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遺書(仮)
作:雑草生産者



 これは私の遺書(仮)である。何故、(仮)と付いているのか?
 それは私に死ぬつもりがないからに他ならない。
 大きな病魔に侵されているわけでもないし、寿命が近付いているわけでもない。自然な死が身近にあるわけでは全くないのだ。私があと数年の間に病気や事故、事件で死ぬ確率は極めて低いことだろう。
 にも関わらず、私が遺書をしたためているのは何故かといえば、私の頭の片隅にここ何年もの間、常に自殺という愚かな選択肢が居座り続けているからである。
 私はもう何年も死にたいという無益な願望を抱きながら生きてきた。そして、時を経るにつれて、その願望は大きくなってきている。
 私が死にたいと思う理由は、そう大したものではない。
 不治の病の身で行く末短いわけでもないし、大きなトラブルに巻き込まれて生死が危ういわけでもない。熾烈しれつなイジメに遭い人生を悲観したわけでもなければ、耐え難い恥辱に遭ったわけでもない。
 前述したような立派な(自殺の理由に立派も何もないともいえるが……)理由ではない。
 私が、死にたいと思う理由は、自己嫌悪というものであろうと私は考えている。

 私は、自分という存在が大嫌いである。
 私は、やる気もなく、生き甲斐もなく、さしたる才能もない人間だ。能力も、器量も、人柄も、容姿も、全てにおいて、普通の人々よりも大きく劣った奴だ。
 何の役にも立たない癖に人や物には一丁前に文句を言い、屁理屈をこねては怠惰に楽をしようとし、無駄に愚かな虚勢を張るような生きている価値など最初から微塵もない本当にどうしようもない能無しだ。
 また、私は、異常なほどに人見知りで、臆病で、軟弱で、人と接することさえも恐がり、いつもびくびくと怯えながら生きている。街中を歩いていてもすれ違う赤の他人から、仕事場の同僚から、更には家族からさえも自分が嫌悪されている錯覚さえ覚える。実際は、私の存在に対して彼らは嫌悪も何もないだろう。人はそこまで他人に意識を向けていないだろうし、家族はおそらく私を家族として愛してくれていると思う。それでも、私はその被害妄想を思考から拭うことができない。
 そんな私だから、心を許している者も数人の家族だけだ。自由に話ができる友人も知人も存在しない。今、一人暮らしをしている私の身近に親しい者など皆無なのだ。そのことが更に私の気分を落ち込ませ、孤立感は私に自殺という選択肢を見せ付ける。
 そもそも、私を必要とする人も物も何もない。私がいなくなったとして、困るものなどどの世界にもないのだ。いや、私がいない方が色々な人や物にとって都合が良いだろう。無駄なものなどこの世には存在しない方が良いのだ。だから、ゴミは捨てられるのだ。
 私はそれを自覚しており、故に死にたいと心の片隅で常に思案している。
 それでも、私が死なないのは、私が本やマンガ、アニメなんかが好きで、それを一生、読んだり見たりできないということは避けたいという己の欲望と、ただ単純に死ぬのが恐いという恐怖からだ。楽に死ぬことは難しいことで、死にはいつも痛みや苦しみが伴う。臆病な私はその痛みや苦しみが恐いのだ。また、死ぬ勇気なんてものが私に備わっているはずもない。ここでも私は臆病なのだ。

 そのように死ぬ気のない私がこの遺書めいたものを書いている理由は、この私の頭に巣食い、胸を圧迫させ息苦しい気分にさせるこの「死にたい気分」や「自己嫌悪」というものを何か文章にして、吐き出したならば、少しは楽な気分になるのではないかと期待するからだ。
 また、今まで抑えていたそれらが、今まで抑えつけていたふたを押し上げ、溢れ出てきたからでもあろう。
 それらが溢れ出てきた理由には、思い当たる節がある。
 ある仕事上のトラブルで、私は大いに叱責されたばかりなのだ。勿論、叱責された原因は私にある。これは相手を気遣ってとか相手に遠慮してとかではない。第三者が純粋に見ても、私に原因があることは明確だ。
 何故、私はそのような原因を作り出すに至ったか?
 その理由は、私の怠惰でやる気のない人格的特徴に他ならない。思えば、私はこのどうしようもない短所と臆病な短所により、私は多くの後悔と失敗を重ね、この「死にたい気分」と「自己嫌悪」を大きく育んできた。

