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野良のノラが教えてくれたこと

作者: Cat Bell


「おいこらチビスケ、うるせぇぞ」



 紙の箱に手をかけて、そいつは僕にこう言った。

 少しくすんだ黒い毛並みと、ピンと尖った三角の耳。

 ゆらりと長いしっぽを揺らし、青く鋭い目で睨む。

 さっきから降り続けている雨の雫が、ヒゲからぽたぽた落ちていた。

挿絵(By みてみん)

 そこにいたのは猫だった。

 僕と同じ黒い猫。

 そいつは箱の中の僕を見て、呆れたように鼻で笑った。


「どうしてそんなに鳴きわめく」


 体にしみ込む雨粒に、僕は体を震わせる。


「だってここは寒いんだ。あたたかな毛布がここには見当たらない。お腹だってもうペコペコだ」

「毛布など、こんなところにあるものか。食べる物が欲しければ、自分で探しまわるのさ」

「あなたはいったいどこの誰? 僕はこれからどうなるの?」

「俺は野良猫、お前は捨て猫。どちらも同じ猫だろう? それ以上でも以下でもねぇ。お前のことはお前が決めろ」


 野良猫は僕の首の後ろをくわえると、箱の中から外へと出した。


「とりあえず、同じ鳴くならここよりも、向こうの通りに行くといい。そこならば、お前を拾う奴らもいるだろう。ここはガラクタばっかりで、誰も通りかかりゃしない。あぁただし、あっちの通りは近寄るな。奴らが乗ってる大きな箱が、ひっきりなしに行きかうからな。お前みたいなチビスケは、あっという間にぺちゃんこだ」


 野良猫は僕にくるりと背を向ける。


「あなたはこれからどこ行くの?」

「俺はこれから飯の時間だ。その後は、寝床に戻って寝るだけさ」

「待ってノラ。僕も一緒に連れてって」


 まだ降り続く雨の中、僕はノラの背中を追いかけた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 ノラの後ろを歩いて行くと、水の濁ったドブ川前で、ノラは急に立ち止まる。

 すると僕らの目の前を、ネズミがいきなり駆け抜けた。

 ネズミはとても速いけど、ノラはそれより速かった。

 僕より大きなノラなのに、体は軽く動きはしなやか。

 まばたきひとつしている間に、ネズミを二匹も捕まえた。

 それを口にくわえると、ノラは再び歩き出す。


「さあ着いた。ここが俺の寝床だチビスケ。特別に、今夜は屋根を貸してやる」


 ノラの寝床は狭くって、ガラクタだらけのゴミだらけ。

 トタンの屋根は穴ぼこだらけで、ところどころで雨漏りしていた。

 それでも紙の箱と比べれば、雨や風がしのげる分だけ、寒さはずいぶんマシだった。

 ノラは二匹のネズミの一匹を、僕の前に置いたあと、もう一匹を食べだした。

 僕もノラの真似をして、ネズミを口に入れてはみたが、すぐに戻して地面に置いた。


「どうしたチビスケ、とっとと食いな」

「今まで僕が食べてたものは、もっともっと柔らかくって、もっと美味しいものだった」

「じゃあ食うな。お前がそれを食わずとも、俺の腹は減りゃあしない」


 僕の前に置かれたネズミを、ノラは取り上げかじりつく。


「待ってよ待って、食べないで。食べないなんて言ってない。ただちょっと、食べなれてないだけだから」


 ノラは恐い顔をしながらも、小さくちぎった肉を再び、僕の前に置いて寄こした。

 食べやすくなったネズミを頬張り、僕は残さず平らげた。

 しばらくすると雨が止み、穴ぼこだらけの屋根の向こうに、星がキラキラ輝き始める。

挿絵(By みてみん)

