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遠藤君の絵

作者: 菜宮 雪

夏ホラー2010~百鬼集帖~参加作品です。

 朝の電車。規則的な車輪の音。たくさんの人が、混雑に耐えながら降りる時を待つ。九月下旬で猛暑は過ぎているが、人ごみの中を抜けるクーラーの風は、真夏と変わらず湿度が高く生ぬるい。

 扉付近に立って身を小さくしていた高校生の加山ユリは、セーラー服の胸ポケットに手をやった。

 指先が触れた布の感触に、祖母からもらったお守りが確認でき、少しだけ気持ちが落ち着いた。暑いのに背筋が寒い。

 人の汗。吐き出される息の熱。それに混じる、がまんならない臭い。

 ――いる。この車両に乗っている人の中に。

 霊に憑かれた者だけが発する、吐き気がするような空気を感じる。それは、都会を流れるドブ川の臭いに似ていた。


 やがて降車駅へ到着し、ユリは電車から解放されてほっとしながら、クラスメイトの七恵に続いて改札を出た。学校までの歩道を七恵と並んで歩きながら、九月のさわやかな空気を勢いよく吸い込んだが、また顔をしかめたくなった。

 ――まだ、いる。

 電車の中ほど密閉空間ではないが、先ほど感じた、吐き気を誘う臭いが今もどこかにある。七恵ではない。電車から降りたばかりの通学の列は長く続いており、臭いの元が誰なのかはわからない。

 隣を歩いている七恵は、ユリの憂鬱そうな様子には気がつかず、文化祭の展示物の話をしている。七恵は文化祭実行委員長をやっており、頭の中は文化祭のことでいっぱいになっているらしい。

「ユリちゃんは衣装はどう思う? 一応幽霊屋敷だから、それっぽくしたいね。当番は白い布でもかぶるとか」

「ねえ……ななちゃん」

 ユリは、楽しそうにしている七恵の話を遮った。

「話の途中でごめん。あたし、今日の宿題全然やってないから、今から学校でやる。先に行くね」

「あ、ユリちゃん」

 あっけにとられている七恵を残して、ユリは走り出した。


 歩道の縁石を乗り越えて車道へはみだし、前を歩いている女子三人組を抜く。

 ――彼女たちは違う。

 さらに、その前にいる男子四人の横を駆け抜け、追い抜きざまに彼らの顔を確認。彼らはユリと同じクラスの男子。その中に。

 唇が震えた。

 ユリ以外は他の誰にも感じられない悪臭を放ちながら、一般の目にはわからない白い霧をまとう男子が一人。霧は、ユリの目には、たき火が終わった後の薄まった煙のようにも見え、彼の体全体にまとわりついている。彼が歩くたびに、動きに合わせて形を変えている白い空気。

 ――遠藤君が。

 ユリは、息を止めてこみあげる吐き気をこらえ、全力で走って彼らを抜き去った。


   ◇


それから十日ほど経過。

 明日の文化祭の準備のため、今日は午後の授業はない。学校はお祭り気分に包まれ、皆、あわただしく準備をしている。ユリと七恵のクラス、二年B組のクラスの展示物は、迷路風幽霊屋敷。

 机とダンボールを使って、教室を迷路にした幽霊だらけの屋敷……そんな物、何がおもしろいのかユリにはさっぱりわからない。それでもそうと決まった以上、ユリがどう思おうとも、準備は着々と進められていく。 

 教室の窓を段ボールで覆い、外の光を遮断し、机を不規則に積み上げる。できた壁に段ボールを縛り付け、迷路が完成。そそり立つ壁や小部屋には、カラースプレーや絵の具を使い、骸骨や、血を滴らせた手首などの不気味な落書きがつけられていく。先に別紙でつくっておいた絵を張りつけた場所もある。

 ユリは、どうしても教室には入る気にならず、廊下の装飾を手伝っていた。いらなくなった段ボールを廊下で片付けていると、七恵が後ろから声をかけてきた。

「中、いい感じになったよ。まだ見てないよね? 案内してあげる」

「あ……あたしは……」

 ついうつむいてしまう。七恵は、人のよさそうな垂れ目の目尻をさらに下げて、にっこりと笑った。

「さっき全部見たんだけどね、どれもすごいけど、特に、遠藤君が書いた幽霊の絵、すっごく上手で本物っぽい。みんな彼の絵を怖いって言ってる。明日はゆっくり見る暇ないと思うから、今のうちに行こうよ」

