野良のノラが教えてくれたこと
「おいこらチビスケ、うるせぇぞ」
紙の箱に手をかけて、そいつは僕にこう言った。
少しくすんだ黒い毛並みと、ピンと尖った三角の耳。
ゆらりと長いしっぽを揺らし、青く鋭い目で睨む。
さっきから降り続けている雨の雫が、ヒゲからぽたぽた落ちていた。
そこにいたのは猫だった。
僕と同じ黒い猫。
そいつは箱の中の僕を見て、呆れたように鼻で笑った。
「どうしてそんなに鳴きわめく」
体にしみ込む雨粒に、僕は体を震わせる。
「だってここは寒いんだ。あたたかな毛布がここには見当たらない。お腹だってもうペコペコだ」
「毛布など、こんなところにあるものか。食べる物が欲しければ、自分で探しまわるのさ」
「あなたはいったいどこの誰? 僕はこれからどうなるの?」
「俺は野良猫、お前は捨て猫。どちらも同じ猫だろう? それ以上でも以下でもねぇ。お前のことはお前が決めろ」
野良猫は僕の首の後ろをくわえると、箱の中から外へと出した。
「とりあえず、同じ鳴くならここよりも、向こうの通りに行くといい。そこならば、お前を拾う奴らもいるだろう。ここはガラクタばっかりで、誰も通りかかりゃしない。あぁただし、あっちの通りは近寄るな。奴らが乗ってる大きな箱が、ひっきりなしに行きかうからな。お前みたいなチビスケは、あっという間にぺちゃんこだ」
野良猫は僕にくるりと背を向ける。
「あなたはこれからどこ行くの?」
「俺はこれから飯の時間だ。その後は、寝床に戻って寝るだけさ」
「待ってノラ。僕も一緒に連れてって」
まだ降り続く雨の中、僕はノラの背中を追いかけた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
ノラの後ろを歩いて行くと、水の濁ったドブ川前で、ノラは急に立ち止まる。
すると僕らの目の前を、ネズミがいきなり駆け抜けた。
ネズミはとても速いけど、ノラはそれより速かった。
僕より大きなノラなのに、体は軽く動きはしなやか。
まばたきひとつしている間に、ネズミを二匹も捕まえた。
それを口にくわえると、ノラは再び歩き出す。
「さあ着いた。ここが俺の寝床だチビスケ。特別に、今夜は屋根を貸してやる」
ノラの寝床は狭くって、ガラクタだらけのゴミだらけ。
トタンの屋根は穴ぼこだらけで、ところどころで雨漏りしていた。
それでも紙の箱と比べれば、雨や風がしのげる分だけ、寒さはずいぶんマシだった。
ノラは二匹のネズミの一匹を、僕の前に置いたあと、もう一匹を食べだした。
僕もノラの真似をして、ネズミを口に入れてはみたが、すぐに戻して地面に置いた。
「どうしたチビスケ、とっとと食いな」
「今まで僕が食べてたものは、もっともっと柔らかくって、もっと美味しいものだった」
「じゃあ食うな。お前がそれを食わずとも、俺の腹は減りゃあしない」
僕の前に置かれたネズミを、ノラは取り上げかじりつく。
「待ってよ待って、食べないで。食べないなんて言ってない。ただちょっと、食べなれてないだけだから」
ノラは恐い顔をしながらも、小さくちぎった肉を再び、僕の前に置いて寄こした。
食べやすくなったネズミを頬張り、僕は残さず平らげた。
しばらくすると雨が止み、穴ぼこだらけの屋根の向こうに、星がキラキラ輝き始める。
それはとってもキレイだけれど、吹き込む風は冷たくて、僕は体を縮こめた。
ボロ布を集めて重ねた寝床の中に、丸くなってるノラを見て、そばに寄り添い丸くなる。
怒られるかと思ったけれど、ノラは何も言わずに目を閉じた。
そのときひとつ発見したんだ。
ノラのお腹の真ん中に、小さな傷があることを。