 それはとってもキレイだけれど、吹き込む風は冷たくて、僕は体を縮こめた。

 ボロ布を集めて重ねた寝床の中に、丸くなってるノラを見て、そばに寄り添い丸くなる。

 怒られるかと思ったけれど、ノラは何も言わずに目を閉じた。

 そのときひとつ発見したんだ。

 ノラのお腹の真ん中に、小さな傷があることを。

 三日月みたいなその傷を、見ながら僕は眠りに落ちた。

 ノラの毛並みは僕のより、少しくすんで固いけど、ノラの体はあたたかかった。



◆◆◆◆◆◆◆◆



「起きろチビスケ、夜が明けた。雨は止んだし日差しは柔らか。鳴いてるお前に気がついて、足を止める奴らも多いだろうさ。どうした早く起きねぇか」


 ノラにせかされ起こされて、僕は顔を洗って伸びをした。


「ねえノラ今日も、ノラはネズミを捕りに行く?」

「捕りに行くなら何だと言うんだ。お前にゃ関係ないだろう」

「僕もノラがやってたみたいに、ネズミを捕ってみたいんだ」

「お前みたいな泣き虫の、チビスケなんかに捕まるような、鈍いネズミがいるわけねぇよ」


 僕を馬鹿にしたように鼻で笑うノラを睨んで、僕はノラに言ってやる。


「僕もネズミを捕まえる。僕だって、ノラと同じ猫だもの」


 僕はその日の一日中、ネズミを追いかけ走ったけれど、僕に捕まる鈍いネズミは一匹たりともいなかった。

 駆けずりまわってドブ川に、うっかり落ちた僕をくわえて呆れたようにノラは言う。


「汚ねぇな。あんまりばっちくなるんじゃねぇよ。そんなんじゃ、誰も拾ってくれなくなるぞ」

挿絵(By みてみん)

「今日は逃げられちゃったけど、そのうち僕はノラよりも、でっかいネズミを捕まえるから」


 僕の言った言葉にノラが、お腹を抱えて笑うから、僕はふくれてそっぽを向いた。


「チビスケみたいに鈍い奴だと、追いかけたって駄目だろう。ネズミの前に回り込め」


 やがてネズミがすべて隠れて姿を見せなくなってしまうと、ノラは小さく肩をすくめる。


「仕方ない。今夜の飯は他所で探そう」

 

 そう言ってノラが僕を連れて来たのは、夜でも眩しい街中の、とある店の裏口だった。

 そこにある大きなバケツの蓋をノラは開け、中に頭を突っ込んだ。

 しばらくするとバケツから、ノラが何かを放り出す。

 こげたベーコン、魚の切り身、粉々になったビスケット。

 リンゴの芯を二個分と、骨付きチキンの食べ残し。


「ネズミより、こっちの方が僕いいな」

「こんなのばっかり食ってたら、お前みたいなチビスケは、すぐに豚になっちまう。猫のまんまでいたければ、ちゃんと狩りを覚えろよ。それにここでの飯を食べるなら――」


 言いかけて、ノラは突然言葉を切ると僕をくわえて飛び上がる。

 それまで僕がいた場所に、大きなモップが振り下ろされた。

 モップはすぐに僕らを狙って再び振り下ろされたけど、ノラはひらりとそれを避け、一目散に逃げ出した。


「あれは誰? どうして僕らを襲ったの?」

「あれは店の親父だよ。あいつは捨てた物ですら、俺らに取られることを嫌うのさ。あそこで飯を食べるなら、あいつが来ないか注意しろ。もしも追いかけられたなら、壁の隙間に逃げるといい」


 口の中にまだ残る、チキンをごくりと飲みこんで、僕はノラにこう言った。


「ねえノラやっぱり、明日のご飯もネズミがいいや」



◆◆◆◆◆◆◆◆



 その日、僕は怪我をした。

 逃げる鼠を追いかけて、小さな穴をすり抜けるとき、下から出ていた尖った石が僕のお腹を切りつけた。

 地面に赤い点線えがいて、僕はノラの元へと駆けて行く。

挿絵(By みてみん)

「痛いよ痛い。死んじゃいそう」


 僕はわんわん泣いたけど、ノラは傷をなめながら、いつものように鼻で笑った。


「こんな傷じゃあ死にゃあしない。まったくお前は大げさだ」


 ノラの言葉は優しくないけど、僕が泣くのをやめるまで、傷をなめてくれていた。

 おかげで怪我は良くなった。

 だけどお腹の真ん中に、三日月みたいな傷が残った。


「ノラのお腹とおそろいだ」


 するとノラが顔をしかめた。


「お前のドジと一緒にするな」

「ノラはなんで怪我したの?」

「こいつは俺が勇敢に、でかくて強いバケモノを、倒したときの傷なのさ」

「でかくて強いバケモノを?!」

「あぁそうさ。お前みたいなチビスケなんて、ぺろりと食われちまうような、でかくて強いバケモノさ」


 ノラでも怪我をするような、でかくて強いバケモノなんて、一体どんな奴だろう。


「どうやって、ノラはそいつを倒したの!?」

「いいからもう寝ろ、うるさいぞ。お前はひとまず目の前の、ネズミのことだけ考えろ」


 僕は話を聞きたくて、何度も続きをねだったけれど、ノラはしらんふりだった。



◆◆◆◆◆◆◆◆


 

