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隣の伯爵夫人
作:藤浦リサ



第1章その5 朝の事務室


副部長の机と反対側の壁を背にした自席につく。後ろの細いロッカーを開け、オフィス用の、ヒールが高めのベージュのミュールに履き替えて、ノートパソコンのスイッチを入れる。
ずっと机でパンプスを履いていると足が蒸れ蒸れになるので、なるべく風通しのよい室内履きに履き替える主義だ。しかしサンダルはストラップの留め外しがめんどくさい。
ミュールは、手を使わずにさっと履き替えができるので好きだ。デザインもけっこう洗練されたものもあるし。
本当は社内規則で、ミュールなどの、かかとの覆われていない履物はダメなのだが、ロングタイトスカートの多い祥子の足元はあまり目立たないようで、一度も注意されたことがないので、とりあえず履き続けている。祥子が破っているたった一つの規則だ。

まだ事務室内はしーんとしている。
祥子が新人のときは始業の30分前には来て先輩の机を拭いたものだが、もちろんそんな職員はこの部署にはひとりもいない。
職員を育てたり鍛えたりするという文化もないし、優秀な職員が配置されているわけでもない代わりに、会社からの期待もされていないこの部署での、仕事は、とても少ない。
今日の祥子のお仕事は、報道情報整理(ひとりで。)、レポートとりまとめ(山田君と。)、ウェブサイト更新の打ち合わせ(藤谷君と。)・・・以上!

しばらくすると、次に村上部長代理(56歳・驚くべきことに妻と三子あり)が出勤してくる。
副部長がいるのになぜ部長代理というポストがあるのかとか、訊ねてはいけない。ここが爺捨て山だということを、忘れてはならない。
村上部長代理は、朝来て机に座って、一日ネットサーフィンをして、夕方ちょっと居眠りして、夜までもう一度ネットサーフィンをして、夜8時か9時ごろ退社していく。もちろん誰も咎める者はいない。目に余った祥子が、一度厭味に仕事の相談を持って行ったことがあったが、村上部長代理のぶよぶよの顔と半開きの口と両肩につもったフケと甲高い声とべったりとした話し方に、返り討ちにあい、それ以来関わらない道を選んでいる。

村上部長代理の声は甲高くてよく響くが、その話し声が聞こえるとき、その内容が仕事に関するものだったことは記憶にある限り無い。趣味の昆虫採集についての話題が一番多い。
そして、誰かがうっかり村上部長代理の話を聞き始めると、村上部長代理は業務時間中の事務所全体に響き渡る声で、しかも極めて要を得ないまどろっこしい話し方で「あのう〜、あのう〜、」という間投詞をイヤになるほど多く挟みながら、いつまでもいつまでも昆虫の話を続ける。途中で明確に止められることがなければ、そのまま30分でも1時間でも昆虫の話を続ける。聞いている側が相槌を打つのをやめても、ずっと話し続ける。

祥子は色々な人間を社内で見てきたつもりであったが、こういう人は初めてだった。これは、会社が職員たちの忍耐力を鍛えるために送り込んできた隠密か、さもなくば天の神が人類の慈悲を試すために人類共通の試練としてこの世に遣わされた存在か、いずれかではないかと思うくらいだ。

始業時刻が近づくと、次々とその他の一般職員たちが出社してくる。
家庭を大事にしている真田くん(32歳・妻あり)、子育て中の杉田さん(38歳・夫と二子あり)、アルバイトから最近正社員になった林さん(33歳・独身)、そして去年ほかの部署から異動してきた山田くんと藤谷くん(いずれも29歳・独身)。
本社からのやはり期限付きの派遣である山田くんを除いては、戦場のような部署で追い立てられてきた経験のないスタッフたちである。その感覚の違いに、最初は戸惑った。

例えば彼らは・・・。

残業はしない。
有給休暇は全部取得し、年数回の海外旅行も当たり前。
夕方5時に帰れないような、あるいや有給休暇が消化できないような仕事の量になった場合は、迷わず仕事を犠牲にする。
3つ以上の仕事が重なると、どれかが遅れる。
言われたことはやるが、プラスアルファのことなど絶対にしない。
上司との飲み会など死んでもつきあわないし、たまに歓送迎会など全員が参加しなければならないような宴会があると、仕方なく一応参加はするが、場を和やかな雰囲気にするような協力をするどころか、ほとんどしゃべらず、つまらなさそうな様子を隠そうともしない。

・・・こ、これはばりばりの労働組合員か、または「日本人的」じゃない、個人主義者を気取っている人たちなのか!?・・でも、欧米人的個人主義もそれはもちろん素晴らしいけれど、それは、仕事の能力があってこそのものではないかしら。

祥子はイライラした。特に最初のころは。

祥子は、確かに残業や飲み会の多すぎるのは良くないとは思っているが、仕事は私生活に多少影響してもプロらしくやるべきという考えが当り前だと思って生きてきたので、今の部署に来て間もないころは、休憩したくてこの部署を希望して来た自分のことを棚に上げて、苛立ちさえもした。

が、最近ようやく分かってきた。祥子と同じ環境におかれたことがないのだから、祥子と同じ感覚を持てと言っても、無理なのは当たり前なのである。

それに、そう考えてよく見れば、それなりにいい子たちでもある。

そうねえ、よく考えたら自分はまぎれもなく、中堅社員になったのだなあ。







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