オモイオモワレ
――あなたは、あたし。
まどろみの中で、あたしは揺れる。
思い切って短くした頭だけど、長髪の時が長過ぎて、首元がひどく物寂しい。
全身は鉛がついたように重くて、セピア色の中、深紅に染まったシーツが、まるで心の傷から溢れた血のようで。
あたしは、かすれた声で小さく笑った。
「いつまで、ここにいるの?」
ベッドに横たわるあたしに、腰まで伸ばした黒髪をさらりとかぶせながら、彼女が無表情で聞いてくる。
身を起こす事なく、あたしは薄く目をあけた。
「ねえ、もう起きたら?」
うん、でももう少しだけ……
そう口を開いたつもりが、あたしの身体は少しも動かせないでいる。
こうしてても、仕方がないのは分かってる。でも、あと少しだけ……
「こんな事してても、あいつは戻って来ないのよ」
そんな事、知ってるわ。
「万が一、やっぱりお前が一番なんだ。って戻ってきたとしても、絶対に、また繰り返されるわよ?」
――知って、いるけど。
あたしの中で揺らぐ何かが、心の中から追い出しきれない彼への愛情なのか、ただ悔しいだけなのか。判別がつかない。
またうとうとと、まどろみの奥へと落ちていく。
目が覚めても、夢の中でも、決して救いの手がどこにもないのは分かってる。
「ねえ、ここにいたって意味がない事くらい、分かっているんでしょ? 何の為に、髪の毛を切ったのよ」
黒髪の少女が、ベッドにうつぶせになり、頬杖をついている。
呆れた声。咎めるように、諭すように単調な声が、あたしの脳を打つ。
苦しくて。でも、息をするのも億劫で。
あたしは、あえぐように声を絞り出した。
「自分の、為よ。重い……重たい枷を、外したかったの」
「そうよ、そのはずでしょ? なのに、どうしてこんな所で沈んでいるのよ。おかしいじゃない」
綺麗な臙脂の着物が着崩れるのも厭わず、彼女は疲れたように、あたしのベッドに転がって、至近距離であたしを睨む。
あたしは、以前にも増して重く感じる頭を上げる事も出来ない。
「もう少しって、いつまでなの?」
髪の毛を短くした違和感が、彼を思い出すきっかけになってしまっている。
あたしを好きだと、言ってくれた。
あたしを大切だと、言ってくれた。
あたしが家にいてくれるから、帰ってくるのが楽しみなんだって……
目を閉じても、さらに手で覆っても、彼の声、彼の温もり、彼の笑顔が浮かんでくる。
「忘れなよ」
そう出来れば、どんなにいいか。
彼があたしに向けた、あの目が忘れられない。
知らない女と腕を組んだまま、嫌なモノを追い払うように手を振って、
『お前はもう、いらねーんだよ』
九月の夕涼みには、一緒に浴衣を着て遊びに行こうねって言ってくれたのは、あなたでしょう?
