おうちにかえる
「れいなさー、もしかしてオトコできた?」
「ぶっ」
居酒屋で開催されていた友人の誕生会の途中。不意打ちのような質問に、れいなは飲んでいた青りんごサワーを鼻から噴出させそうになった。
「な、なにっ急に」
「えー? んーと、よくわかんないけど女の勘ってやつ? 最近つき合い悪いし飲み会とかもすぐ帰っちゃうじゃん」
すでに酔っ払い状態の友人は、ジョッキに三分の一ほど残っていたハイボールをごくごくと飲み干して「お姉さーん、ハイボールおかわり! 濃い目で」と通りすがりの店員に注文すると、おしぼり片手にむせているれいなの姿を見て笑い出した。
「ぶはは、うろたえすぎだから! めっちゃうける」
大きな笑い声に、周りも次々に反応し始める。
「えー、なになに?」
「れいなにさー彼氏できたって」
「まーじでー? あり得ないんだけど」
勘弁してほしい、とれいなは半分以上残っている青りんごサワーのジョッキをテーブルに置いた。
「本っ当になんもないから。つーか今日は和佳子の誕生日パーティじゃなかったっけ。ほらほら、主役が淋しそうにしているよ。もっと祝ってあげようよ」
「あー、そうだった! 和佳子、あらためておめでとー」
「おめでとー!」
酔っ払いたちの興味の対象ははすぐに逸らされる。
その後、盛り上がりに盛り上がった友人の誕生会。二次会のカラオケボックスでも自分の話題が蒸しかえされる事がないように、れいなは早く帰りたい気持ちを抑えた。適当に流行りの歌を歌いあげ、やっと帰路に着いたのは深夜二時過ぎだった。
「お帰りなさい、れいなさん!」
アパートの扉を開けるなり、彼女をいそいそと出迎える影。
――れいなには、誰にも言えない秘密がある。
◇
始まりは去年のクリスマスイブ。彼氏のいないバイトメンバーで開催されたクリスマス女子会――別名、傷の舐めあいとも言う――の後のことだった。
れいなはかなりの量のチューハイとカクテルを飲んで、泥酔状態ながらもなんとか帰宅した。
「たっだいまぁー」
――一人暮らしなのに何『ただいま』とか言ってんの、私まじきめえ。あー、やっべ結構酔ってるかも。
普通にしていても上品にはほど遠いのに、酒に酔うとれいなの口調はさらに雑になる。
れいなはふらつく足とくらくらする頭と格闘しながら靴を脱ぎ、やべえやべえとひとり言を言いながら部屋に上がり、クレンジングもそこそこに衣服を脱ぎ捨ててベッドにダイブした。
「ふぁーー、ねむっ」
細身とはいえ五十キロ弱の成人女性の体重の犠牲になったのは、きしむベッドのスプリングと、低反発枕。無造作に放り投げられた、くたくたになったカエルのぬいぐるみ。
「それでは明日の天気です。関東地方は日中は晴れ、夕方ところにより、一時雨になるでしょう。各地の予想最高気温――」
ベッドの上に置きっぱなしのリモコンが体の一部に当たったのか、テレビのスイッチが入ってしまったようだ。
「ああー、うっせ」
れいなは渋々起き上がって、テレビのリモコンを探した。
「――でしょう。以上、明日の天気予報でした。間もなく時刻は午前零時、メリークリスマス!」
明るい女子アナウンサーの声の後、日付が変わる時報とテレビが消えたのはほぼ同時刻だった。
「……いなさん」
「寝よーっと」
「れいなさん? ……これが僕の声? ああ、これこそ奇跡! やっとあなたと会話を交わすことができる」
独り暮らしの際に買ってしまったセミダブルのベッド――しかもなぜか天蓋付き――に四肢を投げ出し、大の字で眠ろうと目を瞑るれいなを邪魔する謎の声。
「お、重い! でも僕はあえて我慢します。これが、れいなさんの愛の重さなのですね」
「ああ? 誰が重いって!?」
聞き捨てならない言葉にむくりと起き上がり、れいなは声の主と対峙した。
「え、な、何? お前、か、カエル!」
「カエルだなんて他人行儀な。昔のように『ケロちゃん』もしくは『ケロ太』と呼んで下さい」
