ブックリスト登録機能を使うには ログインユーザー登録が必要です。
ブレイン・バースト
 おれはくそったれの蛆虫探偵、片桐有二が大嫌いだ。あのスカしたにやけ面を見ていると、胃がムカムカしてくる。あいつの気取ったしゃべりを聞いていると、殴り殺して、バラバラに切り刻んでから、ひき肉にして豚に食わせてやっても、腹の虫が収まらないほどに、怒りが込みあげてくる。ただの下種な探偵のくせして、かねと権力がある依頼人の後ろ盾のおかげで、のうのうと息をしやがるあいつが許せない。さも自分がかねと権力を手玉に取っているといったふうな、余裕綽々なあの態度が、おれをいつもいらつかせやがる。かねも権力もくそったれだ。そんなもんは片桐のひき肉と一緒に、豚に食われちまえばいい。おれは杉並署の藤井俊夫だ。おれがいる限り、あの蛆虫野郎の好きにはさせない。


 おれのおやじは町の小さな板金屋で働いていた。中学を卒業して、夜間高校に通いながら就職したらしい。従業員が五、六人しかいない本当に小さな板金屋で、車の板金みたいに派手なものじゃなく、精密板金という小さな機械の部品を作っていたらしい。
 おふくろとはその夜間高校で知り合って二十歳そこそこで結婚。親父が二十四歳のときにおれが産まれた。

 おれんちはかね持ちじゃなかった。どちらかと言えば貧乏なほうだった。だが、べつにそれで困ったと思ったことはなかった。子供のおれにとってかねはそれほど重要じゃなかったし、いまほどものに溢れ返った生活なんて、当時は存在していなかった。町そのものがおれの遊び場だったし、毎日学校から帰ってくれば、ランドセルを放り投げて自転車であちこちへ遊びに行って、それでじゅうぶん楽しかった。半ズボンのポケットには、なにかあったら電話をしなさいと、おふくろがくれた十円玉が三枚だけ入っていた。当時はまだ、携帯電話はおろか、ポケベルもなけりゃ、テレホンカードすらない時代だった。プッシュ式の公衆電話すら見ることがない、そんな時代だった。近所の酒屋の自動販売機で、瓶のセブンナップが七十円で買えて、買った瓶を開けるための栓抜きが自動販売機に設置されている、そんな時代だった。

 金属バットと擦り切れたグローブ、軟式のボールを自転車のかごに入れて、ヨレヨレのTシャツを着たおれは、友達たちと一緒にいろんなところで遊んだ。学校のグランドや、近所の公園。ゴルフの練習場に入り込んでゴルフボールを盗んだりもしていたし、立ち入り禁止の操車場でも遊んだ。藪のなかでエロ本を見つけては友達たちと興奮しながら見たりもしていた。ドブ川でザリガニ釣りをしていて、落っこちてドロドロになって帰ったことだってあった。とにかく、真冬でさえ半袖Tシャツに半ズボンって格好で遊びまわっている、そんな子供だった。

 おやじは酒乱の気があって、飲むとちょっとしたことで怒りだすことがあった。おふくろが殴られることもたまにあったし、おれだって、生意気な口をきいたとか、宿題をやらなかったとか、そんなことで胸ぐらをつかまれて、ヤクザの脅しのような罵声を浴びせられて殴られたりもしていた。だが、普段は真面目に働くおやじで、日曜日には家族揃って、おやじの運転する車で釣りに行ったり、大きな公園で遊んだり、とにかくかねがかからない場所ばっかりだったが、いろいろなところへ連れて行ってもらって、おれに大きな不満はなんにもなかった。

 おやじの勤める板金屋は、おれんちのアパートから車で十五分程度のところにあった。だからおやじは仕事が終わって帰ってくるのが早かった。六時前にはいつも家にいた。おれはおやじが帰ってくる時間に合わせて、おやじの車を止める駐車場のまえまで行き、おやじが帰ってきて車から降りてくると、持っているグローブを渡して、駐車場の隅でキャッチボールをしたりして遊んだ。十五分か二十分ほどキャッチボールをするのが日課になっていて、そのあとおやじと一緒に家に帰り、おやじと一緒に風呂に入るのが日課だった。

