黄昏と少女
小学校六年生だったその日、私は同級生で幼稚園からの悪友マサトと一緒に、人気のない廊下を歩いていた。
二学期が始まってから一か月とは経っておらず、まだまだ残暑が厳しかったはずなのに、暑かったと記憶はない。ただ、締め切った窓から入り込み、廊下の奥まで長くのびた夕陽があたりをオレンジ色に染め上げていたことはよく覚えている。
下校時間はもうすぐで、校舎の中は人影も見えず、しんと静まり返っていた。校庭で遊ぶ子たちの歓声が遠くから聞こえてきて、それがなおさら寂しさを際立たせていた。
先を歩いていたマサトが不意に足を止めて、くるりと振り返った。
「なあ、ほんとうにやるのかよ? ミチル」
不安そうに聞いてきた。
真っ黒に日焼けして、いかにも気の強そうな顔を嫌そうにしかめている。
「当ったり前でしょ! ほら、さっさと行くよ」
「で、でもさ、やっぱりさ……」
「グダグダ言わない!」
グッと拳を握って、決意を新たにする私を見て、マサトは深々とため息をついた。
「だよなぁ。ここまで来てオマエがやめるわけないよなぁ」
当然、と答えると、ため息をもう一つ。
スポーツ万能で、腕っぷしが強くて、ちょっと短気で乱暴だけど、面倒見はいいヤツ。そんなマサトにも弱点がある。そう、それがいわゆる『怖い話』だ。
理由は簡単。ぶん殴って倒せないから、だそうだ。
「あったり前! ほら、さっさと行くよ。今日こそ踊り場の鏡の噂の真相を突き止めるんだから!」
マサトを追い越しざま、背中をバシンと叩いた。
「いってぇ! ったく乱暴なんだから」
「マサトに言われたくないわよ」
「ちょ、待てよ!」
憎まれ口を叩きながら、並んで目的の場所へ向かった。
一歩歩くたびに、黒光りする木の床板がギシギシと小さく軋んだ。日中、喧騒にまみれている時は大して気にならないけれど、しんと静まり返った今はよく響く。
いまどき珍しい木造校舎。
隣には新校舎が建築中で、完成は来年の三月らしい。と言うわけで私たちはこの木造校舎最後の卒業生になるはずだ。
校庭の北側に経つ二階建て。南側中央部分に昇降口があり、二階に続く階段は昇降口の正面と、東端、西端の三つある。
昇降口の真ん前と言うこともあって、校舎中央の階段が一番利用者が多くて、東と西の階段はあまり使われない。特に西の階段は。
最終下校時刻ぎりぎりの廊下を往くマサトと私の目的地は、その西階段だ。
「さ、着いたぞ。んで? これからどうすんだ、ミチル」
「決まってんでしょ。さ、やるよ」
「げぇ! マジかよ」
と言いつつもマサトは私の横に一列に並んだ。
西階段の踊り場には大きな鏡が一枚かけられている。一階から上がって来た人の姿が自然とその鏡に映る形になっている。おそらく休み時間に校庭に出て運動した子たちがそこで身だしなみと整えて教室に入れるように、ってことでこの位置に置かれたんだと思う。東階段にも、中央階段にも同じ鏡が一枚設置されている。
鏡の端っこに「贈 第十回卒業生一同」と書かれている。金色の文字は経年で黒く沈みところどころ掠れている。
「こ、ここに立てばいいんだよな?」
「う、うん。そのはず……」
マサトが緊張で裏がえった声を出した。それにつられるように私まで緊張して、柄にもなく細い声が出てしまった。ちょっと恥ずかしい。
大きな鏡に私たち二人の姿が映る。互いに緊張した顔をしていて、普段なら目が合った途端爆笑しあう状況だけれど、今はその余裕もない。鏡越しに視線を合わせて、小さく笑うのがせいぜいだった。
「け、け、けっこう、緊張するもんだな」
「うん。緊張するね」
会話は上手く続かず、憎まれ口さえ出て来ない。
黙り込むとあたりはしん、と静まり返った。
この西階段の踊り場の鏡には怖い噂があった。
夕陽がこの鏡に映り込むとき、この鏡の前に立つと、背後の階段に幽霊が現れて鏡の世界に引き込まれてしまう。
そんな他愛もない噂だ。
怪談話の大好きな私はこの噂を聞いて以来、ずっと機会をうかがっていたのだけれど、なかなか実行に移せなかった。そもそも夕陽がこの鏡に当たる時期と言うのが結構限られていて、いうなれば期間限定の怪談だったからだ。
手鏡を持った誰かに、二階廊下に立って貰って、夕陽を反射させてもらえば……とも考えたんだけど、女の子たちには怖いからと軒並み断られてしまった。
結局、正規の手続き(?)を経て噂の真相を確かめることにしたんだけど、付き合うと言ってくれたのは隣に立つマサトだけ。
他の友人たちを不甲斐ないと嘆くべきか、それともマサトを男気のあるヤツ! と褒めるべきか悩むところだ。
どのくらいそうやってじっとしていただろう?