れいなの目の前にいるのは、頭部と手足と背中がピンクの二頭身。腹部だけは白い。極端に離れた目、笑みを浮かべる異様に大きい口。生意気にも丸裸ではなく、サスペンダーのついた半ズボンを身にまとっている。
嫌というほど見慣れたその姿は、まだれいなが幼少のみぎりに祖父が買い与えてくれたカエルのぬいぐるみだった。
オスのくせになぜショッキングピンクなのか、カエルのくせになぜ半ズボンを履いているのか。なぜ祖父は大して可愛らしくもないこれを孫娘にプレゼントしようと思ったのか。色々疑問はあるものの、十年以上も一緒に暮らせば愛着もわく。
大学進学とともに独り暮らしを始めたれいなが、引っ越しの際に捨てたものは多い。制服や教科書をはじめ、体育祭や学園祭で着用した、高校を卒業した女が流石に着られないだろう可愛らしい衣装。授業中に回されてきた教師の悪口などが書かれているメモの切れ端。購読していた漫画雑誌や流行遅れのアクセサリー。思い出深い物からそうでない物まで、多くの品をあっさりとゴミに出したが、このカエルのぬいぐるみを捨てることはできなかったのは、祖父がすでに鬼籍に入っているというのも大きい。
――優しかったお祖父ちゃんの形見。
そんな風に思い、時にはぬいぐるみに話しかけていたことさえあったれいなだが、それが動きまた言葉を喋るとなれば話は違ってくる。
「な、なに、もしかしてドッキリとか? どこにスピーカー内蔵されてんの」
「くすぐったい。やめて下さいれいなさん」
気の済むまでぬいぐるみの体をまさぐったが、指が触るのは柔らかい綿の感触だけで、どこにも機械らしい固い手触りはなかった。
「こ、これは『愛の力』なんです」
「はあ?」
酔いと眠気のせいで半目になりつつあるれいなに対し、カエル改めケロ太はきっぱりと告げる。
「あれは忘れもしない七年前。常日頃から僕に話しかけてくれ、慈しんでくれるあなたに答えたいと、僕の自我がゆっくりと目覚め始めていた頃のことでした。それまで元気いっぱいだったれいなさんが十四歳になる直前、いつになくしおらしい様子で僕に語りかけてきたのです。『ねえケロ太。やっぱり男子って女の子らしい子が好きなのかなあ。飯塚君だって――』」
「おい! ちょ、ちょっと待って!」
嫌な予感がし慌てて止めようとつめ寄るのだが、カエルの口に戸は立てられない。
「『わかってるんだよ。飯塚君だって、きっと瑛美みたいな可愛い子が好きなんだって。でもさ、私――』」
「っやめろおおおおおおお」
流れ出る言葉を何とか止めようとぬいぐるみの口をふさいだり首を絞めたりしても、どういう
仕組みになっているのか、ケロ太のパクパクと動く大きな口はよどみなく話を続ける。
「『――私なんて全然女の子らしくないってよく男子に言われるし。でもしょうがないじゃんね。だってさ、だってそんなの……。でも私だってずっと好きだったんだよ』と、笑うれいなさんはとても淋しそうでした。僕はあの時ほど、たかがぬいぐるみである自分の存在を恨んだことはない。なぜあなたと言葉が交わせないのか、意思疎通ができないのか。もしそれが可能だったのならば、少しでもあなたを慰めるような言葉を発することができるのに、と」
人懐っこそうな笑顔を持つサッカー部所属の飯塚君は学年問わず人気が高く、中学校時代のれいなの淡い恋の相手だった。
だがそれは遠い過去の話。在学中、彼とは会話を交わしたことはない。
――校内でも人気者の彼に恋してしまった私。周りからは男勝りと言われるけれど、内面は繊細で女の子らしいのに誰にも分かってもらえない。だからずっと大事にしていたぬいぐるみに悩みを打ち明けるしかないの。
どうせ私なんて、と自分を悲劇のヒロインに置きかえて感傷に浸る。思春期で多感な年ごろにはよくある行動だ。とはいえ二十歳を過ぎた今、改めて当時の言動を事細かに再現されると、もの凄くいたたまれない気分になる。
