公爵令嬢 華麗なる舞台の前日譚
私は毎日綴っていた日記を今日を最後に筆をおくことに決めた。
何故なら今日、私はただのリアトリスからロベリア・リアトリス・アフェランドラという名前になるからだ。
昨日までのリアトリスは死にロベリア・リアトリス・アフェランドラが生まれた日。
リアトリスに関する全ての記録は破棄され、私に残るのは自分ただ一つだけとされた。
別にそれを悲しむほどの自己憐憫も無機物に対する執着も持ち合わせてはいない。
そういうものなのだと納得し、部屋へやってきた修道女に私物をすべて渡した。
代わりに受け取ったのは修道院では決してありえない手触りの良い生地を使った豪華な服と靴。
それらを質素な寝台に置き、隠してある日記を取り出した。
日記には鍵がついていなかったので自分で燃やすことにした。
誰にも見られることもなく、手の中でひっそりと静かに燃えゆく灰となった残骸を見下ろす。
今、この胸に去来するのは未来への夢や希望などではない。
権力と野望。ただそれだけである。
ここは厳粛という言葉が似合う戒律の厳しいランタナ大修道院である。
気が付いたときにはここで生活していた。
質素堅実な修道院ではあらゆることを全て自分たちでこなしていかなくてはならないのに、なぜか自分には世話役としての修道女が二人もついていた。
肉体労働を免除されている。手が荒れなくてもいい。何をしなくても食事が出てくる。なんて羨ましい生活。リアトリスだけ狡い。
同じ修道女見習いたちが陰でそう言っていることを知っている。
確かにそうだ。恵まれている。だが彼女たちは実情を詳しく知らない。だから軽々しくそんなことが言えるのだろう。
私には毎日違う修道士や修道女が代わる代わる教育を施していく。
月の日は史学。火の日は行儀作法。水の日は武学。木の日は語学。金の日は雅楽。土の日は帝王学。安息日には魔法学。
毎日課題課題。彼女たちのように安息日に限られた時間だけ街へ出ることも許されていない。
自由はない。
幼い頃から繰り終えされる日常に不満はない。ただ疑問は常々あった。
なぜ私は他の者と違う扱いをされているのだろ。ただの修道女見習いには行き過ぎた教育だということは早々に気が付いていた。
だが大人しく粛々と従う。反抗した態度をとっても何も得るものがないからだ。
大人しい子供扱いやすい子供。優等生を演じていれば、大人はとても扱いやすい。その裏で彼ら彼女らに見つからないように動けばいいだけの話だ。
なぁーん
黙々と古びた机に向かい課題をこなしていると甘えるような鳴き声が足元から聞こえた。
顔を上げれば机の上に薄墨色の毛むくじゃらが軽やかな動作で飛び乗ってきた。
この大修道院には何匹か猫が住み着いていてこれもその一つと認識されている。
その辺をうろうろしている他の畜生だったならばこんな不敬は許さない。そもそも普通の獣は私を恐れて近寄ってこない。
ゴロゴロと喉を鳴らすので撫でてやればその瞳が怪しく輝くと同時に脳裏にあらゆる情報が吸収されていく。
その情報の中に興味深いものを見つけて口角が上がる。
「よくやった」
嬉しそうに手にまとわりつく猫に魔力を与え自分の影に仕舞う。
魔法で創り上げた獣を情報収集に使役するのはかなり便利である。
猫以外にも鳥・鼠・蝙蝠などがいて、修道院に軟禁状態であってもあらゆる情報を手に入れることができる。
特に猫は他の猫と混じって堂々と修道院内のあらゆる処に入込む事ができる。
厳重な結界の張られた禁域を除きこの修道院内でリアトリスに知らないことはない。だが修道士や修道女たちの秘め事や修道院が隠したい薄暗い事情などどうでもいい。
求めている情報は別にある。
その手がかりを見つけた。
修道院の夜は早い。
殆どの人間が穏やかな夜の帳に身を任せている中、静かに動き出す。
夜目の利く梟を肩に乗せ鼠たちに斥候を任せれば見回りの人間に出会わず悠々と目的地に着いた。