鏡の額にかかっていた夕陽が鏡へ侵入し始めた。
ますます緊張するマサトと私の後ろには相変わらず、階段が映っているばかり。
マサトの背後には一階から続く階段が、私の背後には二階へ続く階段がある。そこに人影はない。
とうとう、夕陽は半分が鏡へ差し掛かった。
「まぶし……」
「目ぇ、いたっ……」
私たちはほぼ同時に呟いて目をすがめた。眩しくて鏡の上半分が見えにくい。
「なーんにも起こんないね。……もう帰ろっか?」
「ん。そうだな」
怖いことが起こる気配もないし、そろそろ馬鹿らしくなってきた。この噂も結局デマだったってことでがっかりだ。
「結局うちの学校の七不思議って全部デマだったのかぁ。あーあ、つまんないの」
「ま、七不思議なんてそんなもんだろ。なんかオレ、急にハラ減ってき……」
緊張がとけて急に陽気になったマサトの口調が、中途半端に途切れた。
急にどうした? と思ってマサトのほうを振り向けば、あんぐりと口を開けて鏡の一点を見つめている。
「ちょっと、そう言う悪戯は悪趣……味……」
視線をたどって鏡を見た私の言葉も途中で途切れた。
白い、足が、見えた。
紺色の膝丈スカートからすらりと伸びる白い足が二本。
白いソックスに、白い上履き。
女の子の、足、だ。
反射の眩しさなんて忘れてまじまじと見つめた。何度見てもその足はそこにある。
私の背後、二階へ伸びる階段に、その子は居る。
「ど、ど、どうする、ミチル!」
「どどどっ、どーするも、こーするもないでしょ」
と意味のないことを小声で言い返して、頭の中はフル回転。
このままじっとしていたって埒はあかない。じゃあ、どうすればいい? 一目散に逃げ出すか、この足の持ち主と男らしく(私は女だけど)対峙するか。
さあ、どうする、自分!
「う、う、う、噂の真相を確かめに来たんだよ? 逃げ出せるわけないじゃない。いい、せーので振り向くよ!」
小声で囁けば、マサトは「だろうな。そう言うと思った」と諦めたように肩を竦めた。
「よし、じゃあ、せぇーーーーーのッ!」
掛け声と同時に振り向いた。
後ろに立っていた女の子は目を丸くしてこっちを見ている。
「え? え? なに? どうしたの? マサト君、ミチルちゃん、こんなところで何してるの? もうすぐ最終下校時刻だよ?」
「え?」
「あ、あれ?」
人形みたいに色白で、真っ直ぐな黒髪が印象的な少女。胸の前に抱えている数冊の本は図書室の本のようだ。今まで一度も同じクラスになったことが無いけれど、同学年の子だ。
名前は……そう──
「マユミ、ちゃん」
名前を呼ぶと彼女はホッとしたように笑った。
「なんだ、マユミか。脅かすなよぉ。お化けかと……」
「こら、マサト!!」
失礼なことを言う奴だ。肘鉄をお見舞いしたらグエッと呻いて大人しくなった。
「マユミちゃんこそ、どうしたの?」
「借りた本、教室に忘れちゃって、取りに来たところ」
ちょっと肩を竦めてみせるマユミちゃんはいかにも女の子って感じで、同性の私から見ても可愛かった。
隣のマサトはみるみる顔を赤くして黙り込んでいる。
なんて分かりやすいヤツ! ニヤニヤしながら見ていたら、じろりとにらまれたけど、赤い顔で睨まれても迫力なんてない。
「ねぇ、マサト君とミチルちゃんは何してたの?」
「あ、私たち? ええっと……」
「七不思議ってあるだろ? あれの一つ、この鏡の噂が本当かどうか確かめに来たんだ」
なんとなく言うのがためらわれて言葉を濁していたら、横からマサトがかっさらっていった。
「大したことねぇのな。全然怖くねぇ」
さっきまであんなにビビってたくせに。格好いいところを見せたいのか威勢が良い。
「そっか。ふたりとも勇気あるんだね。すごい。──なにか怖いこと、あった?」
「ぜーんぜん!」
と高笑いするマサト。それにつられるようにマユミちゃんもクスクスと楽しそうに笑う。