 ――遠藤君の絵……彼には何かが。

 びくりとしたユリには気がつかず、七恵はユリの手をとって、強引に教室の入り口へ連れて行った。あの悪臭をまた感じ、ユリは身震いした。

「ごめん、ななちゃん。やっぱりあたしやめておく」

「大丈夫だって。夜に来たら怖いかもしれないけど、別にここは心霊スポットってわけじゃないでしょ。さっ、行こ行こ」

「でも……」

「あたしも一緒だから怖くないって」

 それでもなかなか進みだそうとしないユリの背を、誰かがいきなり押した。キャッ、と声をあげて振り返ると、そこには細い目をした面長の男。ユリは心臓が止まりそうになった。

「そんなところでうろつくと邪魔だぜ」

 いつの間にか背の高い遠藤が、ユリのすぐ後ろに立っていた。七恵が笑いながら返す。

「ユリちゃんったら、怖がって入りたがらないんだもん」

「へえー、加山さん、こういうの苦手なの?」

 遠藤は軽く笑ったが、細い目がさらに細くなり、心から笑っているのかどうかわからない。彼をとりまく霧が揺れる。ドブ川の臭いが彼から溢れ、何も言い返せない。

 ――彼は。

 あれから、遠藤を極力避けてきたが、同じクラスではどうしようもない。

 ――彼には、何かが憑いている。

「加山さんは、中は知らないんだろ? ぜひ俺の絵、観賞してくれよ。自分で言うのもなんだけど、なかなかうまくできたと思うんだ。一生に一度あるかないかの最高傑作だから」

 遠藤が愛想よくそう言うと、七恵が調子に乗る。

「そうよ、ユリちゃん。彼の渾身の作品をおがませてもらわなきゃ。さすが美術部よねえ。絵の雰囲気がもうね、なんて言うか、ちょっとあの世に首突っ込んでる感じ。絵は、文化祭が終わったら捨てちゃうんだからね、ぜったい今観なきゃ損。さあ、行くわよ」

 七恵は味方を得たとばかりに元気づき、ユリの腕をつかんだ。


 七恵が先に立って案内する。迷路の最初の扉の向こうは、最低限の明かりだけ。天井近くまでそそり立つダンボール製の壁で仕切られた狭い空間が細く続く。圧迫感で息が詰まりそうになる。通路の途中には、絵や飾り付けの仕上げをしているクラスメイトたちがいる。体を細めて脇を通った。

 通路を道なりに進むと、空間が少し広がり、正面にはごく弱い豆電球で照らされた骸骨の絵が貼ってあった。

「これは伊藤さんの絵」

 白い模造紙に油性の黒マジックで書かれただけの骸骨は、両手を広げて踊るような格好がコミカルで、笑いさえ誘う。

「ユリちゃん、どう? 全然怖くないでしょ?」

「うん……」

「次、行こう」

 骸骨の絵の両側には、段ボール製の扉が付いている。扉にはどちらにも、どこかの漫画で見たことがあるような十字架が描かれていた。

「片方は行き止まりで赤一色の血の部屋になってるの。こっちが正解」

 七恵は左の扉の方を示した。その先にあったのは化け猫の絵。口をあくびのように開けた猫は愛嬌たっぷり。

「かわいい。こんな幽霊屋敷ならお客さんも喜んでくれるかも」

 ユリが微笑んでそう言うと、七恵はよくぞ言ってくれました、と得意そうに解説してくれた。

「そうよ、ここまでは全然怖くないの。本当の恐怖はここから。こうやって最初は安心させておいて、後で怖い絵ばかりを出す作戦。その方が怖さが増すでしょ? 遠藤君の絵は、めちゃくちゃ怖いから覚悟しておいた方がいいよ。幽霊なんて信じていないあたしですら、ゾクッとしたんだもん」

 その時、ガサガサっと音がして、ユリたちが今入って来たダンボール製の扉が開いた。背の高い男が腰を曲げて小さな扉をくぐってくる。ユリはまたしても息を止めた。七恵が驚いて彼を見上げた。

「遠藤君!」

「加山さんが俺の絵を観るところがどうしても見たいんだ。加山さんから観たらどうなのかと思って」

「ユリちゃんは臆病だから、絶対に怖がってくれると思う。期待していいよ。きゃ~って抱きついてくれるかも」

 七恵は楽しげだ。遠藤は、数歩距離を詰めてきた。ユリは思わず体を硬くした。

「委員長、悪いけど俺に加山さんの案内をやらせてくれ。大きな声では言いたくないけど、彼女と二人きりにしてくれないか。この奥には今、誰もいないからさ、つまり、俺……」

 息を引いたユリが返事をする前に、七恵が答えを返していた。

「は~ん、なあんだ、そういうことか。ごめん、気が利かなかった。ユリちゃん、ここからは遠藤君に案内してもらってね。あたし、忙しいから戻るわ」

「サンキュー委員長。恩に着るぜ」

「えっ、そんな、ななちゃん!」

「遠藤君、がんばってね」

 七恵はユリに向かって意味ありげにウインクして見せると、元来た方向へさっさと姿を消してしまった。

 猫の絵がある薄暗い空間には、遠藤とユリが残された。一坪もない迷路の一角に二人きり。

「俺の絵はこっち。どうしても加山さんに観てほしくって描いたんだ」

 ――どうして私に?