三日月みたいなその傷を、見ながら僕は眠りに落ちた。
ノラの毛並みは僕のより、少しくすんで固いけど、ノラの体はあたたかかった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「起きろチビスケ、夜が明けた。雨は止んだし日差しは柔らか。鳴いてるお前に気がついて、足を止める奴らも多いだろうさ。どうした早く起きねぇか」
ノラにせかされ起こされて、僕は顔を洗って伸びをした。
「ねえノラ今日も、ノラはネズミを捕りに行く?」
「捕りに行くなら何だと言うんだ。お前にゃ関係ないだろう」
「僕もノラがやってたみたいに、ネズミを捕ってみたいんだ」
「お前みたいな泣き虫の、チビスケなんかに捕まるような、鈍いネズミがいるわけねぇよ」
僕を馬鹿にしたように鼻で笑うノラを睨んで、僕はノラに言ってやる。
「僕もネズミを捕まえる。僕だって、ノラと同じ猫だもの」
僕はその日の一日中、ネズミを追いかけ走ったけれど、僕に捕まる鈍いネズミは一匹たりともいなかった。
駆けずりまわってドブ川に、うっかり落ちた僕をくわえて呆れたようにノラは言う。
「汚ねぇな。あんまりばっちくなるんじゃねぇよ。そんなんじゃ、誰も拾ってくれなくなるぞ」
「今日は逃げられちゃったけど、そのうち僕はノラよりも、でっかいネズミを捕まえるから」
僕の言った言葉にノラが、お腹を抱えて笑うから、僕はふくれてそっぽを向いた。
「チビスケみたいに鈍い奴だと、追いかけたって駄目だろう。ネズミの前に回り込め」
やがてネズミがすべて隠れて姿を見せなくなってしまうと、ノラは小さく肩をすくめる。
「仕方ない。今夜の飯は他所で探そう」
そう言ってノラが僕を連れて来たのは、夜でも眩しい街中の、とある店の裏口だった。
そこにある大きなバケツの蓋をノラは開け、中に頭を突っ込んだ。
しばらくするとバケツから、ノラが何かを放り出す。
こげたベーコン、魚の切り身、粉々になったビスケット。
リンゴの芯を二個分と、骨付きチキンの食べ残し。
「ネズミより、こっちの方が僕いいな」
「こんなのばっかり食ってたら、お前みたいなチビスケは、すぐに豚になっちまう。猫のまんまでいたければ、ちゃんと狩りを覚えろよ。それにここでの飯を食べるなら――」
言いかけて、ノラは突然言葉を切ると僕をくわえて飛び上がる。
それまで僕がいた場所に、大きなモップが振り下ろされた。
モップはすぐに僕らを狙って再び振り下ろされたけど、ノラはひらりとそれを避け、一目散に逃げ出した。
「あれは誰? どうして僕らを襲ったの?」
「あれは店の親父だよ。あいつは捨てた物ですら、俺らに取られることを嫌うのさ。あそこで飯を食べるなら、あいつが来ないか注意しろ。もしも追いかけられたなら、壁の隙間に逃げるといい」
口の中にまだ残る、チキンをごくりと飲みこんで、僕はノラにこう言った。
「ねえノラやっぱり、明日のご飯もネズミがいいや」
◆◆◆◆◆◆◆◆
その日、僕は怪我をした。
逃げる鼠を追いかけて、小さな穴をすり抜けるとき、下から出ていた尖った石が僕のお腹を切りつけた。
地面に赤い点線描いて、僕はノラの元へと駆けて行く。
「痛いよ痛い。死んじゃいそう」
僕はわんわん泣いたけど、ノラは傷をなめながら、いつものように鼻で笑った。
「こんな傷じゃあ死にゃあしない。まったくお前は大げさだ」
ノラの言葉は優しくないけど、僕が泣くのをやめるまで、傷をなめてくれていた。
おかげで怪我は良くなった。
だけどお腹の真ん中に、三日月みたいな傷が残った。
「ノラのお腹とおそろいだ」
するとノラが顔をしかめた。