「馬鹿野郎! あそこには、近寄るなって言ったじゃねぇかっ!!」


 ノラの言葉と大きな声に、僕は体が強張った。

 次の瞬間ボロボロと、涙が目からこぼれて落ちる。

 僕は今日、ノラがネズミを捕ってる間、街へと一匹出かけて行った。

 ノラに注意をされていた、大きな箱が行き交う通りを、こっそり見に行くためだった。

 僕がそこへ行けたなら、ノラもきっと勇敢だなと、褒めてくれると思っていたから。

挿絵(By みてみん)

 大きな箱が行き交う道で、足がすくんでしまった僕は、ぺちゃんこになる寸前で、ノラに見つかり助け出された。

 ノラはその後さんざん僕に、危険な場所や怖い場所、行ってはいけない所について、しつこいくらいに話して聞かせた。


「さあ飯だ。そんだけたっぷり泣いたんだ。腹ぺこだろう、しっかり食えよ」


 僕がめそめそ泣き続けると、ノラがご飯を取って来る。

 焼いたハムの切れ端と、魚のフライをまるごと一匹、ミルクのパイをひとかけら。

 僕が喜びそうなものばかり。


「別に怒ったわけじゃない。心配をした、それだけだ」

「僕はノラの使う言葉が、ときどきちょっと恐いんだ」


 涙のせいか少しだけ、しょっぱいフライにかじりつき、僕はノラをちらと見た。


「どうしてそんな言葉を使うの」

「ここにはいろんな奴らが暮らしてる。強い奴や弱い奴、卑怯な奴にズルイ奴。賢い奴にバカな奴。そんな奴らとやりあうときにゃ、こんな言葉も必要なのさ」

「じゃあ僕も、そういう言葉を覚えるよ。さぁてノラ。ネズミを捕りに行こうじゃねぇか。今度こそ俺のこの手で捕まえて、奴らをむしゃむしゃ食ってやる――こんな感じでどうだろう」


 僕がノラの言葉を真似すると、ノラは大きく息を吐く。


「……やめとけ、お前にゃ似合わねぇ」



◆◆◆◆◆◆◆◆



 次の日も、僕はネズミを捕り損ね、ノラが代わりに捕まえる。

 その場でご飯をすませると、寝床へ帰る途中にノラは、いつもと違う道へと曲がった。


「ねえノラ、どこへ行くつもり?」

「ちょっと寄り道するだけだ。赤毛の旦那に会いに行く」


 僕が首を傾げると、ノラは続けてこう言った。


「赤毛の旦那はこの街を、ずっと見て来た猫なんだ。だからお前も一度くらい、顔を見せておかなきゃな」


 街の外れの崩れた壁に、空いてる穴をくぐり抜け、やってきたのは小さな空き地。

 ノラの寝床に負けず劣らず、ガラクタだらけの場所だった。

  

「久方ぶりだな、黒毛の若いの」


 突然上から声がして、キョロキョロ辺りを見回すと、空き地の端の木の上で、大きな猫がこちらを見ていた。

挿絵(By みてみん)

