坊(ぼん)
【盂蘭盆】…仏教の行事。「盂蘭」は地獄でさかさまに、ぶら下げられる苦しみを解く意。
えーんえーんえーんえー……
子供の泣き声。
あわただしい女たちの足音。
僕にとって、盆はそういったもので構成されていた。
実家に続々と集まる親戚たちの喧騒から逃れるためだったか、気晴らしのためか、僕は東京タワーを訪れていた。
そこで、坊が売られているのを見つけた。
本当にたまたまだった。
「最後の1ヶですぜ〜」
若いのか年老いているのかわからない、気味の悪い売人に声をかけられる。
坊は、東京タワーの蝋人形館脇の売店でごくたまに販売されており、それ以外では目にすることもできない代物だった。
「これは良い坊だ。抜群だよ。お客さ〜ん、幸運だぁ」
坊は小さな鉄棒のような器具に、足と手首を縛られ豚の丸焼きのように吊り下げられていた。黄ばんだ涎を垂れ流し、丸く黒い瞳がじっと天井を見上げている。その黒目の端に僕が映っていた。
「……」
ふと、足を踏まれているのに気が付いた。
視界に入らない、小学校低学年くらいの男子が僕の足を踏んでいた。革靴のつま先を小さなスニーカーの踵が乗っていた。見たこともない子だった。じっと、魅入られたかのように坊を眺めている。
「坊や〜、坊やも坊が欲しいのかい? 坊はね、とっても高価なんだよ。坊やに買えるかな?」
札を見ると、確かに、ちょっと子供が買えるような値段ではなかった。
いまだ僕の足を踏み続けている子供を見下ろすと、わずかだが期待するような上目遣いで見上げている彼と目が合った。
「坊を、ひとつください」
「まいどお」
気味の悪い店員は素早く坊を梱包すると、す、と僕に手渡した。赤ん坊の重さだった。
僕は少年を見る。
少年も僕を見ている。その目に光が灯っている。魔法使いの絵本みたいに、僕が少年の欲すものを与えるとでも思っていたのだろうか。僕は嘲笑を浮かべ、はっきりいってしまえば、明らかに悪意の篭もった表情を見せ、その場を後にした。
男児の期待を裏切った。
男児は裏切られて踏みにじられた、子供の時にしかできない綺麗な悲しい顔をした。
背筋がゾクゾクするような満足感を得、坊を抱いて家路を急いだ。
*
ああ、また盆が来る。
この夏は酷く蒸し暑かった。吹き出る汗に額を拭い、西瓜を包丁で半分に裂いた。
「アヤコさん、12等分ね。」
「あ、はい」
私は夫の実家が嫌いだ。
古臭く重厚な造りが嫌いだ。その家に棲む人々が嫌いだ。
夫は4人も兄弟がいて、次男である。私に西瓜について指図をしたのは長女のカオリで、38歳にもなっていまだ結婚もせず実家に住む居続けだ。
「ちょっと、ちっとも均等じゃないじゃない。お若いのに、バランス能力悪いのね」
糞女。クソ女。
西瓜を載せたおぼんを持って居間に行くと、夫と次女のレナが言い争いをしていた。
「兄さんの家、玄関の位置が悪いわ。鬼門の方向よ」
「いまさら変更なんてできない」
「不幸になるわよ。地獄をみるわ!」
新築予定の我が家のことについてらしい。
レナは、離婚を経験してから風水にのめりこんだが、四神がどうのだとか、人のことにやたらと口を挟んでくる。
「ふえーん、ふえーん」
ヒステリックな叫び声のせいで、私の息子とレナの娘が同時に泣き出した。
私は息子とレナの娘をあやす。1歳にも満たない赤子がふたり。レナは私のことを、ベビーシッターかお手伝いの者だと思っているらしい。
「アタシが良い建設会社を紹介してあげるわよ!」
「大きなお世話だというのがわからないのか、お前は!」
赤ん坊を泣き止ませると、視界に縁側の坊が入った。
坊はふごふごと無意味な音を発しており、笑いもせず泣きもせず、無意味な言い争いを続けている大人たちを睨んでいるように見える。
西瓜の一切れを血の気のない唇に与えたようとしたところで、背後から手首をやんわりと掴まれた。
「義姉さん、坊に餌はいらないんだよ」
嗚呼。
夫の兄弟の中でも、とりわけ苦手なのが、次男のシュウヤだった。突き出た前歯。淀んだ目。とても小学校の教師をしている人間には見えない。
「餌も与えず、睡眠もとらない。それでも1ヶ月はもつらしい。凄いよね。」
私は掴まれている手首を振りほどいた。
「だから、義姉さんが面倒を見る必要はないんだよ」
この、奇妙な坊。
最初これを見て悲鳴を上げた私に、『それ、いいだろ』と粘っこい笑顔で話しかけてきたこの男。やたらと優しい猫なで声で。
『わかってるんだ。義姉さんの苦しみ。僕だけには素直になってくれていいんだよ』
ああ、気持ち悪い。気持ち悪い。きもいのよ。
ワカッテル、なんていわないで。
坊が黒い目で私を見ていた。
その目の愚鈍さはシュウヤとよく似ている。
私はぎょっとしてその目から視線を逸らした。
その夜はなかなか寝付けなかった。
長女と次女は義母と芝居を見に外出していた。夫はすでに寝室で休んでいる。
私は子供部屋で、自分の息子と次女の娘を寝かしつけていた。
レナの娘は母親の不在を察したのか、ぐずるだけぐずり、泣きつかれてようやく眠りについたところだった。
「ふぎゃあ」
疲れ果て眠りに引き込まれようとしていた私の意識に、赤子の泣き声が聞こえた。額の汗を拭い立ち上がる。
縁側に通じる襖を開けると、坊がいた。
あれ、ここに坊があったかしら。
