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短編:社会人の話

夜と桔梗の青い庭

作者:森崎緩
「お先に失礼します」
 当直の人に挨拶をして支局を出たのは、日付が変わった後のことだった。
 毎日がこんな調子だ。既に電車もバスもないこの時分、帰宅するには歩いていくしかない。程よい田舎のこの街では日付が変わればバスは終わり、終電もすぐになくなってしまう。

 この街に飛ばされてくる直前、何人かの先輩からアドバイスを貰っていた。
長野(ながの)も支局の近くに部屋借りな、帰れなくなるよ」
 私もそのお言葉を無視したわけじゃない。
 本当はそうしたかったけど、支局のある駅前周辺はこの街でも唯一栄えているところで、足元を見るかのように家賃が高騰していた。社会人三年目の私には手が届かず、結局は職場まで徒歩四十五分という安アパートを選んだ。その選択を今更後悔しても遅い。
 新聞記者になるのは学生時代からの憧れだった。子供の頃から新聞を読むのが好きで、ニュースを自分の手で記事にしたいと思った。私なりの文章で真実を人々に伝えていけたら――そう思いながら勤めてきたつもりだった。
 いざ飛び込んだ現場は思った以上に過酷だった。数年ごとに転勤があり、支局は日本全国に点在していて、どこへ飛ばされるかはわからない。非番の日も呼び出しあり、当直勤務あり、もちろん定時上がりなんて夢のまた夢。憧れの仕事だったから何とかやってこられた。

 それでも、部屋まで四十五分の道程を歩いて帰るのは、時々どうしようもなく辛かった。
 帰り道の途中にあるステンドグラスの駅舎はまだ明かりが点いていた。だけど駅前は人影もまばらで、近代的な佇まいの駅舎やロータリーの花時計がかえって物寂しく映る。
 それでも栄えている辺りであればまだいい、駅前通りを抜けて住宅街へ差しかかると人影どころか物音一つしない道が続く。家々は既に明りを消して寝静まる頃で、門灯すら点いていない。じっとりと重い空気が立ち込める初夏の夜道、頭上にはぽつんと月が浮かんだ真っ暗な空が広がっている。
 こつこつと響く自分の足音を聞くうちに、この世界に一人ぼっちでいるような錯覚を抱いた。
 事実、部屋に帰ったところで待っていてくれる人などいないし、孤独であることには違いない。
 誰もいない夜道なんて嫌いだ。寂しくてつまらない。せめて見て楽しい景色でもあればいいだろうけど、家々も店も公園も、この時分ではどこもひっそりとしている。

 だから、だと思う。その庭の前で足を止めたのは。

 灰がかったコニファーが立ち並ぶその隙間から、ちらりと見えた青い花に目を奪われた。
 庭先には一面、青い桔梗の花が咲き乱れていた。月明かりの下で満開の桔梗は冴え冴えと青く、一つ一つは慎ましく可憐な花でありながら、庭を埋め尽くして咲き誇るさまは優美かつ壮観だった。初夏の空気の不快な蒸し暑さとは対照的な、爽やかで美しく澄んだ青――私は砂漠でオアシスを見つけた旅人みたいに、その庭に見惚れていた。桔梗の青さが渇きを潤す水のように思えてならなかった。
 これだけ見事に咲いているのだから、この家の住人はさぞかし丹精込めて庭の手入れをしているに違いない――そこで初めて、私は庭の奥に見える洋風建築の平屋建てに目をやった。