 たまには家族で銭湯に行ったりもした。銭湯のまえでおやじはいつも、おふくろに小遣いをもらい、おれとおやじは風呂から出ると、銭湯の隣にある小さなプレハブ小屋の一杯飲み屋に立ち寄って、そこでおふくろが出てくるのを待っていた。その飲み屋は、風呂上りの男たちがいつも利用していて、カウンター席がいくつかあるだけの、本当に小さな店だった。おれとおやじはいつも、店の隅の席に座り、おやじはいつも、たいしてもらえない小遣いで、生ビールともつ煮とおにぎりとオレンジジュースを頼むのが決まりだった。おれはオレンジジュースを飲み、おにぎりを食べ、おやじからもつ煮を分けてもらって、おやじが店主と上機嫌で話しているのを、黙って脇で聞いているのが決まりだった。ほかにも食べたいものはいろいろあったし、ジュースのおかわりもしたかったが、おやじがかねを持っていないことは知っていたから、我慢して言わなかった。ぜんぜん贅沢じゃないが、おれにとってはそれが幸せな時間だったし、おやじとの思い出のなかでも、忘れられない出来事の一つだ。

 そんなふうにして、おれんちは貧乏だったが、それはそれで幸せだったし、毎日平和に暮らしていた。貧乏だったかもしれないし、狭いアパート暮らしでプライベートもへったくりもなかったかもしれないが、それでもおれに大きな不満なんてなんにもなかった。なんの問題もなかったし、なにか問題が起こるなんて思うことすらバカげているくらいに、おれはその生活に満足していたし、自分もきっとおやじみたいに、たいしてかねは稼げないかもしれない板金工場だのなんだので働いて、それはそれで幸せに生きて行くんだろうと思っていた。あの日までは――

 そう、あの日までは――
 
 小学校六年生のときだった。おやじが珍しく夜に出かけることになっていた。高校時代の同級生たちと飲みに行くのだと言っていた。貧乏だったおれんちにとって、そんなことはしょっちゅうできるはずもなく、何ヶ月かに一回だけのおやじの楽しみの一つだった。仕事から帰ってきたおやじは、おれとのキャッチボールを断り、風呂にさっさと入って、いつもよりちょっとはマシな格好をして出かけていった。おふくろは、おやじがいないから夕飯を手抜きして、インスタントラーメンに卵とハムを入れただけのものが食卓に並んだ。おれはおふくろと一緒にテレビの歌番組を見ながらそれを食べた。育ち盛りでインスタントラーメン一杯だけじゃたりないおれに、おふくろは自分のラーメンを半分わけてくれた。

