西南の主
首都から北に25km、東に1kmのところに彼の家はある。彼の父親は16年前に起こった『大量毒殺事件』の犯人だった。それが分かったのはつい最近のことだったが、聞かされた時には彼はただ何となく「そっか」とだけ言った。彼自身も何も思わなかったのだろう。父親は母親と彼に謝っていた。額を床にこすりつけ謝罪を口にした。もう40半ばにもなる男が謝る姿に彼は母親に同情した。これからおくることになるだろうと想像はしていたが、どこかで自分は関係ないのだと言い聞かせていた。
父親は依然として出頭することはなかった。今まで通りの何一つ変わらない生活。拍子抜けだったと言えばそうかもしれない。彼の父親が出頭すれば残された彼と母親は非難を浴びる生活にある。立場なんてものはない。人間は憎悪に便乗する生き物なのだ。
学校に行くと、何となく教室が違って見えた。
きっと休日に父のことを聞いたからだろう。俺の視界はいつの間にか水の中になっていた。とても息苦しい。俺は教室から飛び出した。それでも水の中に変わりはない。俺は走って走って走り続けた。驚き声を上げる学生を無視してトイレに入った。窓を開ける。水は外に流れて行くことはない。大きく口を開けた。思い切り深呼吸した。水を何度も吐き出して、気泡を何度も吸い込んだ。
「何をしているの?」
振り向くと一人の女性が立っていた。髪が短かったがすごく触り心地が良さそうだった。少しの間見惚れていると自分がちゃんと男子トイレにいるかどうかが疑わしくなった。眉根を寄せた俺に女性はおかしそうに笑う。俺は肝心なことを忘れていた。
「酸素を求めているんだ」
どうやら俺の魂は美味いらしい。
女性は優しそうに微笑んだ。恐怖で足がすくんだ。昔、誰かに言われたのだ。その時に対処法も教えてもらったのだがこれがどうも思い出せない。焦って近くの個室に入り込む。鍵を閉める手がとてつもなく震えていた。扉にもたれて小さく息を吐いた。気泡が口から出て行く。息をつくのもほどほどに俺は頭をフル回転させ、言われたことを思い出そうとした。扉の向こう側で少女は「お腹が空いたの」と繰り返していた。強く目をつぶりやり過ごそう。
「おーい、坂神! 大丈夫か?」
俺の名を呼ぶ声が聞こえた。鍵を開け、少女ごと押すように扉を開けた。深く息をつきながら「気分が悪いので帰ります」、素っ気なくその場で言い残した。背後で担任が声かけてくるのを感じながら、少女から飛び出すようにトイレから出て行った。
恐怖体験後の足取りは重い。足を引きずりにして帰路につく。家には誰もいなかった。静かな家の中は少し不気味だった。リビングの固定電話が緑く光っている。留守番メッセージが入っている。その時の俺は何も考えていなかった。ボタンに手を伸ばし、鞄が肩にかけたまま押した。それは俺にとって範囲外のことだった。このメッセージは批判の声だった。「何故、自首しないのか」と。その時、景色の色が無くなった。色という色が消え失せ、白と黒さえもなくなった。肩から鞄がすべり落ちたが、ただ俺は茫然と立ち尽くすしかなかった。音も遠くなる。立つことが出来なくなり、くずれ落ちるように座り込んだ。
それからどれくらいの時が経ったのだろう。時計の短い針は12を指していた。それでも誰もいない。いすもなら父がお風呂に入っている時間だ。母は上がってくる父を待っている。でも、電気は付いていない。砂糖たっぷりのコーヒーのにおいもしない。
ああ、俺は。
「捨てられたんだ」
声に出して初めて、自分は寂しかったのだと気付いた。
坂神月忌は学校を辞めた。誰もいなくなった家は売り払い、あるだけのお金を持って町を出た。電車に乗り、一人揺られてどこかへ向かった。昔の朧気な記憶を頼りに南へ行く。何回も乗り継ぎ、次第に人が減ってくる。終点では電車の中には自分しかいなかった。終点で降りていく月忌に車掌は不躾に彼をみつめた。悪寒を感じたのは言うまでもないが、それを口にするほどの勇気なんてものはない。