渋るあたしに、赤い浴衣を買ってくれたのは、あなたじゃない。
あたしは、夕暮れに染まる部屋でセピア色に包まれながら、身体を丸くする。
「あいつがまた来たらさ、あたしが追い払ってあげるから」
――それは、ダメ。でも、ダメじゃない。
彼の顔なんて見たくもない。でも……会いたい。
「絶対にあなたを裏切らないのは、あたしだけ。でしょう?」
分かってる、分かってるの。
頭が重い。頭が痛い。
眠たいの、すごく。落ち着くまで、眠らせて。
「いいよ。あたしは、ここにずっといるから」
夕闇が、シーツを赤から黒へと染めていく。
目に映る色は、儚く沈む。
身を震わせれば、彼女が手を握りしめてきた。
あたしはその手を握り返す事は出来ないけど、確かな現実を感じながら、目を閉じた。
いつかきっと、忘れられる日がくるのだろう。
笑い飛ばせる日は、きっとくる。
どうしたらいいなんて分からないし、今は何も考えられない。
深みにはまるように、あたしは暗い底に沈んで眠る。
「大丈夫。『あたし』が代わってあげるから」
あの子は、何も聞こえない場所まで沈んだ。あたしはゆっくりとベッドから身体を起こす。
短くなった髪に手をやって、あたしは暗くなった部屋で立ち上がった。
「長い髪の方が、あたしには似合うのに」
着崩れた赤い浴衣を直そうとして、手を止めた。
調子の良い事ばかり言っては、寄生虫のようにあの子の金をあてにしていた男。
気持ちが悪くなって、赤い浴衣を無造作に床に落とす。
キャミソールとホットパンツに着替えて、安堵した。
暗くなった部屋に、明かりをともす。
男がねだってはあの子の金で買った物が、散乱している部屋。
窓を開ければ、昼間の残暑を洗い流すように涼しい風が、頬をなでる。
床に落ちたままの浴衣を拾って、ゴミ箱に放り込んだ。
明かりを確認してなのか、呼び鈴がせわしなく押される。
あたしは返事もせずに覗き穴から外を窺い、そのままチェーンをかけた。
あの子の愛しい愛しい彼。
『昨日は悪かったよ。あの女はただの友達だし、冗談で言っただけだろ?』
「消えて。あんたはもう、いらないの」
あたしの声に、あいつは扉をひどく蹴りつけた。
『はあ!? ふざけてんじゃねーぞ!』
「あたしは真剣よ」
扉一枚へだてて、吹き荒れる嵐のように騒ぎたてているあいつ。
どうしてこんな奴を、あの子は好きなのだろう。
どうしてこんな奴が――
あたしの心に、黒い炎が宿った。それは瞬く間にあたしの全身を支配して、激しい怒りとなってあたしから噴き出しかける。
思うがままに鍵を開け、刃を振り下ろせば気持ちは晴れそうなほどに。
あの子は、この状況を見てはいないし。聞いてもいない。
ならば、あんな奴がどうなっても構わないではないか。
「そう、全部あなたの為なのよ?」
それでも、あたしは怒りに身を震わせたまま動けない。
扉は目の前にあるし、包丁はすぐそこにあるのに。
あたしがした事は、あの子の罪にもなる。それが分かっているせいで、動けない。
「あなたを助けたいのよ。でも、あたしのせいであなたが犯罪者になるなんて……」
扉越しに、しきりに喚いている男の声が一層怒りをあおりたてる。
でも動けないのは。傷つきやすく、純粋に人を信じられるあの子の為。
あたしは歯噛みした。手をのばせば届く距離にあいつがいるのに。
寒々しい蛍光灯の白い光すらも、腹立たしい。
出来る事は一つだけ。あたしは、怒りをそのまま声にして叫んだ。
「ここはあたしの名義で、あたしの金で住んでるわ! 二度とあたしの前に姿を見せないで。ストーカーと詐欺で、警察に通報するから!」
何度も扉を蹴り、悪態を吐きながらも、あいつは消えた。
ただそれだけのくだらない男。取るに足らない奴なのに、あの子は愛していたのだ。
自分の胸に、手をあてる。
「傷つける奴は、あたしが絶対に許さないから。ちゃんと傷を癒して」
――あたしは、あなた。
いつの日か、あたしが消える時がくるのかもしれない。
でも今は、ここにいる。あいつに繋がる物は、全て捨てよう。あの子が傷つかないように。
そして、怒りも悲しみもすべて放り出して、心の奥にあるセピア色の部屋の中で、あたしたちはまどろむのだ。
身体を寄せ、お互いを助け合うように、頼るように手を繋いで。
読んでいただきまして、ありがとうございます。
私が書いた物で、明るい作品が多い中、少し暗めな物となってしまいました。
イラスト小説での参加作品です。
一つのイラストに、たくさんの方が小説をつけております。
よろしければ、そちらもどうぞ楽しんでいただけたらと思います。