 夜中におふくろがおれを叩き起こした。おふくろの様子がおかしいってことはすぐにわかった。なにか恐ろしいことが起こっているんだということがすぐにわかった。真っ青になって、怒っているわけでもなく、泣いているわけでもない、固くこわばったおふくろの顔は、いまでも忘れることができない。
 おれはパジャマを脱がされて、いつもよりちょっとだけマシな服に着替えさせられた。おふくろに手を引かれて、いつもじゃありえないタクシーに乗って警察まで行った。
 警官に案内された場所は、死体安置所だった――そのドアの前に、ピッチリとアイロンがかかった制服を着た年寄りの警官がいて、〝お子さんには見せないほうがいいと思います〟と、おふくろに言ったのが聞こえた。おれにはなにが起こっているのかがわかっていた。わかっていたがあまりに突然のことで、なにがなんだかわからないでいた。
 おふくろは年寄りの警官に言われたとおりに、おれをドアのそとに残してなかに入って行った――すぐにおふくろが泣き叫ぶ声が聞こえた。
 おれはドアに手をかけた。年寄りの警官がそれを止めようとおれの腕を掴んだ。おれはそれを振り切ってドアを開けた。なかはテレビのドラマで見る死体安置所そのものだった。白い布に包まれた物体のまえで、おふくろが涙を流しながら、嗚咽をこらえていた。近寄るおれに気がつき、〝見ちゃだめ〟と言って、しゃがんでおれの顔を覆い隠すように抱きついてきた。おふくろの田舎にあった豚の屠殺場と同じ匂いがした。気持ち悪くて吐きそうだった。
 おれはおふくろに言った。〝お父さんが死んだんでしょ? そこにいるのがお父さんなんでしょ? 僕にも見せて。お父さんを見せて〟
 おふくろは真っ赤な目でおれを見た。そして意を決したようにおれから離れた。おれは白い布に包まれた物体に近づいた。端に立っていた警官が哀れな目でおれを見ていた。
 おれはその物体の顔らしき部分にかぶさっている布に手をかけた。とてつもなく怖かったが、震える手でその布を一気にめくった。

 見るんじゃなかった――おれはその場で吐いた。夕飯のインスタントラーメンが床に溢れた。おふくろが声を出して泣きながらおれにしがみついてきた。端に立っていた警官が、おれとおふくろを隅に寄せて、おれが吐いたインスタントラーメンとハムの残骸の掃除をはじめた。
 おれは恐る恐るもう一度その物体を見た――肉片――そう呼ぶべきだろう。おそらくそれはおやじで、おそらくそれはおやじの顔だったのだろう。色の抜けた青白い顔らしきものが天井に向いて固まっていた。
 それは顔の左半分から上がなかった。左の頬だったらしき場所から上が無残にえぐり取られて、剥がれかけた頭皮が頭の下の白い布に広がっていた。えぐり取られた部分から頭の中身が丸見えになっていた――グチャグチャになった中身がはっきり見えていた。屠殺場の匂いがおれに襲いかかってきた。おれはまた吐きそうになって、おふくろを振り払い、安置所から飛び出した。おれはよりによっておやじに向かってゲロを吐いたのだ。なんてことをしてしまったのかと自分を責めたが、どうにもならなかった。

 
 あとになっていろいろ聞いた。警官からも、一緒に飲んでいたおやじの同級生からも、居酒屋の店主からも。親父がなんであんな姿になっていたのかをあれこれと――

 おやじは同級生と飲んでいた。何ヶ月かに一回の同級生との飲み会で、そこは同級生の親が経営する小さな小料理屋だった。
 突然、汚れた格好の男がすごい勢いで店に入ってきて、カウンターに座りビールを頼んだ。今日は貸しきりなんでと、店主がその男の注文を断った。男は覚せい剤で頭がおかしくなっていた。店主にわけのわからないことを怒鳴りながらまくし立てて、とにかくビールを出せと言った。おやじは酔っ払った勢いで、いつもの酒乱気味な乱暴な態度で男に絡んだ。男らしさをアピールして、男を追い出そうとした。男は薄気味悪くニタニタと笑い、腰のベルトに挟んであったトカレフを抜いてぶっ放した。至近距離で頭に三発の銃弾を浴びたおやじの顔は弾け飛んだ。脳みそをぶちまけながら仰向けに倒れた。男は残りの銃弾をおやじの腹に全部ぶち込んでから厨房に行き、出刃包丁で喉を掻っ切った。勢いよく出刃包丁を押し引いたから首が半分取れかかって横に傾いた。血が天井目掛けて溢れだし、体を左右に揺すりながら前のめりで倒れ、辺り一面を汚い血の海に変えた。