ぼんやりとそんなことを思った。夜空を見上げると、庭の松の間から見える月が赤かった。
「あなたは……何故そんな表情をしているの? なにもかも面白くない、って顔をしているわ。赤ちゃんのくせに可愛くない」
『面白くないのではない。怒っているのじゃ』
坊は手首と足首を縛られたまま、ギロリと目だけで私を見上げた。
「怒っている。何に?」
『この世のすべて』
「すべて?」
『生まれ出でてきてから、この世で見る、聞く、触れてくるすべてのものに』
地を這うような声だった。
『憎い。にくい。憎いいい。産まれてきたことが憎い。この世に生まれ出でてきたことが憎い。この下卑た世に。なぜ産んだ、このワシを』
坊は黄色い涎を垂れ流しながら、私の足元に這ってきた。
「なに、なにをする気」
『地獄に戻るんじゃ』
浴衣の裾から出た足に、坊の小さな手がまとわりつく。
信じられない力で私の足をよじ登ってくる坊。生暖かい涎が足の脛を伝って、私が昼間雑巾をかけた床に流れていった。
「あ、やめて」
『女は皆、赤黒い地獄の穴に通じとる。』
太腿に赤子の柔らかい手の這う感触。
「やめてえええええええ!」
「ふぎゃあ」
赤ん坊の鳴き声で目が覚めた。
はっとして上半身を起こす。隣には、泣いている息子がいた。私は、次女の娘の姿が見えないのに気がつく。息子は抱き上げるとすぐに泣き止んだ。
下半身は寝床に入ったまま、私はあたりを見回してレナの娘の名前を呼んでみた。しかし、なんの気配もない。
抱いている息子はストーブのように熱い。
慣れた温度に次第とはっきりしていく意識のなかで、不意に気がついた。
太股に違和感があるのだ。
悲鳴を上げかけて、辛うじて抑えた。
「は、はあ、あ」
掛け布団をはぐる手が震える。ぴたりと閉じている私の太股の下に赤子の寝巻が見え隠れした。
足を開いた。
太股を退けると、そこには血の気の失せた白い肌の赤子があった。
*
「ああああアアア」
地下から女の呻き声が聞こえる。
僕は懐中電灯を片手に地下への階段を下りた。死んだ父の悪趣味としか思えない座敷牢が地下にはあった。
仄かな灯に照らされたアヤコは足首を縛られ、天井から逆さに吊り下げられている。剥き出しの白い身体には、姉によるものだろう、わけのわからない呪いの札が貼り付けられていた。
「義姉さん、大丈夫だよ」
アヤコに預けていた娘が行方不明になり、怒り狂った姉らと母による仕打ちだった。1歳にも満たない姪がひとりで姿を消すことは考えがたく、誘拐だと警察は考えているようだ。
「ねえさんは優しい人だもの。」
僕が声をかけると、義姉は髪を振り乱して首を振った。
「あ、ああ、うう」
「見てごらん。これを」
僕は持ってきたダンボールを開く。そこには義姉が隠した煎餅のように平たくなっている、坊の死骸があった。
「ごらん。良い顔しているだろう」
坊の死に顔は穏やかだった。
しかめていた目頭の緊張は解けており、幸せな家庭に生まれた赤ちゃんの表情をしていた。愛らしい、と感じる程だ。
「ねえさんはのおかげで坊は楽になれた……ありがとう」
「あう、ああ」
義姉は空ろな瞳から美しい涙を流す。それは黒髪を伝ってかびた畳に染みていった。
「レナ姉さんの子供なんて気にすることなんてない。僕が何とかするから。僕が、ねえさんのこと一番わかっているから」
僕は僕の発せる限り一番優しい声で囁いた。
*
私は二人目の子供を産んだ。
今度は娘だった。ふたりめは女の子を、と期待していた夫はやたら嬉しがり、いざ対面すると抱いたまま離さない。
あの年の、盆の日。
レナの娘は行方不明になった二日後、無事に発見された。台所の野菜室で、見たこともない少年と縮こまってスヤスヤと眠っていた。
『この子は、僕が坊を買うのを羨ましそうに見ていました。坊を買えるだけ裕福な家を妬んで、こんなことをしたのでしょう。』
シュウヤが警察にそう説明した。
私と入れ替わりに地下牢に入れられた少年が義母と義姉らにどのような仕打ちを受けたのか。
私は知らない。
夫の実家にはあの年から訪れていなかった。
愛撫から解放された赤子がすぐ隣に寝かされる。
病院のシーツはくたりとしており、何組もの妊婦と赤子がこの布に包まって夜を明かしたのだと思った。
赤ん坊は無垢な瞳を天井に向けている。表情は怒っているように見えた。
不意に問いたくなった。
「……憎い?」
その声は嗄れていて老婆のもののようだったが、なおも私は問う。
「あんた、あたしが憎い?」
『憎いイイいいい』
耳にこびり付いて離れない坊の呻きを振り払う。と、赤子の口が乳を貪るときのように開いた。
「ヒャハハヒャハハハハハハ」
赤子がケラケラと笑いはじめた。
ケラケラケラケラ……狂い死に急ぐかのように。
私は必死に名づけたばかりの娘の名前を呼んだ。なおも娘の笑いは止まらない。
その口内には赤黒い闇がぽっかりと広がっていた。
地獄への入り口。
実は最初のタイトルは平仮名で『うらぼん』でした。
そう、霜月先生のタイトルと同じでした。おそれおおいことです。
古くさく奇妙なホラーを目指したのですが、なんだかまとまりのないホラーになってしまいました。
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