 赤茶けた毛に縞模様。黄色い瞳は穏やかで、低く静かな鳴き声は、耳にとても心地いい。


「こいつはどうも、赤毛の旦那。今夜はたいそう良い月で」

「確かに今夜は良い月だ。ところでそっちはお前の子供か」


 赤毛の猫がそう言うと、ノラは大きな声で笑いころげた。


「笑わせないでください旦那、こいつは俺の子供じゃない。この前ガラクタ通りの路地裏で、捨てられてたのを見つけたんでさ」


 笑い終わったノラが今度は、僕の頭をぐいと押す。


「チビスケ何をしてるんだ。挨拶くらいちゃんとしろ」


 僕は赤毛の猫を見上げると、ちょいと小さく頭を下げる。


「はじめまして、赤毛の旦那」

「はじめまして、黒毛のチビスケ。お前の毛並みはキレイだな。ここはお前が暮らすには、あまり向いてはいないだろう」


 赤毛の旦那の言う事に、僕の代わりにノラが答える。


「なぁに旦那、こいつはそのうち、新たな住処すみかを見つけますとも」

「そうだな、それがいいだろう」

「それでは旦那、良い夢を」

「あんたがたこそ、良い夢を」


 ノラが旦那にお辞儀をするから、僕も慌ててお辞儀する。

 今度こそ、寝床へ戻るノラに続いて、僕はノラに聞いてみた。


「寄り道したのは、これだけのため?」

「俺たちは、群れでは生きてはいかないが、仲間と呼べる者はいる。そいつらに礼儀を欠いちゃいけねぇよ。俺も旦那にゃ小さい頃に、色々世話になったしな」


 そうしてノラはニヤリと笑う。


「そういやお前、気づいたか? 実は赤毛の旦那には、しっぽが二本あるんだぞ」

「しっぽが二本? 本当に?!」

「なんだ気づかなかったのか」


 今度会ったら絶対に、旦那のしっぽを確認しよう。

 目の前で、ゆらゆら揺れるノラのしっぽを、追いかけながら僕は思った。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 次の日も、今日こそネズミを捕まえようと、僕は寝床を飛び出した。

 そんな僕のしっぽをノラが、ぎゅうと押さえて引き止める。


「今日はちょっと出かけよう。しっかり後ろに着いて来い。よそ見はするなよ、置いてくからな」


 次々壁を乗り越えて、ノラはどんどん行くけれど、僕はときどき立ち止まる。

 ノラには軽々登れる壁でも、僕にはまるで届かなかった。

 置いてくと、さっきは言ってたノラだけど、その度ひらりと戻っては、僕を上へと押し上げる。


「もっと地面を強く蹴ろ。お前の体は小さいが、綿毛のようにとても軽い。これぐらい、お前にだって登れるはずだ」


 何度も壁をよじ登り、たどり着いたその場所は、街がぐるりと見渡せる高い屋根の上だった。

 目の前に波のように広がる屋根は、色とりどりで鮮やかで、いくつも伸びる煙突からは、煙が静かに空へと溶ける。

 いつもより近くで感じるお日様は、ぽかぽかとても穏やかで、屋根を踏んでる足裏からも、じわじわ僕をあたためた。

 おもわず寝転ぶ僕の隣で、ノラもごろりと横になる。


「どうだチビスケ、良い所だろ。眺めは抜群、日当り良好。聞こえてくるのは小鳥のさえずり。ひなたぼっこにゃ最適だ。ここは俺のお気に入り。勝手に誰かに言うんじゃねぇぞ」


 僕は大きくうなずいた。


「ねえノラ僕も、ここがとっても大好きだ」

「そうだろう。お前が自分の足だけで、来られるようになったそのときは、誰かを連れて来るといい」


 心地の良さにうとうとと、僕の瞼は落ちてくる。

 けれどノラの瞳は真っ直ぐに、街の向こうをじっと見ていた。

挿絵(By みてみん)

「どうしてノラは野良になったの。やめたいと思ったことはない?」

「いつか俺は旅に出る。この街を出てあの地の向こうへ。俺の大事な友達が、そこで俺を待っている。だから俺は野良を選んだ。これは俺が決めたこと。後悔なんてするものか」

「ノラの大事な友達は、そんなにすごい猫なんだ」

「そりゃあ立派な野良猫さ。体は軽くて動きはしなやか。どんなに素早いネズミでも、すぐに捕まえられるんだ。いろんなことを知っていて、俺になんでも教えてくれた。口は少し悪いけど、俺はあいつが大好きだ」


 懐かしそうにノラは言う。


「いつかきっと会いに行く。約束したんだ、絶対行くと」


 ノラの言葉を聞きながら、僕はゆっくり瞼を閉じた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 ある日ノラが怪我をした。

 僕を庇って怪我をした。

 かつて僕に食べ物や、寝場所をくれてた彼らの乗ってる、大きな固い箱のせい。

 それはいつもの帰り道。

 危険な場所には行かないし、怖い場所にも近寄らない。

 僕はノラの言う事を、きちんと守っていたけれど、アレは突然現れた。

 壁を壊して突きぬけて、僕をそのままつぶそうとした。

 ノラがとっさに前に出て、僕は怪我をしなかったけど、その代わりノラの怪我はひどかった。

挿絵(By みてみん)

