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俺は神様と恋をする

作者: 遠野義景

 古びた神社である。鳥居の朱は禿げていて、境内の桜の木もすっかり年老いてあまり花を咲かさなくなった。数年前の台風で半壊して再建されたご神門だけが妙に新しく、その先にある拝殿も本殿もしなびている。

 そもそも奉られている神様が判然としない。一応お稲荷さんであるらしく、狛犬の変わりに狐が2体向かい合って鎮座しているが、古老の話ではここは元々はお稲荷さんではなかったそうで、名前は伝わっていないが土着の神様が奉られていたらしい。昔はここでも例祭が行われていたらしいが、元々少し集落から離れた山の中にあることも手伝って時代の流れとともに人足が遠のいていったという。

 とにかくここに来るような奴はかなりの物好きと言えるだろう。その上いちいち調べようと思うなんてさらに輪をかけて変人だ。

 しかし俺はその両方にあてはまった。端から見れば間違いなく変な奴だろう。いや、そもそもその動機からして常軌を逸していると言えばそうなのだ。

 拝殿の、賽銭箱の横に腰を下ろしてぼーっとしていると不意に何物かの気配を感じた。と、同時に両目を暖かい感触が包み込み、まっくらになった。ついでに後頭部に柔らかいモノが当たっている。

「だーれだ」

 楽しそうな女性の声がすぐそばで聞こえた。

「誰でしょう」

「あれ?」

 困惑した声。

「名前知らないんで答えられないです。偽名なら知ってますけど」

「そういえばそっか。すっかり忘れてた」

「それはそうと離れてもらえませんか?」

「なんで?」

「暑いです」

 いまは八月の一日。つまり八朔である。如何に山の中であろうと何もしてなくても暑いのだから、体を密着させていては余計に暑くなるのは当然のことである。蝉がみんみんじゅわじゅわにーにーじーじーととにかく五月蠅い。が一番五月蠅いのは自分自身の胸の鼓動である。

「私は好きだけどなあ、暑いの」

 視界が元に戻る。吹き抜ける風に、瞼が汗ばんでいたことを知る。

 俺は振り返った。

 烏の濡れ羽色とはこのことをいうのだろう。漆黒の麗しき長髪を風になびかせる、少しおっとりした顔立ちの美人がそこに居た。服装は一般的な白と紅の巫女装束であるが、日によってはふつうの洋服を着ていたりもする。

 彼女はこの神社に住んでいる。基、祭られている神様だ。だがキツネではない。いや、これも日によってだが、耳とか尻尾がある時もあるのだけれど、これはお稲荷さんに変わった時にごっちゃになった名残とかなんとかで本人にもよくわかっていないらしい。


     ※※※


 俺が彼女に初めて会ったのはちょうど一年前の同じ八月の最初の日だった。


     ※※※


 きっかけはひょんなことで、本当にただ気まぐれでこの神社に来ようと思ったからで特に何かあった訳ではない。いや、ないというわけではないか。ちょうどこの時期、少し離れたところにある別の神社で八朔のお祭りがある。例年であれば俺もそこに参加して適当に屋台巡りをしたりしていたのだが、去年はいまいち興が乗らなかった。しかし家でじっとしている気にもなれず。そんなとき、ふと幼い頃、祖父に連れられ時々お参りをしたこの神社のことを思い出したのだ。炊飯器に残っていた冷ご飯で塩昆布を包み込んだおにぎりを作って、冷蔵庫でキンキンに冷えていた麦茶で水筒を満たし、バッグにそれらを詰め込んだ。ちょっとしたハイキング気分で家を出た。

 まだ祭りは始まっていなかったけれど、レクリエーション用の音響設備のチェックやら太鼓のリハーサルやらの音が風に乗って届いてくる。いつもなら胸を躍らせる楽しげな音だが、このときに限ってはとにかく憂鬱な雑音にしか思えなかった。

 しばらく歩くと川沿いの堤防にでる。ここを下流に向かえば祭りのある神社に向かって架かる橋がある。上流にある橋を渡れば目的の神社のある山への登山口がある。俺は迷わず上流へと向かった。そして橋を渡り、登山道へ足を踏み入れた。

 日が当たらない山の中は空気がひんやりとしていて、木々の香りが爽やかに、吹き抜ける風を彩っていた。

 最後に来たのはもう何年も昔の事だというのに、不思議と道を覚えていた。

 山頂へ向かう道とは別に分岐した道。手入れがぞんざいで草がたくさん延びていたが獣道というほど判りづらくもない。拾った木の枝を振り回して蜘蛛の巣を払いながら先へ進んだ。

 急に視界が開け、はっきりとした道が現れた。その先には石段が見える。目的地はすぐそこだ。

 はやる心にせかされるように石段を登った。

 じゃり、と玉砂利を踏む音が響いた。足下から顔を上げると小さな公園ほどの広さのある境内が広がっていた。

 しん、と静まりかえっているような気がした。小鳥のさえずりや蝉の声は止めどなく聞こえて来るのに不思議と五月蠅いとは思えなかった。

 砂利を踏みながら歩く。

 御神門の前で足を止めた。

 その先の拝殿に人の姿が見えたからだ。

 巫女装束を身にまとい、お賽銭箱に寄りかかるようにして座ったまま眠っていた。

 真っ先に目を奪われたのはその長い髪だった。地面からの照り返しを受けて美しく艶やかに輝いていた。そして次に安らかな寝顔に心を奪われた。なんて綺麗な人なんだろう。素直にそう思った。

 しかしそれもつかの間、すぐにこの状況がなんだかおかしいことに気がついた。そもそもどうしてこんな寂れた神社で、自分とそう年齢が変わらない少女が巫女をしているのか。わざわざ遠くから来ている訳でもないだろうから、こんな子が居れば、田舎なのだから知らないはずがない。

 そう思うと目の前の少女が急に不気味に思えてきた。

 引き返すべきか。

 けれどせっかくここまで来たのだから、と思案していると、不意に少女の体が揺らいだ。無意識のうちに体を動かしたせいで、支えにしていた賽銭箱から離れてしまったのだ。俺はとっさに駆けだしていた。

 倒れる寸前のところで、なんとか肩を掴んで防ぐことができた。

「あれ?」

 間の抜けた声がすぐそばで聞こえた。

 彼女と目があった。

 互いの吐息を感じることができるほどの至近距離で見つめ合う形になった。

「えっと、あの?」

 彼女はきょとんとした表情を浮かべていた。

「いや、その、別に変な事をしようとかそういうのじゃなかったから」

 俺はとっさに訳の分からない言い訳を口走っていた。

「うん。判るよ。私の事助けてくれたんだよね」

 彼女は柔和に微笑んで小首を傾げた。

「ありがとう」

「あ、どうも」

「君は、お参りに来たのかな?」

 心なしか目を輝かせながら彼女は俺の顔をまじまじと見つめた。違う、とは言わせない妙な迫力があった。

「まあそんなことろです」

「そっかあ。君みたいな若い子が来てくれるなんて有り難いなあ。ほら、ここって立地が悪いでしょ? だからお参りにくるのも昔から馴染みのあるお年寄りばっかりなんだけど、当然足腰が弱ってるからここまで来る人は希でさ、暇してたんだ」

