「終わりの足音」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。バスケ部。
中村将悟 クラスメイト。金髪バンドマン。
矢野千秋 クラスメイト。
新田百合 一年生。日向に好意を寄せている。
白崎先生 精神科医。
リッキー 犬。ゴールデンレトリバー。
お姉さん リッキーの飼い主。
「終わりの足音」
白い天井。
病院で見た景色とはまた少し違う、狭くて圧迫感のある空間。
彼方は保健室の奥のベッドに横たわっていた。
本当は学校になんて行きたいないし、
学校に来たら、誰かが日向を奪おうとするのを見てしまいそうで、
日向を手放さないために、また誰かを傷つけてしまいそうで、怖かった。
そして、先週の事件が噂になっているんじゃないかと、不安だった。
もし百合が喋ったら、
もし亮太が喋ったら、
もし将悟が喋ったら、
自分は疎外されてしまう。
間違ったことをしてしまったのは、自分だ。
それはわかっている。
自分には日向だけがいればいいけれど、
大勢の人の、悪意のある好奇の目に晒されるのは、嫌だった。
そんな日向も最近、自分から離れようとしている。
必死で繋ぎとめようとしても、戸惑う日向の顔が浮かぶ。
日向はきっと、一人でも生きていける。
料理もできるし、洗濯も、掃除だって得意だ。
少し口下手だけれど、手先も器用だし、優しい。
そんな完璧な日向は、自分がいなくても、生きていける。
自分は、日向がいないと生きていけない。
不器用で、ワガママで、嫉妬深くて、弱くて狡い。
何もない自分が、日向にしてあげられることなんて、何一つないのだ。
ただ、泣いて縋ることしか、できないのだ。
―ちゃんとお互いの幸せを考えろって‐。
日向に言われたことを思い出す。
自分の幸せは、ただ、日向とずっと一緒にいることだ。
それ以外に、考えられない。
それ以外が、幸せだとは、思えない。
じゃあ日向の幸せは?
日向の幸せは何だろう。
自分と、ずっと一緒にいる道を、選んではくれないのだろうか。
日向は、自分のことを捨てて、一人で歩いていくのだろうか。
思い返せば、ずっと「普通」に憧れていた。
自分たちが置かれている環境が「異常」だとわかっていたからこそ、
同級生の前では「普通」の生活を送っているように、
嘘を吐き続けていたのは自分だ。
きっと日向も、そんな普通の生活に憧れているんだ。
だから、自分と離れようとしているんだ。
日向の口から、大学、就職、結婚、子供なんて言葉を聞くたびに、
胸が締め付けられるように、苦しくなる。
それは発作の前兆に、よく似ていた。
ああ、それとも自分が、こんな発作を起こすようになってしまったから、
面倒だと思われたのだろうか。
最近の日向は、あんまり笑わなくなった。
困った顔をすることが多くなった。
悲しそうな顔をすることが多くなった。
困らせたくないのに、悲しませたくないのに。
二人一緒にいれば幸せだと信じていたのに。
彼方はもう、日向を繋ぎとめておくことが、できないような気がした。
しかし自分は日向がいないと生きていけない。
日向がいない、自分の世界なんて、考えられない。
むしろ、そんな世界は存在しないのだろう。
きっと、自分は日向が離れていけば、死んでしまうしかないのだから。
そんなことを考えながら、
少し蒸し暑い、無音の保健室で、風に揺れるカーテンを見つめながら、
彼方は瞳を閉じた。
テスト中の静かな教室の中。
解答用紙を全て埋めた将悟は、開いている席を見つめ、考えていた。
どうやら高橋彼方は学校には来ているらしい。
しかし、テストが始まっても教室に姿を見せなかった。
高校三年の期末テストなんて、それはとても大事なテストなのに、
それも受けずに保健室にいるらしい。
テストが受けられないくらい体調が悪いなら、昨日のように休めばいいのに。
学校に来れるくらいに体調が良くなったのなら、多少無理をしてでもテストを受ければいいのに。
テストも受けないのに、学校に来ている。
―アイツ、何しに学校来たんだ…?
