「気付きたくなかった想い。」
登場人物
高橋日向 双子の兄。一人称は俺。
高橋彼方 双子の弟。一人称は僕。
坂野亮太 クラスメイト。
中村将悟 クラスメイト。
矢野千秋 クラスメイト。
新田百合 一年生。
白崎先生 精神科医
「気付きたくなかった想い。」
まだ少し薄暗い朝、目覚まし時計よりも早く、目が覚めた。
隣を見ると、彼方は、抱きしめるように自分の体に縋りついていた。
日向は、その少し切なそうな彼方の寝顔を見つめ、物思いにふける。
手を離さなければいけないのに、
結局、縋りつく腕を、離せないままでいる。
未来など、不確かだ。
将悟や亮太に言われて、自分の未来、彼方の幸せを考えてみたところで、
結局、他人に言われて感化された理想論しか、描けない。
そんな普遍的な理想を、本当に自分は、幸せだと思えるのか。
そして、どんなに目に見えない未来を考えたところで、彼方の幸せは、
結局、自分といることなのだろうか。
運命の赤い糸。
そんな話を思い出す。
自分に繋がっている相手なんて、わからないけれど。
むしろ、自分と繋がっている人間なんて、いないかもしれないのに。
糸が、絡まって解けない気がした。
自分の糸と、彼方の糸。
このまま絡まり続けて、ぐちゃぐちゃになってしまう気がした。
目に見えない理想を描くよりも、このままこの箱庭で閉じこもったままの方が、いいのかもしれない。
けれど、亮太や将悟の顔を思い出すと、そうもいかないと思ってしまう。
少し前までは、二人で生きていくことを、当たり前だと思っていたのに。
気付かないふりをしていても、ゆっくり、でも目紛しく、
どんどん、静かに、環境が変わっていっているような気がした。
その度に、暗にこの関係が、この環境が、異常だと言われている。
それでもやっぱり、子供のように泣いて縋る彼方の手を、
日向は離せるわけがなかった。
―いっそ、彼方から手放してくれたらいいのに。
自分から振り払うことなんて、できない。
何度決意したって、彼方の縋る瞳に、心が引き裂かれる。
その涙で揺れる瞳で、簡単に、決意は揺らぐ。
結局、聞き分けのいいフリをして、自分も、変わることを拒んでいるのだ。
悪い夢でも見ているのだろうか、眉を寄せて、切なそうな彼方の寝顔。
そのまだ少し腫れが残る頬に、そっと、触れてみる。
彼方は昔から泣き虫だ。
身長も体も、自分より少し大きくなったけれど、
幼いころと何一つ変わっていなくて、彼方を守るのが自分の役目だと思っていた。
そして、勝手に強くなったつもりでいた。
本当の自分は、こんなにも弱くて、惨めで、滑稽なのに。
双子じゃなかったら、よかったのに。
どちらかが女だったらよかったのに。
そしたら、誰に咎められることもなく、一緒にいられるのに。
―ああ、俺も、彼方のことが、好きなんだな。
そんな自覚なんてなかったはずなのに、
許されることはない自分の気持ちに、気付いてしまう。
恋だとか愛だとか、そういうものはよくわからないけれど、
静かな寝息をたてる彼方を見ていると、胸が締め付けられるようだった。
「ん…日向?」
そんなことを考えていると、彼方が目を覚ましたようだった。
まだ少し眠そうなトロンした目を開け、彼方は自分の頬に、
日向の手が添えられていることに気付く。
その日向の手に、自分の手を添える。
「僕ね、日向に撫でられるの、好き。」
「…そうか。」
軽く、日向の手に頬ずりをする。
「日向の手が、好きだよ。」
日向は、柔らかく笑うその顔が、心底愛おしいと思ってしまう。
触れる体温は暖かくて、なんだか少し、切なくなった。
「俺は、彼方の笑顔が好きだ。」
無意識に口をついた言葉。
彼方は一瞬意外そうな顔をして、またすぐ笑顔に戻る。
「…ふふっ。両思いだね。」
その顔は本当に嬉しそうで、日向も嬉しいはずなのに、
心がキュッと締め付けられるようだった。
ああ、世界に二人だけしか存在しなかったらよかったのに。
そしたら、未来や将来や人目なんかで悩まなくても済むのに。
この世界は生き辛い。
倫理や、道徳や、法律や、世間体なんて、
気にしないで生きていられたらいいのに。