 全くの偶然だった。
 庭に面したベランダのガラス戸が、からりと音を立てて開いたのだった。
 庭へ出てきたのは、青年だった。
 若いとも、私より年上だとも言いがたい。顎の辺りまで無造作に伸ばされた黒髪と、日に焼けていない白い肌と、長い前髪の隙間から覗く黒々とした瞳がまず目に留まり、次に無地の黒いTシャツと同じように黒いズボンという色味のないいでたちが確認できた。闇夜に現れたらいきなり白い顔と腕だけが浮かび上がって見えることだろう、そんな人だった。
 そして彼の目は、真っ直ぐにこちらを見ていた。
 コニファーの隙間から庭を覗いていた私を見て、黒い瞳を眇めてみせた。
「……どちら様?」
 唸るような、警戒心剥き出しの声で彼は言った。
 そこまで来て初めて、私は今の自分がどういう立ち位置にいるのか気づく。つまり、よその家の庭先を覗いていた不審人物――それも日付も変わった真夜中に、一人きりで、断りもなく。
「あ、あの……」
 これはまずい。私はうろたえそうになりながら弁解を始めた。
「違うんです、私。ここのお庭の桔梗があまりきれいで、見惚れていて――」
「近くにお住まいの方?」
 青年がもう一つ、低い声で尋ねてきた。
「はい、そうです。家に帰る途中です」
 私は頷く。
 アパートの部屋まではあと二十分ほど歩くだけの距離があったけど、嘘でもないはずだった。
「すみません、勝手に覗いたりして。私、決して怪しい者じゃないんです」
 更に詫びると、青年はじろりと私を睨んだ。
「家出してきたんじゃないだろうな」
「え? 家出?」
「見れば随分若いみたいだし、未成年なら警察呼ぶぞ」
「ち、違いますよ。私こう見えても成人してます」
 それどころかもうじき二十五だ。化粧は落ちてしまっているだろうけど、それでも家出娘に見間違われるのははなはだ不本意である。
 青年はそこでコニファー越しにこちらを覗こうと首を伸ばした。黒い衣服とは対照的な、全く日に焼けていない白い首筋がぐいと伸び、やがて腑に落ちたように顎を引く。
「スーツ姿で家出とは斬新だな」
「ですから、断じて家出じゃありません」
 私が必死に訴えると、彼は尚も疑わしげに私を見た。眼差しはじろじろと探るようで、でも先程よりは警戒心が鳴りを潜めたようだった。
「家出じゃなくても、若い女がこんな時分にうろちょろするんじゃない」
 青年は溜息をついた。
「すみません、今、仕事の帰りなんです」
「もう日付が変わってるのに?」
「はい。いつもこんなものです」
 そういう仕事だった。二年経っても、慣れたとはとても言えない。
「それで、夜道って真っ暗でつまらないなって思ってたら、こちらのお庭を見かけて」
 私は彼に向かってたどたどしく続ける。
「あんまりきれいだから、砂漠でオアシスに会ったようと言うか、とにかく嬉しくて――」
 仮にも言葉を扱うことを生業にしている人間が、いざという時にこの体たらくである。全く情けない。
 だけど私の口は思うように弁解してくれず、まとまりのない言葉ばかりが迸る。
「ごめんなさい、変な意味で覗いてたんじゃないんです。桔梗だけ見てたんです、本当です」
「わかった」
 やがて、青年は首を竦めてそう言った。
 実際に理解したというよりは、面倒になったというような口調だった。誰だってこんな真夜中に、見知らぬ怪しい女と言い合いなんてしたくはないだろう。もしかしたらいい夢を見ていた最中だったかもしれないのに。
 ただ、彼はこんな真夜中にもかかわらず、あまり眠そうには見えなかった。
「家、近くなんだろ? 気をつけて帰れよ」
 どうやら許されたようだ。
 私もほっとして、改めて頭を下げる。
「ご迷惑おかけしました、それじゃ……」
 そして踵を返した時だった。
「あ、ちょい待ち」
 意外とフランクな口調で呼び止められ、怪訝に思いながら振り返る。
 すると青年は長い前髪をかき上げながら、
「よかったら持ってくか、桔梗」
「……え? い、いいんですか?」
 急な申し出に私は、不審者扱いをされていた時よりも慌てた。
 向こうからすれば私は『真夜中に徘徊してよその家の庭を覗いていた女』だ。通報されなかっただけありがたいくらいで、まして花のお裾分けをいただけるなんて、いいのだろうか。
「随分誉めてもらったからな。好きな奴に貰われたら、花も本望だろ」
 彼はにこりともせずそう言うと、私に向かって尋ねた。
「あんたの家、花瓶あるか?」
「あります。小さいのですけど」
 百均で買ったのがある。最近は忙しくて、何も活けていなかったけど。
「なら問題ないな。渡すから、向こう回れ」
 前髪の長い青年は庭の端を手で指し示した。
 そちらには木製のラティスが目隠しのように置かれていて、その中の一枚が蝶番を打ちつけられて開閉するようになっていた。