「それだけではありません」
「もうやめてええ!」
れいなは己の力のあらん限りに憎たらしいぬいぐるみの首を絞めるのだが、やはりその効果はなかった。
「れいなさんが高校二年の頃『ケロ太、やっぱり私じゃ駄目なんだって』と、あきらめ交じりの微笑みで自らの失恋を教えてくれた時も。そしてあれは今から半年前でしょうか、『ふざけんなあの男、二股なんかしやがって。まあそれなりに仕返しはしてやったけど』と泣きそうな顔で僕に笑いかけてくれた時もそうでした。傷つくあなたを目の前に何もすることができない、慰める言葉すら掛けられない。話す事も動く事もできない不自由なこの身を、何度歯がゆく思ったことか。ですが今宵、奇跡は起きました。やっと僕はあなたに――」
「この、このっカエル! もういいから!」
れいなは、熱弁するケロ太の小さな体を引っつかんで壁に投げつけた。
「なんなの? さっきからいったい何なんだよ、意味わかんない! そんなこと言うんだったらせめて人間化しろよ。それが漫画とか小説のセオリーだろ! 言っておくけどイケメンだぞ、細マッチョの! ヒョロヒョロもムキムキも絶対に認めないからな」
壁にビタンとはり付いた後、ずるずると床に滑り落ちたケロ太はむくりと体を起こして、額ににじんでもいない汗をぬぐう仕草をした。
「わかりました。れいなさんが、そう望むのならば」
次の瞬間、カエルのぬいぐるみの短い手足がぐんと伸び始めた。
――わー、気持ち悪っ。
ボコボコ、とか、ブチブチ、とかいった音が聞こえてきそうな衝撃映像を目の当たりにしても、酔いの回ったれいなの頭にはそんな軽い感想しか浮かんでこない。あっという間にケロ太の体は再構築されていった。
不健康に生っ白くもなく、いかにも『焼いてきました』といわんばかりの小麦色でもない、うっすらと日に焼けたような肌と、しなやかな筋肉の張りつめるふくらはぎ。おそらく太ももも同等なのではあろうが、残念ながら無粋な半ズボンによって隠されている。
特筆すべきは上半身だろう。逆三角形とまではいかないが程よく引き締まった胸筋と、割れた腹筋、上腕二頭筋が発達した両腕。黒いサスペンダーがちょうど乳首を隠しているのがどことなく卑猥に感じられ、かえって目のやり場に困る。
薄目で確認するかぎり、細すぎず逞しすぎず。まさにれいなの理想の体型だ。この分では人間化した顔立ちもさぞや自分好みの美形なのだろうと、期待に胸を膨らませ視線を上に走らせるれいなだったのだが、
「これが、愛の力です」
厳かに告げる顔は、カエルのままだった。
「きもい!!」
握りしめた拳に渾身の力を込め、ケロ太の腹部に叩き込む。だが鍛え上げられているように見えた腹筋はただの見せかけだったようで、ぽふん、という何とも頼りない感触が返ってくるだけだった。
「ああ、中身は綿ですから」
その答えに脱力さぜるを得ない。
「……イケメンって言っただろうがよー。まじ何なのその顔。ほんっと、きもいんですけど」
「これでも量産された兄弟の中では美形と評判だったんですよ」
「知るかっ!!」
そう叫んだ後、右隣の部屋からドン! と抗議の音が鳴った。どうやら深夜に騒ぎすぎたらしい。
我に返ったれいなはふぅーっと息をつく。自分の周りを漂う強いアルコール臭。思っていた以上に酔っているようだ。
「もう、寝るわ」
誰に宣言するでもなくつぶやいて、れいなは再びベッドに潜り込んだ。
「ええっ、れいなさん。これでも足りないというのですか?」
「あー、うっさいうっさい。そうですねー、全っ然足りませんねー。だいたい中身綿の時点でアウトだろ。つーか私はもう寝るんだよ。明日午後からバイトだし」
「……わかりました。あなたがそう言うのなら――」
酔いのせいか、わんわんと耳鳴りがする。カエルのぬいぐるみは何か言っていたが、れいなの意識は泥に沈むように消えていった。
