◇マビルへの想いを
以後、本編であるDESTINY 第四章のネタバレを凄まじく含みますので、知りたくない方は読まないでください。
2016.09 頂いたイラストを追加しました(*´▽`*)
うっすらと見える天井に、見覚えはない。
頭が重くて何も考えたくないけれど、これが夢ではないことだけは分かる。
「トモハル」
俺を呼ぶ声が聞こえる。
でも、この声はマビルじゃない。
だって、マビルは。
「トモハル、お水を飲んで」
幾度か瞬きを繰り返したら、視界が鮮明になってきた。
ここは神が住まう天界城の一室だろう。
あの後、俺は意識を手放してここに運ばれたのだろうか。
何も思い出せない。
ただ、マビルがいなくなってしまったことだけは覚えている。
……俺のせいだ。
「マビル」
名前を読んだら、涙が溢れた。
目の前がかすんで、何も見えない。
「マビル」
「トモハル」
俺の名を呼ぶのは、マビルじゃない。
傍らで心配そうに覗き込んでいるのは、アサギだ。
顔は見えないけれど、雰囲気で分かるよ。
「……ちがぅ、ちがぅううう、マビルじゃない、マビルなわけがない、マビルは、もっと、かわ、いい」
そうとも、マビルなわけがない。
マビルはもう、何処にもいない。
解っている、現実を受け入れるよ。
でも、それでも。
俺はもう、どうしたらいいのか分からない。
だから今は、眠らせて欲しい。
このまま眠っていたら、俺も死ねるかな。
……そう思っていたのに、現実はそう簡単にいかないらしく。
俺は生きている。
死にたいのに、心臓が勝手に動いてしまう。
身体は生きようと、もがいているらしい。
目が覚めると手厚い看護のもとで、用意されていた食事を無理やり食べた。
味は分からないし、吐き出したけれど、それでも幾分か喉を通った。
どうして身体は生きようとするんだろう。
俺はもう、死にたいのに。
マビルがいないのなら、生きている意味がない気がするんだ。
ベッドから下りると、足に力が入らなくて床に転がった。
そんなに長い間眠っていたのかな、全身が大きく震えて力が入らない。
「無理をするな、トモハル。いや、よかった。やはりそなたは立派な勇者だ。今は暫し休んで……」
呆然としていると、神クレロがやって来た。
俺が目を覚ましたことを聞きつけたのだろう。
そう、神。
惑星クレオには、神様が存在する。
けれど、神とは万能な存在ではないと教えられた。
世間がそう呼んでいるだけの、長命種族なのだと。
だから、神を崇め、平和を祈っても無理なのだ。
つまり、神にはマビルを蘇らせる力などない。
神を超越する能力を持つ者が存在するのなら、俺は幾らでも祈るのに。
対価が必要なら、喜んで差し出すのに。
でも、そんなものは存在しない。
そんな馬鹿馬鹿しいことを考えていたら、随分と頭が冴えてきた。
やはり、俺は生きることを渇望しているらしい。
変なの、どう生きればいいのか分からないのに。
「おいたわしい……」
嘆きの声が聞こえた。
気づけば、幾つもの瞳が俺を痛々しく見つめている。
どう接してよいのか、考えあぐねているんだろうな。
言葉なんていらない、寄り添わなくてもいい。
今は、そっとしておいて欲しい。
俺はこれ以上干渉されないために、意を決して声を張り上げた。
「俺には勇者の資格がありません。剣はお返しします。今まで、ありがとうございました」
俺は自分が許せない。
こんな奴が勇者だなんて、あり得ないし、許せない。
勇者とは、『勇気ある行いをした人物』だ。
勇者が持つべき神器を手にしたとはいえ、俺じゃなかった。
