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5
「雪花」

 その呼びかけは、決して名白の持つ穏やかな雰囲気のものではなかった。
切羽詰るような強い呼びかけ。
雪花は腕に抱いていた花をその場に取り落とし、自分の少し前に立つ黒い羽織の武家姿の男を見返した。
 すっと血の気が引くように感じ、我知らずそろりと首を振っていた。
一息に引き戻された記憶の中、面前の青年は少年へとかわり――気安い調子で「ゆきっ」と呼んだ。

「おゆき、観音さんの祭りに行くか?」
――あまり気が進まない様子で、それでも雪花が行きたいのであれば仕方ないというように言葉をつむいだ少年は、雪花にとって良く知る者であった。
耳に蘇る下駄の音。
かろんかろんと軽快な音、からからと回る色とりどりの花車。子供の頃の思い出が一息につきぬけ、息が詰まった。

「次郎……」
くん、と続けようとして躊躇った。
それは子供の頃の呼び方で、さんとつけるのが正しかろうと頭の片隅に思う。
 羽織袴の青年は、こわばった顔にほんの少しの余裕を浮かべた。
「元服で名を変えた。今は千葉惣次朗という」
 自分で言いながら、確信のようなものを掴んだというように惣次朗は大またで雪花の元へと近づくと、ぐいっとその手首を掴んだ。
「雪花だな?」
 それでも更に確認するように雪花の顔を覗き込む。
雪花は自らの胸から何かが口元まで競りあがるような気がした。

――千葉の家の次男坊は、雪花の元婚約者であった。
それは親同士の他愛のない口約束であったものだが、確かにその昔、この面前の青年は雪花の家へと婿入りするものだと信じていた。
 それが適わなかったのは、父の不祥事ゆえで、そして……
 突然、腹のうちに滲んだものは嵐のように雪花を襲った。
泣きたいのか、辛いのか、どうして良いのか判らない感情の爆発。
 何が悪いのかといえば、それは罪を犯し死罪を申し付けられた父が悪く、面前の青年に何の落ち度があった訳ではない。
 混乱しかけ、泣きそうな顔をした雪花に惣次朗はその身を労わるかのように引き寄せ、肩を抱いた。
「道の途中でまさかと思った――声をかけようと機を伺っていた。辛い思いはしてないか? お前は泣き虫だから、どうしているかと心配したよ」
 手折られた花が惣次朗の足で潰され、雪花はどうしてよいのかも判らずに身をよじらせた。
 肩を抱き、手首を掴み――惣次朗は雪花の顔を覗き込むようにして苦いものでも口にしたように顔を顰めた。
「おまえを引き取れるようにと父上に言ったが、おまえの家とは一切関わり合わぬと取り付く島も無い。そうこうしているうちにお前は消息をたってしまって……」
 一旦言葉を切り、惣次朗は真剣な面持ちで問いかけた。

「風の噂で――おまえが山田浅右衛門の家に引き取られたと聞いた。本当なのか?」
 雪花はその問いかけに、やっとあえぐように酸素を取り入れ、こくりとうなずき返すことができたが、惣次朗は矢継ぎ早に口を開いた。

「武家の娘のおまえが浪人風情の妾に成り下がったなど、嘘、だよな?」 
――自分の父親の命を絶った、首切り浅の妾なんて、嘘だよな?
 咎める口調は雪花の心をえぐり、吸い込んだ呼吸は喉の奥で固まった。

 惣次朗の言葉が怒るかのように辛らつに響いた為か、先ほど雪花に「あちらの野辺なら良い花がありますよ」と教えてくれた作務衣姿の小僧がざかざかと玉砂利を蹴散らし、
「何事ですか」と割って入った。
女人(にょにん)に乱暴なっ」

 小僧の言葉に怯んだ惣次朗の手から逃れ、雪花はぎゅっと胸元を押さえて小僧に救いを求めた。
「申し訳ありません。少し気分が……本堂へお連れ下さいますか?」
 耳の奥でなにかが木霊する。
ただ求めたのは、ここから逃れたいとい思いだった。
「雪花っ。逃げるな! きちんと話をっ。俺がどれだけお前を心配したかとっ」
 
――妾であることは今更恥じたところでせんないこと。
そんなことは重々承知している。
だが、今この時の気持ちは雪花にとって収めがたく、ただただ逃げ出したいという強い気持ちだけが胸を締め付けた。

 千葉の家の次男を思い出さしたこともある。
だが、それはもう幼い思い出でしかなく、遠い過去は全て――闇に沈んだ。
父は藩主の命で拘束される前、雪花と母とを呼び、淡々と告げた。
「たいへんなこととなった。おまえ達には心よりすまないと思う」
そして、母に自害を勧めたのだ。
「武士の妻として、果てよ」
 そして、そして――母はそれを受け入れ、父は自らの脇にそろえて置いた刀に触れ、雪花を静かに見た。
「おまえを一人残すことも忍びない」
 すらりと鞘から引き抜かれた白刃が、けれど雪花に触れる前に無遠慮な足音がその部屋に入り込んだ。
まるで昨日のことのように脳裏を掛ける記憶の渦に、息苦しさを覚えてあえぐ雪花は、突如現実に引戻された。

「おまえの父親が何故死んだか、おまえはきちんと理解しているのか?」

――叫ぶような怒鳴り声に、雪花は大きく瞳を見開いた。
ぐいっと肩を掴まれ、小僧が叱責の声をあげるのをどこか遠く聞きながら、雪花は足を止めた。
今まで父の侵した罪について考えたことが無かった訳ではない。
ただ、考えたところで意味を見出せなかっただけだ。

 父は藩に追われることとなり、母は自害し、そして――父はそれまで笑い合っていた同藩の者達によって押さえ込まれた。

 あわただしい足音、怒号。
逆手を取られ、押さえ込まれ、そして最後に雪花へと向けられた眼差しは――悲哀。
それとも、無念であったのか。

 もう少し時間があれば、父はその刃を雪花へと突き立てられたであろう。
そうすれば……そうできていれば、父はあんな眼差しを向けることは無かったのかもしれない。
あの時、雪花が父の手に掛かっていれば。

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