 聞きたかったが、気絶しそうなほど鼻に付く彼の臭いに、口を開くのもおっくうだった。

「俺の絵のある場所さ、一番奥で最悪なんだ。通らなくでも迷路は出られるから、誰も来てくれないかもしれない。せっかく頑張って書いたから、ぜひ迷って俺の絵にたどり付いてもらいたいんだよなあ」

 クラスでは静かな存在で特に目立つことのない遠藤。こんなにおしゃべりな男だっただろうか、とユリは思った。

「こっちだ。この扉を抜ける」

 ダンボールでつくられた扉。遠藤が取っ手になっている紐を手前へ引く。身をかがめて扉をくぐると、大きな人形が目の前にぶら下がっていた。

「きゃ!」

 ユリと同じぐらいの大きさがある人形が、目の前で首を吊られてブラブラ揺れる。新聞を丸めて人型にしただけの簡単な物に、全身血まみれの赤い着色。マジックで書かれた、開いた唇からは、うめき声が聞こえてきそうだ。

「ごめん、あたし、やっぱり怖いから戻る」

 扉に背を向け、先程着た方向へ戻ろうとすると、遠藤の手が伸びた。

「待て」

 つかまれた手首が、強い力でグイと引っ張られ、よろめいた隙に肩に彼の腕が回った。

「ちょっ……いやっ!」

 振りほどこうとしたが、肩に回された手は痛いほどに強く食い込んでくる。悪臭に目が回りそうだ。遠藤は強引に細い通路を進んで行く。

「遠藤君、放して」

 涙目で見上げても、放してくれない。

「俺の絵、すぐそこだから」

 遠藤はユリの肩を抱いたまま、ダンボール製の扉を開こうとする。

「ごめん、あたし、無理」

 肩に食い込む遠藤の指を一本一本ほどこうとしたが、彼の指は木のように硬く、指がほどけない。薄暗い中、抱き寄せられるようにして扉の向こうへ連れ込まれる。心臓が限界まで早打ちになり、全身から汗が噴き出す。

 ――いや!

 彼にまとわりついている白い霧が、ユリも包もうと徐々に延びて来た。クーラーでよく冷やされている部屋へ急に入ったように、肩から急激に冷えて、視界に白い膜がかかる。ユリの全身を生きた霧が触れて行く。

 声が出ない。

 気道が細くなった気がして、空気を無理に吸い込もうと呼吸が乱れる。

 息苦しさの中、強引に肩を抱いている遠藤を振りほどこうとした。彼は空気がおかしいことは少しも感じないようで、苦痛を感じるどころか楽しげにユリを見おろしていた。

「これが俺の作品」

 暗い奥に、弱いスポットライトで照らされた大きな絵がある。黒い背景に白く何かが描かれているようだが、自分を取り巻く霧が気持ち悪すぎて、とてもじゃないが絵を鑑賞する気分ではない。

 絵を観ずに、ダンボールが敷き詰められた床に視線を落としていると、遠藤が顎をつかみ、無理やり絵の方を向かせる。

「よく見ろ。俺の最高傑作なんだから。生きてるんだ、その絵。加山さんならその絵の素晴らしさがわかると思って」

 遠藤は、ククク、と喉を鳴らして笑い、二人を取り巻く白い靄は一段と深まる。

「ハハハ……すごい絵だろう? 加山さん、なんとか言ってくれよ」 

 ――遠藤君、遠藤君?

 けたたましい彼の笑い声。彼が正気なのかどうか、もうわからない。

 

 その時、突然、遠藤のものではない知らない声が耳の中に入って来た。遠藤の唇は動いていない。ひっ、と息を吸い込む。

『キタ、キタ、あたしにぴったりの体。この男の体じゃダメ』

 超音波のように甲高い声。

『ちょうだい。ユリの体ちょうだい』

 背中を尖った氷が撫でて行くような冷たい感覚に襲われ、鳥肌が立った。

『待ってた。ずっと、ずっと。自由にできる体がキタキタ』

 ――遠藤君!