 大抵は川下にある神社にある摂社でお参り済ませちゃうからね。そう付け加えて彼女はにっこりと笑みを浮かべた。

「君はいくつなの?」

「16ですけど」

「へえー、若い。いいなあ、16か」

 第一印象では同い年くらいだと思ったのだけど、こうして話しているうちに、なんだかかなり年上のような感じがしてきて、思わず俺は「そっちは?」と好奇心に負けて訪ねてしまった。

「女の子にそう言うこと聞くもんじゃないよ。けど、まあ私は別に気にしないからいいよ。でも正直よく判らないんだよねえ。何年ここにいるのか」

「はあ」

「ざっと数百年ってところかな?」

 何を言っているのだろうか。なんだか危ない人のような気がして俺は少し距離を取った。

「あ、信じてないでしょ」彼女はこちらの考えを見透かしたように、というよりは怪訝な顔をされることを判っていたかのように苦笑を浮かべた。「そりゃそうだよねえ。私だって信じられないよ。でも実際それくらいここに在るんだから」

「在る?」

 微妙な言い回しに思わずそう問い返していた。あるいはその横顔に浮かんだ憂愁に心を奪われたからかもしれない。

「そう。だって私はここの神様なんだもの」

 まじめな顔で彼女は言う。冗談を言っている風でもないし、気が狂ったという訳でもなさそうだ。俺は不思議と彼女の言葉を疑うことが出来なかった。理由はよくわからない。けれど昔からそうだと知っていたような気がしたのだ。

「へえ、そうなんだ」自分でも驚くくらいに自然に言葉を返していた。

 きょとん、としたのは彼女の方だった。

「あ、あのー。私神様なんだよ? ほら、もっと驚くとか、疑うとか、そういうのないの?」

「そう言う反応した方がよかったんですか?」

「いえ、いいの。信じてくれてるなら。そっか。こういう子もまだ居るんだね。捨てたもんじゃないね、世の中」うれしそうに彼女は言う。

「そういえば狐じゃないんですね」俺は言った。

「うん。ここがお稲荷さんになったのは比較的最近って言ってもここ100年ほどの話だから。昔は山神様と私を祀っていた神社だったの」

「どういう神様なんですか」

「判んない」

 彼女はそうきっぱりと答えた。あまりにも潔い答え方だったので思わず納得しそうになったけど、いや、ダメだろとすぐにつっこんだ。

「判らないってどういうことですか」

「そもそもどういう経緯で私が神様になったのか、そう言う伝承とかが失伝しちゃっててね。全然判らないの。何せ気がついたら私はここに居て祀られていたから。あ、でも一応無病息災的な神徳はあるからそこは安心してくれていいから」

「はあ」

「まあ田舎の神社なんてそんなものだよ。十月に毎年出雲に出張するんだけど、そこで結構似た様な子と会うもん」

「そんなもんなんですか」

「そういう物なんだよ。だからあんまり深く考えずに崇めてくれていいんだよ?」

 そう言って神様はすてきな笑顔を浮かべた。

 

     ※※※


 ともあれこれが俺と彼女の出会いであった。それからというもの暇があればちょくちょく神社に顔を出すようになった。というのも、最初に見た寝顔と、その後の笑顔に俺はすっかり魅了されていたのだ。つまり一目惚れという奴である。

 彼女はとても無邪気で可憐で、その上無防備である。およそ思春期の男子の心の内というのを理解していない。とくにここ最近は元々薄かった警戒心が全くなくなっているので困る。

 こちらが暑いというのもかまわずに後ろから抱きついてくる彼女に辟易しながらそう思う。

「なあ。神様」

「なに?」

「近くない?」

「近いね」

「暑くない?」

「すっごく暑い」

「なんで離れないですか」

「なんでだろうね。なんかこうしてると落ち着くんだよねー」

 むぎゅっと密着度が高まる。思いの外豊満な二つの膨らみが背中に押しつけられている状況で、しかもその感触がより判るようになって、なんだかもう居たたまれない。だが逃げられない。彼女の両腕にがっちりとホールドされていて身動きがとれないのだ。

「神様ってね。結構孤独なんだ。だからこうしてよく会いに来て来る人がいるってだけでうれしいっていうかね。その、なんていうんだろ。感謝してます」

「なんですかいきなり」

「なんとなく。だって今日で一年なんだもの」

 耳元で聞こえる彼女の声が弾んでいる。

「いろんなことがあったね」

「まあそりゃありますね」

「例えば?」

「神様がバイトしてたこととか」


     ※※※


 それは神様と出会った一ヶ月後のことだった。何気なく学校帰りに立ち寄ったコンビニで偶然はち合わせたのだ。しかもレジで。

 顔を合わせた瞬間、明らかにヤバッっと言いたげな表情を浮かべたが、すぐに「カレーパンが一点」などとバーコードを読みとりながら何事もなかったように会計を済ませようとしたのだが、内心動揺していたのかカップアイスのバーコードを上手く読みとれなくてあたふたし始めた。

「あの、ゆっくりでいいですよ」

 俺が言うと彼女は涙目でこちらを見て、実に情けない愛想笑いを浮かべてから丁寧にバーコードを読みとった。

「神様も働くんですね」

 会計を終えた後、俺はそう言って笑いかけた。

「あの、それは秘密だから」声を潜めて彼女は言う。

「働いてること?」

「じゃなくて神様だってこと」

「ていうかなんですか巫女神って。そんな名前だったんですか」

「偽名、というか人としての仮の姿の時の名前っていうか。あーもう。今日五時までだから、ちょっと待っててくれる?」

 現在の時刻は四時三十分。まあ待てない時間ではない。

「じゃあついでにフランクフルトも」

「そんなに食べると太るよ? カレーパンもアイスもカロリーすごいんだから」

 神様も摂取カロリーと健康について気にするんだな、と思いつつ俺は答える。「今日うち両親とも用事で居ないんで、これが夕飯です」

「いや、それはそれでダメでしょ。判った。夕飯食べさせてあげる。だからおとなしく待ってて」

 そういいつつちゃっかりフランクフルトを陳列ケースから取り出して会計を進めるあたり、よくできた店員だと思う。

 店内のイートインで買った物を食べながらスマホをいじったり横目で彼女の姿を観察したりしながら時間を過ごした。彼女はとても元気よく挨拶をし、丁寧で愛想のいい接客をしていた。動きもテキパキとしているし、研修中の札をつけた新人の女の子にも信頼されている様で、にじみ出るベテランオーラが半端なかった。というか名札にバイトリーダーとか書かれていた気がしたので実際に仕事は出来るのだろう。