意思を伝えたら、身体が軽くなった気がした。
よろけながら、歩き出す。
ここにはいられない、地球へ帰ろう。
俺の部屋に戻って、そうすれば……。
マビルの……所持品が……。
「ま、待ちなさい」
クレロの掠れた声が耳に届いた。
無視して突き進もうか悩んだけれど、か細い声に胸が痛んで振り返る。
「なんでしょう」
でも、止めても無駄だ。
俺は勇者を辞退する。
「仲間を見捨てるのかね。辛い気持ちは解る、だが」
「俺がいては、足手纏いです」
「そんなことはない。皆、君の実力を認めている」
「買い被り過ぎです。アサギに勇者は役不足かもしれないけれど、俺は力不足ですよ。その資格も実力もありません」
悲痛な溜息があちらこちらで聞こえたけれど、俺は深く頭を下げて歩き出した。
大丈夫だ、アサギがいればこの世界は平和だと思う。
彼女は誰よりも強いのだから。
だからこそ憧れるし、嫉妬するし、恐ろしい。
今は絶対に会いたくない……と思っていたら、目の前に立っていた。
俯いていたから脚しか見えないけれど、この靴はアサギのものだろう。
最悪だ。
「トモハル。鍛冶屋さんでは修復出来なかったので、天界城でお願いしました。多少傷はありますが、使えます」
アサギは普段通りの透き通った声でそう告げ、小走りに駆け寄ってきた。
見れば、一振りの剣を大事そうに抱えている。
それは、俺が所持していた勇者の剣。
アサギの武器と対になっている、神器の一つ。
勇者として異世界に召喚された時、俺が受け取った大事な剣だ。
嬉しかったし、誇らしかった。
この剣に相応しい勇者になろうとした、けれど。
「それは別の人が持つべきだ。そうだ、リョウが良いと思う」
今はもう眩すぎて直視できない剣から、目を逸らした。
お前に扱える代物ではない、そう責められている気もする。
「リョウは、惑星マクディの勇者です。この剣の所持者ではありません。これは、トモハルの」
「俺のじゃない!」
狼狽えることなく淡々と告げるアサギに、苛立った。
感情をコントロール出来なくて、早口で捲し立てる。
「セントガーディアン、だろ。不思議だね、異界なのに英語の意味と同じなんだ。“聖なる守護者”……そんな異名を持つ剣の所持者に、俺が相応しいわけないだろう! 好きな女の子一人護れなかったのにっ」
口にしたら、嗤えてきた。
声が震えてみっともないけれど、怒りで身体中が爆発しそうだ。
「これはトモハルの剣です。貴方以外に、扱える人はいません」
「無理だよ、剣を見ると怖い。もう、剣を扱う自信がない。俺には重すぎる、宝の持ち腐れだ」
「今すぐに戻って、とは言いません。でも、勇者を辞めるとは言わないで。時が来たら、また、力を貸してください。私にも、みんなにも、世界には勇者トモハルがどうしても必要なのです」
……なんだって?
最も優秀なアサギに言われても、説得力がないよ。
最初から、何をするにもアサギが一番だった。
恐らく、それは今後も変わらない。
それなのに、どうしてアサギはそんなことを言うんだ。
「正直さ。……俺、勇者として何か役に立った?」
馬鹿らしくて、へらへらと笑いながら呟く。
尖った瞳のアサギは迫力があるけれど、後には引けない。
「アサギ一人で事足りただろっ! 誰よりも強い、みんなからも信頼されてるっ」
「私では駄目なのですっ!」
「出まかせをっ! アサギだって見ただろう、不甲斐ない俺を。どうしろっていうんだ、勇者なんて大役、無理なんだよっ」
「トモハルが勇者を辞めたら、マビルが哀しみます」
「煩いっ!」
流石に頭にきた。
マビルはもういないのに、哀しむだって?