 彼は瞬きひとつせずに動かなくなっていた。目を開いたまま意識を失っているのかもしれない。遠藤は、時が止まったかのようにユリの肩をつかんだままで、指先の動きもなく、目はまっすぐに自分の絵をとらえている。遠藤の指に軽く爪を立てて見たが、彼は何の反応も示さない。ユリは恐る恐る絵の方へ目をやった。

 たった一つの豆電球に照らされた彼の絵。迷路最奥空間を占める壁の一角を使って描かれている。

 口の中がカラカラに乾き、奥歯をかみしめても体の震えは止められない。

 暗黒の背景の中を飛ぶ白い浮遊物。白の水彩絵の具がふんだんに使われ、筆でかすれさせて描かれた幽霊の輪郭は、ホラー小説の挿し絵に出て来る人魂ひとだまに似た、いびつな球体だった。

 顔の部分は教室の机二つ分ほどもある。手足はなく、あるのは顔だけ。顔も普通ではない。鼻はなく、目と口が体のほとんどを占め、眉毛がない片方の目の部分だけでも人の顔以上の大きさ。まん丸で黒目がちな眼球は、血走っており、瑞々しくリアルなタッチで描かれている。実際に目の部分に触れば、手がべたつきそうだ。上下とも尖った歯が、大きく開いた口から何本も覗き、今にも飛び出してきて噛みつこうとする勢い。その口が、壁面の絵の中で、パクパクと開いたり閉じたりしている。

 大きな目玉が、ギョロリと動いてユリをとらえた。

「!」

 顔から血の気が引くのが自分でもわかった。

 ――絵が。絵なのに。これは絵のはず。だけど。

 足が動かない。叫びは声にならず、乾いた空気が唇をすり抜ける。必死で体を動かしてここから去ろうと思った。身をよじると、肩にあった遠藤の手がようやくはずれたが、体は自分の言うことをきかず、勝手に足が前へ進み始めた。

 ズリ、ズリ、と何かに引きずられるように自分の足がゆっくりと動き、不気味な絵が一歩一歩近づいて来る。寒気がする風の声がまた聞こえた。

『フフフ……ちょうだい』 

 また一歩足が前へ。絵がすぐ目の前に迫る。

『触れるのよ。あんたはあたしと入れ替わる』

 ズリ。

 絵が近づく。さらにもう一歩。 

 ――助けて。

 拒絶の声は出せず、首を左右に小さく振る。絵に向かって自分の右手が勝手に伸びて行く。満足そうな絵の中の顔が、大口を開けて笑っている。

『ククク……』

 止められない自分の手が絵の口付近に触れた。絵の中へ手がズブズブと吸い込まれて行く。指先、手首、そして肘。痛みもなく絵の中へ。

 渾身の力を込めて手を引き抜こうとした。

 抜けない!

 ――いや、いや、いやぁぁぁ!

 絵の中に手を引っ張られ、抵抗する足がよろめいた。つまずいてころぶような形になり、絵に体ごとぶつかった。その瞬間、全身が濃い白に包まれ、遠藤の大声が遠くで聞こえた気がした。


   ◇


 ゆっくりと目を開く。すぐ目の前には、七恵の半泣き顔。

 明かりで照らされているが、そこは教室の迷路の一角で、ユリは七恵の膝の上に頭を抱えられていた。周りには崩れた机とダンボールの壁がごちゃ混ぜになっており、他のクラスメイトも狭い中で身を寄せ合って、倒れているユリを取り巻いていた。

「ユリちゃん……どこが痛い? 保健室行こう。ごめん……ごめんね……あたしが無理やり誘ったから」

 ユリは、ぼんやりと開いた目を天井に向けた。一部が壊れているダンボールの壁と、天井からぶら下げられた首つり人形が目に入る。そうだ、ここは幽霊屋敷。文化祭の。

 意識がはっきりするにつれ、恐怖がよみがえった。自分の手を確かめる。ちゃんとある。指先まで思い通りに動く。何の痕もついていない。

 ――全部、夢だった?

 七恵に支えられてゆっくりと立ち上がった。少しめまいを覚える。

「遠藤君は?」

 こわごわたずねた。

「彼なら顔を洗いに行ったわよ。唇が切れちゃったから。彼も壁の下敷きになったけど、自力ではい出して、大声で助けを呼んでくれたんだよ」

「壁の下敷きって……ここ、こわれちゃったんだね……」 

 密かに唇をかみしめた。様子がおかしかった遠藤。

 ――なんだったの?