 しかし時々神社に行っても彼女が居ないことがあったけど、こういう事情があったのか。

「おまたせ」

 いつの間にか時間になっていたらしい。無地の黒いトップスに足のラインがよく判るタイトデニムを合わせ、足下はグレーのスニーカー。微妙に使い古された感じのする赤い小振りなショルダーバッグを肩に提げ、長い髪をサイドアップでまとめた姿は、なんだかどこにでもいそうな女子大生っぽかった。しかし愛嬌と美麗が共存する美貌は間違いなく出色の物であり、そこを意識すると一転、まるで雑誌やテレビの中から抜け出して来た様な別世界の人間に思えてくる。いや、実際神様なんだから別世界の人間どころではないのだけれど。とにかく俺はそんな彼女に見とれてしまってしばらく何も言葉を発することもできず、その場で金縛りに遭ったみたいに動けなくなり、出来ることと言えば彼女を見つめることだけだった。

「なにか変かな」

 俺の無遠慮な視線にさらされ続けた彼女は次第に頬を赤らめると照れたように毛先をいじり始めた。その仕草の愛らしさに呪縛はさらに強くなる。

「えっと、何か言って欲しいな、なんて」

「すごく綺麗です」

「え?」

「あ、いえ。すみません。間違えました。いえ、間違えてないですけど。とりあえずちょっとぼーっとしてました」

「あ、そ、そう」

 空気が気まずい。それでいてなんだか甘ったるい。非常に居たたまれない。でも逃げたくはならない。

 それから一緒に外にでて駐車場に止めてあった軽自動車に乗り込んだ。

「免許持ってるんですね」

「まあね」

「神様ってすごいですね」

「ちゃんと試験合格して取得した免許だよ?」

「そういう意味じゃなかったんですけど」

「じゃあどういう意味」

「もう訳判んないです。神様なのになんか普通の大人の女の人って感じですし」

「まあ一応戸籍とかあるんだよね、私」そう言って肩をすくめる。「山のお稲荷さんを代々管理してきた巫女神家の跡取り、巫女神伊月。本籍、現住所はうちの神社って感じで」

「よくそんなの認められましたね」

「大昔からそうだから。まあ一種の伝統って言うのかな。私以外にもそう言う神様って結構いるから。特に神話に出てこないようなローカルな神様だと尚更多いよ」

 何がなんだかいまいちよく判らないけれど、取り合えずそうなんだろうな、と無理矢理納得することにした。どうせ深く考えても判りっこないし。

 国道をしばらく走った所にあるトンカツ屋に入った。

「男の子だしこう言うのがいいかなあ、って思ったんだけど、どう?」そう言って彼女は首を傾げてみせる。

「そうですね。割と好みです」俺は少し緊張してきた。「でもいいんですか?」

 どうやら今日は彼女が奢ってくれるらしいのだ。

「いいのいいの。常日頃お参りに来てくれるあなたにちょっとしたお返しっていうのかな。感謝の気持ち的な、そんな感じ」

「といっても一ヶ月程度ですけどね、まだ」

「いままでずっと一人で寂しかったから、それでも十分。ほら、行こう」

 それから俺たちはがっつりを夕食を食べたのである。


     ※※※


 帰宅後、よく考えればあれはデートみたいなもんだな、と思ったり、普段みる巫女装束以外の彼女の姿を思い出して悶絶したりと、色々大変だったことも懐かしい。


     ※※※


「今更な話なんですけど」

「なに?」

「伊月さんって呼んじゃダメですかね」

「うーん、だめ」

 相変わらず抱きついた体制のままの彼女にあきらめて俺はなすがまま、ぬいぐるみみたいになることにした。

「どうしてですか」

「君にその名前で呼ばれるとなんだか寂しいっていうか。あくまで世を忍ぶための名前であって、私の名前じゃないから」

「でも元々の名前が判らないんですよね」

「まあね」

 耳元で彼女がため息をついた。

 吐息が耳朶を撫でて思わず変な悲鳴を上げそうになった。

「それで、他には何があったっけ」

「まだするんですか? 思い出話」

「いいじゃない。今日は記念日なんだから。二人だけの例祭よ」

「そうですねえ。じゃあ学園祭」

「ああ、あれは色々あったね」

「大事件でしたね」



     ※※※



 秋も深まる霜月、十一月。俺が通う高校で文化祭が開催されていた。俺のクラスは出し物としてお好み焼きの屋台を出店。無難なチョイスで無難な味、それでいてそこそこの客足もあって結構忙しく、クラスはとりあえず出し物が成功していることもあって空気はとてもよかった。

 そろそろ休憩時間が近いこともあって、俺は時計をちらちらと見ながらお好み焼きにソースを塗りたくっていた。

「ねえあんたもこれから休憩だよね」

 話しかけてきたのは大田和沙だった。三角巾を解くと、まとめていたやや色素の薄い栗色の髪がはらりと揺れ、ちょうど肩の上の辺りでふわっと広がった。

「もし暇ならあたしと一緒に回らない?」

 彼女の顔が赤く見えるのは、鉄板から発せられる熱だけが原因ではないだろうと思う。

 彼女とは今年初めて一緒のクラスになった。それ以前から大田という可愛い子がよそのクラスにいる、という情報だけは知っていたので、隣の席になった彼女を見た時なるほど、と思わず唸ってしまった。

 間違いなく大田は可愛かった。目つきや言動こそややキツイが全体的に顔立ちは整っているし、スタイルも良かった。その上割と気も利くので男子だけでなく、女子からも人気があった。

 そんな彼女に突然、しかも公衆の面前で誘いを受けて、俺は大いに戸惑った。

 というのも、この日、実は神様が来る予定になっていたのだ。わざわざ空き時間を訊いてきたので、その時間帯にやってくることは明白であった。

 だがこの状況で断るのも難しい。何せクラスの人気者でありアイドルである大田の誘いを断るというのは、最悪クラス全体を敵に回しかねないリスクをはらんでいる。でもだからって安易に答えてあとから神様がやってきたらそれはそれで厄介だ。そもそも俺の本命は神様なのだから。