「お前のドジと一緒にするな」
「ノラはなんで怪我したの?」
「こいつは俺が勇敢に、でかくて強いバケモノを、倒したときの傷なのさ」
「でかくて強いバケモノを?!」
「あぁそうさ。お前みたいなチビスケなんて、ぺろりと食われちまうような、でかくて強いバケモノさ」
ノラでも怪我をするような、でかくて強いバケモノなんて、一体どんな奴だろう。
「どうやって、ノラはそいつを倒したの!?」
「いいからもう寝ろ、うるさいぞ。お前はひとまず目の前の、ネズミのことだけ考えろ」
僕は話を聞きたくて、何度も続きをねだったけれど、ノラはしらんふりだった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
「馬鹿野郎! あそこには、近寄るなって言ったじゃねぇかっ!!」
ノラの言葉と大きな声に、僕は体が強張った。
次の瞬間ボロボロと、涙が目からこぼれて落ちる。
僕は今日、ノラがネズミを捕ってる間、街へと一匹出かけて行った。
ノラに注意をされていた、大きな箱が行き交う通りを、こっそり見に行くためだった。
僕がそこへ行けたなら、ノラもきっと勇敢だなと、褒めてくれると思っていたから。
大きな箱が行き交う道で、足がすくんでしまった僕は、ぺちゃんこになる寸前で、ノラに見つかり助け出された。
ノラはその後さんざん僕に、危険な場所や怖い場所、行ってはいけない所について、しつこいくらいに話して聞かせた。
「さあ飯だ。そんだけたっぷり泣いたんだ。腹ぺこだろう、しっかり食えよ」
僕がめそめそ泣き続けると、ノラがご飯を取って来る。
焼いたハムの切れ端と、魚のフライをまるごと一匹、ミルクのパイをひとかけら。
僕が喜びそうなものばかり。
「別に怒ったわけじゃない。心配をした、それだけだ」
「僕はノラの使う言葉が、ときどきちょっと恐いんだ」
涙のせいか少しだけ、しょっぱいフライにかじりつき、僕はノラをちらと見た。
「どうしてそんな言葉を使うの」
「ここにはいろんな奴らが暮らしてる。強い奴や弱い奴、卑怯な奴にズルイ奴。賢い奴にバカな奴。そんな奴らとやりあうときにゃ、こんな言葉も必要なのさ」
「じゃあ僕も、そういう言葉を覚えるよ。さぁてノラ。ネズミを捕りに行こうじゃねぇか。今度こそ俺のこの手で捕まえて、奴らをむしゃむしゃ食ってやる――こんな感じでどうだろう」
僕がノラの言葉を真似すると、ノラは大きく息を吐く。
「……やめとけ、お前にゃ似合わねぇ」
◆◆◆◆◆◆◆◆
次の日も、僕はネズミを捕り損ね、ノラが代わりに捕まえる。
その場でご飯をすませると、寝床へ帰る途中にノラは、いつもと違う道へと曲がった。
「ねえノラ、どこへ行くつもり?」
「ちょっと寄り道するだけだ。赤毛の旦那に会いに行く」
僕が首を傾げると、ノラは続けてこう言った。
「赤毛の旦那はこの街を、ずっと見て来た猫なんだ。だからお前も一度くらい、顔を見せておかなきゃな」
街の外れの崩れた壁に、空いてる穴をくぐり抜け、やってきたのは小さな空き地。
ノラの寝床に負けず劣らず、ガラクタだらけの場所だった。
「久方ぶりだな、黒毛の若いの」
突然上から声がして、キョロキョロ辺りを見回すと、空き地の端の木の上で、大きな猫がこちらを見ていた。
赤茶けた毛に縞模様。黄色い瞳は穏やかで、低く静かな鳴き声は、耳にとても心地いい。
「こいつはどうも、赤毛の旦那。今夜はたいそう良い月で」
「確かに今夜は良い月だ。ところでそっちはお前の子供か」
赤毛の猫がそう言うと、ノラは大きな声で笑いころげた。