ただ「好き」という感情があるだけで、一生一緒にいられたらいいのに。
叶えては、いけない恋だ。
望んでは、いけない恋だ。
そんなことがわからないほど、もう子供じゃない。
けれど、彼方を不安にさせて、過呼吸を起こす姿を、もう見たくなかった。
だからこそ、今はその思いに、何も言えなくなっていた。
「彼方、今日学校行くぞ。」
「え…でも…。」
その言葉に、戸惑う彼方。
「またしばらくあの人が帰ってくるかもしれない。」
「あ…そっか。…そうだよね。…でも…。」
家にいたところで、母親が帰ってきたらまだ虐待の日々だ。
また彼方が苦しむ。過呼吸を起こすかもしれない。
少しでも、そんなことになるのを避けたい。
歯切れの悪い返事の彼方に、日向は軽く、彼方の頭を撫でながら言う。
「気まずいなら、彼方は保健室とかにいてもいいから。
とにかく、家に一人でいるのはダメだ。」
「うん…。わかった…。」
静かに頷く彼方の瞳は、不安に揺れていた。
「俺もいるから、大丈夫だ。」
日向は、彼方の手を、力強く握った。
百合の朝は早い。
学校から家まで電車で三駅の距離があり、
電車の時間も一時間に一本しかないからだ。
三駅と言っても、田舎の駅と駅の間の距離は相当なものだ。
百合は毎日学校まで一時間かかる距離を通っている。
いつもクラスで一番に学校に着く。
そして、まだ誰もいない教室で、一人静かに窓を眺めるのが日課だった。
―あれから11日。
先週の月曜日のことを思い返す。
自分は浮かれていたのだ。
思い返せば、彼は日向とは全然違う人間だったと思う。
顔はよく似ていたけれど、彼は、自分が好きになった日向ではない。
日向は、あんなに卑しい笑い方をする人間ではない。
あんなに下賤な目で見つめる人間ではない。
あんなに強引な人間ではない。
「好きだ」と言われて、浮かれた自分は、
そんなことにすら、気づかなかったのだ。
毎週、図書室に通って、見つめていたのに。
何が好きだ。何が恋だ。聞いて呆れる。
あんなに焦がれていたのに、日向じゃないことを見抜けなかった。
彼に弄ばれたことよりも、好きな人を間違えた自分に、腹が立った。
それこそ、日向に失礼なことをしたと思う。
結局、悪いのは自分だ。
間違えてしまった自分が悪いのだ。
―私の気持ちって、そんなものなのかな。
最初に日向を見た時は、綺麗な人だと思った。
誰も寄せ付けず、華麗で優雅な一輪の花のようだと思った。
まるで、自分と違う世界を生きているかのように見えた。
その姿に目を奪われて、いつの間にか、
遠くからただ黙って見つめるのが癖になっていた。
そして気づいたのだ。
時折、少し寂しそうに見える瞳に。
儚く、触れたら壊れてしまいそうな瞳に。
その瞳は何を映すのか、何を思うのか。
最初は本当に、興味本位だった。
見つめているうちに、日向のことが知りたいと思った。
知りたいと思ったからこそ、毎週図書室に通い、遠くから見つめ、
同じ本を読み、声をかけるようになった。
そうしているうちに、自分は日向のことが、好きになっていた。
理由なんて曖昧なものだ。
ただ、気づいたら目で追っている。
その瞳に映るものを、一緒に見たいと思った。
その内に秘めた思いを、知りたいと思った。
日向の世界に、自分を映してほしいと思った。
ただ、それだけだ。
言葉で説明するのは難しくても、
自分は、確かに、日向のことが好きだった。
本当に、好きだった。
あんなことがあっても、日向のことを忘れられずにいた。
―日向先輩には、私の気持ちを、まだ…伝えていない。
この思いを伝えないまま、終わるのは嫌だった。
伝えないと、自分で納得できない。
自分自身を、許すことができない。
伝えたところで、付き合える保障もないし、
これまでの関係が崩れてしまうかもしれない。
また彼が酷いことをするかもしれない。
それでも、自分の気持ちに嘘を吐きたくはなかった。
百合は、自分に正直に生きていたかった。
―ちゃんと、伝えよう。ちゃんと伝えて、そして、謝ろう。
百合は誰もいない早朝の教室で、可愛らしいメモ用紙にペンを走らせた。