「あれ、もしかして、予定あった?」

 普段勝ち気な彼女の目に、不安の色が浮かぶ。周囲の空気が急に冷たくなって俺の胃はきゅっとすくみ上がった様に痛くなってくる。

「いや、ない。ないぞ」

「本当に?」

「あ、ああ」

 嘘を吐いた。これで退路はなくなった、というか墓穴を掘ってしまったというか。とにかくもうどうにでもなれという気分だった。

 そして交代の時間になり、俺と大田は並んで教室を出た。

 普段とは質の違う廊下の喧噪が焦りを煽り立てた。やばい。とにかくやばい。どうにかしないと。

 そんなことを考えていると、不意に大田が立ち止まった。

「どうした?」

「本当は何か予定あったんでしょ?」

「いや、それは」

「あったんでしょ」

 ものすごい剣幕で迫れて俺はとうとう白状した。

「なるほど。あんた年上好きなんだ」

「年上好きというか、好きになった相手がたまたま年上だったというか」

「ま、どっちでもいいけどさ」そう言って彼女はこちらに背を向けた。「その人、まだ来てないんよね?」

「ああ」

「ならさ、それまでの間でいいから、一緒に回って欲しいんだけど。無理に、とは言わない。なんていうの、これは単にあたしの我が儘だから」

 俺は少し考えた。確かに神様が来るまで暇と言えば暇だ。だからつき合えるだけの時間はある。けれど問題は神様がいつ来るのか、ということだ。バイトのシフト的に余裕ということは言ってたのだけれど。スマホを見ても連絡は特に来ていないのでまだ時間がかかるのかもしれない。だがあの人は少々サプライズ好きなところがあって、なんの連絡もなしに押しかけてくることもあり得る。その時に大田と一緒に居たら、なんというか、すごく面倒くさいことになりそうな気がするのだ。別に付き合っている訳でもない。だが神様はもの凄く気分屋だからへそを曲げてしまう可能性が否定できないのだ。

「あの、いいよ、別に」寂しそうな背中を向けたまま彼女は言った。「そんなに悩むってことは、やっぱり迷惑ってことでしょ」

 つん、としたしゃべり方から精一杯の強がりが見て取れた。

「ちょっとだけならいいぞ」

 根負けしてしまった、というよりは優柔不断な性がでてしまったというべきか。ともかく俺は彼女の誘いに乗ることにした。

「本当に?」

 振り返った彼女の期待と不安の入り交じった切ない笑顔を見た瞬間、すぐに後悔したけれど。結局俺は叶わない夢を見せるだけなのだから、よく考えて見れば突き放すよりも残酷だ。

 でも言ってしまったことは仕様がない。

 だから腹をくくることにした。

「とりあえずお腹空いたから中庭に行こう。なんか美味しいそうな匂いがするし」

 という彼女の提案で俺たちは中庭へ向かった。

 タコ焼きや焼きそばなどのそれなりにがっつり食えるものから、ベビーカステラやクレープといったスイーツ系の屋台がでていた。

 ちょうど空いていたベンチに大田は座り、スカートのポケットから財布をとりだした。

「これでなんか買って来て」

 そう言って彼女は学園祭専用の通貨を俺に手渡した。事前に現金と交換しておいて、後でまた換金出来る物だ。

「パシリかよ」俺は言った。

「いいから。ちょっとくらいいい気分でいさせてよ」

「それなら一緒に見て回ろうぜ」

「イヤ、あたしああいうところ人が鬱陶しくて嫌いなんだよね」

「お前、結構気むずかしい奴なんだな」

「普段は猫被ってるから。それじゃあ頼んだわ」

 やっぱり断るべきだったかな、と思いつつ俺は適当に屋台を回って、タコ焼きとクレープを調達して、ついでに自販機で飲み物を買ってきた。

「ありがと。結構早かったじゃん」

「お姫様を待たせると怖いからな」

「うわ、そのせりふちょっとキモイんですけど」

「これいらないなら全部俺が食うぞ」

「あ、嘘。冗談冗談」

 同じベンチに並んで座ってタコ焼きを頬張る彼女を横目で見ていると、まあこれも悪くないかな、という気分になってくる。

「なにジロジロ見てるのよ」

「大した意味はないよ」

「もしかしてあたしに惚れた?」

「バカなこと言うなよ」

「そうはっきりと言われると傷つくんですけど」

 そう言って彼女はタコ焼きを勢いよく口の中に放り込む。そして案の定、熱さに悶絶する。

「バッカだなあ」

 俺がそう言うと彼女は「どうせあたしはバカだよ」と拗ねたように唇を尖らせた。

「本当はさ、あんたがあたしのことなんて眼中にないの知ってたんだ。けど、もしかしたらって思うじゃん」

「まあその気持ちは判らんでもない」

 神様はたぶん俺のことを異性としてなんて見てくれてないだろうから。

「なに、あんたももしかしてそう言う系の片思いなの?」

「まあな」

「じゃああたしたち似たもの同士って訳だ」

「バカが雁首そろえてる訳だな」

「まあバカでもアホでもいいけどさ、あんたはどうしたいの?」

「そりゃもちろんあの人と付き合いたいに決まってるだろ」

「あたしだってあんたと付き合いたいんだけど」

「いや、それは無理だから」

「じゃあさ、もしあんたが振られたらあたしの所にきなよ。あたしは全然気にしないからさ」

「縁起でもないこと言うなよ」

「あたしにとってはむしろそうなって欲しいんだけどね。だから念じる。っていうか呪う」

 頭上に掲げた手をこちらに向けて指をわきわきさせながら呪詛をかけてくる。苦笑してそれをあしらった。はあ、と大きなため息がとなりで聞こえた。

「大田はさ、俺のどこにそんな魅力を感じたんだ? 正直そんなにイケメンでもなければ気の利く人間でもないぞ」

「どこって、なんとなくタイプだったから?」

「えらい曖昧な根拠なんだな」

「あ、でも、一応ちゃんと惚れたきっかけっていうのはあるっていうか。なんであたしこんな恥ずかしいこと言おうとしてるわけ?」

「いや、訊いたら勝手に答えただけだろ」

「ああもう、そうなんだけどさ。なんていうかね。こう、あんたが余裕在りまくりなのがすっごい納得行かないんだよね。あとからその人のどこを好きになったか喋って貰うから」

「うん。検討しておく」

 じとーっとしためで彼女が睨んでくる。

「はい、判りました」

「うん。よろしい」満足げに彼女は頷いた。「それでさっきの続きなんだけど。あんた覚えてないみたいだけど、一年の時に野外活動で山に登ったでしょ。その時に足滑らせて登山道からはずれて動けなくなってたあたしを助けてくれたことがあったじゃんか」