 その男は暴力団の麻雀賭博の雀士だった。寝ずに麻雀を打ち続けるために覚せい剤を常用させられていた。負けた責任で両手の小指がなかった。負けが続いて借金が山のようにあった。借金のせいで女房を暴力団の娼婦にさせられていた。女房も覚せい剤でボロボロにされ、下種な男どもにたらいまわしにされていた。
 対抗する暴力団の幹部が男の弱みにつけ込んだ――〝おまえのところの幹部を殺してこい。そうすればおまえもおまえの女房も助けてやる〟
 男は渡されたトカレフを持って、覚せい剤でぶっ飛んで、景気づけに一杯飲んでから、自分をおとしめた幹部をぶっ殺しに行く途中だった。立ち寄ったおやじの同級生の小料理屋にも、おやじにも、なんの恨みもなかった。ただ立ち寄ってビールを頼んだだけだった。酔っ払っていきがったおやじが絡んできたから、頭にきてトカレフをぶっ放しただけだった。
 意味なんかなんにもなかった。おやじが酒乱気味なヤツじゃなかったら、店主が素直にビールを出していたら、男はビールを飲んでから、すぐに店を出て、暴力団のアジトに行き、そこでトカレフをぶっ放していたはずだった。男に襲いかかっていた恐怖と、覚せい剤による興奮と苛立ちのせいで、おやじの喧嘩腰な態度を見逃すことができなかっただけだった。

 おれはくだらない事件でおやじを失った。ただでさえ貧乏な家だったおれんちは、さらに貧乏になった。おふくろは近所のパン屋でパートタイムの仕事をはじめたが、たいした収入にならなかった。中学時代のおれは、色気づいて格好もつけるようになり、貧乏なのが格好悪くて嫌だった。だが、一生懸命に働くおふくろに文句なんか言えなかった。朝飯も夕飯も残り物のパンだったが、文句なんか言えなかった。食パンの耳を袋に詰めてもらってきたものがおやつ代わりだったが、文句なんか言えなかったし、むしろおれはおふくろに感謝していた。貧乏で格好悪くて、学校になんか行きたくなかったが、真面目に通った。格好をつけるために、おれは不良グループと付き合うようになり、悪いこともいっぱいしたが、勉強もちゃんとした。高校には奨学金で入った。柔道部に入って体を鍛えた。県の大会では何度か表彰台に立つこともできた。不良グループとの付き合いは続いていて、おれが柔道で名をはせていることが、さらに悪い仲間を呼ぶことになったが、おれ自身はなるべく悪さをするのはやめるようにしていた。卒業して、警察官の採用試験を受けて、警察学校に入った。交番勤務からはじめて、巡査部長になったと同時に刑事課に配属を希望して、そのとおりになった。おれの時代がはじまった――

 おれは私服の刑事になった。やるべきことはいろいろあったが、おれの目的は一つだけだった――麻薬常用者をぶちのめすこと、ただそれだけだ。麻薬でぶっ飛んだヤツを見ると、おふくろの真っ青な顔を思い出す。顔がなくなって頭の中身が丸出しのおやじを思い出す。屠殺場の内蔵と血の匂いを思い出す。肉片になったおやじの目のまえでゲロを吐いたおれを思い出す。おれは怒りにまかせて麻薬でぶっ飛ぶジャンキーをぶちのめした。ブラックジャックを手作りして、見せしめのために持ち歩いた。ぶちのめしたジャンキーの数を、星の形にしてブラックジャックに記してきた。おれのブラックジャックによる尋問は効果が絶大だった。まだ麻薬でラリッているジャンキーでさえ、おれのブラックジャックにおののき、正気を取り戻して罪を認めた。売人は暴力団の密売ルートを簡単に吐いた。暴力団からの報復なんかよりも、おれのブラックジャックのほうがはるかに恐ろしいってことを、身を持ってわからせてきた。おれのブラックジャックはすぐにボロボロになった。ジャンキーを殴打している最中に革の縫い目が破れて、なかからパチンコ玉がボロボロとこぼれ出すことなんてしょっちゅうだった。取調べ室でのジャンキーは、どいつもこいつもボロボロになるまでおれに殴打されたが、それでもおやじのあの姿に比べれば、息ができるだけマシってもんだった。