 寝床までなんとか戻ったノラだけど、ぼろ布を集めて重ねたその上に、倒れて少しも動かない。

 僕は助けを求めるために、赤毛の旦那の居場所へ走った。


「赤毛の旦那、赤毛の旦那! 赤毛の旦那いませんか?! どうか返事をしてください!」

「お前は黒毛のとこのチビスケか。そんなに慌てていったいどうした」

「助けて下さい。お願いします。ノラが怪我をしたんです。僕には何もできなくて」


 赤毛の旦那はそれを聞き、すぐさまノラの元へと走ってくれた。

 しかし旦那はノラを見て、うな垂れ首を小さく振った。


「悪いがチビスケ俺にもどうやら、できることなどないようだ。力になれず、すまないな。決まって俺はそうなんだ。お前らを助ける事などできやしない」

「赤毛の旦那ありがとう。ここまで旦那が来てくれた。それだけで、僕にはとってもありがたかった」

「もしまた何かあったなら、遠慮しないで言ってくれ。俺にもできることならば、力を貸そう黒毛のチビスケ。そうは言ってもできることなど、ほとんどないに等しいが」


 旦那が帰ってしまった後は、眠ったままのノラに代わって、ご飯を探しに僕は走った。

 やっぱりネズミが捕まえられず、バケツの中から見つけ出す。

 小さな僕には少ししか、一度に運ぶことができなくて、店の親父に気をつけながら、何度も寝床と行き来する。

 そんな少しの食べ物も、ノラは食べることができなくて、見る間にどんどん弱っていった。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 その日も僕はいつものように、ネズミを捕りに出かけて行った。

 ネズミが姿を現しそうな、壁の割れ目に狙いを定め、息を潜めてじっと待つ。

 しばらくするとネズミが一匹、僕を小馬鹿にするように、壁からするりと走り出た。

 僕はネズミの前に回り込み、相手が一瞬ひるんだその隙に、上から一気に飛びかかる。

 ネズミが僕を引っくけれど、けして離しはしなかった。

 暴れるネズミに爪を立て、しっかり口にくわえこむ。

 手足をバタバタしていたネズミは、やがて静かに力を抜いた。

 とうとうネズミを捕まえた。

 この手でネズミを捕まえた。

 僕は急いで寝床へ走った。

 ノラもネズミを食べればきっと、今より元気になるはずだ。

   



 寝床へと、戻って僕は驚いた。

 ノラが寝床の外に出て、体を起こして待っていた。

 耳をピンと尖らせて、背筋もしゃんと伸びている。


「ノラ、ノラ! 怪我はもういいの?」


 僕はネズミを放り出し、ノラの元へと駆け寄った。


「ああ、もうすっかり良くなった」


 しっかりとした口調で言うと、ノラは僕をじっと見た。


「俺はこれから旅に出る。その日がとうとうやって来た。だからチビスケお前とは、これでお別れ、さよならだ」


 ノラの言葉に驚いて、僕は青い瞳を丸くする。


「そんなの嫌だよ、そんなの嫌だ! 僕も一緒に連れてって。好き嫌いはもう言わないし、寒いのだって我慢する。挨拶だってきちんとできるし、ネズミも自分で捕まえられる。だからお願い、置いてかないで。ノラの邪魔はしないから」


 僕はやっぱり泣き虫で、すぐに涙が溢れ出す。


「泣くなチビスケ。泣くのをやめな」


 困ったように言うノラに、僕は涙をこらえたけれど、ぎゅっと閉じた瞼から、こぼれ続けて止まらない。


「ごめんなさい。今はちょっと無理だけど、そのうちきっと絶対に、泣くのも我慢できるから。だから僕も旅に出たい。ノラと一緒に旅に出たい」

「そりゃ駄目だ。今はまだ、お前は旅立つ時じゃない」

「いつになったら僕は行けるの?」

「そのときが来れば自然と分かるのさ。チビスケお前は大丈夫。好き嫌いはもう言わないし、寒いのだって我慢ができる。挨拶だってきちんとできるし、ネズミも自分で捕まえられる。俺がいなくなったって、立派にやっていけるだろう。だけど野良でいるのがつらければ、野良でいるのはやめるといい。お前は自由なんだから。お前なら、きっと優しい良い奴と、出会って共に暮らせるさ。じゃあなチビスケ、元気でやれよ」