◇
翌日の昼近く、猛烈なのどの渇きと共に目が覚めた。体はだるく、頭は重い。
「だっるー……気持ち悪いし。はぁ、バイト行きたくない」
だが、そうは言ってもいられない。ムカムカする胃に、刻んだフルーツを入れたヨーグルトをなんとか喉に流し込む。接客業は体力勝負なのだ。
簡単な食事を終らせシャワーを浴び、髪の毛を乾かした後ふと気づいた。
「あれ、カエルいなくない?」
いつもベッドの上に鎮座している、くたびれたカエルのぬいぐるみの姿が見当たらない。酔っぱらった挙句ベッドの下へと蹴り落としてしまったか。昨日はさすがに飲みすぎた。あんな馬鹿げた幻覚を見るなんて。
れいなは一人自嘲する。
「まあいっか、帰ってきたら探そう。ついでに年末だし、実家帰る前に色々掃除しないと……」
そうつぶやきながら部屋を後にした。
◇
「あー、もうつっかれたー」
午後から閉店までの仕事を終え、帰路の途についたのは午後十時過ぎ。立ちっぱなしの足はむくみ、常に笑顔を張り付けていたためか口角周りの筋肉がひきつっているような気がする。重い足取りで自室のドアを開けて硬直した。信じられないような光景がれいなを待ち受けていたのだ。
「お帰りなさい、れいなさん」
れいなの趣味で、家具はもちろん、テレビにパソコン、ゴミ箱に至るまで白に統一された部屋にひらひらと舞い上がる無数の薔薇の花びら。それらは天井付近から現れ床につく寸前、甘い匂いだけを残してふわりと霧散する。
「な、なに、これ……」
玄関にただぼう然と立ち尽くすしかないれいなに向って近づいてくるのは、昨夜の半裸に近い恰好からタキシード姿に身を変えたケロ太だった。無駄に引き締まった良い体に、カッチリとしたタキシードはよく似合うのだが、残念ながら頭部は相変わらずカエルのぬいぐるみのままだった。
「れいなさんの望みどおりこの体には血が通い、綿であった部分は内蔵と筋肉と血液とほんの少しの脂肪に置きかえられ、ニンゲンとして暮らすのになんの支障もありません。全ては、愛の力です」
厳かに告げたケロ太は、れいなの前で跪いた。
「ただのカエルのぬいぐるみであった僕が自我を持って早七年。ずっとれいなさんだけを見てきました。いつだってあなたの笑顔に目を奪われ、あなたの涙に動かぬこの胸が痛んだ。出来ることならば、あなたの喜びも悲しみも全部一緒に飲み干してしまいたい。僕の想いを受け入れて、同じように想って欲しいなんて言いません。ただ、この狂おしいほどの気持ちを、他でもないあなたに知って欲しかった。これは僕のたった一つのわがままです。れいなさん、僕がただ一筋にあなたを思うことを許してはくれませんか?」
「な、なっ……」
部屋中に舞い降りては消える薔薇の花びらと同じように、れいなの顔は真っ赤に染まっている。
少女漫画が好きだ。恋愛小説が好きだ。恋愛映画が好きだ。男女が出会い、一途にお互いを思いつつもすれ違うが紆余曲折の末、最終的には二人の想いが通じ合いその後幸せに暮らすのでしためでたしめでたし――。そんな話しか認めない。
普段の言動とは裏腹に、れいなは相当なロマンチストだった。
恋人にはいつだって自分だけを見て、自分だけを愛してほしい。他の誰も見ないでほしい。毎日甘い言葉をささやいてほしい。私だけの運命の男。
現実にはそんな男はそうはいない、と心の片隅で理解してはいるのものの、それを受け入れることも妥協することもできず、いつだって理想を追い求めては傷ついてきた。
「れいなさん、これからもずっとあなただけを心の底から愛しています」
熱の篭った眼差しが、れいなをまっすぐ見上げる。ストレートな愛の言葉と黒い釦でできているつぶらな目に、れいなの心臓は撃ち抜かれてしまった。
「なに言って…………。ば、ばかじゃないの、もう……」
ようやく絞り出したれいなの声は、小さく震えていた。
須田れいなには運命の恋人がいる。