 おれの過激な捜査で麻薬を売る売人が減った。それにより、暴力団のあがりは減った。おれを殺そうとする暴力団員もいたし、逆に買収しようと賄賂を寄こす暴力団員もいた。だが、おれはどちらにも敢然と立ち向かった。麻薬を使うヤツらはどんな人間だろうと許すべきではなかった。それどころか、生きている価値さえなかった。ヤツらはみんな、おれに殺されないだけありがたいと感謝するべきだった。おれのおやじの脳みそをぶっ放したジャンキーどもを許すわけにはいかなかったし、おれのおふくろに苦労をさせたジャンキーどもを許すわけにはいかなかった。おれにとっては麻薬常用者すべてが、おれのおやじを殺した犯人だったし、おれのおふくろに苦労をさせたくそったれ野郎だった。

 だから、あの野郎のこともあたりまえにぶちのめしてやった。探偵だか何だが知らんが、薄汚れた街の裏社会でコソコソと仕事をしているろくでなしのあの野郎。かねもちばかりを相手に、法律を犯す仕事ばかりしているあの野郎。噂はまえから聞いていた。ぜんぜんまったく警察に協力せずに、問題ばかり巻き起こし、犯罪の後始末だけを警察に押し付けてくる私立探偵、片桐有二。おれが杉並署に配属されたときには、すでにやっかいな人物として名前があがっていた。そんなくそったれの片桐が、おれの事件に関わってきて、しかもおれの事件を暗礁に乗らせやがった。

 おれはそのとき、ある殺人事件の捜査をしていた。事件自体はたいしたものじゃなかったが、裏で麻薬密売が絡んでいることがわかっていた。犯人は麻薬の売人だろうとわかっていたが、それが誰なのかはまったくわからなかった。だいたいにして、麻薬密売なんてのは麻薬Gメンの仕事だから、おれは殺人犯を探すべき立場なのだが、そんなことはどうでもよかった。片桐が麻薬の売人について調査していると情報が入り、おれは片桐をしょっ引いた。あれこれと脅しをして、いつでも逮捕できると威嚇してやったら、素直についてきた。
 仲間の聞き込みで、片桐に仕事を依頼した人間が、大物の政治家であることがわかった。その政治家は警察に圧力をかけて、片桐を釈放するように要求してきた。おれは片桐に適当な罪をきせて逮捕した。取調室でブラックジャックによる尋問をいつもどおりに行った。さっさとゲロって、さっさと仕事を片付けようと思っていた。

 だが、片桐はまったくしゃべらなかった。しゃべらないどころか、おれにブラックジャックで殴られても、呻き声すら発しなかった。あいつがしゃべったのは、〝タバコを吸わせろ〟と〝酒を飲ませろ〟だけだった。
 おれは怒りに任せて片桐を叩きのめした。顔は歪んで別人のように変形した。腕は簡単に折れたし、手の指も何本か折れて串団子のように腫れあがっていた。あばらも足もボロボロに折れ、内蔵が口から出てくるんじゃないかというほどに叩きのめしてやったのに、片桐はなにもしゃべらなかった。片桐の口から出てくるのは、血と唾液と胆汁とゲロだけだった。血に染まった片桐のジーンズは、漏らした小便で濡れていたのにも関わらず、あの野郎は、まぶたが腫れあがって開いているのかもわからない目でおれを睨み、串団子のような指でタバコに火をつけ、血だらけの口でそのタバコを咥えてから、ニヤリと微笑んでこう言った。

〝あんた、たまには風呂に入ったらどうだ。臭くってたまらんぜ〟

 おれはその瞬間に、おやじの死体を見たときの屠殺場の匂いを思い出した。吐きそうになるのをこらえて、片桐を殴った。何度も何度もブラックジャックで殴り、ほかの刑事が止めに入らなきゃ殺していただろうほどに、殴り続けた。ほかの刑事たちに羽交い絞めにされたおれは、正気を取り戻した。消えたタバコを咥えたままで気絶している片桐を見てまた吐きそうになり、もう人間だかもわからなくなっている顔目掛けて唾を吐いてから取調室を出た。