院長室の扉に鍵はかかっていないが、目的の引き出しには鍵がかかっていた。それはわかっていたことなので事前に鼠たちが院長の私室から拝借した鍵を錠前に差し込む。
「リアトリス」
難なく目的を遂げようとしていたのにひんやりとした声に邪魔された。
そこには中世的な容貌の男がうすっぺらな微笑みを張り付けて立っている。
その後ろに従えている静寂の闇に潜みこちらを見つめるしなやかな蛇を見つけた鼠たちは慌てて影へと戻ってきた。
この男がここにいるということは斥候に出した鼠が気づかないうちに何匹か食われたのだ。
魔法でこの男にはまだかなわない事実を前にぐつぐつとせり上がってくる屈辱に蓋を閉める。
何度も自尊心を傷つけられているので、取り繕うのには慣れている。だが、許したわけじゃない。
いつか必ず私の方が優れていると認めさせ床に這いつくばらせてやる。
「こんな時間に密偵の真似事かい?」
「リナリア様こそ見回りの真似事ですか?」
「私が見回りなら君を懲罰室へ連行しなければならないね」
「私を懲罰室へ入れますか?」
「……できないことはしないよ」
近づいてきたリナリアに顎を持ち上げられ視線を交わらせる。
「わかってるくせに」
屈み込み、まるで恋人に囁くように耳元で甘く囁かれた言葉に眉を寄せる。
リアトリスの心情に呼応するように梟が威嚇するように羽を広げれば、蛇が鎌首をもたげる。
「君の肉体に傷をつけてはならない。決して外に出さず上質な教育と規則正しい生活を与えること。それが莫大な寄付金と一緒に君がここに預けられた時、取り交わした契約だからね」
ぴくりと動いた肩を目ざとく見つけリナリアはくすりと笑う。
「頭の良い君のことだ。薄々気が付いていたんだろう?だから自分の出自にかかわる手掛かりを探していた」
「……なぜですか?今までどんなに探っても見つけられなかったのになぜ今そのように教えてくれるのです?」
「小さく可愛い私のリアトリス。君が幼稚な魔法を使って私の箱庭で懸命に動き回っているのを観察すのは実に愉快だったよ。君の先回りをするのはとても楽しかったな。ついに掴んだ手掛かりを得た時、君の鼓動はどんなふうに音をたてたの?」
怒りのあまり目の前の男の琥珀色の眼球を抉り出してやりたい衝動に駆られた。
「怒っているね。ああ、黒曜石のような瞳が濡れてとても美しい。君の自尊心をずたずたにするのはやはりとても楽しいね。悔しければもっと魔法の技を磨いてごらん。もしかしたら私を出し抜くことができるかもしれないよ。ははっ、でもね君が私に挑む度、私が君の心に傷をつけてあげる。何度も何度も…ね。それは私だけの特権だ」
幼子特有のまろやかな頬を優しく撫でながらうっとりと見つめられるがぎりぎりと歯を食いしばって耐える。
そして睨み付ける。決して屈してやるものか。絶対に諦めない。
この箱庭から脱出し、いつか必ず……こいつの背中を踏みつけて勝利の高笑いをあげてやる!
リアトリス嬢、御年七歳だったそうな。
権威ある御身であるリナリア・ヘリオトロープ様の行動に修道院長は近頃疑惑の目を向けてしまう。栄えあるお方に不敬だと分かっていても、だ。
故あってこの修道院で隠されて育てられているリアトリス。あの幼女が関わるとリナリア様の態度が…ごにょごにょ。
なんて厚顔で生意気。愛でるに値するなんて言葉は聞こえません。あーあー、聞こえないったら聞こえない。
恍惚の表情なんて見えません。
好きな子を苛めて喜んでいる少年になんかみえてません。目の錯覚だ。
ロリ…いや違う。幼女しゅ…いやいやそんなはずはない。
きっと理由があるのだ。
生まれながらに魔法に対する適性が異常に高く、貪欲に知識を吸収しており成長目覚ましいとおっしゃられていたのだから将来性を買っているのだ。
だからあれは異常な執着ではなく、教育に熱心なだけのだ。きっとそうだ。そうにちがいない。
院長は近頃胃薬が手放せないらしいと修道士たちに噂されているらしいです。