4章(2)最終話
この事件は、署内でも封印された。署長以下全員が口を閉ざしたのだ。
超常現象は報告書に記入されない。記入しても誰も信じないからだ。
命を落とした二名の警官は、訓練中の事故として内密に処理された。
二人の死因は心臓麻痺。外傷も無くショック性の麻痺と診断された。しかし榊は見た。
榊だけではない、多くの警官がその一部始終を見ていたのだ。
夜叉と化した酒田が心臓を握りつぶすのを……。
無論のこと、酒田には一切のお咎めはなかった。有ったとしても立証できない。
里美にはショックが強すぎた。野口を失ったことを、どうしても信じられなかった。
葬儀の時にもただ、ぼんやりと座っているだけだった。
その時美子は初めて野口の同僚から、二人が長く付き合っていたことを、知らされたのだ。
美子は、里美にかける言葉が見つけられなかった。
翌日、里美の両親が実家へと連れ帰った。
美子も見送りに行ったが、車の後部座席に座った里美は別人のようだった。
ぼんやりと一点を見つめ、見送りの美子の顔さえ見なかった。酒田は責任を感じていた。
弘子を甘く見ていたのだ。まさか自分に憑依するとは、思いもしなかった。
しかも、弘子の力は徐々に強まり、力の範囲を広げていたのだ。
今では、アパートの外にも影響を与え始めていた。
住人は、一人また一人と、アパートを去り始めた。
引っ越したくても引っ越せない住人が、僅かに残っているだけだ。
それでも夜は、どこかに泊まりに行くのか、アパートで夜を明かす住人はいなかった。
酒田は自分の身体の前と後ろに、二枚の護符を貼り付けた。憑依されないための手段である。
その上に、念仏の書かれた襦袢を羽織った。
最終的に酒田の装いは、巫女にも似た姿に仕上がった。
決戦い向かうのだ。もちろん美子も同行した。
恐ろしい光景も目の当たりにした。
恐怖もあるが、弘子をこのままにはしておけなかったのだ。榊は商店街までの同行だ。
美子にも榊にも、護符は渡されてはいたが、安心は禁物だ。
美子と酒田が坂を上り始めると、辺りは霧に包まれ始めた。
見上げると更に濃い霧が、アパート全体を包み込んでいた。そのうち小雨も降り出した。
商店街に着くまでは、夏の日差しが眩しかったにもかかわらずに……。
酒田は念仏を唱え続けていた。
ゆっくりと坂を上りながら、美子にも弘子の存在がヒシヒシと伝わってきた。
懐かしさと邪悪さの入り混じった、不可思議な想いが、美子を包み始めた。
「来るな。帰れ」
聞こえる声は、弘子とは似ても似つかなかった。
「酒田さん……」
美子は思わず袖を引っ張った。
「惑わされては駄目。弘子さんのことだけ考えて」
酒田はまた念仏を唱え出した。
美子は三人で写った写真を、しっかりと胸の前で抱きかかえ、弘子の姿を心に描いた。
「来るな」
更に声は強まった。美子の心に描いた弘子が笑う。団子を食べながら笑みを浮かべる。
転んだ弘子も照れくさそうに笑う。
「来るな……。来ないで……。お願い」
声は次第に弘子の懐かしい声に変わった。
「酒田さん……」
「集中して!」
美子は更に強く心に描いた。
「美子、お願い。それ以上来ないで」
弘子の悲しそうな声が耳に響いた。二人はアパートの玄関に辿り着いた。
壁の彫刻が二人に向き直り、不気味な咆哮を上げた。
建物に絡みつく蔦は、ざわざわと音を立ててざわめき、二人の侵入を拒んでいるようだった。
「相手は私たちを恐れているわ。負けないで。しっかりついて来るのよ」
酒田は美子の手を握った。玄関ホールから見た中庭には、黒い霧が渦を巻いていた。
そして、竜巻のように天まで昇っていたのだ。激しい風が容赦なく二人に巻きつく。
「何している。あんたたちは誰だ」
あろう事か大家が顔を出したのだ。しかし、大家にはこの状況が見えないらしく、
怒りの形相で二人に向かってきた。
「ただでさえ、住人が出ていっているのに、まだ騒ぎ立てるのか」
大家にしてみれば怒りは当然だ。
巫女みたいな服装の女がいれば、またもおかしな噂が流れると思ったのだ。
怒りに任せた手が、美子の肩に触れたとき、大家は吹き荒れる風に巻かれ、
中庭まで飛ばされた。大家の怒りが弘子の霊を呼び寄せてしまったようだ。
それでも大家には何も見えなかった。
