冷夏
壁の時計は、5時を示していた。
午前、5時。
5時、5時、5時!
終わってない終わってない終わってない。
なんにも終わってない!
どうしようどうしようどうしようどうしよう。
心臓が重みを増して、ぐうっと落ち込んでいく。
ちゃんと終わらせられるはずだった。
感想文に30分、ドリルに1時間、漢字の書き取りに1時間、30日分の日記は30分。
手をつける前に頭をはっきりさせようと思って、少しだけ、横になって目を閉じて。
1時と、2時と、3時に目が覚めたのを覚えている。
まろやか運転のクーラーが送る風が、気持ちが良かった。
5時10分。
歯ががちがち鳴る。頭がぐるぐるとするばかりで、何も考えられない。
とにかく、1問でも。
鉛筆を手に取り、ドリルを開く。
2ページしか埋まってない。
憎い空白に鉛筆を突き立てる。ぐ、ぐ、ぐ、ぼきり。
「あああ! ああああっ!」
獣のようにうめいて、頭を抱える。
衝動的にページに爪を立て、ぐしゃぐしゃに丸めてしまおうとして、ギリギリのところで思いとどまる。
急にお腹が痛くなったと言って、始業式を休んでしまおうか。ダメだ。
二学期のスタート。夏休みの話題で、大いに盛り上がるだろう。そこにいなかったら、きっと取り返しがつかないことになる。絶対に休めない。
なんとかして、提出せずにすませるしかない。
『学校に来る途中で、落としてしまったのだと思います』
一緒に登校している子に確かめられたら、嘘と分かってしまう。
『持ってきて、机にちゃんと入れておきました。誰かに間違えて持って行かれたのかも』
全員の持ち物検査をするとか言い出されたら終わりだ。
『ちゃんと終わらせたのだけれど、忘れてしまいました。明日は絶対に持ってきます』
やはりシンプルなのがいちばんだろうか。
閃いた。
『間違えて去年のを持ってきてしまいました』
これだ!
本棚に立てたノートを畳にぶちまけて、前の年のドリルで、似た色の背表紙のやつを探す。あった。
そうだこの際、本当に間違えれば嘘をついたことにもならない。
こうして、机に並べて。慌てていてよく見ないで手を伸ばしたら、去年のやつを選んでしまって。確かめもせずにランドセルに入れてしまうんだ。
嘘じゃない。本当に間違えたから、自信を持って先生に説明できる。
しっかり目を見て説明すれば、信じてもらえるはず。
始業式が終わったらダッシュで帰ってきて、お母さんにも見られないようにして、今度こそ今日中に終わらせるんだ。
まだ胸の内側にしこりが残っているけれど、きっと大丈夫。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
*
ジリリリリリリ!
耳障りなベルの音に、重いまぶたを開く。
遮光カーテンの端から漏れ出す朝の光。今日は始業式。
嫌な夢。
*
「本当なんです先生」
真剣な視線はわずかも揺るがず、ひしと私の瞳を見据えている。
「感想文も自由研究も、ちゃんとやってあって」
なめらかに紡がれる言葉。頭はとてもいい子なのだ。
「手提げに入れておいたと思ったんだけど、手提げ置いて来ちゃって」
ただ、目先の楽しさ優先で、計画を立てて地道に努力することができなくて。
「学校に来てから気づいたんです」
プライドばかり高くて、素直に間違いを認めることができなくて。
「明日は絶対忘れません。ダメですか?」
どうしようもなく、嘘つきなだけだ。
ふう。
「分かりました。明日は本当に忘れないで持ってきて」
「はい! どうもすみませんでした」
深々と頭を下げると、一目散に自席に戻っていく。
おかしいなあ、などと言いながらしばし、机の中をあさる。
せっかくの一人芝居だが、周囲の者たちは気にもとめない。
いつものことだからだ。
あれは私。
バレていた。先生にも、クラスのみんなにも。
みな嘘つきと知って仲良くしながら、裏で軽蔑して、あざ笑っていたのだ。
こみ上げる悪寒を隠して、ホワイトボードに向き直り、本日の予定を板書した。
*
職員室にもどり、始業式の準備をしていたら、隣席の同僚が話しかけてきた。
「先生、お願いしていた資料なんですけど」
「ああ、今出しますね」
PCの画面を表示させ、ドキュメントを開く。あれ?
「おかしいな、確かに保存してあったんですが。エラーかな?」
「えっ? 困りますよ! 今日使うんですよ!?」
慌てる声を聞きながら、あちこちフォルダを開いて、確かに完成させたはずのファイルを探す。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
「いい加減にしろこの嘘つきが!」