 言われた通り私はそちらへ回った。
 青年は家の中に一旦引っ込んだ後、薄く白い紙と鋏を持ってもう一度現れた。そして咲き乱れる桔梗の前に屈むと、ぱちん、ぱちんと音を立てて花を摘んだ。
 青い桔梗を束にして、白い紙に手早く包んで私へ差し出す。
「ほら、持ってけ」
「ありがとうございます、大事にします」
 私は嬉しさで胸がいっぱいになりながら、桔梗の花束を受け取った。透けるほど薄い紙に包まれた桔梗の花は、私の手元でも爽やかで美しい青色をしていた。
 そしてふと――花束を私に手渡してくれたばかりの彼の指先に、同じ青色が付着しているのに気づいた。
 最初は桔梗の青が移ったのだと思った。でもその青色は花の汁よりも固く、乾いていて、しなやかで白い指先にこびりついているようだった。
 多分、これは。
「絵を描かれるんですか?」
 何となく気になって、私は彼に尋ねた。 
 不躾な質問だったかもしれない。そう問われた直後の彼は気まずげに、顔や首筋と同じように白い手を引っ込めてしまった。それから用心深く瞬きを繰り返し、やっと口を開く。
「一応。今は、うちの庭を描いてる」
「へえ……素敵なご趣味ですね」
 私の相槌に、彼は静かに答える。
「真夜中の青い庭を描くつもりでいる」
「青い、庭……」
「そう。桔梗の青と夜の青を描く為に、この時間に起きてた」
 それで今、あまり眠そうにしていないのか。
 私が起こしてしまったということでないなら一安心だ。胸を撫で下ろすついでに、私は彼の言う『青い庭』を改めて眺めてみた。
 灰がかったコニファーで囲まれた庭には月の光が差し込んでいる。
 その下で桔梗はより澄んだ青色をしていた。
 そして夜空もまた、ここからでは暗く深い青色に見えた。一人で歩いている時にはただの真っ暗闇に見えていた夜空は、実は青かったのだ。
 それはこの庭の主である目の前の青年が、黒ずくめの服装をしているせいかもしれない。比べてみれば夜空の色が黒ではないとよくわかる。
「お絵描きのお邪魔をしちゃってすみません」
 花束を抱え、私はもう一度頭を下げる。
「気をつけてな」
 色の白い黒ずくめの青年は、出会った時よりはいくぶん穏やかな声をかけてくれた。

 美しい桔梗の花束を貰い、私は幸せな気持ちで家路に着いた。
 あの庭の主たる彼は、どうやらとてもいい人のようだ。覗きまがいのことをしていた私を咎めず、お土産まで持たせてくれた。仕事でへとへとになって帰ってきた深夜、ささやかな出会いのお蔭で疲れも吹き飛んでしまったようだ。
 ただ一方で、真夜中の出会いはどこか非現実的だった。あんな時分に誰かと出会い、話をし、お花のお裾分けを貰ったなんてまるで夢のようだ。一晩寝て目が覚めたら、実は本当に夢だった――なんて疑念を拭いきれないまま、帰宅した私は眠りに就いた。
 だけど翌朝、桔梗の花は確かに私の部屋にあった。
 彼は随分とたくさん持たせてくれたようで、百均の花瓶では入りきらなくて、使い切って取っておいた香水の瓶をよく洗ってそこにも活けた。朝になっても桔梗は色褪せず、見惚れるほど美しい青色を保っていた。