「笑わせないでください旦那、こいつは俺の子供じゃない。この前ガラクタ通りの路地裏で、捨てられてたのを見つけたんでさ」
笑い終わったノラが今度は、僕の頭をぐいと押す。
「チビスケ何をしてるんだ。挨拶くらいちゃんとしろ」
僕は赤毛の猫を見上げると、ちょいと小さく頭を下げる。
「はじめまして、赤毛の旦那」
「はじめまして、黒毛のチビスケ。お前の毛並みはキレイだな。ここはお前が暮らすには、あまり向いてはいないだろう」
赤毛の旦那の言う事に、僕の代わりにノラが答える。
「なぁに旦那、こいつはそのうち、新たな住処を見つけますとも」
「そうだな、それがいいだろう」
「それでは旦那、良い夢を」
「あんたがたこそ、良い夢を」
ノラが旦那にお辞儀をするから、僕も慌ててお辞儀する。
今度こそ、寝床へ戻るノラに続いて、僕はノラに聞いてみた。
「寄り道したのは、これだけのため?」
「俺たちは、群れでは生きてはいかないが、仲間と呼べる者はいる。そいつらに礼儀を欠いちゃいけねぇよ。俺も旦那にゃ小さい頃に、色々世話になったしな」
そうしてノラはニヤリと笑う。
「そういやお前、気づいたか? 実は赤毛の旦那には、しっぽが二本あるんだぞ」
「しっぽが二本? 本当に?!」
「なんだ気づかなかったのか」
今度会ったら絶対に、旦那のしっぽを確認しよう。
目の前で、ゆらゆら揺れるノラのしっぽを、追いかけながら僕は思った。
◆◆◆◆◆◆◆◆
次の日も、今日こそネズミを捕まえようと、僕は寝床を飛び出した。
そんな僕のしっぽをノラが、ぎゅうと押さえて引き止める。
「今日はちょっと出かけよう。しっかり後ろに着いて来い。よそ見はするなよ、置いてくからな」
次々壁を乗り越えて、ノラはどんどん行くけれど、僕はときどき立ち止まる。
ノラには軽々登れる壁でも、僕にはまるで届かなかった。
置いてくと、さっきは言ってたノラだけど、その度ひらりと戻っては、僕を上へと押し上げる。
「もっと地面を強く蹴ろ。お前の体は小さいが、綿毛のようにとても軽い。これぐらい、お前にだって登れるはずだ」
何度も壁をよじ登り、たどり着いたその場所は、街がぐるりと見渡せる高い屋根の上だった。
目の前に波のように広がる屋根は、色とりどりで鮮やかで、いくつも伸びる煙突からは、煙が静かに空へと溶ける。
いつもより近くで感じるお日様は、ぽかぽかとても穏やかで、屋根を踏んでる足裏からも、じわじわ僕をあたためた。
おもわず寝転ぶ僕の隣で、ノラもごろりと横になる。
「どうだチビスケ、良い所だろ。眺めは抜群、日当り良好。聞こえてくるのは小鳥のさえずり。ひなたぼっこにゃ最適だ。ここは俺のお気に入り。勝手に誰かに言うんじゃねぇぞ」
僕は大きくうなずいた。
「ねえノラ僕も、ここがとっても大好きだ」
「そうだろう。お前が自分の足だけで、来られるようになったそのときは、誰かを連れて来るといい」
心地の良さにうとうとと、僕の瞼は落ちてくる。
けれどノラの瞳は真っ直ぐに、街の向こうをじっと見ていた。
「どうしてノラは野良になったの。やめたいと思ったことはない?」
「いつか俺は旅に出る。この街を出てあの地の向こうへ。俺の大事な友達が、そこで俺を待っている。だから俺は野良を選んだ。これは俺が決めたこと。後悔なんてするものか」
「ノラの大事な友達は、そんなにすごい猫なんだ」
「そりゃあ立派な野良猫さ。体は軽くて動きはしなやか。どんなに素早いネズミでも、すぐに捕まえられるんだ。いろんなことを知っていて、俺になんでも教えてくれた。口は少し悪いけど、俺はあいつが大好きだ」
懐かしそうにノラは言う。
「いつかきっと会いに行く。約束したんだ、絶対行くと」