勝手なことを言うなよ。
思わず、アサギの胸倉を掴んだ。
「俺のほうがマビルと長くいた。あの子のことは、俺が一番良く知ってるっ。いい加減な事言うなっ」
周囲はどよめいたけれど、アサギは涼しい顔をしている。
皆を制すくらいには、余裕があるらしい。
何もかも完璧な優等生で、腹が立つなっ。
「いいえ。トモハルではなく、私です」
「この間会ったばかりだろうっ。いくらアサギでも、そんなはったり許さない」
「いいえ、間違いなく私です」
「なんだよっ」
そんなわけない、マビルのことは俺が一番詳しいんだ。
むしゃくしゃして、思い切りアサギを突き飛ばした。
けれど、彼女は二本の脚で力強く立っている。
ほら、俺とは大違いだ。
彼女こそ、真の勇者だよ。
「貴重な勇者様に手を上げたんだ、俺は反逆者として追放して」
「いい加減にしてっ!」
バシン、と大きな音が響いた。
頬が熱くてジンジンと痺れている。
アサギに殴られたらしい、頭が吹き飛ぶかと思った。
生きているけど。
「じゃあ、こう言ったらいいっ!? マビルを本当に好きだったなら、勇者を辞めないで。勇者を辞めれば、この世界にも来ることが出来なくなる。マビルが産まれて生きていたこの惑星に来たくないということは、あの子の存在を忘れるってことなんだよね!? なかったことにするってことだよねっ!? 護り抜くと誓ったなら、そんなことしないでよっ! 約束したじゃないっ」
感情を剥き出しにするアサギを、初めて見た。
叫んだ後に、泣き出した。
あぁ、こうしてみると、アサギも普通の女の子なんだな。
めちゃくちゃ強いだけで。
「好きだよ。忘れないよ。でも、もう、護れないんだ。だって、マビルは」
号泣しているアサギを見てたら、俺も涙が止まらなくなってしまった。
あんなにも虚勢を張って頑張ったのに、床に座り込んで一緒に泣いた。
マビル。
マビル。
マビルは。
マビルはもう。
「トモハルがマビルをとても大事にしてくれていたことは、解っています。マビルを捜してくれて、ありがとう。傍に居てくれて、ありがとう。でも、トモハルの役目はまだ終わっていないのです」
優しい声色と共に、俺の膝に剣が置かれた。
「トモハルがマビルを愛していた証拠を、私に見せてください」
剣が、重い。
駄目だよアサギ、俺にはこの剣が重すぎるんだ。
「どうか、希望を捨てないで」
耳元でそう囁かれたけれど、希望なんてどこにもないよ。
「マビルのお墓を作りました。不格好かもしれませんが、お花に囲まれてとても綺麗です」
お墓、と聞いたら胃の中のものを全部吐き出すほど嗚咽した。
そう、墓。
マビルはもう死んでいる。
でも、頼むよ。
口にしないでよ。
「私では駄目なのです、トモハルにしか出来ない事が、あるのです。絶対に覚えて」
恨みがましい瞳で睨んだのに、アサギは朗らかに微笑んでいた。
ただ、その声が普段と違うから急に背筋が寒くなる。
「え……?」
身を乗り出して立ち上がると、身体がぐらつく。
倒れそうなところをアサギが支えてくれたけれど、手が氷水のように冷たくて驚いた。
「クレロ様。トモハルは勇者ですが、今後は彼の分も私が動きます。どうか、今は休ませてください。無理強いをしたくないのです」
「うむ、それが良いと思う。休息は必要だ、皆も分かっている」
いやいやいやいや、気持ちは嬉しいけれど、俺はもう剣を振るうことなんて。
「トモハル、みんなに連絡はしておきます。今後の動きも逐一伝えます。……動けると思ったら、また一緒に頑張ろうね」
女の子らしい笑みに引きずられ、頷いた。
こういう時のアサギには、有無を言わせぬ圧がある。
「セントガーディアンは、トモハルを守護する剣。貴方の愛する者を傷つけようとする相手に、致命傷を与えられるモノ」
この時はぎこちなく頷いたけれど、後で聞いた。
俺の剣を使い、アサギがあの魔族にとどめを刺したらしい。
……なら、この剣の所持者はアサギでもいいんじゃ?