 そして、夢ではなかった証拠がもう一つ。
 後日、同じように真夜中の家路を辿っていた私は、再びあの庭で彼と出会った。
 コニファーの隙間から見える今夜の彼は、庭にイーゼルを立て、難しい顔つきでキャンバスに向き合っていた。きっと夜のこの庭を描いているんだろう。青い桔梗は今夜も美しく咲き乱れ、温い夜風に揺れていた。
 私が声をかけるより早く、彼がこちらに気づいた。
「あ、こないだの」
「先日はお騒がせしました。あと、桔梗をありがとうございました」
 深々とお辞儀をしてから面を上げると、今日も黒ずくめの服装の彼は目を瞬かせている。
「またこんな夜遅くに帰ってるのか」
「あいにくそういう仕事なんです」
「何やってんだ、仕事」
「こう見えて、新聞社に勤めてます。新聞記者です」
 私は胸を張って答えた。
 ところが彼はどこか不服そうに眉を顰めた。
「そんなふうにはちっとも見えないな」
「それ、どういう意味ですか」
「文字通りの意味」
 先日からそこはかとなく思っていたけど、彼はいささか失礼と言うか、無遠慮な人ではないだろうか。それはまあ、庭を覗いていた私の方が無遠慮かもしれないけど。
「だったら、あなたは――」
 聞き返してやろうとしてふと、名前すら知らない相手の仕事を尋ねるのはどうかと思い留まった。
 彼はそういうことを遠慮なく聞ける人のようだけど、私はそうではないのだ。
 なので、代わりに別のことを尋ねてみた。
「今日はどんな絵を描いているんですか」
 すると彼は長い前髪をかき上げ、深く溜息をつく。
「今夜も同じだ、庭の絵を描いてる」
「差し支えなければ、拝見したいです」
 私は更に持ちかけた。
 この人が描く『青い庭』に、素直に興味があった。桔梗の青と夜の青、美しい二つの青を彼はどんなふうに描くのだろう。意外と遠慮のない人のようだから、荒々しい筆致で豪快な絵を描くタイプかもしれない。
「以前いただいた桔梗、大切に活けてます。あの花がどんなふうに描かれるのか、見てみたいんです」
 すると彼は黒い瞳で私を見た。夜空よりずっと深い色をしたその目は、月明かりの下では微かに光って見えた。
 表情を動かさずに私を見つめた後、彼は髪を揺らしてかぶりを振った。
「差し支えあるから無理だ。納得のいくものが描けたら見せてもいい」
「まだ途中なんですか?」
「そうだけど、思った通りのものが描けてない」
 黒々とした瞳を眇めて、彼はキャンバスを睨みつける。
 庭の外の私からは、そのキャンバスの裏側とイーゼルの骨組みしか見えなかった。どんな庭が描かれているのか、垣間見ることすらできない。
「思った通りって、どんな感じなんですか」
 この間の夜、彼は描きたいものについて具体的に語っていたはずだった。桔梗の青と夜の青。思った通りに描けないということは、望む通りの青色が出せない、という意味だろうか。
 すると彼はコニファー越しに私を見て、愛想のない表情で鼻を鳴らした。
「あんた、意外と突っ込んだ質問するな。記者魂ってやつか?」
 仕事のつもりはなかったから、その言葉には虚を突かれた。
「そういうわけじゃ……ないと思いますけど。不躾でしたか?」
「よく喋るな、とは思う」
 ばっさりと無遠慮に、彼は言った。
 ただそう言った時の口調は、台詞には不似合いな穏やかさを帯びていた。
「賑やかでてんで真夜中らしくない。あんたがいると」
「すみません、うるさかったですか」
 私が申し訳なさに縮こまると、意外にも彼は首を竦める。
「そうは言ってない。あんたがいるだけで思った通りの庭にならないってだけだ」
 話しながら、彼はキャンバスをイーゼルから外した。
「今夜はもう終わりだ。納得いくものが描けたら、見せてやる」
 今夜は終わりと言われて、私は複雑な気持ちになった。やっぱり邪魔をしてしまったのではないだろうか。不躾にいろいろ聞きすぎたせいで、彼は気分を害したのではないだろうか。
 そんな私の目の前で、彼はてきぱきと片づけを終えてからこちらを振り返った。
「どうせまた、こんな時間にここを通るんだろ?」
「はい、多分。と言うか、間違いなく」
「なら、次会う時までに仕上げときたいな」
 それから私に向かって、ほんの少しだけ目を細めてみせる。
「気をつけて帰れよ、おやすみ」
 今のが彼なりの笑顔らしいということに、ベランダの戸が閉まった後で気がついた。
 私はぽかんとしたまま、主のいなくなった青い庭をまだしばらく眺めていた。温い夜風が桔梗の花々を揺らし、月明かりは柔らかく一面に降り注いでいる。美しく、静かな庭だった。