 ノラは僕の頭をぽんとなで、寝床の外へ歩き出す。


「僕行くよ。いつか行くから、絶対行くから。だからきっと待っててね。いつかその日が来たときは、ノラに会いに旅に出るから!」

「チビスケお前に礼を言おう。お前と過ごした毎日が、俺は意外と嫌いじゃなかった」


 ノラはニヤリとひとつ笑うと、もう振り返ることはなく、街の外れの壁を乗り越え、僕の前から姿を消した。


挿絵(By みてみん)


 ノラが旅に出たことを、僕は赤毛の旦那に知らせに行った。

 赤毛の旦那は二本の尻尾を、残念そうに垂れ下げて、寂しくなるなとつぶやいた。


「赤毛の旦那、今夜だけ、一緒にいてもいいですか」

「もちろんだ。あいつもお前ぐらいの幼い頃は、寂しがりやのチビスケだった」


 その日の夜は一晩中、僕は赤毛の旦那と一緒になって、ノラの話をし続けた。



◆◆◆◆◆◆◆◆



 穴ぼこだらけの屋根の寝床と、ネズミの捕り方、ご飯の在処ありか

 壁の隙間の逃げ道や、危険な場所に怖い場所。

 仲間と呼べる者への礼儀に、高い壁の登り方。

 ぽかぽか日差しのあたたかい、ひなたぼっこの屋根の上。


 それがノラの教えてくれたこと。

 それはときにしんどくて、つらくてキツくて大変だった。

 何もしないで食べ物を、もらうことができたなら、どんなに楽かと考える。

 あたたかな毛布の中で眠れたら、どんなに心地いいだろう。

 それでもやっぱり思うんだ。

 僕はノラが大好きだ。


 かつて僕に食べ物や、寝場所をくれてた彼らのことは、嫌いだとか好きだとか、考えた事がなかったけれど、ノラのことは今でも好きだ。

 だから僕は決めたんだ。

 こんなことを聞いたなら、あなたはきっと笑うけど。




 ねえノラ僕は、野良になろうと思うんだ。




 大丈夫。

 これは僕が決めたこと。

 後悔なんてしてないよ。

 体はすっかり大きくなったし、どんな壁でも乗り越えられる。

 柔らかかった毛並みは少し、固くくすんできたけれど、目や耳はあの頃よりもずっといい。

 ときどき寂しいこともあるけれど、あの頃みたいに泣いたりしない。



 ねえノラ僕は、ちゃんと野良になれるかな。

 ちゃんと野良になれたなら、ノラに会いに行けるかな。

挿絵(By みてみん)

 ポツリとおでこに落ちてきた、冷たい物に空を見る。

 あっという間に降り出す雨に、早めた足をふと止めた。

 地面を叩く水音に、混じって聞こえる、うるさい鳴き声。

 ガラクタ通りの路地裏に、いつかどこかで見た様な、紙の箱が目に入る。



 忘れてた。

 もうひとつ、ノラが教えてくれたことがある。



 僕は紙の箱に手を掛けて、中を覗いてこう言った。

 ノラが僕に教えてくれた、ノラの言葉の真似をして。


挿絵(By みてみん)

「おいこらチビスケ、うるせぇぞ」

 


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[良い点] もう、画面そのものが美しい……。 そして猫ちゃんたちのかわいらしさ。 それだけでもため息ものですが、チビちゃんの成長、ノラさんの生き方が丁寧に描かれた、じんと胸にしみる物語にまたため息。 …
[良い点] エッセイ「なまこが紹介する、『お気に入り短編集』」の紹介で拝読しました。 読みやすい文章、にじみ出るように伝わってくる優しく、そして、厳しい情感。 きれいなイラスト。 最後まで大変楽しませ…
[一言] エッセイ「なまこが紹介する、『お気に入り短編集』」の紹介でお邪魔しました。 号泣しました……。 猫好きには堪らない作品です! おそらく赤毛の旦那は何百年も、こうしてノラ達を見守ってきたのでし…
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