灯篭花ノ章 一輪目
これは契約だ。
***
貴女はそう厳かに言い放った。
けい、やく…?
何のことだか、俺には分からなかった。
だが、その言葉を反芻させる内に意味を理解し始めると、微かな恐怖と莫大な不安が押し寄せる。
本当に、このいたいけな少女の口から発せられた言葉なのか。
決して逃げられない契約。
それはつまり――。
要するに、貴女は多勢を選んだのだ。
怨みなどは、微塵もない。
ただ、貴女がそのような顔をなさるのが、どうも私は心残りなのです。
戻れるものならば戻りたい。
そんな悔恨が瞳に滲み出ているではありませんか。
だから私は再び戻ってきたのでしょう。
あの時と同じように。
きっとそれが貴女に与えられた最後の機会。
過ちを断ち切るのなら、今しか御座いません。
――ねえ、そうでしょう、瓊歌様。
***
「……っ!」
突然、目が開いた。
それと同時に、今まで眠っていた事を再認識する。
勢いよくベッドから飛び起きたらしく、気がつくと身を乗り出すような姿勢になっていた。
周囲に音も光もない。どうやら真夜中に起きてしまったらしい。
二度寝には充分時間が足りているが、体中のありとあらゆる汗腺から流れ出る汗が冷たい空気に触れて身に染み、すっかり目が冴えてしまった。
何時の間にこんな汗をかいていたのだろう。
思わず額を拭うと、それだけで手を雫が伝い落ちて瞠目した。
悪夢でも、見ていたか?
…何か、頭の隅で頻りに声がリピートされているのだが、これは夢の残留物なのだろうか。
ずっと、『こたえを…、こたえを……』って。
その声には聞き覚えがある。
まるで心の奥底に、その声が染み付いているようだった。
…ってただの夢ごときで何をそんなに恐れる必要がある。
ああそうだ、明日も学校だし、早いところ寝ないと朝起きられねえよな……。
「ふあぁ……」
大きなあくび一つして、再び寝なおそうかと思いそのまま後ろに倒れた。
ところが。
「ぎゃあっ!」
一瞬どんな天変地異が起きたのかと思った。
ごつっという鈍い音が自分の頭部から発せられて、俺は条件反射で叫んでいだ。
…あの「ふかっ」とした布団の衝撃がくることはなかった。代わりに脳天を刀で突き刺すような恐ろしく強い衝撃が襲った。
痺れるような衝撃の後、じくじくと後頭部が痛み出す。
自分でも訳が分からなかった。
「うぐ……痛ぇ……!」
その場でごろんとうつ伏せになると、頭を抱えてしばし激痛とご挨拶。
その痛む頭で俺は必死に考えた。
今の感覚は何だった?
石かコンクリートだよな?
家の床は石かコンクリートで出来ているか?
……つまり。
――違う。
ここ、俺の部屋じゃない。
いやこうなる前に気付けという感じだが。
弱々しく周りの状況を手探りで調べた。手が、ざらつく小石の上を這っていた。
ってことは……外!?
気付いた瞬間にがばっと起き上がっていた。
痛いとか何とかって呻いている場合ではない。
(俺、今日ちゃんとベッドで寝たよな!?)
まさか夢遊病にでもなったか?
ここ何処だよ!?
見渡す限り、完全なる闇。場所の確認の仕様が無い。
……今時街灯すら無い町なんてあるだろうか?
街灯がないのならせめて月明かりでも頼りに、と空を見上げると、俺は再び驚くことになる。
――空が、黒色だった。
星どころか雲すら見えない。何処からが地面で、何処からが空なのか、その境界線が見えないのだ。
そんな空、生まれてから一度も見たことが無かった。
だって大気光がある限り空が見えなくなるなんてありえないってのに……。
もう一度しゃがんで、手の感触を頼りに状況を探ってみる。
小石。
草。
そして、俺が座っていたと思われる平らな岩。
間違いなく外だ。屋根で覆われているわけじゃない。じゃあ何処なんだよ。
俺は頭を打って痛かった。そりゃもう痛かった。これが夢だとは思えない。だから此処は現実のどこかなのだ。
脳内にこの空間をイメージしてみた。
大きな岩がどかんと置いてある。そしてその周りを覆うように草が生えている。
そこは硬い土で、俺が激突した敷石のような部分とは意図的に区切られているようだった。
敷き詰められた小石は砂利だろう。とすると…日本庭園か神社の境内ってところだな。
確かにこの辺りには数軒の神社がある。
但し、俺の家から最寄の神社まで歩いていくとしても10分は掛かるし、そこへ行くまでに幾つかの横断歩道を渡らなければならない。
考えれば考えるほど、頭は混乱していく。
「ええと…となると此処は一体……」
駄目だ、なんか得体の知れないものに罠に掛けられたみたいで怖い……。
悪夢はまだ続いているのではないかと、そんな考えさえ浮かぶ。
だが、何もしないわけにもいかない。
暫く、頭の痛みを抱えながらも考え込んだ上で出た結論は。
…とりあえず動けばどっかに出るだろ。
行動だ行動。
神社だろうが何処かの豪邸の庭だろうが、夜中に居て気分のいい場所ではない。
とるものもとりあえず歩き出そうとしたが、ぴたりと体を止めた。
――今更ながら足を包む何かに気付いた。
これは、草履?