 ここまで来て、私はまだ彼が何者かということを知らなかったし、知ろうともしていなかった。
 だけど私がリアクションを起こすより早く、私は彼の名前を知ることになる。
 我が社の新聞記事の中で、市内在住の若手画家として。

 刑部(おさべ)由之(よしゆき)、という名前の上に顔写真がある。
 その顔を見た時、私は思わず声を上げていた。
「この人……」
 桔梗の咲く庭の主。絵を描いていた、彼だった。
 一体いつ撮られた写真なのか、髪はそこまで長くないし邪魔そうでもない。印象的な黒々とした瞳と、肌の色の白さと、新聞記事には適切とも言える愛想のない表情は確かに彼だ。
 地方欄の片隅には『文化』という項目があり、そこでは市内および近郊の文化施設――美術館、博物館、図書館といった施設での催事を知らせる記事が載る。その日の紙面では地元出身である画家、刑部氏の個展開催を知らせていた。

「刑部さん? 全国的にはどうか知らんけど、ここじゃ割と有名だよ」
 整理記者の先輩が、パソコンで割付作業をしながら言った。
 私はまさに割付中の記事の中で彼を、刑部さんを見つけたのだ。もちろんすぐに尋ねてしまった。画家さんなんですか、と。
「長野も駅舎のステンドグラス、見たことあるよね? あれの元絵っていうの? 描いたのもこの人」
 先輩はマウスをかちかち言わせながら続ける。
「前にうちの記事で特集組ましてもらったけど、結構いい絵描く人だったよ」
 それを聞いて私はいても立ってもいられず、仕事の合間に過去記事を検索して刑部さんの特集を見つけ出した。
『自然の移ろい、みずみずしく描く』
 そんな見出しが置かれた特集記事には、刑部さんの画風やこの街の自然についてのコメントなどが掲載されていた。手の届くところにある自然を描きたいと語る刑部さんの作品は、確かに身近な自然をモチーフにしたものが多かった。故郷の田畑、川岸の風景、花瓶に活けられた花――記事には代表作と呼ばれる二点の絵も掲載されており、その一つが駅舎のステンドグラスの元となった『宵の月』で、日が暮れた後の空と、そこに散りばめられた細かな星の光と、その中にあってたった一つぽつんと浮かぶ月が透明水彩で描かれていた。
 彼が描く夜の空はやはり深く、青く、美しく、月の光が滲むように照らしていた。空の下には広い田畑が広がっていて、それらもまた夜の色に染め上げられている。そんな絵だった。
 その日の退勤後、私は駅舎にも足を運んで例のステンドグラスを眺めた。ステンドグラスの意匠は元の絵よりもやや記号的で、星や月がわかりやすい形をしていたり、田畑にくっきりと葉が書き加えられていたりしたものの、確かにあの絵を元にしたものだとわかる。

 あの人が描くという『青い庭』への興味は、この件で一層募った。
 何が何でも桔梗の青と夜の青を見せてもらいたい。そんな欲求に取りつかれていた。
 でも気がかりと言うか、後悔も一つある。
 私、あの人に随分失礼なことを言ってしまったような――絵を描くことを、素敵なご趣味ですね、なんて言ってしまった。おまけに今描いている絵についてあれこれ尋ねてしまった。無遠慮さで言ったら今や私の方が圧倒的に優勢である。彼が画家であることを知らなかったとは言えだ。
 次会ったら、まず謝るべきだろうか。