駅は森の中にあった。誰かが植えたのか行儀よく立ち並ぶ姿に月忌は茫然とそれらを見上げた。途端に自分がちっぽけな姿に見えて安堵の域を吐いた。そう、彼とは地球上生物の一部に過ぎないのだ。
胸の奥にしまっておいた記憶を呼び起こし、目的地を目指す。森を抜けると辺りに畑が広がっていた。手入れが行き届いた素敵な畑であった。水を浴びた植物が太陽の光を反射して存在している。すると、畑の中央に立つ家の窓に人影が見えた。怪しんでいるのかじっと月忌を見つめている。月忌は冷や汗を垂らし、窓を見ていた。やがて人影が窓から離れると同時に家の扉が開き、一人の女性が出てきた。
「こんな田舎にどうしたの?」
優しさを添えた笑顔だった。
見る限り20代くらいの若い女性のようだった。月忌はここに来た理由を述べることなく、記憶の中の名前を告げた。
「ツクヨという人を知りませんか?」
緊張した声が出たのがよくわかる。女性は聞いたことがあったのか顔をしかめた後、口に手を当て「それはうちのファミリーネームよ」と言った。瞬時に女性がした表情の意を知り、絶望した。ファミリーネームの中から記憶の中の人を特定するのは難しい。落ち込んでいると女性はこう提案する。
「親戚の中に心当たりないか探してみるから、とりあえずあがってください」
笑顔の絶えない女性だった。なぜか安心する心に疑問を持ちながらも家に入ることにした。木造建築の空気の澄んだ家だ。あの家とは比べ物にならないどんよりとした空気とは天と地の差のほど光のような場所だ。
女性に促され、椅子に腰かけると「どんな人かわかる?」と尋ねられた。
「無口で親切な男性だったのを覚えています…。今はもう30半ばをだと…」
「当時の見た目は覚えてる?」
「確か、藍色の髪を持ち、白銀の瞳でした。洋服と中華服の中間のような服装で…」
続ける月忌に女性は考え込んでいた。
「わかりました?」
「多分ね。あなたの言っている人は多分、私の旦那よ。今は出掛けているけど…、それまで家でゆっくりしなさい」
申し訳ないと思いながらも嬉しいことだった。記憶の中の人を見つけ、そこに滞在することができる・家を売ったのはいいものの、その後のことをまったく考えていなかった。自由に使っていいと部屋に案内され、荷物を置かせてもらう。部屋を物色するかのように見回していると添えられている窓の外が気になった。その窓がなぜか自分を違う世界へと案内してくれるような気がして。怯えて暮らさないといけない日々とはかけ離れたこの地に自分を受け入れてくれる世界があるはずだと信じて疑わなかった。
父親のこともあり、なるべく他人と関わらないように学校ではひっそり息をした。寄り道をすることなくまっすぐ家に帰った夕方。それから変人扱いを受けれるようになったのは今でも忘れることなんてできない。忘れろというほうが無理なのだ。
出窓の形態をしている場所に手を置いた。換気のために開けていると思われる窓は新しい世界への扉としか思えない。顔を出すように窓から乗り出した。見えた光景は、誰かが望んだ世界だった。歓喜した。彼は生きているのだと、小さな小さな生き物に過ぎないのだと。頬を伝うは生きたいと願う少年の気持ち。
呆然と外の景色を眺めていると1階で話し声が聞こえた。それは先程の女性ともう一つ別の声だった。気になって階段の近くまで歩いていく。盗み聞きをしているという事実に後ろめたさを感じながらも自分が来たことに対してどういう感情を抱いたのか、気になった。
「お父さんが帰ってくるまであの人、家に泊まらせるの?」
「ラントに用があるって言ってるんだからそれしかないでしょ。見る限り、単純にラントに会いたいみたいだし。そんなに警戒することはないと思うよ」
「どうして? お母さん、人間には注意しろって言ってたでしょ」
「そうね、人間には注意しないといけない。けれどもしその人間は別に悪い人でなくて、困っていてもセティは見捨てる?」
声からして少女だろうか。女性の質問に黙ってしまった。月忌は女性は子供がいて今会話している相手が娘なのだろうと推測した。そんなことよりも、月忌は少女の答えに興味を持った。彼女はどんなことを言うのだろう。憎むべき相手は見捨てるのだろうか、それとも道徳の上で助けるのだろうか。