怖い噂なんて嘘っぱちだと確信するぐらいのんびりした空気が流れた。
マサトと楽しそうに話すマユミちゃんの白い頬に夕陽のオレンジが映えて、綺麗だなぁとぼんやりと思った。
「なぁ、マユミ。俺たちと一緒に帰ろーぜ。オマエいっつもひとりで帰ってるだろ?」
「嬉しい! 本当に良いの!?」
マユミちゃんは嬉しそうに私とマサトの顔を交互に見た。
異存はないので私もうんうんと頷いた。
マユミちゃんは放課後、いつも図書室で本を読んでいる。そうして最終下校時刻の放送が流れると名残惜しそうに席を立ち、本を棚に戻すのだ。
その姿を校庭から何度か見かけたことがある。
綺麗な横顔に、物静かな表情。いかにも文学少女っぽい姿に目が釘付けになったのは一度や二度じゃないのだ。
「マユミちゃんのランドセル、どこ? 私たちはそこに置いてあるんだけど」
言いながら私は階段のすぐ下、一階の廊下を指さした。隅っこに赤と黒のランドセルがちんまりと置いてある。
「私? 図書室に置きっぱなしなの」
「んじゃあ、みんなで取りに行こうぜ!」
「おっけー!」
そんなわけで、私たちは三人で連れだって図書室へ向かった。
楽しくおしゃべりをしながら歩けば、不気味でもなんでもなかった。
さっきまで校庭から聞こえてきた歓声はもうほとんど聞こえない。きっとみんなぽつぽつと帰り始めたんだろう。
図書室につくと、大きな読書用のテーブルの一つに赤いランドセルがちょこんと乗っていた。私やマサトのランドセルと違って、六年間使ったとは思えないくらい綺麗で、傷一つ見当たらなかった。大事に、丁寧に使っているんだろう。
「ね、まだ下校の放送流れてないし、少し休憩してから帰らない?」
緊張がほぐれた途端、どっと疲れが襲ってきていた私は一も二もなくマユミちゃんの提案に乗った。マサトも反対しなかったから、私と同じように疲れていたに違いない。
物静かな印象だったマユミちゃんだけれど、話してみるとすごく面白い子だった。
本をたくさん読んでいるからか、いろんなことを知っていて、私やマサトが興味を持つような話題を次々に出してくる。
目じりに涙がたまるほど笑った。
ついでに、頬の筋肉まで痛い。
どれだけ笑ったの、私。と突っ込みたくなるぐらいだ。
そして、ふと、気がついた。
もう時間はだいぶ経っているはずだ。
なのに、下校の放送もなければ、陽も沈んでいない。
おかしい。
いくらまだ日が長いからって、こんなわけない。
隣に座るマサトは気づいていないみたいで、まだマユミちゃんと話している。
「ね、ねえ」
おずおずと声をかけると、二人がふっと黙り込んでわたしのほうを見た。
「どうした、ミチル」
マサトがいぶかしそうに聞く。
「ねぇ、私たちがここに来てからずいぶん時間経ってるよね? 何で……何で下校の放送がないの?」
「あ? 先生たちが流し忘れたんじゃねぇの?」
その可能性は確かにゼロじゃない。
でも、でも……
震える指先で外を指さしながら、私は囁くような声で二人に言った。
「じゃあ、なんで夕陽が落ちないの? 時計が止まってるの?」
校庭の向こうにある時計台の時計と、図書室の時計は同じ時間を示している。時計台の時計には秒針が無いけれど、図書館の時計には秒針がついている。その秒針がピクリとも動いていない。
ほぼ同じ時間に二つの時計が止まった? それってものすごく確立が低い偶然じゃない?
夕陽が照らす校庭は無人で、不気味にしんと静まり返っていた。
耳を澄ましても、カラスの声ひとつも聞こえない。
酷く不気味だった。
「え? な、なにアホなこと言って……」
信じられないのか、信じたくないのか、マサトが焦ったような声色で言いながら、及び腰で立ち上がった。
マユミちゃんは無表情に私を見つめている。
そうだ。
そうだ。
となりのクラスに、こんな子、本当にいた?