一人になりたくて自室に戻ったけれど、余計辛くなってしまった。
俺の部屋には、マビルの荷物が置いてある。
ただ、彼女の香りはしない。
実はどこかに隠れているんじゃ、なんて馬鹿げたことを思いつつ床に転がって四方を見た。
いるわけ、ない。
「アサギも無茶なことを言う……楽にさせてよ。楽になんて、ならないけれど」
暫く寝転がっていたけれど、椅子に捕まって立ち上がった。
机の上に飾ってあるフォトフレームに手を伸ばし、そっと持ち上げる。
勇者のみんなと撮ったものだけれど、これは。
裏板を外すと、マビルと撮ったプリクラが見えた。
飾るのがなんだか恥ずかしくて、ここに隠していたんだ。
スマホでも見ることが出来るけど。
「一人でいると考えちゃうから、勇者としてみんなと行動したほうが楽かもな。部屋に戻ってきたら……そう思ったよ、マビル」
見つめていたら、涙が落ちた。
大切なものだから、慌てて袖で水滴を拭く。
これがどんなものか理解出来ていなかったけれど、プリクラに映るマビルはきちんとポーズをとっていて愛らしい。
天性の素質だろう、自分が見られていることを理解し、魅力を発揮する能力がズバ抜けて高い。
可愛いなぁ。
僅かな間だったけれど、一目見た時から好きだった。
おそらく、ずっと片思い。
もう、どこにも居ないけれど。
俺が殺したも同然だ。
ごめん。
ごめんよ、マビル。
高校生になったらバイトをして、一心不乱に見つめていたブランドバッグをプレゼントしたかった。
それから、車の免許とって遠くへ遊びに行きたい。
マビルに釣り合う衣装を着て、高級レストランにも連れていくよ。
今度こそ、マビルに相応しい振る舞いをしてみせるよ。
だから、大丈夫。
心配そうな顔で、そっぽを向かないで。
必ず、マビルの欲しがるものを俺は手に入れてみせるよ。
だから、一緒にいよう。
俺は努力するから。
ポケットから、ひしゃげた苺のネックレスを取り出す。
持っていてくれて嬉しかった、だから、嬉しくて悔しくて辛くて悲しくて涙がまた溢れた。
乱暴に机の引き出しを開け、奥に突っ込む。
あぁ、もっと高くて綺麗なネックレスをプレゼントしたかったなぁ。
……そうだ。
アサギが、マビルの墓があるって言っていた。
そこへ、行こう。
マビルは、いないけれど。
墓参りなんて、家族でしか行ったことがない。
いつもは母さんが榊を購入し、蝋燭と線香を持っていくっけ。
よく分からないから、庭に咲いていた花を摘んできた。
あたりまえだけど、日本の墓と雰囲気が全然違う。
アサギがやってくれたのかな、色んな花が咲き乱れる庭園のようだった。
うん、明るくて好きだ
でも。
「マビルはもっと色彩豊かな感じだ、だから色んな花を咲かせよう。黄色と桃色は必須だよね、似合うしね。苺も植えたよ、これは桃の木だよ。こっちはローズマリーと言って、悪魔よけの効果があるハーブなんだって。それから、薔薇。上手く咲くかな」
毎日通い、花を増やしていった。
そんな俺を勇者のみんなは不安げに見つめているけれど、止めることはしなかった。
それが逆に、有難い。
うん、無意味なことだと分かっている。
これは罪滅ぼしでもない、ただの自己満足だ。
けれど、そうでもしないと俺の心は潰れてしまう気がして。
「最近はサッカーに打ち込んでいるよ。剣を見ると思い出して辛いから、逃げているだけかも。弱いねぇ、俺」
こんな時、マビルはなんて言うのかな。
返事はないけれど、俺は毎日墓に語り掛けている。
そんな日々が続いていた。