「わたしは…、そんなに人間と接したことないけどお父さんやお母さんを見ていると人間は愚かだと思うわ」
月忌は音を立てずに階段を一段いちだん、踏みしめて降りていく。少女の答えにまったくその通りだと賛同した。二人は台所だと思われる場所におり、生憎階段が見えない造りとなっている。月忌はそっと様子を伺った。女性は笑っていた。少女の答えにただ静かに笑顔であった。月忌は女性に恐怖を覚えた後、魅せられた。娘の答えに母親は何を思うのか。話を続けようとした女性と目が合った気がした。
「お母さんは"人間"という種族を愚かだと思うよ、けど」
女性は少女の顔を掌で包み込んだ。
「それはあなたの目で確かめなさい。あなたが見たこと、聞いたこと、感じたこと、それがあなたの価値観よ」
月忌は驚愕し、足を踏み外した。別に階段を下りていたからではない。女性の言った、自分の母親とはまったく違った考え方。子供を大切にする母親の気持ち。いつも遠いところから眺めていた世界に触れた気がして、悲しくて視界が歪む。
眉をしかめるような音が聞こえ、二人は階段へと現れた。そこには涙を流す彼がいた。
告白するは彼の過去。月忌は二人に援護され、用意された部屋のベッドで嗚咽を漏らした。「情けない」そんな一言をずっと繰り返す。彼が過去を話しているとセティは驚いたのか目を見開いていた。女性だけは何の反応を示すことなく静かに耳を傾ける。
「俺は生きたかった、日の光が差す土地で。だから子供の記憶を頼りにここまで来たんです」
話し終えるころには涙が消えた。少女が手を握ってくれたからか。ずっと手に力が籠っており、安心を与えてくれる。
「ラントが人間と関わっているなんて思いもしなかった…」
途中でそんなことを言ったときは首を傾げたものだ。
女性はカルディナと言った。少女はセティと言った。自己紹介をすっかり忘れていたとカルディナが苦笑しながら住んでいる土地のこと、家族のことを説明してくれた。話を聞いていると憧れを抱いた。カルディナも旦那であるラントもお互い実家を出てこの土地にやってきたらしい。最近、駅ができたということも教えてくれた。そして、電車がなかったらどうやって来たの? と月忌に尋ねていた。
「あなたが気が済むまで居てくれて構わないから、過去のことを話してくれてありがとう」
カルディナが夕飯を作りに行くと1階に降りていくと、セティと二人きりになった。セティは相変わらず手を放してくれなかった。彼が恥ずかしがっていることに気付かないのか手を放す気配がない。おずおずと手、と言うと「放すと心配」と悲しそうにうつむいた。
「自分でも思うけど、わたしって幸せな両親に生まれたのかなって。お母さんもお父さんも生まれが普通ではないから、考え方がすごく大人というか、差別をまったく気にしないんだよ。だからかな、お父さんがあなたに声を掛けたのは」
よく伝わってなかったみたいだけど、なんて笑っている姿に月忌は素直に「羨ましい」と言った。するとセティはきょろきょろと見渡した後、口に人差し指を持ってくる。でもね、という耳打ちは月忌を架空世界に引っ張り込んだ。少女の声が一層、不思議なものを連想させる。
「お母さんはお父さんが大好きなんだよ」
へへっと照れ笑いを浮かべるセティがかわいかった。きっと彼女も両親が大好きなんだろう。そうやって二人で手を繋いでいると空腹を促す臭いが鼻を刺激する。部屋の入り口を振り返る月忌にセティは夕飯がもう少しで出来るのだと教える。
「いい匂いがしてくるとね、ご飯が出来上がるの。で、それを待っていたかのようにお腹が…」
空腹を知らせる音が重なって聞こえる。目を見開き、見つめ合ったあと声を出して笑った。下に降りるとカルディナが夕食を並べて待っていた。
「月忌はたくさん食べそうね」
渡されたご飯はよだれが垂れるほど白くておいしそうだった。食べていると思わず笑顔になる。カルディナはおかわりと月忌が言うまで、おいしそうに食べる月忌を眺めていた。