底が高い。女子の履くサンダルみたいだ。…母さんのと間違えて履いて来たのかもな。
そっと立ち上がってみる。ぐらつくが、歩くことに支障は無い。
一歩、砂利を踏みしめた。石同士の擦れ合う音が小さく響く。
もう一歩、二歩と慎重に歩く。
とにかく、ここから出なければ――。
がつん
「うわっ!」
つま先が何かにぶつかった。
途端に、ぱっと視界に光が戻った。
真っ先に見えたのは俺以外の人間の足。
そして視界の隅に、ランプを掲げる右手。
――人間だ。誰かが、目の前に居る……!
神様に救われたような思いで、急に安堵の感に満たされる。
が、我に返って、今一番訊かなければならないことを思い出す。
だが、訊こうと顔を上げた時に安堵感は瞬時に打ち消された。
「あのっ……」
ここはどこでしょうか、と言い掛けていたのを思わず呑んでしまった。
ぎょっとした。
ランプに照らし出されたその顔は。
……お面。
ただ白いだけの、何の装飾も無いお面だ。
それが、光を受けてぽっかりと浮かんでいる。
ものも言わず、ただ静かに此方を見ている。
俺はさぞかし引き攣った表情でそれを見つめ返していただろうが、そんな自分の態度など今はどうでもよくなっていた。
お面…、着物……。その二つの言葉だけが頭の中を旋回している。
い、いやいや…いいんだ、神社だろ、特殊な格好をしていて当然だし、そういう儀式でもあるのかもしれないじゃん……。
ここが神社だとは誰も言っていないが、そう自己暗示をかけなければパニックを起こしてしまいそうだった。
「――いかがなされましたか、お客様」
「!?」
突然、お面の中から低めの声がした。男、だったのか。
って、お客様?何、俺に言ってんのか?
……それ以外誰もいないので疑問に思う余地もないが、なんだか怖いので黙っておいた。
男は更に続ける。
「申し遅れました。丑三時の案内人・『灯』で御座います。どうぞお気の済むまで彷徨ってくださいませ…」
「……」
……誰だって?丑三つ時?案内人?灯?
俺は呆然としていた。と同時に、脳は必死に働いていた。
「……」
「お客様?」
うん、間違いなく日本語を喋っている。でもいまいち言われている意味が分からない。
突然出現して、何の心構えもさせずにそんなことを仰られても困るんですけど。
それに意識は無いにしても、俺は(きっと)充分深夜の町を彷徨ったのだ。もう気は済んだんだよ…!
改めてその案内人を見る。
照らし出されて闇に浮かぶ不審極まりないその男は、俺から時代を一世紀以上は遡らせたような格好だった。
暗闇に浮かぶ生白いお面に、白地に朱の着物と黒い袴という、奇妙な出で立ち。
下は袴なのに、女性のように帯締めや帯揚げなどもつけている。
それに、その着方、左前……滅茶苦茶な着こなしだな。
ま、まさかコスプ……てそんな訳ないか…。
だって神社だし…俺が知らなかっただけで、そういう着物の着こなしもあるのかもしれないし……。
再度自己暗示をかける。
とはいえ、もはや自己暗示というより祈りに近い。
男の年は面のせいでよく分からないが、声から推測するに恐らく十代後半から二十代前半程だろうということは判断できた。
高く結い上げた黒髪は肩まで届いており、とても現代人に見えるような風貌ではない。
神主、ということでもなさそうだ。
「お客様、宮明 荘和様、で間違いは御座いませんね?」
「!は、はい……」
面の中から突然声がした。
び、吃驚した……!突然話しかけられると驚くだろうが!
心臓がバクバクと音を立てる。
もっと心の準備ってやつを……あれ?
「何で俺の名前知ってるの!?」
や、やべえ!個人情報が……。
「それが案内人として当然のことで御座いますから」
…面識も無い人間の個人情報を調べ上げることは当然のことなのか。
上品な好青年ぶっているが、こやつ、何者なのか……。
それを皮切りに疑惑が湧き上がる。
そう、まずそんな面をしていること自体がおかしい。
儀式があったとしても今つける必要は無い。
改めてその面を見ると、無機質で例えようも無く気味の悪いオーラがひしひしと伝わってくる。
それは能面より淡白で、覆面より不気味だ。
その視線すら読むことを許されない。
もしかして、面をしているのは、顔を見られてはまずいからじゃないか?
…でも、知り合いにこんな奴いたかも?
とにかく、自分の置かれている状況を正確に把握するまでは、迂闊な行動は避けたほうがいい。
それまでは怪しまれないように上手く話を繋いで……。
「……」
「……」
駄目だ、シラけた。
しん、と静まり返った空気が気まずい。
恐怖を紛らわせたいのとこの空気を一転させたい一心で、俺は思わず男に聞いた。
「あのっ…俺、何の客なんですか」
言ってしまってから変な質問をしてしまった、と思ったが、男は別段笑う事も無く答えた。
「向こうの館です」
「館……?」
深遠の闇に果ては無い。
光の届く範囲には、せいぜい砂利道と雑草ぐらいしか見えなかった。
そんなでかい建物が、この近くにある、と?家の近くに立派な館なんてあったっけ?
「こちらです。付いてきて頂けますか」
釈然としない俺を横目に、男は突然くるりと背を向け歩み出した。
「はあ…」
いい、よな?
どういう訳か知らないが、何時の間にやら俺はその館の客として扱われてるみたいけど。
何処だか分からない場所に独り置き去りよりは安全だし、とにかくここから動けば何かが分かるかもしれない。
果たして俺はどれだけ遠くまでほっつき歩いていたのか、確認もしたかった。
さて、後は自分でなんとかしなければ……。
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