大家に目には、激しい風も黒い霧も見えてはいないようだった。
驚いて辺りを見回す大家の眼は、見えない恐怖で見開かれていた。
「な、なんだ、なんだ」
そのうち大家の身体は宙に浮き始めた。そしてグルグルとまわり始めた。
「た、た、助けてくれー」
美子たちには見えていた。大家は竜巻状の黒い霧に包まれ、浮き上がっていたのだ。
大家の身体は回転速度を急に上げた。
しかし、大家が悲鳴をあげる間もなくその身体は鋭くねじれ、
ばらばらとなって四方に飛び散った。
美子は目を覆った。とても正視できなかったのだ。
酒田は大家のための祈りを捧げ、美子の手を引っ張った。
「行くわよ」
巻き起こる風に止む気配は無い。
それどころか、玄関ホールの階段を上り、二階の廊下に出た二人を、
更に強い風が襲いかかった。二人は廊下の手摺につかまり必死に風に立ち向った。
正面に見える弘子の部屋のドアは、今は跡形も無く消え、
どす黒く永遠と続くような闇が中へと続いていたのだ。
商店街の榊には、アパートを取り巻く霧が見えていた。
天まで届く竜巻も、しっかりとその目に映っていたのだ。
榊も弘子に接触した一人だからこそ、見えたのだろう。榊は心配だった。
あの中で、何が起きているのか、二人は無事なのか、それさえ見当も付かなかった。
しかし、榊は動けなかった。酒田と約束したのだ。
「彼女は、人を殺すたびに力をつけるの。貴方まで命が奪われるようなことが有っては、
私でも勝てなくなるの。だから絶対に近づかないで」と。
榊にはもはや見守ることしか出来なかったのだ。美子はまたも弘子の声を聞いた。
「何故、来るの?何故、私の言葉を聴いてくれないの?冷たくなったわね」
最後のほうは弘子の声ではなかった。憎しみのこもった太い声だった。
美子は首を激しく振り、耳に聞こえる声を振り払った。
「そうよ、惑わされないで」
一瞬、吹き荒れる風が収まった。
「今よ」
酒田が美子の手を引っ張り、どす黒い闇へと飛び込んだ。
飛び込んだ闇の中は外とは正反対に静まり返っていた。
しかも色彩の無いモノクロの世界だ。キャンドルの灯りだけが部屋に浮かんでいた。
「これは……」
美子が呟いた。
「彼女の心の世界よ」
酒田は美子の手を引いて、ゆっくりと踏み出した。
「見て。彼女が絵を描いているわ」
見ると、弘子がキャンバスに向かっていたのだ。部屋は弘子の部屋。当時のままだった。
「弘子!」
美子は思わず弘子の名を呼んだ。
「どうして来たの?」
弘子は振り向きもせずにただそう答えた。
「だって、弘子が苦しんでいると思って……」
「美子、ありがとう。でも苦しんではいないわ。自分で選んだ道だもの。
後悔もしていないわ。分かったら帰って。お願い」
弘子の声は優しく聞こえた。しかし、酒田の顔は険しかった。
「貴方の復習は終わったはずだわ。何故、残るの?」
酒田は尋ねた。
「お前には殺された口惜しさが分かるまい。私のように殺されたり、
傷つけられたりする女は、まだ沢山いるのだ。私はそんな同胞をこれからも守る。
邪魔立ては許さん」
既に弘子の声ではなくなっていた。振り返ったその顔も、もはや弘子と呼べなかった。
弘子は酒田に飛び掛った。そして胸に手を差し込んだ。
しかし、弘子の手は、何かにはじき返されたのだ。
「ふっ、姑息な手を……。しかし、通じはしない」
弘子の目が光ると同時に、酒田の衣服は剥ぎ取られ、二枚の護符まで宙を舞った。
「恐ろしい」
酒田は必死に念仏を唱え始めたが、弘子には無意味な言葉でしかなかった。
「無駄な足掻きだ」
そう言って酒田の胸に手を差し込んだ。
酒田は苦痛の表情を浮かべ、口をぱくぱくするだけだった。
「お願い。もうやめて!弘子、やめて!」
美子は思わず大声で叫んだ。
「うるさい、美子に何が分かる。受付の仕事を嫌がり、勝手な想像で浮かれるお前に」
美子は驚いた。弘子は知っているのだ。
「弘子……」
「私は卒業さえ出来なかった。納得できる絵も仕上げられなかった。
それなのに、美子は私の邪魔をするの?私が選んだ道を邪魔するの?」
その時は、弘子の顔だった。
「だったら許さない。美子も許さない」
またも恐ろしい形相へと変わりはじめた。
「待って、弘子。優しく皆に好かれた弘子はどこに行ったの?