「あったあった。一応覚えてたぞ。助けたのが大田だったってのは初耳だけど」 

 それは一年生の五月に毎年行われる行事で、俺たちは県内の最高峰(といっても千メートルちょっとだ)へ挑んだ。登山道自体は初心者向けの楽なコースで道中ほとんど危険な場所もなかった。ただ一カ所、すぐ右手に山肌が迫り、左側には藪の生い茂った斜面が広がる細い道があった。俺が彼女を見つけたのは偶然だった。たまたま、下を向いたとき、地面に何かが滑った後があるのに気が付いて、藪の方を見てみると女子が一人藪の中にうずくまっていたのだ。俺はすぐに前を歩いていた奴に先生を呼んでくる様に言うと、斜面を駆け下りていた。いまにして思えば二次遭難の危険があるバカな行動だったが、その時はとにかく助けなければ、という気持ちが強く、冷静さを欠いていた。そうなるには理由があって、俺には年の離れた姉が居たのだが、俺が幼い頃に山で事故にあって亡くなっていたのだ。その現場に立ち会った訳ではなかったが、姉さんが山で死んだ、という記憶だけはずっと脳裏に焼き付いていてある種のトラウマのようになっていた。それが俺を突き動かしたのだ。だからとにかく必死で、助けた相手の顔なんて覚えていなかったのだ。

「あのままもしかしたら気づかれずに置いてけぼりになってたかもしれなかったことを考えたらあんたは命の恩人だし、それにあんな風に、まだ見ず知らずだったあたしのために一生懸命になってる姿を見せられたら惚れるに決まってるじゃんか」

「じゃあ一年の頃からずっとだったんだな」

「そう言うこと。まああたしも積極的に近づいていったりせずにずっと遠くから見てるだけだったからさ。なんていうか、すっごい後悔してる。ねえ、そういえばあたしを助けた時、腕にすっごい怪我してたけど、あれ大丈夫だったの?」

「ああ、あれか」

 我を忘れて斜面を駆け下りたものだから、うっかり石か折れた枝か何かで腕を切って血まみれになったのだ。大した怪我というわけでもなかったが、一応二針ほどは縫うハメになった。

 俺が袖をまくって疵痕を見せると、大田ははっと息をのんで「やっぱり」と呟いた。まあ夏服の時は疵痕を出しっぱなしだったので彼女なりに検討をつけていたのだろう。

「ごめん」と彼女は言った。

「なんでお前が謝るんだよ」

「だってあたしのためにこの怪我したんじゃない」

「俺の不注意だよ」

「けど、あたしがあそこから落ちなければそんな風にはならなかった」

「そっちこそ、あの後なんともなかったのか?」

「あたしはね。左の足首を捻挫してたくらいで他はなんともなかった」

「そっか。なら良かった」

「あたしは良くない。責任取らせてよ」

「いや、そんな今更だし、そこまで深刻なことじゃないし」

「あたしにとっては深刻な問題なの」

 しかしそう言われてもどうしたらいいものか。

 悩んで居ると不意に周囲のざわめきの質が変わった。無秩序にざわざわと言っていたのが、急に何かに驚いた用に、強い風が吹き抜けた叢の様に、一斉にわき起こった。

 誰だろう。すごい美人。などと言った言葉が断片的に聞こえて来る。俺は、まさか、と思ってそのざわめきが向けられている方向へと視線を向けた。

「へえ、あの人なんだ」大田が悔しそうに言った。「みたことないくらいの美人だね」

「まあそうなんだけど」

「人だかりがすごいことになってない?」

 神様の姿は見えるのだけれど、黒山の人だかりに隔てられてとても近づけそうにない。

「なんか芸能人が来たみたい」おかしそうに大田は笑った。「あんなのが相手じゃまともに戦っても勝てないなあ」

「そんなことより、これどうしたらいいだ」

「知らない」

「知らないってお前」

「だってあの人はあたしの恋敵なんだよ? むしろこのままあんたと会えないままの方が都合がいいし」

「そう言われると確かにそうかもしれないけど」

「でもあたしはバカなくらいお人好しだから。それにさ、わざわざここまで来るってことは脈ありだと思うし」

 大きなため息をこぼしてから、大田はクレープをむしゃむしゃと一気に食べてしまう。そして人だかりへ向かって歩き出した。

「こらー! 道あけろー!」

 彼女が大声でそう言うとまるで古い映画にあった海が割れるシーンのように人だかりが左右に割れて道が現れた。

 それから彼女は神様の手を取ってこちらへやってきた。

「貸しだから。あとで返してね」

 にっこり微笑んで彼女は去っていった。

「いい子だね」神様が言った。「君のこと好きなんじゃないの」

「ええ」

「振ったんだ」

「まあそういうことです」

「そっか」神様はむずかしそうな顔になってうーんと唸ってから「ま、いっか」と言い俺の手を握った。

 とくにどこかに行きたいというリクエストもなく、俺たちは手をつないだままぶらぶらと校内を歩き回っていた。

 こういうお祭りの雰囲気が好きだそうで、それを少し離れたところから見るのが乙なんだとか。

「お酒があれば入っていけるんだけど、ここじゃダメだからね」

 そう言って彼女は笑った。

「お酒ですか」

「そう。お酒は人と神様が同じ次元で楽しめるお祭りの醍醐味だもの」

「俺は飲んでないですけどね」

「君は特別なんだと思う。時々いるんだよね。神様モードで普通だと人に見えないはずなのに見える人が」

「いまは見えてますよね」

「大丈夫。いまの私は巫女神伊月だから」そう言って彼女はぎゅっと腕に抱きついて来た。「だからこんなことするととっても目立つよ?」

 周囲から奇異の目、というか若干殺気立ったような視線が飛んでくる。

「あの、神、じゃなくて伊月さん。からかわないでくださいよ」

「うーん。君にそう呼ばれるとなんだかちょっと微妙な感じがするなあ」

「あの、聞いてます?」

「じゃあ、やめる?」

「せめて手をつなぐ程度にしてください。後が怖いです」

「もう手遅れだと思うなあ。そもそも私を連れてきてくれた子、たぶん学校中で人気がある子だよね?」

「ええ、まあ」

 大田は確かにクラスのアイドルだし、学校の中でも有名な方だ。

「その子を差し置いて、私に付き合ってるんだよ? どのみちあとからすごい質問責めとか嫉妬の嵐だと思うなあ」

 言われてみれば。

「というわけだから、これ以上悪くもなりようもないし、このままってことで」

 そう言って楽しそうにする神様に流されそうになるけど、頑張って踏ん張る。確かにこういうスキンシップはうれしいが、そうではないのだ。彼女は明らかにじゃれているだけであり、そこに甘酸っぱい感情はないだろう。けど、さっき太田が言った言葉を思い出す。何もないのに果たして来てくれるのだろうか。いや、でも彼女は単に祭好きって言う理由だけでここに居るという可能性もあり得るのだ。何せ彼女は神様なのだから。人の考え通りではないだろう。