「ね、保健室で休んだ方がいいよ。歩ける?」



 七恵の肩を貸りて、保健室へたどり着いた。七恵は保健の先生を呼びに出て行き、ユリはカーテンに囲まれたベッドにひとりになった。他には誰もいない。目を閉じて記憶をさぐる。

 何が起こったのか、自分でもよくわからない。ただ、あの時、必死で心の中で助けを求めた。立ったまま動かない遠藤。絵に吸い寄せられる自分。そして……気が付いたら七恵が泣いていて。今は、白い霧も悪臭もない。しかし、幽霊の声は鮮明に記憶に残っている。

 不安になり、いつも胸ポケットに入れているお守りに触れようとしたが、お守り袋の感触が指先に伝わってこない。あせって身を起こす。祖母からもらった大切なお守り。


『これは悪霊よけのお守り。ユリは私に似て霊感が強いから、肌身離さず持っていなさい』

 

 空のポケットが軽い。やはり無い……。がっかりすると同時に不安もかすめた。

 その時、誰かが保健室に入って来る気配がした。

「加山さん」

 カーテンごしにかけられた声に、肩に力が入る。

「この中、加山さんだよね? 俺、遠藤。入っていい?」

 返事をためらい黙っていると、カーテンの隙間から遠藤が覗き、ユリだと確認すると彼はカーテンの中へ入って来た。彼の上唇は切れて腫れている。

「遠藤君……」

「ごめん、気分はどう? 俺さ、あの絵であんなに怖がるとは思わなかった。ほんっとにごめん!」

 遠藤は深々と頭を下げた。遠藤を包んでいた靄も、悪臭もまったくない。少しほっとする。憑きものは彼から離れたのかもしれない。

「いいの。あたし……どうなったか、よく憶えていない」

「加山さんさ、パニクって、俺の絵に体ごとぶつかったんだぜ。それで壁になってた机が崩れちゃった。俺、誉められたくて絵を観てほしかったんだ。加山さん、いやがっていたのにな。怪我をさせて本当にごめん」

「大丈夫、どこも痛くないの。ちょっとめまいがするだけ。気にしないで。あの……遠藤君」

「ん?」

「あの絵はどうなったの?」

 遠藤は、ふっ、と笑った。その笑いには狂気じみたものは感じない。なにげなく見た彼の中指に、真新しい爪痕があった。

 ――夢なんかじゃない。

「ちょうど顔のド真ん中から破れた。委員長がせっかくだから飾ろうって言ってくれたから、そのままで展示することに決めた。今、机を積み直して、壁を皆で修理している」

 あの絵は普通の絵ではない、と言おうとした時、七恵が入って来た。

 七恵は起きているユリを見るなり、喜びの声をあげた。

「ユリちゃん! ああよかった。元気が出てきたんだね。保健の先生、もうすぐ来てくれるから。じゃあね」

 七恵は遠藤の姿を認めると、余計なことは言わずに、逃げるように出て行った。


 また遠藤と二人きり。中途半端に会話が途切れ、互いに目を反らし、気まずい雰囲気が漂う。耐えがたい沈黙を破って遠藤が声をかけた。

「これ、加山さんのだろ? あそこで拾った」

 差し出された彼の手の中には、祖母のお守りがあった。

「あたしのお守り……」

 拾ってくれてありがとう、と笑顔で受け取ろうとした。しかし、手がお守りに触れる直前で止まった。再び心臓から冷やされるような寒さを覚える。

 受け取らずにお守りを凝視しているユリに、遠藤がいぶかしげに名前を呼んだ。

「加山さん?」


 赤い布で作られている、祖母のお守りは、うごめく白い霧で包まれていた。あの絵とそっくりな鼻のない顔が、うらめしげににらみ、尖った歯がたくさんついた口を大きく開けて、霧の中に浮き出ていた。





     【了】


読了ありがとうございました。感想お待ちしております。

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[良い点] 描写が的確かつ解りやすくて良かったです 特に遠藤くんの絵の描写の畳み掛ける感じと躍動感はもうツボでした また、主人公ユリが絵へ引き込まれていくところ 擬音の効果も相まって 恐怖が良く…
[一言] 拝読致しました。 えっと。私、こんな企画に参加していますけど「怖いの本当に駄目」なんです(笑) 小説において五感にうったえかける描写というのは、とても有効です。ですので、冷気とか臭気とかく…
[一言] こんにちは~拝読させていただきました(*^_^*) ひゃあ、やっぱり怖いじゃないですかっ 何が憑いていたんでしょうね?
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