「マビル、今日は『クリスマス』だよ。地球のイベントだけど、きっと好きになると思うよ。みんなが浮足立って、街が華やかになるんだ。サンタの衣装を着たら、似合うだろうな」
お小遣いで、ポインセチアという花を買ってきた。
「この赤いのは葉っぱで、真ん中の小さい黄色いのが花なんだって。面白いね」
マビルっぽくはない気がするけれど、クリスマスに人気の花らしい。
植えたら、パッと明るくなった気がする。
なんだか、温かい炎みたいだ。
「もうすぐ今年が終わるよ、マビル。年が明けたらアサギの誕生日だ。……誕生日はいつだったんだろう、アサギと同じ日なら面白いね」
俺の知らない花が植えられていたから、そっと見つめる。
多分、アサギだ。
ここで会ったことはないけれど、彼女も不定期でここに来ているらしい。
その痕跡が、ここにはある。
その日は、雪が降っていた。
「今日はね、アサギの誕生日だよ。マビルの誕生日かもしれないから、薔薇を買ってみた。……一緒にケーキを食べたかったなぁ」
地球で買ってきた薔薇を置き、溜息を吐く。
「何から話そう。マビルはトランシスを知らないよね? アサギの恋人だったんだけど……。今日、別れた。アサギは、フラれたんだ」
そう。
アサギは自分の誕生日に、恋人であるトランシスにフラれてしまった。
アサギを捨てたトランシスが選んだのは、ガーベラという名の綺麗なお姉さんだ。
二人はアサギの前で、堂々と振舞っていた。
異常なほどの熱愛ぶりだったけれど、呆れたことに、以前から親密な関係だったらしい。
つまり、アサギは二股をかけられていたのだ。
アサギは何も知らなかった。
可哀そうだ。
わざわざ誕生日にフルなんて、どちらが考えたことか知らないけれどあまりにも性格が悪い。
だから俺は、トランシスもガーベラさんも嫌いだ。
アサギがこの日を楽しみにしているのを、二人とも知っていたはずなのに。
「マビルが生きていたら、トランシスに怒りそうだな。でもね、アサギは怒らなかった。笑って、二人を祝福していた。それが、心が痛くなるほど痛々しい」
好きな人と離れるのは、辛いよね。
分かるよ、アサギ。
ただ。
好きな人を亡くし、永遠に逢うことができない俺と。
好きな人は生きているけれど、自分の隣に戻ってこないアサギと。
どちらが辛いんだろう。
俺はね、アサギ。
アサギは俺より幸せだと思うよ。
そして、それをアサギも理解し、受け入れている。
そんな気がする。
不思議なことに、悲しみに沈んでいるけれど、どこか甘んじて受け入れている気もするんだ。
「マビル、アサギはね。……とても強いんだ。見た目に反し、誰よりも強靭な精神力を持っている。泣くこともたまにあるけれど、みんなを不安にさせないようにいつも笑顔を浮かべているよ。すごいよね」
俺はアサギを尊敬しているし、友達だと思っている。
だからこそ、アサギには幸せになって欲しかった。
「でもさ……無理をして強がるアサギに頼るわけにもいかない。俺もそろそろ、剣を握ろうと思う。今まで助けてくれた分、アサギを支えたい」
あぁ、雪が降ってきた。
アサギもマビルも、一緒に泣いているみたいだ。
だから俺も、混ざって泣いた。
何故だろう、アサギは真面目な頑張り屋で、とてもいい子なのに。
納得できないほど、上手くいかない。
どうしてかな。
誰かが幸せになるのを邪魔しているように思えるよ。
それは、地球でも雪が降り積もった寒い日だった。
大雪警報で交通機関が麻痺し、学校も休校。
こんなこと、初めてだ。
いつもなら嬉しいはずなのに、妙な胸騒ぎがする。
だから、隣の家に住んでいるミノルが遊びに来た時は胸を撫で下ろした。