 怖かった。おれのしたことが訴えられるのが怖かったんじゃない。なにをしてもなにも吐かない片桐が怖かったのだ。おれの正義が通用しない片桐が怖かったのだ。あの野郎は、おれには理解できないあの野郎なりの正義を貫いている。気に食わない野郎だから、次にまた出会えばぶっ飛ばしてやるのだろうが、あの野郎がただの気取り屋なんかじゃなく、度胸の座ったタフガイだってことは認めなければならない。そうじゃなきゃおれは前に進めそうにない。

 片桐の大物の依頼人は、片桐に対するおれの暴力を訴えると言いだした。警察の幹部連中は、おれが調べていた事件から手を引くことで、その依頼人と和解した。片桐がなにもしゃべらなかったために、おれははじめて麻薬がらみの犯人を取り逃がした。それはおれにとって屈辱以外のなにものでもなかった。警察の仕事の邪魔ばかりする探偵なんて生き物は、最初っから気に入らなかったが、片桐は別格だ。あいつだけは許せない。おれの正義を踏みにじったあげく、権力には屈しないなんて、格好いい態度をしてみせるくせに、けっきょくはかねと権力を自由に操る依頼人に助けてもらう、そんな片桐がおれには許せない。おれのおやじはなんの理由もなく殺された。おふくろはなんの理由もなく苦労を背負わされた。おれはかね持ちが嫌いだ。かねと権力にふんぞり返っているヤツらが大嫌いだ。あいつのようにかねをばら撒いてお気軽に調査しているような、気取った探偵の蛆虫野郎に、おれの正義を踏みにじる権利などないのだ。


 誰になんと言われようが、おれは今日も麻薬に関わる愚か者のくそったれ野郎どもをぶちのめす。何本も作り直したブラックジャックでジャンキーどもを叩きのめして、星の数を増やしてやる。そしていつか必ず、片桐の不正を暴いて、あいつをぶちのめし、おれに土下座して泣いてわびを入れる姿を拝んでやる。

 そうすればきっと、あの屠殺場のむかつく匂いを忘れることができるだろう。そうすればきっと、おやじの弾け飛んだ顔のグチャグチャの頭の中身を忘れることができるだろう――


【酒井しのぶのブログを紹介】
しのぶのあっちがわ
酒井しのぶの作品や更新情報の紹介、作家として思うことなどを書いているブログです。

【酒井しのぶのブログを紹介】
しのぶのあっちがわ
酒井しのぶの作品や更新情報の紹介、作家として思うことなどを書いているブログです。

【酒井しのぶの作品はこちら】
本格ハードボイルド長編小説 

一話読みきり短編作品集 

電話での会話形式による超ショートショート集 

【ランキングに参加中】
作品を気にいっていただけたらクリックにご協力ください。 一人でも多くの人にわたくしの作品を読んでもらいたい……。 そんな小さな願いのために、お願いいたします。
    にほんブログ村 小説ブログ ハードボイルド小説へ   人気ブログランキングへ   blogram投票ボタン  
評価
ポイントを選んで「評価する」ボタンを押してください。

▼この作品の書き方はどうでしたか?(文法・文章評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
▼物語(ストーリー)はどうでしたか?満足しましたか?(ストーリー評価)
1pt 2pt 3pt 4pt 5pt
  ※評価するにはログインしてください。
ついったーで読了宣言!
ついったー
― 感想を書く ―
⇒感想一覧を見る
※感想を書く場合はログインしてください。
▼良い点
▼悪い点
▼一言

1項目の入力から送信できます。
感想を書く場合の注意事項を必ずお読みください。


+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。