 駅舎のステンドグラスを堪能した後、私はいつもの帰り道を辿る。
 人気のない真夜中の道を歩き、やがてあの桔梗咲く庭へ差しかかる。
「よう、今日も遅かったな」
 灰がかったコニファーの向こうから、刑部さんの声がした。
 立ち止まって庭に目をやると、一面の桔梗の向こうに彼がいた。今日も黒いTシャツに黒いズボンといういでたちで、髪は写真よりも長いまま、色の白さも相変わらずだ。そしてやはり相変わらず、愛想のない顔で私を見ている。
「刑部さん……こんばんは」
 私が会釈をすると、彼は黒い瞳を瞬かせた。
「名前、言ったことあったっけ」
「実はうちの新聞で見たんです。来月、個展を開かれるそうですね」
 一呼吸置いてから、申し訳ない気持ちで続ける。
「すみません。あなたが画家だって知らなくて私、失礼なことを言いました」
「別にいい」
 刑部さんは素っ気なく聞こえる口調で応じた。
 機嫌を損ねたのかと私は慌て、
「実は私、四月にこの街へ越してきたばかりなんです。本当に勉強不足で――」
「別にいいって言ってる。顔が売れてるわけでもないしな」
 同じ口調で言い添えた刑部さんが、面倒くさそうに肩を竦める。
「あんただって取材に来たわけじゃないんだろ?」
「それはそうですけど、でも」
「例の絵が仕上がった」
 私の言葉を遮るようなタイミングだった。
 はっとした私を見て、彼は庭の端にある蝶番の打たれたラティスを指差す。
「時間は取らせない。こっち来て、見てくれ」
「いいんですか?」
「見せてやるって話だったろ。俺もあんたに見てもらいたい」
 刑部さんが手招きするので、私は小走りになって庭の入口へと急いだ。ラティスの門扉は軋んで開き、私を夜と桔梗の青い庭へ通してくれた。

 桔梗の花壇は背後をコニファーに、手前をぐるりと枕木に囲まれていた。今夜もまた澄み切った、爽やかで美しい青色をしていた。花壇の正面にはベランダがあり、そのガラス戸の下には木製の濡れ縁が置かれていた。
 待ち構えていた刑部さんは私をその濡れ縁に座るよう言うと、一旦ベランダから屋内へ引っ込んだ。すぐにキャンバスを携えて戻ってくる。
 そして濡れ縁に座る私の隣に、躊躇なく腰を下ろした。
 初めて彼と肩を並べたこと、すぐ隣に座られたことに私はうろたえた。私達はこんなにも近くに座るような間柄だっただろうか、そう思ったのだ。不快だったわけではなく、ただ落ち着かない気分だった。
 だけど刑部さんは顔色一つ変えず、まるで隣に座るのが当たり前だというそぶりでいる。こちらを向いて目が合った瞬間も、長い前髪の内側にある黒い瞳は静かだった。
「描こうと思っていたものとは全く違うものになった」
 両手でキャンバスを差し出しながら、刑部さんがそう言った。
 彼のしなやかで白い指先は、今夜は絵の具の痕跡もなく、きれいだった。
「もっと静かで、物寂しい絵になる気がしていたのにな」
 その言葉を聞きながら、私は慎重に作品を受け取る。

 キャンバスの中に広がっていたのは確かにこの庭だった。月の光が一面を照らす、夜の青と桔梗の青が透明水彩で描かれていた。
 ただ、彼の言う通りだった。誰もいない夜の庭、空に浮かんでいるのは月一つだけ、花壇を埋め尽くす桔梗は慎ましく、可憐な花を咲かせている――そんな構図でありながら、この絵は人のいない寂しさ、夜の暗さとは無縁だった。目映い月明かりは夜空と桔梗を惜しみなく照らしていて、どちらの青も息を呑むほど透き通っている。夜であることを忘れそうなほど、絵の中の庭は光に満ち満ちている。
 目を閉じても瞼に焼きつくような美しい庭だった。