二人でこたつに入り、ミカンを食べた。
外は不気味なくらい静かで、俺たち以外誰もいないみたいだ。
なんとなく落ち着かなくて、「異世界へ行こうか」なんて話をしていたら、急に神に呼ばれた。
余程のことがない限り、神は俺たちを呼ばない。
心臓が跳ね上がり、ものすごく嫌な予感がして顔を見合わせる。
行くのが怖かったけれど、家まで来てくれた友達である勇者たちと異世界へ向かい、神クレロと対峙した。
そこにいたのは、眠っているアサギだった。
数週間前、アサギが行方不明になって。
何処へ行ったのか分からず、みんなで捜していたんだけれど。
見つかったという安堵感など、なかった。
むしろ、恐怖で足が竦んだ。
トビィの腕の中にいるアサギは、死んでいるように眠っている。
そう、死んだように。
クレロ曰く、まだ生きている。
けれど、このままでは死ぬ。
「アサギは、……生きることを放棄している」
そう告げられ、俺たちは何も言えなかった。
仲間たちが何か言い争いをしていたけれど、ほとんど耳に入ってこない。
ただ、不気味なほど耳の奥にこびりついた言葉があった。
「記憶を……消去する?」
聞こえた言葉を、復唱した。
ミノルが俺の手を握り、瞳を滲ませている。
訴えるようなその瞳に、俺は寒気がした。
「勇者及び地球の人間から、異世界に関するこれまでの記憶を消去する。アサギを救うには、その方法しかない」
アサギを救う、唯一の方法。
それが、俺たちの記憶の消すことらしい。
今までの事、全部。
六月、勇者に選ばれて異世界へ飛んだ、あの日から今日まで。
……全部、消えるらしい。
理解が追いつかなくて、俺は微動だ出来ず立っていた。
「つまり、僕たちは選ばれて異世界に召喚された勇者ではなく、ただの地球の小学生に戻る……ということですね? 勇者だった時間を、忘れて」
アサギの幼馴染で、遅れて勇者に選ばれたリョウが言った。
その声は腹が立つほど重くて、まるで俺たちに言い聞かせているようだった。
拒否することは許さない、そんな雰囲気だ。
クレロが、神妙な顔で頷いている。
全部消える。
勇者として剣を授かったことも、みんなで旅をしたことも、魔法を使えるようになったことも、消える。
全部、なかったことにされてしまう。
「オレたちは、二度とアサギ及び勇者たちに会えない。……それで本当にアサギが助かるのなら、構わない」
アサギを抱き締めているトビィが、深く頷いた。
アサギを溺愛しているトビィには、苦渋の決断だったろう。
けれど、彼は躊躇しなかった。
トビィは、いつだってアサギの無事を優先するから。
自分のことなんて、二の次なんだ。
出会った頃は自信家で顔が良くて気障でいけ好かない奴だと思った、でも、面倒見が良くてとても優しい。
俺も、尊敬している。
こんな人になりたいと、そう思っていた。
「いいよ、やろう。それでアサギが助かるのなら」
「悲しいけれど、アサギのためだよね」
ミノルにケンイチ、ダイキも大きく頷いて同意した。
そして、最後の勇者である俺に視線が注がれる。
いくつもの視線が、身体中に刺さっている。
俺が頷くのを、みんなが待っている。
すがるような瞳を一瞥し、俺は。
「俺は嫌だ、絶対に嫌だ!」
そう叫んでいた。
驚いた顔でみんなが俺を見たけれど、逃げるように走り出す。
叫び声を無視して、その場から立ち去った。
当たり前だろ、俺は嫌だ。
記憶を消すだって?
冗談じゃない!
急に頭が冴えてきて、歯を食いしばる。
つまりそれは、マビルに関する記憶も消されるということだ。
絶対に嫌だ。
マビルのことを、忘れたくない!
