深海キャンディ
みーんみーんと絶えず蝉の鳴き声が聞こえる八月九日、午後一時。あの小さな体からよくもまぁそんな耳障りな声が出せること。朝から晩まで休まず全力でみんみん鳴いてたら、そりゃ蝉じゃなくとも人間だって一週間で息絶えるだろう。
そんなことをボーっと考えながら、特に遊ぶ予定もない私は一人リビングのソファーに膝を丸めて座っていた。片手に溶けかけた棒アイスを持ち、リアルタイムで行われている甲子園中継を見る。どこの県かも分からない高校の野球部。真っ白なユニフォームが泥や汗で汚れている。九回裏、もう終盤だ。それでも同点に持っていこうと必死でプレーする負けチームの姿を見ると思わず「いいな」と呟いてしまった。
彼らの最後を飾る姿に、まだ高校二年生の私でも一年後に迫る卒業というものを意識してしまったのだ。
「暑、い」
扇風機を全力で回しているというのにこの暑さは何だろう。熱がまとわりついて体が重い。こんな日は何もしたくない。
ふと側に置いた携帯電話に視線を落とすがメールも電話も一向に鳴る様子がない。夏休み、なんてこんなものか。どうせあとに残るのは溜まった宿題の山なんだ。
携帯の画面を開き、何気なくアドレス帳を追っていく。ある名前のところでピタリと止まった。
「謙太……」
好きな人か友達かと問われたら迷わず前者だと答えるだろう。ディスプレイに表示されたその名前をじっと見ていると何だかすごく会いたくなってきた。
去年の夏、クラスのみんなで海に行った時のことをふと思い出す。あの時謙太は、やるよと言って私にキャンディをひとつくれたんだっけ。甘くてすっぱい、レモンのキャンディだった。あれからもう一年か。しみじみ思い出したあと、一年経っても気持ちひとつ伝えることのできないヘタレな自分に嫌気がさした。
「あ、」
テレビ画面から聞こえる試合終了の合図。低いサイレンが唸り声を上げた。負けた野球部の泣き崩れる姿を見て全く関係ない私まで泣きそうになる。結果は負けでも精一杯頑張った彼らを笑う人は誰もいないのだ。
私も頑張ってみようかな、もしかしたらうまくいくかもしれない。一年も温め続けたこの気持ちを謙太に伝えてみようかな。そう思った時テレビの音に混じり、単調でちゃらけた音楽が聞こえた。それが自分の携帯の着信だと気付くのに数秒かかった。
もしもし、と至極事務的に出れば電話の相手はしばらく何も言わずに黙っている。(無言電話?気持ち悪)
切ろうとしたその時、受話器の向こうから弱々しい声が聞こえた。高一の時から同じクラスであるありさだ。いつもの彼女とは違い元気がなかった。
「ありさ、どうかした?」
相変わらず無言。電話の向こうで携帯をぎゅっと握りしめているありさの姿を想像してゴクリと生唾を飲み込んだ。右手に持った棒アイスが溶け、手の甲をゆっくり流れた。嫌な予感、とは当たるものらしい。何の変化もない、いつもと変わらず平凡な1日になるはずだった。
電話の向こうのありさが音もなく深呼吸するのが分かる。そして彼女は言ったのだ。わたし、謙太と、付き合うことになったの、と。そしてそのあと「黙っててごめん」の一言。
え、と声を漏らしたものの私はそれ以上何も言えなかった。祝福の言葉はもちろん、私の気持ちを知っていてそんな告白をする彼女を責める言葉さえ浮かんでこない。ただただテレビ画面いっぱいに広がる負けたキャプテンの泣き顔を自分に重ねて見ていた。
受話器越しに、ごめんなさいと何度も何度も謝るありさ。それをしばらく聞いてやっと出た私の言葉は「あぁ、うん」という情けないものだった。
「ごめんね、ごめん……」
「……もう、いいから」
気付けば通話終了ボタンを押していた。感情のない機械音だけが耳に残る。溶けてしまったアイスがぽたりぽたりと滴り落ちた。扇風機の回る音、蝉の声、テレビの音、それら全てが混ざり合い、気持ちが悪くて仕方ない。
だってどうもできない、恋は早い者勝ちじゃないのだから。ありさと謙太は好き合っていて、それをとやかく言う権利は誰にもないのだ。だから、私も悪くない。自分の気持ちを隠しいつまでももたもたしていたことだって誰にも責められるつもりは毛頭ない。そう、誰も悪くないの。そうして全部なかったことになればいい。嗚呼だけど、思い出すのはレモン味のキャンディと、彼の笑顔ばかり。
深海キャンディ
(鉛をつけて投げ捨てた)
この恋心よ、もう上がってこないで――