「何度描いても、こんなふうにしかならなかった」
 刑部さんがぽつり、ぽつりと語り出した。
「この庭を描く為に、長いこと昼夜逆転生活を送ってた。昼間寝て、日が沈んだら起きて、出歩く先と言えばコンビニくらい、連絡は電話かメール。ほとんど引きこもり生活だな」
 それから私を目の端で見て、
「あんたと会った時、人と顔合わせるの久々だったんだ。悪かったな」
「いえ、別に」
 なぜ謝られたのか、とっさにわからなかった。
 少し遅れて、もしかしたら家出娘扱いをしたことかなと思ったものの――済んだことだ。それほど気にしていない。
「そしてあんたと会ってから、描く絵のイメージが変わった」
 刑部さんが話を続ける。
「心象風景にしてもあからさまだった。孤独で、静かで、寂しいはずの庭が急に華やいだように明るく見えた。月は冷たいものだと思い込んでたけど、この庭に降る月光は不思議と明るく、暖かく見えた」
「私が、絵を変えてしまったんですか?」
 ぎくりとした。
 私と刑部さんの出会いは、元をただせば私が庭を覗いていたことがきっかけだった。私はやはり、刑部さんの作品作りの邪魔をしてしまったのだろうか。
「ああ」
 刑部さんが頷いたので、私は一層震え上がった。
「すみません……」
「謝ることじゃない。俺も何度か描いてみて、ようやく腑に落ちた」
 彼がキャンバスを見つめる顔つきは、今はとても満足そうに映った。
「あんたが来るとこの庭は変わる。真夜中にたった一人で描く寂しい庭から、光溢れた明るい庭へと変わる。少なくとも俺の目と心はそんなふうにこの庭を捉えた」

 刑部さんが語るその感覚には覚えがある。
 私も同じことを前に思った。刑部さんと初めて会った夜、桔梗の花束を貰ったその時に、彼は言った。
『真夜中の青い庭を描くつもりでいる』
『桔梗の青と夜の青を描く為に、この時間に起きてた』
 その言葉を聞いた時、私は、真っ暗闇に見えていた夜空の青さに気づいた。

「あんたがいると、てんで真夜中らしくないと思った」
 私が返したキャンバスを手に、刑部さんが言った。
 その言葉もまた、前に聞いていたことだった。
「うるさかったですか」
 私が聞き返すと、彼は眩しいものでも見るみたいに黒い目を眇める。
「この庭を見た時『砂漠でオアシスに会ったよう』だって、あんたは言ったな」
「はい」
「俺も同じように思ったよ、この庭であんたに会った時」
 こんな偶然が、果たして現実に起こり得るのだろうか。
 私達は同じ感覚を共有していた。本当なら誰にも会うはずのない真夜中に出会い、そして同じように思った。真っ暗闇の中に光を見つけ、夜と桔梗の青さを知った。
「あんたと出会わなければ、この絵は描けなかった」
 刑部さんがそう言ったので、私は無性に照れた。
「そんな、私は特に何も……」
「いいや。この絵に描いた心象は、俺一人では得られなかったものだ」
 畏れ多いという気持ちと、それ以上にどうしてかわからないけど恥ずかしいような、苦しいような気持ちが込み上げてきた。
「お、お役に立てたなら光栄です」
 たどたどしく答える私を、刑部さんは長い前髪をかき上げてから見つめてきた。
 夜空よりも深く、黒い瞳。あれほど美しい絵を描くこの人に、今の私はどう映っているのだろう。そんなことが急に気になってきた。
 気になると同時に、なぜか心臓が早鐘を打ち始めた。
「一つ頼みがある」
 私を見つめたまま、彼は語を継いだ。
「次は、あんたを描かせてくれないか」
「えっ」
 思わず言葉に詰まる。
 何だかとても、途轍もない申し出をされたような。
「この庭を、俺の中の心象を変えた人間だ。是非描いてみたい」
 それは確かに事実なのかもしれない。
 だけど、偶然だ。特に芸術的感性もない私と美しい絵を描く画家である彼が同じように思ったのは、偶然でなければあり得ないことだ。また同じようなことが起きるとは限らない。
「俺はあまり人間を描かないんだけどな、あんたは絵にしたいと思った」
 刑部さんは躊躇もなくそんなことを言う。
「お言葉はもったいないくらいなんですけど、ちょっと今は酷い顔してますし――」
 私はあくまでもしがない新聞記者だ。刑部さんに会うのはいつも真夜中で、ろくに化粧も直さないで出てくるから決してきれいな顔はしていないだろうし、さぞかしくたびれた様子に見えることだろう。
「いつならいい?」
 彼が尋ねてくる。
 まず『いい』とすら言っていないのに、獲物を追い込むかのように距離を詰めてくる。
 逆に私は、まるで逃げるみたいに身を引いた。
「えっと、いつと言いますか、もう本決まりなんですか?」
「あんたさえよければな。別に嫌じゃないんだろ?」
「嫌じゃないわけでは……」
「嫌なのか?」
「そういうわけでもないんですけど……」
「どっちなんだ、はっきりしろ」
「え、ええと、どんな絵になるのか見たいという思いはあります」
「なら決まりだ。非番の日を教えてくれ」
 あれよあれよという間に押し切られつつある。
 色の白い彼の顔が私の鼻先にまで迫り、黒い瞳が私らしき影を映す。私は動悸が激しくなるのを自覚しながら、尚も答えあぐねていた――。