 でも、と俺は決心する。それが一縷の望みであれ、天から垂れた蜘蛛の糸であれ、ただの藁であれ、とにかく縋って掴んで確かめてみたい。

 祭の喧噪を抜け出して、俺たちは校舎裏のゴミ捨て場の陰にいた。

「こうして遠くから聞こえてくる祭の音に耳を傾けるのもいいよね」

 神様はそう言って植え込みの石垣に腰を下ろした。

「あの、神様。俺」

「駄目だよ」

 言葉を遮られる。

 彼女はこちらをまっすぐに見据えていた。

 氷のように冷たい眼。

 それはこちらの意図を汲んだ上での明らかな拒絶だった。

「そう、ですか」

 俺はなるべく落胆した感情を見せないように努力した。隠したってどうにかなる訳でもないのに、とっくに断られたのに。それでも彼女にかっこわるい姿を見せたくなかったのだ。俺はバカだと自分で思う。

 チャイムが鳴る。教室に戻らなくてはならない時間だ。

「時間でしょ?」

「ええ」

「部外者はそろそろ出なきゃ駄目なんでしょ」

「そうですね」

「それじゃあね」

 また、という言葉を言いかけて彼女が躊躇ったのが判った。気づかなければ良かったのに。余計に胸が苦しくなる。体中が裂けてばらばらになりそうなほど心が痛い。でも俺はバカだから強がって笑顔を作る。

「ええ。今日はありがとうございました」

 彼女が痛ましい物を見るように顔を背けた。

 去って行く彼女を見届けることが出来なかった。すぐに背中を向けて歩き出した。涙は絶対に流さないように腹に力を入れて歯を食いしばって、ただ歩いた。



     ※※※



「あの時は正直、こう来るだろなあってのは判ってたんだよね」

 だんだん暑いのなんてどうでも良くなってきたので俺はあまりこの状況について深く考えないことにした。なんにせよ、あの時の寒々とした気持ちと比べれば天と地ほどの差がある。

「判ってて来たんですね」

「私って悪い女」

「洒落になってないですから。あの後本気でヘコんだんですよ」

 勝算があるとは思っていなかったが、希望はあると思っていた。それが裏切られたのだから八方塞がりでどうしようもない。あれから落ち込んでしばらく神社に顔を出さなかった。

「もうちょっと曖昧に濁せばよかったかなあって後から後悔したんだよね。本当に悪い女なら多分そうやってどっちつかずを維持するだろうし」

「あなたにはそう言うのは無理ですよ」

「まあそうなんだけどねー」

 ぎゅっと抱きしめられる。

 シャンプーの匂いとも違う独特の良い香り。包容力があって母性にあふれたそれが鼻腔をくすぐると心が安らぐ。

「こうしてられるって幸せなんだなあって私思うんだ」

「そうですね」

「離したくないなって」

「そのうち離れてくださいね。やっぱり暑いんで」

「えー」

「いまはまだいいですけど」

「えへへー」



     ※※※



「その顔、振られたな少年」

 にやにやと笑いながら大田がそう言って前の席に勝手に座った。

「うるせぇ」

「ちょっとはあたしの気持ちが判ったんじゃない?」

「出来れば判りたくなかったわ」

「ふふふ」

「気持ちは判らなくもないけどさ、もうちょっと慎めよ」

「くらーい顔で落ち込んでるから慰めてあげようとしてただけなんだけど」

「それのどこが慰めてるんだよ」

「でもさっきより顔色良くなってる」

 まあ言われてみれば多少気持ちが楽になった気がしないでもない。

「それで、どうする訳」

「どうって」

「諦めるのかってこと」

 俺はすぐに答えられなかった。諦めたくないけど、でも告白するまでもなく突き放されたのだ。とりつく島なんてあるのだろうか。結局すがったものは希望でもなんでもなくただの藁で、そのまま溺れ死んだも同然だ。

「例えばの話っていうか、多分事実だと思うんだけど、あたしがあんたのこと好きって判ってから、ちょっとだけ意識してない?」

「急に何言い出すんだよ」

「でもあれからよくあんたの視線感じるんだよね」

 上手く言い返せない。というのも神様に袖にされたのもあるのだが、どうも大田を見る目が変わってしまったのは事実なのだ。これまで俺に向けられていた彼女の表情や仕草の一つ一つにそう言う意図があったのか、と思うと胸の中にざわざわとした風が吹き抜けるのだ。

「だからさ、ここで諦めるのは良くないと思う訳よ」

「どういうこと?」

「だーかーらー、そう言う風に言われて初めて意識し始めるってこともあるってこと。判った? ドゥーユーアンダースタン?」

「い、いえす」

 なるほど。いまの神様は、大田から見た俺と同じなのかもしれない。ならまだ、望みはある。

「ったく、判りやすいなあ」大田がため息を吐いた。「助言するあたしもあたしなんだけどさ。やっぱりそう言う風にされると切ないなあ」

「すまん。でも、ありがとう」

「うん。まあそれでもダメだったら、あたし待ってるから。これでも結構一途だから、希望があるうちはあたしも諦めないからね。だからまあ、その、ほどほどに頑張れ、少年」

 放課後、すぐに俺は家に帰って服を着替えると神様のいる神社へと向かった。

 夢中で走った。走って、走って、いつもの道を駆け抜けた。

 けれど不思議なことに神社にたどり着くことが出来ない。道を間違えるはずなんてないのに。

 見知らぬ風景に俺は戸惑った。やけにでかい木々が並び、足下のコケは厚く、クッションのようだ。みたことのない草花が辺りに見える。まるでどこか南の方の島にある原生林のようだ。

 がさがさと物音がして、振り向くと一頭の狐がこちらを見ていた。毛の色が真っ白だ。木漏れ日の中で神々しく燐光を放っている。

 狐は一度甲高い声で鳴くと、こちらを見据え、それから歩き始めた。少し歩いたところで振り返り、また鳴いた。じっと見守っていると再度鳴き、どうやら着いてこい、と言っているらしいと察し歩き始めると、狐は満足そうに尻尾を高く掲げてゆらゆらと揺らし始めた。

 着いていったところで無事な保証はないけれど、このまま右往左往していてもどうにもならないのもまた事実であるから、俺はどうにでもなれ、という気分でその狐の後を追いかけた。

 だがしばらくして俺はひどく後悔した。明らかに山奥へと向かっていたからだ。草木は濃密に生い茂り、獣道が歩きづらいったらありゃしない。かといって引き返すにも歩きすぎたから進むしかない。とにかく狐の姿を見失わないように必死になって歩いた。

