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月光

作者: 小林右京

窓が朝の気怠い陽光を私の目元まで運び、私を目覚めさせた。それは私を落胆させるのに充分すぎる程の光であり、夢を夢ではないのだと自覚させるのにもまた充分であった。リビングの机の上には麦酒の缶が散在しており、昨晩の私の錯乱や逃避をまざまざと感じさせる。職を解かれたという不安の霧が再び私の周りを覆い始めたのだ。


この家には私の他に誰も住んではいない。元より独り身であるので当然といえば当然の話である。仕事以外に何か打ち込むもの、というのも特に存在するわけでもなく、それを絶たれてしまった今、私は例の霧に心の臓を握りつぶされそうな心持がして、耐えきれず、逃げるように手荷物をかき集め、そそくさと家を出た。どこか遠くに行きたい、消えてしまいたい、その一心で軽自動車に乗り込み、目的地もなく進んでいった。誰も私のことを知らないし、気にも留めない、そういう場所に私は行きたかったのである。


田舎道を突き進んだ。三時間程の比較的短い逃避行である。周辺を田畑が囲い、道のコンクリートが罅割れ、白線が経年の劣化の為に掠れて消えかかっている様子は、精神の擦り切れた私にとって、模範的な田舎の面構えであるように思えた。


人間のみならず、どのような生物であっても、生命活動を行う限り空腹を催すというのは、ごく当たり前の現象である。私もその例に漏れずにその生理現象に苛まれた。


私はハンドルを握る手の先に、みだりに黒い建築物を見た。その建築物は視界に入れている只それだけで、何やら吸い込まれてしまいそうな黒 ———何かを暗示するが如くの宇宙を秘めた暗黒であったと言っても過言ではなかった。


私は車をゆっくりと止めた後にドアを開け、食欲とはまた異なる、得体の知れない何かに誘われるがまま、''其処''へ足を運んだのであるが、''其処''の正体は何の変哲も無い、只のありふれた田舎の喫茶店であった。


暗黒の内側に存在していた物が単なる普遍的な光景であったことに私はなんとも愕然としてしまい、即座に車に戻りたくなってしまったのであるが、きまりが悪い気がしたので店の隅のほうの卓に腰を下ろした。


店員は老人一人、朝の10時過ぎだというのに他の客の姿は見えない。私は宿酔という毒を、毒を以て治めるべく珈琲を注文した。珈琲を待っている間、いやに手持無沙汰であったので、かき集めてきた手荷物の中に紛れ込んでいた読み慣れた小説に目を通すことにした。しかし、そこで不思議な現象が起きた。読み慣れたであろう小説が全く頭の中に入らないのである。強迫観念に迫られた精神病患者の如く、同じページに何回も戻ってしまい全くと言っていいほど物語は進まないのだ。目に文字を入れた瞬間、文字が溶け出し、分離する。ついこの間まで一つの単語として認識していたものが今では何の意味も持たない、単なる記号の集積に成り果てたのである。


——私は気が狂ったのか?


そう考えるや否や、自身が人ならざる物に突然変異を起こしたような、そんな奇妙な心情が芽生え始め、私は孤独と恥の荒波に頭を吹き飛ばされたのである。

改ページ



そんな私が憑りつかれた、病的なまでの妄想を叩いてこじ開けるようにして、足音が近づいてきた。机の上には老けた店員により熱い珈琲、加えてモーニングのセットであるトーストが提供され、それが私を現実に引き戻した。しかし、私はしばらくの間喪失感と衝撃を拭い去れず、意思を持たない植物のように、机上の握り拳程の大きさのブラックホールをじっと見据えたままでいた。


ふと、珈琲の脇に添えられた角砂糖を熱い珈琲の中に落としてみた。砂糖の隙間隙間に珈琲が染み込み、徐々に珈琲の一部と化す。私は角砂糖に同情した。お前は社会から角砂糖という立ち位置を与えられ、自分の意思とは無関係に最後は苦しみながら暗黒に放り込まれるんだ、なんて可哀想なんだろうと。


先ほどの小説をもう一度取り出してみた。やはり頭に入ってはこない、しかし、私はその記号の集積に時間の許す限り向き合ってみたいと思った。机上に自分の所有物となったブラックホールを確認した時、私は時間を忘れた。


———


どれだけの時間が経過しただろう。窓外の景色からは色が消え失せ、私は一人、宇宙に思考のみが置いてけぼりにされたような感覚を覚えた。只、そこに孤独は無く、根拠の無い充足感のみが満ち溢れた。そして、珈琲茶碗の底には三日月の模様が現れていた。


机の上に金を置いて立ち去り、私は夜の田舎道を駆けた。景色が鬱蒼とした木々から、光を伴った建築物に次々と移り変わっていく。人や車の行き来も徐々に増え始める。


そんな時、何故か私の目を捕らえて離さない光景がいくつかあった。牛丼チェーン店で一人寂しく牛丼を貪る老人、パチンコ屋で一心不乱に遊戯に勤しむ老人、帰る家も無く道の端でみすぼらしい恰好をして寒さに耐えながら眠る老人、老人、老人、老人...


私は、それらの老人達の姿が自分の行く末なのではと、先ほどまでの充足感が全て、昨晩と今朝に経験した不安の霧に急速に変化していくのを、恐ろしいほどまで敏感に感じ取った。一日の逃避行の末に得られた物、それは文字通りの逃避であり、不安の霧への中和剤では無かったのだ。私はその真理に触れ、心の臓を握り潰された。


軽自動車で死に物狂いになって山奥に逃げた。不安の霧から逃れたかったのだ。私は車内で酒を浴びるように体に注いだ。車内の内装が刑務所の独房と相違ないと感じる程、私は孤独と不安に震え、涙が滝のようにとめどなく流れ出した。


窓の外には星一つ無い暗黒が広がっていた。その暗黒に風穴を開けるが如く、直線的な月の光が、人前に晒すように壊れた私を照らした。

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