「ねぇ、マユミちゃん。あんた、誰、なの?」
「おい、ミチル! なに言いだすんだよ、マユミは、マユミ……」
尻切れトンボになる語尾に、マサトも変だと気づき始めたみたい。
「あら。残念。ばれちゃった。もう少しお喋りしていたかったのに」
マユミちゃんの赤い唇が、にいっと吊り上がった。
その赤さが禍々しくて、顔から血の気が引いた。
「ねぇ、マサト君、ミチルちゃん。ずっとここにいてくれないかな。私の友だちになってよ」
彼女がゆらりと立ち上がった。
マサトと私は彼女から距離を取るように一歩下がった。
「ここにはたくさん友だちがいるけど、ふたりにも加わって欲しいなぁ。七不思議ってあるじゃない? さっきミチルちゃんは全部デマだった言ってたけど、本当はみんないるんだよ?」
彼女の後ろに、黒い靄のようなものが揺れ始めた。
「音楽室のピアノを弾く先生も、一階のトイレの女の子も、理科室の骨格標本も、体育館の男の子も、プールの手も、宿直室のオジサンも、みんなみんな、ここにいるんだよ」
黒い靄が次々と形になってこっちを見ている。
両手の指を血まみれにした女の人、青ざめた顔の女の子、顎をカタカタ鳴らす骸骨、黒ずんだ体操服に身を包んだ男の子、ぶよぶよにふやけた手、手、手。そして無精ひげを生やしたグレーの作業着のオジサン。
みんな、みんな、笑いながら、おいでおいでと手を振っている。
「あ、あ、あ……」
口をパクパク動かしても、意味のある声は出ない。体も動かない。
どうしよう、どうしよう、どうしよう!
このままじゃ、アイツらの仲間にされてしまう。
「ど、どうして、おまえ……。オマエなにもんだ!?」
マサトが叩きつけるように怒鳴った。
「わたし? 人間だよ? もと人間って言った方がいいかな?」
可愛らしく小首をかしげるけれど、今ではもうただ不気味なだけだ。
「人間が、なんで、こんな……」
「だって、私、要らない子だったんだもん。お母さんが言ってた。私がいるから新しいお父さんはみんな出てっちゃうんだって。私がいなかったらもっとお母さん幸せになれたのにって」
そう言って悲しそうに唇をゆがめた。
「早く帰るとね、お母さんが怒るの。怒って叩くの。だから、私、出来るだけ遅く帰ろうと思って図書室で時間潰してたの。どんなに叱られても、私、お母さん大好きだったし。でも本当は辛かった。嫌いだって言われるのが悲しかった。家に帰りたくなかった」
マユミちゃんの目から涙がひとつこぼれた。
「そんな時、みんなが言ってくれたの。ここにいて良いって、ここにいればお母さんにぶたれることも、嫌いって言われることもないからって。だから、私はいま、幸せなんだ。ただ、マサト君とミチルちゃんも一緒にいてくれたら、もっと嬉しいな」
ゆら、と、彼女が一歩近づいてきた。
なのに、体は全然動いてくれなくて。
もう一歩、近づいてきた。
焦れば焦るほど、体は動かなくて。
目だけを動かして隣を見れば、マサトも体が動かないらしく、顔にじっとりと汗をにじませていた。
ゴメン、マサトごめん。こんなことに巻き込んじゃって。
後悔が波のように押し寄せた。
マユミちゃんがじりじりと距離を詰めてくる。
マサトはその姿をじっと睨みつけながら、何かをつぶやいている。
「まだだ、もう少し、もうちょっとだ」
そんな風に聞こえた。
「ねぇねえ。一緒に居てくれるよね?」
にたり。と笑った顔に
「ざけたこと抜かしてんじゃねぇ!」
叫びながらマサトが何かを投げつけた。
予期しなかった反撃に、マユミちゃんは「きゃあ!」と悲鳴を上げて顔をおさえ、その場にうずくまった。
「いまだ! 行くぞ、ミチル!!」
事態を把握できない私の手首を強引に掴んで、マサトは走り出した。壊れる勢いでドアを開け、廊下に飛び出す。
オレンジに染められた廊下をバタバタという足音が響く。
「待って!」
少し遠くから焦ったような声が聞こえる。
何かが追ってくるようなそんな気配もする。
怖くて振り向けなかった。
「ど、どこ行くの?」
「オレだって分かんねぇよ! とにかく逃げねぇと」
マサトの言う通りだ。みすみす捕まるわけには行かない。
こういう場合、窓や昇降口なんかは開かなくなっているのが定石だ。
どうやったら助かる? どうやったら日常に戻れる??