 息も絶え絶えで、足がもつれて何度も転びそうになった。

 いったいどこへ連れて行かれるのだろうか。

 不安ともある種の期待ともつかない思いを抱き始めた時だった。

 不意に周囲が明るくなった。

 風が吹いた。

 ふと見上げるとそこに澄み渡った青空があった。

 ここだけぽっかりと開けた空間になっているのだ。

 周囲の地面は下草が丁寧に刈り取られ、足下にからみつく雑草の類はまったく見あたらない。

 甲高い鳴き声が響く。

 振り向くと、白い狐が古びた鳥居の前に座り、こちらを見ていた。さっさとこっちに来い、とでも言いたげな風に尻尾をゆらゆらと揺らしている。

 一体ここはなんの神社なのだろうか。疑問を抱きながらも俺は鳥居をくぐる。そのまま参道を歩く。

 玉砂利の敷かれた境内が広がり、神門があり、拝殿があり、その奥に本殿。なんとなくいつもの神社と佇まいが似ていた。

「ほう、お前があの子のお気に入りなのか」

 突然背後で声がして、俺はびっくりして振り返った。

 見た目は十歳ほどのおかっぱ頭で赤い着物をまとった少女がそこにいた。だが、こんなところにそんな子供が居るはずがない。人ではないのだろう。

「ふむ。まあ面構えは悪くない。あの子の好みじゃな」

 品定めするように少女は俺をねめつける。

「あの、あなたは?」

「ん? なんじゃ。判らんのか。まったく最近の人間と来たら産土に対する感謝がなっとらんと思っていたら、ここまでとは」そう言って少女は肩を落とす。「儂はこの土地の産土神じゃ。この土地で生まれそして死んでゆく万物を育んみ、見守っておる。お前の魂も私の元から、お前の母の元へ送られ、そして生まれてきたんじゃぞ」

「えっと、すごい神様ってことですね」

「まあそう理解してくれればそれで良い」

「それで、どうして俺はここへ? あの狐はあなたが遣わせたんですよね」

「如何にも。最近あの子の様子が変じゃったのでな。ちょっと調べてみたらどうもお前が原因のようだったので、まあなんで、尋問して答えてくれれば返してやる。但し、儂が気に入らなければ、いや、むしろ気に入った場合返さん」

「理不尽じゃないですか、それ」

「神とはそう言うものじゃ。人の都合とは別の次元に在るからの」愉快そうにころころ笑う。「さて、このまま神隠しに遭うか、無事生還出来るか、それはお前次第じゃ。まあ立ち話も何だからこっちへ来い」

 歩き出した産土神様に着いていく。境内の隅にある社務所へと入ってく。入ってすぐ六畳ほどの座敷があってまんなかに座卓が置いてあった。

「まあ座れ。座布団はそこに積んであるのを好きに使え」

 部屋の隅に積んであった座布団を一つ掴み、尻の下に敷いて座る。

 産土神様は奥にある炊事場のようなところでお茶を入れて戻ってきた。

「ここ電気来てるんですか?」

 お茶を淹れている時に湯沸かし器が見えたのだ。

「ん? ああ。ここはいつもお前が遊びに来ている神社じゃからな」

「どういうことです?」

「境界の此方と彼方。ここは常世の世界。お前が普段見ている現世と表裏一体で存在している人ならざる者達の永久の世界じゃ。だがこういう物はどちらの世界にも同じように存在している。だから電気ケトルというこの便利な道具も使える訳じゃ」

「はあ」なんだかよく判ったような、判らないような。この世界ってなんか妙に複雑なんだな、と理解出来ないなりに納得してお茶を一口飲んだ。なるほど。これはスーパーで売ってる安物だ。うちでも同じお茶葉で飲んでる。

「しかしなんだか畏れ多いですね。神様にお茶を出していただけるなんて」

「まあ儂は仰々しい名前の偉そうな連中とは違って地域密着型のフランクな神様じゃからな。それに、お前は言ってみれば儂の息子のような物なのだから。愛しい我が子を邪険にする母は、まあいるかもしれんが、一般的ではないじゃろう?」

「そういうモンですか」

「そういうものじゃ」嬉しそうに彼女は笑顔を浮かべる。「それにしてもお前は妙に平然としておるな。普通ならもっと狼狽してもいいじゃろうに」

「なんていうか、理解の範疇を飛び越えてしまった結果、一周回ってすごく冷静と言いますか。ここで焦ってじたばたしたってどうにもならない諦めと言いますか、まあそんな所です」

「なかなか面白い男じゃのう。あの子が気に入るのもよく判るわ」

「えっと、帰れますよね?」

「うむ。それはこれから話す内容次第じゃな」こほん、と咳払いをする。「率直に聞くが、お前はあの子のことを好いておるのか?」

「はい」ごまかしたって仕方がないので正直に即答した。

「実を言うとなあの子もお前を好いておる」

「え?」

「なんじゃ。気づいてなかったのか」

「いえ、実は告白されて振られたんです」

「まあそうするじゃろうなあ」苦笑を浮かべて、「何せ人と神では与えられた時間が違いすぎる。あの子は寂しがり屋で恐がりだから、きっとそう遠くない未来に訪れるであろう別れを嫌ったのじゃろう」

「俺が寿命で死ぬということですか」

「寿命かどうかは判らんぞ? もしかしたら明日事故にあって死ぬかもしれないし。実は気づかないうちに病に冒されており、すでに手の施しようがなくなっているかもしれない。神は死なんが、人は死ぬ」そう言ってから大きなため息をついた。「とはいえ、ここ最近お前が顔を出さないことをひどく気にして、胸を痛めているのも事実じゃ。きっといま深く葛藤しておるのじゃろう。このまま会えなくなるのも嫌じゃが、しかし思いを通わせたところでいつか別れが訪れる。どっちを選んだって悲しみはやってくる。それがすぐなのか後からなのかの違いだけ」

「俺は、彼女を苦しめていたんですね」

「何を落胆しておるのじゃ。あの子が勝手に思い込んで悩んでるだけじゃ。こんなこと、本来では悩むようなことでもないのじゃがな」

 産土神様はなんだかあきれている様子だった。

「どういうことですか?」俺は訊ねた。

「人と神が一緒に居ることは出来ない。ならば人を神にしてしまえばいい」

「人を神にですか?」

「その様子だとあまり理解できないようじゃが。そもそも、ほれ、お前くらいの年なら一度くらいは天神様に願掛けしたことくらいはあるじゃろ」

「高校受験の前に一度」

「誰が祀られておるか、知っているな?」

「菅原道真公ですね」

「人じゃろ」

「人ですね。けどあれって確か怨霊を鎮めるためとかそう言うのじゃなかったでしたっけ」

「そう言うのもあれば、讃えて神にすることもある。例えば海の向こうでは関羽が商売の神様として祀られておる。まあそう言う物じゃから、あの子がお前を伴侶と選び、そしてお前にその気と覚悟があるのであれば、永久を共にすることも可能じゃ」

 ずずず、とお茶を啜る。舌の上にほどよい熱さが広がる。

「なにをのほほんとしておるのじゃ」

「とりあえずそういうことは彼女に会って話してから考えます。現に一回振られてますし

「かなり引きずって居るな」

「ええ、かなり」

 産土神様の哀れみの視線が痛い。

「まあちょうど良い頃合いじゃ。ここらで儂はお暇するでの」

「えっと、今日はありがとうございました」

「ふむ。殊勝じゃな。良いことがあると善いな」

 陽炎が歪んで、霞むように産土神様の姿が消えていく。

「ああ、そういえば一つ言い忘れていたことがあった」姿は見えない。声だけが響いてくる。「あの子も元は人間じゃった。だが故あって神になった。本人はもうその時のことを忘れているので決して穿鑿してはならぬ。しかし、そのことは頭の片隅にでも置いておくといい」