 私は小学生の頃からその2つの悪しき人格的短所を兼ね備えていた。
 勉強にも運動にもやる気を出さず、幾度も教諭の叱責を買う羽目になった。その度に臆病な私は馬鹿みたいに泣き、大いに後悔した。
 普通の人ならば、その後悔を重ねたくないとの思いから、次は注意するだろう。しかし、愚かな私はその後悔から目を背け、見ない振りを、忘れた振りをするのだ。そして、再び失敗を重ね、後悔するのだ。愚かにも程がある。
 また、私の臆病な性格は、人と接することを意識的に遠ざけ、高校時代に至っては、全く友人がいないという境遇に至った。これも、また、己の責任で、そうなったのである。
 しかしながら、妙に図太い神経を持つ私はその孤独感に3年間も耐えてしまった。耐え切れずに友人を作ろうと勇気を振り絞ることもなかったのである。
 この妙に図太い神経も私の人生(といってもさしたる暦年ではないのだが)に大きく悪影響を与えている。前述したように孤独感とか失敗や後悔に耐え切れなければ何かしら行動を取ったかもしれない。にも、関わらずなまじっか図太い神経を持っているから、失敗も後悔も頑なに見ない振りをし、孤独にも耐えてしまい、自分から自分を変えようという勇気を生み出すことをさせなかった。
 と、このように書いていくと、何だか、私は私の「死にたい気分」や「自己嫌悪」を生み出し、育んだ責任を何か他のものに転嫁しようとしているようにも見えるが、一応、それは違う。結局のところ、自分の人格が悪いということは自分が悪いということと同義であり、つまりは自業自得なのだ。自業自得で死にたいとか思っている私は本当に気持ち悪い存在だ。全くもって生きる価値などない。

 前述のような最悪にして唾棄すべき存在である私であるが、それでも、私が自殺すれば、悲しんでくれる人は少なからずいることだろう。
 まず、こんな不出来な私を溺愛してくれている祖父母は勿論であろう。私のような存在には愛される価値も理由もないのだが、無償に愛してくれているのだ。もし、私が自ら死ぬようなことになれば、祖父母は大いに心を痛めて下さるだろう。そう思うと、大変ありがたく、また、申し訳なくもなる。
 よく私を叱責する父も、一応、私が死ねば悲しむことだろう。私を叱った理由の多くは、私のやる気のなさや不器用さにイライラしたことであろう。これも怒られる原因はやはり私にあるのだ。普段は我侭で短気な父だが、少なくとも、私が死んでしまえば悲しみはするだろう。
 私が最も心を許している存在の一人である母も、私が死ねば悲しむと思う。やはり、血肉を分けた子である私のことが可愛いのだろう。何だかんだいって、私は甘やかされてきたようにも思える。最も私を心配し、可愛がってくれているのが母であることは確かであり、やはり、私が死ねば悲しむだろう。
 妹もそうだろう。彼女と私の仲は悪くはなく、世間的に見れば良い方だろう。兄として見られているようには思えないが、本気で嫌われてはいないように思える。
 以上のように、こんな私にも私が死んだら悲しんでくれる人もいる。私も彼らを家族として好いている。
 ゆえに、私の自殺なんぞという下らないことで、彼らが悲しむのは忍びないことであり、また、そのせいで社会的に悪影響を受けてしまうこともあるだろう。それも私には耐え難いことだ。
 このことも私が自殺しない理由のうち大きな割合を占めている。

 さて、長々と駄文を書いた。
 読み返せば、大いに下らないし、つまらない雑文だろうが、私の遺書としては上出来だ。下らない人間の遺書など下らないもので十分なのだと思う。
 また、読むに値しないものだろうし、公の場に晒すべきでもないだろう。この行為も、また、私に後悔をさせ、自己嫌悪を深めさせるかもしれない。それでも、私はこの胸に詰まっているような鬱々とした気分を、この駄文を書き、公の場に晒すという行為によって、その気分を吐き出し、少しでも楽になれると思うのだ。

 やや、歯切れが悪いが、これにて、筆を置く。書きたいことは全て書いたと思うのだ。
 明日からは、また、私は持ち前の図太い神経により幾多の失敗や後悔から目を背け、びくびくと世間に怯えながら臆病に生きて、この「死にたい気分」と「自己嫌悪」を更に大きく育てることだろう。この私の頭の片隅に巣食う悪しきものが、綺麗さっぱりと消え去ることは永久にないだろう。














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