寂しがり屋で意地っ張り、けれど、酷く怖がりで臆病なマビル。
とても可愛い、女の子。
一緒にいられた時間は僅かだけれど、俺にとっては宝物のような毎日だった。
冗談じゃない、勝手に記憶を操作されてたまるもんかっ。
気づいたら、彼女と初めて会ったビルの隙間に来ていた。
ここで待っていたら、綺麗な服を着たマビルがお腹を空かせて現れる気がして。
何度も足を運んだっけ。
でも、ここで待っていてもマビルは来ない。
何故ならば、死んでしまったから。
悔しくて涙が出た。
辛い記憶は忘れさせて欲しい、という人もいるけれど、俺は違う。
寂しがり屋のマビルは、きっと忘れられたら悲しむから。
俺は、絶対忘れないよ。
悲しまなくても大丈夫だからね、俺は覚えてるから。
だから俺は、断固として拒否をする。
アサギは大事だ、友達だ。
でも俺は、アサギよりもマビルが大事だ。
アサギを救いたいが為に、代わる代わる誰かが説得にやって来た。
でも、俺は首を横に振り続けた。
アサギに片思いをしているミノルは、辛そうに俺を見つめている。
親友の苦悩は分かっていたけれど、これだけは譲れない。
俺はマビルを忘れたくない、そのためにアサギを犠牲にしても。
とても傲慢で身勝手な勇者だ。
だからあの日、勇者を辞退したのに。
「……想いが強ければ、私の魔力を打ち破り記憶が戻る可能性もある」
記憶消去を拒み続ける俺に、ついに神クレロがそう言いに来た。
断固として首を縦に振らない俺に、クレロが頭を下げたのだ。
神も必死だ、アサギは神の愛児なのだから、当然か。
「どうか、了承して欲しい。この通りだ」
「無理やり記憶を消せばいいのに、律儀な神様だね。それくらい出来るんでしょ?」
呆れてそう言ったら、悲しそうに微笑んだ。
「大事な勇者の意見を無視するわけにはいかないだろう。それに、トモハルがマビルへ抱く尊い想いを、無碍に出来ない」
神クレロは頼りないし、弱いし、全然神らしくないけれど、最大の欠点はこの甘さだと思う。
どうしてこの男が神なんて呼ばれているんだろう、未だに謎だ。
俺の記憶は消えてしまうから、永遠に謎のままだろう。
ちょっと、ムカつくな。
「……あの。みんなと撮った写真やプリクラも、消える?」
「ぷりくら、とは小さな写真のようなものだったな?」
「そう、それ」
「消える、すまない。記憶を呼び起こす可能性がある代物は、全て消させてもらう」
「そうか……」
本当に全部消えてしまうんだ、過去がなかったことになってしまうんだ。
勇者として頑張ってきたのに、こんなのってないよ。
俯いていたら、クレロが優しく声をかけてきた。
「もしくは、こちらの世界で預かることも出来る」
預かる?
顔を上げると、悲しそうな瞳と目が合った。
触れることも見ることも出来ないけれど、思い出の品は消えない。
どちらか選べと言われたら、迷わず預けることを選ぶよ。
けれど、俺は望みを賭けた。
「再確認してもいい? ……俺の想いが強ければ、マビルのことを思い出すことが出来る?」
神の力を打ち破ることが出来た、その時は。
俺が勇者だったことを誇ってもいいのかもしれない。
「あぁ。手元に品がなくても、その想いが強ければ思い出せる」
「……そんなことを言っていいの? 記憶を消すことが目的なのに、あべこべじゃん」
「記憶は消すとも。だがその先は、君たち勇者に委ねるよ。人間が起こす奇跡、それは存在すると私は思っている」
笑えるほど神様っぽいクレロに、俺は大きく頷いた。
俺の想いが強ければ、か。
……やってやろうじゃないか、思い出してみせるよ。
大丈夫だ、自分を信じよう。
俺はマビルのことが大好きだ、だから神の力なんて跳ね返してみせる。
星空を見上げ、ついに俺は決心した。