 そこに、無粋かつ無機質な電子音が鳴り響いた。
 携帯電話の着信音は、もちろん私のものだ。日付が変わったこの時分にかかってくる用件と言えば仕事以外に他ならず、
「ちょ、ちょっとすみません」
 刑部さんに断わって電話に出ると、やはり支局からの緊急呼び出しだった。
「――わかりました。すぐに戻ります」
 大至急戻るようにとの連絡を受け、私は憂鬱な思いで電話を切る。
 そして隣に目をやると、刑部さんは驚きに目を剥いていた。
「これから仕事か? さっき帰ってきたとこなんだろ?」
「そういう、仕事なんです」
 慣れたというわけではけど、好きで選んだ仕事だ。くたびれてはいるけど挫けてない。
 それに、こんなふうに――砂漠でオアシスに会ったような、いいことがあったりもするから頑張れる。
「そんなに忙しいんじゃ、モデルは無理か……」
 刑部さんが落胆した様子を見せたので、私は少し迷ってから名刺を取り出し、彼に差し出した。
「この連絡先、いつでも繋がります。今みたいに」
 勤務中だろうと真夜中だろうと、非番の日でも必ず繋がる。
「よかったら連絡ください」
 実を言えば、私も見てみたい。
 彼の目に私がどう映っているのか。彼の中の心象を、描いた絵を。
 この庭を描いた彼の絵は素晴らしかった。瞼を閉じても焼きついているような、美しい青だった。私はこの庭に心惹かれ、そして彼の絵にも惹かれた。もしかしたら、彼にも――。
「わかった、貰っとく」
 刑部さんは白くしなやかな指で私の名刺を受け取った。そしてざっと目を通し、
「……長野、冴。美しい、いい名前だな。あんたにぴったりだ」
 よくある私の名前を読み上げ、素直に誉めてくれた。
 芸術家気質とでもいうのだろうか。この人の言葉はいつでも真っ直ぐだ。私は恥じ入り、それでもこれだけはと思って言い添える。
「できれば、お願いなんですけど」
「言ってみろ」
「きれいな時に描いて欲しいんです。こんな、仕事の後の疲れた顔じゃなくて」
 私のお願いに、彼は受け取ったばかりの名刺を見ながら答えた。
「俺の絵を見ただろ。この目に映る美しいものは、その通りに美しく描く」
 そして面を上げると、揺るぎない黒い瞳で私を見据えた。
「あんたのことも、きれいに描く。信じてくれ」
 芸術家の言葉というものは、全くもって途轍もない。
 私は熱の上がった頬に手を当てながら、頷いた。

 支局へ戻る為、刑部さんにお暇を告げて庭を後にする。
 門扉を潜ってすぐ、一度だけ振り返ると、庭にいる彼がわずかに目を細めるのが見えた。夜と桔梗の青い庭を、その美しい光景を目に焼きつけてから、私は支局への道を歩き出す。
 不思議なくらい足取りが軽いのは、オアシスを見つけたからだろう。
 彼の次の作品を、私はとても楽しみにしている。

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