あの事件があって気まずいのは、わかる。
けれど、進学に関わる大事なテストを受けないのは、おかしい。
テストを受ける気もないのに、学校に来たのだろうか。
だとしたら、何故だ。
何か理由があるのだろうか。
学校に来てテストを受けない理由。
いや、家にいられない理由だろうか。
親は心配するだろうし、学校に行かせたがるだろう。
だからとりあえず、学校に来るだけ来たのだろうか。
だが、それだけだろうか。
―何かが、噛み合わない気がする。
そう思いながら、日向の背中を見つめてみる。
少し猫背の丸い背中が、いつもより、さらに丸まっている気がした。
日向は、ペンを走らせる手を止めて、静かに窓の外を見ていた。
伸びた髪が風に揺れて、なんだか寂しそうな背中に見えた。
そういえば、二人は将来のことを決めたのだろうか。
日向には、キツイ言い方になってしまったが、ちゃんと忠告はした。
彼方は、それをどう思っているのだろう。
二人はどんな会話をしたのだろう。
どんな未来を描いたのだろう。
考えても、答えは出ない。
ふと、隣を見ると、亮太は幸せそうな顔で、涎を垂らして寝ていた。
将悟は小さくため息を吐いて、見なかったことにした。
そしてテストが終わる。
HRの終了と同時に、将悟は立ち上がり、教室を出ようとする。
「あれ?将悟どこ行くんだ?」
いつもはHRが終わっても亮太とダラダラと喋っているため、
廊下へと向かう自分を珍しそうに見ていた。
「あー…便所。」
少し考えた後、顔を逸らして下手な嘘を吐く。
「すぐ戻るから、付いてくんなよ。」
「うんこ?うんこ?なあ、うんこか?」
「ちげーよ、アホ。」
小学生男子のように、嬉しそうに下品な言葉を連呼する亮太。
将悟はそんな亮太を気にせず、教室を出た。
「なあなあ、日向って彼女作らねえの?」
将悟を見送った亮太は、目の前の席の日向に話しかける。
日向は鞄に荷物を詰め込み、帰ろうとしていたところだった。
「…どうだろうな。…今は、あんまり考えられない。」
その少し素っ気ない返事に、亮太は驚いた。
前までは「彼方がいるから」と呪文のように繰り返していたのに、
今の日向は、彼方の名前は出さなかった。
日向は、変わろうとしているのだろうか。
「じゃあさ、どんな子が好み?」
日向は、白く長い指を顎に添え、首をかしげる。
少し考えるような素振りを見せた。
「…俺はあんまり喋らないから…、
明るくて、よく喋る子。よく笑う子…とか?」
それはまるで―、
―百合ちゃんだ。
「…な、なんか…彼方みたいだな。」
亮太の頭によぎったのは、明るくて、よく喋り、よく笑う、百合のことだった。
しかし、日向は、百合が日向のことが好きなのを、知らない。
自分が百合のことを好きなのも、日向は知らない。
ここで百合の名前を出せず、彼方の名前を言ってしまう。
彼方だって、日向の前では明るく、よく喋り、よく笑う。
彼方と百合は、少し似ている気がした。
しかし、彼方の名前を出したとき、
日向の表情が少し、驚いたように口を開けたのを、亮太は見逃さなかった。
「…そんなことない。」
無意識だったのか。
日向は、少し戸惑って、視線を逸らす。
「じゃあさ、もし…明るくて、よく喋って、よく笑う子で、
日向のことが…好きだって子がいたら、どうする?」
聞いたところで、どうにかなるわけではないけれど、
亮太は日向の気持ちが、知りたかった。
百合の気持ちに、自分の入る隙間はないとわかっていても、
わかっているからこそ、日向の答えを、聞きたかった。
「…そんな子、いるわけないだろ。」
日向は、困ったように小さく笑った。