走りながら、頭も猛回転させる。
この怪異が始まったのはいつ? どこ? どこでマユミちゃんに会った?
そうだ、そうだ、きっとすべてはあそこ。
「マサト、鏡! 踊り場の鏡んとこ!」
「おっしゃ!」
図書室は東端なので、一階を走り抜けることになる。一直線だから目当ての階段は見えるのに。なかなかそこまで着かない。
パニックを起こしそうになる気持ちをおさえて、ひたすら走った。
ようやく階段につき、私たちは一段抜かして踊り場まで駆け上がった。
対峙した鏡にはさっきと同じ位置に夕陽が当たっていた。それを見たマサトが
「ありえねぇだろ」
と今更なことをつぶやいた。学校に住むお化けたちに追いかけられること自体、もうすでにありえないことなんですけど! 内心で突っ込みを入れながら鏡の前に立った。
「噂では、鏡の中の世界に引きずり込まれると言っていた。なら、いまこの鏡の中に映っているのが、元の世界なんじゃない?」
「んじゃ、この鏡に体当たりするってことか!? おい、下手したら鏡が割れて大怪我すっぞ!?」
「んじゃあ、大人しくお化けたちに捕まる!?」
大声でどなったら、マサトはぐっと黙り込んだ。
お化けの気配はもう階段下にまで来ている。思ったよりお化けたちの足が遅いようでそれなりに余裕がある。良かったと変なところで思った。
「よーし分かった。オマエを信じる! 行くぞ!」
「うん!」
マサトと一緒なのが心強かった。
一方的に私の手首を掴んでいるマサトの手を剥がし、今度は握り合う。
見つめ合って、うん、とうなずいて私たちは鏡に突進した。
ダメ元だったから、当然鏡にぶつかると思っていたんだけれど、予想に反して私たちは鏡をすり抜け、つんのめって踊り場に転がった。後ろを見れば、大鏡がひとつ壁にかかっている。と言うことは、私たちはやっぱりあの鏡の中から出てきたようだ。
鏡の中、一階から踊り場へ上がってくる階段に、黒い靄がざわざわと見え始めた。
あれが鏡から出てきたら……捕まる!? 焦って固まる私の横でマサトがいち早く動いた。
「ミチル、どけ!」
声に急き立てられて転がるように鏡の前から飛び退いた。途端、マサトは黒いランドセルを鏡に向かって投げつけた。
がしゃーーーん!!
大きな音とともに、鏡は粉々に砕け、後には呆然とするマサトと私が残された。
「助かった……の、かな」
「分かんねぇ。分かんねぇけど、たぶん……」
にわかに一階の廊下が騒がしくなった。
もしかして、またお化けが……と恐る恐る振り向くと、先生たちが眉を吊り上げてこっちを見ていた。
「お前たち! どうした!? 大丈夫か! 怪我は!?」
駆け上がってくる先生たちの姿に、緊張の糸がぷつんと切れて、私とマサトは座り込んだ。
「私たち、助かった、の?」
「ああ、たぶん、な。鏡も割れたし、もうあいつらも来ねぇだろ」
どちらからともなく大きなため息が漏れた。
「ねぇ、マサト。あの状況でランドセル持って帰って来たって、あんた、すごくない?」
「へへーん。もっと尊敬しろ。お前の分も持って来たぜ」
得意そうなマサトが指さす先には、私の赤いランドセルがあった。
「ほんと、すごい」
素で褒めたら、ますますマサトは鼻高々になった。
「宿題、あんなかに入ってるだろ? 宿題、忘れたら先生こえーからな!」
からからと笑うマサトにつられて、私も噴き出した。
その後、鏡を割ったことで大目玉を喰らったけれど、そうやって叱られることも何だか嬉しくて。それと同時に、もうこんなあぶないことはしない、と誓った。
こうしてマサトと私の七不思議を巡る冒険は終わった。
半年後、私たちは無事に卒業し、そして校舎は予定通りに取り壊された。
現在の母校に、あの頃の面影はほとんどない。それが寂しいような気もするし、逆にそれで良いような気もする。
大人になってもマサトとは友だちで、会社帰りに時間を作ってはふたりで飲みに行く。
時折、あの日のことを酒の肴にするけれど、年を経るごとに、あの時会ったマユミちゃんが怖いと言うより、憐れに思えてくるのだ。
この世界に居場所を見つけられなかった彼女は、いまもあっちの世界で幸せにしているのだろうか、と。