三人の夕食が終わろうとした頃、カルディナが目ざとく反応した。セティに月忌を連れて隠れるように言うと家中の窓を閉める。カルディナが窓を閉めているときに見た風景はどんよりとした薄暗い鉛色の空だった。
不安と心配の波が同時に押し寄せ、玄関に向かうカルディナ手が伸びる。引っ張られて驚いたのか一瞬、目を見開いた女性は安心をくれた。先程までと何一つ変わらない笑顔。大丈夫と告げる、母親の掌。
カルディナは彼と娘を残して家から出て行った。
カルディナが出て行ってから一気に風が吹き荒れた。二人で奥の部屋に隠れていると玄関の扉が開いた気がした。二人で顔を見合せたとき、セティがひどく怯えていることに気が付いた。自分があの頃、怯えていた理由とはまったく違うけれど、どうしても重なってしまう彼女に月忌は抱きしめた。あの頃の自分を守るように、「大丈夫」と笑ってみせた。そう、あの人が死ぬなんてことは絶対に有り得ない。根拠のない自身が彼女に届いたのか、セティはぎゅっと月忌を抱きしめた。
音が段々存在を示す。最悪の場合を考えないといけないのか、と不安になるが怯えているセティに伝わってはいけない。彼だけでも気をしっかりしていないと闇に飲み込まれそうだった。音は奥の部屋の小さな扉の前で止まった。何か言っているのが聞こえている。眉をよせ、耳を澄ませて聞いていると彼女の名前を呼んでいる気がした。
「セティ」
セティにも聞こえたのか、隣の彼女は弾かれたように顔を上げた。
「お父さん?」
月忌の手を握り締め、扉に駆け寄る。扉の向こうの父親が手を添えるのがわかった。
「大丈夫か」
「うん、お父さんは? お母さんが出て行ったきり、帰って来ないの」
カルディナが出て行って小一時間は経っていた。流石に月忌も心配になってきたが、だからといって部屋から出るわけにはいかない。大人しく時が経つのを待っていたのだ。扉の向こうには幼い頃出会った男性がいるのだと思った。息を呑み、二人のやり取りを見守っていると男性は言った。
「そこの窓から外を見ろ。フラムもな」
"フラム"
昔、ツクヨと名乗った男性が付けてくれた月忌の名前。輝き、という意味を持つ新しい居場所。月忌はこの人が幼い頃出会った男性だと確信を持ち、隣で泣きそうなセティの手を引っ張り窓を開けた。絡みつくような空気と包み込むような空気が部屋に流れ込んできた。飛ばされないように踏ん張りながらセティを抱き寄せた。窓の外ではカルディナと、あの日、月忌の前に現れた女性が対峙していてた。月忌は恐怖した。けれど、目を背けるわけにはいかない。
「まさか貴女が人間を守るなんて誰も思わなかったことだわ」
「うるさい! あの子はもう家の子よ」
カルディナが言い放つと愉快そうに彼女は笑った。
「家の子ねぇ…。相変わらず変人のようだこと。とにかく、あの子はわたくしの食糧なのよ!!」
二人の力がぶつかり弾けた。目を開けることの出来ない光が辺りを照らした。カルディナが押されているかのように見えたがカルディナは至って平気そうな顔をしていた。まるで自分が勝つことがわかっているかのように。
「私は母親よ」
凛々しい表情が幼さを垣間見せた。きっと昔も変わらず、ああいう人であったのだろう。人を笑顔にする優しさを備えていたのだろう。
セティの母親にして、フラムの養母。
幸せを描いたちっぽけな少年の幸せを神は知っていたのだろう。そうやってカルディナは彼を受け入れることを当たり前だと願った。西南の主の住む、西南の森。夫――ラントと妻――カルディナ、娘のセティに娘婿のフラム。
「昔セティと出会ったとき、彼女は俺に不思議な世界を見せてくれた。それは彼女が見た架空の世界のような現実だったんだ。セティは母親が様々な種族のたくさんの人たちに祝福され結婚したのだと言った。それが西南の主の不思議な力だったんだ」
耳打ちが見せてくれた架空世界。
愛する人と幸せになることを願った女性と、家族との幸せを描いた少年はきっと同じ世界を見ていたのだろう。
『幸せのフラム』
SF=幸せのフラム(輝き)
あなたのSFコンテストに応募した作品です。フラムはフランス語になります。