ノラの言葉を聞きながら、僕はゆっくり瞼を閉じた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
ある日ノラが怪我をした。
僕を庇って怪我をした。
かつて僕に食べ物や、寝場所をくれてた彼らの乗ってる、大きな固い箱のせい。
それはいつもの帰り道。
危険な場所には行かないし、怖い場所にも近寄らない。
僕はノラの言う事を、きちんと守っていたけれど、アレは突然現れた。
壁を壊して突きぬけて、僕をそのままつぶそうとした。
ノラがとっさに前に出て、僕は怪我をしなかったけど、その代わりノラの怪我はひどかった。
寝床までなんとか戻ったノラだけど、ぼろ布を集めて重ねたその上に、倒れて少しも動かない。
僕は助けを求めるために、赤毛の旦那の居場所へ走った。
「赤毛の旦那、赤毛の旦那! 赤毛の旦那いませんか?! どうか返事をしてください!」
「お前は黒毛のとこのチビスケか。そんなに慌てていったいどうした」
「助けて下さい。お願いします。ノラが怪我をしたんです。僕には何もできなくて」
赤毛の旦那はそれを聞き、すぐさまノラの元へと走ってくれた。
しかし旦那はノラを見て、うな垂れ首を小さく振った。
「悪いがチビスケ俺にもどうやら、できることなどないようだ。力になれず、すまないな。決まって俺はそうなんだ。お前らを助ける事などできやしない」
「赤毛の旦那ありがとう。ここまで旦那が来てくれた。それだけで、僕にはとってもありがたかった」
「もしまた何かあったなら、遠慮しないで言ってくれ。俺にもできることならば、力を貸そう黒毛のチビスケ。そうは言ってもできることなど、ほとんどないに等しいが」
旦那が帰ってしまった後は、眠ったままのノラに代わって、ご飯を探しに僕は走った。
やっぱりネズミが捕まえられず、バケツの中から見つけ出す。
小さな僕には少ししか、一度に運ぶことができなくて、店の親父に気をつけながら、何度も寝床と行き来する。
そんな少しの食べ物も、ノラは食べることができなくて、見る間にどんどん弱っていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
その日も僕はいつものように、ネズミを捕りに出かけて行った。
ネズミが姿を現しそうな、壁の割れ目に狙いを定め、息を潜めてじっと待つ。
しばらくするとネズミが一匹、僕を小馬鹿にするように、壁からするりと走り出た。
僕はネズミの前に回り込み、相手が一瞬ひるんだその隙に、上から一気に飛びかかる。
ネズミが僕を引っ掻くけれど、けして離しはしなかった。
暴れるネズミに爪を立て、しっかり口にくわえこむ。
手足をバタバタしていたネズミは、やがて静かに力を抜いた。
とうとうネズミを捕まえた。
この手でネズミを捕まえた。
僕は急いで寝床へ走った。
ノラもネズミを食べればきっと、今より元気になるはずだ。
寝床へと、戻って僕は驚いた。
ノラが寝床の外に出て、体を起こして待っていた。
耳をピンと尖らせて、背筋もしゃんと伸びている。
「ノラ、ノラ! 怪我はもういいの?」
僕はネズミを放り出し、ノラの元へと駆け寄った。
「ああ、もうすっかり良くなった」
しっかりとした口調で言うと、ノラは僕をじっと見た。
「俺はこれから旅に出る。その日がとうとうやって来た。だからチビスケお前とは、これでお別れ、さよならだ」
ノラの言葉に驚いて、僕は青い瞳を丸くする。
「そんなの嫌だよ、そんなの嫌だ! 僕も一緒に連れてって。好き嫌いはもう言わないし、寒いのだって我慢する。挨拶だってきちんとできるし、ネズミも自分で捕まえられる。だからお願い、置いてかないで。ノラの邪魔はしないから」