写真の笑顔はどこに行ったのよ」
美子は三人で写った写真を、弘子に投げつけた。
写真はゆっくりと宙に浮き上がり、弘子の目の前で静止した。やがて恐ろしい形相は、
優しい懐かしい弘子に戻った。
「昔のことは忘れたわ」
弘子はポツリと呟いた。
「いいえ、忘れていないわ。だって、私を覚えているじゃない。
私を心配で見守ってくれていたじゃない」
美子はその場に泣き崩れた。
「美子……」
弘子は酒田の胸から手を引き抜いた。酒田はそのまま床に倒れこんだ。
弘子の胸にも、昔が蘇った。
楽しい美大時代。三人の思い出。厳格だったが優しい父。
そのとき、弘子の中で何かが弾けた。
憎しみとでも言うのか、邪悪な想いが一瞬で吹き飛んだのだ。
元来優しい弘子は、邪悪な存在にはなりきってはいなかった。
ただ、止めてくれる相手がいなかっただけなのだ。
「美子、ごめんね。何一つ忘れてはいないわ。楽しい思い出もすべてね。
でも、分かって?私には雄二が初めてだったの。
恋をしたのも、すべてを捧げたのも、雄二が初めてだった。
だから余計に許せなかったの。美子と里美はずっと見ていたわ。友達だもの」
「弘子!」
美子と弘子は抱き合った。美子はワンワン泣き出した。
弘子の頬にも、大粒の涙が次々と伝わった。
すると、辺りには穏やかな光が立ち込め始めた。
「美子。私、行くわ。心配かけてごめんね」
美子は弘子を見つめ、小さく頭を振った。
「里美にもありがとうと伝えて、それから、ごめんねとも……」
弘子の姿が薄くなり、光り輝き始めた。
「もう見守れないけど、私の分まで人生を楽しんでね」
そう言い残し、弘子の姿は完全に消え失せた。
辺りの光も同時に消えて、暗い空間が漂うだけだった。
そこには、邪悪な気配は一切感じられなかった。美子は汚れた床の上で、泣き続けた。
「終わったか」
商店街の榊には、すべてが終わったことが理解できた。
アパートを取り巻く霧は立ち消え、一筋の光が天へと上ったのだ。
「安らかに」
榊は心の中で祈った。
しかし残念なことに、小雨降る坂を下ってきたのは、美子一人だけだった。
この事件は、誰にも知られることは無かった。
唯一、榊の手記だけが大切に保管されていたが、誰の目にも触れることはなかった。
美子は画廊の仕事をやめ、また、絵の勉強を始めた。
弘子の意思だけでも継ぎたかったのだ。
里美は田舎に留まり、家事手伝いの日々を送っていた。
悲しみは癒えないが、徐々に元気を取り戻していった。
二人は時々だが連絡を取り合い、疎遠になることは決してなかった。
そして二人の会話に、弘子が登場することは、その後二度とは無かった……。
完
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