないわけにはいかない。
もどかしい気持ちと格闘する。
行動は慎重にしなければ月秋の住人に怪しまれることは重々承知だった。
だが、相手はその危険を冒してまでここへ来たのだ。
送り込んだ客を心配して見に来るほどお節介な奴ではない。
彼女が無限迷宮から出てきたということは、ずっと、その前から後ろに居て――
だからあれは、彼女なりの伝言だったのだろう。
『助けて』、と。
――精々私の『邪魔』はしないように……
彼女にとっての邪魔とは何なのか。
誹謗か。期待か。それとも、目線の全てか。
代償が彼女を救うことで払われるとするのなら、そのためには何が出来る?
「……」
その時だった。女将が取り乱した様子で走ってきた。
「灯!あんたこんな所に……!」
相当探し回っていたのか、女将は肩で息をしている。
「一体どうしたんですか?」
「あの、お客さんが……あたしに化けた誰かに、記憶を取り戻すようにそそのかされたって……」
それを聞いて青年は信じ難いという表情になる。
「しかし…あの子がそんなことをするわけが無いでしょう。それでは意図的に記憶を抜いた意味がなくなってしまう」
「だけど、今回の件について詳しく知っているのはあたし達二人と狐様だけでしょ!」
それはつまり、三人の内の誰かが糸を引いているということ。
しかし、そんな真似のできる者など……。
「……狐様があたしの振りをしたとしか考えられないよ。そう思いたくは無いけどね…」
何故?何を理由に……?
記憶を辿る。
彼女と会ったのは無限迷宮の入り口だった。
その中に居た時から、間違いなく彼女も一緒だった筈。
ふと、客との会話を思い出した。
――…『仲間』が見つかったら、それでその子の思いは晴れるのか?
――いいえ。仲間を見つけて浮かばれるのならばまだいいです。しかしあの少女の思いはそんな生半可なものではありません。
「!」
間違いない。
そうだ、彼女が自分を手放したあの日以来、彼女は迷宮に入ったことなど無かった。
たとえ案内人の姿が見えなくとも、彼女がいれば、分身はその力に吸い寄せられる可能性もある。
共鳴すれば、力は強まる。同じ力、だから。
少女――彼女の幻影は、きっと今……
そこまで考えが至って、迷いの留め金が外れた。
早く、一刻でも早く彼女に会わなければ……!
「女将、『狐』の下に向かいましょう…!」
居ても立ってもいられず、戸惑う女将を横目に駆け出した。
「ちょっと…待ちなさい!どうしたの!」
女将も慌てて追いかけてくる。
間に合ってくれ…!
視界の隅を、折れて倒れた曼珠沙華が横切った。
嫌な予感が、胸の奥でざわめいていた。
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