僕はやっぱり泣き虫で、すぐに涙が溢れ出す。
「泣くなチビスケ。泣くのをやめな」
困ったように言うノラに、僕は涙をこらえたけれど、ぎゅっと閉じた瞼から、こぼれ続けて止まらない。
「ごめんなさい。今はちょっと無理だけど、そのうちきっと絶対に、泣くのも我慢できるから。だから僕も旅に出たい。ノラと一緒に旅に出たい」
「そりゃ駄目だ。今はまだ、お前は旅立つ時じゃない」
「いつになったら僕は行けるの?」
「そのときが来れば自然と分かるのさ。チビスケお前は大丈夫。好き嫌いはもう言わないし、寒いのだって我慢ができる。挨拶だってきちんとできるし、ネズミも自分で捕まえられる。俺がいなくなったって、立派にやっていけるだろう。だけど野良でいるのがつらければ、野良でいるのはやめるといい。お前は自由なんだから。お前なら、きっと優しい良い奴と、出会って共に暮らせるさ。じゃあなチビスケ、元気でやれよ」
ノラは僕の頭をぽんとなで、寝床の外へ歩き出す。
「僕行くよ。いつか行くから、絶対行くから。だからきっと待っててね。いつかその日が来たときは、ノラに会いに旅に出るから!」
「チビスケお前に礼を言おう。お前と過ごした毎日が、俺は意外と嫌いじゃなかった」
ノラはニヤリとひとつ笑うと、もう振り返ることはなく、街の外れの壁を乗り越え、僕の前から姿を消した。
ノラが旅に出たことを、僕は赤毛の旦那に知らせに行った。
赤毛の旦那は二本の尻尾を、残念そうに垂れ下げて、寂しくなるなとつぶやいた。
「赤毛の旦那、今夜だけ、一緒にいてもいいですか」
「もちろんだ。あいつもお前ぐらいの幼い頃は、寂しがりやのチビスケだった」
その日の夜は一晩中、僕は赤毛の旦那と一緒になって、ノラの話をし続けた。
◆◆◆◆◆◆◆◆
穴ぼこだらけの屋根の寝床と、ネズミの捕り方、ご飯の在処。
壁の隙間の逃げ道や、危険な場所に怖い場所。
仲間と呼べる者への礼儀に、高い壁の登り方。
ぽかぽか日差しのあたたかい、ひなたぼっこの屋根の上。
それがノラの教えてくれたこと。
それはときにしんどくて、つらくてキツくて大変だった。
何もしないで食べ物を、もらうことができたなら、どんなに楽かと考える。
あたたかな毛布の中で眠れたら、どんなに心地いいだろう。
それでもやっぱり思うんだ。
僕はノラが大好きだ。
かつて僕に食べ物や、寝場所をくれてた彼らのことは、嫌いだとか好きだとか、考えた事がなかったけれど、ノラのことは今でも好きだ。
だから僕は決めたんだ。
こんなことを聞いたなら、あなたはきっと笑うけど。
ねえノラ僕は、野良になろうと思うんだ。
大丈夫。
これは僕が決めたこと。
後悔なんてしてないよ。
体はすっかり大きくなったし、どんな壁でも乗り越えられる。
柔らかかった毛並みは少し、固くくすんできたけれど、目や耳はあの頃よりもずっといい。
ときどき寂しいこともあるけれど、あの頃みたいに泣いたりしない。
ねえノラ僕は、ちゃんと野良になれるかな。
ちゃんと野良になれたなら、ノラに会いに行けるかな。
ポツリとおでこに落ちてきた、冷たい物に空を見る。
あっという間に降り出す雨に、早めた足をふと止めた。
地面を叩く水音に、混じって聞こえる、うるさい鳴き声。
ガラクタ通りの路地裏に、いつかどこかで見た様な、紙の箱が目に入る。
忘れてた。
もうひとつ、ノラが教えてくれたことがある。
僕は紙の箱に手を掛けて、中を覗いてこう言った。
ノラが僕に教えてくれた、ノラの言葉の真似をして。
「おいこらチビスケ、うるせぇぞ」