 産土神様が言い終わるのと同時に、周囲の風景が、まるで水中で目を開けている時のように滲み始めた。平衡感覚が失われて気分が悪くなる。

 一体何がどうなっているのか。

 戸惑っている間に滲んだ風景の焦点が合い始める。

 目の前に人影が見える。

 嗚呼、それはまさしく俺が求めていた人の姿に相違なく、風景が元に戻った時、俺と神様は座卓を挟んで向かい合って座っていた。

 彼女はセーターにジーンズというかなりラフな格好で、メガネをかけて読書をしていた。神様っぽさは全くない。そして読書に夢中なのか、こちらに全然気がついていなかった。

 声をかけるべきかどうか悩んでいると、彼女が不意に顔を上げた。おそらく、目が疲れたので少し休もうとしたのだろう。

 もちろん、ばっちり目が合った。

「あ、ふーん。え?」

 彼女の大きくてつぶらな瞳がこれでもかというくらいに見開かれる。

 俺はなんとなく気まずくて愛想笑いを返した。

「なんでここに?」

「産土神様にですね。はい」

「あーなるほど。そういうこと」彼女はすぐに察した様で「あの人こういう悪戯好きだもんなあ」と溜息をつく。「君、神隠しに遭ってたんだね」

「そうなりますね。ちなみに今日の日付教えてもらって良いですか?」

「はい」そう言って神様はスマホの画面をこちらに見せてくれた。驚くべきことに、山に入った時から三〇分も経っていなかった。かなり長時間移動していたと思ったのに。

「あちら側は時間の概念も曖昧だから」そう言って神様は本を閉じた。それからほう、と息をついた。溜息というよりは安堵している様子だった。

「次、君に会った時どんな顔すればいいのかすごく迷ってて怖かったんだけど、なんだかすっかり毒気が抜かれちゃった」そう言って彼女はにっこりとほほえんだ。「久しぶりね」「はい。お久しぶりです」

「うん」

「その、神様。俺あのあと色々考えたんです。けど、やっぱり俺は神様のことが好きで好きでしょうがないんです」

「うん」

「だから、その」口の中がからからで、思わず言葉に詰まった。胸を突き破って出てきそうなほど心臓が暴れ回っている。「俺はあなたの恋人になりたい」

 すぐに返事はなかった。ただ沈黙の中で彼女が困っていることだけは判った。やっぱり駄目だったか。そんな弱気な心が顔を出す。

「あのね。私と君は、こうしているとそれほど年が離れていないお似合いの二人なのかもしれない。けどね、私はもう何百年もここで神様をやっていて、きっとこれからもずっとずっと長い時間ここに居続ける。けど、きっと君はあと七〇年か八〇年もすれば、きっと私の前から居なくなる」

 産土神様の言葉が脳裏によみがえる。どうやら産土神様の言うとおりのことで彼女は悩んでいたらしい。

「私も君が好き。ずっとひとりぼっちだった私に話しかけてくれた初めての男の子だった。もちろん、それだけじゃない。君とはなんだか気が合うし、ずっと一緒に居たいって不思議と思えてくるの。けどね、だからこそ辛いの。そう遠くない将来に私たちは死別してしまう。それがとても怖い」

 目に涙を浮かべたまま彼女がほほえむ。

「けど、君がここへ来なくなって判ったの。確かに数十年先の別れは想像しただけで辛い。でもそれは多分それなりに気持ちの準備が出来るし、思ったよりすんなりと受け入れることが出来るかもしれない。でも、」微笑みが崩れる。瞳から零れた涙が頬を伝い落ちる。「いま君が私の前から居なくなるのはもっと辛いの。ひとりぼっちじゃない。誰かと居ることの幸せを知ってしまったから。もう戻ることなんて出来ない。私は、君なしじゃもう、駄目なの」

 俺は彼女のそばに行き、その体を強く抱きしめた。

 彼女の細い腕が俺の体に巻き付いて、言葉だけでは足りない思いを、苦しいほどに流し込んでくる。

「こんな私で良ければ」

 かすれた声。

「そんなあなただから俺は好きなんです」

 見つめ合い、唇を重ねる。

 お互いに不慣れで不器用。だから傷つけないように慎重に吐息を交わらせ気持ちを確かめ合った。

 こうして俺たちは結ばれたのである。


     ※※※


「ずっと一緒に居られる方法があるなんて、あの人教えてくれなかったんだよね。それに君も教えてくれたの結構後になってからじゃなかった?」

「ドラマティックな感じに酔ってたんですね。しばらく余韻にも浸りたかったっていうか」

「でも、本当に良かったの?」

「いいんですよ、俺はこれで」

「けど、きっと普通にしてても君は幸せになれると思うんだよね。だって、学園祭の時に一緒にいた子、あの子きっと相性良いよ?」

「俺はあなたじゃないと駄目なんですよ」

 死後、俺の魂は産土神様のところへ還らず、目の前に居るちょっと頼りない神様の元へ行き、永久の伴侶となる契約を結んだ。後悔はしていない。これから先ずっと隣に居るのが彼女ならばきっとどんなことでも大丈夫だと思えるし、そういう確信があった。

「いつ君の家族にご挨拶に行こうかな」

「挨拶って遊びに来るくらいでいいでしょう。まだ付き合って一年も経ってないんだし」

「こういうことは早いうちにやっとかないとね。バイトのシフト考えとかないとなあ」

 彼女の楽しそうな声が耳元で響く。

 背中から伝わる鼓動。体温。肌をくすぐる長い髪。彼女の何から何まですべて愛しい。

 彼女の話はいつしか次の休みにどこへ行くのか、という話題に移り変わっていた。あまり自由にこの土地から遠く離れることは出来ないので、行ける場所は限られている。けれど、だからこそ身近なところで色々な発見がある。彼女と付き合うようになってそんなことに気づかされた。彼女と居るといままで見ていた景色の一つ一つが新鮮に見えて全く飽きない。

「ねえ、聞いてる?」

「ええ」俺は答えた。「俺は神様の行きたいところだったらどこへでもついて行きますよ」

「私も君が行きたいところだったらどこでもいいよ」

「そうですね。じゃあ俺はここが良いです。こうして二人でだらだらする。そう言うのもいいと思うんですよね」

「そっかあ。じゃあ私もそれでいいかな」

 やりたいことは沢山ある。

 でも急がなくて良い。

 ゆっくりでいい。

 俺たちにはこの先いくらでも時間があるのだから。 




       了

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